おかしな家計簿。

西奈 りゆ

おかしな家計簿

飯島奈美いいじまなみの金銭感覚は、ちょっと残念である。

どのくらい残念かというと、貯金はわずかにできなくはないが、給料日を指折り数える月が半年のうち何か月かある、その原因が、無計画な散財というという具合だ。


短大時代からの友人、佐島早紀さじまさきに手伝ってもらい、エクセルで家計簿を作った(というより、半ば作ってもらった)のが1年ほど前だが、それでも月末になると収支が釣り合わない。家賃、食費、光熱費、雑費、交際費、娯楽費。月初めにどれもあらかじめ目途をつけておくのだけれど、気づけば預金の額が当初の予定よりマイナスの数値を叩き出していて、少ない貯金が月によっては減退しているということも、しばしばではあった。近所の鮮魚店で、夕方半額になったパック寿司を餌に呼び出して、奈美が早紀に泣きつくのは、奈美の定期イベントと言ってもよかった。


もっとも、借金の相談をされるわけでもなくい。要するに、ただ延々と泣き言をいわれるだけだ。それにはもちろん閉口しないでもなかったが、なにかと気の合う友人ではあったので、けっきょく早紀も、なんだかんだ、そのたびに出かけていたのだ。

そんな行き来が、ほぼ定期的に続いていた。つい、2、3か月前までは。


その日、奈美から早紀に、「焼肉でも食べに来ないか」と連絡があったとき、まっさきに早紀が思ったのは、「また計画性のない無駄遣いを・・・・・・」という、諦念のような気持ちだった。


早紀は大手というわけではないが、大病院の医療事務の正社員として勤務している。給料は良いとは言えないものの、持ち前の堅実な性格をもって、計画的に出費を管理していた。

たいして奈美のほうは、目移りがひどいというほどではないが、派遣業務を転々としており、仕事に熱心でないというわけではないが、やや安定に欠ける生活を余儀なくされていた。


奈美の住むアパートに着くころには、じっとりとした湿気が身体にまとわりつき、汗ばんだ額と首筋を、早紀はそっとハンカチで拭った。

何度も押した3階のチャイムを押すと、「はーい」と、いつもの奈美の声がした。


「ごめんね、いきなり連絡して。週末だけど、予定入ってなかった?」


「ううん、大丈夫。それにしても、焼肉とはまた、豪勢だね」


しかも、と、早紀はホットプレート周辺に並べられた肉類に目をやる。スペアリブ、カルビ、牛タン等々。それに、数缶の酒類。ずいぶん思い切ったことをしたものだと思う。


「ずいぶん派手に買い込んだじゃない。まだ給料日には遠いんじゃないの?」


早紀が問うと、奈美は「それがさ・・・・・・いや、後で話す」

と、ガスコンロを着火しながら、言葉を濁した。


しばらくは、肉の焼ける音と匂いと、換気扇の回る音が二人の間を包んだ。

一番薄い肉からなんとなしに焼けたものを取り皿に入れ、それぞれ2缶目の酒が空いたころ、唐突に奈美が言った。


「前にさ、早紀に家計簿作ってもらったじゃん。エクセルで打ち込むやつ」


「ああ、あれね。役に立ったかどうかは、わからないけど」


「立った立った。けどね、最近ちょっと不思議なことが起こってるの」


プレートの上では、一番分厚いスペアリブが、いいころ合いの色づきを見せている。

その中で数個を取り分けながら、奈美が言葉を続ける。


「私さ、自分で家計簿つけると、どうしてなんだか、けっきょく赤字か、ギリギリになっちゃってたんだよね。それが最近、意外とそうでもなくなったんだよ」


「へえ」


やや酔いが回った早紀が半ば気のない返事をすると、奈美はむきになったように続けた。


「例えばさ、食費の額をひと月いくらって設定して、日付ごとに毎回出費を計算して、あとどのくらい使えるか、って計算するじゃない」


「うん」


「それがさ、私は全然覚えてないんだけど、時々オーバーしてる額になってる買い物をすると、朝になったら数字が赤文字になってるの」


「はあ・・・・・・」


それは、とうとう奈美が遅ればせながら、無意識的にでも節約意識に目覚めただけではないかという気もしたが、ひとまず早紀は黙っておくことにした。

肉の焼ける煙の向こうから、奈美は言葉を続ける。


「それだけじゃないの。最初に今月の収支目安を毎回打ち込むんだけど、いつのまにか数値が、私が最初予定していたより、少な目の額になっているの。そんで、月半ばになるくらいから、あれ、こんな額に設定したっけ?っていうのが、けっこうあるんだ、最近」


「それは、夜中に寝ぼけて操作してるとか、記憶違いじゃなくて?」


「そうかもしれない。微妙な額なんだよね。2千円とか、多くて3千円とかなんだけど。予算欄が、いつのまにかところどころ少し少なくなってて、それに合わせて毎回買い物するようになったら、こうしてちょっと余裕ができたわけ」


「良かったじゃん。きっと、家計簿の神様でもやってきたんじゃないの」


「まあ、よかったと言えばよかったんだけど、不思議というか、気味が悪いのもちょっとあって。私、疲れてるのかな」

2缶目のビールでのどを潤しながら、奈美が神妙な顔をしている。


「お金でひいひい言うより、疲れないでしょ」

それに対し、早紀は飄々と答える。


「そういえば」

早紀は奈美の発言を待つことなく、話題を変えた。


「インコちゃん、あの時は大変だったね」


「ああ、本当ね。ペット火葬って、あんなにするとは思わなかったよ。あんなに小さい身体なのに」


「お焚きあげと、返骨までしてもらったんだっけ」


「そう。合同斎だったらもっと安く済んだんだけど、どうしてもお骨は家に帰ってきてほしくて」


思えば安くない費用だった。あまりの突然の死に、日ごろから綱渡りに近い生活をしていた奈美にとって、それでも少なくない額を、ペット火葬の業者に依頼したのだ。

そのときは例によって奈美の給料日前で、そのときばかりは早紀もわずかばかり資金の提供を申し出たのだが、奈美は頑として受け取らなかった。

眼の中に入れてもいたくないほど、奈美が可愛がっていたインコだった。

あのときの奈美は、食費どころか電気すらつけずに、ただひたすらインコの治療費と、葬儀代をねん出するのに、奔走していた。長い付き合いとはいえ、あそこまで鬼気迫る様子の奈美を見るのは、早紀にとって初めてだった。

何度か差し入れを持って行ったが、そのたびに奈美の目の下の隈は深まるばかりだった。


「まあ、いいんじゃない。たぶん、今からはそんなに悪いことにはならないよ」


早紀は、穏やかな表情で、こころなしか奈美の顔の少し外れた先を見て言う。

「何を根拠に」という奈美の顔は、心なしかすでに赤く染まっている。


早紀は知っている。奈美が家計簿に一生懸命取り組んでいることを。

けれどそこに、ひとつの欠点があった。

収支に対して、楽観的すぎるのだ。

例えば、光熱費。おおよそ根拠のないとまでは言わないが、なんとなくこのぐらいだろうと思って計上する額が過小だったり、少額のレシートはカウントしないなど、ひとつひとつは細かいことなのだが、ちりも積もればなんとやらで、そうしたところから全体のほころびが生じる。テストでいえば、ケアレスミスが多いのだ。


けれど。


「あんたには、しばらく監督がついているよ」


「どういうことよ?」


早紀は笑って答えなかったが、奈美がビール缶をあおるころに、奈美の後ろに開きっぱなしになっていたノートPCを見て、思わずまた笑ってしまいそうになった。


せっせとくちばしでキーを叩いていたのは、他ならぬ、先日亡くなった奈美のインコ、「ピ助」だったのだ。


飼い主の言葉を覚えて「お金がない」を口癖にしていたこの子は、どうやら旅立ってからも飼い主のことを心配していたらしい。いったいどこでどんなスキルを習得したのか、わざわざ、自分が家計簿の管理人になってまで。

早紀は奈美が今でも、毎日ピ助の仏壇にお参りをしていることを知っている。服の下に、ピ助の写真が入ったネックレスを、肌身離さず身に着けているのも。だから早紀には、それは不思議だけれどごく自然に飲み込める、なんとも微笑ましい光景だった。そしてどうやら、その光景は、なぜか早紀にしか見えていないらしい。


「ねえ、奈美」


「何よ?」


「あんたの愛、ピ助にはずっと届いているよ」


「何よ、急に」


「別に。そんな気がしただけ。ま、せいぜい油断はしないことね」


とりあえず乾杯と、早紀が掲げたぬるいビールに、奈美が困惑したまま缶を当てる。

このささやかな宴は、もう少しだけ、続きそうである。


(了)


2024.7.12 加筆修正しました。










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おかしな家計簿。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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