紫煙ゆるゆるりと

 大佐やサー・アームトイとの出会いは、同時に両親との哀別の記憶である。思い出す度に今でも激しい悪寒に襲われる。しかし、それらは全て「過去」の話だ。思い出を振り払うように足早に通りを進む。傾きかけた日差しが通りに面した窓ガラスを赤銅色に染め、通行人に影を作る。すれ違う人の視線を避けるように、私は裏路地に這入る。影ばかりの冷たい路地は、全くと言っていい程に人気がない。じっとりとした空気の中、汗が吹き出るのがわかる。締め切った窓からは、時折暴力と恐怖の胎動、悲痛に呻き、咽び泣く声だけが聞こえる。この街が変えることの出来なかった淀みがそこに渦巻いていた。耳を塞ぐ様にコートの襟を立て、暗い路地を進む。足元だけを見つめ、革靴の先端が先へ先へと進むのに任せる。修繕の行き届いていない崩れかかった建物の隙間を抜けるとちょっとした広場に出る。その広場の中心に周りから孤立するように建てられた二階建ての住居。再開発の際最初に建てられたが、街の混乱と伴に忘れ去られたバロック建築。今は大佐の仮住まいとして十分役目を果たしている。ただ、仮の住まいと言っても既に20年近く住んでいるので、実際のところ彼の自宅と言ってもいいだろう。陽はとっくに建物の影に隠れ、辺りはひっそりと静まり返っている。周りの建物は中途半端に取り壊されているので、今は誰も住んでいない。たまに、ふらっと迷い込んだ野良犬やティーンエイジャーなんかが建物の影で蹲っていたりする。それ以外に人の息遣いはまるで感じられない。だからこそ、大佐の住む住居、一階の窓から溢れる人工の灯りが異質に映る。その上分不相応に粉飾された建物は夜の帳の中で、その複雑な造形を一層際立たせていた。

私は玄関ポーチに立ち、深呼吸を一つする。冷えた空気とねっとりとした街の雰囲気との混合気が肺を侵食する。その混合気が、私の胸中を渦巻いていた「硬いパンに生えた黒カビ」の様に嫌な、それでいて温かみすら感じる記憶の写像と激しく燃焼を起こす。瞬きを一つして、燃える様な呼気を緩々と吐き出す。紫煙宛ら吐き出されたソレは私の視界を短い期間支配し、やがて霧散してゆく。霧の中から現れた素朴なオーク材の玄関扉。石造りの外観に対してあまりにも質素な造り。扉を2回叩く。衝撃が厚い木板を伝わり金具へと伝播し、蝶番がカタカタと鳴る。様式美として返事を待つ、が来ないとわかっているものを待つのは酷くくたびれる。ノブを正確に90度回すと扉は押し殺した叫びを上げて開く。外と然程変わらぬ明るさの玄関の先には、奥へと続く廊下、左手に階段。どこも照明は点いておらず、手前の部屋から漏れる白熱電球の光とラジオのひび割れた聲だけが人間の所在を告げている。

ガヤガヤと騒がしいノイズを撒き散らしているラジオは時刻が丁度6時を廻ったことを告げており、遅れて建物のどこからか6回鐘の音が鳴った。6回目の鐘の音を待ってから部屋へと侵入する。裸電球一つで照らされた薄暗い部屋の中は、乱雑に積み上げられた本とソファとで大半が埋まっており、その隙間に身じろぎ一つしない巨躯が収まっている。こちらに向けられた手には拳銃が握られており、寸分の狂いもなく眉間を狙っているのがわかる。ラジオの中で咳払いが聞こえた。

「冗談はよしてくださいよ。」

唐突な過呼吸を苦笑いで誤魔化す。「小僧、」そう言いながら彼は銃を降ろし、つまらなそうに溜息をつく。実際彼の殺意は本物であった。私は、引き金に掛かっていた指を名残惜しそうに離す彼の仕草に戦慄した。駆け上がる身震いとは反対に、背中を伝って落ちてゆくじっとりとした汗は、震えを抑えた身体から滲み出た過去の分泌物だと確信する。呼吸を整え改めて部屋を見渡せば、半ば書庫と化している床と違い、棚や壁は綺麗に整頓されており、壁に掛けられた写真の合間には、悪趣味な動物の剥製なんかが虚ろな眼で此方を睨んでいる。ただ、この家で一番上等な毛皮は床に散らばる書籍の下敷きになり、その隙間から辛うじて黄と黒の縞を覗かせているに過ぎない。私は勧められるでもなく空いているソファーに腰かける。恐らく相当の期間、暇を貰っていたであろうソファーは元々深紅であった表皮を薄灰色に変色させ、突然の来客に驚いたかのようにその身を震わせた。事務所の物より明らかに上等なそれは、深々と腰かけるのに最適で、沈み込む身体をうまい具合に支えているのが実感できる。大佐は私と寝ぼけたままのソファーとの格闘をしばらく眺めていたが、私がすっかりソファーを征服し終わる頃には葉巻を燻らせ、青白い煙をプカプカと浮かべていた。


大佐。彼について私が知っている事は少ない。彼は沈黙のベールで一切を隠してきた。本名、来歴、そのほとんどが分からずじまいだが、アームトイから絶大な信頼を得ている事、アームトイと同じく英国訛がある事、何より年齢を感じさせない肉体が、彼をこの街に置いて彼足り得んとしていた。そんな彼は愛煙家特有の枯れた良く響く声で私を窘める様に問う。

「教授は元気にしているかね」

当然これは社交辞令だ。「ええ。おかげ様で。」そう答えるのを見越して彼は次の言葉を用意しているのだろう、咥えていた葉巻を離し、歪めた口元から紫煙を吐き出した。予定調和的会話は必要最低限で繰り出され、違う事無く予想されたいた着地点、つまり出発の合意と準備の話へと移行した。とは言っても彼に私が何かいえる言えるでもなく、電球が二、三瞬く前に楽しいお茶会は御開となった。ソファから身を捩り離脱した後、私は何も言わずに戸口まで進む。何か言うべきだろうか、一瞬の思考の後捻り出した言葉は「それでは」と、短い一言だけだった。その言葉に彼は煙を吐き出し応じる。半透明の揺らぎが電球を目指すのを暫く眺めたあと、寡黙な老人の家を後にした。私は奇妙な静寂を背に夜の街へと踏み出す。崩れかけた建物の影に赤いタバコの火が見えた気がした。


一人残された部屋の中でゆっくり息を吐く。ブランデーの瓶を傾け褐色の液体を喉に流し込む。焼けるようなアルコールの奔流が葉巻の残り香を押し流してゆく。酩酊の最中、不意に訪れる静寂に身震いする。嫌な夜だ、と一人思う。静かな夜で良かったこと等一つもない。あの倫敦の夜も静かだった。恥ずべき記憶が揺り起こされ、いかんなと思い首を振り、懐古を追いやる。そう、こんな夜には幸運の女神だって寝息を立てているものだ。だからこそと、再び葉巻を咥える。ゆらゆらと燻らせれば一つ二つと思いは巡る。何時にもまして陰気な小僧、奴を引き連れて探偵ごっこというのは気が引けるが、教授の頼みとあればだ。先程まで小僧が居座っていたソファに目を滑らす。茶でも入れるべきだったかとふと考える、フリをする。奴がソレを望まない事を知っていたし、それ以前に何処に茶葉があるのか思い出せないでいた。最後に客を招いたのは。そこまで考え、不毛な思考を取りやめる。寂しい訳ではなかった。唯、退屈なのだ。街は相応に平和になっている。小競り合いはあるものの、かつて程の熱狂はもはや見る影もない。その立役者こそが現市長であり盟友たる教授であり、私自身であった。こんな事になるのならば手を抜いておけばよかったかと後悔すらする。平和は確かに良いものだ。今や何処も

活気に溢れている。誰もが平穏を謳歌し、かつての混沌としたヴィジョンを忘れようとしている。しかし、しかしだ、その幻夢でしか生きられない人間と謂う者もいるのだ。鮮血と腐臭の間でしか生を得られぬもの。印度、彼の地では誰もがそうであったな。ふと、立ち上がり壁にかけてあったライフルを手に取る。懐かしの一品とでも言うべきだろうか。銃床の無駄な装飾が在りし日の感情を想起させ、その衝撃は全身を震わせる。こいつが必要になるかもな。磨かれた銃身の感触を確かめ、駆け巡る衝撃に身を委ねる。ふとさっきの身震いを思い出す。あぁ、なるほど、あれは愉悦だったのだ。来たる狂瀾への歓だ。なぜこの銃が必要なのか、何が待っているのか。何一つわからない。ただ、そこにワタシを震わす何かが在る、その確信だけがあった。そして、ただ一つ確かなことは、教授が私を必要としているという事だ。この私を。あぁ、精気が漲るようだ。平穏に奪われていた魂の安らぎが戻る。チカチカっと頭上で電球が瞬く。ライフルを構えブランデーの空き瓶に狙いをつける。半透明の小瓶は妖しく光り、狭い部屋の退屈な情景を悉く歪ませる。溜め込んだ息を吐きだし引き金を引く。カチリ、正確無比な乾いた音。年甲斐もなく笑みが溢れる。あぁ、私はこの素晴らしい鬱屈した夜に感謝しなければならない。

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夕闇が聞こえるか @saiki_regene

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