もし許されるのなら

 物言わぬ鉄塊が母に突きつけられたとき、私は動くことも、叫ぶことすらも出来なかった。ただ息を押し殺し、涙が頬を傳うのを待つことしか出来なかった。震える身体を抑えつけ、母の最後の瞬間が来るのを目を見開き待つのだ。母を看取るのが私の勇気で有り、私の方を振り返らないのが母の勇気であった。母は理不尽な暴力の前で微動だにしない。その瞳は、死んでいった家族の為に涙を流し、残す私のために安らかな微笑みを浮かべていた。そんな彼女を見て長身の男は話し始めた。

「惨めなものだな。」

その声は低く、酷いドイツ語訛りがあり、影で怯える私をあざ笑うかのようだった。

「命乞いをすれば助けてやる。俺は何も無差別に殺したいって訳じゃねぇんだ。お前のその髪は十分に生かす理由になる。」

男は母の燃えるように赤く、清らかな小川の様な巻き髪を不浄の銃身で掻きあげ、その顳顬に円筒の死神を押し当てた。母はもはや言葉を必要とせず、血溜まりの中にシトシトと涙を降らせていた。涙は波紋を作り深紅の湖畔に漣を作る。漣は私の心に寄せては返し、開いた傷口に深々と爪を立てる。流れ出す涙を押し止める事は叶わない。ただ声を押し殺し、罪なき断罪を待つ死刑囚のように、事の終わりを、ささやかな安寧を、母の身に願うのだ。

「沈黙か、美しいものだな。息子を守るためか?」

男は感情を微塵も感じさせない声で続ける。

「お前の事は見逃してやる、ただ、お前の息子、あいつは駄目だ。確か父親の連れ子だと言っていたな。我々偉大なるアーリアの血を継いでいないのなら、生かす価値はない。」

母に迷いはなかった。男の方へ向き直り、男の手を掴む。拳銃を胸元まで引き寄せる、その瞳には一切の翳りは無く、男の眼を焼き尽くすかのようだった。

「撃ちなさい。」

母の声には怒りや恐怖すら存在しなかった。そこにあるのは悲しみと深い愛だけだった。

「愚かな。」

男は溜息とともに引き金を容赦なく絞る。撃ち出された弾丸は母の胸を貫き、夜空へと吸い込まれていった。母はフラフラと何度かよろけ、仰向けに倒れる。こちらを向いた瞳が別れを告げている。口元が小さく震える。

「ごめんね。」

母の最後の言葉は音にあらず、ただその空白が、来たる孤独を告げている。母の手は力なく伸び別れを惜しむように投げ出され、私はその手をつかもうと必死に伸ばす。されど、その手が触れることは厭わず、ただ虚しく空を斬り、涙の飛沫を飛ばすのだ。

男は伸び切った母の腕を見つめ満足そうに微笑む。拳銃を構え直し、引き金を引く。弾丸は私のはるか手前に着弾し火花を散らす。その意味は明白であった。男の不気味なニヤケ顔が街灯の光の帯に白く浮かぶ。もし、もし許されるのなら、母の元へと、傍に寄りその頬へ頬ずりをしたい。はやる気持ちを抑え一心に駆け出す。だが悲しいかな、母の元へは、もう戻ることはできない。闇から闇へ、光から光へ。来た道を一心不乱に走る。後ろからコツコツという革靴の音だけが追いかけてくる。次第に遠のいていくその音に安堵しながらも、足は唯前へと向かっていた。


真っ暗な部屋の中でガチガチと歯の鳴る音だけが聞こえる。それは、紛れもなく自身の発してる音で、近づいてきているであろう恐怖に、うつ手立てなく震える幼い少年のか弱い生命が鳴らす音である。結局、少年は最も安心たる場所へと戻ってきた。その部屋は多少荒れているが、いつも通りの匂いで満ちていた。いつもと違うのは、泣いている私の、涙を拭う父と、抱きしめる母がいないこと、ただそれだけだ。ただ、それだけなのに涙が、頬を傳う涙が留めなく溢れ、その涙で今にも溺れそうなのである。呼吸をするたびに母との思い出が胸を締め付けむせ返る。慌てて口を抑え、嗚咽をやり過ごし、涙でドロドロになった掌を強く握りしめる。切りそろえられた爪が、掌に刺さる。その痛みが、母も父も死んだ現実を残酷に告げている。

 カツ、カツ、カツ。近づく足音に私は震え上がった。もし現実に死神がいるとしたら、そいつは安い革靴を履いて、そして、あんなふうに高らかに勝利を宣言するのだろう。甲高い軍靴の後に聞こえたのは、静かな、日溜まりの猫を優しく撫でるような、驚くほどに静かなノックだった。コンコン、という扉を叩く音、その後は、その後は静寂だった。水面を疾走る風一つない、凪いだ海の様な。

ガチャリ。琴線に触れる不吉な音、扉を震わす振動、あっけなく扉は開け放たれ、街灯に照らされた長躯が扉を占拠する。

あぁ、カギ、カギ、カギ!完全に忘れていた。死の恐怖に追われひたすらに駈けていた私は既に人間的思考が欠落していたのだ。いや、そうではない。獰猛なハンターに追われている私は、正しく牙のない獲物、いや、それ以下なのだ。

四角く縁取られた黄光の中、ギラギラと目玉だけが怪しく光っていた。その瞳は確かに此方を捉えている。そこには怒りや憎しみといったものは微塵もなく。ただ慈悲と博愛に満ちていた。これは彼の義務であり、作業の一貫でしかなく、私の生命には微塵の重さもないと暗に指し示していた。

男は戸口に立ったまま話し始めた。低い囁く声が部屋の中に木霊する。身体の中を血液がどくどくと駆け巡り、激しいめまいと強烈な不快感に襲われる。

「貴様があの女と同じ場所に行けるとは思えないが。父親は待っているだろう。まぁ、せめてもの慈悲だ。苦しまぬように。」

男は撃鉄を起こし狙いを定める。男が吐き出した吐息は白く濁りユルユルと空に消えてゆく。部屋の隅で震える私は恐怖による嗚咽と吐瀉物に塗れ、その視界は涙で曇り、戸口に佇む長身の死神の差し向けた銃口がギラリと光るのが、教会の鐘が春の日差しに光ったようで、皮肉にもそれは安寧を与えた。涙の最後の一滴を飲み込んだ時には、既に震えはなくて、最後の審判を待つ咎人のように身体を引き攣らせるだけなのだ。

その審判は一瞬であった。

空を切る音、男の喉元が張り裂けその形を崩してゆく。膝から先に崩れ落ちた男は、喉元を抑え苦しそうに床に突っ伏す。ヒューヒューという苦しそうな音は強く握りしめられた手とは反対に酷く弱く聞こえる。相変わらず手に握られた拳銃は此方を狙っているが、その引き金が引かれることは二度となかった。ゴトリ。拳銃は持ち主を失い、床にその醜態を投げ出す。

ゴポゴポという嫌な音と、木の床を黒く染める血溜まり。悪夢の終わりはあまりにも静かであっけないものだ。私は薄れゆく意識の最中、2つの影を見た。夢が終わり、夢が始まる。私はただその狭間に少しの安寧を得た。

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