甘き死には足らず

 私、ヤン・ユンユはこの街では異端である。チャイニーズマフィアとドイツ系ギャングの抗争の生き残り、この街で唯一の中国系アメリカ人。

 植民二世である私の両親は争いを好まない温厚な人だった。母は、毎日3時、甘い蒸しパンに蜂蜜をかけた物を作ってくれるし、父は街外れの工場の従業員として、安い賃金ながらも愚直に仕事に励み、寝る前には祖母から教わったという古い中国の昔話をしてくれた。私は母とそんな父親の話を夜更けまで聴いていたのだ。そんなふたりは隣近所との付き合いも良く誰からも憎まれたこともない、ただ平穏な時を分かつ、一つの家族であった。そんな平穏に影が指したのは私が5歳の誕生日を迎えた年の夏であった。


カルフォルニアより更に東、山々に囲まれたこの街は夏の暑さが特に厳しい。その年の夏も例年通りの酷暑となった。はじめに起きたのは些細な諍いだった。中国系移民が経営する商店で、ドイツ系移民とスペイン系移民の口論の末、仲介に入った店長ヤン・シュンユンをドイツ人青年ライザー・クリーニトが取り出したナイフで斬りつけるという事件だった。この不幸な中年男性ヤン・シュンユンはこの時絶命した。


 彼を襲ったナイフは刃渡りがたったの3インチにも満たない(人差し指程の長さしかなかった)粗末なモノであったが、それば首筋を駆け抜け、安々と彼の頸動脈を寸断し、腹部を這い、手のひら大の大きさの穴を穿った後、胸骨の隙間を縫い、最後には身体の中心線よりやや左、心臓の付近に収まった。

死後、無惨にも体内を暴かれ分かったことといえば、直接の死因は主要な血管が裂傷したことに依るショック死であることだけだった。それは現場に残された大量の血液を見れば誰の目にも明らかであるが、裁判所は計画性が見られない事や、犯行につかわれた凶器の殺傷性の低さから(実際にそのナイフは充分な仕事をした!)今回の傷害致死を偶発性のものと判断、ドイツ人青年ライザー・クリーニトの責任は認めたものの実刑の判決までには至らなかった。結局のところ、この裁判が形だけのものであることは誰の目にも明らかだった。この一連の騒動の裏には、ドイツ系極右組織『偉大なる双翼』の存在があった。彼らは新興の勢力であり、かつて街を仕切っていたスペイン系入植団に代わり街での影響を高めていた中華系マフィア(この街の発展の殆どが彼らに起因する)とは対立関係にあり、その状況下で中華系コミュニティに走った衝撃は大きかった。私の叔父でもあるヤン・シュンユンはマフィアとは関係のない民間人であった。そもそも私の両親然り多くの移民二世、三世は望郷の思いはあれど(あぁ、父の語る故郷の何と美しき事か…。私はこの年になるまで中国には祖先守る神聖な龍がいると本当に信じていたのだ。)中国や中華コミュニティへの帰属意識が弱く、一人のアメリカ国民として生きている。しかし、古くからある中華系コミュニティ、彼らは独自の法、不文律によって行動する。彼らの結束は固く、コミュニティへの帰属意識も高い。そんな彼らにとってコミュニティへの参加はどうあれ、同胞…中華の血が流される事は大きな意味を伴った。

 同胞の死、それが、彼らの行動を激化させたことは間違いない。報復は始め極めて静かに行われた。街角のビラ、割られたドイツ酒(彼らドイツ人にとってビールとは血液…ネクタールである

)。いつしか、報復はさらなる報復を産み、応酬に次ぐ応酬は街からかつての静けさを永遠に奪っていた。そしてその喧騒、暴力、その火の手は私達にまで伸びてきたのだ。文字通り、その最初の火の粉を浴びたのはまたしても叔父の店であった。その時には既に父が経営を担い、厳しいながらも何とか店を続ける事が出来ていた。季節は夏から秋に変わり始めていた。強烈だった夏の日差しは何時しかその力を奪われ、冷たい風が時折街を撫でるようなそんな時節であった。

 ある日、まだ太陽の登らない秋の早朝、空が赤々と燃え上がった。黒い煤煙と赤い空のコントラスト。それは宛ら明滅する信号機を思わせた。その赤は夜空を焼き尽くし、散りばめられた星々を血潮に染める。黒は…、あぁ、黒は何の暗示だったのだろう…。その時まだ幼かった私は気が付かなかったのだ、明滅する空、現実と虚妄と架上の信号機。それが意味するのはその身に及ぶ危険でも運命その流転の終わりでもなかった。それは安寧の終わり、死、そして人生の果てまで縋り付く恐怖である。それは暗い夜空に双曲線を描き、街にどんよりとした影を落とす。暗く、不快な…。あぁ、街の空の半分が焼かれる…それ以前より兆しはあったのだ。時より下水から立ち昇る汚水とは違う、もっと強烈で、不愉快な、腐乱臭。薄暗い酒場や、普段は近づくことすら憚られる様なジメジメとした裏路地に残るヒトガタのシミ。赤く目を腫らした女達。その全てが起こりうる終焉のかたちを示していた。

 北の工業区唯一の雑貨店、父の店は消火が終わる頃には黒く燻る一連の瓦礫に成り果てていた。幸い父は出勤前だったので怪我こそ追わなかったもののその精神的な痛みは幼い私にもひしひしと伝わってくるのであった。あの時の父の悲しそうな眼は今も忘れることができない。叔父と父とを繋いでいた一族の絆が断ち切れた事は、既に父に残されたものが私と母、そして母の身体に宿る目覚めぬ生命だけで有ることを指し示していた。父は焼け跡に残ったスープの缶詰や溶けたガラス瓶を集め貧しい夕食の足しにした。夕食の後、母が父を慰めている間に私はこっそりと家を抜け出し秘密の散歩に出掛けた。夜の空気は既に凍える程冷たく、静まり返った街には時折犬の遠吠えが微かに聞こえるだけであった。心の拠り所を求めフラフラと、闇から闇へ傳う。人目を憚るわけでは無いが誰にも会いたくなかったのだ。ただ一人を覗いて。その夜、暗闇の中に彼の姿を探したが、遂に会うことは叶わなかった。

 翌朝、街の入り口には悍しいモノが掛けられていた。あぁ、それは辛うじて生命の形を保っているものの、あまりに陰惨な暴行の跡は彼の未来に可能性を指し示すことはない。皮膚の殆どを剥がされ、剥き出しの肉に赤黒い円印、蛞蝓の這ったようなウネウネとした焼き鏝の跡…。焼けた肉の燻る音が群衆の息を呑む音にかき消されたとき、全ての終わりが確定した。吊るされた男のゼエゼエという荒い息の中に絶叫が木霊する。「チャイニーズ」誰かが叫ぶ。それは警鐘でもあり宣戦布告でもあった。強く腕を引かれ群衆から引き抜かれる。群衆はすでに蠢く一つの暴力となり、暗い太陽の下に黒いシミを残していた。

 私の腕を引いたのは青ざめた顔をした父親で、その足は街の北側つまり我が家へと急いでいた。早足に先を歩く父はぶつぶつと独り言を呟く。

「あぁ、マイケル…。なんてことだ…。何故彼が…。」

マイケル、その名前で私の足は止まる。まさか…アレはマイケルだったのか?ミハエル・Z・グレイラント、私達はマイケルと読んでいたが、彼は私達の住む工業区の近くに住むドイツ人青年だ。街の雰囲気が悪化していく中でも彼一人は私と遊んでくれた、私の兄のような存在であった。太陽の中で煌めく黄金の髪と透き通る蒼穹の瞳は彼の自慢で、街を並び歩く私の自慢でもあった。私が彼を見上げればそこにはいつも穏やかな微笑みがあったし、夜、街灯が立ち消え、静かな宵闇で彼の語る御伽噺は、いつの日も幼い私の心を揺さぶり掴んで離さないのだ。そんな彼との最後の面会が、星空の下の秘密の散歩ではなく、浅黒い太陽の下、断罪と糾弾で塗りつぶされた…。私は吐き気と悪寒を嗚咽で飲み干し、自らの罪の重さに打ちひしがれていた。昨日の夜なぜ私は彼を探さなかったのか、足が千切れようとも、闇で目が潰れようとも、唯ひたすらに彼の黄金の髪を闇に見つけていれば、今この瞬間に吊り下げられているのは空虚な安堵だけだったかもしれないのだ。 また腕を引かれ歩き出す。大通りをひたすらに歩き、家に近づく程に彼との思い出が溢れてくる。チカチカと眼の前が瞬き、冬の星空や工場の煙突や湯気の立つホットミルクのカップやらが脳裏に浮かんでは消え、その度にフラつき、倒れそうになりながら必死に父の後を追い、玄関を潜る。父はもう独り言は言わず母の元へ向かい何やら話し込んでいた。どうやら夜に街を離れ、海岸沿いの街に住む親戚の家に向かうという話のようだ。傾いた陽が西側の窓から部屋を臙脂色に染める。暗がりのベッドに横たわる身重の母と忙しくカバンに荷物を詰めている父、ただ私は呆然とそれを眺め失った友人を思い出し、日溜まりの中顔をぐしゃぐしゃにすることしか出来なかった。 

 気がつけば、陽はすっかり落ち辺りは薄暗く、部屋の中には小さなランプが一つだけ灯っていた。ランプを持つ父とその隣の母は、既にコートを身につけ外の寒さに備えていた。私は父に促されコートを羽織る。死んだ叔父や友人のマイケル、彼らとの記憶と別れを告げなければならないことをつぶさに悟った私は言いようのない孤独と悲しみに押しつぶされそうだった。ただその時、抱きしめてくれた母のぬくもりと、トクトクと刻む心臓の鼓動が私の凍えるほどの痛みをいくらか和らげてくれた。私達に残されたのは北へと進み、ただ逃げ出すこと、それだけであった。街灯が通りを等間隔に照らし出し、その中を私と父と母、3人の影が連なり進む。北風を掻き分け街の北側へ、知らず知らず早足になる。街灯、街灯、次の街灯。数えるのもままならぬうちに闇が覗く。私はこの時ほど闇を恐ろしいと思ったことは無かった。街灯の明るさが一寸先の闇を際立たせる。踏み出す度に足元の感覚を奪われることに気づく。闇と異様な街の静けさと多くのモノを奪った熱気が街をぐるぐると渦巻いている。その螺旋が未だに私達の周りにねっとりと這いずり、虎視眈々と喉元に手を掛かるのを狙っている。何度も足がすくみ転げそうになる。その度に血の滲む唇を噛み締め、瞳を覆う濡れた天蓋をこじ開けるのだった。

 気がつけば私は、母そして父の20メートルほど後ろを歩いていた。二人は丁度街灯の下に、私は闇に身体を浸らせていた。父の足が止まり上下する背中と、白い吐息がフラフラと光の中を往くのが見える。母は大きくなった腹部を擦り、私を待っている。急がなければ。ただそう思った。きっと父は振り返るだろう、そして私をいつも通りの優しい瞳で見つめてくれる。そうしたら安堵の溜息で闇と恐怖を振り払って走るのだ。そう、思っていた。

 静寂を突き破ったのは一瞬の火花と轟音だった。父の背中越しに闇を切り裂く花火が見えた。瞬間、父の身体は力なくフラフラと揺れ、冷たい地面に崩れ落ちた。私は、何も、何もわからなくなった。ドウンという重い音とぱちぱち弾ける火花が動かなくなった父を囲っていた。音が地面を這い伝わるたびに父の身体が波打つ。母は…叫び声すら上げられずにただその光景を眺めていた。銃声が鳴り止み静寂が戻る。聴こえるのはしきりに空気を求める自分の浅い呼吸と母の嗚咽だけだった。街灯の中で立ちすくむ母と父だったものが淡いコントラストで闇に浮かぶ。そして…足音…、向かってくるものがあるのだ。光の帯の中に向かってくるものがあるのだ。最初に現れたのは煙を吐く黒黒とした鉄の塊で、その後に続いてその持ち主。黒い帽子と黒くテカテカと怪しい光を反射するトレンチコート。暗闇から現れた男はいつの間にか母の真横に立ち笑みを浮かべていた。

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