故に汝は道を征く

 軋む階段を足早に降り、大通りを北に進む。足を踏み出すたび疲れが重くのしかかる。正直気乗りのしない仕事ではある、警察も介入しない家族の揉め事、しがない探偵助手に何が出来るというのだ。それに、あの老人、あの瞳、私はあの中に一体何を見たのか。気の所為?そうかもしれない、最近は酷い寝不足だ。夢見のいい日なんて片手で数えられるほどあったかどうか。こんな状況では幻覚を見るのも無理ない、しかし現実味を帯び、輪郭を得た恐怖、そう形容せざるを得ないそれらを、私は、確かに実感した。あぁ、あれが妄想であったらどんなに良かったであろうか。混沌とした思考を他所に、冬の冷たい風が頬を洗う。今年は去年に比べ温かい。首筋の汗が冷え心地よい寒さに晒される。私は此時ほど生に感謝したことはなかった。高く登った冬の日差しは、か弱いが暖かで、乾いた道路を優しく照らしている。自然や生物の営みが駆逐されたこの街で、未だ失われていない手つかずの自然。陽光だけが無垢純粋たる存在で在り続けている。15分程歩いた後目的地へとたどり着いた。アスナト公共図書館。堅牢な外観は鉄の棺桶を思わせる。

正面玄関をくぐり抜け、先へと進む。薄暗い室内は古い紙と、インクと、そして少しの黴の匂いに満ちている。部屋の隅、小さく切り取られた明り取り窓のすぐ下、小さな机とうず高く積まれた書物の隙間にその女性はいた。

「アーナ。」

無造作に纏められた栗毛色の髪の束が揺れ、透き通る様な白い肌に枠取られた茶色の瞳がこちらを捉える。

「ヤン。こんばんは。」

薄い小さな唇が私の名を囁やき、微笑む。

「もう12時だよ、昼のね。その分だと…」

彼女の眼の下に刻まれた隈を見る。

「家には帰ってないみたいだな。」

「失礼ですけど、今日は何曜日でして?」

はっとした顔で彼女が訪ねてくる。

「金曜日、金曜日だよ。アーナ。まさか…君は、」

「大丈夫でしてよ、火曜日の夜は…そう、火曜日の夜は家にいた記憶がありますもの。」

深い溜息をつく。いつもの事とはいえ、彼女の本好きは病的だ。しかし、この事に関しては何も言うまいと既に誓っている。以前その事を咎めたとき、彼女は困惑した表情を浮かべるばかりで、言葉を持たなかったのだ。そんな彼女の奇行とも取れる行動が許されているのは、ひとえにアーナの父アウストリウス氏がここアナスト市の市長であればこそであった。それに彼女には特筆すべき才能が有る、最近では映像記憶と言うそうだが、彼女はその能力が秀でている。彼女は彼女自身が読んだ紙媒体の表示物、それらを詳細に記憶することが出来るのだ。出発の前に立ち寄ったのも彼女の協力を求めてのことだった。

「またお願い事ですわね?」

彼女が茶色の瞳を投げかける。瞳に映る私の姿は只バツが悪そうに笑う。彼女もまた微笑み返す。それは、私を嘲るようでもあり、ただ誂っているだけのようでもある。

「知りたいことがあって…、勿論お礼はするよ。」

「前回の約束もまだでしてよ?」

「わかっているよ。食事でどうかな?ラン…、いや、ディナーだ。僕が振る舞うよ。」

「本当でして?嬉しいですわ。」

眠気に負けじと閉じかけていた瞳が燦燦と輝く。あぁ、彼女には勝てないな。彼女の前ではいつも弱腰になってしまう。

彼女が声高に続ける。

「それで、何が知りたいんですの?」

私は事の経緯は簡単に話した。勿論老人の、あの不快な出来事については話さなかったが。

「モンス・レティー。ありましてよ?主たる産業は、鉱山ですわ。でも…、三年前の丁度今日ですわね。鉱山事故。大勢なくなっていますわ。閉山後、町は…。おかしいですわね。その後の記載がありませんの。地図には…。やっぱり…、2年前更新の

地図には記載されていませんわ。まぁ、小さな町ですから忘れられてしまったって事があっても不思議ではないですけれども…。」

彼女が不思議そうに首を傾げる。記憶を手繰り寄せているのだろう、眉に寄った皺が不安げにピクピクと動く。そんな彼女を見ながら思い出に浸る。私は以前、彼女に聞いてみたことがある。膨大な記憶をどう整理しているのか?と。それは純粋な興味からであったが、また同時にイングランドにかつていた探偵のことを思い出したからであった。彼は(その探偵はアームトイに並ぶ腕だったそうだ。)自身の記憶を宮殿と形容し、さながら「よく知る庭を歩くように」記憶をいのままにしていたと聞いたことがあるからだったのだが、その質問に対して彼女は小さく首をふり、「私のはそんな大層なものではありませんのよ。そうね、言うのであれば一冊の本と栞かしら?小さな探偵さん。」と誂われたものだ。当然、彼女も当時の新聞記事を読んだのだろう。私の下手な推理ごっこは無惨にも敗北に終わったのである。ただ言えるのは、3年前の事故の存在が彼女の力の証明であることだけだ。

「ありがとう、アーナ。このお礼は必ずするから。」

彼女は不思議そうな顔をする。

「あら、どうして?これから食事をご一緒して頂けるのではなくて?」

あぁ、そうだ、彼女はおそらく2日以上食事をしていないのだ。

「そうだね、この後大佐のところへ行くつもりなんだ。その前に食事をしよう。」

彼女は大喜びで駆け出して行く。いつも子供みたいな振る舞いをする、彼女のそんなところが好きだった。本を片付けずに飛び出して行く、そんな…。

「ほ、本は…。」

そう尋ねる頃には、彼女は正面玄関の外で陽の光を浴びて佇んでいた。茶より赤に近い彼女の緩い巻き髪が風に靡いて上下する。珍しく雲ひとつない空を仰ぎ見て目を細める。まだどんよりと曇る心と裏腹に、突き抜けるように碧さを増す蒼天と透き通る彼女の瞳が正直恨めしかった。


 ランチに立ち寄ったカフェのテラス席からゴールドラッシュで膨れ上がったこの街を眺める。遠くにゆるりと登る煙は製糸工場の排煙だろうか。まだ高い陽の下に染みの様に黒々と残る。テラスのすぐ下の道路では物々しい音で車列が通り過ぎる。その排ガスと手に持ったコーヒーカップから立ち上る湯気の香りが混ざって独特の匂いに昇華される。都市を巨大な生物と形容するなら、この匂いはさながら胃液である。しかしこの生物はただの生物ではない。善と悪と、美醜と矛盾を孕み膨れ上がる。それは寄生された宿主の垂れ流す膿のようでもあり、またその膿こそが本体なのだ。父も、母も、この街が殺した。此処の住人すべてが、私にとって奇形の生物であった。沸々と湧き上がる不快感を押し殺し、注文していたサンドイッチを手に取る。既に自分の注文した品を平らげた彼女が皿に残ったサンドイッチに手を伸ばす。二人の食事はいつも沈黙に支配されている。食事中は喋らない私に合わせ、彼女もまた沈黙を受け入れる。私のサンドイッチか胃に収まるのを待ってから彼女は喋りだした。

「大佐、彼のところへいくのでしたわね。」

彼女の言葉は震えている。その原因は私、いや正確には大佐にある。大佐は危険な男だ。彼自身は温厚、冷静、頑徹を絵に描いた様な男だ。しかし、彼は常に暴力の中心にいる。それが意図してなのか、はたまた不幸にも巻き込まれているのかはわからない。アーナにとってこの街で一番危険な男と行動を伴にする事は、常に私を失う危険を孕んでいると知っているのだ。

「アーナ、大丈夫だ。大佐だって好き好んで争いに身を投じている訳ではないことは知っているだろう?それに今回はアームトイさんの代わりに話をする、ただそれだけなんだ。何の心配も要らないよ。」

「で、でも」

彼女が言い淀む。本気で心配してくれていることはその瞳を見れば言わずともわかることであった。「大丈夫、一週間もすれば帰ってこれるよ。」

言い繕うためだけのあまりに希望薄の決まり言葉。その言葉を誰よりも信じたいのは私自身であった。

「もう行こうか。」

急かすように私は席を立つ。何故か焦りを感じた。これ以上彼女のそばにいては決心が揺らいでしまう、そんな恐怖からであった。

 

 支払いを済ませ、アーナを家へと送る。二人はその日、一時だけの二人の時間を過ごす。互いに言葉を交わすことも見つめ合う事も出来ない、そんな二人の時間。彼女は愛を知るには純粋過ぎ、私の孤独はあまりに深すぎた。

真っ白な外壁の彼女の家にたどり着く。彼女はとぼとぼと玄関へと進んでいく。陽だまりをゆく彼女の背中は何故かとても小さく見える。街に今日一番の風が吹き抜ける。彼女は俯いたまま風をやり過ごす。玄関ポーチで彼女が振り返る。

「約束…、忘れないでくださいね。」

彼女の強張った笑顔と、吹き抜ける風は伽藍洞の身体には強すぎる。

「あぁ、きっとだ。」

私はただそう返す事しかできなかった。

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