得難い微笑みをについて

 アームトイの掲げたカップを受け取りながら、私は今起こった事を反芻していた。それこそゆっくりと入念に、何一つ間違いのない様に。老人の瞳に映った宇宙の深淵を思わせる光景、それは、凍える程に冷たく、そして狂気的な熱気を孕んでいた。思い返すほどに体の芯が凍り付く思いがする。薬缶から出る熱い湯気すらもその場で凍るかと思わせる程の寒さを感じ、身震いする。私はポットの中をゆっくりと回る茶葉を眺めながら、動悸の収まるのをひたすらに待った。長らく感じることの無かった恐怖、いや私が両親と死別した時も此処までの恐怖は感じなかった。少年時代を暗い路上で孤独に生きていた私にとって、暗闇は慣れて久しい。しかし、あれは、あの暗闇は人間の領域にはなかった。知覚される全てが異常、整然と並ぶその全てが、私の見てきた世界を純粋に否定していた。茶葉がポットの底に沈むのを待ってから、ゆっくりとカップに深紅の液体を注ぐ、液面に苦悶の表情を浮かべた男が揺らめく。紅茶がアームトイお気に入りのカップの半分を占めた時だった、


「それくらいで。」


不意に制止される。見れば、既に事務机を前に深々と腰かけたアームトイがカップの到着を待っている。


「ですが、半分しか…。」


そこまで言いかけ机の上の瓶に目が留まる。赤黒い液体で満たされ、上面は赤い蝋で封印してある。カップを机まで運びながら当然の疑問を彼にぶつける。


「こんなモノどこで手に入れたんですか?」


「何、私には友人が多くてね。」


瓶を振りながら飄々と何食わぬ顔で答える。瓶の中身はどうやら相当に良いものらしく、アームトイは上機嫌である。瓶の表面には刻印はなく蝋の上面にのみ十字に組み合わされた骨と人間の骸骨があしらわれている。制作者が何を伝えたいのか解らないが、如何せん度が過ぎる。精神を掻き乱す様な紋章を前に顔をしかめる。神経質過ぎたかな、と思い直し瓶を受け取り、


「なかなかご機嫌な…、ブランデー?ですかね。」と呟く。


蝋を切り、コルクを引き抜く。アルコールの刺激臭の後に、ブランデーの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。その香りが品質の高さを如実に示していた。香りの奥に広がる深い緑を想起させる仄かに甘い余韻。苔生した森と死に腐りゆく木々…。それは甘き死であった。悪趣味な封印も制作者の意識の表れなのだろうか、そんな事を考えながらカップの縁を掠めるまで液体を満たす。気づけば心のざわめきも、酷い悪寒も消えていた。アームトイは受け取ったカップを慎重に口元へ運び、紅茶入りのブランデーを心底美味しそうに飲んでいる。


「君も、一杯やり給え。」


ご機嫌なアームトイの言葉が、さながらソリストの奏でる上質な音楽のように響く。昼間から?と思いながらも彼の言葉に甘え自分の分を用意する。注がれた紅茶にブランデーを少しばかり垂らし掻き混ぜる。朱がより朱くその色を変える。紅茶の湯気だけに満たされた部屋で最初に沈黙を破ったのはアームトイだった。


「その蝋封は、彼らドイツ人の抵抗なんだよ。」


自由と夢の国アメリカでは近年禁酒運動が激化している。中でもドイツ人が作るビールやブランデーは目の敵にされている。そんな中でラベルや瓶に凝るのは自殺行為に等しい、その中で選んだのが蝋封に刻印すること、設備を必要としない方法なら足もつきづらい。アームトイの言葉に耳を傾けながら、私は別の事を考えていた。おぞましい老人、警察が動かない失踪事件、何よりもアームトイが興味を示した。その事が気掛かりでならない。その考えを見越してかアームトイは自説を切り上げ、カップを揺らしながら話し始める。




 私はアームトイの対面に座り彼の言葉に耳を傾けた。


「君も不思議に思っただろう、私がこんなにも興味を示している理由を。事件自体は簡単なんだ。まずこれは誘拐。これに間違いはない。老人、名前は…ハロルドだったかな。彼の靴、ズボン何れも比較的新しい泥で汚れていた。服も二、三日は着替えず歩き回っていたんだろう、皺が伸びていなかった。直前まで探し回って、殆ど眠らずここまで来たのか目は充血していたし、酷い隈だったね。しかも彼には誘拐であることはある程度解っていたんじゃないかな。そして誘拐であるならば、おそらく、犯人は身内だろう。彼の身なりを見ればわかるように裕福ではない。身代金目的でないなら、子供の身柄を確保することで有利になる人間がいるんだろうね。」


ひとしきり喋ったのちポケットからペンダントを取り出す。金色の鎖と、その先には小振だが細い装飾のされたロケットがついている。持ってみると思っているよりも軽く表面の金はメッキかなにか、少なからず値段のするものではなさそうである。ロケットを開けると中には5歳くらいの子供、子供を抱きしめる女性、そしてその後ろに歯を見せ笑う男の姿があった。


「その写真の子供、その子が今回の被害者だ。ブレスレットはその女性のものなんだろうね。順当に行けば男は父親で間違いないだろう。」アームトイは続ける。


「ここで問題なのが何故両親が尋ねて来ないのか。忙しい、その可能性もあるかもしれないが、わざわざブレスレットを託すだろうか?他にも写真、最近撮ったものもあるかもしれない。なのに何故か。写真が無いのは撮る事が出来ないから、そう考える。老人一人の稼ぎでは難しいだろう。故に古い写真を持ってきた。では何故子供は老人のもとに?これは両親のうちどちらか、もしくは両方と死別した。と、考えてみれば、納得できないかね?。」 


両親との死別と言う言葉に動揺しながらも私は言葉を捻り出し、名探偵にぶつける。 


「ですが、警察は…。」


「警察も事情を知っているのさ。知っているからこそ手を出さないんだろうね。そこまで考えれば両親、または親戚の誰かが子供を取り戻しにきた。まぁ、これでおおよそ合っているだろうさ。あとは君に現地へ行ってもらい、子供を連れ戻す。これで一件落着、どうかね?」


「サー、貴方は行かれないのですか?」


「私も年だからね、かなりの長旅になりそうだし、馬は苦手でね?」


納得した訳ではない、しかしこれといった反論も見つからず事件を担当することを了承せざるを得なかった。だが幸い解けていない謎が残っている。聞けばハロルド氏の住む町はここよりサンフランシスコに近いらしい。サンフランシスコも大きな街だ探偵や相談すれば警察も動いてくれるかもしれない、それでも彼はここを訪れた。確かにアームトイはずば抜けた探偵だ。しかしそれだけで来るものなのか。さらに事件も推理通りではないかもしれない。どうであれ確認することは必要だろう。しかもアームトイの力になれる。それだけで私にとっては十分であった。


「あぁ、そうだ。」不意にアームトイが口を開く。


「不安なら大佐にも声をかけるといい。あと、この間渡した刀、青龍刀だったかな、君の故郷のものだろう?あれを持っていくといい。」ジョークなのだろうか、軽口を叩くアームトイの言葉に勇気付けられ私は少しばかり気が軽くなった。紅茶を飲み干し、言葉を返す。


「サー、私はアメリカ生まれですよ。」

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