夕闇が聞こえるか

@saiki_regene

不機嫌な男

 部屋の中が明るくなり始め、私は目を覚ます。薄いカーテンで遮られた北側の窓から、漸く朝の陽の光がぼんやりと差している。窓の下からは表通りへと向かう男や女、子供のにぎやかな声が聞こえる。私は鬱屈とした表情を浮かべながら狭いアパートの狭いベッドと、薄っぺらな布団を一瞥し、身支度を整える。切れ味の悪い剃刀に苛立ち、悪態をつく。曇った鏡の向こうでは不機嫌そうな切れ目が見つめ返してくる。卑屈な笑みを浮かべた男は、鏡を後にし、皺の寄った安いスーツに身を包み、簡単な朝食をとる。前日に淹れたコーヒーとクラッカーが数枚、最低限ではあるが、必要以上である。半ば儀式と化したそれをすませ、スーツに落ちたクラッカーの破片を払い落とす。板張りの床にパラパラと落ちていく破片を見、またも溜息を零す。テーブルに放置してあった腕時計を手首に巻きつける。金属の冷たい感触が心地よく腕を駆け上がるのを感じる。自身の持つ唯一の本物。名前も過去も何もかも偽物の中、自分が確かに存在する証明。磨かれた透明なガラスの細かな傷や精確無比に削り出された金属ベルトの感触、そして一分おきに正確に刻まれるムーブメントの音。その全てが私に安心を与えてくれる。時計の収まりを確認し、何度も裏打ちをした古いコートを羽織る。建付けの悪くなったドアを押し開け、息を吸い込む。冷えた冬の空気が肺を満たす。吐息は外気と混ざり合って白く燃える。この街の空気は嫌いじゃない。そんな事を思いながら歩き出す。狭い裏路地は、まだ殆ど日陰で、冬の寒さを一層激しいものとしている。表通りまで出れば朝日と通勤の自動車の排ガスでむせ返るほどの喧噪に身を任せることになる。時計はすでに8時を半分ほど回っており、立ち止まり騒がしい車列を眺めている私を窘めている。再び歩き出した私の背中を冬の弱い陽光がじんわりと暖める。規則正しい革靴の音が暗示するのは、代わり映えのしない一日の始まりなのだ。




 探偵の朝は遅い。いつも通り九時を回ったころ、ようやく事務所にたどりついた私は、一呼吸置きドアをくぐる。心地よく鳴るドアチャイムの音とともに目に飛び込んできた光景に思わず息をのむ。


「あ、あの、」


 重ねられる視線にたじろぎ、やっと出た言葉は老人の手によって遮られる。こっちに来て座れという仕草で私に手招きする老人、私がこの街でもっとも尊敬する人物、上司であり恩人の「サー・アームトイ」その人である。


「すみません、遅れました。」


 コートを脱ぎ、勧められた席、依頼人の向かい側上司の真横に腰を落ち着ける。革張りのソファが深く沈み、古くなったバネがようやくといった風に身体を支える。座り心地の悪くなったソファの感触を確かめたのち視線を上げ今朝の困惑の原因を見やる。目の前には落ち着きなく座る老人、古い継ぎだらけのコートは着たまま、手入れのされてない髭がだらしなく、そろえられた膝にかかっている。ひどい猫背のせいなのか視線が合わない、いや合わせようとしていないそんな印象を受ける。始業前から事務所に居座る客人と、にこやかな表情を浮かべながらティーポットを傾けカップに紅茶を注ぐ上司を交互に見る。


「あ、あの、それで…。」


 状況を飲み込めない私を前に、上司は


「紅茶でいいかな?」


 とティーカップを差し出す。頷きながら受け取った紅茶は既に冷めてしまっている。テーブルの上のミルクをカップに注ぎ、白く波打つ水面を見ながら状況を必死に整理する。冷めた紅茶が示すのは淹れられたのが相当前であるという事。普段は昼頃まで自室から出てこない上司が来客者の対応をし、紅茶まで勧めているということは、依頼人の話が面白かったのか、それとも。嫌な予感を振りほどきもう一度上司を見る。既にパイプに火をつけ、咥えなおした上司はゆっくりとパイプを燻らせ


「ハロルドさん、すみませんが、もう一度お話して頂けますかな?」


 と依頼人に声をかける。その一言でこの依頼が私の担当になる事を理解した。しかも恐らく一人で…だ。顔に出かかった感情をミルクティーで誤魔化す。不味い。口に含んだとたん歪んだ顔を上司が横目で笑っている。紅茶をこんなに不味く淹れられる人間もそう多くはいるまい。渋みだけを強く感じる紅茶を胃に流し込み、ぼそぼそと話し始めた老人の言葉に耳を傾ける。


「五日前のことです。」


 ハロルド・カークマインと名乗る老人は節くれだった指を小刻みに組みなおし話す。


「孫がおらなくなって、探したんですが、町中をです。いつもであれ場夕方には帰ってくるはずなのに、書置きもなくて。」


 しゃがれた声で淡々と続ける。


「警察にも行きはしました、すぐ戻ってくるって、取り合ってもらえませんのです。もう気が気でなくて。それで以前話に聞いた探偵さんにお頼みしようと。」この手の依頼は珍しくない。うちの探偵事務所は小さいながらもこの街では有名だ。サー・アームトイといえば巷では安楽椅子探偵などと持て囃されている。評判を聞き遠方からわざわざ依頼にくる刑事も居るほどだ。この間はイングランドから足を運んだ刑事もいた。名探偵は捜査資料を見るなり犯人を指摘し、刑事は大喜びで帰って行ったが。


「どうだね、面白そうだろ?」


 そう言いながらパイプの煙を勢いよく吐き出す。


「依頼はお受けいたしますよ。うちからはこの若いのを出しますのでご心配なく。今日はホテルに戻ってお休みください。馬を預けられる場所も紹介しましょう。こちらのペンダントはお預かりしますね。」


 そう言いながらアームトイは席を立ち、金色の鎖で繋がれたペンダントだろうか?をスーツのポケットにいれる。何やら数行書いたメモを渡した後


「明朝、またお越しください。」


 とドアを指し示す。依頼人は当惑したまま事務所のドアノブに手をかけ、振りむく。


「あ、ありがとうございます。」


 涙ぐんだ声でそう礼を言い、頭を下げる。つかの間の邂逅に戸惑いを隠せないまま、こちらも頭を下げた。顔を上げ、依頼人の顔を覚えておこうと視線を戻す。その時、目が合ってしまったのだ。いや、正確には合ってなどいない。年相応に深く刻まれた皺、その隙間を埋めるようにぽっかりと開いた虚ろな洞。そこには本来あるべきハズの光彩はなく、取り留めのない深淵、黑、灰、それだけが広がっていた。カオス、未知、既知、そのいずれもが交差することなく眼前を流れていく、酷い頭痛と吐き気、眩暈、胃が捩れる感覚と全身の寒気が自身の精神が狂気の狭間に手をかけている事を告げている。そしてそのコントンの中に、あれは…、名状しがたき不定の者共が輪をなして踊っている!?黒、白、藍、茜、様々に体色を変えながらそれらは歓喜している!それは、そう彼らの王の眠りを、耳障りなフルートの音色、微睡みの王、得もせずすべてを破壊するうねり行く狂気。何故知っている?これは、誰の?なぜ?私は…、私…、わ…。


「酷いことをするよ、まったく」


 肩に手を置かれ、その温かみが全身に伝わる。腕時計の正確な一分の慟哭と汗ばんだ額を静かに流れ落ちる嫌な、それでいて冷たい汗を自覚したとき、ようやく全身の震えが収まる。気づけば依頼人をとうに立ち去り、部屋に残されたのは前かがみで固まったままの私と、そのとなりで旨そうに煙を吸い込むアームトイだけだった。いまだ肩に置かれた手が現実の座標を教える中、虚妄と狂気で満たされた身体はいまだに残る悪寒と闘っていた。ガスの炎がやかんを叩く音とけたたましく鳴る笛の音で我にかえる。


「すまないが、紅茶を一杯もらえるかな?」


 片手に持ったカップを掲げながら、楽しそうに上司、そして恩人であるアームトイが、笑顔を浮かべた。

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