人魚と内緒話
ハナビシトモエ
人魚と内緒話
前川さんという女性がこの町にいる。
駄菓子屋のいつ現れたか誰にも分からない女店主だ。満月の夜に現れたという大人もいれば、いやいやこの町の奥にある一軒家にずっと住んでいたという人もいて、そのそれぞれがこの町の井戸端会議の話合いによく出てくる議題だった。そのどれもが非現実的で、白昼夢みたいな話だった。
前川さんはきれいで、可愛らしく、クールで、快活だ。
誰もが前川さんを評する時は様々な言葉で語り、そのどれもが前川さんを良く表現した。でも僕は前川さんが怖かった。この町の大人が前川さんに支配されていく気がしたのだ。
元限界集落で、町とは言うがまだ村とか大字という名残が色濃く残る集落で僕は育った。統廃合の末、阿賀地市という名に変わったが、まだ前の名前である
川がよどみ飲む水に困った時、突如現れた鱗のついた神様が上流の山に根を降ろし、自分を奉るのを代わりに雨を降らせてやる。
そう言って上流からきれいな水を流して、汚い水や汚れた水を下流に流して、雨を降らせた。よどみ続けているのではなく、よどんでいた過去があった。川は汚さぬ様にという教訓から、澱みが淀みに変わって名付けた村だ。
この村の龍神伝説は他の地域と違って、生贄を必要としていない。善良な神なのだ。その為、鱗は神聖な為に魚はとらない。きれいで美味しそうな魚を求めてやってくる外の人を全員追い出すことは出来ないが、見つけたら注意喚起する様にしている。
七月も入ったばかりなのに真夏日が続いた。日本列島の南海上にはやたらに長い前線が伸びていて、それが僕たちの村を襲うそうだ。元、村の職員は避難所の設営や準備を始めた。川が氾濫し、堤防が決壊する。そういうことが想定される。そういう村だ。
先人はよく考えた。土砂に強い土地に家を築き、堤防の近くに家を置かなかった。その教えを守らず土砂や川を考えずに家を建てたのは統廃合の時に市が安くてアクセスのいい町と呼び込みをして、何もわからずふわふわと家を建てた
あの用意している避難所も全て新しい人の為のものだ。あいつらは何もわかっていない。僕はまだ高校生だけど、新しい人はきっと郷に入っては郷に従えを分かっていない。それが偏見なら素直に謝罪しよう。そうでは無いと僕は思っている。
前川さんは若者と一緒なのだろうか。
前川さんはいつも正座だ。足が悪いと誰かが言って、姿勢がいいと誰かが言う。当時、子供だった僕達に色っぽく秘密と言って、ごまかされた記憶もある。かもしれない。
ある日、夕方の五時に追い出されて、家に帰る途中に麦わら帽子の忘れ物に気づいて、駄菓子屋に帰ると駄菓子屋のポストの上に忘れた麦わら帽子が置いてあるのだ。あの時の事はなぜか覚えている。
触ったら重くて冷たかった。さっきまで水にひたされていたかのようによく濡れていたのだ。
前川さんの足を見た。そんな噂が村の小学校で持ち切りらしい。
「縞々だったよ。魚みたいだった」
馬鹿らしいと思うと同時にあの頃を思い出した。真実を確かめるのにわざわざコンビニの長男坊に迫るのは幼稚に思えた。
久しぶりに行ってみようか。あの駄菓子屋の目の前の井戸端会議はよく見るけど、店の前からでは見えない奥に行くことは最近少なくなった。
僕は都会の方の学校から帰宅し、小降りになってきた雨に明日大雨になると察した。行くなら今日行こう。どうせ川向いのポストに用事があった。
シールを集めると白いお皿がもらえるキャンペーンに応募するハガキを出すのを忘れていたのだ。汗をかいたので、シャワーを浴びてから行くことにした。なぜか分からない焦燥感がいつもはこする体を水で流すくらいにした。何も急ぐ必要は無いのに、なぜそうしたか僕は分からなかった。
家を出たのは雨が明けた遅い夜の始まりだった。もう習慣になってしまって、電灯が無くてもポストには着くことが出来た。服の中に隠したハガキはしならずにまだ応募用紙の体裁を成していた。それを投函し、仕事は終わった。
駄菓子屋のシャッターは最後まで落ちていなかった。光は下に漏れていて、中で誰かが動く気配はしていた。僕は好奇心で声を掛けてからシャッターを少し上げようとした。反応が無かったので、自分に中で誰かが急病で倒れているかもしれないという言い訳をして、シャッターをあげた。
「もう仕方のない人ね」
中には前川さんらしき女性と奥の暗いところに何かの気配があった。いや、なぜ前川さんらしきかと言うと、微かな電灯の下にいつもはあらわにならない下半身に魚の鱗があったのだ。
奥にいたのは役所でよく見る窓口の男性だった。縛られ、猿ぐつわをかまされた彼はどうにかその縄から逃れようと抵抗をしていた。
「え、ちょっと。何で」
「なんで今日に限ってお客さん多いのかな。この人は避難した方がいいよーって言いに来てくれて、ほら閉店したから車椅子押してシャッター閉めたのに。でも久しぶりのご飯でちょっと助かったわ」
何をと、声が出なかった。前川さんは続けた。
「誰にも見られんようにずっと座ってたら、エコノミー症候群みたいになるし、畳の段下に下ろして、この工事も大変。この人はダメだけど、小さい頃から来てるあなたは許してあげる。この事は秘密ね」
手招きされて、耳を寄せた。
「この事は内緒ね」
僕は白い皿が当たるハガキをポストに投函しようとした。雨は大して降っていないのにハガキはびしょ濡れだった。
僕は仕方なくズボンでてきとうにハガキを拭いてポストに放り込んだ。
駄菓子屋のシャッターは閉まっている。おかしいな、さっきは開いていたのに。さっきって何だろう。
家に帰ってお風呂に入った時に気づいた右小指の指輪みたいなアザ。まるで切れそうな濃い痛みの無いアザ。
ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本飲ます。
「内緒だよ」
どこかから浴室に声が響いた気がして、少し被ったシャワーが冷たく感じた。
それでも自分が何を恐れているか。僕には検討もつかなかった。
人魚と内緒話 ハナビシトモエ @sikasann
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