スモーキーで泣けるやつ

煙 亜月

バーにて

 二次会に行くのはメインの面子、つまり飲兵衛の塊を除きわたしと奈々子くらいのものだ。会社のつながりは仲間ではないし、それよかYouTubeでも観ながら独酌した方が一億倍幸せになれるからといいうのが主たる理由。従たる理由はただ単に酒が好きでないからということらしい。

 

 さてそうしてわたしは奈々子と非常階段のように滑りのよさそうな階段で喫茶店の二階に上がり、どちらがより苛烈に課長の悪業を暴けるかをほとんど酔いつぶれながら競っている。


 黒のワンレンで横顔を隠して「なんで去勢が違法になったんかね、知ってる、真里花嬢よ?」と奈々子はいい、髪をかき上げながらラフロイグ、という強いお酒を呷る。


「ほら危ないって。煙草置いて。髪、焦げちゃったらわたしのせいになるんだから」

「ん、どうしてそひぇ、それが真里花のせいになんの?」

「もう、知ってるくせに――」


 大学三回生だった。ふたりとも都心部への就職も決まり、わたしたちはこのまま女友達として始まりもしないで終わるのだろうと将来を達観(このころはそれだけで『達観』といいえたのだ)していた。


 それがどうしたわけで奈々子の髪が煙草で焦げるのを隣で心配しているのかというと、詳細は省くが奈々子に煙草を教えたのはわたしだということ。でもまあ、結局二人とも都落ちしたんだどね。一方は神経を病み、一方は不倫での島流し出向。


「ねむたいよう、まりちゃん、もうねようよう」

 始まった。

「けどこれは飲んでから出るよ、もちろん。ラフロイグ一〇年。スモーキーで泣けるやつ。うちは宵越しの銭と酒と男は持たねえ」

 出た、奈々子節。

「だがしかし、吐きそうなのは事実」

「もう、そんなきついのばっか飲むからよ。チェイサー、頼む?」

 わたしは手を挙げマスターの姿を探す。いない。昼間は喫茶店で、夜は夜で二階のバーを一人で切り盛りしているのだ、少しばかりの居眠りだって咎め立てられようもない。それに、そういう店が好きなのだ、わたしも、奈々子も。


「わたしのだけどブルームーン、飲む? 甘すぎかな」

「飲む」

 即答。

 

「ん」

「ん?」

「リップの跡、狙ってやった」


 見れば奈々子の真っ赤なティントリップがわたしの薄桜に重ねられている。

「もう――男子みたいなことするんだから」

「わりいわりい、今度から本人にしてやっからよ」


「いや」

「え?」


「あたし、そういうの冗談でも、いや」

「な、なんだよ――悪かったよ、ごめん。真理花——」


「ごめん。涙とか見せられないから」

「——オーケイ。じゃあ、今日はもう」

 奈々子の袖を引く。

「来て」

「ん?」

「うち。来てよ」


 時刻は夜二十三時。会社での長い長い飲み会がようやく終わり、止まり木を求めるかのようにここにたどり着いたのだ。わたしは奈々子を離したくなかった。三回生の夏。わたしと奈々子の運命は同じくするものとして疑問にさえ思わなかった。紆余曲折はあったものの、たどり着いたのだ、この止まり木に。


「真里花もちょっとはいい返せばよかったのに」

「わたしは奈々子の思うようにはなれなかったよ」


 紫煙と一緒に大きくため息をついた奈々子は、わたしの顔を見つめてきた。端正な顔立ちを何かに譬えるなら、いや、これは概念になるが――無辜だ。瑕疵も穢れもない、生まれたばかりの嬰児のように、夢も希望も畏れも不安も帰属も一切合切なんにもない、ただ在るだけの者。


 その彼女を、わたしは欲しがった。つくづくよい横顔だ。

「何さ、真里ちゃん」

「んー? 奈々子はやっぱり可愛いなあって思ってた」

「キャラ変わるの早いな――あんたもけっこう酔ってる?」


 頬笑みながら額を寄せ合い、こつんと小突く。大学の時できていたことが現在できなくなったことなんて、本当は取るに足らない程度なのかもしれない。奈々子はおどけてタコの真似だろう、唇を突き出す。その所作があんまりにも彼女らしい優しさだったので、わたしは上を向いてからからと笑った。

「酔ってたらどうするの、奈々ちゃん?」

「んー、おれのものにしてやる」

 わたしはわかっている。アクションを起こす側なのは、わたしだということを。

 奈々子は強いお酒を飲みたがるけど、実際アルコールには強くないのだし、そもそも強者は強がらないのだ。


 チャームとして置かれていたミックスナッツに、わたしは手を伸ばした。すると、奈々子の手とぶつかった。

「お先にどーぞ」

 奈々子はそういったが、わたしはふと思いついて、アーモンドを一粒つまみ、彼女の口に押し付けた。わたしはやや見上げ気味にいった。


「はい、あーん」

「なに、餌付け?」

「うん。あーん」


 仕方ねえなあなどといいながらも奈々子はアーモンドを口に含み、ガリガリと噛んだ。彼女の瞳がとろんとし始めていた。ああもう、これは連れて帰るしかないやつだ。案の定、奈々子はいった。


「なんか、飲みすぎたかも」

「待ってて、あたし水汲んでくる」

「んな、サイゼじゃないんだし」

「水道水ならいいでしょ?」


 わたしは奈々子に水道水を差し出した。「こちらのお客様からです」

「変に行動力あるよね、真里」


「とりあえず飲んで?」

「はい」


 マスターが起きてきてくれたので、わたしは自分の分の水を頼んだ。奈々子は三本目のタバコを取り出した。


「それ喫ったら出るよ、奈々子」

「うん」


 わたしは喫煙者ではないが、煙草の煙は嫌いじゃない。いや、嫌いじゃなくなった、というのが正しい。奈々子に出会ってから、わたしは少しずつ彼女の色に塗り替えられていったのだ。


 好きだな。


 そんな想いをわたしはまだしまい込んでいる。まだその時じゃないと思っているから? わからない。それに、奈々子を傷つけることにもなりかねないから。——後者は、言い訳だけど。


「なあ――真里っぺ」

「なーに?」

「家、行ってもいい?」

「そういう流れだったでしょ?」

「ではなく」

「なに」少し、構える。

「うちら一緒に――じゃなくて、ルームシェアとか、しない? 生活費とか、いろいろあるし」



 バーを出てから、駅のトイレで奈々子は吐いた。スーツが汚れなかったから良かった。よろよろ歩く奈々子に肩を貸しながら、わたしの家であるワンルームマンションに到着した。


「ごめん、真里」

「別にいいって、これくらい」


 わたしは奈々子のスーツを脱がせ、ハンガーにかけて消臭ミストを吹き、この狭い部屋に無理矢理置いたソファに座らせた。彼女は背もたれに全身を預け、深く息をついた。わたしは聞いた。


「どうする? シャワー浴びる?」

「いや、いい。もう寝たい」

「じゃあ、せめて着替えようかね」


 奈々子はわたしよりも小さくて細い。だから、わたしの貸す替えのパジャマもダボダボになってしまうのだけれど、それがあまりに可愛い。

 恥じらうことなく下着姿になった奈々子は、のろのろとジャージを身に付け始めた。彼女のブラとショーツは色がちぐはぐだったが、それすら愛おしい。


「月曜ってなんで日曜の次なんかねえ」


 奈々子はこぼす。


「わたしも着替えようっと」

 わたしはスーツを脱いだ。フリルのついたケミカルレースが目を引く真っ黒で――扇情的な下着を身に付けていたが、それに奈々子が気を留めることはないだろう。それでも、今日はこれを着たい気分だったのだ。


「奈々子、ほら、ベッド。体じゅうバキボキになるよ?」

「ん――」


 奈々子はドサリとベッドにうつ伏せになり、そのまま寝息を立て始めた。すぅ、すぅ、という規則正しい音を聞いている内に、わたしの身体には熱がこもってきた。


「おやすみ、奈っちゃん――」


 わたしはベッドのふちに腰かけ、奈々子のつややかな髪を撫でた。今はまだ、彼女はわたしのことをただの同窓か同期としか思っていないだろう。それでいい。この想いは、すぐに伝わらなくてもいい。


 小さくうめき声を上げて、奈々子が仰向けに寝返りをした。そっと彼女の唇に顔を近付けると、酒と煙草の匂いがした。


 キスしてしまおうか?



 わたしは立ち上がり、奈々子のジャケットのポケットから煙草とライターを引き抜いた。そのままベランダへと出て、夜風を浴び、しばらく目を閉じて突っ立っていた。


「好きなんだよ、奈々子」


 夜空に想いを告げ、わたしは煙草に火をつけた。

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