血通う機械は摩天に挑む

氷純

血通う機械は摩天に挑む

 自宅を出た紀野きの晴斗はれとは、共用廊下の手すりに歩み寄る。

 自宅を出てすぐに左右へ伸びる共用廊下は光量を絞った電球がぽつぽつと並んでいて、薄明りに照らし出された古びた段ボールがあちこちに転がっている。

 廊下の手すりから下を見れば、十重二十重に同じような廊下が走っている。対面の共用廊下への渡し廊下が縦横無尽に走っているせいで、数十メートル下にある地面は見えない。

 もっとも、見えるのは地面と呼ばれているだけの都市の基礎であって、本当の地面は紀野のはるかにあるのだが。


「今のうちにっと」


 眼下の廊下の人通りがまばらなのを見て取って、紀野は自宅玄関から台車を引き出した。

 新品の丈夫な段ボールを山積みにした台車を押して、共用廊下を進む。

 おんぼろの雨どいから漏れ出た水が共用廊下に小さな水たまりを作っていた。


「へぇ、雨が降ってんのか」


 呟いて、紀野は上を見上げる。視界一杯に広がっているのは空ではなく、無骨でごみ溜めのような汚い地下積層都市だ。縦横無尽に走る渡し廊下のせいで地上部分がどうなっているのかも分からない。

 雨が降ろうが槍が降ろうが、地下の紀野たちには影響がほとんどない。

 段ボールが濡れなくて助かるとぼんやり考えつつ、紀野は地下第三層へ下る坂道を降りていく。


 先ほどまでいた第二層よりも少しだけ明るい電球たちと第二層よりもはるかに密な柱と壁が紀野を出迎えた。共用廊下の左右に住居と店舗が立ち並び、上半身裸のむさ苦しい親父が野菜を売っている。

 見慣れた光景だ。気にせず台車を押して進むと、親父が紀野に気付いて声をかけてきた。


「お、紀野! 注文がしてぇんだが、良いか?」

「後にしてくれ。これを卸しに行くんだ」


 台車の上の段ボールを指さして、足を止めずに親父の前を素通りしかけた時、親父が続けた。


「帰りに寄ってくれ。大口注文だからよ」

「――それを先に言え。で、ご注文は?」


 さっと台車を引っ張って親父の前に戻ってきた紀野はにこやかな商売用の笑みを浮かべて注文を聞く。この後、誰かが通りかかって注文を横取りされないとも限らない。大口注文と聞いて素通りできるはずがない。

 親父が若干頬を引きつらせて後ろに数歩下がる。それほど、紀野の変わり身の早さと注文を取り付けようとする圧は強かった。


「ほんと、現金な奴だ。注文は『小羽フーズのトマト缶』を二十個、三日以内に頼みたい。それから――」


 紀野はメモ帳に注文を書きつけていく。

 紀野たちのいる汚い地下積層都市の上、地上には高く煌びやかな高層都市が存在する。管理AIが目を光らせるその高層都市から地下へと商品を持ち出してくるのが紀野のような地卸の仕事である。

 代金の計算をしている紀野を待っていた親父が思い出したように口を開く。


「聞いたか? 地上二層の亡霊の話」

「亡霊?」

「三区の地卸が地上二層で食べられた後の缶詰を発見したんだとさ」

「……そんなバカな話を信じてんの?」


 紀野は頭の具合を疑うような無遠慮な視線を向ける。

 そんな紀野の反応も当然だと、親父は苦笑した。


「やっぱ与太話だよな。地上に人が生き残ってるわけもねぇんだし」


 かつて、地上には人が住んでいた。百年近く前の統計では、数千万人が暮らしていたらしい。

 見上げてみたところで上下の全体像すらつかめないこの積層都市は、その表面積も広い。東京と呼ばれていたころの名残で二十三区に分かれているほどだ。数千万人が暮らしていたというのも誇張ではないと紀野も思う。


 しかし、強力な伝染病の蔓延により都市を管理するAIは隔離政策を実施した。

 隔離政策は感染者と非感染者を無慈悲に分け、個室へ監禁し、疫病の特効薬が出来上がるまで監禁を続けるというものだった。

 特効薬はおろかワクチンさえできないまま隔離政策が続けられ、外を出歩く者はすべて個室へ幽閉。死ぬまで出ることが叶わず百年が経過した。

 結果、地上には隔離部屋という棺桶が数千万人分出来上がった。衛生面を憂いた管理AIが遺体を火葬したため、もはや棺桶ですらないが。


 本来は都市廃棄物を放り込むこの地下空間に故あって住んでいた紀野たちの先祖が、管理されなかったからこそ生き残ったのは皮肉だろうか。

 そう考えた矢先、どこかでガラガラ、カンカンと何かが降り注ぐ音が聞こえた。

 定時に行われる、地上の廃棄品が地下に捨てられる音だ。


「もう昼か」


 定時に行われるからこそ、一種の時報のように認識されている廃棄物の降り注ぐ音に、紀野は呟いて親父の注文を書きつけたメモ紙を渡す。


「これで全部か?」

「おう。紀野に注文すると相変わらず高くつくな……」

「文句があるなら他を当たれよ」

「文句はあるが、納入期日をきっちり守るのは紀野くらいだからな、飲み込んどくよ」


 渋々ながらもメモ紙を受け取って、親父は店の奥のコルクボードに張り付ける。


「じゃあなー」


 紀野は親父に手を振って、台車を押して取引先へ向かった。



 帰宅した紀野は商品を運ぶのに使った台車を玄関横の専用スペースに置いて、部屋の奥、作業部屋に向かった。


「ただいまっと」


 返事があるはずもない一人暮らしの住まいに呟いて、紀野は作業部屋の奥に佇む人型の機械に手を伸ばす。

 身長一メートル強、肩幅二十センチに満たないその機体に不釣り合いな極太の尻尾がついている。人型機械、怪機かいきだ。

 機体名は鉄鼠。地上からの廃棄品などで作り出した、紀野の愛機である。

 地上はもはや無人になったが、管理AIによる隔離政策は続いている。そのため、地下住民でもひとたび地上に出れば捕縛され、隔離部屋で一生を過ごす羽目になる。

 だから、紀野たち地卸は各々の人型機械、怪機を遠隔操作して地上から商品を盗み出すのだ。


「それにしても、亡霊ねぇ……」


 呟いて、紀野は口元に笑みを浮かべる。

 愛機、鉄鼠の頭をポンとたたき、紀野は声をかける。


「亡霊ちゃんは可愛かったな?」


 地上二層の亡霊、その正体を紀野は知っている。知っているどころか、言葉を交わしていた。

 鉄鼠に水といくつかの缶詰、合成繊維の安物女性服を搭載する。

 元々が地上から商品を盗み出す機体である鉄鼠は積載量が多い。一人分の生活物資を運ぶ程度、苦もない。


「よーし、鉄鼠、いいか? 相手は金の成る木だ。失礼のないようにな?」


 猫なで声で鉄鼠に言い含めているようで実際のところ、紀野は自身に言い聞かせていた。

 作業場を出た紀野はコントローラーを持ち上げて鉄鼠を自宅から出発させる。

 目的地は地上第二層の二区――噂の亡霊が息をひそめる隠れ家だ。



「生きてるかー?」


 紀野が鉄鼠越しに声をかけると個室の奥、カーテン用の布の山からひょっこり女性の顔が出てきた。


「昨日の今日で死ぬはずがありません」


 カーテン用の布から顔だけを出した少女が不服そうに言い返す。

 少女からは見えもしないのに紀野は肩をすくめて小馬鹿にした。


「人なんて死ぬのに一秒かからねぇだろ。頭をドーンでご臨終だ。まぁ、生きててなにより。水と食料、ついでに服まで持ってきてやったぜ。出世払いだかんな?」

「社会が崩壊してるのに出世とは?」

「それは慣用句……管理AIちゃんは世間知らずだから、教わってないか」


 モニター越しに会話して、紀野は椅子に全体重を預ける。


 噂の地上二層の亡霊、モニターに映る少女は紀野とさほど年が変わらない。十六歳ほどだろう。

 見るからにサラサラな明るい茶色の髪を背中まで伸ばしている。少し垂れ目の柔らかな目、くすんだ金の瞳が柔らかく光を反射していた。

 女性らしい膨らみの身体つきに加えてしっかりと筋肉がついている。地下暮らしの紀野の周りではちょっと見かけない栄養状態の良さが窺えた。しかし、肌艶はやや悪い。短期間で栄養状態が悪化した証拠だ。わずかにチアノーゼの症状もみられる。

 これは食べられた缶詰ではなく本人が目撃されても亡霊扱いされただろうな、と紀野は思ったが口にしなかった。


 少女の名はくもなし夏晴なつは。紀野も昨夜に出会ったばかりだ。

 分かっているのは、管理AIが大幅な人口減少を憂いて培養人類を生み出し、成長させたこと。一か月前に十分に成長したとみなされて培養人類の第一陣が養護施設から都市に放たれたこと。

 そして間抜けなことに、管理AIは隔離政策の名のもと、せっかく都市に放った培養人類を隔離部屋という棺桶に送り込み始めたこと。


「昨晩から救急ロボットは見かけたか?」

「見てない。けど、駆動音が通り過ぎたのは聞いた」


 管理AI管轄のロボットの一種、救急ロボットは患者の速やかな治療と搬送を任務とする。人間を見つけて隔離部屋に送り込むのも、主に救急ロボットの仕事だ。

 紀野は鉄鼠を操作して物資を影消に渡すと、ミニモニターの地図を確認する。

 地図を見ながら、紀野は影消に話しかけた。


「それで、影消さんは地下に避難するってことで、気持ちは変わらないな?」

「はい。案内をお願いします」


 気持ちが変わるはずはないと紀野も思う。このまま地上で隠れ暮らそうとしてもいつかは管理AIに捕まって死ぬまで監禁される。


「それじゃ、案内をするが、まともな道なんか使わないからな。ついて行けないと思ったら遠慮なく言ってくれ。別ルートを考える」


 別ルートといっても、管理AIに捕まらないように移動するのは至難の業だ。そう選択肢があるわけでもない。

 紀野の言葉が単なる気休めでしかないと影消くもなしも分かっているのか、無言で頷いた。

 紀野はコントローラーを使い、鉄鼠を操作する。

 人型の機体ではあるが影消の三分の二程度の身長しかない。それでも力は影消と比較にならない。

 そんな鉄鼠が軽々と体を持ち上げて通気ダクトに入り込む。


「鉄鼠の尻尾を掴んでくれ。引っ張り上げる」


 身体に不釣り合いな極太尻尾だけをあえて通気ダクトの外に出し、影消に指示する。

 影消が鉄鼠の尻尾を掴むと、紀野はコントローラーを操作した。鉄鼠が尻尾を曲げ、影消を通気ダクトの中に引き込む。


「けほっ」


 通気ダクトの埃っぽさにせき込んだ影消を無視して、鉄鼠で通気ダクトを進む。意地悪ではなく、先に出口の安全を確保するためだ。

 地上第二層といっても、地上から数えて二階というわけではない。

 板のように縦長なビル群を繋いだこの高層都市は風の影響でビルが倒れないように、かつて地面にあった大通りの上を補強用の部材で繋いでいる。電源ケーブルなどが中に走るその補強部材は地面から数十メートル、場所によっては数百メートル空けて配置されている。

 地上第二層とは、地面から数えて一本目と二本目の補強部材がある高さを指す。これから高さにして数十メートル下の地下まで影消を案内しなくてはならない。


 通気ダクトを抜けて、鉄鼠を床に降り立たせる。

 素早く辺りを見回す。元々は広場として設計された空間らしく、いくつかの遊具が新品同様の輝きを放って佇んでいる。幅と奥行きは二百メートルほど、一種の吹き抜けのようになっていて、天井は第三層の基礎になっていた。


 こういった公園は憩いの場としての雰囲気を壊さないように管理ロボットが常駐していない。いまも無人の公園には管理ロボットの影一つ見当たらない。

 ただ、監視カメラは作動しているため、影消がここに一歩足を踏み入れた瞬間に救急ロボットが急行してくる。

 急行してくると分かっているのだから、対策を施しておけばいい。


 紀野は鉄鼠を操作して用意していた除草剤を公園の入り口に撒いた。薬品を検知した管理AIはここに整備ロボットを送り込むはずだ。

 影消が通気ダクトから出てきたちょうどその時、整備ロボットが公園の入り口に到着する。思わず身構える影消を他所に、整備ロボットは淡々と除草剤を吸引し、吸引しきれなかった分を洗い流し始めた。そうこうしているうちに救急ロボットが公園の入り口に到着するも、整備ロボットが邪魔で公園に入れないでいる。


「――急いで!」


 鉄鼠越しに影消を急かして、紀野は公園に隣接する大規模商店のウッドデッキへ鉄鼠を移動させる。

 鉄鼠が跳躍し、機械の身体とは思えないほど身軽にウッドデッキを支える柱を掴むと、グイっと身体を持ち上げてよじ登る。公園で困ったようにウッドデッキ上の鉄鼠を見上げる影消に、尻尾を垂らし、馬力に任せて強引に引き上げる。


「ぅわっ」


 色気のない悲鳴を上げる影消をウッドデッキまで引き上げると、すぐに鉄鼠を反転させる。

 狙いはウッドデッキと店舗内を隔てるガラス窓だ。


「ダイナミック入店!」


 機械の身体に物を言わせてガラス窓をぶち破る。途端に鳴り出す警報を気にも留めず、紀野は鉄鼠を操作して窓枠に残った破片を払いのけて影消を手招いた。


「ほら、走って!」


 乱暴な逃走経路に唖然としていた影消が我に返って窓枠を乗り越える。

 鉄鼠はすでに店舗内を突っ切って非常用スロープのハッチをこじ開けていた。

 犯罪者に対処するために派遣される警備ロボットが商店の入り口を強引にぶち破るころには、鉄鼠を先頭に非常用スロープを滑り降りて第二層の一番下へと降りている。


 非常用スロープの先にあるのは同じ店舗の寝具売り場だ。鉄の身体の重量でベッドを大きく軋ませた鉄鼠は素早くベッドを降りて影消が着地できるスペースを空ける。

 間を空けずに滑り降りてきた影消が鉄鼠を見て無言で次の逃走先を問う。

 すでに鉄鼠は逃走先である共用廊下の手すりをぶち破っていた。


「この下に落下防止ネットがある。十八メートル下だけど、この機体の重量でも破れないから安全性は保障する。飛び降りられるか?」


 いくら安全だと言われても十八メートルの自由落下は非常に怖い。しかし、十八メートル、六階建て分を一気に降りられるのは大きい。機械の鉄鼠はバッテリー残量を、影消は体力を温存できる。

 影消の度胸が足りなければ別ルートも考えてあるものの、かなりの遠回りだ。

 手すりの下を覗いた影消が一瞬怯んだ顔を見せるが、すぐに吹っ切って手すりを乗り越えて飛び降りた。


「……へぇ、やるじゃん」


 まさか鉄鼠より先に飛び降りるとは思っていなかった紀野は、影消を見直した。

 続けて鉄鼠でぶち破った手すりを越えて宙へ身を投げ出す。下に緑色のネットが張られている。そのネットの下には補強部材が見えた。二層と一層の境だ。


 重量の問題もあり、鉄鼠が着地した衝撃でネットが大きく波打った。ネットに縋りついて共用廊下へ這っていた影消が悲鳴を上げ、鉄鼠を振り返って無言で抗議する。

 抗議の視線を受け流し、紀野は鉄鼠を操作して器用にネットを登り切り、共用廊下に到着する。


「アトラクションじゃないんだ。楽しんでいる暇はないから、さっさと上がれ!」


 落下物の反応を検知した管理AIがロボットを出動させているはずだ。

 あらかじめ目星をつけておいた民家へ鉄鼠を走らせる。防犯システムがあるため侵入しても警備ロボットが来るだけだが、庭を走り抜ける猶予はある。

 民家の庭先を走り抜け、鉄鼠を反転させる。不釣り合いに太い尻尾を操作して庭を仕切る高い塀の上部に尻尾の先を固定する。


「塀の向こうに狭い空間がある。そこに隠れろ」


 防火目的で民家の間にはデッドスペースが設けられている場合がある。閉ざされた空間故に管理AIの目を逃れられる地卸にとっての一時避難所だ。

 影消が鉄鼠の身体と尻尾をよじ登って高い塀の先に消える。紀野もすぐさま鉄鼠で後に続いた。

 サイレンを鳴らした警備ロボットが走ってくる音が聞こえるが、デッドスペースに入ってくることはない。民家に住む住人が避難する時間を稼ぐため、デッドスペースを取り囲んでしばらく動かない。


 暗いデッドスペースは幅一メートルもない。鉄鼠の内蔵ライトで中を照らすと、服についたほこりを払う影消が浮かび上がった。


「影消さん、そこ退いて。足元に脱出用に開けておいた穴があるんだ」

「穴? あ、この板の下?」


 気付かずに落ちてしまわないようあらかじめ張っておいた板から影消が足をどける。

 鉄鼠ですかさず板を剥がし、下を確認する。管理ロボットの姿はない。


「下は下水道管になってる。しばらくは安全だ」

「下水道、ですか……」

「百年近く誰も住んでない町の下水道だけどな。そもそも、管理ロボットが定期的に掃除してるからカビも生えてないよ」


 これが地下の水道なら臭い以前にガスが溜まっていて生身で入るのは危険だ。いまばかりは管理AIに感謝して、鉄鼠で下水道へ降り立つ。

 雨水がちょちょろと足元を流れている。乾いていれば少し休憩するのも手だったが、この分だと歩いた方がよさそうだ。

 足音を響かせながら下水道を下っていく。鉄鼠の後ろを歩く影消が声をかけてきた。


「いまさらですが、なぜ助けてくれるんですか?」

「本当にいまさらだね」


 影消からすれば、紀野が彼女を助けるメリットなどありはしない。

 地上第一層に到達し、地下への避難が現実味を帯びてきたからこそ、地下生活の後ろ盾になる紀野の人となりを知っておきたい。そんなところだろうか。


「だって可哀想だろ。無人の地上で管理ロボットに追いかけ回されながら一生を終えるなんてさ。助けたくなるのが人情ってもんだ。大事だぞ、人情。地下では特にな」


 まるっきりの出まかせを口にして、紀野は影消に見えないのをいいことにモニターの前でニヤニヤ笑う。

 他人がどうか知らないが、紀野は人情なんてもので動く人間ではない。

 世の中、金だ。紀野の目的はただ一つ、紀野のような地下生まれが持っていない影消の市民ID。それさえあれば、様々なことが可能になる。

 市民IDさえあれば、影消自身に興味がないほどだ。市民IDは生体に紐づいているため、影消の身の安全が第一であることに変わりはないのだが。


 懐疑的な視線を向ける影消に真実を語る気はない。地下に降り立った瞬間、市民IDを持つ唯一の存在として独立されてしまえば、紀野が助けた意味がない。市民IDに関しての情報アドバンテージは秘密にしてこそ価値がある。


「よし、ここを上がってすぐ左に地下への階段がある。一気に走り抜けろよ」


 もうすぐ市民IDが手に入る。浮き浮きした気分で下水道の出口にあたるマンホールの蓋を開けた鉄鼠のカメラレンズ越しに、紀野は失策を悟った。

 出口に向けて銃器を構えた人型の機体、暴徒鎮圧用の機動ロボットが一体……。


「――尻尾に掴まれ!」


 余裕のない紀野の声に異常事態を悟った影消が鉄鼠の尻尾に掴まる。

 直後、鉄鼠は馬力に任せて一気に下水道を飛び出した。マンホールの蓋を盾のように右手で構え、影消を守る。

 マンホール蓋と銃弾、金属同士がぶつかる甲高い音が激しく鳴り響く。マンホールの蓋を通して伝わる衝撃に鉄鼠が揺れ、紀野の前のモニターが激しく揺れる映像を表示する。


「全力で地下へ走れ! が守る」

「え? あたし?」


 紀野、二つ目の失策。

 性別を明かしていなかったこと。ぶっきらぼうな口調と晴斗という名前から男だと思われがちなこと。

 荒事に慣れていない影消が優先順位を誤り、足を止めた瞬間、紀野は顔を歪めた。


「貧血だってのに……」


 呟いて、紀野はを発動した。

 鉄鼠に守られていた影消が目を丸くする。

 当然だ。目の前で何の前触れもなく――鉄鼠が二機に分裂したのだから。


 機動ロボットの照準が二機の鉄鼠の間で揺れる。その一瞬を見逃さず、紀野は鉄鼠を操作する。

 分裂した二機の鉄鼠が全く同じ動きでマンホールの蓋を投げつける。

 フリスビーのように迫るマンホールの蓋を、機動ロボットは左腕を盾にして防ぎ切った。


「走れってんだよ! 馬鹿!」


 紀野が暴言混じりに急かすと、影消が我に返って地下への階段に向かう。

 機動ロボットがひしゃげた左腕をだらりと下げながら、右腕で影消を狙う。予想していた紀野は鉄鼠で身を挺して機動ロボットの銃撃を防ぎ切る。暴徒鎮圧にしては過剰な銃撃が分裂した二機の鉄鼠を穿ち、破壊していく。

 身長一メートルと小柄な機体の鉄鼠の右腕がはじけ飛び、胴体に無数の穴と凹みを作り出す。

 それでも、階段を下りる影消には銃弾が一つも届かなかった。


「はっ、あたしの勝ち!」


 捨て台詞を残して、銃撃で後ろによろめいた本体の鉄鼠が地下へと落ちていく。

 地下は廃棄場。管理AIにとっては人が生存しない場所。そこに落ちて、あるいは降りて行った者は帰ってこない場所。

 機動ロボットは地下への階段に銃口を向けたまま静止した。



 地下から地上への階段を上っていくと、落下の衝撃でバラバラになった鉄鼠とそばに佇む影消を踊り場で見つけた。

 悼むように鉄鼠の部品を集めて手を合わせている影消に、紀野は小さく笑う。


「別れを惜しむな。それくらいなら直せる」

「……紀野、晴斗さんですか?」

「いかにも。美少女で驚いたか?」


 自信満々に美少女を名乗る紀野はネズミを思わせる低身長の割に堂々としていて、実際以上に大きく見える。生まれつきのアッシュブロンドには緩やかなウェーブがかかっており、肩に届かない程度に切りそろえられていた。

 つり目気味の大きな目は緑とも青とも言えない独特の色合いで左目の下の泣きほくろも相まって愛嬌と色気がある。

 そんな目の前の美少女の胸を眺めて、影消は首を振った。


「いえ、やはり男性だったんですね」

「なあんだと?」


 両手で胸を隠す紀野の仕草に、影消がくすくすと笑った。

 ついさっきまで機動ロボットに銃撃されていたとは思えない影消の軽口に呆れつつ、紀野は壊れた鉄鼠の胴体から試験管のようなガラス製の円筒を抜き取る。

 影消は不思議そうに紀野が抜き取った円筒を覗き込んだ。


「それは?」

「あァ? ……そうか。管理AIから教わるはずもないか」


 階段を下りながら説明する、そう言って紀野は影消に鉄鼠の部品をいくつか持たせ、自分は鉄鼠の胴体を抱え上げる。

 大荷物を抱えているため、バランスを崩さないよう慎重に階段を下りながら、紀野は説明する。


「今から百五十年前、ファンタジックチルドレンって流行があったんだ。新しく生まれる子供に、遺伝子操作で幻想生物の特徴や能力を与えようって馬鹿馬鹿しい流行だ」


 獣の耳や尻尾、角が生えた子供の他、雷を操ったり火を噴いたりする子供がこの流行で大量発生した。

 今やロストテクノロジーであるその遺伝子操作技術で生み出された子供たちは、その外見や能力から異端視、危険視されてしまう。まともな職に就くことができず生活基盤がない彼らは地下でのホームレス生活をスタートした。


「早い話が、あたしらのご先祖様だ。で、百年前に疫病が流行したが、ファンタジックチルドレンには耐性があった。なんでか分かるか?」

「……遺伝子操作の影響ですか?」

「そういうこと。地下民が絶滅しなかったのはファンタジックチルドレンの集団だったからだ。そして、子孫のあたしらも幻想生物の特徴や能力を持ってる」


 見せた方が早いだろうと、紀野は能力を発動して自分の分身を生み出した。

 二人に増えた紀野に影消が目を丸くして、両方の紀野に触る。どちらにも実態があることにさらに驚いたらしく、違いを探そうとまじまじ観察する。

 面倒くさくなって、紀野は分身を消した。


「あたしは鉄鼠。妖怪の類で無数のネズミとして比叡山を食い荒らした。だから鼠算式に分身する能力がある」


 紀野は抱えている壊れた機体を影消の前で持ち上げる。


「地上から商品を盗んでくるあたしら地卸が使うこの機体にはさっき抜き取った円筒形の血液タンクがある。そこに入った血液を使って、操縦者の能力を発動し、怪奇現象を起こす。だから、こいつらには怪機って総称があるんだ」


 愛用の怪機、鉄鼠を見せびらかして、説明を終えた紀野は足元に見えてきた地下第一層を顎で示す。


「いらっしゃい。暗くて辛気臭い地下世界へ」


 地上から物が落ちてきかねない地下第一層は地下住民さえ居住しない。地卸が怪機を送り出すためにわずかな明かりがある程度だ。

 むしろ、共用廊下の間から覗く地下第二層の方が明るいくらい。

 さっさと第二層の自宅に招こうと足を速めた紀野の後ろで、影消がほほ笑む。


「明るいですよ」

「うん? 暗いだろ」

「地上よりもずっと明るい。だって、ここには人が生きてますから」


 耳をすませば、地下第二層や第三層から人のざわめきが聞こえる。影消が一か月間生き延びた地上では聞くことのできない、人の営みの騒々しさが上がってきている。


「良い皮肉だ。早くも地下住民らしくなってきたじゃん」


 笑いながら、紀野は地上を見上げる。銃口を階段に向けて停止している機動ロボットがいる。

 無人の地上から地下を見下ろす機動ロボットはどこか淋しそうに見えた。


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