愛くるしい子

 やがて吐き気は落ち着いたが、ルークはむしろああして夫に背をさすらせていた方がよかったかもしれないと思いはじめていた。あるころから些細なことでひどく感情的になるようになった。メイナードに何度、理不尽なことで怒鳴ったかわからない。そうするたびにどうしようもない罪の意識に苛まれた。直前までとはまた別な感情が湧いてきて、壊れたように泣いた。毎朝、毎晩祈りを捧げる神に、心のなかで必死に許しを請うた。自分はひどいやつだがどうかメイナードを奪わないでくれと祈った。

 ルークはベッドの上に座って、大きくなった腹の上で手を組んで祈った。「ああ神さま!……お願いです、私からメイナードを奪わないでください!……私は彼なしでは生きていけないのです!……愚かな男の願いをどうか聞き届けてください!……」

 「るぅく」

 アダルベルトの声がして、ルークは音を立てて息を吸った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼を見た。「アダ?……」

 「るぅく、るぅく!……」アダルベルトまで泣き出しそうな顔になった。「あ、ああー、めいなーど、めいなーど!……」

 「待て、アダ!」呼ばなくていいというより先にアダルベルトは走っていってしまった。

 アダルベルトはルークの気持ちを直接感じるように苦しくなった。ルークが苦しんでいる、けれども自分にできることはない。それだから必死でメイナードを探した。今すぐにルークを助けてほしかった。

 メイナードは私室にいた。アダルベルトは彼の名前を叫んだ。部屋のなかをうろうろと歩きまわっていたメイナードはぴたりと足を止めて振り返った。

 「アダ?」

 「るぅく、るぅく!」

 メイナードは心臓が止まるほど緊張した。ルークになにかあったのだと理解した瞬間、彼の部屋を目がけて走った。

 「ルーク、ルーク!」

 果たして、彼はベッドの上ではなをすすっていた。メイナードは彼の隣に座って彼を見た。

 「どうかしたのかい、アダが呼びにきたんだ……」

 「どうもしない。こういらいらする自分が嫌なんだよ」

 「ああ!……」メイナードは愛しい夫を抱きしめた。「ああそうか、そうか!……」

 「呼ばなくていいっていおうとしたんだ」

 「そうか。ああルーク、すまない。私はきみの気持ちをまるで理解していない……」

 「そう理解できるもんでもない」ルークは自分の嫌味くさい口調がまた嫌になった。「おれだって、わかってないんだ。なんでこんなに落ち着かないのか……」

 「ああ、いいんだ、いいんだよ。きみはもう子育てをはじめているんだ。苦悩も苦痛もあるだろう!……」

 「メイナード……」

 「うん、ルーク」

 「ごめんな、ここずっとばかみたいに怒鳴ってる……ごめんな」

 「いいんだ。悪いのは私の方だ。私の気が利かないばかりにきみの苦痛を増やしているんだから」

 「そんなことない。おまえは優しすぎるから、……優しすぎるから……」また視界が滲んで、ぼろぼろと頬に落ちていった。「おれは、おまえにはふさわしくない!……」

 「そんなことはない! 決して、決してだ! 私はきみがいいんだ。きみでなくてはならないんだ。私は夫として、愛しているんだ」

 「メイナード……メイナード!……」

 メイナードはルークの背を、アダルベルトを落ち着かせるときのようにゆっくりと叩いた。「愛している、ルーク、愛しているよ」


 朝の広間、ルークは落ち着かない気持ちでいつまでも噛んでいたパンをようやく飲みこむと、深呼吸した。「ああ……親父さんはどうだったんです、メイナードを産むとき」

 フレディは斜め上を見て思い返した。もう二十六年前のことだ。「どう……どうだった、か……。怖くはあったよ。自分も赤ん坊も無事でいられるかどうかと。でもいざはじまってしまえば、痛くってそれどころじゃなかったよ」

 ルークは体験談を聞いたのが間違いだったと強く後悔した。「そうですか」

 「だいたい十か月間。安らかにいられる時間は短かったね。はじめは体調が悪いし、赤ん坊との対面が近づけばわけもなく感情的になるし。怒鳴り散らして何度クラウディアを泣かせたかわからない」

 「親父さんもそうだったんですか。いらいらした?」

 フレディは二度三度と頷いた。「そうして、妻にひどいことをしたと神に懺悔ざんげするんだ。きっとよい夫になるからと許しを請うた」

 ルークは自分とまったくおなじ体験談に思わず笑った。「だれもそういうものなんですかね」

 「私は特にひどかっただろう。聞くかい?」

 「なんです?」

 「ついに私は、妻より先に子育てをはじめているんだといいわけをしたんだ」

 ルークはたまらず噴き出した。「それはひどいな、おれでさえいってもらう方だった、素晴らしい夫に」

 「そうだろう? 私ほどひどい妊娠期間を経験した者はすくないだろう。赤ん坊も私の腹のなかで、情けない父親に呆れていたんだろうね、きみのようなひとに素晴らしい夫といってもらえるまでに立派に育った」

 「メイナード以外に、こんなおれの相手をできるひとはいません」

 「私もクラウディアに対してまったくおなじことを思っている。私よりひどい夫も、クラウディアよりいい妻もいない」

 クラウディアはルークと目が合うと、「わたくしがそう思いこませてるだけだったりして」といたずらっぽくささやいた。

 ルークはなんとなく気が楽になったような気がして、クラウディアに笑い返した。


 満月の明るい夜のことだった。メイナードはルークの苦しげな息づかいで目が覚めた。「ルーク。ルーク、どうした?」

 「あ、メイナード……なんか、痛い……」

 メイナードはどきりとした。努めて冷静にいった。「ちょっと待っていて。父を呼んでくる」

 ランタンに火を入れた手も、ベッドから床についた足も震えていた。なんとか急いで部屋を出て、廊下を進む。

 両親の部屋のドアを強めに叩いた。「父上、父上!」

 すこししてドアが開いた。メイナードは不安と緊張とで涙目になった。「ルークが!」

 フレディはルークの部屋に入ると「は?」と尋ねた。

 「」とルークは答えた。「痛いんです」

 「じゃない。どれくらいの間を空けて痛むんだ?」

 「だいぶ空いてると思う……なんか痛い気がして、ずいぶん経ってからさっき痛かったんです」

 「そうか。次第に間隔が短くなって痛みも強くなるが、落ち着いて臨むんだよ」

 「どれくらい痛いんです?」

 「とても痛い」

 ルークは穏やかな眠りが恋しくなった。「ああ、おれに耐えられるのか!……」

 「大丈夫、この私でさえ耐えたんだ。きみにできないはずがない」

 メイナードは目を閉じて、宙に手で神の紋を描いた。

 「メイナード……」

 「ああ、ルーク」メイナードはルークのそばへ駆け寄った。両手で握ったルークの手にはうっすらと汗が滲んでいた。「私はここにいるよ」

 「メイナード、メイナード……愛してる……愛してるよ」

 「ああ、愛している。私も愛しているよ」

 「ああメイナード……おれは耐えられないかもしれない……ちゃんと知っておいてくれ、おれはおまえを愛してる……」

 「だめだ、そんなことをいってはいけない。きみはきっとこれをのり越える。元気な赤ん坊に会うんだ。私と一緒に会うんだ。名前を考えて、言葉を教えて、本を読んで育てるんだ」

 「ああ、だって痛いんだ。今は落ち着いてるけど、これからもっと強くなるって……耐えられる気がしない……」

 「大丈夫、大丈夫だルーク!……きみは大丈夫だ!……」メイナードは祈る気持ちでルークの手を握って訴えた。彼をこんなにも苦しめるなら、彼が『蝶』で自分が『花』であったならよかった。メイナードはルークの手にくちづけした。

 メイナードが励ますそばで、フレディはルークの下に清潔なタオルを敷いた。

 すっかり陽がのぼり、数少ないも着いて、ルークの方もせっかく落ち着いた痛みがすぐに戻ってくるようになってからは、時の流れが止まったようだった。

 「ね、助産夫さん、まだ?……」

 「もうすこしです」

 「ああメイナード……わかるか、どうしようもなくさ、腹の調子が、……腹の調子が悪くてさ、出せば楽になるのに、出しちゃだめっていわれてるようなもんだ」

 フレディはルークのたとえに笑ったが、メイナードは必死に頷いて夫の手にくちづけした。

 「ああ助産夫さん、ねえ、もう無理だって! 気が狂いそうだ!」

 助産夫はルークの状態を確認して「ええ、いいですよ」と声をかけた。

 最後の一時間が長かった。疲れが溜まった体に力を入れるルークが「もう無理」と弱々しくつぶやくたび、メイナードは必死で励ました。

 「もうすこしですよ」

 助産夫の声にルークもメイナードも救われた心地がした。

 「さあ、がんばってください!」

 もうがんばってる、と弱音か愚痴かを吐く余裕もなく、ルークは励まされるまま力を入れた。


 ルークの子が、メイナードの子が大きな声で泣いた。

 「元気な男の子です」

 優しい声で告げて、助産夫は用意した湯であたためた布で健康な赤ん坊を拭いた。


 ルークはいよいよ救われた。メイナードが生まれたばかりの自分の子より多くの涙を流して頬にくちびるを押しつけてくる。

 「ああ……おれ、耐えた……耐えたよ、メイナード」

 「ああ、ああ、よくがんばった! よくがんばった、ルーク!……」

 ルークはようやく深く息をついた。達成感と疲労とで不思議な高揚感が湧き、自然と笑った。

 「ああ、メイナード……今まで気にしたことはなかったけど、おまえにきょうだいがいない理由が、よくわかるよ」


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皇太子の愛しい花の婿 白菊 @white-chrysanthemum

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