皇族と農民

 夏の足音が聞こえてきて、ずいぶんとあたたかくなってきた。

 ルークはメイナードと、服も着ずに目を覚ました。「おはよう」とささやく彼に「おはよう」と応じる。メイナードがくちづけしようとしたから、ルークはからかってやろうと思って避けた。もう何度もやっているちょっとした遊びに、メイナードも笑った。ルークは自分から近づいて、くちびるをふれ合わせることなくまた離れた。次に近づいたときにやっとかすめて、けれどまた逃げた。もう一度、もう一度ともったいぶっているうちに、結局メイナードに捕まった。何度も何度も短いくちづけを浴びせられる。ルークは思わず子どものような笑い声をあげた。

 メイナードは改めてルークにじっくりとくちづけして、体をなでた。「ばか、だめだって」なんていうかわいらしい制止を無視すると、ルークは「ああ、ちょっと!」といいながら笑い声を弾ませた。


 朝食が運ばれてきたときだった。ふっと吐き気がした。口を押さえて広間を出るとメイナードがあとを追ってきた。

 浴室にある桶を抱えて顔を突っこんだ。

 「ルーク!」後ろから声がしたと思えば、優しい手が背中をさすってくれた。

 「メイナード……いいから」

 「よくない。気分がすぐれないのでしょう」

 「大丈夫だって」腹の奥がびくびくと震える感覚がして、ルークは桶に向き直った。苦いような酸っぱいような液体が舌を伝って落ちた。

 「ルーク……」

 ルークは何度反射が起きても治らない吐き気に「ああ」とつぶやいた。「親父さんも、おまえに会う前にはこんなだったのかな」

 メイナードは心臓が震えるような感じがした。大切に大切に、そっとルークを抱きしめた。「ああ、ルーク!……」

 「まだわからないけどさ」ルークはうまく笑えないまま襲ってきた反射に身を任せた。

 メイナードはルークを解放してその背をさすった。「ああ、とにかく、しばらく休んだ方がいい」

 「ああ、そうするよ」

 「食事を持っていこう」

 ルークは口のなかに溜まった不快感を吐き出した。「食えるかね」

 「様子を見て食べればいい」

 ルークはメイナードに支えられながらふらふらと立ちあがった。「どうしよう、これ」

 メイナードはルークの手から桶をとった。「構うことはない、私がやる」

 「悪い」

 「いいんだ、部屋に戻ろう」

 ルークは桶をおいたメイナードにそっと抱きあげられた。彼が普段、アダルベルトを部屋へ連れていくときとおなじ形だった。ルークはメイナードの服にしがみついた。

 「大丈夫、安心して」

 「そうじゃなくて……」恥ずかしくて気が狂いそうだった。

 メイナードはゆっくりと浴室を出て、階段をのぼった。

 ルークはメイナードの腕によってベッドに体を横たえると、離れていく彼の腕を摑んだ。

 「うん、なんだい、ルーク?」

 ルークは顔を真っ赤にした。メイナードは彼の首や頬や額にさわって温度をたしかめた。

 「そうじゃなくて、その……匂い、感じてたい……」

 「匂い?」

 「おまえの……」

 今度はメイナードが顔を赤くする番だった。メイナードはいそいそとガウンを脱いだ。「ああ、これを持っているといい」

 ルークはメイナードのガウンを受けとると、彼の体温の残るそれに顔をうずめた。うっとりする素晴らしい匂いが鼻と肺とを満たした。この上ない心地よさに満たされて、またすとんと眠れそうだった。

 メイナードは一つルークの頭をなでて、かわいらしい額にくちびるをあてた。「ゆっくり休んで」

 食事を運んできてからというもの、メイナードはずっとルークのそばにいた。吐き気があれば背をさすり、落ち着いているときにはただ静かにそばにいた。

 メイナードはルークの背をさすりながら、彼の体に反射が起きるのが減ったのを見て、「すこしは落ち着いたかい」と声をかけた。

 ルークは口のなかにあふれて不快感を煽る唾を吐き出した。「大丈夫……かな」

 メイナードは「楽にして」とルークの頭をなでると、汚れた桶を持ってベッドを離れた。ルークはたまらず彼を呼び止めた。メイナードは「どうした?」といって振り返った。ルークは罪悪感で切なくなった。「ごめん、そんな汚いもの……」

 メイナードは夫の繊細さが愛おしくなった。「汚くない。まったくね」大丈夫だと伝えて、彼がその存在に気分を悪くしないよう、桶を洗いに向かった。

 きれいにした桶を持って戻ってきたメイナードにくっついて、アダルベルトまで部屋にきた。

 「るぅく。だいじょーむ」

 ルークは腕を広げて、アダルベルトの細い体を抱きしめた。「ああ、大丈夫だ。ありがとう、アダ」

 アダルベルトは鼻にかかった声で笑った。「ありがと、ありがと」

 「うん、ありがとう。おれはアダが気にかけてくれて嬉しいよ」ルークはアダルベルトの体を離して彼の顔を見た。「どうしようか、ご本を読んであげようか」

 アダルベルトは目を輝かせた。「ごほん、よんであげよう」

 「うん、読んであげよう。好きなご本を持っておいで」

 アダルベルトはルークにぎゅうと抱きつくと、すぐに離れて嬉しそうに部屋を出ていった。

 メイナードはアダルベルトを見送ると、ルークを見た。「大丈夫なのかい」

 ルークは笑って頷いた。「本を読んでやることくらいできるさ」

 やがてアダルベルトが本を持って戻ってきて、ルークはメイナードと一緒にゆっくりと読みはじめた。


 医者を呼んだところ、ルークのなかにメイナードとの尊い子が息吹いたのだということだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る