4・洪水
白ユリ姫の結婚が決まった。
ずっと年上の貴族の、三人目の妻として嫁ぐのだ。
婚礼は一月後と決まった。同盟の証だから、急がねばならない。
ボヘミアの地ではもう十年近くも宗教戦争が続いていて、最初はカトリック勢力との戦いだったのが、最近では分裂したフス派内部の戦いになっていた。
同じチェコ人同士での殺し合いが激しくなっているのだ。
戦機に便乗して領土を奪われることを、父親は恐れていた。
「かわいそうなお姉様。あの貴族は妻をいたぶることで有名なのよ」
腹違いの妹が、口に手を当ててひっそりと笑った。
「前の妻は二人とも、寝台の上で死んだそうよ」
――だからって、どうにもならないわ。
窓から森を眺め、月色の髪を梳りながら、姫は思った。
――お母様の白ユリのブローチを、婚礼の衣装につけたかった。
ヴォドニークの沼は今、どんな色をしているだろう。
*
婚礼の準備も半ばのところで、小競り合いが起きた。
領内の小村が放浪の傭兵団に焼かれたらしい。放置もできず、父親は騎士団を率いて討伐に出かけた。
一時間も経たないうちに、それが敵の罠だとわかった。
討伐隊が出かけたのとは反対側の森から、斥候がもたらした情報よりもっと大きな軍勢が、雄叫びを上げて城に襲い掛かってきたのだ。
残された少数の騎士たちと使用人、女たちでは、為す術がなかった。
城門が破られ、庭のあちこちに火の手が上がった。なだれ込んできた敵兵たちは、
男たちは目鼻を削がれて串刺しにされ、子供は火の中に放り込まれた。
女たちは衣服を剥がれ、散々嬲られた挙句に腹を裂かれた。
白ユリ姫は月色の髪を掴まれ、床に引き倒された。
歌え! 無精髭に囲まれた乱食いの歯が目の前で怒鳴る。
歌えお姫様! 小鳥のように! 下卑た笑い声が周囲でいくつも重なった。
ああ。
白ユリ姫はほんの僅かに口を開いた。
なぜ首の骨を折らないの。小鳥のように。
森の奥にひっそりと隠された、深い沼の色が、今は恋しい。
あの人は、魔物だけれど、無理強いをしなかった。
ただ私が望むのを、傍でじっと待っていた。
――ヴォドニーク、ヴォドニーク
白ユリ姫は歌った。絶える前のあえかな息で。
――小箱に何を隠しているの
まだ空っぽのまま、待っているだろうか。
――ヴォドニーク、ヴォドニーク
――私を小箱に隠しておくれ
見開かれたままの目の縁から、水晶色の雫が零れた。
地響きがした。
巨獣の唸りや雷鳴に似た轟音が、どこからともなく迫り来た。
狂乱の渦が鳴りを潜め、敵兵たちが怪訝に辺りを見回す。
突如、石壁が崩壊して、城内に水が噴き出した。
人も建物も死体も、抗う術のない水圧に、全てが押し流された。
煌めく銀の泡粒が次々と、サファイアの天蓋めいた水面に飛んでいく。
ヴォドニークが迎えに来てくれたのだと、白ユリ姫にはわかった。
薄青い光が揺らめく、水底の館。
水晶の花のような、寂しい魔物の棲み処。
「やっと本当に望んでくれたね」
白ユリ姫を抱きしめ、髪を優しく撫でながら、ヴォドニークが囁いた。
――でも、もう、綺麗じゃないわ。
姫の唇から、吐息のような泡粒が漏れる。
「何を言うの」
ヴォドニークは沼色の目で、姫の顔を覗き込んだ。
手の中に白ユリのブローチを握らせ、そっと胸元へ当てがう。
「白ユリより綺麗だ」
唇を塞ぎ、ヴォドニークは、姫の最後の呼吸を奪い取った。
光り輝く姫の魂が体から抜け出る。
ヴォドニークの手がすぐにそれを捕らえ、木彫りの精緻な花々で飾られた美しい小箱の中に、大切にしまい込んだ。
ヴォドニークは小箱を腕に抱き、身体を丸めて目を閉じた。
力を使い果たした彼の沼も、消えようとしていた。
◆
ヴォドニーク
ヴォドニーク
小箱に何を隠しているの……
「お母さん。そのお歌、なあに?」
手を繋いで歩く娘に聞かれて、わたしは自分が歌っていると気付く。
ああ……と答えかけ、束の間、あの森のことを思い出した。
白ユリ姫の話をしてくれた、あの後。
おばあちゃんは、立つことができなかった。
ヴォドニークの沼をわたしに預けて、お行き、と言った。
あれから村にも、あの森にも、一度も帰っていない。
土埃で煙る荒涼とした大地を、馬の
二百年前、白ユリ姫の時代に起きたような宗教戦争が、今もまた起きている。
もう三十年近くも続いていて、ボヘミアの大地は
わたしは父親のわからない子を産んだ。
月色の髪をした娘だった。
白ユリ姫やわたしや、他の全ての女たちを襲ったような出来事が、この子の身にも起こるだろう。
わたしは恐ろしいことが起こると、白ユリ姫のお話を思い浮かべた。
白ユリ姫が歌った歌を、胸の中で口ずさんだ。
ヴォドニーク
ヴォドニーク
私を小箱に隠しておくれ……
歩みが止まった。前方で兵団が野営を決めたのか、戦闘が始まったのか。
長い長い疲れ果てた列の後方にいるわたしたちには、様子がわからない。
こんな時代には誰もが、なるようにしかならないのだ。
皆が思い思いに腰を下ろし、抜け目なく盗品を広げて商売を始める者もいた。子供たちは裸のまま辺りを駆け回り、犬と馬具の切れ端を奪い合う。この子たちは戦争しか知らずに生まれて死んでいく。
わたしは娘と並んで、大きな荷車の陰に腰を下ろした。
食べ物はない。飲み物もない。痛む足は鉛のよう。
ヴォドニークの沼の小瓶も、とっくにどこかで失くしてしまった。
娘は血の出た裸足の裏を眺めている。
「白ユリ姫とヴォドニークのお話を、してあげようね」
「
「そうだよ。昔、お母さんが住んでいた村の近くに、領主の貴族様のお城があってね。そこに、月色の髪のお姫様が住んでいたんだよ……」
いつか恐ろしいことが起きた時、この物語が、娘の心を守ってくれたらいい。
白ユリより綺麗だと、誰かの囁く声が。
救いを求める歌が、魂に寄り添ってくれますように。
娘がわたしの肩に額を寄せ、目をつむった。
わたしは祈るような声で、語り始めた。
<了>
ヴォドニークの小箱 鐘古こよみ @kanekoyomi
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