七夕、かつての願いを
外套ぜろ
七夕、かつての願いを
——お母さん!
——んー?
それは、色褪せた記憶。
どこまでも、まどろみの中で。
幼い少女が、台所の母親にすがる。
——わたし、将来はパティシエになりたい!
夢を語った少女に、母親は優しく微笑みかけた。
——なれるよ、あんたなら。
——うん!
少女は、ひまわりが咲くような満面の笑みを浮かべて——。
『——次は、藤沢本町。藤沢本町です』
雑音まじりの音声に、私の意識は現世へと呼び戻された。たぶん、体が跳ねていたのだと思う。周りから集まった視線に、体を縮こまらせる。
電車の中で、線路の継ぎ目から起こる振動が睡魔を刺激して、うっかり夢の世界に旅立っていたようだ。一昨日テレビで、「電車の振動は母親の胎内の振動に似ている」と言っていたのを思い出す。なるほど、眠くなるわけだ。
そんなことを考えているうち、眠っていた頭も回ってきた。電車がゆっくりと減速を始める。
休日だというのにトラブルだとかで呼び出されて、散々な一日だった。おまけに残業で、外はもうすっかり暗くなっている。だいぶ日が長くなってきた季節だというのに、だ。
思わず深いため息をついて、私は眉間を揉んだ。
『藤沢本町、藤沢本町』
どうして、電車のアナウンスはみんな同じ声に聞こえるのだろうか。疑問を置き去りにして、扉が開く。
……はて、私の降りる駅はどこだったか。確か、藤沢本町だったはずだ。そこで、ちょっと先程のアナウンスを思い出す。
「あ」
隣に座る人にぎりぎり聞こえるか聞こえないかという大きさで、口の隙間からかすれた声が漏れた。
しかし、その配慮も無駄だった。私は勢いよく立ち上がり、ドアを見とめるとそちらへ足を踏み出した。
そんな私の眼前で、ドアはゆっくりと閉じた。
「ああ……」
へたり込みたい気分だが、こんなところでそんなことをしようものなら周囲から奇異の目で見られること間違いなしである。
そうでなくても、さっきの大げさな目覚めでだいぶ注目を浴びてしまったのだ。これ以上見られたら、灰になって消えてしまうかもしれない。
まあ、どうせ次の藤沢駅からも帰れないわけではない。ちょっと遠くなるが、許容範囲だろう。タクシーでも使えば、一瞬だ。
私は、再び深い深いため息をついて、逃げるように隣の車両に向かった。
「なんてこった」
冷房の効いた車内から放出され、生暖かい湿った空気に体を包まれた。そんな日本の夏の夜特有の暑苦しさに苛まれつつ向かったタクシー乗り場は、すさまじい行列だった。何を、そんなに疲れているのだ日本人よ。もっと自らの足を信じよう。もっとも、私が言えたことではないのだが。
これは困った。だが、この疲れた体で長距離を歩けば、途中で死んでしまうかもしれない。かといって、待つのもそれはそれで辛い。
私はしばらく考えて、回れ右をした。進行方向を駅前のビルに向けて、足を引きずるようにして歩き始める。
あそこなら、しばらく座る場所くらいはあるだろう。
ついでに、何か甘いものを買っていってもいいかもしれない。
「笹だ」
私は、目の前の緑色の植物を見上げて、小さくぽつりとつぶやいた。
笹。上野動物園でおなじみ、皆の白黒アイドルパンダさんの主食。そんなものが、なぜこのビルの入り口に飾られているのか。
首を傾げたところで、私はある一つの可能性に思い至った。ポケットからスマホを取り出し、側面のボタンを押し込む。
そうか、今日は七月七日である。素で忘れていたが、この国におけるこの日は「七夕」。笹に願いを括り付ける風習があった。
見ればなるほど、この笹にも何枚も短冊が飾られている。色とりどりで、まるで花のようだ。
人の願いを覗き見るのもどうかと思ったが、この疲れ切った肉体は理性が少しばかり弱まっていたらしい。手近なところにあった一枚に、そっと手を伸ばした。
「……めからびーむがでますように」
思わず、笑いが零れた。拙い字で書かれたそれは、おそらく小さな男の子のものだろう。ヒーローにでも憧れたのだろうか。ビーム、かっこいいよね。緩んだ表情筋を慌てて引き締めた。これでは完全な不審者だ。
しかし、一つ見てしまえば、あとはもう流れに沿うばかりだ。また、別の一枚をめくってみる。
「ゆーくんとずっと一緒にいられますように……はーと……」
いけない。不意打ちでものすごいダメージを食らった。きゅるきゅるとした丸っこい文字が躍るピンクの短冊を、心を無にして元に戻す。どうぞお幸せに爆発していただきたい。
もはや男性との縁などほとんどない我が身。そりゃあ、こんなくたびれた女になど興味を抱かれるはずもないだろう。
どろどろとした感情を抑え込んで、咳ばらいを一つ。気を取り直して、また一枚。
「っ!」
そこに記された願いを見て、私は声にならない悲鳴を上げた。
——パティシエになれますように。
鮮烈に、胸を抉る感情。懐かしさとも、憧れともつかないそれは、言うなれば眩しさだったのだろうか。
それくらい、その願い事は私を妙に強く揺さぶった。
それはきっと、どうしようもなく、それに見覚えがあったから……。
「ただいまー」
アパートの一室。住処に向かって、一方通行の帰宅の挨拶。
結局、少し休憩してから、歩いて帰ってきた。それなりに距離があるものだ。
「疲れたぁ」
パンプスを脱ぎ捨てて、そのままの足でベッドにダイブしたい衝動を抑え、まずは手洗いうがい。スーツをハンガーにかけ、シャツを洗濯かごに入れる。ラフなTシャツに着替えてから、満を持してベッドダイブ。
「はあ~」
ここまで来ると、ベッドが究極の癒しである。もう、こいつと結婚したい。ベッドの中だけが優しい世界で、あとは全部ゴミだ。そうに違いない。
一人でもぞもぞとベッドを堪能した後、私はおもむろに体を仰向けにした。
頭の中では、あのビルで見た願い事がいまだぐるぐると回っていた。なんだろうか、これは。
「……」
自然と、スマホに手が伸びる。何回か操作をして、寝ころんだまま耳に当てた。
発信音が三回なった頃、つながる音がする。
「……もしもしお母さん?」
『どうしたのよ、こんな時間に』
「ごめんごめん。ちょっと聞きたいことがあってさ」
なんだか、どっと安心した。母は偉大だ。古来そう言われてきたのが、なんだかわかった気がした。
同時に、落ち着いた頭は話すべきことを自然と一つにまとめていく。
「なんか、さ」
『んー?』
「私、小さいころパティシエになりたいって言ってたよね」
『あー、言ってた言ってた。ほんとにあんたは甘いものが大好きでね。もう私がこれを作るーって、何回も聞かされたんだから』
懐かしそうに語る母親の声に、つられて笑いが漏れる。
「今も甘いものは好きだよ」
『まあそうね。それがどうかしたの?』
「……いや、ちょっと気になっただけ」
『そう? まあいいけど。あんた、大丈夫? なんか声が疲れてるわよ』
「え、そんなことないよ」
『もう、そのくらいわかるんだから。無理しちゃだめよ』
「……うん」
私は、なんだか気恥ずかしくなってぶっきらぼうに返事した。
昔から、母には隠し事ができなかった。初めてできた好きな人も、一週間もすると当たり前のような顔をして「彼とはどうなの?」とか聞いてくる。そういう人だった。
『じゃ、たまにはこうやって電話かけなさいよ』
「わかったよ」
『それじゃあね』
「うん……あ、待って」
なんとなく、引き止めた。考えるより先だった。そして、その理由はすぐに胸の中に湧いてくる。
「私、お菓子大好きだよね」
『何よ。さっき自分で言ったんでしょ』
「あはは、そうだった」
しっかりしてよ、とあきれたように言う母と一緒に、しばらく笑った。そんなにおかしくないはずなのに、心の底から笑った。
そうだ、その通りだ。どうして、忘れていたのだろう。
「それじゃ、ありがとうね」
『はーい』
最後にお礼を言ってから、私は通話終了ボタンを押した。
「さて」
勢いよく太ももを叩いて、振り子のように身を起こす。
「——お菓子作りの本、どこにあったかな」
七夕、かつての願いを 外套ぜろ @gaitou-zero
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