エウロパの人鳥匠:ディレクターズ・カット

八州 左右基

ディレクターズ・カット版

 これほどの贅沢を知らない。

 節をくりいた竹筒のさきから、とうとうと湯があふれている。とどまることを知らず、体温よりもいくぶん熱い湯がバレル単位でそそがれつづける。

 さらに信じられないことがある。

 ぼくは全裸になり、その湯船に浸かろうとしているのだ。

 小惑星帯の開拓団出身である宇宙人民コスモポリタンには、まずもっておもいつかない水の使いみちである。

 あれほど貴重なものを、ただ身体を浸けるためだけに、こんなにもなみなみと注いでいる。コップ一杯の水をこぼしただけで、おとなたちからどれほどの叱責と説教を受けたか――みなさんも覚えがあるはずだ。

 いざ湯船に足をいれる際、良心のしやくと闘うはめになった。怒り顔の曾祖母が脳裏に浮かんでしかたない。彼女はお説教をはじめるまえ、しわくちゃの手の甲をするどく打ち鳴らした。ぼくはその音にいつも首をすくめる。

 大浴場に反響するのは、カポーンという鹿威しシシオドシみやびな音だけだ。

 曾祖母の幻影を振りはらい、全身を湯に投じる。

 じつにここかった。

 冷えきった身体がまたたく間にあたたまっていく。湯はかすかにしよっぱく、ゆえにとろりと肌に馴染んだ。生命は水から生じたのだと実感できることけあいだ。

 ぼくが「あ゛あ゛~」と太い息を漏らせば、おなじ湯船に浸かったペンギンたちもいっせいに「ア゛ア゛~」と唱和した。

 

 エウロパが銀河一のリゾート星と呼ばれるようになってから、二世紀が経つ。

 木星をまわる氷殻衛星のひとつだったのははるか昔。あらゆる娯楽がよりどりみどり。遊び尽くそうとすれば三世代かかると噂されるほどだ。

 とくに軌道エレベータ周辺の五大リゾートは、生涯にいちどは訪れたい場所として、この内太陽系旅行情報網『ユリシーズ』でも常に上位に挙げられている。

 ほかにもひとつなぎの大秘宝で有名な海賊島、海中移動水族館、ポセイドン・シーの竜宮城など、さまざまな娯楽施設が存在し、空路と航路で緊密に結ばれている。豪華客船で数箇月をかけてゆったりと巡る船旅もにんきのひとつだ。

 今回の旅行先――絶海にぽつんと浮かぶ温泉島は、すこしばかり特殊な方法で向かうことになる。

 円形状に並ぶ席には、ぼく以外には三組のパートナー連れが乗っているだけだった。旅行者の気軽さから、ぼくたちは簡単な自己紹介と挨拶を交わす。火星出身の老学者夫妻と意気投合した。

 ふたりともおなじ名前をしていた。マリオン教授とマリオン博士。長年連れ添うと雰囲気も似てくると聞くが、ふたりは容姿もそっくりだった。

 文化人類学者のマリオン教授に旅の目的を訊ねる。

「古い映画のファンでね。とくにサムライのチャンバラ映画が大好きなんだ」

日本ジパングの時代劇ですね。黒澤クロサワなら観ました」

「おや、めずらしい」となりでマリオン博士が口笛を鳴らす。「すいきようだね」

「地球文化飽和期の映画論で学位を取りましたから。キューブリックにカーペンター、スピルバーグ、キャメロン、スコット、とみ、ノーラン、コスタンスキ」

「いまでも語り継がれる巨匠たちだね」マリオン教授が身を乗り出す。「『椿三十郎Sanjuro』はわかるかい」

「もちろん。せつで勝負が決する斬り合いはファンタスティックでした」

「長いにらみ合いからの神速の抜刀。蒸気みたいに血が噴きだしてね。三十郎サンジユーローを演じた三船ミフネは居合ともちがう独特な技をつかっている。腰帯こしおびに差した日本刀を利き手ではなく、左手の逆手さかてで抜き、間合いを詰めると同時に右手を刀身に沿わせて、いきおいをそのまま切っ先を突き立てる。三十人斬りも見応え充分だった」教授はちらりと博士をうかがう。「じつはなれそめの映画なんだ。デートに誘ったんだよ」

椿つばきが出てくると聞いた。桜と並んで、日本文化に欠かせない植物だ。しかし、むさ苦しい連中しか出てこない。屋敷のシーンでやっと椿がお目見えするが、どうにも嘘くさい。葉がちがうんだ。花の色も変だ。散々だった。映画はおもしろかったよ」

 ぶっきらぼうにマリオン博士は語る。植物学者だという。

 水資源が潤沢にあるエウロパは植物栽培も盛んだ。岩石惑星のあなぐらで培養される藻とはちがう。海上に大規模な栽培プラントが浮かび、なによりも宇宙生活では贅沢品である花があちこちにけられている。

「旅の目的か」博士はいたずらっぽく瞳をまわして見せた。「花が咲いたと連絡があったんだ」

 向かうさきに植物園があっただろうか。

 重ねて質問をしようとしたところで、赤色灯が点き、ブザーが鳴った。

 ポッドが投下準備にはいった。電子立体ホロガイドにうながされるまま、ぼくたちはベルトを締め、席の安全バーをおろす。赤色灯が消えると、床や壁がスクリーンとなり外部カメラがとらえた光景を映しだした。

 まるで宇宙空間に投げ出されたかのようだ。

 足許にあおい星が見えた。

 あの青色がすべて水だと思うと胸が高鳴った。

「よい旅を」ガイドが無機質に告げる。「投下」

 ぼくたちを乗せたポッドは軌道航行機から射出され、自由落下をはじめる。

 もともとは貨物運搬用ポッドである。座る席の下部にはたっぷりの物資が積みこまれている。重要なのはむしろ積み荷のほうであり、乗客はついでなのだ。

 十五分ほどの宇宙遊泳はたのしかった。

 粉砂糖のようだった雲が立体感を増してくる。

 ポッドが震えるようにゆれた。カーマン・ラインを超えたようだ。投写された映像が真っ赤になる。大気の摩擦熱でポッドは燃えていた。

 老学者夫妻が手をつなぐのが見えた。ぼくは安全バーをつよくつかんだ。

 ガクン、と上に引っ張られるような衝撃があった。パラシュートが開いたのだ。

 雲を破り、青い青い水面がゆっくりと迫ってくる。ポッド自体の影が映った。

 着水。同時に熱された機体から蒸気があがる。

 いっきに浮きが膨らむ音がした。しばらくして、そのゆれも収まる。

 だれともなく歓声があがった。

 あとは信号を拾った回収船がやってくるのを待つだけだ。

 外部カメラは海のなかを映している。多くの生命体が泳いでいた。資料映像でしか見たことがないものがほとんど。高感度の外部カメラは光が届かない深海まで映しだした。

 ぼくは安全バーをあげて立ちあがる。ほかの乗客もつづいた。

 小魚の群れが渦を巻く。クラゲがふわふわと発光した。深海を泳ぐ、あの細長いやつはなんだろう。すぐそばを巨大な魚影がよぎり、亀たちがパレードのようにつづいた。ゼウスガーデンのさめ入りプールでもこれほどの興奮は得られない。

 充分におつりがくる光景だった。

 しかし、ぼくはこの目で海が見たかった。

「ハッチを開けてもよろしいか?」ほかの乗客に訊ねる。

なぎだったからだいじょうぶだろう」マリオン博士が代表して答えた。

 ぼくは壁に備えつけられた梯子をのぼり、ハッチの開閉用ハンドルをまわす。

 濃密な大気がポッド内にはいってくる。せるような、しおのにおい。

 ほかに例えようがないにおいだ。生命そのものの香りとでもいうか。

 ハッチから身を乗り出す。カメラ越しではない海はギラギラと光っていた。水平線に船影がぽつりぽつりと浮かんでいる以外、大海原がひろがっている。彼方かなたに木星のうごめく縞模様が浮かんでいた。

 いまいちど、ふかく呼吸をした。「――すごい」

「なにかいる」下からマリオン教授の声がした。

 ハッチの縁に足をかけ、ぐるりと見まわす。しなびたパラシュートが波にゆれている以外はちかくになにもない。ずいぶん遠くにいかだのようなものが浮かんでいた。だれかが乗っている。人影と――もっと小型の影が複数。

「ええ、だれかいますね。なにをやってるんだろう」

「ちがう。だ。下からあがってくる!」

 ぼくはポッドを覗く。外部カメラが映す海中の光景に視線を向ける。

 あれだけいた魚影が消えていた。

 たしかに、なにかがあがってくる。

 まるで岩山そのものだ。急激に浮上してくる。岩山から赤いなにかが放たれた。 つぎの瞬間、ぼくは海に投げ出されていた。

 救命具を膨らませるかんがえは浮かばなかった。海水は塩っぱい。曾祖母のつくるスープよりもはるかに塩っぱく、後味もひどかった。

 もちろん泳げるわけはない。

 宇宙人民にとって海への憧れはとてもつよい。そして、それ以上に怖れている。

 知識としてはあっても、身体が水に浮かぶなんて本能が拒否する。

 無重力ではないのだから。

 あれはなんだったんだろう。ポッドを攻撃してきた。生物――なのだろうか。

 まだちかくにいるはずだ。

 もがいた。これもまちがいだと頭ではわかっている。

 より沈む。苦しい。肺が痛い。

 海面から射しこむ光がきれいだ。

 酸素がほしい。

 力はのこっていない。もう指先も動かせない。

 服をひっぱられた。さっきの岩山じみた生物だろうか。

 食われるのかもしれない。ああ――せめて意識が消えてから噛みついてくれ。

 ぼくは目をつむる。

 ……おかしい。

 射しこむ光が動いている。まぶたを閉じていてもわかるほどのいきおいだ。

 驚くべきスピードで、海面がちかづいてくる。ぼくは浮上していた。

 腕が伸びてきて、ぼくをつかむ。ひきげられた。

「生きてる?」

 人影がのしかかってくる。まばたきをするまえに平手打ちを食らった。

 ショックで飲みこんだ海水を吐き出す。荒療治もいいところだ。ごろりと横向きに寝かされた。水を吐き、酸素を吸うためにあえぐ。

 毛布を掛けられた。ほんのすこし海中にいただけなのに、ずいぶんと身体が冷えていた。

「エウロパの海水は地球にくらべてずっとつめたいんだ。覚えておいたほうがいいよ、旅行者さん」

 筏の上だった。あれほど遠くの場所に見えたのに、ほんの数秒でここまで移動したことになる。

 人影は旧式の電脳ゴーグルで海中をいた。「ちッ。逃げられたか」

「あ、あの――」ポッドはどうなったのだろうか。視界は涙で霞んでいる。

「お礼はあのこたちに」そう言って人影は「あ゛ッ」と叫んだ。

 ちいさな影がつぎつぎと海中から筏に跳びあがってくる。

 白黒の模様は、これまた資料映像でしか見たことがないものだ。ペンギンである。かつて地球の南極大陸周辺に存在した、泳ぐ鳥類。

 頭部にある赤い飾り羽が特徴的だった。

 ペンギンたちも「ア゛ッ」とかえした。

 寒さに震えながら、ペンギンたちに「ありがとう」とお礼をする。

「素直だね」人影は笑った。ペンギンたちも「グゲゲゲ」と口々に鳴く。

 電脳ゴーグルをはずすと、黒髪がなびいた。

 よく陽に焼けた、裸の少女がペンギンたちに小魚をふるまう。

 背からふとももにかけて、みごとな刺青が彫ってあった。巻き毛をたくわえた獣があざやかな花弁にまみれている。紅い花だ。「――椿?」

「ちがうちがう。この花は、牡丹。あたしの名前の由来」

 高倉ぼたんタカクラ・ボタンは刺青を見せつけて、豪快に笑う。

 

 石村温泉郷イシムラ・スパリゾートはそもそも資源採取船であった。

 テラフォーミング完了後のエウロパは一面水没しており、地下資源を採掘するのはむずかしい。ほかの星から物資を輸送するのは高くつく。軌道エレベータを建造するにも膨大な資源が必要だ。そこで着目したのが海底の熱水噴出孔だった。

 エウロパの海底はスポンジ状に孔が空いている。孔からは黒い熱水がゆらゆらとたちのぼる。さまざまな金属が溶けた熱水だ。それを吸いあげ、をして、鉱物資源を取りだす。

 リゾート地となるまえのエウロパは、ほうぼうに資源採取船が浮かんでいた。

 やがて軌道エレベータも完成。イオやガニメデが開発され、宇宙航路が確立されるにともない、資源採取船は役割を終える。リゾート化が進むにつれて技術労働者は離れていき、船も廃棄・解体される運命を待つだけだった。

 鉱物を濾過した熱水をそのまま温泉として利用すべしとかんがえたのは、当時の船長カルロス・ド・石村である。日本にルーツを持つ彼は宇宙人民にはめずらしく風呂好きだった。のこされていた資料をもとに温泉郷をつくりあげた。

 節をくり貫いた竹がパイプとして島中に張りめぐらされ、古風な和風建築の宿が軒を連ねている。湯煙がたちのぼり、竹林が潮風になびく。複雑に交差する階段を浴衣姿の湯治客が散策している。

 かつて船であったとは想像しがたい。

 竹で組まれた桟橋には多くの漁船が停留していた。魚介類が豊富に捕れるようだ。港は活気にあふれている。

 さきに到着していたぼたんが身振り手振りをまじえ、島民相手にまくしたてている。

 回収船がえいこうするポッドを指差した。ぼくが海へと投げだされたあと、ポッドは多少ゆれたものの、だれも怪我を負わずに済んだ。すこしばかりハッチから海水がはいってきて服を濡らしただけだ。

 ただし、ポッドの下部には奇妙ながついていた。

 圧倒的な力で締めつけられ、大気圏突入にも耐える外装がへこんでいる。

 あの動く岩山がつけた痕にちがいなかった。

 島民たちがざわついていた。どこぞへ駆け出していくものもいる。竹製のトロ箱がたおれ、小魚が散乱した。集まってきたペンギンたちが大胆に盗み食いをはじめた。

 そこかしこで野良ペンギンたちが鳴き声をあげていた。

 エウロパでもっとも繁栄した種はペンギンである。

 文字どおり、のだ。廃棄された船や施設をねぐらにして、かれらは大繁栄を遂げた。空を飛ぶ鳥よりも遙かに多くのペンギンたちが海を泳いでいる。ある研究によれば、大航海時代以前の頭数を超えているそうだ。

 地球産の種とはちがい、エウロパペンギンと分類される。赤い飾り羽がトレードマーク。

 ペンギンたちは浴場にも勝手にはいってくる。人間同様に湯を堪能した。太い息に唱和したペンギンたちは、ぼくが湯船からあがっても尚、ゆったりと浸かっていた。

 ぼくは浴衣に着替え、ほかの湯治客とおなじように島内をめぐる。

 身体はすっかりあたたまっていた。竹皮を編んだぞうは軽くて歩きやすかった。

 エウロパの一日は長い。およそ八十五時間をかけて自転する。せっかくのリゾートだ。ゆったり過ごそうとかんがえていた。

 島内のどこにでも竹林がある。

 風がとおると竹の葉が囁くような音をたてる。竹で組まれた階段も風流だ。

 あちこちに野良ペンギンたちが巣穴をつくっている。かれらは見た目よりもずっと喧嘩っ早く、うるさい。始終鳴いている。恋の季節であることを差し引いても、耳ざわりなほどだ。

 ペンギンは歌唄いである。個体識別が困難だった時代には、いちどツガイとなれば一生を添い遂げるとかんがえられていた。じつのところ、シーズンごとに相手は入れ替わる。モテる雄は鳴き声がうつくしいそうだ。

 竹林のあちこちで雌に向かって美声を披露している。

「ガガガーアーアー! ガガガガー!」できれば耳を塞ぎたい。

 辻には筆と墨、短冊が用意されており、いつでも一句むことができる。江戸の古き慣習である。詠んだ句は竹に吊され、天の川銀河に御座おわすという女神に捧げられる。

 ぼくも一句ひねろうと頭をしぼってみた。

「ガガガー!」「グギャッ! グゲー!」「ギョアーギョアー!」

 ペンギンの鳴き声ばかりが反響して、なにも浮かばない。

「グギャー!」「ギョッギョッギョッ!」「ゴガガガガー!」

「があ゛ッ!」鳴いてみた。

 ペンギンたちは一斉に静まりかえる。

 いっそうはげしく鳴きはじめた。

「へたくそ」

 階段をあがってきたぼたんがケタケタと笑った。

 さすがに裸ではない。白い着物にばかま巫女みこ服に着替えている。髪もうしろで結わえられていた。トロ箱からはみ出すほどにおおきな魚を一尾抱えている。神への供物である。

 恥ずかしいところを見られた。

「ぐぁッ。ぐーぐー」

 彼女がひと声あげると、ペンギンたちもおなじように応じて、しずかになった。

「鳴き声がわかるのかい?」

「当然。あたしは十二代目人鳥匠ペンギン・ジヨーだからね」胸を張る。

「ペンギン・ジョー……」聞き慣れないことばだ。自動翻訳もエラーを起こす。

 ペンギンにまつわる、なんらかの役職であるようだが。

 ぼたんはこれから神社に向かうという。おみそぎ滝行タキギヨーをするそうだ。

 同行を願い出た。

「俳句は詠まないの?」

「詩神が迷子になっているようだ。降りてこない」

「変な言いかたをするのね。さすがは記者さん。『ユリシーズ』に書いてるンだって?」

「まあ……専門のライターではないけれど」

「よいところがいっぱいあるから、いろいろ見てまわってね」

 ぼたんは階段をすたすたとのぼる。ぼくもつづいた。数羽のペンギンもあとを追ってきた。

 坂の頂上にちかづけば、竹をつかった鳥居のトンネルが現れる。小型の鳥居を抜け、ひときわ立派な赤く塗られた鳥居をくぐれば、神社の境内に出た。

 神を祀る場所はもっとも高いところでなければいけない。

 境内はひろかった。奥まった本殿とへい殿でんはおごそかな雰囲気でしずかにたたずんでいる。ぐるりと囲むように、よく手入れされた竹林がひろがっていた。鎮守の杜である。禊の場となる滝も奥にあるらしい。

 縄を十字に巻いた止石トメイシの向こうには僧房がひっそりと建っている。禅問答ゼン・リドルにこたえられたものだけが足を踏みいれることができる禁域だ。門前には竹槍で武装した屈強な禅僧が見張りをしていた。

 手水舎ちようずやからは水が滔々とあふれている。まったくうらやましいかぎり。

 参道にはずらりと露店がたちならぶ。こちら側には湯治客の姿も多い。

 エウロパの一日は八十五時間あると書いた。しかし人間の身体は地球の自転周期に支配されている。本来の三日と半日に匹敵する時間を、いつものタイムテーブルで過ごすには無理がある。エウロパでは夜明けを起点として、個々人が好きなように寝て起きて仕事をし飯を食う習慣となった。

 いっさいのやましさなく、自由に時間を過ごすことができるからこそ、エウロパはリゾート星として成功したのかもしれない。

 宿でも食事は摂れるが、軽食であれば露店や屋台で充分だ。境内は漁港・商店街をしのぐほどの食事処となっている。

 かぐわしいソースのにおいやあまいかおりに惑わされながら、ぼくたちは参道をしずしずと歩む。さながら巫女に先導された稚児行列チゴギヨーレツのようだ。こころなしかペンギンたちも殊勝な顔つきだった。

 祭神は天鳥船神アメノトリフネノカミ。日本の神話集『古事記コジキ』にも載っている神ではあるが、いかんせん古すぎて由来はわからない。天からくだる船そのものを指しているとも言われる。

 八百万の神が御座すというアニミズム文化の国である。船が島になるぐらいなのだから、船が神になってもおかしくはないだろう。

 電子立体ガイドに沿って、賽銭箱に共通貨幣ドラクマを決済し、紅白の紐を振って鈴を鳴らす。ペンギンともども二礼二拍手一礼をする。ぼたんは本職の巫女も兼任しており、作法にはきびしかった。

 お願いごとはせず、心身清らかに過ごすことを神様に約束するのだという。

 曾祖母の顔がよぎった。約束にきびしいひとだった。他者に対してだけではなく、自分自身への約束をも破ってはならない。いいわけをはじめると、しわくちゃの手の甲を打ち鳴らし、お説教がはじまる。

 なにをつたえたかったか、いまならばわかる。

 自分を律せよということだ。

 神に祈るということは、神をとおして自分自身を律することなのだ。そう得心した。すぐにでも僧房を訪ね、屈強な禅僧たちと禅問答を交わしあえる気分だ。

「宮司さんにしんせんをわたしてくるから。屋台で適当に見繕ってよ、あたしのぶんも。命の恩人なンだし」

 ぼたんが暗におごれと言っている。

「もちろん。命の恩人だからね」

 そうこたえるとペンギンたちが「ギュ、ギュアー」と鳴いた。自分たちもだと抗議しているらしい。途中でついてきたきみたちは、あのとき海にいたペンギンなのかな?

 

 さて、なにを食べようか。

 境内中にぷんと薫る焦げたソースのにおいが凶暴だった。さきほどまでは小腹が空いた程度だったが、胃腸が刺激されて、食欲が頭をもたげてくる。

「わー。めいっぱい買ったね」

 もどってきたぼたんが歓声をあげた。

 竹製の縁台いっぱいに焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、焼きイカ、牡蠣オムレツオアチェン、リンゴ飴にチョコバナナ、カルメ焼き、ひとくちカステラなどが並ぶ。

「買いすぎたのはわかっている」

「そう? こんなものじゃない。んじゃあ遠慮なく、いただきまーす」

 ぼたんはさっそくパクパクと食べる。巫女服にソースがこぼれないか心配になるほど、おおきな口を開けて、つぎつぎと頬ばっていく。

 食いっぷりに見蕩みとれているのもなんだから、たこ焼きをひとついただく。

 皿代わりに竹の皮なのは風情がある。ふねと呼ぶらしい。ぱらぱらとかかった青海苔も目にうつくしい。

 口に運べば、ダイレクトにソースの香り。外はカリッとしていた。噛めば、なかから海鮮の旨味と熱々のとろりとしたがあふれてくる。あまりにも熱い。舌を焼いた。びっくりした。

「はっふ。口のなかで爆発したみたいだ」

「んふふ。『ねぎまの殿様』じゃないンだから。このネギは鉄砲仕掛けであるな」ぼたんがケタケタと笑う。「知らない? 落語の演目のひとつ。を覗きに行ってみなよ。おっかしいのよぅ」

 焼きイカを冷ましては、ちぎってあたえている。ペンギンたちの食欲は旺盛だ。

 こんどは注意をしてたこ焼きを頬ばった。うまい。タコの身は噛みしめるほどに旨味を増す。

 エウロパの海を泳ぐ、ほとんどの生物は地球産だ。

 ただしくは遺伝子改良された地球原産生物である。ほんものをわざわざ連れてくるよりも、遺伝子情報から培養したほうがなにかと便利だ。コストもかからないし、環境にも適応しやすい。エウロパペンギンもおなじく試験管から生まれ、海に放たれた。

 地球ではすでに絶滅した海棲生物も、ひそかに培養され放たれたという。

 エウロパの海に、地球の海を再現したかったのだろう。

 宇宙人民にとって海への憧れはとてもつよい。とくに地球の海への。

 自然環境下にあるペンギンはとっくに絶滅している。

「ごちそうさまでした」ぼたんが両手をあわせた。

 おどろいたことにあれほどあった料理がほぼなくなっている。ペンギンに負けていない。

 ぼくはのこった焼きそばをぼそぼそと食べる。訊きたいことがあった。

「聞きにくいんだけど……そのぉ、ペンギン・ジョーというのは?」

ぼたんは真顔になり、スーッとこちらを睨んだ。こうさいがわずかに赤い。ジョン・カーペンター監督の『光る眼』ほどではないが、きらりと光った。

 映画とおなじ視線のつめたさにぼくはあわてる。

「いや……検索してもわからなくて。そもそも自動翻訳がうまく――」

「取材しないの?」

「まず、どんなことなのか把握しなければ……」

「ふむ。知らないか。たしかに」真剣な表情だった。「知らなくて当然よね。旅行者なんだもの。……よし、こうしましょう。今晩、屋形船が出るわ。予約しておくから、乗りなさいな。すごいものを見せてあげる」

 ぼたんはリンゴ飴を手に、縁台からたちあがった。

「また夜の海で逢いましょう」

「あ……滝行の取材ってできるかな?」

「だめッ! すけべ!」リンゴ飴を音を立てて噛みくだき、足早に幣殿のほうへ立ち去ってしまった。

 彼女についていくべきか迷ったペンギンが食欲に負けて、ぼくのそばでイカをねだる。ぼくは空箱の山を見せた。「もうないよ」


 すっかり迷ってしまった。

 どれだけ階段を降りても海へ出ない。方角をたがえたかと左に曲がり右に曲がり、ついにはまたのぼりはじめてしまった。せまい階段は複雑にいりくんでおり、なんどもおなじような景色に迷いこむ。

 さすがにペンギンたちはついてきていない。

 また四つ角に出た。

 とおったことがあるような場所だ。いや、はじめてとおる場所だろうか。

 辻であるから、短冊が用意されている。こころを落ち着かせるため、一句詠むことにした。こんどこそ詩神も降りてくる。

 どこかでペンギンが「ガガガー」と鳴いた。ここにも恋の歌唄いがいる。

 擦った墨に筆をつける。


    竹そよぐ ひびけやえにしを 結ぶ声


 ――ふむ。なかなかよい出来なのでは。

「へたくそねぇ」

 マリオン博士が短冊を覗きこんでいた。

 煙管きせるをひとくち吸い、えんをふーっと吐いた。仕種がやたら板についている。

 浴衣の上から華やかな羽織をまとっていた。描かれているのは、巻き毛の獣と紅い花。構図は違えど、ぼたんの刺青とおなじ図柄だ。

「恋のうたにしては情熱がなさすぎる」

「ペンギンたちの恋を詠んだものです」ぼくはそそくさと短冊を竹に吊した。「すてきな羽織ですね」

「でしょう」博士はひらりとまわってみせる。本人もきにいっているらしい。「図柄はからたんね。百獣の王と百花の王。あのひとのほうが詳しいんだけど、いまは忍者屋敷ニンジヤヤシキの見学に行ってしまってね」

 じっくり眺めるのは、はじめてだ。

 これが獅子シシか。これほど厳めしい獣が鹿威しシシオドシのカポーンという音にろうばいして逃げ出すのか。ペンギンすら逃げないのに。

 牡丹はあでやかだった。獅子の頭ほどもあるのはさすがに誇張であろう。あざやかな花弁が幾重に巻く、大輪を咲かせていた。いまにもあまいにおいが薫ってきそうだ。

「きにいったかい?」

 博士がからかうように言った。まじまじと凝視しすぎた。のことをにおわせているのか、いくら鈍感でもわかる。

 筆を洗ってもどした。どこにでも水場がある。「いい島ですね」

「島の話じゃあないが」博士はいたずらっぽく瞳をまわした。「まあ、いいさ。島の話をしよう。もとが資源採取船にしてはおおきすぎると思わないかい?」

 たしかに。ずっと迷いつづけているが、いっこうに海へ出ない。

 埋め立てはまず不可能だ。エウロパの平均深度は七十キロを超える。浅瀬こそあるものの、陸地はない。それこそ五大リゾートほどの資本力がなければ、埋め立てなぞかんがえられない。

 もとが船であるのだから、浮島フロート式であろう。

 そもそもの資源採取船のおおきさは全長八百メートル。歩きまわった実感だが、島の直径は二キロメートルをくだるまい。おおよそ三倍のひろさだ。

 ただ横にひろがっているのではなく、縦にも伸びている。複雑にいりくんだ階段とひしめく温泉宿が多層化している。もっとも高い地点には神社の境内がひろびろとある。火山島を想像すればわかりやすい。火口を頂点としてなだらかにすそがひろがっているのとおなじ形状だ。

 エウロパには資材がすくない。無論、鋼材もだ。

 なにが、これほどの重量を支えているのか。

「竹である」

 マリオン博士がちかくの竹を煙管のさきで打った。

 竹は大量の水がなければ育たない。ペンギンとおなじく、地球以外ではエウロパでしか繁栄しない。遺伝子改良が施された竹は塩水にもつよく、成長もはやいそうだ。

「竹の本体は地下茎なんだ。網の目のように伸びて、この島の地盤を支えている。資材としてみた場合、竹は軽く、腐食しにくい。弾力性もあり、加工しやすい。なのにきようじんだ。水にも浮く。島民たちは竹をあらゆるものにつかっている。建築資材や生活用品、この草履や浴衣、その短冊も筆も、墨すら竹からつくられている。筍は栄養豊富な食材だ。竹林はペンギンたちにもよい塒らしい」

 博士は道を逸れて、竹林のなかへはいっていった。

 なにかを探しているようだ。

 奥へ奥へと向かう。竹林をさまよう博士はどこか浮世離れしていた。

 ぼくを手招きする。

「花が咲いたんだ」

 博士の旅の目的だったな。

「それが問題なんだよ。見てご覧。その花だ」

 細い枝の先端から、紅い筋が幾本も垂れていた。

 椿や牡丹と比べると、とても花には見えない。ちかしいのは糸を吐く虫である。

 においはなかった。

「本来は白い。ここの竹は紅い花を咲かす。竹の花というのは特殊でね、永い周期性がある。ときには何十年何百年と経ってから開花するんだ。地下茎で増殖する竹が有性生殖をおこなう。そして、いっせいに枯れる。かつては凶兆とされていた」

 見わたすと、八割ほどの竹が開花している。

「この島の竹は同一個体だ。クローンなんだよ。すべては地下茎でつながっている。だから、いちど花が咲いてしまったら――島そのものの地盤が崩壊する」

 風がとおりぬけていった。

 葉がひそやかな音を立て、花がぶきみにゆれた。

「島民は知っているんですか?」

「わたしに連絡を寄こしたのは、かれらだよ。エウロパから通信があったんだ。解決してくれともわれていない。わたしはめずらしい竹の開花を観察しにきたんだ。それだけだ。それ以外はなにもできない」

 竹林のどこかでペンギンがけたたましく鳴いた。

 鳴きやまなかった。プロポーズのさえずりとはちがう。なんというか……必死だ。

 ぼくとマリオン博士は顔をあわせる。それから周囲をうかがった。

「あっち!」

 博士が竹林のさらに奥を指す。竹が斜めにかしいでいた。隙間からかすかに海が見える。

 ごっそりと地面がそがれていた。そこだけフォークで切りとったように、崩落している。

「枯れてるな……」博士がつぶやく。

 青々としているはずの葉も木肌もたいしよくし、萎びていた。

 崩れ落ちた部分を覗きこむ。ペンギンがいた。


 網の目状になった根に脚が絡まり、逆さ吊りになっている。

 ペンギンは「ギョアーギャー」と声を張りあげた。

 水平線が見えていた。切りたった崖になっており、覗きこむにも注意が必要な高さだ。なにもなければ絶景ポイントを見つけたと舞いあがったことだろう。

 ペンギンは暴れ、いまにも根からすっぽぬけてしまいそうだった。

 ひとを呼びに行く時間はなさそうである。

 根は絡みあっているが、足場とするには不安定。枯死しているのだとすれば、体重をかけた途端に折れてしまうかもしれない。崩落に捲きこまれた竹の一部はまだ青々としているものもあり、こちらはなんとか堪えてくれそうだ。

 降りて、ペンギンを救出し、またあがってこなければならない。

 エウロパは比較的低重力の環境ではあるが、さすがにこの高さを降りるのには勇気がいる。そもそも、ぼくは自分の身体能力を信頼していない。

 命綱としてロープが必要だった。

 浴衣に帯がついている。四十センチほどだ。博士のぶんを足してもまるで足りない。帯をほどけば浴衣はつかいものにならない。脱いで、縦方向にひねると、そこそこの強度と長さになった。それでも足りない。

「きにいってたんだけどなぁ」博士がぶつくさ言いながら、唐獅子牡丹の羽織を脱いだ。

 すべてを結わえて一本のロープとする。まだ青々とした竹の根元に結ぶ。

 もう片方の端は、ぼく自身につよく結びつけた。

 高所というのもあるが、それよりも全裸で崖を降りるのはこわかった。靴下すら履いていない。

 たおれた竹をつかみ、竹の根に足をかけながら降りる。枯死しているとはいえ、竹の根はごつごつとしていて固かった。絡まったならば、皮膚が擦りむけるだけは済まない。葉と細い枝も肌を裂きそうだった。体重をかけると、倒竹が弓なりにしなる。ぐわんぐわんと上下にゆれて、バランスをとるのがむずかしい。

 時間をかけて、ペンギンのもとにたどりついた。

 逆さに吊られているからか、頭部中央部にも生えた赤い飾り羽がモヒカンのようになっている。

 モヒカン頭は「ア゛ッ」と鳴く。

「たのむから、暴れるなよ」

 もちろん話は聞いてくれない。絡んだ根からはずそうとすれば、腕に噛みついてくる。そして暴れた。どうにもならない。

 空中に吊られながら悪戦苦闘。やっとはずれた。

 ぼくはすっかり傷だらけだ。

 モヒカン頭はぼくの腕のなかでも、おおいに暴れる。

 まるで放せとわめいているかのようだ。ペンギンをあやしつつ、のぼるために即席ロープを掴んだ。その瞬間、ちぎれた。

 ――落ちる。エウロパに到着してから二度目の命の危機だ。

 なぜリゾート星にやってきて、なんども死にかけているのか。

 走馬灯が流れるまえに、着地した。痛みはなかった。

 崖のでっぱりに、崩れ落ちた土が堆積している。実際には一メートルほど落下したにすぎない。さきほど島の神様に参拝したゆえの幸運と思おう。

 落下による怪我もない。

 土がやけにふわふわとしている。

 そうか。土砂ではないから石が混ざっていないのだ。熱水噴出孔から吸いあげたものの、価値がなかった泥を中心に、微生物に分解された竹や生ゴミでつくられた腐葉土。植物を育てるには最適だろう。これだけやわらかければ、ペンギンたちが穴を掘って塒にするのもたやすい。

「ア゛ッ」とひと声鳴いて、モヒカン頭はぼくの腕から脱けだす。

 埋もれている赤い球体に駆けよった。

 卵だ。エウロパペンギンのそれは赤い殻をしている。モヒカン頭はさっそく卵をあたためはじめた。

 だから騒いでいたのか。崩落に捲きこまれたが、土のやわらかさがさいわいして割れていない。落ちてきたぼくにつぶされなかったのも、じつに幸運だ。

「だいじょうぶかい?」崖の上から博士が顔を覗かせる。

「怪我はありません。ぼくもペンギンも」

「羽織に結びつけたあたりが破れたようだ。じっとしておきな。だれか呼んでくるよ」

 その瞬間、パチン、バチンと妙な音がした。なにかが断裂する音だ。

 目前の土壁から聞こえてくる。さざなみのように、音は崖をのぼっていった。

「いけない。また崩れるッ!」博士が叫んだ。

 これは――竹の根が切れていく音だ。

 土がやわらかすぎるから、支える根がなければもろい。ここも崩れれば、崖下まで滑落する。さすがに無傷では済まない。

 しかも、ぼくは裸で、あるのはちぎれた即席ロープだけだ。

 救わなければいけないのは、ぼくの身だけではない。ペンギンと卵も。

 一羽だけでもたいへんだったのに、卵まで抱えたら、確実に両手が塞がる。

 どうかんがえても崖はのぼれない。

 くだるのは論外だ。

 つかめそうな位置にあるのは二本の倒竹だけ。枯れてはいないが、ロープをひっかけてもしなってしまう。足場にするのはむずかしい。

 いや……いけるか。

 二本のあいだにロープを掛けて、張った。

「ちぎれたぶん、わたしの浴衣をわたすから! はやくのぼって!」

 博士は焦っていた。なかば浴衣をはだけさせる。

「そこから退いてください。だいじょうぶです!」

 ぼくは叫びかえす。

 卵を抱いたモヒカン頭をかき抱く。こんどこそ暴れないでほしい。

 竹のあいだに張ったロープへと向けて、ぼくは空中へ身を投じる。

 モヒカン頭が「ヒアアア」と悲鳴に似た声をあげる。きみらが飛べれば問題なかったが――まあ、泳げないぼくをたすけてくれたからな。腕に噛みつくのをゆるしてやる。卵もしっかり手のなかだ。

 竹がぼくの体重とペンギン一羽分の重量でしなる。さあ、折れないで耐えてくれ。

 弓なりにしなり、しなりきって、

 ぼくたちは放り投げられた。

 スリングショットで飛ばされる弾とおなじ原理だ。

 唖然としている博士と一瞬目が合った。ちょっと飛びすぎたんじゃなかろうか。

 卵をまもらなければいけない。着地の瞬間、身をひねる。

 どさりと背中から落ちた。こんどは充分痛い。

 崩落箇所のまわりが音を立てて、崩れた。見えざる手が棒たおしの砂山をごっそり削ったみたいだった。ふつうにのぼっていたならば、確実に捲きこまれていた。

 博士を飛び越えて、もとの竹林にぼくは転がっている。

 モヒカン頭がなにごとか叫びながら、飛び跳ねていた。

 よかった。手のなかの卵は割れていない。モヒカン頭にかえした。

「あんた、なにやってんのさ。『愛宕山アタゴヤマ』じゃないんだから」

 浴衣をすっかりはだけさせた博士が駆けよってきた。目のやり場にこまる。

「計算どおりです。エウロパが低重力でよかった。アタゴヤマってなんですか?」

「落語の演目だよ。幇間ホーカンが谷底へ『メリーポピンズ』みたく傘で降りて、竹の反動を利用して帰ってくる与太話さ。ほんとにやるものがあるかい。笑えないよ」


「笑えませんねぇ」

 マリオン医師はマリオン博士とおなじ顔で、まったくおなじ表情をした。

「宇宙人民は無重力や低重力下での生活が長いから、高所から落下してもへいきだとかんがえる。エウロパも比較的低重力圏ではあるが――。裸だったと聞いたよ。皮膚が裂けたら、どうするつもりだったのか。骨密度が低いんだから、きをつけなさい。きみはもっと筋肉をつけるべきだね」

 島の診療所は船内の施設をそっくりそのままつかっている。

 崩落した崖のあたりは、かつてのせんしゆろうであるそうだ。駆けつけた島民たちに案内されて、ぼくは資源採取船の内部へ足を踏みいれた。四つ角のすぐ下に船内へ通ずる扉があった。景観を壊さないよう、集会所に偽装されている。

 船内は低く駆動音が響いていた。資源採取用の設備はいまも現役だ。吸水できなければ、温泉として利用する熱水が手にはいらない。

 悲しいかな、四方が囲まれている狭い場所がおちつく。

 いっしょに保護されたモヒカン頭も安心して卵をあたためている。

 診療スキャンによれば、背中から落ちたものの、噛み傷以外におおきな怪我はなかった。それも治療機ですぐに治る。傷が塞がるまではベッドで待機しなければならないが。

 うとうととするモヒカン頭を眺めていると、ぼくも眠くなってきた。

 はいってきた医師を見て、目が醒めた。

「マリオン博士ドクター? 教授?」いや、年齢がひとまわりほど若い。

「教授ではないね。わたしもマリオンで、医師ドクターだが」

 おなじ顔の人間が、これで三人目。名前もいっしょだ。

 マリオン医師はぼくではなくて、卵をあたためるペンギンのそばへと座る。

「人間への治療はAI任せでね。わたしはもっぱらカルテにサインをするだけだよ。この島に来てからは、ほぼほぼペンギン専門。詳細なデータがないから、まだAIには治せない」

 あつかい慣れているのだろう。触っても、モヒカン頭は暴れなかった。

「うん。めだった怪我もないし、フリッパーもあしゆびも折れていないね。きみがたすけたんだって?」

 ぼくは竹林での救出劇を説明した。

 そうしてマリオン医師をすっかり呆れさせることとなった。

 よいアイディアだと思ったのだが――。

「まあ……無謀ではあるが、よくやった。ペンギンと卵がたすかったのは、きみの蛮勇と行動のおかげだ」

 卵も無事であったらしい。よかった。

「おーい、一八イツパチ。替えの浴衣だ」

 診療所のドアが開いて、マリオン博士がはいってくる。博士自身の帯はあたらしいものが結ばれていた。裂けてぼろぼろになった唐獅子牡丹の羽織を肩にかけている。これはこれでアバンギャルド。よく似合っていた。

「ありがとうございます。イッパチってなんですか?」

「『愛宕山』で無茶をする幇間の名前。そちらはお医者さんか。しっかりお説教され――」博士の目がするどくなった。「……ふうん」

「マリオンです」マリオン医師がたちあがる。「マリオン博士ですね」

「奇遇だね。こんなところで逢うなんて」

「ふたりはお知り合いなんですか?」

「初対面だよ」博士は煙管をとりだした。「でも、知ってる」

「診療所内は禁煙ですよ。わたしたちはおなじマリオンなんです」

「喫うふりさ。あのひとも含めて、遺伝子レベルで同一人物になる」

 博士は煙管を吸い、まぼろしの紫煙をふーっと吐いた。

 宇宙開拓における最悪の結果のひとつが、全滅だ。

 どれだけ遠方にまで進出しても、大規模な入植ドームをつくっても、そこで暮らす人間がいなくなっては意味がない。

 全滅の要因は複数かんがえられるが、けっきょくのところ人員の減少がもっともおおきい。かと言って、やみくもに人口を増やしても食い扶持ぶちが増えるだけで問題解決とはいかない。

 優秀な人間が必要だ。とびっきり優秀な人間が。

 そこで孵卵器インキユベーターにはあらかじめ冷凍受精卵が用意されている。

 デザインされたこどもたちだ。

 基礎能力のいずれかが飛躍的に向上させられている。学習能力の高い頭脳、治癒力に優れた頑健な肉体、空間把握能力にけた動体視力と器用さ、衆目を惹きつけるカリスマ性など。

 かれらはナンバリングの代わりに共通の名前を持つ。

 アキラ、アシュリー、ジョイス、ダコタ、ローレン、マリオン――

「わたしはフォボス・プラントのマリオン。あのひとは第二アレクサンドリアのマリオン、火星の文化人類学者だよ」

「教授ですか。へー、おもしろい研究だ、『地球文明遺産』。あるのは地球文明のざんだけで、宇宙人民はまだ独自の文化を生み出してはいない、か。耳が痛い」マリオン医師はデータベースをのぞき見ているようだ。「マリオン博士の御著書も拝読しました。るいせいらんの生態をめぐる『アダプテーション』はじつにスリリングでした」

「ありがとう。あんたはエウロパのマリオン?」

「いいえ。アスクレペイオンのマリオンです」

「医学船の? 放っておいても天才が集まってくるだろ、あそこは」

「第二アレクサンドリアもおなじことでしょう。それに、わたしはしがない研究医です。いまや、お役御免でへきの診療所勤めですから」

「どうだかね」博士はまぼろしの紫煙で輪っかをつくった。

 道理で初対面のときによく似ている夫妻だと感じたはずだ。クローンだったとは。

「驚きですね」医師はまた椅子に腰かける。「マリオン同士で婚姻関係を結ばれていらっしゃる」

「いっしょにいるだけさ。他人といるよりも気楽だよ」

 かれらは性的に未成熟なままだ。子をせない。

 中性というよりは無性にちかい。

 あくまでも全滅を防ぐための緊急避難的なシステムであり、よほどの事態でなければ産まれることはない。建前としては。

 いつだって優秀な人材は必要だ。なにかと理由をつけて、各星各宙域の各世代にかれらは存在している。ある種のクローンであり、人造人間であるかれらはつねに生命倫理や人権の問題をはらむ。

 都合のよい働き手なのか、人類を超えた存在なのか。

 その解決策として採択されたのが、一世代のみの存在とする無性化だった。

 一族をつくれないのならば社会に帰属するしかなくなる。どれだけ個人が優秀でも絶対数がすくなく、徒党を組めないのであれば、おおきな力となることはない。どのようなグループのなかでも、つねにマイノリティでありつづける。

 事実上、服従せよ、ということだ。

「さほど不満はないよ。食い扶持もある。地位もある。はんりよもいる。舐めてくるやつはわからせればいい」

「わたしたちは個人主義者であることが多い。それもプログラムされているのですかね」

「興味ないね。わたしは反出生主義者ではないんだ」

「こどもを欲しいと思ったことは?」

「ないものねだりはしない」

 ぼくは海を見たいと言った。

 窖のなかでたくさんの映画を観た。一生かかっても観きれないほどの映像アーカイブがあり、幼いころから、ひたすら異郷の光景を眺めつづけた。

 あの大量の水はなんだ、と三歳のぼくは曾祖母に訊ねる。いったいどれだけのコップの水をこぼしたら、あれだけの量になるのか、ふしぎでしかたなかった。

 あれは海だよ、と曾祖母が教えてくれた。生命はあそこから誕生したんだ。

 窖でぼくが生まれるよりもずっとまえ、曾祖母が旅をはじめるよりも人類が宇宙進出をはじめるよりも遙かはるかむかし――海で生命は誕生したのだという。

《生命》というものがなにかわからなかったけれど、海はどれだけ眺めても飽きなかった。

 どの映画にも海のシーンがある。青々とした大海原も、ひとびとで賑わうビーチも、とう立つあらうみも、おそろしい怪物が潜む深海も。さまざまな表情を見せる海はとても魅力的でうつくしかった。

 是が非でも、この目で見たい。

 曾祖母は「ないものねだりだね」と言った。

 たしかにないものねだりにはちがいない。ぼくたちは小惑星帯の中規模岩石惑星の窖に暮らしている。周囲には海どころか、おなじ小惑星の影すら見つからない。曾祖母が率いる一族だけで、ぼくたち以外の人間をじかに見たことすらないのだ。

 だけど、ぼくは知っていた。

 曾祖母はひとりになると、押花を眺めていることを。

 窖では咲かない、赤い花だ。

 宇宙人民は現実主義者が多い。壁を隔てた向こうには真空がひろがっている。ひつきよう、現実主義者にならなければ生きてはいけない。自身を律して、過酷な環境に立ち向かいつづけた曾祖母の境遇も理解できる。彼女はけっして神に祈らなかったけれど。

 それでも、憧れは推進力だ。

 願いつづけ、走りつづければ、いつかどこかにはたどりつく。

 ぼくがいま海の上にいるように。

 だれかがエウロパの海に地球の海を再現しようとしたように。

 子を生せない人造人間が子を欲するように。


「エウロパペンギンはわたしたちです。いや――

 マリオン医師はモヒカン頭をやさしくでた。

 エウロパの海でペンギンたちは増えすぎた。かれらは食欲旺盛で、人類の年間漁獲量のおよそ四分の一にあたる三千万トンを平らげてしまう。せっかく星間移植が成功した魚介類も食べ尽くされてしまう。

 頭数削減が計画された。

 ペンギンたちのグループから一羽を捕獲し、あるウイルスを注射する。雄を無精子症にするウイルスだ。これを各海洋のグループでくりかえした。数年も経てば大規模な間引きになる。

「では、その卵も?」

 ぼくが文字どおり命がけで救った卵だ。産まれないとはショックである。おなじく必死であたためているモヒカン頭も哀れきわまる。

「だいじょうぶ。さっきも言ったとおり、この卵は生きているよ。そのうち孵るだろう。エウロパペンギンは克服したんだ」

 人類の計略をものともせず、いちどは頭数を減らしたものの、ペンギンたちはより繁栄していった。

「なぜなのか、理由はまだわかっていない。無精子症化するウイルスに欠陥があったとする見方が大勢を占めている。わたしはそう思わない。ペンギンたちはつながっているんだ。集団的無意識だとかシンクロニシティといった古典的な心理学では説明できないような、もっと根源的な部分で。そして種存続の危機を乗り越えた。人類の先を行ったのさ」

「話が見えないね」マリオン博士は眉をひそめる。

「博士のお知恵を拝借したい。是非ご協力ください。わたしは――」

 モヒカン頭が「ア゛ッ!」と鳴いて頭をあげた。

 ドアがノックされる。ヌッと青い腕が覗いた。びっしりと彫られた刺青だ。

「やっちまったよ、先生。ざっくり切っちまった」

 頭から血を流した中年男性がはいってくる。鮮血がシャツを赤く染め、上半身一面の彫りものが透けていた。青いドラゴンだ。燃える蛇体をくねらせて、巨大な剣に食らいつこうとしている。二の腕にまで彫られた鱗は迫力満点だった。

「まずは血を拭おう。となりの部屋に」

「すまねぇ。バルブが固くってよ。力ぁめすぎたら、すっ転んで、このざまだ」

「ねんのため頭部スキャンもしましょう。三人目ができたからって張り切りすぎだよ、マサさん。夜勤もしているらしいじゃないか。働きすぎはよくない」

「稼がねぇとな。漁師だけじゃ実入りがすくねぇ」

 大半の漁師は兼業をしている。

 そもそもエウロパの長い一日のうち、漁にあてられる時間はかぎられている。日中の空き時間は、資源採取船の工員や旅館の設備係、あるいは境内でテキ屋を営むことが多い。

 屋台の店主たちも服の下から見事な彫り物が覗いていた。ほとんどが漁師の兼業なのだろう。

 マリオン医師は怪我をした男性と連れだっていった。

「漁師はみな刺青をいれているものなんですか?」

「風俗習慣に関しては、あのひとのほうがずっと詳しいんだ。でも、漁師が刺青を彫っている理由はわかるよ」

 マリオン博士はボロボロになった羽織の、いまにもちぎれそうな端をとった。その端切はぎれを放って寄こす。

「なにかわかるかい?」

「唐獅子牡丹でしたね。獅子の巻き毛と牡丹の花弁が描かれています」

「そうだ。図案を知っていれば、なにが描かれているか、ちいさな断片からでも判別できる。だよ」

 含みのある言いかただ。

 しかし、当然ではないか。ジグソーパズルとおなじだ。

「わからないかい」博士はまぼろしの紫煙を吐いて、その行方を追った。「刺青にはそれぞれ特徴がある。図案もそうだが、構図や肌に沈着した色合い、彫り師の手癖も関係する。おなじものはふたつとない。だから、判別できる。それが、だれであるかを」

「つまり――」厭な予感がした。

「漁師もそうだが、海に関わる人間はいつどこでどんな事故に捲きこまれるかわからない。船から落ちたり、波にさらわれたり。海は広大だ。沈んじまえば、屍体はなかなか見つからないものさ。ふくれたり、魚に食べられたり……五体満足で発見されるともかぎらない。、さ」

 ぼたんとはじめて逢ったのは海の上だった。彼女はペンギンたちとなにかを追っていた。海の女なのだ。だから、唐獅子牡丹を背に彫っている。

 ぼくは端切れにふたたび目を落とす。牡丹の花弁が散っていた。


 港はかがりと提灯で照らされていた。

 桟橋にずらりと船が並んでいる。漁船とはちがう。屋形船というやつだろう。

 島内に宿泊する旅行者たちが列を成していた。お祭りにまぎれこんだような、浮かれたざわめきにちている。

 手持ち提灯の案内人に高倉ぼたんの名を告げたところ、ひときわおおきな屋形船にとおされた。

 乗りこむと、宿の宴会場をそのまま移築したような座敷があり、整然と膳が並べられている。すでに多くのひとが席に着き、ざわざわとけんそうにあふれていた。

「おーい。こっちこっち」

 しのび衣装に身をつつんだマリオン教授が手を振る。となりに座るマリオン博士が、あきれたように煙管を吹かす。なぜかマリオン医師も同席していた。

 おなじ顔の三人が膝を突きあわせている。おそらく内太陽系でも相当めずらしい光景にちがいない。

「さっきぶりだね」医師が気さくに声をかける。おおよそ十五時間ぶりだが。

「お世話になりました」

「治療を受けたんだってね。彼は腕のいい医師だ。じつに運がいい」

 対面に腰をおろせば、さっそく竹筒にはいった酒を教授が勧めてくる。

「この船に乗れたのも、じつに運がいい。屋形船が出るのは数箇月にいちどだ。まあ、食べて呑みなさい」

 竹蜜酒という。竹の樹液でつくった酒は、海中で熟成させるため古酒のような癖がある。度数も高い。しかしさわやかな味がした。

「ふう……。忍者屋敷はどうでしたか?」

「すばらしかったよ。隠し扉に絡繰からくり仕掛け。まるで『子連れ狼SHOGUN ASSASSIN』の世界だ。畳返しやすいとんの術も見た。手裏剣もクナイも投げた。ィイヤーッ!」投げる振りをして見せた。「かっこいいだろ」

「まったく……」博士が煙管を吹かす。「アホなんだから」

 料理がつぎつぎと運ばれてくる。

 新鮮なお造りや若竹煮、白身魚の姿揚げにせいろ蒸し、天麩羅の盛り合わせ。メンマという筍を発酵させた料理がやたら旨い。酒が進んだ。

 舌鼓を打っているうちに、屋形船は夜の海へと漕ぎだしていた。

 開放的な座敷に夜風が吹き抜けていく。陽が沈んでも、木星の縞模様が見えた。

 夜風に乗って、和太鼓の音が響いた。

「お、はじまるぞ」教授が窓の外を覗く。

 屋形船の列を分かち、四方に篝火を載せた筏がゆっくりと進み出てくる。

 ふんどし姿の男衆たちが和太鼓を叩く。みな立派な刺青を彫っていた。

 太鼓の音にあわせて、竹槍を背に結わえつけたペンギンたちが整列した。

 その中央に見知った飾り羽があった。あのモヒカン頭だ。

「あのこはエースなんだよ」驚いているぼくに医師が声をかける。「怪我ひとつなかったからね。今夜の漁にもまにあった。きみのおかげだ」

「卵は?」

「心配ない。いまは専用の孵卵器にはいっている」

 太鼓の音色が烈しくなった。

 モヒカン頭をかたわらに、ぼたんが腕を組んでいる。ボディスーツの上半身を脱ぎ、素肌をさらしている。篝火に照らされて、唐獅子牡丹がなまめかしくかがやいた。

 腰を落として、左手を膝に添える。てのひらを上に向けて、右手を差しだす。

 正面をキッと睨み据えた。

「お控えなすって。手前、生まれはエウロパ、海育ち。遠く地球にござんした日ノ本ひのもとを祖に発します。姓は高倉、名はぼたん。元祖高倉から数えて十二代目、稼業を人鳥匠と申します。以後、万事万端よろしくお願いなんして、ざっくばらんにお頼み申します」

 夜の海に朗々と声が響いた。

 筏を囲む屋形船からつぎつぎと歓声があがる。

「よい仁義だ」教授もやんやとかつさいを送った。

 また和太鼓が鳴り、ぼたんが両手をひろげる。脱いでいたボディスーツが直され、唐獅子牡丹が覆われた。その上から男衆が分厚い服を着せていく。

 伝統的な宇宙服だ。下部胴体に上部胴体。重りだろうか、正方形の金属を連ねたベストがつけられる。最後に球形のヘルメットをかぶせた。球体鏡面部が淡く発光し、電脳とリンクする。

 和太鼓が小刻みに打ち鳴らされた。

 ペンギンたちが隊列を組み、筏から飛びこんでいく。

 二羽のペンギンには竹槍の代わりにハーネスが装着されていた。宇宙服とづなで結びつけられている。水中での移動手段といったところか。

 男衆がひときわおおきく「やあッ!」と掛け声を発する。

 ぼたんと二羽のペンギンが海へと潜った。

 屋形船の天井が海中の光景を映した。

 ペンギンたちが飛ぶように泳ぐ姿が見える。映像はぼたんの視界とリンクされている。深海に向かって泳いでいく。はやかった。失神寸前のぼくを引っ張りながら、遠方の筏までものの数秒で到着したのも頷ける。

「エウロパに存在する生命体は多くは微生物、いても原生生物だろうとかんがえられていた」酔った教授がぽつりぽつりと話しはじめる。「テラフォーミング後、その予想は覆される。この海域になぜリゾート施設がすくないのか。熱水噴出孔があり、多くの資源採取船が浮かんでいたというのに。空港がつくれず、航路が発達しないのはなぜなのか。あれが答えだ」

 海底からなにかが浮上してくる。

 あのときとおなじだ。岩山がせりあがってくる。

「海底熱水噴出孔から資源を採取しようとしたのは、人類だけではなかった。地球には体内にバクテリアを棲まわせ、硫化水素の化学合成によって栄養を摂取する生物が存在した。このエウロパにもだ。それはまるで動く岩山だった。無数の触手を持つ、エウロパの海の頂点略奪者プレデター。おなじ餌を狙うものをゆるさない。資源採取船どころか、物資を運搬する船舶も軌道上から落ちてくる貨物輸送ポッドも関係ない。触手をひろげた姿はまるで海底に咲いた花のようだから、ルルディと呼ばれる」

 岩山の隙間から無数の赤い触手が伸びてきた。

 ゆらゆらとひろがるさまは、たしかに開花のようである。

 ポッドを攻撃してきたのは、あの赤い触手か。

「あんな花はないよ」マリオン博士は鼻を鳴らす。

「花というよりは果実かもしれませんね」医師が補足した。「あの岩山に見える部分は吸収した金属を変えたものです。地球の熱水噴出孔にも同様の生物がいました。スケーリーフットという鉄の鱗をもつ貝です。それらは結果的に硫化鉄の鱗をもつにいたりましたが、ルルディは外殻を形成しました」

 ペンギンたちは旋回しつつ、岩山との距離をとった。

 後方に控えるぼたんが「ぐあッ!」と鳴いた。

 ペンギンたちは背の竹槍を構え、魚雷のように突進していく。

 球形ヘルメットにはペンギンたちとつながる通信機がとりつけられ、鳴き声で統率している。

「金属製の外殻は固く、ミサイルの直撃にすら耐える」教授が割りこむ。「ゆいいつ通用する攻撃手段は――」

 ペンギンたちは岩山から伸びる触手を避けながら突進していく。

 竹槍が触手の根元に刺さり、ルルディはほのかに赤く発光した。

「あのように、やわらかな部分を刺すことだ」

「竹槍をつかうのも、ルルディが金属を吸収する性質を持っているからですね」

 教授の説明を医師が補足する。やけに呼吸が揃っている。

 なるほど、これが人鳥匠なのか。ぼたんが誇るのもわかる。

 ルーツはたかじようかいにあたるそうだ。鳥類を使役して、狩りをおこなう。

 ただしエウロパでは事情が異なる。人鳥匠とは、ルルディとの海底資源争奪戦を制するために生まれた技術である。十二代目とあるのは、若い女性にしか適性がないからだ。ペンギンたちを声で使役するには、ソプラノの音域が不可欠。ただの鳴き真似ではなく、高音域でこまかな指示をあたえるそうだ。

 ぼくが海で溺れたとき、ぼたんは海中に潜むルルディを探していた。

 ぼたんが号令し、ペンギンたちは縫うように泳ぐ。竹槍をつぎつぎと刺した。

 ルルディは悶えるように触手を振りまわす。おおきな渦が起こり、ペンギンたちはまた距離をとる。モヒカン頭が最前線でチャンスをうかがっていた。

「痛みがあるということは神経がとおっている。神経系統を束ねる器官、つまり脳がある。そこを突き刺せば動きは停止する。こういうふうに」教授は小イカの沖漬けを箸で突き刺す。「ブスッとね」

「やたら詳しいね」博士がげんそうに訊いた。

「仮にも文化人類学者である。鑑賞するものは事前に調べるものだよ。ルーツこそ地球文明にあるが、この人鳥匠はエウロパ独自のものだ。ここまで人間と動物が協力関係にある狩りは、犬や馬との関係に匹敵する。じつに興味深い」

「妙だね。知っているにしては、あの怪物に襲われたとき、やたら周章あわてていたじゃないか」

 たしかに教授は深海からあがってくるルルディに驚いていた。

「あー、それはだね……」なにか言いつのろうとして教授はやめた。博士にじろりと睨まれたからである。「お品書きの裏側のアクセスコードに人鳥匠の詳細が載っている」

 お品書きの裏側をめくる。

 視ると、さきほど教授が熱弁していた内容のほとんどが載っていた。

「ここを視れば充分じゃないか。わざわざ長広舌をふるわなくとも――」

「忍者とは、闇に生き、闇に死に。秘密を探り、秘密を守るものだからだ。イヤーッ!」

「うるさい」

 一喝された教授は肩を落とした。

「クックッ……。失礼」マリオン医師が笑いを押し殺す。「仲がよい」

 屋形船の乗客たちがどよめいた。

 ぼくは電子立体情報から現実に意識をもどす。

 ルルディの長く伸びた触手が、ぼたんの宇宙服に巻きついている。

 ハーネスをつけたペンギンがうろたえているのが見える。モヒカン頭がぼたんを捕らえた触手を突き刺そうとするものの、ほかの触手にはばまれてちかづけない。

 貨物輸送ポッドの凹んだ痕を思いだす。あんな力で締めつけられたら、人体などひとたまりもない。

「あぶないッ!」

 おもわず叫んでいた。

 赤い触手がよりきつく締めようとした瞬間――宇宙服が爆発した。


 映像がとぎれた。屋形船のあちこちから悲鳴や息を呑む音が聞こえた。

 宇宙服は無事なのだろうか。

 彼女はいま深海何キロメートルに潜っているのか。

 低重力下であるから水圧は低いはずだ。だが、数々の映画で観たあつかいシーンが頭をよぎる。

 ぼくは握りしめた端切れを思いだしていた。

 唐獅子牡丹の断片が脳裏に焼きついている。

「もどった!」教授が叫ぶ。

 映像が復活した。

 ぼたんは無事であるようだ。

 宇宙服を着た際につけた正方形の金属を連ねたベストだ。重りではなかった。衝撃が加わると、外側に向かって爆発する構造であったらしい。

 それでも穴が空いていれば、そこから空気が漏れ出してしまう。

 安全な場所で見ているだけのぼくよりも、ぼたんのほうがずっと冷静だった。

 爆発で混乱するペンギンたちを一喝し、戦列を立てなおす。

 ふたたび触手を伸ばすルルディに向かって、ペンギンたちは弧を描いて泳いだ。きらきらとした泡が潜行の軌跡を描く。複数のミサイルが襲いかかるようだった。

 音声での統率とは思えない、複雑な行動だ。ペンギンたちとぼたんは、まるでおなじ意志を有しているかのように、完璧な連携でルルディを攪乱かくらんした。

「エウロパの微生物群は熱水噴出孔だけではなく、ひろく海底に根を張っています」マリオン医師が竹蜜酒を舐めながら、つぶやく。「ルルディは花ではなく、果実。あるいは筍のようなものなのかもしれません」

「微生物の若芽ってことかい?」博士が応じる。

「ええ。資源さんだつ者を攻撃するルルディの行動は微生物に利するように思えます」

「生物としてどころかがちがう。さすがにあれはじつたいではないだろうさ」

「エウロパに棲む生物には特徴があります。赤い色素です」

 ルルディの赤い触手。エウロパペンギンの赤い飾り羽と卵の殻。数百年ぶりに咲いた竹の花は赤い。そして、ぼたんの虹彩は赤く光った。

「まだ詳しくはわかっていません。どのような経路でそうなるのかも。しかし好気性細菌が真核細胞にとりこまれてミトコンドリアとなったように、また地球の熱水噴出孔の生物たちがイオウ酸化バクテリアと共生していたように、エウロパの微生物はあたらしい侵略種とも共生しようとしてるのかもしれません」

「妄想だよ。その仮説があたっていたとしても、進化と伝播がはやすぎる」

「竹の花は、筍というクローン化を捨てた、有性生殖のための手段でしたね。エウロパペンギンたちも無精子症ウイルスに打ちった。微生物たちはあたらしい生命を望んでいるのかもしれません」

「あんた……諦めてないのかい」

「ないものねだり――とはかんがえていません。わたしたちはきっと子を生せます。博士に協力していただきたい」

 しばしマリオン博士とマリオン医師はみつめあった。

「無粋だね。せっかくの人鳥匠も佳境だというのに」マリオン教授が割りこむ。

 博士を抱きしめた。

「なにやってんだい」博士が暴れる。教授は抱きしめる力を弱めなかった。

「わたしのパートナーをとらないでくれ」医師を睨みつけた。「さあ、見てご覧。『椿三十郎』の決闘シーンだ」

 モヒカン頭がルルディへとつっこむ。肉体の中央部分に竹槍を突き刺した。

 ひときわ赤く発光したものの、ルルディはたおれなかった。

「浅いか」教授がつぶやく。

 脳にまで竹槍が届かなかった。

 モヒカン頭は再度、距離をとる。

 ほかのペンギンたちも動きを止める。

 なかには竹槍をなくしているペンギンもいた。触手に突き刺したときに深く刺さりすぎて、根本から折れてしまったらしい。

 モヒカン頭がぼたんへ振りかえる。ぼたんはこくりとうなずいた。

「ぎゃ! ぐあー!」ぼたんの掛け声ともども、またぞろペンギンたちは突き進む。あきらかに触手を誘導する動きだ。

 モヒカン頭が突進していく。ハーネスをつけたペンギンたちも、牡丹から離れ、あとを追った。二羽はモヒカン頭と交錯し、追い抜く。ぐんぐんとスピードをあげる。目指しているのはルルディ本体ではない。

 触手に深く突き刺さった竹槍だ。

 竹槍の端にハーネスを絡め、しかし泳ぐスピードはゆるめない。

 竹がしなり、弓反ゆみぞりとなる。

 そこにモヒカン頭が突っこんできた。直前でぐるりと反転し、った竹槍に脚を掛ける。

 ぼくと博士はおもわず顔をあわせた。嘘だろ。「『愛宕山』だ!」

 モヒカン頭が脚を掛けた瞬間、二羽がハーネスをはずす。

 しなりきった竹がもとにもどる。水中で抵抗こそあるものの、ちいさなペンギンを射出するには充分な力だ。はじかれたモヒカン頭は一直線にルルディの内側へ進む。自ら回転することで、ライフル弾のようにより速度を増す。

「三船の神速抜刀――」教授がうめいた。

 こんどこそ充分な威力であった。

 ルルディはまばゆいばかりに赤く発光し、やがて光を消した。


 夜の海はしずかだった。

 祭のあとだ。篝火も消されている。

 動きを停止したルルディに漁船から杭が打ちこまれ、港へ曳航された。金属製の外殻は高く売れる。海のものならばなんでも食べたと噂される日本の末裔でも、さすがに身は食べないらしい。

 まだ夜は長い。

 ぼくは桟橋に腰かけ、波の音を聞いていた。

 赤く発光するクラゲが夜の海に揺蕩たゆたっていた。

 静寂を裂くように「ア゛ッ」と鳴き声が響く。

「なーにやってんのよぉ、記者さん」

 振りかえるまえに酒臭い息がかかった。羽織を巻きつけただけのぼたんが寄りかかってくる。モヒカン頭が腕をくちばしのさきで突いた。親愛の情と捉えよう。

 彼女の左手にギプスが巻かれていた。折れてはいないものの、爆発で骨にヒビがはいったそうだ。

「人鳥匠はたのしんでくれた?」

「すごかったよ」危険じゃないのか、ということばを呑みこむ。ぼたんの仕事を軽んじたくはない。脳裏に焼きついた唐獅子牡丹の端切れを追い出した。「すごいものを見せてもらった」

「でしょう。あたしの誇りよ」ぼくの背に、背をつけてもたれた。「いい記事にしてよね」

 モヒカン頭がぼくたちのまわりをヨタヨタと歩く。

 ぼたんに訊きたいことがあった。

「最後の――竹をしならせた反動で弾丸みたいに飛びだすのは、きみのアイディア?」

「さっきまでの酒宴でもさんざん訊かれた。うーん……あのときはよくわからないのよね。アドレナリン出てたし。この子が」モヒカン頭をやさしく撫でる。「なんかやるつもりだとわかったの。それでわたしの移動部隊が必要だっていうから、そういう布陣にして……ああなるとは思わなかった」

 マリオン医師の仮説どおりだとすれば、エウロパペンギンたちは共生する微生物をとおして、つながっている。おそらくはこの星で暮らす、あらゆる生物とも。

「竹の花のことを聞いたんだ」

「ああー。しかたないわ。諸行無常シヨギヨームジヨー盛者必衰ジヨーシヤヒツスイ、なんにでも終わりはある」

「しかし」

「この島の崩壊を見届けるのも、島民のさだめよ」

「わからない」

Wabiび寂び Sabi and Shibui。日本の精神性ね。それに、わたしは人鳥匠だし」

「わからないよ」ぼくはぼたんを見た。「きみは外に出たくないか?」

 曾祖母を思いだす。終生、岩石惑星の窖から出ることはなかった。

 だけど、曾祖母は赤い押花をずっとたいせつにしていた。エウロパでならば、どこにでも咲いているような花だ。窖では咲かない花だ。

 ないものねだりなどではない。

 曾祖母の遺言は意外なものだった。窖で暮らす六十名におよぶ一族に向けて彼女は言う。

 ――旅に出なさい。そして愛するひとを見つけなさい。

 ぼたんはこまった顔をした。

 たちあがると羽織を脱ぎ、ぼくへ掛けた。夜の海へ飛びこむ。

「あぶないよ。骨にヒビがはいってるんだろ」

 しこたま酒も呑んでいる。夜で、水温も低い。

「こっちに来て」彼女は水中から誘う。

「無理だよ。泳げないし、怖いんだ」

「わたしもそうよ。宇宙は怖い。海のない生活は怖い」

 ぼくは黙った。

「こっちに来て」ぼたんはくりかえした。「いくじなし」

 モヒカン頭がどうしようかとうろうろしていた。

 ぼくは海へと飛びこんだ。


 全身がふやけるまで湯に浸かった。

 どんな名湯でも惚れた病だけは治せないそうだ。知ったことか。

 落語の寄席にも足しげく通った。はじめて聞いた『愛宕山』はたいそうおもしろかった。しかし、ぼくはあそこまで拝金主義者ではないし、無謀でもない。もうすこしだけスマートだ。そう思いたい。

 エウロパから離れる日、マリオン夫妻がお別れにきてくれた。

 ふたりはまだしばらく島に逗留する。

 博士はマリオン医師の研究に協力するそうだ。

「もし微生物の共生が鍵になるのならば、竹の開花による枯死も防げるかもしれない。研究に値する」煙管を吹かして、博士はそう語る。

「パートナーがのこるのならば、わたしものこらなければな」

 かみしもに袴を履いた教授は、三十郎演ずる三船のコスプレのようだった。

「文化人類学者としても人鳥匠は興味深い。この海はまだ地球のものまねだが、やがて独自の進化へと歩み出す」

 高速艇の出港準備が整ったようだ。ちかくの港まで運んでくれる。また水が貴重な生活がはじまる。

「きみの旅の目的を聞き損ねていたな」教授が握手をもとめる。「取材だなんてつまらない返事はよしてくれよ」

 憧れだからだ。海を見たかったからだ。

 でも、それでは、ぼくの旅が終わってしまう。憧れは推進力だ。

 曾祖母の遺言を思いだした。

「パートナー探しです。ひとりでめぐるには宇宙はひろすぎますから」

「きみのへたくそな詩を捧げた女神様は、縁結びの神様だそうだよ」博士がからからと笑う。「くよくよしなさんな。良縁があるよ」

「なんのことだい」

「知らなくていいことさ。映画に誘うべきだったね」

 突然、ぼくは博士に竹の花の情報を送った人物がだれであるか、わかった。

 島民ではない。初対面であるはずの医師とも息の合った連携を見せていた。

 椿が出てくるよ、と映画に誘った手口とまったくおなじではないか。

「ときには強引さも必要だよ」教授がほほえんだ。

 ないものねだりで終わらせたくなかったのだろう。

 ふたりのこどもはやはりおなじ顔をしているのだろうか。それとも似てはいても、まったくちがうのだろうか。

 いつか地球の海が見てみたい。つよくそう思った。

 あなたも見てみたくはないか?

 きっといい記事をお届けできるはずだ。たのしみに待っていてほしい。


 ぼくは高速艇に乗る。島はまたたく間に遠ざかっていく。

 大海原にぽつんと浮かぶ筏が見えた。ペンギンたちと、みごとな刺青を彫った女性が乗っていることだろう。

 滞在中に練習をして、ずいぶんとうまくなった。ぼくは「あ゛っ」と鳴いた。

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エウロパの人鳥匠:ディレクターズ・カット 八州 左右基 @u2neko

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