レンタカーと共犯者

あかいあとり

レンタカーと共犯者

 死んだパパの奥さんとふたり、森の奥で穴を掘る。

 パパと言っても、別に愛理の父ではない。パパ活の相手という意味でのパパであり、血縁の代わりに金銭と性欲で繋がっていた相手のことだ。

「こんなところに穴掘って、どうする気ですか。透さん」

 真夜中、人気のない山奥に、レンタカー。とくれば、連想するのは非合法な墓穴だ。嫌な予感とともに問いかければ、「あの人を捨てるの」と隣の女――秋本透は軽やかな声音で答えた。

「骨をね、捨ててやろうと思って。別に死体じゃないからいいでしょう?」

「なんでまた」

「私を裏切った仕返しに。空っぽの仏壇に手を合わせるお義母さまたちには気の毒だけど、これくらいは許してもらわなきゃ」

 気の毒という言葉とは裏腹に、透の声音に悪びる気配はかけらもない。鍋に調味料を放り込むみたいに、手際よく遺灰を穴に流し込んだ透は、ガーデニング用の小さなスコップで丁寧に穴を埋めていく。

「うん、いい感じ」

 さめざめと泣き腫らした目と、はしゃいで弾んだ明るい声音が、不気味なくらいに不釣り合いで怖かった。返す言葉に迷った挙句、愛理は法学を学ぶ者の一端として、一言だけを口にする。

「遺骨の遺棄は犯罪ですよ」

「あらそう。私たち、共犯者になっちゃったね」

 そんな軽く言われても。

 途方に暮れたところで、ころころと笑いながら透が顔を覗き込んできた。

「今さらなあに、愛理ちゃん。お天道様に顔向けできないことなら、あなた、とっくにしてるじゃない。既婚者に手を出すの、まさか悪いことだって知らなかったわけじゃないでしょう?」

 ぎくりと体が強張った。思わず一歩後ずさるが、透は獲物をいたぶる猫がごとく、愛理を逃がしてはくれない。

「良い子ぶるのはやめなよ。今さら罪がひとつふたつ増えたところで、何だって言うの」

「それは……、そうなんですけど」

「けど、なあに?」

 薄い化粧に彩られた上品な顔立ちの中で、ガラス玉のような瞳が爛々ときらめく。気圧されるように、愛理は「なんでもありません」と呟いた。

「終わったなら行きましょう。夜の山は危ないです」

「ああ、あなた、地方の出身だったっけ。さすが、森とか山とか、詳しいんだね」

 地方というほど地方の出身でもなければ、特別山に詳しい覚えもない。けれどもそんなことは、この唯我独尊女には関係ないらしい。「帰りも運転お願いね」と愛理の肩を叩いた透は、当たり前みたいに車の助手席に乗り込んでいく。

 まったくなんて縁を繋いでくれたのか。今は亡きパパを恨んで、愛理はひとり、天を仰いだ。



 秋本透は、いかにも育ちの良さそうな風体とは裏腹に、破天荒が服を着て歩いているような女だった。

 愛理の母より若そうだけれど、愛理よりは随分年上。三十三だと後から聞いた。

 出会いはほんの数時間前。パパの骨壷を腕に抱えたこの女は、講義のレポートに取り掛かろうと愛理がパソコンを開いた瞬間に、非常識にも部屋に押しかけてきた。午後九時ぴったりのことだった。

「あなたが萩原愛理さん? ハムスターみたいでかわいい方ね。大学生って聞いているけど、高校生って言われても信じちゃいそう」

 扉を開けるや否や、日本人形みたいな女はまくしたてるようにそう言った。家賃をケチってオートロックもインターホンもない安アパートを借りたことを、この時ほど後悔したことはない。

「どちらさまですか」

「私は秋本透。あなたが交際していた相手の妻って言ったら、分かるかな?」

 コウサイ――いや、交際。パパ活のことを言っているのだと気付くまでに、数秒かかった。理解した瞬間、凍りつく。

「こちらはあなたもご存知の重さん。ごめんなさいね、夜分遅くに」

 灰の詰まった壺を掲げて、透は朗らかにそう言った。意味がさっぱり分からなかった。

「事故で死んだの。先週。あなたと会った後」

 嫌味ったらしく区切られた言葉と張り付いた笑顔が、恐ろしかった。

 ご愁傷様です、と愛理がひねり出した言葉に頷いて、透は微笑みを絶やさぬままに、壺の下から大きな封筒を取り出した。

「どうぞ。ご覧になって」

 震える手で封筒を開けると、中には写真と書類が入っていた。ホテル前での隠し撮りに、車内での録音音声、パパと愛理の不適切な関係を、これ以上なく明確に証明する証拠の数々。間違ってもパパ活の相手の妻には、バレてはいけないことである。

 血の気がどんどん引いていく。慰謝料の相場はいくらだったか。本人が死んでいても払わなければいけないのか。

「うふふ、すごい顔!」

 びくりと肩が揺れる。おそるおそる顔を上げれば、透は面白がるように「怖がらないで」と囁いた。

「別に訴えたりしないよ。何しろ本人、死んじゃってるもの!」

 透はあっけらかんと言ったが、まさか笑うわけにもいかない。愛理にできたのは、丁寧に封筒の中に書類を戻し、透に向き合うことだけだった。

「……ご用件は何ですか」

「お願いがあるの」

 何をさせる気だ。無言で透を見返せば、何が面白いのか、透はくすくすと笑い出す。

「ぷるぷる震えて、本当にハムスターみたい。そんな難しいことじゃないから安心してよ、愛理ちゃん。人に見つからないところに、連れて行ってほしいの。山でも海でもいい。私のお願いを聞いてくれたら、この封筒はあなたにあげる。聞いてもらえないなら、どこかに捨てちゃおうかな? せっかく集めてもらったんだし、誰かに渡してもいいかもね」

 渡すって、一体誰に渡す気だろう。誰に知られても、愛理が社会的に死ぬことは間違いない。

「脅してます?」

「まさか! あなたとお話しながら、ドライブしたいだけ。あんまり遠くだと、タクシーに頼むのも悪いじゃない?」

 なら自分で運転すればいいのに。愛理の心を読んだかのように、「免許、持ってないの」と透は困り顔で付け足した。

「危ないからって、主人が許してくれなくて。……ね、お願い。私もあなたも、同じ男に惹かれた仲間じゃない」

 惹かれるという言葉が、耳に障る。お願いとは言うが、分厚い封筒をちらつかせて告げられるその願いは、脅し以外の何でもない。

 愛理が頷くのを見て取って、にんまりと透は笑みを深めた。彼女にとって世界は多分、彼女のために回っているのだろう。


「――愛理ちゃんたちがいつも行ってたホテル、行ってみたいな」

 甘えるような声音が鼓膜を叩き、愛理の意識をぱっと現実に引き戻す。

「何ですか」と問い返せば、透は土で汚れた手をウェットティッシュで丁寧に拭いながら、「ホ・テ・ル」と茶目っ気たっぷりに呟いた。遺骨を埋めた山を抜け出し、狭い下道から、ようやく車通りの多い街中に戻ってきた矢先のことだった。

「ヤシの木の光ってる、お城みたいなホテル。あそこに行きたい」

 無邪気な声は、まるで気まぐれな子どものようだが、言っている内容はちっともかわいくない。

「まさか、ラブホテルのこと言ってます?」

「ラブホテルって言うの? 普通のホテルとは違うんだよね?」

 嘘だろ、と内心で頭を抱える。信じがたいことに、冗談で言っているわけではないらしい。『休憩』と『宿泊』という看板の文字を写真で見て、興味を引かれたのだと透は言った。

「ホテルって言ったら泊まるための場所なのに、カフェみたいに休憩できるなんて、不思議じゃない? 探偵さんの報告書だと、愛理ちゃんとあの人、いつも二時間くらい、あのホテルにいたらしいじゃない。私も行きたい」

「お住まいはこの辺りじゃないんですか? 送りますから、帰ってください。わざわざホテルで休憩しなくても、家でゆっくり休めばいいじゃないですか」

「休憩ってプランがあるなら、家がどこでも関係ないでしょう? 行きましょうよ。こんな機会、なかなかないもの。私、愛理ちゃんともう少し話したいな」

「そう言われましても」

「お願い、愛理ちゃん。ホテルのお代も、お食事代も、もちろん私が持つから」

 そう言われましても。途方に暮れて、愛理は同じ言葉を繰り返す。もう日はとっくに変わっているし、終わらせようと思っていたレポートだってある。そもそもこの唯我独尊かつ理解不能な女とは、一刻も早く縁を切りたい。

 渋る愛理をじっと見て、透はおもむろにバッグの中に手を突っ込んだ。「現金ってあんまり使わないんだよね」という呟きとともに、ピン札の束がばさりと取り出される。

「十枚くらいで足りる?」

「え?」

「愛理ちゃんの時間を、一晩買うためのお金。あの人は、パパ活っていうのをしていたんだよね? お金を払って、あなたを買ってた……で合ってる?」

 うっかりと頷く。よかった、とほっとしたように目尻を下げて、透は信号待ちなのを良いことに、ぐいと運転席に身を乗り出してきた。白い胸元が無防備にさらけ出されているものだから、同性ながら目のやり場にやや困る。細身の割には、透は妬ましくなるほどスタイルが良かった。

「あの人がパパなら、私はママになろうかな?」

 さらりと流れる黒髪の美しさに、うっかりと見惚れる。その間に、さっと透は愛理の手を開かせると、札束を握らせてきた。

「何を――」

「私ともママ活、して? 私、愛理ちゃんにどうしても聞いてみたいことがあるの」

「会って間もないあたしに聞くより、他の方に聞いてください。親とか、友達とか」

「親にも友達にも話せないの。会って間もないあなたにだから、聞けること」

「……ここでは聞けないことなんですか? 言いにくいんですけど、ラブホテルって、性行為をするための場所ですよ」

 気まずい思いでボソボソと告げると、だからなんだとばかりに、透はパチパチとまばたきをした。

 信号が青に変わる。ゆっくりとアクセルを踏み込んだ瞬間、透の笑みが深まった。

「なら、余計に都合がいいね」

 湧き上がる唾液を飲み下す。二の腕に触れる、指の細さを意識した。性欲の対象を異性に限らない自分を、その日愛理は、はじめて知った。



 入り口のパネルで部屋を選んで、入室する。時間帯のせいか安い部屋は埋まっていたけれど、高い角部屋だけは空いていた。

「すごいね。ベッドが丸い。壁は一面ピンクだし……、それに、なあに、これ?」

 興味津々とばかりに部屋を見渡した透は、ベッドサイドのボタンを操作しては、わあと間の抜けた歓声を上げている。

「ベッドが回る。賑やかなのね」

「そういう場所ですから。……お風呂、お先にどうぞ、透さん」

 不思議そうに首を傾げる透を、上擦る声でそっと促す。パパたちが空々しい言葉でシャワーを促してくるたび、年甲斐もなく透けて見える欲望を蔑んできたものだったが、促す側にまわってはじめて、悲しいかな、彼らの気持ちがほんの少しだけ理解できてしまった。


 順番にシャワーを浴びた後、広いベッドに並んで座る。性行為のための場所だと口にしたのは自分だと言うのに、年上の女の化粧を落とした薄い顔を目にした瞬間、わけもなく落ち着かない気持ちになった。

「愛理ちゃんは、何回くらいここに来たの?」

 透の薄い唇が、ひそやかに言葉を紡ぐ。決まり悪さをごまかすように、愛理はバスローブの合わせ目をくしゃりと握った。

「パパと、ってことですよね。プロに調べてもらったならご存知だと思いますけど……、十回は超えるんじゃないでしょうか。半年間、二週間に一回は来てましたよ」

「ふうん。愛理ちゃんは、セックスが好きなの?」

 あまりにストレートな聞き方に、思わず苦笑する。スケベ心丸出しで聞かれたことは何度もあるけれど、こうも悪気も下心もない聞かれ方をしたのは初めてだ。

 悪意はないのだろう。でもそれだけに、無神経でもある。

「うち、父親がいないんですよね」

 脈絡もなく始まった愛理の話の先を、透は黙って促した。

「よくある話です。親たちは、あたしができて結婚したらしいんですけど、恋人と家族って違うらしいじゃないですか。三つ下に妹もいるんですけど、子育てしてるうちに、どんどん不仲になったみたいで……あたしが十になる前に、父親は外に女を作って出て行きました」

 女手ひとつで姉妹二人を育てることになった愛理の母は、昼はバイトとパートを掛け持ちし、夜は水商売に身を浸した。学歴も職歴もないまま専業主婦になった母が、自身を含めた女三人を養える方法は、それだけだった。

「母には『勉強をしなさい』ってよく言われましたよ。誰に裏切られても、身につけた知識は裏切らないからって」

「立派なお母様なのね」

「どうでしょう。自分の人生のやり直しを、あたしたちにさせているだけのような気もしますけど」

 首を傾げる透に、愛理は肩をすくめて見せた。

「公立で良いって言ったのに、あたしも妹も私立の高校に入れられました。高卒で就職したかったんですけど、それも許してくれなくて。ただでさえ父親がいないせいで白い目で見られるんだから、あんたたちはちゃんとしなさいって」

 ちゃんとってなんだろう。誰が決めるものなのだろう。母がいなければ同情するのに、父がいないと口さがのないことを言い出す適当すぎる世間の基準に、いったいどれだけの価値があるというのだろう。

「お母様の愛情ではないの?」

「頼んでもないのに身を削られて、与えられる方の身にもなってほしいです。それで心も体も壊しちゃ、世話ないですよ」

 病棟に見舞いに行くと、入院服を着た母はいつもぼんやりと空を見つめている。見えない敵と戦うような痛々しさもない代わりに、壊れた母は、愛理のことも妹のことも、もう𠮟ってはくれない。

 透の目に浮かび始めた憐憫の色を見ていられず、愛理はそっと目を逸らす。

「だから、まあ……こういうの全部、お金のためです。あたしたち姉妹が『ちゃんと』大学を出て職に就くのが、母の望みみたいですから」

「お母様はご存知なの?」

「まさか。でも、勉強しながらお金を稼ごうと思ったら、まともな方法じゃ間に合いません。離婚せずに父が逃げたせいで奨学金も借りられないし、母の入院費だってありますから」

「……苦労してるのね。こういったらなんだけど、物語の中の人生みたい」

 その生真面目なんだか馬鹿にしてるんだか分からない感想が面白くて、愛理は吹き出すように笑い出す。

「そんな簡単に信じないでくださいよ」

「嘘なの?」

「さあ。でもね、こうやって同情を引くの、パパたちからお小遣いをもらう定石ですよ、透さん」

 下から透の顔をのぞき込む。目を丸くしている顔を見て、ますます笑いが止まらなくなった。このマイペースな女の鼻を明かしてやれたと思うと、ほんの少しだけ気分が良くなる。

「ああ、別にセックスは好きでも嫌いでもないです。そういう気分のときに、好みの相手とするのは好きですけどね」

 ついでに赤面してうろたえろ。そう思って付け足した言葉は、宇宙人でも見るかのような眼差しで受け止められた。

「『そういう気分』になることって、本当にあるものなの?」

 その言葉に、今度は愛理が面食らう。艶やかな黒髪を耳に掛けながら、恥じらうように透はそっと目を伏せた。

 透の言うところの『聞きてみたかったこと』とやらは、なるほど性行為の話らしい。それはたしかに、親や友人には聞き辛かろう。合点がいくと同時に、シャワーを浴びるよう促したときの不思議そうな表情の意味を悟って、頬に血がのぼった。透は愛理の時間を買うとは言ったが、愛理と寝たいとは一言も言っていないではないか。

 自分の早とちりを恥じながら、愛理は頬の熱さをごまかすように、ぼそぼそと答えた。

「……ありますよ。タイミングとか、相手にもよりますけど」

 透さんだってそうでしょうと水を向けるが、彼女は困ったように目を伏せるばかりだった。

「私、よく分からなくて。セックスって、そもそも本当に気持ちいいものなの?」

 何を言い出すのだ。ぽかんと見つめると、焦ったように透は早口で話し出す。言い訳をするかのような、何かを誤魔化そうとするような、いかにも居心地の悪そうな語り口だった。

「私、重さん以外と寝たことがないの。何をするのが普通なのかも分からない。先に結婚した友達にそれとなく聞いてみたこともあるけど、『全部彼に任せればいいから』って」

 初めて性行為をしたときは、こんなことを皆本当にしているのかと正気を疑った。体中をさらけ出し、想い人に見せるには勇気のいる体勢をさせられて。快感なんてかけらもなければ、愛する人とひとつになる喜びとやらも分からないまま、痛みと違和感、気持ちの悪さだけが張り付くように体に残った。そう、ぽつりぽつりと透は語る。

「愛していたら触れたくなるっていうのが、よく分からないの。体の中を触られるのって、気分のいいものじゃないし、裂けるとお手洗いのたびに痛むし……」

 夫や友に相談しても、返される言葉は『慣れれば良くなる』『まだ良さが分かっていないだけ』とそればかり。

 どれもこれも、愛理にも聞き覚えのある言葉だ。

 自分たちの持つものを、当たり前だと無邪気に信じている人たちの言葉は、優しいからこそ無神経で、ぐさりと刺さる。

「早く妊娠したかった。妊娠したら、しなくてもよくなるでしょう? でも、何年経っても妊娠できなくて……」

 夫のことは大好きだったし、自分にできることならしてあげたかった。それが夫婦の義務だとも言われた。触れられれば勝手に体が反応することはあったけれど、望んでその行為をしたいと思ったことはない。それでも重さんがしたがるのなら、応えたかった。淡々と、溢れる言葉を堰き止めることなく話し続けた透は、不意に「でも」と声音を冷やす。

「あの人は私を裏切ったね」

 す、と手を上げた透は、愛理の指に指を絡ませるようにして、手を重ねてきた。しっとりと冷えた感触に、自由奔放に見えるくせして、この人もしっかりと緊張しているのだと分かってしまう。

「あの人はどんな風にあなたを抱いた? 重さん、当たりは強いし威張り屋さんで、あなたみたいな若くて綺麗な子に好かれる要素があるとは思わなかった」

 好かれるという言葉に眉をひそめるが、透に気づく様子はない。

「愛理ちゃんはお金のためだって言ったけど、本当に? 他の人じゃなくて重さんを選んだ理由が、他にあるんじゃ――」

「ありませんよ、そんなもの」

 聞いていられなくなって、愛理は透の言葉を遮った。

「あたしがパパとしていたことは、透さんが考えていることとは、多分違います」

「どういう意味?」

 体に触ってもいいですか、と尋ねる。透が訝しげに頷いたのを確かめた後で、愛理は透の細い体を、ゆっくりとベッドの上に押し倒す。

「透さんの位置が、パパの位置。パパはあたしを抱いていたんじゃない。あたしパパを抱いてたんです。言ってる意味、分かります?」

 きょとんと見上げてくる透の顔は、まるで幼い少女のようだった。言い聞かせるように、愛理は丁寧に言葉を足す。

「あたし、元々攻め売りしてて……って言っても、分かりませんよね。えっと、つまり……あたしが、ベッドに寝っ転がったパパの首や胸や足の間を触って、気持ちよくなってもらっていたんです」

 パパ活を始めるより前、愛理は風俗店で働いていた。パパは元々、愛理が勤める店の常連客だったのだ。

「でも、好きだとか何だとか、そういう感情は一切ありません。お金をもらう代わりに、あたしはパパの望むことをしていた。それだけです。気持ちは良かったですよ。多分、相性が合ってたんでしょうね。あたしは攻めるのが得意で、パパは、リードされるのが好きでしたから」

「……知らなかった」

 声を震わせながら、透は力なく首を振る。パパと透、ふたりへの同情を込めて、愛理は「言えなかったんだと思いますよ」と穏やかに声を掛けた。

「パパは透さんにベタ惚れだったみたいだから、カッコつけたかったんだと思います。男の人に身を任せればいいって、さっき透さん、言いましたよね。セックスは男がリードするものだって、パパも透さんも思ってたんじゃないんですか」

 受け身が好きな男もいれば、相手をかわいがるのが得意な女もいるというのに。世間の『普通』は馬鹿馬鹿しい。

「お望みでしたら、パパと同じこと、体験してみます?」

 問いかけた途端に、透の体が強張った。その正直さに苦笑しながら、愛理は「冗談です」と身を起こす。

 普段はエリート然としていたパパが、透の名を呼びながら愛理の肌を求めた理由が、よく分かる。相手が望まないと知りながらする独りよがりな行為ほど、虚しいものはないだろう。代わりの温もりを求めたくなる日が、あったのかもしれない。

 けれど愛理には、パパの気持ちと同じだけ、透の気持ちも分かってしまう。

「分からないことを求められるのは、きついですよね」

 弾みをつけてベッドに座り直しながら、愛理は笑う。

「浮気相手にわざわざこんなこと聞きに来る気持ちも、死んだ旦那さんの骨を捨てたくなるほど嫉妬する気持ちも、さっぱり分かりませんけど……、あげられないものを求められる辛さだけは、あたしにも分かる気がします」

「愛理ちゃんも、同じなの?」

 透が髪を整えながら身を起こす。困惑に染まった顔をまっすぐ見つめて、愛理はわずかに首を傾げた。

「いいえ、でも、似てるかも。透さん、言いましたよね。『愛してるなら触りたくなる』が分からないって。あたし、逆なんです。誰かと寝てみたいとは思っても、好きとか愛が分からない」

「恋をしたことがないだけじゃなくて?」

「『本当に気持ちのいい行為を知らないだけだ』って言われた透さんが、あたしにそれを言いますか?」

 意地悪く問いに問いを返せば、透は「ごめんなさい」と目を伏せた。育ちも性格も考え方も、決して分かり合える気がしない相手だけれど、世間の『普通』にはまれないという一点において、愛理と透は同志になれる。

 しょぼくれた顔をしている透をちらりと見やって、愛理は勢いよく立ち上がる。この自己中な女のことは苦手だが、金をもらった以上は、せめて楽しませてやるのが愛理の矜持というものだ。

 机を漁った愛理は、メニュー表とタッチパネルをいそいそと手に取ると、透の目の前に差し出した。

「聞きたいことはそれだけですか? えっちなことしないなら、別のことしましょうよ。透さん、何か食べます? あたし、カラオケ歌っていいですか?」

「え? え……っ? カラオケって?」

「歌うんです。どれだけ声出したって苦情来ませんから」

 酒とつまみを注文し、場持たせに適当に歌を歌って時間を潰す。

 良いところの暮らしってどんな感じなんですか、義理の両親と暮らすって鬱憤溜まりそうですよね。うちもうちで大変ですよ。適当に話を振りながら、昔ながらの男尊女卑カルチャーには馴染みが深かろうと思い、親戚で集まるたびに女は家事をやらされ、男は座って談笑していた旨などを語って聞かせる。同意が得られるかと思いきや、「ハウスキーパーはいなかったの?」なんてお嬢様な言葉が当たり前に飛び出てくるものだから、嫌味を通り越していっそ清々しくなった。

 『休憩』を終えてホテルを出た後は、何事もなかったかのようにレンタカーで帰路につく。

「家、どこですか」

 尋ねれば、透はすっかり充血しきった目を眠そうに瞬かせながら、高級住宅街の住所を口にした。一拍置いて、独り言のように「これからどうしようかな」と、頼りない声が後に続く。

「ずっとお義父さまたちの家に住まわせてもらうわけにもいかないよね」

「はあ、まあ、居心地悪そうですよね」

「重さん、私を置いていくんだもの。ひどいなあ」

 途方に暮れた声に、なんとなく落ち着かない気持ちになる。会って間もない年下の浮気相手に、人生相談なんてしないでほしい。

「手始めに、免許でも取ったらどうですか」

「え?」

「免許です。免許。くれなかったパパは、透さんが森に捨てたわけじゃないですか」

 ぽかんと間抜けな顔をした後で、透はくすくす笑って「そうね」と言った。

「練習付き合ってくれる? 愛理ちゃん」

「勘弁してください」

「もちろん、ただでとは言わないよ」

 自己中な女はあくどく笑って、指をすり合わせる。顔に似合わぬ品のない仕草に顔を引きつらせつつ、ぼそりと愛理は口を開いた。

「パパの遺産、そんなことに使っていいんですか」

「私のお金だよ? 不動産くらい、私だって持ってます。私のお金を何に使おうが、私の自由」

 遺骨遺棄の共犯だって、バレたらあなたも困るでしょう?

 断られるなんて微塵も思っていない、自信満々の声音だった。数時間前と内容だけを変えた脅しの言葉に、呆れるより前に感服する。こうも世界が自分のために回っていたら、さぞかし人生楽しかろう。

「……レンタカーの横に座るだけで良ければ、考えます」

「約束ね」

 本当に、なんて縁を繋いでくれたのか。森に埋められた男の顔を憎々しく思い返しつつ、愛理はぐっとアクセルを踏み込んだ。

 人気のない道路に、控えめなエンジン音が静かに響く。白み始めた空が、忌々しいほど目に眩しかった。

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レンタカーと共犯者 あかいあとり @atori_akai

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