午前3時のCDショップにようこそ

未来屋 環

そのCDショップはあなたのことを待っている。

 ――まるで、何も見えない暗闇の中を泳いでいるみたいだ。



 『午前3時のCDショップにようこそ』



 終電を逃した。

 飲みたくもない酒、行きたくもない店、話したくもない奴に付き合って、気付けば俺は夜更けの街に取り残されていた。


「じゃ、お前もテキトーに帰れよ」

 すっかりいい気分になった上司がタクシーに乗り込みながらのたまう。

 ――ふざけんな。声にならない悪態をいた。

 俺の財布にはテキトーに帰る為のタクシー代を出す余裕なんてない。ここまで付き合わせておいて、そのまま放置とは。昼だけじゃなく夜のマネジメント能力も皆無とは誠に恐れ入る――とまぁ、そんなことを言っても仕方がない。

 そんな上司に付き合わざるを得ない哀れな平社員――それが今の俺のポジションだ。

 とびきり仕事ができたなら、こんな得るものなど何もない誘いを断ったっていいのかも知れない。しかし、ノルマはギリギリ、週次の部内会議では毎回吊るし上げ、そんな圧倒的弱者が少しでも追及を逃れる為には、こういう社内営業活動が地味に効いてくる。

 いつの間にかその状況に甘んじている俺も大概だが、この負のスパイラルを抜け出す能力も気力もないのだからしょうがない。



 俺は仕方なく、駅近くのファーストフード店に入った。

 漫画喫茶は2本先の通りの端にあるが、この寒空の下そこまで歩くのはだるいし、何より深夜料金は思ったより高くつく。24時間営業のこの場所で、始発までやり過ごすのが最善手だ。

 注文したコーヒーを片手にくたびれた空気の満ちる空間で、ニュースサイトを流し読みしながら朝を待つ。近くの席では真っ赤な顔をしたサラリーマンがいびきをかいている。迷惑だと顔を顰めたところで、俺も周りから見れば大差ない存在だと気付き――独りで小さく嘲笑わらった。

 特段旨くもないコーヒーを啜りながら、俺は惰性で記事をクリックする。世の中で色々なことが起こっていても、俺の日常に直接関わり合うことは限られている。誰が誰と不倫しようが知ったことじゃない。何故皆他人のことにそこまで熱くなれるのだろう。俺は自分のことにすら熱くなれないのに。


 そんな何の生産性もない状況が変わったのは、午前2時45分を回った時のことだった。

「閉店でーす」

 間延びした声で、それでいて確固たる強制力を持ったその宣告により、俺達は安住の地を追い出される羽目になってしまった。

 24時間営業というのは方便だったようだ。実際には店内清掃の関係で、午前3時から5時は閉店するらしい。だったらそう書いておくべきじゃないのか――そう文句の一つも言いたくなったが、まだ赤みの残る顔でぐだぐだと店員に絡むサラリーマンと一緒にされたくなくて、俺はちっぽけなプライドを優先した。



 午前3時の街は静まり返っている。この季節だ、まだ夜明けは遠い。

 真っ暗な中にぽつんと取り残されていると、ここが人の棲む世界なのか自信がなくなってくる。これから始発までの2時間、俺はこの暗闇の中を生き抜かなければならない。日中とは別の顔をした街の中を、俺は彷徨さまよい始める。1時間前に摂取したカフェインのお蔭か、身体の気怠けだるさに反して目は冴えていた。


 中学・高校とエース級の存在ではなかったが、それでもクラスの中ではまぁまぁの位置にいたと思う。大学では人並みに遊んだが、サークルでは要職を任されていたし、学業の成績だって悪くなかった。就活も仲間内では早いタイミングで内定が決まり、時々周囲の相談に乗ったりもしていた。

 それが、入社して営業部門に配属されてからは、なかなか思い通りに事が進まなくなった。大口の顧客を任されたものの、近年の不景気で受注は右肩下がりだ。努力をしてもそれに見合ったリターンが確約されている訳ではない。経験年数だけが増えていき、もう「頑張りました」で許される歳でもなくなってきている。

 気付けば俺は、何も見えない暗闇の中で溺れているような状況に陥っていた。


 ――目が冴えている所為せいで、余計なことばかり考えてしまう。

 そんな俺の視界に、ふと夜の世界に叛逆はんぎゃくするように瞬く光が飛び込んだ。こんな時間に営業しているとすれば、居酒屋かバーだろうか。酒はこれ以上飲みたくないが、さすがに寒さを紛らわす場所は欲しい。

 そう思いながらこの時間帯に不似合いな光に近付いていくと、そこには思いもかけないものがった。


「……CD屋?」


 誰にも届かない声が、間抜けに響く。

 そう、そこはCDショップだった。大手のチェーン店では決してない。店名を見ても全くぴんとこない。そんな店だ。

 そもそも最後にCDを買ったのはいつのことだろう。7-8年前、大学の仲間で海に行くことになり、ドライブ用に有名アーティストのベスト盤を買ったのは朧気ながら覚えている。もしかしたら、それが最後かも知れない。

 思い返せば、学生の頃は音楽が好きなやつが周りに多くて、色々なCDを貸し借りしていたように思う。いつの間にか好きな音楽を選んで聴くこともなくなっていた。仕事でカラオケに行っても、盛り上がりそうな流行りの曲か、客受けを狙ったバカみたいな替え歌しか歌わない。サブスクでわざわざ聴く程、俺の人生は音楽に傾倒していなかった。

 思考を巡らせていたその時、びゅうと寒さを纏った突風が吹く。

 その勢いに追い立てられるように――俺ははらを決めて、その店のドアを開けた。


 ***


 入口をかいくぐった先の世界は、目に痛い程明るい白色はくしょくで照らされていた。時間帯など誰知ることかという勢いで、店内ではエレキギターが激しくその存在を主張する曲が流れている。

 そんな中で、俺の気配に気付いた店員がこちらを振り返った。

「あら、いらっしゃい」

 黒髪を後頭部の高い位置で結ったその店員は、愛想のない声で言った。細めの眼鏡が光を反射する。所在無げな俺を見て、彼女は薄く笑った。


「何、始発待ち? いいよ、ゆっくりしてって」


 自然に投げかけられたタメ口に小さな反感を抱いたものの、正直なところ俺は客でも何でもないのだから文句を言う資格もない。どうやら店員は彼女だけのようだ。こんな深夜に女性ひとりというのは防犯面で大丈夫なのかとも思ったが、彼女はこちらを大して気にする様子もなく、目の前の棚に並ぶCDを整理する作業に戻った。

 俺は「……うす」と小さく呟いて、聴いたことのないロックが響き渡る店内をぶらつく許可を得た。


 取り敢えず邦楽の新譜コーナーに行って並べられているCDを眺めてみる。ミュージシャンの名前は辛うじて知っているものの、タイトルを見てもどんな曲か全くわからない。新しい情報に対する感度が、想像以上に鈍ってしまっているようだ。

 目を滑らせていくと、端の方には有名バンドのアルバムが並べられていた。中学の頃の友人がファンだったことを、懐かしく思い出す。あいつともずっと逢っていない。それでも、当時活躍していた彼らがいまだに新しいアルバムを出し続けているという事実は、ファンでも何でもなかった俺にも小さな勇気をくれた。

 続いて洋楽コーナーに移る。こちらは全滅だ。全然わからない。まぁ思い返してみれば、洋楽にやたら詳しい高校時代の友人がいたが、そいつから借りたミュージシャンくらいしか当時も聴いていなかった。あいつはグラミー賞とかも全部チェックしていたと思う。「今月もピンチだわー」と毎月のように嘆く口振りが懐かしかった。


 こうやってCDを眺めているだけなのに、色々な思い出が、それに付随する感情が、脳内を駆け巡る。

 思えば、こんな風に過ごすこと、ここ数年なかったかも知れない。

 週末は夕方まで寝るか平日に終わりきらなかった仕事をして、残った時間はただただ動画を観ながら買ってきた惣菜と発泡酒を胃袋に流し込むだけだ。学生の時の友人とも誰かの結婚式で顔を合わせるくらいで、その時も思い出話は避けていた。


 ――あの時は楽しかったなんて、言いたくなくて。

 それなら、今の俺は何なんだって、思ってしまうから。


 でも、そうやって避けてきたはずの記憶達と顔を合わせてみれば、存外それは嫌なものでもなかった。確かにあの時には決して戻れないという一抹いちまつの寂しさはあるが、その数多あまたの思い出は、俺の心の奥底をじわりとあたためてくれる。

 まるで、見ない振りをしていた俺の中の隙間を埋め合わせるかのように。



 ふと、その隣の棚に目を移した時、俺は思わず「あ」と声を洩らした。

 そこには、くだんの高校時代の友人から借りたことのあるロックバンドのベストアルバムが置いてあった。懐かしさに背中を押され、思わずそれを手に取る。

 赤地に大きくメンバーの写真が印刷されたジャケット。裏返せば見覚えのある曲名達の羅列。俺の中に眠っていた音の記憶がよみがえってくる。

「懐かしい……」

 うるさいロックは苦手だった俺に、あいつが「意外にバラードもいいから」と貸してくれたんだっけ。そうだ、4曲目。確かにあいつの言う通り、この曲にはまって何回も何回も聴いた。


「――お客さん、目の付け所がいいね」


 いきなり右側からかけられた声に、俺はCDを取り落としそうになった。顔を向けると、そこには店員の女性がいる。制服らしき黒いエプロンの胸には、缶バッジが何個も並べて付けられていた。

「それ、あたしがセレクトしたの。発売は10年以上前だけど、アガるでしょ?」

 棚に向き直ると、確かにジャンルを書くプレート上には『HOT RECOMMEND』と書かれている。もう一度視線を戻すと、彼女は得意げな笑みを浮かべていた。

「このバンド、一番売れたのがバラードだったもんだから、そればっかりされるのが勿体もったいないよね」

「勿体ない?」

 自分の好きな曲がけなされたような気がして、俺は思わず問い返す。彼女は首をすくめてみせた。

「そ。何故かロックバンドのバラードって過大評価されてる気がしない? 確かに名曲も多いけど、やっぱロックバンドなんだからガンガンのロックで勝負しないと。そういう意味では、私はデビュー曲が好きだなぁ」

 そして彼女はCDを1枚手に取ると、つかつかとレジの裏に消えていく。


 ――少し経って、店内に流れていた曲が止まり、別の曲が流れ出した。

 ベストアルバム1曲目に収録されていた、例のロックバンドのデビュー曲だ。

 少し暗めな曲調に、激しめのメロディーが重なる。残念ながら俺は英語も弱いので、何を歌っているのかはよくわからない。

 それでも――懸命に声を張り上げるそのボーカリストの歌が、何故だか俺の琴線に触れた。当時は煩いと思っていた楽器の音も、その切実さに負けじと闘っているようで、不思議とすんなりと受け容れられる。


「――ね、いいでしょ」

 いつの間にか俺の隣に戻ってきていた彼女が、嬉しそうに言った。

 素直に同意するのも面白くなくて、俺は「……まぁ、デビュー曲は大体いい曲でしょ」と返す。すると「そりゃそうだ」と彼女は逆にこちらが拍子抜けするくらいさらりと答えた。

「折角だから、お客さんがいる間はこのアルバムずっと流しておくよ」

 そう言って彼女は小脇に抱えたパイプ椅子を俺に渡し、またレジの裏に消えていく。店内は俺と彼らの曲だけの空間になった。気を遣ってくれたんだろうか。

 俺は彼女の好意に甘えて、渡された椅子に座りゆっくりと目を閉じる。

 ――ただ、目の前の音楽と、そして自分の内面と向き合う為に。


 ***


「お買い上げありがとうございましたー」

 時刻はあっというに午前5時を迎えていた。

 無事に始発までの間を生き永らえることのできた俺は、店員の彼女とロックバンドへの感謝の気持ちを込めて、ベストアルバムを購入した。

 たかだか3,000円足らずの買い物だ。

 それなのに――この圧倒的な満足感と、またこれを聴くことができるという高揚感は、何だろう。

「色々ありがとう」

 そう言葉を返してCDを受け取ると、目の前の彼女はその表情を笑顔に染める。いつの間にか愛想のなさは消えていた。

「――お客さん、店に入ってきた時より、いい表情かおになったね」

「……そうかな?」

 何だか照れくさくて、俺は彼女の顔を直視できなくなる。それでも彼女は気を悪くした様子を見せず「そうだよ」と続けた。


「音楽って不思議でさ、聴くタイミングによって感じ方も変わるんだよね。当時は何とも思わなかった曲が、今になってすごく心に刺さることもある。それが、疲れた気持ちを癒してくれたり、自分の気持ちを奮い立たせてくれたりもする」

 彼女はレジの横に積まれたCDを1枚取り、いとおしそうにそれを撫でる。

 まるで、それが命を持ったひとつの生き物であるかのように。

「音楽と人の感情は連動していると思うと、また新しい曲に出逢いたくなるんだ。それを通して、自分でも知らない新しい自分に出逢える気がして――お客さんは、きっといい出逢いをしたんだね」


 俺は受け取ったCDに視線を落とした。ジャケットに印刷されたミュージシャンと目が合う。逢ったこともない、2時間前には存在すら忘れていた彼らのことが、何だかかけがえのない旧友のように思えた。

 ――そういう出逢いを、もっと楽しんでみてもいいのかも知れない。

 まずは、このアルバムから始めることにしよう。



 俺は店のドアを開けて、暗闇の世界と向き合う。

 この時期の明け方5時は、まだまだ暗い。それでも、空の端は少しずつ光に侵食されていて――確実に闇は晴れていくのだと、そう気付かせてくれる。

 これから一歩踏み出す俺は、きっと午前3時前の俺とは別人で。

 俺を待ち受ける世界は、きっと午前3時前の世界とは別の形をしているはずだ。


 まるで初対面の世界に飛び込むようなわくわくした気持ちで、俺はCDの入った袋を握り締め、その足を踏み出した。



(了)

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