雪の晩鐘
下村アンダーソン
雪の晩鐘
父がもっとも勇敢な死を迎えたので、一族は宴の準備を始めた。冬の訪れを前に収穫してあった山菜は無論のこと、肉という肉、魚という魚もみな、父の旅立ちを祝うのに使うべきだといちばん上の兄が主張し、異を唱える者は誰もいなかった。偉大な男を見送るには、それにふさわしい盛大な場を用意してこそ残された者たちの結束は強まり、より繁栄してゆけるのだというのが、わたしたち一族のしきたりだった。神が雷となって大地へ舞い降り、わたしたちの遠い祖先を誕生させて以来の。
神の化身であった男が訪れるまで、女は土塊であったという。雷とともに雨が降り、風が起きてようやく、土に魂が吹き込まれた。女は神に感謝し、わたしたち一族の始めのひとりを生んだ。役目を終えた神はすぐさま、地上から立ち去った。狼の群れを引き連れて、雄々しく行進するようにして。
そういった次第であるから、父の亡骸を見つけたのもやはり、いちばん上の兄だった。おれは一族で二番目に勇敢な男であるがゆえに、その栄に浴することができたのであろうと、彼は弟たちに語った。父が父の父を見つけたときも、父の父がそのまた父を見つけたときも、きっと同様であったのだろう、と。
わたしはその話を、宴に使う祭具や楽器に調整を施しながら、片耳だけで聞いていた。主屋のなかで私に割り当てられた空間はわずかであったから、ふと気を緩めて手足がはみ出しでもしたら、兄たちに申し訳が立たないと思った。
「父上は狼と取っ組み合った姿勢のままで死んでいた。おれはすぐさま、そいつが〈銀の狼の王〉に違いないと分かった。雷神のもとまで父と並走する輩たりうるのは奴だけだと、おれは幼い頃から知っていた」
二番目、三番目、四番目の兄がいっせいに雄叫びをあげ、手を打ち鳴らしたりあたりを駆け回ったりした。一番目の兄は厳かに、続きを聞け、男たちよ、と言った。
「おまえたちも承知のことと思うが、父は立派に本懐を遂げた。老いて肉体を土塊のようにするのは、ましてや弱り、横たわって死の訪れをただ待つのは、われわれにとって恥に他ならない。頑健であるうちに勇気を示し、新たな旅に向かわなければならない。そうでなければ決して、われわれは天に受け入れられないのだ」
おれはもっとも高い崖から飛ぶ、と二番目の兄が言い、ならばおれはもっとも険しい山へと昇る、と三番目の兄が続けた。おれは、おれは、と四番目の兄があたりをきょろきょろと見渡し、それからたどたどしい調子で、
「おれは、稲妻のように、猛々しく、鮮やかに、死ぬ」
「素晴らしい心掛けだ。それでこそわが一族の男だ」と長兄は白い歯を見せた。
*
兄たちはいつしか酒を飲みはじめ、夜が更けるとますます騒がしくなった。いっぽうでわたしと女中たちは倉庫や、作業小屋や、祭壇へと散り、宴に備えての雑務を続行した。
料理をする者も、家畜の世話をする者も、当日に兄たちが身に着ける衣類を仕立てる者もいる。もっとも手間なのは、父とともに旅立った〈銀の狼の王〉の皮を長兄が剥いだ、その後片付けをすることで、これには数人の女中がかかりきりになっていた。神聖な一刀を入れることのみが彼の仕事で、残りはすべて他の者の仕事だったからだ。
わたしは男でこそないが純血であり、兄たちに代わって女中を監督する立場になることが頻繁にあった。彼女らもそれを承知して、わたしの指示にはよく従ってくれる。
わたしがあちこちを見回ったり、困りごとに手を貸したり、あとで兄たちに確かめるべきことを書き留めたりして過ごしていると、リューリさま、リューリさま、と女中のひとりが私を呼びに訪れた。
「どうかした?」
「いいえ。ただちょっと――リューリさまは族長さまの旅立ちの宴の夜、〈見送りの歌〉をうたわれるんでしょう? わたしたちは参列が叶いませんから、せめてどんなものか、少しだけでもお聞かせ願えないものかと、みんなが」
父の死に際して、子のなかでもっとも歌に秀でた者がその役割を引き受けるというのもまた、わたしたち一族のしきたりだった。わたしたちきょうだいでいえば、それはわたしであるはずだった。
狩りの成功を喜ぶ歌、森を素早く駆け抜ける競技を応援する歌、戦いの歌……わたしたちの一族にはいくつもの歌があり、そのすべてを誰よりも猛々しく歌いこなせるのが、わたしの唯一の自慢だった。伴奏に使う〈銀狼琴〉の扱いにも、一方ならぬ自信があった。
「まだ夜は長いですし、一息を入れるということで、ぜひお願いしたいんです」
「仕方ないな」
と私は応じて、調整を済ませたばかりの〈銀狼琴〉を母屋に取りに戻った。三番目四番目の兄はすでに深く寝入っていたが、上ふたりの兄はまだ上機嫌に酔っぱらっていて、わたしが入っていってもまるで気に留めていないようだった。彼らの語らいはまだ終わりそうにもなかった。
楽器を手に外へ出ると、主屋とは離れた場所にある小屋に向かった。女中たちは仕事以外での主屋への立ち入りは禁止されていて、全員がその一棟で寝泊まりをするのだ。
狭苦しい空間にぎゅう詰めになりながらも、女たちは目を爛々とさせ、耳を欹ててわたしを待ち構えていた。わたしは彼女たちに囲まれながら、足を組んで座り、〈銀狼琴〉を太腿のうえに宛がって位置を定めた。弦に親指を滑らせる。
地鳴りのような、あるいは落雷のような低音を響かせておいてから、より細い、すなわち高い音を発する弦に中指と薬指を叩きつけて、荒々しい旋律を形作る。同時に人差指がひとりでに動いて、音どうしの幽かな隙間を縫い取るにふさわしい、また別の音を奏でる。そうして立ち現れた主題を反復し、みなに浸透するのを待ってから、わたしは歌いはじめた。
一族に伝わる歌唱法では、声は歪めば歪むほど、荒々しければ荒々しいほどよいとされている。絶叫にも似ているが、単に声を張り上げるだけではすぐさま咽を痛めてしまい、安定した歌にはなりえない。手本とすべきは狼の吠え声であり、わたしたちは物心がつく前から徹底して、彼らの歌に耳を澄ますよう命じられる。
奴らは常に強く、そして誇り高い。どんな戦いにも臆しない。狼は勝利と栄光の生き物であり、だからこそわれら一族と並び立つ存在たりうるのだ。
わたしは弦を弾く指先を速めつつ、いっそう声の抑揚を激しくして、空間にうねりを生じさせんとした。その高まりが最高潮に達しようとしたまさにそのときだ。小屋の扉が押し開けられ、風がなだれ込んできて、あらゆる魔法を吹き散らしてしまった。
「リューリ」と長兄の声が呼んだ。「来い」
「はい」
わたしは声音を平常どおりに戻してそう応じ、楽器を置いた。女中たちのあいだを抜け、外へと駆ける。
「あれは〈見送りの歌〉だな」
長兄はなにか厳粛そうな表情で、出てきたわたしの顔を見つめた。
「そうです。みんなが聴いてみたいと言ったので。いけなかったでしょうか」
「ああ、それはいい」彼は羽虫でも払うように手を振った。「文化というものは誰にも必要だからな。おまえが女たちの前で歌うのを禁じるつもりはない。だが――」
兄が唇を舐めた。わたしは息を詰めた。
「〈旅立ちの宴〉で歌うのは、おまえではなくミーカにする。だからおまえはもう、〈見送りの歌〉を練習する必要はない」
「なぜですか」
口答えをするつもりではなかったが、言葉がそう、勝手に飛び出していた。ミーカというのは二番目の兄だ。わたしの立場上、下手とは言うまい。しかし彼は明らかに無理な発声を続けて、声がしわがれてしまっているのだ。
「わたしの歌は未熟ですか。いけない点があれば指摘してください。必ず直します。ですからわたしに――」
「違う、そういう話じゃないんだ」長兄は再び、ひらひらと掌を動かして、わたしの訴えを遮った。「おまえは確かに歌が巧い。おれたちも認めてる。でもなリューリ、〈旅立ちの宴〉は大事な儀式なんだ。父上を送り出し、おれが新たな族長となるためのな」
「ですから、そうであるからこそ、わたしが歌うべきだと申し上げているんです。もっとも歌に秀でた者が歌う、それが決まりではないですか」
「そうだ。だが正直に言って、これまでに例がないんだ。男より巧くあの歌をうたえる女は、おれたちの歴史上、誰も存在しなかった。存在するはずがないんだ。おまえも知ってるだろう、女はかつて土だった。男は稲妻であり、狼だ。〈見送りの歌〉は男が歌わなければならない歌なんだ」
長兄は強い口調でそう言い切ると、腰に提げた革袋に片手を差し入れてなにかを摘まみ、わたしの眼前に突き出した。
「受け取れ」
わたしは両の掌を椀の形にして差し出した。小さな白い塊がふたつ、そこには残された。
「父上と、〈銀の狼の王〉の歯だ。本来は男のみが身に着けるものだが、特別におまえにやる。おまえは明日からそれを磨き、装飾品とする仕事に移れ。祭具と楽器にはいっさい触れるな。これはおれからの、おまえへの最大限の敬意だ。もし逆らうというのなら、おれは族長として、おまえを追放しなくてはならない」
わたしは無言のまま、渡された品を握り込んだ。〈銀狼琴〉を弾きつづけて固くなった指先の皮膚に、鋭く尖った感触が伝った。
*
爪先で雪の表層を蹴りつけながら、わたしは坂道を下る。昨晩から続く酒宴の喧騒が、重なり合う兄たちの笑い声が少しずつ遠ざかって、自分の足音と、呼吸のみが鮮明になる。
空は青々としていた。空気は恐ろしいほどに冷たく、息を吸い上げるたび、胸の奥が突き刺さされるようだった。
自分が男ではないことも、一族において女が男ほど尊敬されないことも、わたしは幼い頃から知っていた。わたしは狩りに出なかったし、森を駆ける競争にも参加しなかった。しかしその傍らで歌うことだけは、許されていたはずだった。
女中たちの前でなら歌えるのだから、声を失くしたわけではない。そう自分に言い聞かせてはみるのだが、愚かで見栄っ張りな性根は、胸の内で膨れ上がりつづけて、今しもはち切れそうになっていた。
男は進むことを、女は退くことを覚えなくてはいけないと、一族のしきたりにはある。そのくらい簡単に受け入れられると、かつての私は思ったものだった。
煌びやかな服も、珍しい宝玉も、器いっぱいの酒も、わたしは要らない。ただ歌うことだけできたならいい。いつかわたしの魂が風に吹き消され、肉体が土に返ろうとも、ただわたしの声だけが、一族の記憶として残ればいい。
それだけが望みだった。五人きょうだいの五番目の、ちっぽけなこのわたしには。
歩き回っているあいだにいつしか森を脱し、わたしは〈外の村〉の近くまで来ていた。無意識のうちに、父と〈銀の狼の王〉の屍が見つかったという場所の正反対を目指した結果と思しい。
使われる言葉こそわたしたち一族と近しいものの、交流はほとんどない。母が生きていたころは、肉や木の実、あるいは織物を売りに訪れた時期もあったと聞くが、他のことはまるで知らなかった。
この村に立ち並ぶ家々は、木材を主として拵えられている点ではわたしたちの住居と同様だが、外面の見え方はまるで異なる。端的に言ってこちらはつるりとしていて、無機質だ。正確な図形どうしを組み合わせたかのようである。
わたしたち一族にとり、こうした建物はあまり美しくない。人が住まう家とは、家長の、すなわちもっとも偉大な男の抱く美観を存分に発揮するよう、すべてを手作りするものだからだ。
それにもかかわらず、平坦で面白みの乏しい建物のひとつにわたしは吸い寄せられ、はたと気が付いたときには扉を押してなかに入り込んでいた。というのはその一軒から、不思議な音楽が流れ出ていたからだ。
唐突に侵入したわたしを、なかの人々はただちらりと一瞥しただけで、咎めようとはしなかった。腰掛けた何人かが器を手にし、顔を紅潮させていたから、きっと兄たちと同じく酒宴の最中で、ゆえに上機嫌なのだろうとわたしは判断した。そういう陽気な雰囲気が、さして広くない空間に蔓延していたのだ。
部屋の奥、一段高くなった場所で音楽を奏でていたのは、わたしとさして変わらない年頃の少女だった。果物に似た形状の、しかし平たく厚みに乏しいらしい楽器を抱え込んで、俯きがちに旋律を辿り、歌っていた。
楽器の発する音色はずいぶんと高く、少女の歌声もまた軽やかに澄んでいて、すなわちそれは、わたしたち一族が高評しうる音楽ではなかった。猛る雷とも、狼の吠える声とも、まるで懸け離れていた。
ここにいたのが兄たちならば、少女に罵倒を浴びせ、即座に立ち去っていたのだと思う。しかしわたしは足を止め、耳を澄ましつづけていた。好みだったからでも、技術的に巧みだったからでもない。ただそれが、わたしの世界にはない何物かであり、正体を知りたいと思わせるに足る芳香を纏っていたからだ。
少女はふと顔をあげ、わたしの視線に気づくなり微笑を覗かせて、この楽器が気になるのか、という意味のことをわたしに訊いた。そうだと答えると、彼女は立ち上がり、新たな椅子を運んできて、わたしの座る場所を作った。
「持ってみて」
と促され、わたしは子供のようにその言葉に従った。楽器に、奏者が肩から吊り下げるためのベルト状のものが装着されているのを、わたしはその段になって知った。
「――は初めて?」彼女は楽器の名前を挙げてわたしに尋ねた。
「これは知らない。でも弦楽器を弾いたことはある。調弦は? どうすればいいの?」
「つまみを回すんだけど――そんなに低くするの?」
弦が撓むほどにつまみを緩め、馴染み深い〈銀狼琴〉の高さにまで落とした。響きのいっさいは耳が記憶していた。形状こそ異なるが、左手で弦を押さえて音程を調整し、右手で弾いて音を出すことは共通しているようだ。それで充分だった。
ぐわん、と低音を轟かせた。咽を膨らませたり狭めたりしながら、〈見送りの歌〉をうたいはじめる。
自信はあった。しかしそれは結果として、場に満ちていた陽気な気配のいっさいを消し飛ばしただけにすぎなかった。わたしが突如として激昂し、怒鳴りはじめたものと誤解して、店から逃げていった客も少なくなかったと、のちに知った。
最後の一節を歌い終え、残響が失せるまで、わたしは異変に気がつかなかった。辛抱強く居残っていた男が寒々しい目でわたしを睨み、下手糞、と吐き捨てた。
下手糞呼ばわりされたのは生まれて初めてだったが、反論する気力は起こらなかった。傍らでぽかんとしている少女に楽器を返して、そこから逃げ出すのが精いっぱいだった。
*
「ちょっと――ちょっと待って」
驚くべきことに、少女は駆け足でわたしを追ってきた。女の身であるにしろ森の一族、加速して引き離すのは簡単だったのだが、わたしは足取りを緩めて少女が近づいてくるに任せた。〈外の村〉の出入口のひとつにあたる、質素な門をくぐったあたりで、わたしは少女に追いつかれた。
彼女は息を切らせながらわたしの肩を掴み、振り返らせて、
「急に帰らないで。それとも用事でも思い出した?」
この問いかけにわたしは唖然として、「邪魔をしたと気づいたから。わたしは歌うべきじゃなかった」
「驚いただけだよ。少なくとも、わたしはね」
汗にまみれた顔に少し不器用そうな笑顔を浮かべて、そう彼女は言った。わたしは信じがたい思いに駆られて、
「考えてみれば、すぐ分かる話だった。わたしたちの音楽を、あなたたちは好きにならない。あまりに違うんだから」
「だから驚いただけだってば」少女は繰り返し、ほっそりとした指先で額を拭って、「わたしにだって分かったことはある。あなたの発声は不思議だけど、技術は確か。それにあなたは――がとっても上手」
「なにが上手? 歌じゃなくて、楽器のほう」
「ギター」と彼女は、ゆっくりと言い聞かせるように発音しなおした。「初めてだって言ったでしょう? ほんとなの?」
「あの楽器はね。わたしたちの使う弦楽器は、〈銀狼琴〉って呼ぶ。聞かせたとおり、音は低く、重たくする。あなたたちには耳障りかもしれないけど」
「どうして?」少女は首を傾けたあと、「いやその、音を低くするのはなぜって訊きたかったの。別の楽器が高音を担当するの?」
「しない。低く、重く、激しい音ほど、わたしたちにとっては望ましいから。だから弦を掻き鳴らすときも、なるべく力強くする。わたしたちの理想の音は落雷と、狼の声」
へえ、と彼女は感心したように唇を窄めた。「それは実際に音を聴いて研究するの?」
「もちろんそう。雷は父神の訪れを告げるものだから、わたしたちは歓迎する。狼はわたしたちと並び立つ存在だから、最上の敬意を抱く」
「父神が天の存在で雷ってことは、母神もいるの?」
「母は神じゃない。地面」
「大地が母なんだね」と彼女は勝手に得心し、それから手を伸べてきて、「わたしはパウラ。今更だけど、名前を教えてくれる?」
リューリ、と名乗り返し、わたしは相手の手を握った。「五人きょうだいの五番目で、わたしは女」
「わたしも女。それはあなたたち特有の名乗り方なの?」
「そうじゃない。ただ、女とは友達になりたくない人もいるから」
「どうして?」
「わたしたちの一族ではそうだから。一族の子は男から学ぶべきで、女の真似はするべきじゃないとされてる」
「どうして?」
わたしはパウラの好奇心に少し呆れつつあったので、吐息交じりに、「父にも兄にも、わたしはそう教わった」
「それだけで納得したの?」
「そういうものだと思った」
彼女はなにか反論しようと言葉を探しているようだったが、けっきょくは諦めたらしく、話題を変えた。
「あなたに、わたしの音楽はどう聴こえた? 素直な感想を教えて。貶しても怒らないから」
「軟弱」
とわたしが答えると、彼女は笑って、
「だと思った」
「でもあなたたちの耳には心地いいんだろうと、想像はできる。わたしが、あなたたちの音楽に適応する耳を持ってないだけで」
「本気?」
あなたが望むであろう答えを選んだだけ、と突っぱねる気には、なぜかならなかった。本当にそうかもしれないと、わたし自身、少しずつ思いはじめていたのかもしれない。
「おそらくは」
「だったら、また来て。わたしの歌を聴きつづけて。あなたの楽器――ごめんね、名前はなんていうんだっけ」
「〈銀狼琴〉」
「次はそれを持って。本当に稲妻の音がするか、わたしも聴いてみたいから」
安易に頷きかけたが、わたしは長兄の指示を思い出して、「それはできない。楽器は、外に持ち出せない」
「なんだ」
じゃあ――と彼女は続けかけたが、とくだん妙案に思い至らなかったのか、でも、と言いなおして、
「また来てくれるって約束は守って」
「約束した覚えはないけど」
「いま、した。いいね?」パウラがわたしの手を掴んで、上下に数度、揺さぶった。
*
宴が近づくと一族は慌ただしくなって、わたしはパウラに不義理をせざるを得なくなった。彼女と交わしたのは約束であり、兄たちから下されたのは命令であったから、後者を優先するのは一族の人間として当然のことだ、とわたしは考えるようにした。
父と〈銀の狼の王〉の歯を加工する作業は遅々として進まず、わたしは女中たちの手伝いばかりしていた。兄たちに知られたらと思うと恐ろしかったが、幸いにしてそういう目には遭わなかった。わたしがとうに装飾品を作り終え、そのうえで他の仕事をこなしているものと思い込んでいたのかもしれない。
ことが起きたのは〈旅立ちの宴〉の前日の、昼間だった。女中のひとりが、わたしに客があると知らせに来た。
「いまは大切な時期ですと申し上げたのですが、話ができるまで戻る気はないと」
困惑をあらわに、彼女はそう告げてきた。
「兄上たちはなんて?」
「それが、昨晩からだいぶお酒を召し上がったからでしょう、揃ってお休みになっています」
頷いて、作業小屋を出た。一族の敷地を示す、背の高い囲いの向こう側に、パウラの姿があった。
「出てきてくれてありがとう」わたしが近づくと、彼女は笑顔を覗かせた。「言おう言おうと思って、忘れてたことがあったから」
「なるべく早く済ませて。一族にとって、とても大事な儀式が控えてる。父の〈旅立ちの宴〉なの。もっとも勇敢な死を迎えた男の、旅立ちを祝う祭」
質問攻めにされぬよう、わたしは先にそう説明をした。彼女が好奇心を満たして、さっさと帰ってくれることに期待していた。
「死を祝う」とパウラは繰り返した。それからしばらく彼女は唇を震わせていたが、やがて、そんなの嘘、と言った。
「嘘じゃない。あなたには関係ないこと」
「嘘!」彼女は叫び、柵の隙間から腕を突っ込んできて、わたしの掌を掴んだ。「じゃあどうして、そんな顔してるの? ――からじゃないの?」
わたしの知らない語だった。「そういう言葉は、わたしたちにはない」
「知らないだけで、ないわけじゃないよ」
パウラはわたしを引っ張り、引き寄せた。わたしはよろけて、柵に体をぶつけた。掴まれたままの腕だけが、外へと飛び出していた。彼女の目がわたしを見据えた。
「ここを開けて」
それは断じて命令ではなかったけれど、しかし頑なだった。握りしめられた掌に伝う感触は、硬くも鋭くもなかったけれど、それでも力に満ちていた。眼前の少女を軟弱と断じられる根拠が、自分のなかのどこにも見つからないことに、わたしは気がついた。
一族のしきたりを持ち出さなくては、わたしは彼女を拒めない。自分自身の言葉では、ちっぽけな少女ひとり、説得できない。つまりわたしのなかには、彼女の言うとおり「嘘」しか存在しないのかもしれない――そんなことに思い至り、恐ろしくなって、一刻も早くこの手を振りほどき、もとの世界に引き返さないと大変なことになるぞと考えはじめたとき、
「あなたの歌」
わたしははたとし、パウラの顔を見返した。
「あなたが叫んでいた理由を、分かる、なんて言えない。でもあの歌を聴いて、ああ、この人は悲しいんだって感じた」
「悲しい?」
先ほどは聞き取れなかったその言葉が、今度はなぜか、きちんとした音の連なりとなって、わたしの耳に届いた。
わたしは悲しい。
「そう、悲しい。どう? いまは自分が軟弱になったように感じるかもしれない。でも違うよ。わたしは絶対に違うと思う。そう信じてる」
しばらく躊躇ったのち、わたしは閂を引き抜いた。
*
そしてわたしはパウラとふたり、雪を踏みしめて歩いた。森のはずれの、一族の誰も近づくことのない空き地に、わたしたちは辿り着いた。
ほっそりとして枝の多い、名前も知らない木の根元に穴を掘って、わたしは父と狼の歯を投げ込んだ。土をかぶせて埋め、少し離れて確かめてみると、その一帯はなんの変哲もない、ただ物淋しいだけの景色にすぎなかった。もっとも偉大な男ともっとも偉大な狼の墓場には、まるで見えなかった。
作業を終えたとき、どこか遠くから、か細い、それでいて長々と尾を曳くような鳴き声が響いてきて、わたしは顔をあげた。
「あれが狼の声?」
とパウラがわたしに訊く。彼女の想像とは違っていたのだろうと思いながら、わたしは頷いた。
本当はずっと前から、彼らの声はああだったのだろう。ただわたしたちに、聴く耳が備わっていなかっただけで。
「歌ってあげたら? お父さんたちのために」
そう促され、わたしは〈見送りの歌〉をうたいはじめた。咽の奥に熱いものが込み上げて苦しかったけれど、中断することなく、最後までそれを続けた。
パウラはわたしの傍らにいて、ただ静かに耳を澄ませていてくれた。その小さな儀式を終えたあと、わたしは記憶にある限り初めて、人前で声をあげて泣いた。
雪の晩鐘 下村アンダーソン @simonmoulin
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