第2話 都市観察、すなわち戦場の確認

 屋外から響いてくる鐘の音で目を覚ます。鐘は七回鳴って止まった。代って訪れた静寂に耳をすませば扉の外から微かな物音が聞こえてくる。窓の外はほの明るい。


 寝台から下りて身支度を済ませ腰帯に剣を吊るした。体に活力がみなぎっているのを感じる。


 一呼吸置き、足腰を使わず腕の力だけで抜刀する、切っ先は壁の一点に向かってまっすぐ伸びていた。思考と身体の動きに齟齬はない、私は私の肉体の馭者として十分に機能している。今この瞬間誰かが襲い掛かってきても、何の問題はなく迎撃できろだろう。


 剣を鞘に納め、テーブルの前に移動しアイオナの像に跪いた。無事に目を覚ませたことを感謝し、今日の武運を祈った。


 宝玉を取り出せば深紅に輝いている。それを確認して懐に戻す。


 扉を開け廊下に出ると、キオが箒で床を掃いていた。


「おはよう」


「おはようございます、よく眠れましたか?」


「うん、寝心地のいい寝台だった。……食事はとれるかな?」


「ロアンナが用意していますよ。一階へどうぞ」


 階段を降りようとすると、キオがついてきた。


「どうしたの?」


「お食事されるのでしょ? 給仕をしますよ。ロスタム様は丁重にもてなすよう主人から言われています」


 キオはにやにやと笑った。


「君の笑いは意味深だな」


「そうですか? 特に意図はありませんよ。お気になさらず」


 階下に降りるとすでに数名の客が食事を取っていた。ロアンナと目が合うと、彼女は満面の笑みを浮かべた。こちらはよくある商売人の笑みだ。


「おはようございますロスタム様。お食事でございますか?」


「うん、お願いするよ」


「かしこまりました、こちらの席でお待ちください。キオ、手伝いなさい」


 ロアンナはカウンターの一席を指し示して奥へと消えた。キオがその後を追う。


 席に座って待っていると一つ椅子を挟んで隣に座る男から声をかけられた。


「御身様はこの宿は初めてでらっしゃるか?」


「ああ、そうだよ」


 顔の輪郭に沿って髭を生やした親爺は逞しい体つきをしており太い腕に刀傷があった、腰には手斧をぶら下げている。彼はパンを咀嚼しながら笑った。


「宿選びを間違えなさったな。ここは御身様のように品のいい人間が泊まるにはちと下卑ておる」


「あなたはこの宿に詳しそうだね?」


「うむ。某は商人の護衛でな。月に一度は商談でこの都市を訪れるのだが、主人は市の中央の豪奢な客亭に、某はこの安宿に泊まっている。まあ、この宿は安宿の中では上等の部類ではあるが。御身様も中央に泊まる方が似合っておるよ」


「私は武者修行の身。贅沢をする気はないんだ」


「ほう、武者修行、それは剛毅な事、精々励みなされ」彼はこちらに顔を寄せて少し小声になった。「だがな、余計な出費を慎むと言うのであれば、この宿に払った金はちと多すぎたようだぞ。女主人のあんな態度初めて見たわい」


 男が言い終わる前にロアンナが炊事場から姿を現した。


「口数の多い男は嫌われるよ」


 ロアンナは男を睨んだ。男は目をつぶって肩をすくめる。ロアンナはこちらを向き直ると、媚びたように笑った。


「このお客さんは冗談口が多くてね、困ります」


「気にしてないさ、ここはいい宿だよ」


 髭面の男の名前はランベルト・アルデンホフと名乗った。私が名乗り返すと彼は


「お貴族様か、やっぱりこの宿には合わん」と笑った。彼とロアンナを交えて談笑していると、キオが料理を運んできた。慣れた手つきで配膳してくれる。


「お待たせしました、ごゆっくり」


 朝食は雑穀のパン、豆と玉ねぎと蕪のスープ、チーズ、魚の塩漬け、無花果と葡萄というメニューだった。思ったより豪勢な食事だ、量も多い。


 何気なく髭男を見ると、目を回す仕草をした。他の客より優遇されているのかもしれない。


 キオが陶器製のコップに水を注ぎながら聞いてきた。


「ロスタム様の本日のご予定は?」


「今日は市中を回ってみるつもりだ、この都市には初めて来たからどんな場所なのが一通り見てみたい」


「それなら私が案内しましょうか? 生粋のクエンカっ子ですからね、私は。この街を隅々まで知ってますよ」


 冗談ではなく本気で言っているようだった。 


「いいのかい? 仕事があるだろ」


「帰ってきてからやりますよ。ご心配なく」


 キオは取り澄ました顔で答え、ロアンナは複雑な表情を浮かべた。仕事をさぼられるのは困るが、上客に媚を売るのも悪くないと迷っているのだろう。


「キオ嬢はバークエ殿が気に入ったか。すれっからしと思っていたが可愛い所もあるのお」


 アンデルホフが笑った。


 一考の余地のある提案だと思った。一人で街を散策するより女連れの方が襲撃者の目をごまかせるかもしれない。


「じゃあ、お願いできるかな」


「おまかせください。いいですよねロアンヌ?」


「……粗相のないようにするんだよ」


 ロアンヌは溜息を吐いて答えた。


「じゃあ、午後前から出かけようか。ロアンヌさん、この宿には庭があるかな? 午前中は訓練をしたいんだが、庭を貸して貰えるなら有り難い」


「いいですよ、そちらの扉が中庭に通じておりますのでご自由にお使いください」 


 久し振りに落ち着いて食事を取れた。食べ物をゆっくりと味わって食べる時間を持てるというのは幸せなことだ。王城での食卓に比べて質素な食事だったが、私は舐めるように味わい尽くした。


 その後、庭を借りて訓練をした。柔軟体操から始まり、自重で筋肉を鍛えた後、王国剣術の型を時間をかけて一通りこなす。王国剣術は殴打や蹴りなどの体術も含んだ総合戦闘術だ。血生臭く、けして礼儀作法などではない。


 穏やかな春の光の中で体を動かしていると時はあっという間に過ぎた。


 想像上の敵に剣を構え隙を伺っていると、食堂に通じる扉が開きキオが顔を出した。私は剣を鞘に納めた。


「お疲れ様、そろそろ行くかい?」


「ロスタム様さえ良ければ」


 キオはエプロンが赤色で胴着が白のディアンドルに着替えていた。


「いい服だね、似合っているよ」


 女性が新しい服に着替えたらとりあえず褒めろ、先輩騎士の教えだ。


「ありがとうございます、でも心が籠ってないですね」


 キオは悪戯っぽく笑った。


 宿を出ていく私とキオをロアンヌが見送る。私はキオを借りる礼として幾ばくかの銀貨をロアンヌに握らせた。


 キオに先導されて、宿がある街区から市内を見ていく。市の中央に近づくにつれて行きかう人の数は多くなった。人々の身なりも良くなっていく。


 市の大通りに達するとあまりの人の多さに驚いた。南部を代表する商業港湾都市には、政商や娯楽、あるいは何がしかの機会を求め、多くの人々が集まってきていた。


「凄い人の数だな」


 私が呟くとキオが顔を覗き込んできた。


「王都よりもですか」


「王都の商業地域と同じぐらいかな」


「なるほど。ここは商業や娯楽だけじゃなくて、クエンカの政治の中心でもあります。役所も市議会も逓信所もなんでもありますから。人の多さも半端じゃありません」


 人々を見渡すと格好や荷物も様々だ。商人、船乗り、農民、武芸者、役人、魔術師、技術者、普段着の市民等、雑多な人々が通りを歩いている。顔つきや身振りを見れば出身地も様々なことが窺えた。クエンカ出身者の他、王国や帝国人はもちろんのこと、王冠連合や北部経済連合、森林誓約同盟からやってきたと思わしき者も見える。この分では大公国や貴族共和国から訪れているものがいてもおかしくない。国際都市という意味では北部の港湾都市と同じだが、こちらの方が闊歩する人の顔が明るかった。質実剛健を旨とする北方とは性格が違うのかもしれない。


 殷賑を極めるクエンカ市に感嘆を覚えた後、私は自分の役割を思い出して気を引き締めた。このような大群衆の中から襲撃者を見つけ出すのは、大変な困難な任務だ。どこから手を付けたものか。少なくとも独力での任務達成は困難なものに思えた。


 ある店舗の前でキオは立ち止まった。


「お使いを頼まれてまして。ちょっと待っててもらえます?」


 扉に切り取られた窓から中を覗くと食料品店のようだった。


「分かった。急がなくていい」


 キオが店の中に入るのを見送る、手持無沙汰になった私は近くの露店などを見て回った。焼き菓子を売っている店や陶器や土産物を売っている店など様々だ。私が近づくと店主は威勢の良い売り口上を並び立てた。適当に相槌を打ちながら、時には品物を手に取ってみる。王国に残してきた婚約者への手土産にしようかと光沢を放つ貝殻で出来た首飾りを確かめていると背後から声をかけられた。


「旦那、お恵みをいただけませんかな」


 振り返ると、薄汚れた衣服を身に纏った初老の男が、両手で椀を突き出していた。面白いのは男の衣装がもともとはそれなりに金のかかった、着用者の身分の高さを示すような衣服だったことだ。胴衣の縁取りには装飾があしらわれ、袖に飾りボタンがついている。しかし乞食であることに間違いない。


「目障りだ、失せろ」


 私が一言で切って捨てると男は色を成した。


「その口の利き方はないんじゃないかね?」


 男が胸を傲然と張って睨んでくる。私はその態度の大きさに驚いた。私は王国副騎士団長だ、乞食ごときにこんな態度を取られる謂われはない。自然と剣の柄に手が伸びた。


 乞食はそれを見て恐怖を感じたように顔をひきつらせたが、それでも一歩も引かない。周囲の人間は我々を遠巻きにした。店主は何か言おうと口を開きかけては、声をかける勇気が出ないようで口を閉ざした。


 乞食は繰り返した。


「旦那。お恵みをいただけますかな。これはあなたのためでもある」


 この場で男を切り殺すのは極秘任務に従事している身として流石に問題がある。さて、どうしようかと考えていると、人ごみから声が上がった。


「よう、サマラスの旦那、今日の稼ぎはどうだい?」


 人をかき分けて出てきたのは異装の女だった。白銀の胸当てを装着し、その上からひざ元まで伸びる黒い毛皮を羽織っている、毛皮の尻からは尻尾が生えていた。背後に長い金属製の棍を斜めがけしている。腰まで伸びる黒髪は女の活力を示すかのように跳ねていた。


「悪猿殿……」


 乞食はきまりが悪そうだった。女は親し気に乞食の肩を叩いた。猿……どこかで聞いた言葉だ、どんな意味だっただろう。


「こっちの兄さんは旅行者だろ? クエンカの流儀を知らなくても仕方がないと思うがね」


 乞食は押し黙った。


「ウキッ!」


 妙な声と共に女はこちらに笑いかけた。どこかで見覚えのある笑みだ。


「兄さん、クエンカの乞食は気位が高いんだよ。都市民もそれでいいと思っている。クエンカに来たならクエンカの流儀に従って欲しいな」


 私は唖然としながら呟いた。


「乞食の気位が高い?」


「そうだよお」


 女は笑みを深くした。その表情を見て思い出した。この笑いは私が千歩必殺剣を取得した時の騎士団長の笑みに少し似ている。満面の笑みでありながら、底部にほのかな残忍性を湛えている。女は健康的に日に焼け、蔭深く密生した濃い睫毛に巴旦杏型の大きな目を縁取られた美女だったが、魅惑されるというよりは、何か剣呑な、もっと直接的に言えば戦闘の予感を覚えてしまうのはそのせいなのだろう。


 とにかくその地方の流儀だと言われてしまえば仕方がない。私は釈然としないものを感じながらも、帽子のつばを指でつかみ軽く頭を下げた。


「どうやら失礼があったようだ。許して欲しい」


 私は財布から銅貨を取り出して、乞食の椀に入れた。


「分かっていただけたのなら結構です。お恵みありがとうございます」


 乞食も硬い表情のまま答え、女に一揖してから去った。


 女は乞食に手を振って見送った後、こちらに振り返った。


「兄さん、名前は? いや、礼儀としてこちらから名乗ろうか。私はこの街に雇われている傭兵のラウラ・シュチュツカ。二つ名は悪猿」


「その猿って言葉、聞いたことはあるんだが、なんだったかな」


「お、知りたい?」


 女は嬉し気に身を乗り出した。


「猿って言うのは森林誓約同盟の地方に伝わる聖獣の名前さ。姿は人間に似ているが、全身に毛が生え手足が長く尻尾が伸びている。膂力も知恵も人間を上回り、神木から削り出した棍が武器だ。普段は群れを成して樹上で生活しているが、森を荒そうとするものが現れれば、枝から枝に飛び移りこれを打ちのめす!」


 女は背中の棍を引き抜くと虚空に向かって一閃した。空を引き裂く峻烈な響みが耳底を打つ。無駄のない洗練させた動きだ。いや、そもそも無意味な運動ではあるのだが。


「その驍名は天まで響き、やがて神の使いが訪れて彼らを神の衛兵とするべく天界に連れ去った。そういうわけで地上からは姿を消してしまったが、私はその武顕の再来なのさ……ウキッ!」


 確かに当地にはそんな伝承があったのを思い出した。


「ふーん……私はロスタム・S・バークエ。王国の貴族だ。武者修行の旅をしている」


「王国の貴族か、なるほどね。王国じゃ乞食は切り殺しても法に触れないって聞いたことがあるけど本当かい?」


「正確には貴族と騎士と兵団に所属する者は乞食を殺しても問題ないことになっている。だから王国の乞食はことさら哀れっぽく振舞って必死に慈悲を乞うのが習いだ」


「アンタも乞食を殺したことあるのかい?」


「勿論ある。習いたての技を試すのに便利だからね」


 騎士見習いだった頃を思い出す。先輩騎士たちに誘われて次の時鐘がなるまでに何人の乞食を切り殺せるか競ったことがあった。懐かしく大切な思い出だ。あの時ともに王都を笑顔で駆けた騎士たちは今では副騎士団長となった私を呪っている。副騎士団長になれたことは幸福だと思っているが、もし私が一介の騎士のままであったら、今も彼らと笑いあえているのではないかと考えたりもした。


「クエンカってのさは、都市の活性化を図るために、投機的な挑戦を奨励しているんだ。結果として一夜にして豪商が乞食にまで落ちぶれることがある。さっきのサマラスの旦那も元々はそれなりの商家の主だったんだぜ。クエンカで乞食が胸を張っていられるのは、クエンカ市民が数多の失敗者の上に都市の発展が成り立っているのが分かっているからさ」


「ふむ、なるほど?」


 正直なところを述べるなら理解しがたいものがあったが、異邦の風習とは自分の常識では割り切れない所があるものだ。


「バークエさん、クエンカ初めてなんだろ? 良かったら街を案内してやるよ。アタシ今日は非番なんだ」


 女は腹蔵のないただの親切心だと表情では告げていたが、信用していいか迷う。それに私にはキオがいる。


「ありがとう、でも無用の気遣いだ。街の娘を案内人に雇っている。ちょっといま所用があって離れているんだが」


「ああ、そうか、じゃあ観光楽しんで。これも何かの縁だし、機会があったら酒でも飲もうぜ。ウキツ」


 女は私の肩を叩くとこの場に現れた時の唐突さで去っていった。


 女の姿が完全に群集のなかに消え去ったのと同時に、キオが私の横に立った。


「クエンカに着いて早々、あの女に目を付けられてしまいましたか」


 キオは溜息を吐いた。一連のやり取りをどこかから見ていたのだろう。


「彼女、有名なのかい?」


「あれはこの街に雇われている傭兵団の副団長です。なんでも個人戦闘力では傭兵団最強とか」


「随分と親しみ深い性格をしているね」


「同じ表情で人を殺す女ですよ。都市で争いごとがあるとあの女が出張ってきて人死にが出るのです。それにですね……」


 キオは周囲を見渡して私の耳元に顔を近づけた。


「あの女はたまに旅人を誘うのです。見た目はいいですからね、誘いに乗る人も少なくありませんが、そのあと行方不明になった者が結構いるという話です。ロスタム様も気を付けた方がいいですよ」


 一笑に付す気はしない。確かにラウラ・シュチュツカは何がしか危険を感じさせる女だ。


「覚えてくよ」


 私はラウラの顔と体格、そして振るった棍の軌跡を脳内に焼き付けた。


「それより、お腹空きましたね」


 キオは口調を明るくして言った。


 私たちは路面にテーブルと椅子を広げた軽食屋で食事をした後、キオの案内で市内の様々な所を見て回った。中央広場の店舗や施設説明してもらい、クエンカ市の三つの外門を巡った。市が誇る工房や兵士たちの訓練場の前を通りすぎ、上流階級が住む区域まで足を延ばした、東西を区切る川に沿って下って港で出港する船と働く人足達の作業を眺めた。

 

 キオは渋ったが、貧民街も案内してもらった。貧民街と言っても暗い雰囲気はなかった、確かに建物は歳月をけみして乳白色にくすみ路地は狭く着ている寛衣は汚れていたが、行きかう人たちの顔には活気があり健全な日常生活が営まれているのを感じた。近代的な整備がされた他の街衢と違って、この地方の昔ながら風俗を残しているところがあり、絵画的ですらあった。鉢植えの花を並べた窓の下に椅子を置いて昼寝をしている白髪の老人がいた。その膝には大きな灰色の猫が、人懐っこく長々と寝そべっている。猫をこんなに太らせる余裕があるのなら、人間だって食べるものは困っていないに違いない。


 貧民街では度々キオに声をかける者がいた。キオと同じぐらいの年代の若者から、中年や年寄り、様々な男女とキオは顔見知りらしかった。


「よおキオ、こっち戻って来たのか」


「ロアンヌの婆さんにいじめられてないかい?」


「良い服着てるのお。こっちゃ来い、焼き菓子をあげよう」


 キオは相手によって、うるさそうだったり、親しげだったり、あるいはいたわるように対応していた。


 キオは言い訳をするようにこちらを見上げた。


「私はもともとはこっちに住んでいましてね。最近では付き合いはないんですが」


「知り合いが多いのはいいことだよ」


 私は気にしていないという風に言った。


 日が暮れてきた、市内の主要箇所も見たので宿に戻ることにする。道すがら、都市のどの場所であれば千歩の間合いが確保できるか、頭の中で戦闘地図を作る。


 食堂ではロアンヌとカウンターに座ったアンデルホフが談笑していた。ロアンヌがこちらを見ておかえりなさいましと頭を下げる。


「アルデンホフ様、まだいらっしゃたんですか?」


 キオはアンデルホフの姿を見て意外そうな声をあげた。


「うむ、商談が長引いているようでの。まあ表情からするに難航してるわけではなそうだったが。小遣い銭も貰ったしな」


 アンデルホフは機嫌が良さそうだった。私もカウンターの席に腰を下ろしロアンヌに何か飲み物を持ってくるよう頼んだ。


「クエンカはどうだったかね、バークエ殿?」


「大した発展ぶりだ。それに人の顔が明るい。北部の商業都市は訪れたことがあるが、みんな硬い表情をしていたよ。主神や気候の違いが関係しているのかもしれないね」


 クエンカは国際都市だけあって、各地域の主神を祭った聖堂が複数存在しているが、やはり南部の主神の聖堂が一番規模が大きい、内部を見物したが貴金属と宝石で彩れた聖像は見事な出来だった。南部都市群において信仰されているのは、航海と商業を司る海神マグメルだ。この神は挑戦と享楽を好む傾向があるとキオが説明してくれた。


 アンデルホフはうむうむと頷く。


「北部は戦も絶えんしな。真面目な顔つきにもなるだろう……ところで」


 アンデルホフはキオを一瞥した。


「御身様は今晩キオ嬢を買うかね?」


 突然の言葉に少し戸惑う。キオは素知らぬ顔で向こうを見ていたが、肩に少し力が入っているように見受けられた。


「いや、そのつもりはないが……」


「じゃあ、わしが買っても構わんね?」


「私が口を出すことじゃない」


「よっしゃよっしゃ。キオ嬢聞こえてたな? 今晩わしはおぬしを買うぞ」

 キオはちょっとの間黙っていたが、何かを観念したかのように溜息を吐いた。


「分かりました。お手柔らかに頼みますよ」


 ロアンヌが炊事場から戻ってきた。私の前に葡萄酒を置くと、キオに向き直る。真剣な、どこか心配そうな表情だった。


「アンタは客が選ぶことができるんだよ?」


「私なら大丈夫です」


 キオは肩をすくめた。


 何か事情がありそうだが、彼女たちの商売に口を挟む権利はない。私は黙って葡萄酒を飲んだ。


 しばらく部屋で休んでから夕食を取った後、私は再び市の中央に出向いた。日が落ちても市内は盛況だった。飲み屋から嬌声が聞こえてくる。


 私は通りに面する大きな拱門の前で足を止めた。門の両脇に衛兵が立っている。右に立つ方に声をかけた。


「王国からの使いだ、商館長にお会いしたい。石のフレンツベルクがやってきたと伝えてくれ」


 門番は怪訝そうな表情を浮かべたが、「かしこまりました」と言って館に向かった。残ったもう一人の男が警戒するようにこちらをじっと見つめている。私は顔をそらして夜空を見上げた。


 時を置かず先ほどの門番が駆け戻ってきた。


「商館長がお目にかかるそうです。ご案内いたします」


 私は門番に先導されて門をくぐった。


 ここは王国出身の商人が経営する商館だ。クエンカにある王国の商館としては最大の規模で、商館長は王都の平民出身だが、政商ともに並々ならぬ手腕を発揮し、その功績から一代貴族に任じられている。


 商館の内部は広く豪奢だった、毛足の長い赤い絨毯が入り口から敷き詰められている。私は二階の商館長室に案内された。五十歳ぐらいの痩身の男が私を出迎えた。着用している長衣は本物の金糸が編み込まれており下級貴族より余程金がかかっていそうだった。


「ハインツェ商会を経営しているクヌート・ハインツェです。どうぞお入りください」


 私たちはテーブルを挟んで向かい合った。印章付きの指輪を渡す。


「王国副騎士団長カイ・リヒテナウアーだ。王国宰相の権限にて貴公に協力を要請する」


 クヌートは印章を確認した後、こちらに返した。


「王国に貢献できる機会をいただけまして恐懼の至り。なんなりとお申し出ください」


 ハインツェは一切の動揺なく答えた。宰相はこのような協力者を各地に作っているとのことだった。


 序列的には王国副騎士団長は一代貴族より上位であるとされているので、私もそのように振舞う。


「貴公、先般王国であった『事件』は知っているか?」


「何が起こったか詳細は知りませんが、犯人の人相書きが王国内に配られたことは存じております」


「私はその犯人を追跡する任務を国王に与えられた。そして、おそらく犯人はここクエンカに潜んでいる」


「なるほど……長くなりそうな話ですな。何かお飲みになりますか」


「いただこう。あまり強くないものを頼む」


 貰った蒸留酒で口を締められながら、私は懐から襲撃者の人相書きを取り出す。


「これを複製して、貴公の力が及ぶ範囲に秘密裏に配り、情報提供を募って欲しい。特に港湾は念入りに頼む。奴を海の向こうに逃したくない」


「ふむ。懸念があるとしたらクエンカ市の横やりです。王国が市内に揉め事を持ち込んでいると彼らの反発を招く恐れがあります」


「外交問題は起こしたくない。貴公の手腕でうまくやって欲しい」


「なんとかしましょう。見つけ出したら如何します?」


「私は西部にあるロアンヌの宿にロスタム・S・バークエの偽名で泊まっているから連絡をしてくれ。けしてそちらで対処しようと思うな」


 クヌートは笑った。


「存じております。あまり品のいい宿ではありませんね。こちらで宿泊施設を用意しましょうか?」


「気遣いには感謝するが無用だ」


 貧民街に近い安宿すら把握していることに驚きながら答える。


「それともう一つ頼みたいことがある。明日、逓信所から都市間連絡魔道水晶を使い、こちらの文面を王都の住所に送ってもらいたい」


 一枚の紙をクヌートに渡す。彼は文面に目を通して呟く。


「一見、旅の貴族が親元に金を請求している内容ですが、暗号文になっているわけですね」


「そうだ。貴公が出世すれば、解読法が知らされることがあるかもしれんな」


 クヌートは一瞬、野心家らしく口角を釣り上げたが、すぐ元の表情に戻った。


「かしこまりました。万事取り計らいます」


「頼んだぞ、貴公の助力を宰相殿は評価するだろう」


 それから昨日キオに聞いた市内に関する情報を改めて尋ねた。概ねキオからの情報と齟齬はなかったが、市の兵力に関してはより詳細な話を聞けた。


 傭兵団は森林誓約同盟との契約により派遣されているもので、その数約一万人。傭兵団長のルイトポルトは老齢だがその分実績があり市民からの信頼も厚い。一方副団長のグリューネヴァルトは毀誉褒貶だという。


 二十歳以上五十歳未満のクエンカ市民は男女問わず数日に一度戦闘訓練に参加する義務があり、有事には兵士として徴兵される。他国の職業兵士を相手に野戦を行えば結果は明らかだが、南部都市群に領土的野心があるとは思われない、必然、クエンカ市の行う戦いとは堅牢な城障を利用した防衛戦だろう。その際に基礎的な訓練を受けた市民兵は大いに役立つはずだ。


 もう一つの情報はクエンカ市が備える火砲である。南部都市群の主要な輸出物の一つである火砲は、クエンカ市の港湾や各城壁にも配備され大海と平原に砲口を向けているが、それだけはなく数多くの軽野砲が市内の各区域に隠されているとのことだった。市内で戦闘することはないと思うが念のため頭に入れておく。


「副騎士団長殿、こちらをお貸しします。取り扱いには十分ご注意ください」


 最後にクヌートは一枚の厚手の紙を渡してきた。それはクエンカ市の地図だった。もちろんクエンカ市は地図など発行していない、もしそれを店で取り扱おうものなら即刻逮捕される、市内の地図は第一級の戦略資料だからだ。クヌートが秘密裏に作成したのだろう。


「ありがたい。大分時間を取らせてしまったな。また何かあれば頼む」


「いつでもお越しください。門番にロスタム・S・バークエと名乗っていただければいつでも私が対応いたします」


 商館から去る私をクヌートは正面玄関まで見送った。


 地図を貰えたのは良かった。千歩必殺が使える箇所を大まかに把握できる。


 宿に戻るとロアンヌが私を迎えたが何やら難しそうな顔をしていた。

部屋に戻る途中、何気なく二階の廊下を見ると、キオが脇腹を抑え壁にもたれ掛かっていた。彼女に近づいて声をかける。


「どうかしたかい?」


「なんでもないですよ、あっち行ってください」


 その言葉には拒絶的な響きがあった。彼女は壁から背を離したが、顔は引きつっている。私はキオの側に寄って脇腹に手を伸ばした。


「ここが痛むのか」


「……痛むって言うなら全身ですよ」


 自嘲的な笑みと共に吐き捨てる。


「一体どうしたんだ? 何があった?」


 キオはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「アンデルホフの親爺ですよ。あいつは女を殴りながらやるのが好きなんです。まあ、殺さないように手加減はしてるんでしょうがね」


「ロアンヌに助けを求めなかったのか?」


「私もロアンヌも承知の上です。普通の娼館では満たせない欲求ですからね。その分多く貰っています。見当違いの同情はごめんですよ」


「ロアンヌは客を選ぶことができると言ってたな。断ることもできたんじゃないか」


「金。それ以上の判断基準はありません」


 私はキオの顔を見つめた。何を言うべきか分からなかった。


「なんです、そんなにじっと見て。私に欲情しましたか? でも今日は買わない方がいいと思いますがね。全身青あざだらけです」


 私は財布から銀貨を取り出した。


「30デュルトだ。私の部屋についてきてくれ」


「本気ですか?」


 私を窺うキオの瞳には失望がありありと浮かんでいた。


「ああ」


「……たいそう立派な趣味をお持ちで」


 キオは溜息を吐いた。


 部屋に入ってからキオに服を脱ぐよう命じる。彼女は何のためらいもなく裸になった。若さにあふれた瑞々しい裸体だが、至る箇所に殴打の跡があった。


 私は荷物袋から平型の丸缶を取り出した。蓋を開けると鼻を衝く冷感的な匂いが漂う。


「なんですそれ?」


 キオは裸のまま近づいてくる。


「軟膏だ、私が塗るから君はじっとしててくれ」


「ええ? いいですよ、そんなもの。それよりさっさと始めましょう」


「私は君を買ったんだからこちらの言うとおりにして貰いたい」


「じゃあ、私が自分で塗るんで貸してください」


「君、魔力操作はできるか?」


「できるわけないでしょ」


「この軟膏は塗る際に魔力を励起することで十全な効果を発揮する。ほら、動かないで」


 私は手に軟膏を掬ってキオに近づいた。キオは一歩後ずさったが、諦めたようで体を固くさせたまま立ち尽くした。


 魔力を込めて殴打痕のある場所にそっと軟膏を塗る。脇腹や胸、太腿、背中に手を這わせる。キオの体は未成熟ではあったが、女性らしい丸みを帯びており、肌理は細かい。


 性的対象として十分魅力的な体ではあるが、情欲は起こらなかった。キオに不満があるわけではない、私は女性に興奮を覚えにくい質なのだ。


 昔からそうだったわけではない。騎士団に入団した頃は、成り上がり者に相応しい卑近で世俗的欲望に満ち満ちていた。強さへの欲望の他に、金銭、領地、美食、名誉、そして女性、全てを喉から手が出るほど欲していた。それらへの欲望は、千歩必殺剣を習得してから不思議と収まってしまった。王国剣技の奥義を習得し、国王麾下将卒幾十万の頂点に立つ強さを手に入れることで、私の懐はすっかり満たされてしまったのかもしれない。例外があるとすれば、地位への欲求だが、それすら純粋な希求ではなく、私のような身分の者が出世することが周りにどんな反応を引き出すか確かめてみたいという好奇心が大きいような気がした。


「終わったよ。さあ、服を着て」


「何言ってるんですか、服を脱いでくださいよ。まだやることやってない」


「君、軟膏まみれだろ。そもそも君を抱きたくて買ったわけじゃない」


 私が手を振ると、キオはこちらを睨んだ。


「私はお貴族様に情けをかけられたというわけですか」


「私の趣味に付き合ってもらっただけだ。君が気にすることじゃない。服を着たら出てってくれ。今日はもう休むといい」


 キオはしばらく私に鋭い目つきを向けていたが、ふっと微笑むと頭を下げた。


「ありがとうございます、バークエ様。お慈悲を賜りまことにありがとうございます」


 それから振り返らず部屋を出ていった。


 量を減じた軟膏を見て頭を掻く。これは王国所属の錬金術師が作成している品で、その作成法は秘伝とされている。高位の騎士にのみ配布され戦傷を癒すのが目的だ、本来、平民に使っていい物ではない。だが、これぐらいの不正は許されるだろう、私は副騎士団長である。


 私は明日からの探索行をどうするか考えた。私が単独で出来ることは全て行った。王国に連絡が届けば増援が派遣される。それまではクヌートからの報告を待つしかない。


 宝玉がすでに他者の手に渡り、襲撃者がこの都市を去っている恐れはあるが、その場合、私には手に負えないだろう。宰相は当然、そのような事態も予期しているはずで、私が考えずとも何か計略を考えるに違いない。


 しかし、なにか落ち着かない気分だ。どこかに落とし物をした気がする。


 考えても埒が明かない気がしたので、寝ることとする。アイオナへ祈りをささげた後、寝床につく。私は早く刃を振るう日が来ることを願い剣を抱きしめた。


『人物列伝:アーラル3世(全名アーラル・オットー・V・ローエングリン・ロスデリア)王国歴五七四年~七〇六年

 ローエングリン朝第五代目ロスデリア国王、賢王。先代国王ハインリヒ2世の第四皇子としてこの世に生をうける。その有能さから早くから王国の後継者と目され、五年間の共同統治のあと正式に戴冠する。父王ハインリヒ2世はアーラル3世が壮年時代の健康を維持できるように王位継承前から不老の宝玉を秘かに渡していたとも言われる。


 その治世は能力主義による人材の流動化と経済の発展に特徴があり、都市民の勃興が著しかった。当然、高位貴族の反発はあったが、自分達が生まれる前から国家に君臨する国父の威厳は絶大であり、貴族もその潮流を受け入れる他なかった。


 一方、インストロイテや農奴に対する搾取は前王時代より苛烈であり、農民は抑圧と貧困の状態に置かれた。これを指して当時の王国を「貴族の天国、都市民の楽園、農民の地獄」と表現することもある。在位中に大きな農民反乱は三度あったが、一切の交渉を持たずこれを流血とともに鎮圧している。


 王国歴七〇六年不老の宝玉強奪事件から数日後に意識を失い、一か月後に崩御する。この後も王国に長く君臨すると自他ともに考えられた中での突然の死で、正式な後継者を指名していなかった。これ以降、王国分裂時代が始める』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

終わりが見えない戦い 千歩必殺剣秘譚 お話を聞かせて @ohanashiwokikaseteyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ