最終回 最後の秘密


 イーヴェダルトの胸から離れ、顔を見上げる。

 小さく微笑んでから、サナはウェルディードとイル、そして王太子たちのほうへ歩み寄った。


 ほの暗い聖殿のなかで光の帯が揺れている。淡く白い帯は、彼女が動くたびにその周囲でふわりと踊り、身体を包んだ。

 この世のものではない光輝は、冥神の眷属の証明であり、彼女がもう、地上のいかなる力によっても傷つけることが能わない存在となったことのしるしでもあった。


 「……殺せ。不死の呪いを受けているが、お前ならできるだろう。冥王の妃よ」


 床に悄然とあぐらをかいていたイルは、目の前で立ち止まったサナを見上げることもせず、ぼつりと呟いた。


 「謝罪はせぬ。誤っていたとは認めぬ。選ばれなかった娘の苦しみ、そんな小さなことでと、お前は言うのだろう。構わない。わたしは、こうすることでしかあの子に……痛みに、寄り添うことができぬと思った。それだけだ」


 サナは応えず、ただ両手をゆっくりと掲げ、イルの上に翳した。

 イルは目を瞑り、ふううと大きく息を吸い、長く吐いた。心なしかその両頬が微笑を浮かべているように見えた。


 「娘も罪を犯した。おそらく魂はいまだ彷徨っているだろう。もし……もし、冥界であれを見つけたら、伝えてはくれぬか。愚かな親父が詫びていた、と」


 サナが小さく何かを呟くと、その手のひらから滝のように光の粒子が溢れ落ち、イルの全身を包み、その姿を隠した。

 やがて光が引いてゆく。

 イルは、目を開いた。ぼうと床を見て、手のひらを見る。消えていない。

 と、目の前に誰かの素足が見える。目をあげる。

 サナの横に、影のように揺れながら、ひとりの女が立っている。なかば透明なその頬に、それでもいくつかの涙が落ちていることが見て取れた。

 イルは呼吸を忘れている。震えながら立ち上がり、女の肩に触れ、壊れ物を抱くように腕に包んだ。そのまま、声を上げずに泣いている。

 

 「……娘さんは、冥界であなたを待っていましたよ。ずっとずっと、あなたに謝っていました。不死の呪いはもう解いてあります。人間として残りの命を生きて、たくさんのものを見て……それから、娘さんのところに来てください」


 千年ぶりに抱く娘の肩で、イルはただ小さく頷いた。

 サナは後ろを振り返り、冥王イーヴェダルトに目配せした。ん、と眉を上げ、しばらくしかめ面をして考えていたが、不承不承、頷く。


 サナは美しく礼をとり、今度はウェルディードの方に向き直った。

 その向こうには、衛士たちに囲まれてへたりこんでいる王太子。


 「……はあ」


 サナの顔を見上げて、ウェルディードは白銀の眉尻を下げ、ため息をついた。長い髪をばらりと掻き上げ、やれやれという様子で首を振る。

 その前にサナは、静かに腰を落とした。


 「ほんと女神さま、だね。きれいだよ、こんちくしょう。あああ、やられたなあ」

 「……あなたは、どこまで知っていたの」

 「あ? 全部だよ。全部。なんなら子供のときから言われてたもん。黒の聖女は敵だ、お前はいつか冥王の妻となるか、さもなくば殺せ、ってさ。ああ、でも、イルの正体は知らなかったなあ。なんだか怪しいおっさんだとは思ってたけど」

 「わたしのことが、憎かった……?」


 ウェルディードはちらと横目にサナを見て、鼻を鳴らした。


 「はい憎かったです、なんて言うわけねえだろうが……でも、ま。一緒に遊んで、勉強して、いろんなもん見たよな。それは楽しかった。嘘じゃねえ。言い訳にもならねえけどな」

 「……そう」

 「イルを助けたくらいだから、あたしも殺さねえつもりだろ? もうやることもなにもないから、できれば送っちゃって欲しいんだけどな、ひと思いにさ」


 サナは顔を上げ、向こうにいる王太子に声を向ける。


 「王太子殿下。この方の、白の聖女の資格。どうなりましょうか」


 問われた王太子は目を白黒させたが、濡れた股下を隠し、やおら威厳を繕う。


 「あ、う……ごほん。ああ、白の聖女。その方、素行不行き届きにつき、聖女たる身分を剥奪する。いますぐこの王宮を出てゆ……」

 「それと」


 サナが言葉を挟んだ。王太子は石を飲み込んだような顔で黙る。


 「黒の聖女は冥界に召され、人の世を離れました。空席となりますが、王国に聖女が不在というのは、いかがなものかと存じます。ついては、ひとり、冥界に由来する強い力を使役する方を存じ上げているのですが……」

 

 は? という顔で、ウェルディードがサナを睨む。

 サナは意に介さず、王太子をじっと見つめる。

 王太子は石を飲んだままの顔で、きょろきょろと左右を見回し、元にもどり、それでもサナの視線が外れていないことを見つけて、かくかく頷いてみせた。


 「よい。サナ……ごほん、何者か存ぜぬが、我が王国を救ってくれた褒美だ。黒の聖女の後継者は、そなたの指名した者とする」

 「ですって。黒の、聖女さま」


 サナはウェルディードに笑いかけ、ふんとよそを向く彼女のほうに腕を伸ばす。手のひらが相手の頬に触れ、愛おしむように指先でなぞり、そうして。

 両手で、全力で、相手の頬をつねりあげた。


 「痛へへへへへはにひやはんは、ほのやほうぅ」

 「えへへ、なに言ってるかわかりませえん。あいにくわたし、人間、やめちゃってる感じなんで。人間語、わかんないかも」

 「ふはけんなああ」

 「……王国を、頼むね。みんなを、わたしの大好きな人たちを、護ってね」


 ぽんとサナの腕を外し、頬を撫でながら、ウェルディードは唇を尖らせた。


 「ふん、あんたに言われなくたって。悪巧みはしてたけどさ、聖女の仕事に手、抜いたことは一度だってねえ。あたしを誰だと思ってんの。し……黒の、聖女。ウェルディードさまだよ」


 と、サナがウェルディードの首をふわりと抱きしめた。相手がなにか言う前に腕を解き、少しだけ笑ってみせて、立ち上がった。

 踵を返したその背に、ウェルディードが言葉を投げる。


 「……ありがとう」


 サナはもう応えず、そのまま冥王たちのもとに戻る。

 剣士エルガと魔法使いネイゼリアは冥王のとなりで待っていた。


 「……ほんとに、サナ……なの」


 ネイゼリアが目にいっぱいの涙を溜めながら指を伸ばす。

 その指をゆるりと包み、サナは頷いた。


 「……酷い思いをたくさんさせちゃって、ごめんね。わたしのことを想ってくれて、ありがとう。でも、あんまり無茶はして欲しくなかったなあ」

 「……だって、だって……」

 「なあ、サナ……君は、その……まだ、生きているのか……?」


 エルガがおずおずと言葉を挟む。サナは笑って頷こうとし、ん、という顔になり、しばらく黙って、やおら冥王に振り向いた。腕を組んでいたイーヴェダルトは、さあ、という形で首を傾けた。


 「我にもわからぬ。我自身が、サナが、どういう状態であるのか。冥宮は冥界と人の世の中間、生命の境界にあるのでな。ただ、神でも人でもないことは間違いないだろう」

 「……ひとじゃ、ないんだ……」


 つまり、というようにエルガが首を垂れたので、サナは慌てて手を振った。


 「いや、生きてる、っぽい、大丈夫だよ。うん。あ、ごはんだって美味しくいただいてるし」

 「えっ」

 「ラルが……ランドラルヌーヴさんが、作ってくれるんだ。美味しいミルク粥」


 全員の視線を向けられて、ランドラルヌーヴはわずかに後退りをした。サナには慣れたが、相変わらず人間は苦手なのである。


 「あ、せっかくだから……みんなで冥宮、行こうよ。ね、イーヴェダルト、ラル。それで、みんなでごはん。ね、いいでしょ」

 

 無邪気に声を向けられ、冥王はぐっと言葉に詰まったが、頷いた。なにやら目が赤い。サナは気づいていないが、彼女が夫をその名で呼んだのは初めてなのである。

 ただ……と、冥王は内心、忸怩たる思いに落ちている。

 初夜。

 古い伝承にその名が残る、なにより重要な儀式。

 諦めてはいない。脳裏でいくども反復試行している。いかにして来客のなかでサナの首筋から肩口から、背の真ん中を通って舌を這わせるか、そうして腹の下の……。

 想像を巡らせたところで、サナが大きな声をあげた。


 「あ、お風呂もあるよ。大きいやつ、すっごい見晴らしが良くてさ」


 嬉しそうに喋っている。言いながら、すでに周囲に転送の神法を展開している。眩い光の紋章が全員を包もうとしている。


 「ネイゼリア、いっしょに入ろう。ラルもいっしょに」

 「えっ、あ、わたしは、だめです」

 

 ランドラルヌーヴが狼狽したように手を振る。いまは全身に獣毛が少ない。長いまつ毛を伏せ、紅に染まった唇を震わせて、おおきな胸を腕で隠してもじもじと俯く。


 「どうして。お風呂、嫌なの」

 「いえ、あの、サナさまの場合は、あんなだったから入りましたけど……ネイゼリアさま、とは……その……」


 サナたち三人が顔を見合わせ、首を捻る。

 その様子を見て、冥王イーヴェダルトは重々しく咳払いをし、厳かに宣言した。


 「ランドラルヌーヴは、オスだ。ついている」 



 <了>



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冥王の寵妃 〜冤罪追放された元聖女、冥界の主に偏愛される〜 壱単位 @ichitan

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