ナタリー・ペトル:特殊部隊全滅シリーズ

ねこたろう a.k.a.神部羊児

ナタリー・ペトル

 稲妻が閃き、渦を巻く黒雲を照らし出した。

 アーカムの街には、夜を塗りつぶすような激しい雨が降りしきっている。

 自然史博物館の列柱立ち並ぶ神殿めいたファサード。

 施錠された入り口の奥、玄関ホールの中で、警備の制服を着た男が大理石の床に大の字で倒れていた。

 愛嬌を感じさせる、たるんだ顎と口髭。帽子が飛んで、髪の薄くなりはじめた頭があらわになっている。玄関ホールの玻璃天井に向けられた目はうつろで、すでに何も映してはいない。後頭部から流れ出した血が、頭の周りに不定形の水たまりを作っていた。

 警備員の手を離れて床に転がったフラッシュライトが、壁に光円を描いている。その中を、異形の影が横切った。

 カラカラに乾燥した、人間の死体だ。

 ほとんど骨と皮ばかりとなった身体から、襤褸ぼろとなった包帯を短冊のようにぶら下げている。

 古代のエジプトから、ここ、アメリカ東海岸に運ばれたミイラだ。

 千年以上前に死んだはずのそれが、こわばった関節をぎしぎしと軋ませながら、玄関ホールの中をよろよろと漂うように歩いている。生きているはずのないもの、ユニバーサル映画の中にしか存在しないはずのモンスターが、生けるもののように、動いていた。

 その数はひとつではない。

 普段は校外学習の子どもたちや見物客でひしめく玄関ホールを、いまや両手に余る数のミイラたちが占拠している。皆、この博物館の収蔵品だ。

 そのうちの一体が立ち止まった。小首を傾げると、空っぽの眼窩で、何かを探すように頭を巡らした。

 頭上で、ガラスが砕ける音が響いた。

 ホールに、雨と、クリスタルガラスの破片が降り注ぐ。

 追いかけるようにロープがのたくりながら床に落ちてきた。その数、六本。

 ミイラの一体が、軋む首を捻じ曲げて天井を振り仰いだ。

 その顔面に、コンバットブーツの底が降ってきた。

 神去かんざりは、足裏から伝わるくしゃりという感触に、曰く言い難い気分を覚えた。

 黒板を引っ掻いたように、ぞっとしない不快感が背筋を這い上がる。レンジャー課程でも、その後の傭兵稼業においても、ミイラの頭を踏み潰すような経験はして来なかった。それでも身体に染みついた動作で素早く拳銃を抜き、すぐそばのミイラに二発、至近距離から打ち込んだ。

 穴の増えた顔で、古代のミイラが恨めしげに睨みつけてくる。神去はマガジンの残りを全て撃ち込んで、ミイラの頭蓋骨を吹き飛ばした。身に染みついた動作でマガジンを替えると、ブーツの下でもがくミイラにさらに引き金を引いた。

 その間にも、さらに五つの人影が玄関ホールに降下している。皆、黒の行動服とプロテクターで身を固め、その姿はさながらニンジャだ。着地するなり、特殊部隊員たちは貴重な古代の遺物に対して各々の方法で破壊行為を開始した。

 ウィルキンソンが、目の前に立つミイラに向けて二丁の短機関銃をぶっ放した。三八〇口径の嵐が、サッカラから出土した二千年前の神官の身体を粉々に打ち砕く。

 アミドとアマドの双子は互いに背中を預けるフォーメーションを取りながら、的確に散弾銃を撃ち込んで、古代のミイラ職人の丁寧な仕事を塵に変えていく。

 ウォーカーが雄叫びを上げながら強烈なラリアートをぶちかまし、テーベの書記の頸骨を粉々に砕いた。

 ホーキンスが大口径の拳銃を両手で構え、引き金を引く。五四口径のホローポイント弾がミイラの乾いた胴体を貫通し、大理石の床で派手に火花を散らした。

 半分まで減らされたところで、ミイラ軍団は、ようやく自らに課せられた使命を思い出したらしく、侵入者の排除にかかった。

 鉤爪のように曲がった指が、猛禽のように黒の行動服に掴み掛かる。

 思わぬ俊敏な動きに、ホーキンスはたじろいだ。

「うぉっ、このやろっ」

 ミイラの腹に向け引き金を引く。が、そこにあるべき内蔵はカノポス壺に収められ、遠く離れたエジプトルームに展示されている。弾丸はわずかな骨と乾いた皮膚を砕いて貫通し、運動エネルギーの大半が無為に浪費された。

 ミイラは不死者ならではの怪力で、ホーキンスを壁にまで突き飛ばした。背中を強かに打ち、手からこぼれた銃が床の上を滑っていった。

 踵の骨で大理石を踏みしめて、大股に進むミイラが目前に迫る。洞穴のような口が開き、黄ばんだ歯を剥き出しにした。

 その首が、ぽん、と飛んだ。

 ミイラの首を刎ねたグルカナイフが、そのままの勢いで宙を舞い、ホーキンスの耳をかすめて壁に突き立った。ホーキンスは刃に映る自分自身に、片眉を上げて挨拶した。

 ミイラは頭を失ったことに気づいているのかいないのか、ふらふらと歩を進めた。首なしミイラの抱擁から危うく身をかわしたホーキンスは、その膝を横から蹴り砕いた。

「おい、危ないだろうが!」

 ホーキンスは壁からグルカナイフを引き抜くと、今しがた投擲を放った神去へと投げ返した。

「どういたしまして」

 神去は得物を受け取ると、背後から近づいていたミイラめがけて投げつけた。額からナイフの柄を生やしたミイラがもんどりうって倒れると、すでに玄関ホールで立っているのは生者だけとなっていた。


 その部屋には、獣の頭を持つ神々が群れ集っている。

 彩色された棺。あの世での復活を約束する呪文の記されたパピルス。古代人たちの使用した、陶器や木製の日用品。そして石像の数々。州内でも有数の規模を誇る、アーカム自然史博物館のエジプトルーム。中でも最大の展示品は、実際の墓所より運ばれた偽扉、すなわち、魂が来世と今世の間を行き来するための門として壁に刻まれたレリーフだった。

 その偽扉の前に、今、石棺が置かれている。

 その中に、人の姿があった。

 ミイラではない。

 ウェーブの掛かる黒髪を枕にして、意識なく横たわるのは現代の女性だ。

 そばかすの散る鼻梁に載せた黒フレームの眼鏡。グレーのジャケット。白のブラウス。丈の長いスカート。あちこち伝線したストッキング。靴は両方無くなっている。その手足は、結束バンドで拘束されていた。

 わずかに上下する胸に、首から下がるミスカトニック大学図書館の入館証が載っている。図書館司書の身分を示すラミネートカードには、N・ペトロとあった。

 窓の外で、稲妻が閃く。

 ややあってから、腹を揺るがすような雷鳴が窓ガラスを揺さぶった。

 その音で、彼女、ナタリー・ペトロは棺の底で目を覚ました。

 硬い石の上に寝そべっていることに気づく。筋肉が強張り、体は芯まで冷えていた。

 状況が飲み込めないまま、身体を起こそうとして、失敗した。

「なによ……これ……」

 自分の手足が、縛られていることに気づいた。そして、自分が棺の中に居ることにも。

「目が覚めたようじゃな」

 拘束され、石棺の底に横たえられている。そのことにパニックに陥るよりも先に、よく知る声が耳朶に届いた。

「……コッポラ博士?」

 ナタリーは目を瞬かせた。

 棺のそばに立つシルエットが、彼女を見下ろしていた。

 天井のライトで逆光になった博士の顔は、影に塗りつぶされ、その表情は窺い知れない。ふわふわと逆立つ白髪が、かおなき顔を後光のように取り巻いている。

「これは……いったい何の冗談です?」

「冗談だと思うかね?」

 その声の調子には、ぞっとさせられるような響きがあった。

 はしばみ色の目をすがめて、ナタリーは棺の外に立つ男の顔を窺った。

 ハワード・コッポラ博士は、古代エジプトの分野で知られている。普段はここ、アーカム自然史博物館で収蔵品の分類や研究を行うかたわら、ミスカトニック大学でも考古学の講義を受け持っている。図書館司書であるナタリーとは当然、顔馴染みだ。ナタリーの知る博士は、拉致監禁という犯罪行為に手を染めるような人物ではない。目の前の男との間には、大きな隔たりがあるように思われた。

 本当に、コッポラ博士なのだろうか?

 次第に目が慣れ、男の顔が見分けられるようになる。そこにあるのは、間違いなく当人の顔だった。

 そして、その時はじめて、博士が何か、大きな本を持っていることにナタリーは気づいた。

「その本は……」

 ヒュッと息を呑んだ。背中の毛が逆立つ。

「それは禁帯出ですよ!」

 ナタリーは思わず叫んでいた。

「『ネクロミコン』。禁断の魔導書。現存する中でも最も強力な魔導書の一つ。暗黒の聖書」

 クリスマスの朝、サンタからのプレゼントを両親に見せびらかす子供のように、コッポラ博士の声には嬉々とした響きがあった。

 『ネクロノミコン』!

 それはイエメンの詩人、狂えるアラブ人の名で知られるアブドゥル・アルハザードによって記された悪魔学デモノロジーの大著。時間と空間の因果律を破壊し、死者を立ち上がらせ、無生物に命を与える。それどころか、地球そのものを破壊しかねないような強力な魔術の手引書。そこには、正気の人間が決して知るべきではない冒涜的な知識の数々が記されている。教皇によって禁書とされ、多くの国によって発禁処分を受けながらも、極小部数が今に伝わる、伝説的な魔術書である。

 ミスカトニック大学図書館は所蔵リストにこの本のタイトルを載せていない。それどころか、この本の実在自体も否定している。それでも、ごく一部の人間は、錠と鍵とで閉ざされた閲覧制限書架の奥にこの本があることを知っている。コッポラ博士も、その一人だった。

「すぐに警備が来てあなたを撃ちますよ!」

 魔導書の持ち出しは厳しく制限されている。

 無断で本を持ち出せばすぐにそれとわかり、犯人は厳しく罰せられる。罰は必ずしも法律に基づいたものとは限らない。ミスカトニック大学図書館はそのための実働部隊を抱えている。

 サーベラス。

 地獄の番犬の名を持つ部隊の構成員は、その多くが軍人や法執行機関出身者で占められている。表向きは大学が契約する警備会社ではあるものの、その実態は私兵に近かった。

「例の特殊部隊なら心配はしてない。お気の毒だが、彼らもまた死の運命にある……」

 彼らもまた。という博士の言葉に、ナタリーはうそ寒いものを感じた。

 コッポラ博士は身を翻し、ナタリーの視界から消えた。

 博士が壊れてしまったのはもはや明白だ。

 拉致監禁。のみならず、魔導書の無断持ち出しに及ぶというのは、完全にタガの外れた行動だ。コッポラ博士は自身の魂を旧支配者にベットしてしまった。ミスカトニック大学図書館で司書を勤めている以上、ナタリーも黒魔術について知らないわけでもない。自分が、身を縛られ、石棺に入れられている理由にも見当がついた。

 今夜を生き延びる望みがあるとすれば、特殊部隊が救出してくれることだけだ。救いの手が一刻も早くやってくることをナタリーは願った。

 ごそごそと、重いものを引きずる音が続く。

 不意に、棺の縁に、重そうな麻袋が押し上げられた。

 ひょっこりと、白髪頭が覗いた。博士の顔は、ピンク色に上気して、額には汗が浮いている。分厚い眼鏡の奥で、博士の目がギラギラと狂的な輝きを放っている。

「ネフレン=カの治世には」

 ぜえぜえと息を吐く合間に、博士は講義口調で言った。

「砂漠の神に捧げる生贄を生きたまま砂に埋めたという」

 そう言って、博士は袋の口を縛る紐をほどきはじめた。中から溢れた砂が、石棺の中にパラパラと溢れる。

 ナタリーは恐怖に心臓を掴まれた。

「そんな……博士……だめです」

「生贄が砂の中で息絶えるとき、Nyarlathotepはその生命の五つの要素、すなわち心臓イブバーカーレンシュトを手に入れると信じられた。そうして死者は神の千もの化身アバターの一つとなされる……」

 ナタリーの哀願を無視し、博士は砂袋の口を開いた。

 砂袋が、ガーゴイルのように砂を吐き出した。

「やめて!」

 ナタリーは悲鳴をあげた。

 最初の砂袋が空にならないうちに、博士は別の袋を担ぎ上げ、生贄の石棺を砂で満たしはじめた。

 遠くない未来、砂は棺をいっぱいに満たすだろう。

「君の死は、単なるはじまりに過ぎん。そして私は……神にまみえるのだ」

 窒息の恐怖に悲鳴を上げるナタリーの口に、砂粒が入り込んできた。


 中生代ルームの壁面には、シダやソテツといった植物が描かれたまま、永遠に静止している。

 展示室には巨大な骨格が所狭しと並んでいた。

 生き物の骨というのは、不気味なものだ。たとえそれが一億五千年前に死んだ動物の骨であっても。

 夜の博物館。

 だだっ広い空間に、死に絶えたような沈黙が降りている。

「何だか嫌な予感がするぜ」

 ウィルキンソンがそう言った。両手に持った短機関銃を左右の暗がりに振り向けながら、慎重に歩を進めていく。

「なんだ、ビビってんのか?」

 大男のウォーカーが言った。

「恐竜が襲ってきたら大変だもんな。さっきのミイラみたいに」

「うるせえ」

 軽口を叩きあいながらも、その目は油断なく脅威を探していた。

「この部屋を抜ければ目的のエジプト室はもうすぐだ。気を引き締めろ……むっ?」

 床に広がった血溜まりに、ホーキンスは気づいた。

 展示台を回り込むと、真っ二つになった警備員の死体が、そこにあった。

「ひでぇな……」

 小さく口の中で呟いたその瞬間、耳元で、ぴちゃっ、と音がした。

 ホーキンスは足を止め、肩に滴ったものに手をやる。

 グローブの匂いを嗅ぐと、金臭い匂いがした。

 血だ。

 ホーキンスは上を向いた。

 巨大な竜の骨が、そびえるように立っている。

 パーティは、部屋の中央、アロサウルスの全身骨格の前に居た。

 その顎が、真っ赤に濡れている。まるで食事をしたばかりのようだ。

 ホーキンスの肩を汚したものの出所はそこだった。

「おい、みんな、ちょっと聞いてくれ––」

 刹那。

 ぎぃいいいい。

 歯の浮くような音が、中生代ルームに響き渡った。

 特殊部隊の兵士たちは、弾かれたように銃口と警戒を四方に向けた。

 ぎぃいいいいきぃいいいい。

 耳を覆いたくなるような騒音は、彼らの頭上から響いていた。

 皆が顔を上げた先。

 巨大な骨格の、空っぽの眼窩が彼らを見つめ返していた。

 ジュラ期のモリソン平原の支配者たる肉食恐竜アロサウルス・フラギリスが、ナイフのような牙を並ぶ鼻面を、新生代のヒト属に向けていた。

 ぎぃいいいい、と、骨格を支える金属支柱をへし曲げ、化石の竜が襲いかかった。

 恐竜はチームで一番長身のウォーカーを最初の獲物に選んだ。アロサウルスの骨格標本が、巨漢の兵士を軽々と咥え上げる。

 人間の悲鳴を、鉄の悲鳴がかき消した。

 石の竜は頭を激しく動かして、獲物を振り回した。鋭利な牙がプロテクターと行動服を肉体ごと切り裂いて、血と臓物の雨を降らした。

 五人の兵士の目の前に、ウォーカーの下半身が音を立てて落下した。引きちぎられた上半身と下半身を、はらわたが糸電話のように繋いでいる。

 全員が、その光景を呑まれたように見つめ、立ちすくんだ。

 誰も、このような状況を想定した訓練は積んではこなかった。

「衛生兵……止血を……」

 ホーキンスが、うわ言めいた呟きに、神去は正気を取り戻した。

「散開しろ!」

 そう叫ぶと、ショック状態のホーキンスの首根っこを掴み、引っ張った。

 呪縛が解けたように、各々が彫像であることを止め、兵士としての行動に移ろうとした。

 その刹那、だしぬけにアロサウルスが身体を一回転させ、長い尾を振り抜いた。

 風圧が、神去の頬を撫でた。テタヌラ類の硬い尾が、鞭のようにアマドとアミドの双子を打ち据えた。二人は重なったまま宙を舞い、そのまま壁に衝突して動かなくなった。

 部隊の戦力は一瞬で半減していた。

 いや、それ以下だ。

 神去はホーキンスを引きずり、後退あとじさった。

 石と金属で出来た相手をどうこう出来る武器など、部隊の誰も持ち合わせていない。万に一つも勝ち目はなかった。コッポラ博士の魔術は、想定以上に強力だ。

 首をめぐらせて次なる獲物を物色する恐竜の、その鼻面めがけてウィルキンソンが二丁の短機関銃を発射した。

 花火のように噴き出す銃口炎。一発一発が人の命を奪うのに十分なジュールを秘めた鉛の驟雨も、古より蘇った獣脚類には何の効果もなかった。

ジュラ期の頂点捕食者がその顎にウィルキンソンを捉えた。

第二の犠牲者は天井近くまで持ち上げられた後、一人目と同じ運命を辿った。弾丸を打ち尽くした二丁の銃が、相次いで床に落ちて甲高い音を立てた。

 どこかに隠れなくては。

 神去は素早く視線を走らせた。無数に並ぶ菱形の板が目に入る。ステゴサウルスの骨格標本に向かってホーキンスを突き飛ばすと、自分も肋骨の下に転がり込んだ。

 アロサウルスが、血まみれの顎を広げて次なる獲物を探し求めた。

 空っぽの眼窩と目が合ったように神去は思った。

 大股で近づいた肉食恐竜の骨格は、ステゴサウルスの背に並ぶ板に、一瞬たじろいだ。左右に頭を振り、骨格の屋根の下に逃げ込んだ獲物を狩りたてるべく、鼻面を突っ込んできた。苛立たしそうに、鼻面で剣竜の肋骨を突き回す。その動きは獲物の内臓をついばむ禿鷲にそっくりだった。ただし、こちらの方が千倍も大きい。

 石と石が擦れ合い、耳障りな音を立てる。

 つま先の数センチ先で、ガチン、と顎が閉じ合わさった。

 その歯の間には、屠られたばかりの人体の一部が挟まっている。

 ホーキンスが悲鳴をあげて、ジュラ期のモンスターに銃を向けた。

「よせ、無駄……」

 銃声が響き、石の竜のこめかみで火花が散った。

 パン、パンと乾いた音が連続して響いた。

 アロサウルスは身体を起こして、鼻面をめぐらした。

 その先に、折り重なった双子の姿があった。事切れたアミドを抱いて壁にもたれかかったアマドが、化石の竜に拳銃を向けている。その銃口からは、硝煙が一筋、線香のように立ち昇っていた。

 アロサウルスは威嚇のするように大口を開けると、壁際の双子に向かって突進した。

 その後姿を見ながら、神去は歯を噛み締め、苦渋の決断を下した。

「いまだ、逃げるぞ!」

 神去に促され、ホーキンスが素早く身を起こした。

「くそ、なんて野郎だ、何て野郎なんだよ、恐竜の骨があんな風に動くなんて……」

 憑かれたように口走りながら、ホーキンスは脱兎のような勢いで戸口へ駆けてゆく。

 幸いにも、戸口は恐竜が抜けられるほど大きくはない。

 壁には、エジプト室への矢印が記されていた。

 ホーキンスを追って走る神去の背中を、二人分の骨肉を噛み砕く音が追いかけてきた。


 二人は戸口の左右に立ち、突入のタイミングをはかっていた。

「やれるか?」

 神去は小声でホーキンスに話しかけた。

 ホーキンスはガクガクと頷いた。

 その顔には強いストレスの兆候が見て取れる。

「やれるさ……だって、エジプト室には恐竜の骨はない、だろ?」

 口角を引き攣らせるだけの笑いを浮かべるホーキンスに、神去は小さく頷いた。

 ホーキンスの精神状態は崖っぷちだ。無理もない。目の前で恐竜の骨にチームの大半を食い殺されたのだ。神去自身、平常心とは程遠かった。

 だが、恐竜による殺戮を生き延びたのはこの二人だけ。

 この二人で仕事をやり遂げなくてはならない。増援を待つ間に、人質は死ぬ。人質が死ねば、世界が終わる可能性はぐっと高くなる。

「よし、いくぞ!」

 掛け声と共に、二人は同時にエジプトルームに突入した。

「動くな! 武器を捨てろ! ひざまずけ!」

 ホーキンスの声がエジプトルームの壁で反響する。

 ジュセルの墓所から持ち出された巨大な偽扉の前で石棺を覗き込んでいたコッポラ博士は、顔を上げると、驚いたように、瓶底眼鏡の奥で目を瞬いた。禿げあがった頭を取り巻く白髪の雲。大きな口髭。皺だらけの顔。矮躯に白衣を纏う姿は、漫画の登場人物のようだ。一見では、このような凶悪な事件を引き起こすようには見えない。

「おぬしら、わしの死蜥蜴類デスザウリアーを倒したというのか?」

「いや、逃げてきたんだ」

 博士の顔が口惜しげに歪んだ。予定では、あのアロサウルスが全ての始末を付けてくれるはずだったのだろう。

 あのときアマドを犠牲にしなければ、結果は博士の目論見通りになっていた。

「あと少し、あと少しで神にまみえることができるというのに……」

「黙れ。あと一言でも喋ったら撃ち殺す」

 二丁の銃口と特殊部隊の二人に睨みつけられ、博士はしぶしぶと本を置いて床にうつ伏せになった。神去は『ネクロノミコン』を遠くへ蹴り飛ばすと、博士の背中に膝を載せ、結束バンドで拘束した。アドレナリンが手が震わせるせいで、その作業に少々、手こずった。

「人質はどこだ?」

 エジプトルームを見渡しながら、ホーキンスが呟いた。

「人質はどこにやったんだ?」

 博士の腕を乱暴に締め上げながら、神去は尋ねた。

「喋ったら撃ち殺すんじゃないのかね?」

 ほとんど反射的に拳が出ていた。

 博士の顔に浮かぶ小狡い小妖精めいた表情が、眼鏡と一緒に砕けた。折れた鼻から血が飛び散って、床をまだらに染める。その様子に、神去は昏い喜びを感じないわけではなかった。

「……人質はどこだ?」

 神去の尋問のあいだ、ホーキンスはエジプトルームの展示品の間を大股で歩き、人質の行方を探した。

「なんだってこんなに砂だらけにする必要がある? 本物のエジプトを持ってくるつもりか?」

 床に撒き散らされた砂をつま先で蹴りながら、ホーキンスが言った。

 そこらに散らばる空の砂嚢を見つけ、訝しげに眉根を寄せた。

 はっと息をのみ、石棺に駆け寄った。石棺の中は半分ほどまで砂が入っている。

「こんのサイコ野郎が!」

 電撃的な理解に達したホーキンスは、縁を越えて石棺に飛び込み、砂の中をまさぐった。

「よせ!」

 神去の膝の下で、コッポラ博士が跳ねた。その老齢と矮躯からは想像も出来ないような力に、神去は危うく跳ね飛ばされそうになる。

「手を出すな! 儀式はまだ––」

「黙れ! 動くな!」

 博士は釣り上げられたばかりの魚のように身をよじった。

 必死で抑えつける神去の手の下で、博士の骨が折れる音が響いた。

「くそ! 今出してやるからな!」

 手で砂を掻きながら、ホーキンスが言った。

「よせ……やめろ……う、ぶぅう、ぶぐるふがは、ふたぐ……ぅうん」

 コッポラ博士の体が、おこりにかかったように震える。

 口の端から泡を吹き、うわ言を呟く。

「黙れ……この!」

 神去は迷った。博士の拘束を続けるか、ホーキンスの加勢に向かうべきか。

「あああああっ!」

 突然、ホーキンスが声を上げた。

 一瞬、神去は、彼が人質を見つけ出したのかと思った。だが、期待は裏切られた。

 ホーキンスが棺の中で腕を上げた。その腕に、まだらの帯紐バンドが垂れ下がっているかに見えた。神去はすぐに、それが生きた毒蛇なのだと気づいた。何匹もの猛毒の蛇が巻きつき、ホーキンスに食らいついていた。

「あああああっ!」

 激痛に悶える兵士の身体が、わさわさと蠢いている。黒い行動服の表面が波立っている。その波がホーキンスの体を這い上がり、顔までも覆い尽くした。

 サソリだ。

 ホーキンスの身体を、有毒な砂漠の生き物が寄ってたかって攻撃していた。

 トラップだ。

 棺の中に、あらかじめ、有毒生物を仕込んでいたのだ。

 理性ではそう思いながらも、しかし、そうではないことを神去は理解していた。

 魔術は、こんなことをも可能にするのか。

「それをやめろ! 今すぐに!」

 怒鳴りながら、博士のこめかみに神去は銃を押し付けた。

「んぐぶ……ふる……いかぁはぁ……砂漠の王よ、我が元へ来降したまえ……」

 神去はそれ以上躊躇わず、引き金を引いた。

 銃声が詠唱を断ち切り、今夜はじめて、博物館に敵の血が流れた。

「うおおおおおっ!」

 雄叫びをあげて、ホーキンスが棺から立ち上がった。全身、毒で膨れ上がり、血と砂とにまみれている。

 その両腕に、砂の塊を抱いている。

 否、それは人だ。

 石棺に駆け寄った神去に、ホーキンスは砂から掘り出した身体を放って寄越した。

 神去が人質を抱きとめたのを見届けると、満身創痍の兵士は力尽き、そのまま砂の棺の中に沈み込んだ。

 いつの間にか、あれほど居た毒蛇と蝎は砂の中に溶けたように姿を消していた。

 死んだ二人の男の血を、砂が貪欲に吸い込んでいった。


 腕の中の人体は、ぐったりとして力無く、まるで砂袋を抱いているかのようだ。

 ホーキンスから受け取った人質の身体を、神去は博物館の床に横たえた。手足の拘束をグルカナイフで解いた。

 全身が砂にまみれ、顔は血の気を失い、まるで出土したばかりの石像のように見えた。呼吸の兆候は無く、生存は絶望的に思えた。

 まだだ。

 弱気を振り払い、神去は救命措置をはじめた。

 人質が死ねば、この作戦は失敗だ。全ての犠牲が無駄になる。

 ウォーカー。ウィルキンソン。アマドにアミド。そして、ホーキンス。

 彼らが無為に死んだのだと認めるわけにはいかない。たとえ俺たちが全滅したとしても、この一人を生かすことができれば、彼らの死から意味を引き出すことができる。

 目を覚ませ。

 冷たい唇に息を吹き込む。

 ざらりとした砂を感じた。

 胸骨を圧迫しながら、神去は一心に念じた。

「死ぬんじゃない、起きろ! 目を覚ませ!」

 我知らぬうちに、声に出していた。

「来い! 戻って来い! 甦れ!」

 偽扉が、モノリスのように神去を見下ろしている。

 そのおもてから、微風でも吹いたかのように、砂粒が床を流れ、吹き寄せたのに、神去は気づきもしなかった。

「生きろ! こっちに来るんだ!」

 突然、人質が身を折った。

 大きく咳き込むと、ぞっとする量の砂混じりの唾液を吐き出した。

 続いて、ヒューッと虎落笛もがりぶえのような音を立てて空気を吸い込む。激しい咳と荒い呼吸の波は、次第に正常なものへと落ち着いてくる。

 巨大な敗北の中に得た小さな勝利に、神去は大きく息を吐き、その場に座り込んだ。立てた膝に頭を預け、数秒の間、瞑目する。視線を感じ、見上げると、砂色の双眸に見つめられていた。

 吸い込まれるような目だと、神去は思った。

 千尋の海溝のような。千万年降り積んだ南極の氷に開く竪穴を覗き込んだようだった。

 深淵の視線が、床に落ちた黒い本と、石棺と、頭を撃ち抜かれた男の上を渡って、神去の元に戻ってきた。

「ありがとう。あなたたちのおかげで、戻って来られた」

 砂色の視線の持ち主が、掠れた声で、囁いた。

 禿鷲の羽ばたき。毒蛇が囁くように上げる警告音。砂の海が風紋を刻むときに、このような音が立つのではないか。

 不意に、神去の胸を突いて、ある感覚が立ち上がった。騙し絵の仕掛けに気づいたときのような、あるいは、目の前のものが、実はより巨大なものの一部であることを知ったとき感じるような、不意打ちの感覚。神去の背中に粟が生じた。手が、自然とグルカナイフの柄に伸びていた。

「……あなたは?」

 わずかに小首を傾げ、女が言った。数分前まで砂に埋もれ、死んでいたとは思えないほどに、その仕草は優雅に見える。まるで、世界の女王であるかのようだ。

 茫漠と広がる砂漠と対峙しているようだ。巨大な波濤。吹き荒ぶ嵐。空を巡る星々の運行を前にして感じるような、畏怖の念が神去の中に生まれ、彼の魂に染み込んでいった。

「……神去。神去契かんざりけい

 一瞬の逡巡の後、神去は武器から手を下ろし、名乗っていた。

「Nataly Pethor」

 完璧な形にルージュを引いた唇が、魔術的な響きを紡いだ。

「ナタリー・ペトル……」

「それが私の名前。よろしく、ミスター・カンザリ」

 ぞっとするほど妖艶な笑みを浮かべ、砂の中から来た女は手を神去に差し出した。

 その手を取ることの意味を、神去は理解していた。





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