十八歳






十八歳の誕生日を迎え、大人になると、桔梗の美貌は冴え渡るように成長した。

水のしたたるような鮮やかな美貌を露わにして、口元に自信のある微笑みを浮かべながら、「紫苑」と自分の名前を呼ぶ。

桔梗の側に寄ると、にこやかに微笑んで覗き込むように自分を見る。

見透かされそうな大きな瞳に、細い鼻梁に続く淡い桃色の唇は絶やさず弧を描いて、頭の天辺から足の爪先まで、立ち居振る舞いすべてが洗練されていた。最近は紺地に椿模様が入った着物を好んで着ており、より上品な佇まいを醸し出している。


「どうした?」

「ふふ、ただ呼びたくなっただけ」


普段と変わらない桔梗の姿に、目頭が熱くなる。気づかれないようにさっと袖で拭い、彼女の髪に触れる。


婚礼の儀式は明日に迫っていた。


「何か、したいことはあるか?」


桔梗は視線を下げて少しばかり逡巡したあと、顔を上げてつぶやいた。、


「桜を……久しぶりに桜を見に行きたいわ」

「ああ。見に行こう」


自然と手を取り合って、近くの桜の木まで歩き出した。






◾︎






──黄昏時。

もう散ってしまった桜の木を背に、夕焼けの色に染まった空を眺める。散った花びらが辺り一面、薄桃色に染め上げていて、空との色合いがとても美しい。


指先まで絡むように繋いだ手に、ぎゅっと力が入って苦笑する。

紫苑の体温を感じると、今よりずっと無力だった昔の日々の息苦しさや、紫苑との穏やかで楽しかった日々が夕空の上を覆うように次々とよみがえってきた。


涼やかな風が吹き抜ける。どうせなら、春の嵐を呼ぶような、災いの風であってほしいと思う。紫苑が隣にいるのにそんな汚いことを考えてしまう自分を嘲笑う。あなたの目に映るわたくしは水晶よりも透明で、綺麗であってほしい。それでも、ずっと記憶に残るような深い心の傷を負わせたいという会い反する二種類の感情が溶解せずに混ざり合っている。

わたくしが死んだあとも、紫苑の人生は続いていって、わたくしのことなんか記憶の隅に置いていって忘れてしまうかもしれない。それが、たまらなく怖かった。


突風が吹く。

散った花弁が巻き上げられ、風に散らされた髪が紫苑の頬に触れる。咄嗟に髪を押さえて振り返ると、夕陽に紫苑の瞳が強く瞬いて、光ったように見えた。


わたくしの目を真っ直ぐ見つめる紫苑の瞳からは、夕陽よりも熱くて光るなにかがあふれでているようだった。

繋いだ手とは反対の手のひらが、頬に手が添えられる。


「逃げよう、桔梗」


紫苑が、この世界にわたくしだけしかいないような瞳で訴える。


「紫苑………」

「今日の夜だ。もう、今日しか時間は無い。頼む、一緒に逃げてくれ」


堪えられなくなった、大粒の涙が次から次へと流れ落ちていく。


「紫苑、それがどういうことか、わかっているのでしょう?」


紫苑の瞳の熱が、射抜くように降り注ぐ。

この手を取って逃げ出せるのなら、どんなに幸せだろうか。

それが一番楽になれるのに、わかっているのに、手を取れないことがもどかしい。


「監視の目があるのよ。すぐ追いつかれて、あなたは殺されてしまうわ」


繋いだ手を解いて、頬に触れる紫苑の手を柔らかく外す。


夕陽がどんどん消え失せていく。頬の熱も夜の風が全てが奪われていって、日が暮れてしまった。


「さぁ、家に帰りましょう。紫苑」


あっという間に訪れた濃紺の空を背に、寂しい気持ちを押し込んで静かに微笑む。


紫苑の顔は見られなかった。






◾︎






十三年の日常をなぞって、夕餉を作り、食べ、雑談して風呂に入ったあと、布団を敷いて紫苑にくっついた。


「もう寝るのか、早いな」

「明日はとても大切な日ですから」


少しうつむく紫苑に、失敗したと罪悪感が広がる。


「もう! 黙っていたら、つまらないでしょう」


明るい声を出して、紫苑の頬に手を添える。


「ほら、最後の夜なのよ。お話しましょう?」


ぎこちない笑みを浮かべて頷く紫苑。

月光が満ちる部屋で、紫苑の膝の上に頭を乗せて、わざと無邪気に笑った。


「旦那様と一緒に寝られるのも今日で最後なのね」


ゆっくり瞼を閉じる。


「寂しくなるわ」


目を閉じながらも感じる紫苑の視線に嬉しくなって、口元が緩む。


「桔梗は、怖くないのか?」

「ぜーんぜん怖くありませんよ」


目を開けて、紫苑の手を取って両手で握りしめる。


「人は皆死ぬために生きているのでしょう? わたくしにはそれが明日だっただけなのです」


夜が時間とともに全てを覆い、月光が輝きを増していく。

上体を起こして紫苑の隣に座りなおす。


「明日は神様に嫁いでしまうのね」


無言になってしまった紫苑に、身を乗り出して微笑む。


「ふふ、悲しい?」


覗き込んだ紫苑の濃紫の瞳は、漆黒と思えるほどに濁り、感情全てを混ぜたような瞳をしていた。


「別に」

「あら、残念ね」


笑みを浮かべて、ころころと笑う。


もう最後。これでもう、紫苑と会うことはなくなってしまう。


「最後に一つ、お願いしてもいいかしら?」


その一言に、少し真剣な顔の紫苑が視線を向ける。


「なんだ」


そこまで重々しい感じだと、言いにくいじゃない。紫苑ったら、もう!


「その…………わたくしに、口づけしてくださいな」


真顔の紫苑に尻込みして、最後の方は萎みながら言う。


「ふふ、なーんて」


誤魔化すようにつぶやくと、紫苑の腕が伸びて頭の後ろと腰に手が周り、引き寄せられた。


「んっ」


リップ音を立てて、桔梗の唇から紫苑の唇が離れていく。思考が停止して、時間が止まったようにさえ感じた。


「望み通りだ」


そう言った紫苑は、口の端を歪めてにやりと笑った。


一瞬置いてから、顔が赤く染まっていく。あんなに妖艶な紫苑は初めて見た。

言い出したのは自分なのに、軽くパニックになっていると、そっと抱きしめられる。

わたくしの後頭部を覆うほどの大きな手、紫苑の体の熱が薄い寝巻き越しに伝わって、紫苑の顔が見られない。


熱と恋情が全身を巡り、細胞に満ちていくような感覚だ。

ぎゅうぎゅうに強く、でも優しく抱擁され、体が強ばる。


「あの……紫苑?」


恥ずかしくなって、頬を染めて見上げると、紫苑は歪んだ笑みを浮かべていた。

あのときの熱よりも、もっと熱くて濁ったような瞳を受け止めて、見つめ返す。


わかっている。

わたくしたちは、どうしようもなくお互いの愛を欲している。

言葉にできない不甲斐なさを飲み込んで、瞳で愛を叫ぶのだ。


「わたくしのこと、いつまでも忘れないでね」


瞳の熱とは相反する紫苑の冷たい腕に抱かれて、淡く微笑んだ。


でもこの恋情もお終い。

もう、この恋は終わりを迎えてしまうのね。


「おやすみ、桔梗」

「ええ、おやすみなさい、旦那様」


自分の布団に潜り込んで紫苑に背を向ける。誕生日に贈られた紫水晶の首飾りを握りしめ、必死に嗚咽を噛み殺す。堪らず溢れ出した涙を、見られたくなかった。






◾︎






翌日、婚礼の儀式の日。


「桔梗様、起きてくださいませ」


ぼんやりと瞼を開くと、三人の女が満面の笑みで桔梗のまわりを囲んでいた。


「あなたたちは?」

「村の女房でございます」

「私どもは桔梗様の準備に参りました」

「さぁ、顔を洗って湯浴みして準備致しましょう」

「待って!」


ぐいぐいと来る女たちを押しのけて、部屋を見渡す。


「紫苑は?」

「世話係の者でございましょうか。その方なら、私どもが来たときにはもういらっしゃいませんでしたよ」


一瞬、視界がぼやけて白くなる。そのあと、急な脱力感に襲われた。


「それでは、湯浴み致します。こちらへ」


声に従ってふらふらと起き上がる。紫苑がいたからぴんと張っていた、わたくしの大事な何かの糸がプツンと途切れた音がした。


一緒に逃げようとしなかったわたくしに、愛想をつかしてしまったのかしら。

あの手を取っていたらなにかが変わっていたのだろうか。


もう、戻らない過去の話だ。紫水晶の首飾りを握りしめる。

ずぶずぶと沈んでいく心のままに、ぼんやり考えているとあっという間に湯浴みを終え、女連中に明るい笑顔で服を着替えさせられる。


「これがお召し物でございますわ」


差し出された着物に視線を向ける。

光沢のある白地の着物に、上品な赤い帯。細かい刺繍もあしらわれている、美しい着物だった。


「素敵な着物ね」

「本当にお美しいですわ」

「桔梗様によくお似合いです」


着付けられると、鏡台に座らされて化粧を施される。

どうせ水の中に沈むのだから、高価な着物も、化粧もどうだっていいのに。律儀なものね。


あの日以来、引き出しに眠っていた母の形見を取り出す。

銀細工の椿の意匠の髪留めだ。

自分を産んだ女と一蹴した母親に縋るなんて…………醜い心に自嘲する。


「髪留めはこれを使ってちょうだい」


ひしめき合う女どもに髪留めを渡す。


「申し訳ございません。婚礼の服装には規定がありまして……」

「いや、でも、これくらいなら……」

「しかし、規定が……」

「どうせヴェールを被るのだから見えないでしょう、お願いよ」


女たちは、唸りながら頷いた。


「まぁ、これくらいならばいいでしょう」


銀細工が髪に触れると、冷たい金属の異物感にぞくりとする。

お母様、今日娘があなたのそばに参ります。






◾︎






準備が終わった昼頃から、桔梗を先頭とした集団が、行灯の火を頼りに湖へと日暮れの村を練り歩いていた。


太陽は山の向こうへ深い闇を残して沈んでいく。昔から続く、贄の乙女を捧げる湖についに到着してしまった。


周りが山に囲まれ、湖のある面だけが人の行き来できる場所だ。逃げられそうにない。厳かな鳥居が建てられており、よく見ると宇佐美と彫られている。鳥居と続く道の脇には、多くの村人が真っ白な装束を着て女は鈴、男は松明を炊いて頭を垂れていた。


「桔梗様、これを」


朝から準備を手伝った女房の一人が、分厚く重そうな羽織を持ってわたくしに差し出す。


「これはなに?」

「婚礼の衣装でございます」


視線を逸らして、淡々と言う女に合点がいく。そうか、これは重石だ。ちゃんと生贄として、死んでいくように重い服を着させられるのだ。贄の乙女の象徴とも言えるものに、小さく溜息をつく。


わたくしの背に回って羽織を着せたあと、女は静かに脇へと身を寄せた。


「桔梗、久しぶりね」


背に声をかけられて振り向く。


「あら? お義母様ですか、随分姿が変わられて……わたくしちっともわかりませんでしたわ」


皮肉げな口調で継母を見る。毒々しくも綺麗な容姿は年齢とともに衰え、目の前にいる女は普通の歳をとった女だった。幼少期恐れていた姿、形も無い。


「桔梗、綺麗じゃないか」


継母の後ろから遅れて父がやってきた。


「ついに、神に嫁ぐ時が来たな。分かっているだろうが、宇佐美家の務めを果たしなさい」

「ふふ、務めだなんて」


辺りに響くような大きな声で、お腹を抱えて笑う。

こんな、こんな阿呆を恐れていたなんて。


「何がおかしい」

「ふん、どの面下げて仰っていますの? 宇佐美家の扱いなど受けた記憶はありませんわ」


──パンッ。


鼻で笑うと、乾いた音がして、頬がじんじんと熱くなる。

はらりとこぼれ落ちた髪を耳にかけながら、艶やかに微笑む。


「あら、この程度で手が出るなんて理性がないのね」


怒りで激昂した父の腕をすり抜けて、思い切り父の頬を打つ。


「は?」


呆然とした表情でへたり込む父を軽蔑の眼差しで見つめた。


「なんてこと……っ」


継母の慌てふためく姿と、父の憤慨した様子に溜飲を下げる。


ああ、なんて清々しい気持ちなのだろう。

これが自分の選択なのだ。

愚かな選択だったのかもしれない。それでも、後悔はしていない。


村人に圧迫されるように距離を置かれつつも、鳥居の方へと押し出される。

鳥居の真下まで歩いて、後ろを振り返る。未だに紫苑の残像を探してしまう。


最期に一目でも会いたかったわ。


──湖へと足を踏み入れようとした時、


「桔梗っ!」


声がして、咄嗟に振り返ると、どこから現れたのか服をはためかせて降り立つ紫苑の姿があった。


「……紫苑?」


ゆっくりと流れる時間に、周りが暗闇の中、紫苑だけが光って見えた。


「紫苑っ!」


重い羽織やヴェールを脱いで、紫苑の胸に飛び込んだ。


「しおんっ、しおん!」


睫毛の縁いっぱいに溜まった涙が、大粒となって頬を伝っていく。


「すまない。準備で遅くなってしまった」

「いいえ…………きっと会いにきてくださると思っていましたわ」


ごつごつとした指で、目元を拭われる。


視界の端で父が頬を押えながらよろよろと立ち上がっていた。


「何をしている! 男はひっ捕らえて、桔梗はさっさと湖へ突き落とせ!」


そんなこと、させるものですか。五歩程の距離をさっと詰めて、父の襟元を掴み、湖へと投げ入れた。


「当主様っ!」

「当主様が落ちたぞーっ!!」

「早く助けにいけ」


腰を抜かした継母を一瞥する。がたがたと震えて、我先にと逃げようとする姿に興醒めした。


「菊、あとはよろしくね」

「承知致しました、桔梗様」


冷徹な顔つきをしている菊に、継母は任せることにした。わたくしが別邸に行ってからも継母の侍女虐めは続いていたらしいから、きっと良い復讐を果たすでしょう。


向かってくる村人を片手で捻っている紫苑に声をかける。


「紫苑!」


呼びかけると、紫苑はすぐにわたくしの方へ視線を向けて駆け寄ってきてくれた。


「終わったか、行くぞ」


わたくしの腕を引っ張って、湖に背を向けて一緒に駆け出した。


「ねぇ! どこに行くの?」

「馬車を停めて貰っている。追いつかれる前に乗り込むぞ!」

「馬車? 馬車って何なの?」


息を荒らげさせながら走り続けると、紫苑が「あれに乗れ」と言った。


視線の先を見ると馬に繋がれた箱があった。

素早く乗り込んで、息を整える。隣に座った紫苑は御者に都の名を告げていた。


「紫苑、説明してほしいわ」

「きみが生贄になる運命だと知ってから、準備してきたんだ」

「準備って?」

「宇佐美家から逃げ出す方法や家、仕事、色々だ」

「わ……わたくしの、ために?」


目に薄い水膜が張っていき、紫苑の姿がぼやけてしまう。


「桔梗、もう、自分から逃げないでくれ」


手首を掴む力が大きくなった。涙がこぼれ落ちて、明瞭な視界で紫苑を捉える。

そうつぶやく紫苑の声は怯むほどに昏く、背筋がゾッとするほど愛がこもったものだった。


「頼む」


紫苑の懇願するような瞳を見て微笑む。こんな目をさせるほど、わたくしが大切な存在なのだ、とほの暗い手応えに満面の笑みを浮かべた。


「逃げません。ここが、わたくしの居場所ですから」


ようやく自分の居場所に辿り着いたのだ、もう離れたりしない。


「愛してる、桔梗」


紫苑の濃紫色の瞳から放たれるとてつもない熱量に、胸を衝かれる。


「わたくしも……わたくしも愛しています。紫苑」


強く、されど繊細に扱うように抱きすくめられる腕の中で、桔梗は満開に咲き誇る花のように笑った。




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贄の乙女と世話係 春宮 絵里 @eri_han

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