壁の中の妖精

諏訪野 滋

壁の中の妖精

 僕はそのときを待っていた。中央広場にある尖塔の鐘が十二時を告げると、決まって一分一秒の狂いもなく、宮殿の裏にある黒い両開きの鉄柵が重い金属音とともにわずかに開けられる。そしてその狭い隙間から、これもいつも通りに、彼女が外へと素早くすべり出てきた。

 やや短めのボブカットの金髪の上に、毛皮でできたウシャンカと呼ばれる黒いロシア帽をわずかに傾けてのせている。細身の身体にぴったりと合った、やはり黒の軍服。右肩から前胸部に伸びた飾緒しょくちょと呼ばれる銀色の糸で編まれた飾り紐が、彼女が宮殿を守る近衛兵であることを示していた。年のころは僕よりもずっと若い、まだ二十代前半といったところではないだろうか。大人びた彼女の軍装が、引き締まった表情の中にわずかに残る幼さを対照的に際立たせている。

 それまで鉄柵の前に屹立きつりつしていた前任の兵士に、彼女は指をぴしりと伸ばして一分の隙もない敬礼を返すと、交替して番に立った。長いライフルを左肩に担いだ彼女は不動の姿勢をとると、目の前の街路を無表情に見守り始める。

 午後の王都に、粉雪が舞い始めた。


 僕は石畳の歩道を大股に横切ると、彼女の方へと歩いていった。宮殿の通用口であるその黒門に近づく一般市民の僕に気づいたのか、彼女はその青く澄んだ瞳をちらりとこちらに向ける。僕は意を決して彼女へとまっすぐに近づくと、ありきたりな挨拶あいさつを口にした。

「こんにちは」

 女性兵士は、まさか話しかけられるとは思っていなかったのだろう、わずかに目を見開いて僕を見ている。僕は続けて、さらにまぬけな会話を持ち出した。

「寒くなってきましたね」

 彼女は、ちらりと鉄柵の向こうを振り返った。どうやら、同僚を呼ぼうか呼ぶまいか迷っているらしい。しかし誰もいないことがわかってあきらめたのだろう、やがて彼女は僕の方へと向き直った。

「宮殿に、何か御用でしょうか」

 決して高圧的ではない、丁寧な口調である。市民に無用な反感を与えないようにと、応対についての教育も受けているのかもしれない。僕は彼女を刺激しないように、言葉を選びつつ答えた。

「いえ、宮殿には特段の要件はありません。仮にあったとしても、僕のようなものが入れるとも思えませんし」

 彼女は僕の顔を、探るようにじっと見た。

「私しか気付いていないとは思いますが、あなたはこの時刻になると、決まってこの通りを歩いていますね。その理由を、お聞かせ願えますか」

 彼女に覚えてもらっていたことにうれしさを感じるとは、我ながら状況を分かっていない馬鹿だ。不審者として警戒されているというのに。

「職務質問、でしょうか」

 質問に質問で返した僕に、彼女は背をいっぱいに伸ばして威厳を示そうとした。それでも、僕の身長よりやや低い彼女は、必然的に僕を見上げる形になる。

「通用門の警備体制を調べているようにも見えます。敵国のスパイ、と思われても仕方のない行動なのでは?」

「スパイにスパイですかといて、そうです、なんて答えますかね」

 女性兵士は、少しむきになった。

「茶化すのですか。返答によっては、兵舎まで連行しなければならなくなりますが」

「そいつは困るな。それに別段、あなたに隠すつもりもありませんし」

「もったいぶった方ですね。もう一度質問させていただきます。あなたがいつもこのあたりをうろついている理由を、お聞かせください」

 僕は、なけなしの勇気を振り絞った。

「あなたがいつも、この時間に警備しているからですよ」

 彼女は一瞬、要領を得ない表情をした。

「どういう、意味でしょう」

「実は、あなたに頼みたいことがあるのです」

 どこの馬の骨とも知れない僕からの突然の依頼に、彼女はいたく自尊心を傷つけられたようであった。

「見損なわないでください。私は、スパイに協力するつもりはありません」

 彼女と話し始めてから、すでにかなりの時間が経過していた。もうあと五分程度で、再び交替の時間となる。説明している時間が惜しい。

「そこを何とか。実は、壁の向こう側にいる人に、手紙を渡してほしいんです」

「手紙? 手紙なら、きちんと所定の手続きを通して……」

 言葉を続けようとした彼女を、僕は両手で制した。

「宮殿に届けられる手紙は、すべて検閲されるのでしょう? 僕は、その手紙を他人に見られたくはないのです」

「なおさら怪しいですね。検閲されては困る手紙を、宮殿の内部の人間に届けたいなどと。そしてあなたの言うことが事実なら、宮殿の内部にあなたと内通している同じ敵国のスパイがいるということではないですか。恐ろしくも、嘆かわしいことだわ」

 彼女はすでに、僕のことをスパイだと信じて疑っていない様子である。

「そう言わずに。僕が手紙の宛先人をあなたに話す、と言ったら?」

 僕の申し出に、彼女の混乱は深まる一方のようだ。

「なんと。あなたは自分の協力者を、敵である私に売るつもりですか。二重スパイとは、恥を知りなさい」

 僕は、そろそろ種明かしをする必要に迫られていた。

「そんなに怒らないでください。実は僕、その手紙の宛先人の名前を知らないのです」

 馬鹿にされていると感じたのだろう、彼女は真っ赤になってライフルの銃床を握りしめた。

「ふざけているのですね」

「本気です。あなたに頼みたいことというのは、実は二つあるのです。一つは、僕が持っている手紙を壁の中に届けてもらうこと」

 聞くだけは聞いてやろうという表情で、彼女はきっと僕をにらみつけた。

「もう一つは」

 僕は可能な限り平静を装いながら、言った。

「あなたの名前を、教えていただくことです」

 やはり彼女は、僕の言葉の意味をまったく理解してくれなかった。もちろん、僕の持って回ったやり方がまずかったのは言うまでもない。僕はコートのポケットから、宛先が空欄のままの封筒を取り出した。彼女はそれを、まるで恐ろしいものであるかのように凝視する。

「私宛ての、手紙なのですか。あなたはやはり、私に内通者になれと」

「とんでもない。あなたは、この国を愛しているのでしょう?」

 愛国、という言葉を聞いた彼女は、反射的に直立不動の姿勢をとると、その青い瞳で静かに僕を見つめた。強い意志の力を秘めた彼女の眼光に、僕は一瞬ひるむ。

「無論です。私は、国家に忠誠をささげています。私の命と名誉にけて」

 僕は、ここで彼女と議論するつもりはなかった。人が生きていくために必要なものは様々だ。それが自分と異なるからと言って、彼女の国家への献身を、妄信だと笑うことなど誰にできようか。

「お返事、いただけますか。僕の住所は、便箋びんせんの裏に書いています」

「外から来る手紙と同様に、外へ出す手紙もすべて検閲されます。当然、私からの手紙も検閲済みになるのですよ? あなたが私から宮殿の中の情報を得ることなど、決してできません」

「あなたがご自分の手紙の検閲を望んでいるというのであれば、それは仕方がありません。あなたは、軍の、この国のあり方を信じていらっしゃるのだから。でも僕は、きっとあなたからお返事がいただけると思っています。検閲されては困ることなど、僕の手紙の中には全く書かれていないのだから」

 僕は彼女の手の中に封筒を強引にねじ込んだ。彼女は一瞬迷っていたが、もう一度鉄柵の中を振り返って同僚がいないことを確かめると、それを軍服の内ポケットへと素早く収めた。

 彼女は目を上げてちらりと僕を見ると、重そうなライフルを左肩に担ぎなおした。そして元通りに姿勢を正すと、それきり彼女は何も言わずに、人と車の往来する街路を再び見守り始める。僕は黙って彼女に頭を下げると、薄く白に染まり始めた王都の石畳道をたどって帰路についた。彼女の帽子にこれ以上雪が積もりませんように、と心から願いながら。


 数日後、僕の下宿に一通の封筒が届いた。一度開封されたうえに近衛軍の封蝋ふうろうが押してあるのが、はっきりとわかった。検閲済み、というわけだ。僕はいそいそと封を切ると、真っ白な便箋に書かれたきれいな文字を、興奮を抑えながら読んでいく。

「ご用件、承りました。今月十二日に非番が取れました。プラーツェ広場の噴水の前で、午後五時に。私はあまりお酒が飲めませんが、それでよろしいのでしょうか。敬具、マリナ・カレリン」

 その短い文章には、一言一句、修正のあとはなかった。


 僕はベッドの上に仰向けになると、持っていたウォッカのグラスを掲げた。

 話の分かる検閲官に乾杯、だ。



 This story was inspired by the song “Nikita”, Elton John.

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