その三

 川辺の一面にクローバの生い茂る中を一人佇みながら、何を考えると云う訳でも無く、ただぼんやりと流れる水の煌めきや、微かに揺れるクローバを眺めている内に、どうやら私は少しうとうとし始めた様なのでした。


 この場所の陽の燦々と降り注ぐ中、余りに長閑な空気に、世の中から遠く離れてしまった様で、何だか解き放たれた様な、それでいて後ろ髪を引かれる様な、そんな気分を味わいながら、けれどもこんなうららかな日の、世界全体が眠っているかの空気の中、何時しか私は座り込み、そのまま深い眠りに入って行くのでした。


 その時、今にも閉じられようとする目の端で私が見たもの、それは、ほんの数十センチ先の、一杯に敷き詰められたクローバーの中を、あっちこっちと押し退かれながら歩く小さな人の姿でした。


 少々意地悪な話ですが、私は、こんな風にこの小人さんが、隙間無く生い茂るクローバーに散々手古摺らされながら、懸命になっている姿に思わず吹き出してしまうのでした。普段だったら、こんな情景に出くわした時には、もっと驚くとか、違う反応をするものでしょうが、さっきも言った通り、今にも眠りに落ちそうな状況だった為でしょうか、それをさも当然の事と受け止めて、「先生、中々に勢が出ますね」などど呟いたのを最後に、私は深い眠りに落ち込んで行くのでした。


 ……不意に肌寒さを感じ、私は目を覚ましました。どれ位寝入っていたのかと、慌てて周りを見回すと、既に辺り一帯は大きく西に傾いた陽の光で、茜色に染め上げられているのでした。


 私は小さく溜息を一つ吐くと、帰る準備をする為に、腰を上げ掛けるのでした。と、その時、或る物が私の目に留まります。それは、寝入る前に見掛けたあの小さな人の姿でした。


 けれども、さっき見掛けた時にはあんなに元気そうに動き回っていたのが嘘の様に、小さな身体はじっと動かず、クローバーの隙間に横たわっていたのでした。


 私はふと、ずっと昔に誰かに聞いたか、或いは本で読んだかして、以来ずっと心に残っていた露の妖精について思い出していました。朝、草の葉に溜まった一粒の露と共に生まれ、その日の夕方にはもう、露の消えるのと時を同じくしてその儚い命を終えてしまう妖精の話を。


 ピクシー、ノーム、コボルド、エルフなど、どれだけいるか分からない妖精達の中で、この露の妖精だけが名前を付けられていませんでした。幼い私は、その事に大いに不満を感じていた物ですが、それも、この儚く小さな存在に、何処か自分と通ずる何かを感じ取っていたからかも知れません。


 その妖精が今、私の目の前で、静かにもう二度と動く事の無い身体を横たえている。……私はどうするべきなのでしょうか?


 土の中に埋める気には、どうしてもなれませんでした。その身体に纏った、薄い昆虫の羽のような服と、透き通る様な小さい四肢が、冷たく荒い土には似つかわしく思えなかったからです。かと言ってそのままにして立ち去るなど……。


 暫く途方に暮れていた私ですが、、当てもなく宙を彷徨っていた私の目に留まった、葉をふんだんに繁らせた笹林。これだ、と私はその中からなるべく大きく綺麗な葉を選び、何度も失敗しながらも(何せ久しぶりの事でしたから)、漸く小さな笹舟を一つ作り上げたのでした。


 そして、その中に妖精の身体を収め、目の前で物憂げに流れる川にそっと放したのでした。


 川はゆっくり静かに舟を運んで行き、何度か流れの中に飛び出した石や棒杭に当たってクルリクルリ反転する様子を見せていましたが、やがて、それも舟が遠く、流れの向こうに小さくなって行くにつれて分からなくなり、最後には見えなくなって行くのでした。


 それでも、私は帰る事無く暗くなり、辺りが見えなくなるまでその場を動こうとしないのでした。何度も込み上げて来る嗚咽を必死に押し留めながら。



                                終

 

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妖精物語 色街アゲハ @iromatiageha

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