彼女はカメラを持って
霙座
高三、初夏
「おまえ、盗撮してんだろ」
校舎の外周のフェンスの前、グラウンドが見渡せる高台の木立の中、急に現れた人影は、唐突に小春の腕を掴んだ。黒色のハイソックスに、黒色のアスレタのハーフパンツ、白色のドライTシャツ。
サッカー部だ、どう見ても。
小春は腕の持ち主の顔を見て、ひっと短く悲鳴を上げた。
「ひ、人聞きが悪いことを言わないでください」
「見せろよ」
「やめっ」
容赦なくサッカー部は小春のカメラに手を掛けた。薄茶色の髪が汗で濡れていた。距離を縮められて小春は反射的にストラップを強く握った。
「カメラ、落としたら、壊れる」
吐くばかりで吸えていない呼吸で、心では絶叫レベルの主張でカメラを守った。
その気迫にサッカー部はわずかにひるみ、カメラを持ち直した。スマホにはないごちゃごちゃしたボタンや摘まみに戸惑ったらしく指が迷ったが、どうやら画像の再生ができたようだ。
「絶対に、撮っていません」
小春の言い分にサッカー部は面白くなさそうな顔で写真をスライドしていった。ピ、ピ、と操作音が鳴るだけの時間。いったい何枚見るつもりだろう。メモリーには膨大な撮影画像が入っているのだ。しばらくすると小春の動悸も落ち着いてきた。観察する。そのサッカー部は、日に焼けた横顔に薄い色素の前髪がうざったく掛かっていた。
もとい、うざったいのに、涼しそうな目元だ。くそう。同級生が騒ぐわけだ。かっこいい。
「んー。うん。はい」
「……気が済みましたか」
百回ほど送りボタンの音が鳴っただろうか。尊大な態度のサッカー部からカメラが戻ってきた。少しむっとしたが、小春はカメラを受け取った。
「景色ばっかだな」
そんな感想、いらなかった。
「人は、撮らないんです。好きじゃないから……三矢涼くん」
小春が名を呼ぶと、サッカー部は初めてぎょっとした顔を見せた。うちのサッカー部の司令塔、雑誌の特集に写真が載ったこともある実力者。写真部の小春とはクラスも、なんなら棟も違うが、三矢くらいの有名人であれば知っている。小春のような日陰者は、有名人と関わりなんて、持つものじゃない。
まだ冷たい四月の夕暮れの風がグラウンドから駆けあがり、小春と三矢を分断した。
五月の連休明けの校内プレゼンは終わった。県大会の学校代表には選ばれなかった。子供を可愛く撮れる後輩がいる。一瞬で人を笑顔にできる後輩の写真は、小春も好きだった。
これで競うようなコンテストは終わりだ。あとはゆるやかに、いつものように撮ればいい。
「月末の撮影会だけどさ、わたしは山の水路の花菖蒲を撮りに行きたいんだよ」
「中央植物園か、平日遊園地。二年がコスして撮るって言ってんだけど」
「うーん、パス。ちゃんと管理事務所に届け出してよ」
中間テストが明けて、今日から部活が再開できる。部室に行かないだけで写真はいつでも撮っているけれど、放課後、なんとなくそわそわして部室に行く前にカメラを取り出した。一眼レフのボディの重量感に心が躍る。気が早いというなかれ、目の前の友人も同様にカメラを持っている。カメラをいじりながら教室で話をしていると、戸口から呼ばれた。
「結城って、いる?」
六組に、絶対に現れない種類の人が、小春を名指しで呼び出した。
なんで。名乗らなかったのに。
小春が反応するより早く、周囲がざわめく。
三矢涼だ。三年一組三十番、サッカー部副キャプテン、百八十センチ七十キロ、コンタクト使用。好きな食べ物はカレー。家は医者で金持ちだとか、サッカー雑誌じゃないとこで読モやってたとか、自校と他校にもファンクラブありとかなしとか、彼女はとっかえひっかえとか。
やっかみ混じりの賞賛の囁きの中、みんな何でも知ってるな、と思ってから、小春は下唇を噛む。だけど、きっと自分以外に興味はないんだ。とにかく自分勝手な印象だった。関わりなんて持つ予定じゃなかった人だ。
隣で友人が、なにやったんだよ、と言ってくる。やったんじゃない、被害者はわたしだと言い返そうとしたが、戸口の男の不機嫌オーラは全開で、一秒たりとも待てそうにない。
おずおずと小春は席を立った。
廊下突き当りの非常階段に出ると、風が髪をかきあげた。階段の白と濃いピンクの日日草のプランターに細い体の蜻蛉が停まっている。三階から見下ろす町並みは緑と建物が半分ずつ。自動車のエンジン音が聞こえた。
おでこを気にして前髪を押さえたけれど、スカートを押さえるべきだったか。左手はカメラで塞がっている。おでこは出したくないのだ。気にしなくてもいいのに、とは自分でも思う。誰に見られているわけじゃない、唯一そこにいる人物は、手すりから外を眺める三矢だ。
呼び出されてついてきたものの、三矢は一度も小春を振り返ることなく、口も開かない。もしかして呼び出されたこと自体が気のせいだったんじゃないだろうかと小春が考え始めた頃、三矢は動き、ベランダの壁に寄り掛かって腕を組んだ。
視線が刺さって、反射的に小春は話し始めた。
「あの、撮っていなかったですよね。なんで。もう、ほかにカメラは持ってないし、携帯はあるけど、あの時は鞄の中で、だからほんとに」
「カメラ」
弁解を並べ立てた小春を三矢はひとことで遮った。
「あんな風に取り上げたし、カメラ、大丈夫だったか。大事なもんなんだろ」
「……え」
今更過ぎる。あれから一カ月が経っていた。
三矢の手から戻ってきたカメラは、無事だった。戻ってきた時は心配で、学校からの帰り道ずっと両手で抱えていた。家に帰って道具を並べて本体もレンズも悪霊退散とばかりに綺麗に掃除した。
ちゃんとカメラは動いたし、データも消えていなかった。小春は手の中のカメラを見つめた。
「大事です……高いんですよ。すごく。バイトして貯めて買ったんです」
嫌味たらしかったな、と口にしてから思った。三矢は視線を地面に落とした。外階段のコンクリートは砂だらけだ。
「後輩に写真部に友達がいるやつがいて、あんたのこと聞いて知ってて。写真を子供みたいに大事にしてるって、カメラ取り上げたことサイテーだって言われた」
三矢に面と向かってそんなことを言えるその後輩のメンタルに心から賛辞を贈る。三矢はもしかして、少し反省したのだろうか。あんまり責め立てるのも気の毒だけれど、今後勘違いのないように、小春だとて言いたいことはある。
「動いている人を撮るのって、難しいんですよ。カメラの性能の問題もありますし。だから、サッカー部の写真とか無理で。三矢くんは有名人だし、レンズを向けられることに神経質になるのかもしれませんが、わたしは、あなたを撮ることは、ないんです」
はっきり言ってしまうと、「それはもう、わかったから」と三矢はなぜか傷ついたような顔をした。
なんで、傷つく。
そんな顔をされてしまうと、弱い。
「……わたし、写真を消すのって、辛いんです。たくさん撮って一番いい写真を選ぶのが難しくて。選んで、選ばれなかった写真を消すことがわたしにはできない。選ばれなくても、切り取った一瞬が、かけがえないものなんです。
だから、あの時も、本体よりも、毎日撮った写真が飛んでしまったら、消えてしまったら、そのときのわたしは、いなくなってしまうから、そう思って、ちょっとひどいことを言いました」
三矢がぱっと顔を上げた。切れ目が見開かれていた。釣られて小春も驚いて三矢を見返した。三矢の目は、小春のどこを見ているかわからないぼんやりしたものだった。
うっかり見つめてしまったことに気が付いて小春が顔を伏せると、三矢もようやく我に返ったようだった。
用事は終わったと思った。もういいですか、と小春が校舎に戻るドアノブに手を掛けると、三矢が肘を掴んだ。
「こないだの写真部の発表、見た。あのとき撮ってた写真じゃなかった」
唐突だった。こないだ、とはそれは小春が落選した県のコンテストの校内選抜だ。
「あのときの写真、もう一度見たい」
「……え」
「あんな風に、学校を見たことなかったから……ああ、くそ。なんつーか」
もどかしそうに、三矢は舌打ちした。
取り上げたカメラで、三矢はちゃんと小春が撮った写真を見ていたのだ。あのとき撮っていたのはグラウンドと校舎だった。夕暮れに校舎の壁に赤みが差して、静かで温かい学校で、好きな写真だった、でも、出展には気乗りがしなかった。
インスタにはあるんですけど、と小春が言うと、三矢はスマホを取り出した。後輩のアカウントから辿ったらしい、すぐに小春に辿り着いた。黙って写真を眺める。無言で画面をスクロールする姿を前に、小春は、何も目の前で見なくても、と変な緊張に背中が強張る。
ふと、三矢が呟いた。
「俺、県選抜、落ちて。今度の地区大会が最後になった。高校卒業したらサッカーやめるって親と約束してるから、ほんとに最後」
三矢はじっと手元を見ている。小春の腕がびくりと振れた。最後という言葉は怖かった。
「しばらく強化練習会とかうまくいってなくて、それであの時イラついてて、あんたに当たったみたいになって。だから、悪かった。ごめん」
三矢のスマホの中に、誰もいないグラウンドの写真。フェンスの向こうの夕日が落ちる空は、ピンクが入り混じった水色をしていた。三矢はただ画面の中の夕焼けの空を見る。色素の薄い前髪が日に焼けた横顔に掛かる。
「毎日外にいて空も見てるけど、こんな色、してなかったな」
カシャ、とシャッターの音がした。三矢が顔を上げると、小春は正直に、しまった、と顔に出した。
「三矢君、あの、これは盗撮でした。ごめんなさい」
三矢は怒らなかった。ただ首を傾げた。人は撮らないんじゃなかったのか、と言う。小春が視線を落とした。
「人を撮るの、好きじゃないですよ。なんでか偽物に写ってしまうから。わたし、人間に対して邪心があるんでしょうね。撮った写真に、わたしこんなブスじゃないって言われたくなくて、うまく撮ろうとしてしまうようで。あんまり撮りたくないです」
だけど、たぶん、今しかない瞬間だったんです、とカメラを持つ手に力が篭った。
「ごめんなさい、消します。消すのは辛いけど、消します」
「……いいよ」
悲壮感に目をぎゅっと瞑った小春が、三矢の返事を聞いて、理解するまで数秒。ぽかんとした顔をした。
「残しとけばいい」
少しはにかんで、三矢はすぐに顔をそむけた。小春は全く反応できずに、逆光の中の三矢の姿を眺めた。風に髪がなびいて、横顔がゆっくりと外を向いて、笑った口元が見えなくなる。制服の袖から出た手首が、意外に細い指が前髪をかき上げる後ろ姿を、ああ、連写で全部残しておきたい。
「三矢せんぱーい」
「結城先輩、無事ですかっ」
非常階段の扉が盛大に開かれて、良く通る大声が三矢の名前を呼んだ。にこにこしたサッカー部の後輩に三矢はちっと舌打ちした。一緒に飛び込んできた写真部の後輩は、蒼白な顔をして叫んだ。
「部室行ったら先輩連れ去られたって聞いて、こンのパリピサッカー部が!」
「えええ、すみませんこの子はいつもはこんなこと言う子じゃ」
「へえ?」
三矢は顔色の悪さの割には威勢の良い暴言を鼻であしらい、誰だよお前、と全く相手にしなかった。サッカー部の後輩が「早く部活行きましょー」と場の空気を読まずに三矢と腕を組んだ。 大型わんこの勢いに完全に押された小春に、後輩に腕を引っ張られた三矢が、ついでに、と口を開く。
「これが、俺を差し置いて選抜に選ばれたやつ」
「え。彼が、私の最後の県大会代表のチャンスをかっさらっていたやつです」
つられて小春が反射的に後輩を紹介すると、三矢が満足そうに小春の後輩に「は? おまえ、やらかしてんじゃん」と悪態をついた。悪魔の微笑みを前に後輩の口許が引きつったのを見てしまう。急いで後輩と三矢の間に割って入った。
思い付きだった。
「今度の地区大会、観に行きます。撮れるか、わからないけど」
三矢がひゅっと息を吸って、真顔に戻った。三矢の顔に一瞬初夏の日差しがよく似合う笑みが浮かんだ。それからまさか、「楽しみにしてる」と返されるとは思っていなくて、小春がうろたえた。
サッカー部の練習はもう始まっているようだ。開きっぱなしの校舎のドアから、廊下を駆けていく後ろ姿を見送った。シャッターボタンに掛かった指に、気付かないでいた。
彼女はカメラを持って 霙座 @mizoreza
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