名前

真花

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 特に部屋にいるときに気配を感じる。近くだったり、遠くだったりする。だが、怖いと思ったことは一度もなくて、むしろ穏やかで暖かいもののように思う。小さな頃から、気が付いたときには気配はあったし、僕の邪魔をしたこともない。一度も正面から見たことはなくて、振り向いた瞬間にどこかに隠れる。他の人は気配と暮らしていないことは知っている。僕だけのものだとして、そんなものかと最初から受け入れていた。呼んだことはなく、名前もない。

 夏休みの初日の夜、部屋で日記を書いていた。宿題ではない。僕は誰に要請されるでもなく日記を付けている。誰にも見せない、僕だけの日記だ。僕は僕が何者であるのか、何者になるのかを知りたい。そのためには僕を書くことが一番の近道だと思って、小学校五年生のときから一日も休まずに書いている。何をしたかなんて書かない。好きになったもの、曲、本、映像などを写したり、自分で考えたことを詳細に記したり、感情のままに文字を並べたりする。今日はそう言うものがなく、何も思い付かないことを仕方なく書き、そこで筆が止まった。しんとした部屋の後ろの方で気配がうろうろしていた。それを放っておいて、頭の後ろで手を組んで天井を見上げる。毎日書いていれば書くことのない日があってもおかしくはない。だが、僕は毎日何か一歩進みたかった。同じ格好のまま、思案を巡らせるがいいアイデアが出ない。

健太けんた、ちょっと来なさい」

 父親が階下から呼ぶ声に、はーい、と返事をする。黙って座しているよりは、何か変化を付けた方がいい。部屋から出て、階段を降りる。気配は付いて来なかった。

 ダイニングに行くと両親がテーブルに就いて固い表情をしていた。気軽さは消え去り、その真剣な眼差しに僕の中が掻き乱される。何があったんだ? 自分の顔が両親と同じくらいの硬度になっていくのを感じながら立ち竦む。父親が僕の目をじっと睨む。

「座りなさい。大切な話があるから」

 母親が頷いて、僕は逃げ場のない魚のように椅子に収まる。僕は二人の顔を交互に見て、息をするのが苦しくなって、鼓動が駆けている。父親は大きく息を吸い込んだ。

「健太。お前も十五歳になった。だから、これまで秘密にしていたことを伝える」

 まさか、僕は養子だったのか? それとも、お母さんが別の人だった? 実はうちは何か高名な一族の末裔だった? 僕の脳裏にフラッシュのように推理が浮かんで、花が散るように落ちて行く。父親が続ける。

「実は、お前には死んだお兄ちゃんがいたんだ」

 お兄ちゃん。……そうなんだ。どの推理よりもマイルドな内容だ。だが、そんなことをどうして今まで隠して来たのだろうか。悲しい話だが、子供でも受け入れることは出来るだろう。少なくとも僕なら出来た。僕はそれでも頷く。そんなに緊張するような話ではない。

「それで、そのお兄ちゃんの名前が、健太、と言うんだ」

「え?」

「俺達は間違ったことをしたのかも知れないとも思った。でも、正しいことをしたかも知れないとも思った。だから、今日まで伏せて来たんだ」

 僕は少なからず混乱して、だが、僕の名前がお兄ちゃんの名前で、同じ名前であることは理解出来た。その理解だけで十分だった。自分の存在が傷付けられた。僕は大きな穴に放り出されたように不安定になった。今日まで積み重ねて来た「僕」つまり「健太」が棄損された。事実の認識に感情が追い付いた途端に、苛立ちと怒りが燃え盛った。僕はテーブルを思い切り両手で叩く。

「何てことをするんだよ!」

 両親は怯まない。ぐ、と黙った刹那の緊張を破るように父親が身を乗り出す。

「健太。お前は代理じゃない。健太だ」

「やってることと言ってることが乖離してる」

「俺がお前を愛していることに嘘はない。信じてくれ」

「どっちの健太を愛しているんだよ」

 母親が割って入る。

「私も愛している。あなたを愛している」

「俺もお前を愛している」

 二つの「愛している」が僕に爆弾のように当たって、だが僕はそれを切り払う。

「信じられない。……ちょっと一人で考えさせて」

 僕は立ち上がり振り向かずに自室に戻った。両親も両親の声も僕を追いかけては来なかった。

 部屋に入り、当てつけにドアを激しく閉めて、ベッドに転がる。自分が自分に起きていることを全て理解しているとは思えなかった。だが、胸に深い傷が出来ているのは間違いないし、涙が溢れて来た。どうしてこんなに泣くのだろう。……僕は両親に愛されていないのだ。両親が愛しているのは健太であって、僕ではない。僕は代理なのだ。生まれたときからずっと、健太の代理をさせられて来たのだ。僕が僕の存在を知りたかったのは、きっとどこかで自分が代理人物でしかないと言うことに気付いていたからなのだ。僕の人生は空虚にしかなり得ない。胸を穿たれて、穴になる。

「代理の人生」

 言ったら、乾いた笑いが込み上げて来た。涙は流れているのに、ウヘヘ、ウヘヘ、と笑う。その声が部屋中に響く。この部屋だって本当は健太のためのものだったに違いない。そもそも、健太が生きていたら僕は生まれたのだろうか。

 気配がした。いつもの気配だ。

 花が綻ぶように僕は理解した。気配のことだ。

「お兄ちゃんなんだろ?」

 気配が近付く。でも正視してはいけない気がして上を見ていた。相変わらず気配は暖かく穏やかで、僕は少し落ち着いた。

「そうだよ」

 僕そっくりの声だった。きっと見た目もそっくりなのだ。

「お兄ちゃんは、僕が同じ名前なこと、どう思うの」

「僕の分まで生きて欲しいと思うよ」

「やだよそんなの。僕は僕だけの人生がいい」

「でも僕死んじゃったし。いいじゃん、少し分けてよ」

「やだね。それに、そんなこと出来ないって、気付いているでしょ?」

 健太は黙る。僕の涙はいつの間にか乾いていた。奇妙な笑いも消えていた。兄の気配が濃くなる。

「そうだね。乗り移ることも出来なかったし、僕が健太の人生を決めることは出来ないのは、分かってる。だから少し僕のことを想って生きてくれたらと思うんだよ」

「もう想ってる。知ってしまったら戻れない。ずっと気配を感じて生きて来たんだ。一緒に生きている兄弟だって、思える。でもだからこそ、僕は僕の人生でありたい。僕はお兄ちゃんを想うから、僕の人生を生きることには干渉しないって、約束して」

 兄はまるで僕の言葉を咀嚼して飲み込むみたいに間を取ってから、確かめるみたいに言葉を吐く。

「最初から干渉は出来ない。……想ってくれれば十分だ」

 気配に戻った兄はもうそれ以上話さなかった。きっと二度と話すことはないだろう。僕はベッドの上に一人、涙の痕を手で拭う。呼吸は落ち着いている。兄にありがとうと思ったが、自分の中で取っておくことにした。バラバラに壊された僕の「健太」が命の水を与えられたみたいに再生している。壊される前よりも強くなっている。胸に手を当てる。穴はもうない。

 僕が健太だ。


(了)



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