雪融けのケロイド

冷田かるぼ

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 部屋に充満したラベンダーの香りが鬱陶しい朝だった。のそのそとベッドから起き上がってカーテンを開けるとぼんやりとした日差しが私を迎える。今日から高校一年生になるというのに全く高揚感はなく、不安だけが心の染みとなって広がっている。新しい日々の始まりというのはいつもそういうものだ。自分の部屋を出てリビングに向かうと幼馴染がいつものように私のゲーム機を使っていた。母はキッチンで私の朝食の準備をしている。パンの焼ける匂いがしていた。


「おはよー、早く準備しなよ」


 フローリングにあぐらをかいて手元をかちゃかちゃと必死に動かしながら話しかけてくる。私はそんな彼女――――水村秋乃を横目に椅子に座り、朝食を摂った。トースト一枚。ささっと食べ終えて席を立つ。歯を磨いて制服に着替えて慣れないコンタクトを目に入れる。高校デビューだなんて笑われるかもしれないけど。


「おそーい、また寝坊したでしょ」


 秋乃はゲームから初めて目を離しこちらにそう投げかけた。わがままな幼馴染はいつもこんなことを言っては煽ってくるので、次こそは早く起きてさっさとこの人を置いて家を出てやろうかという気持ちになる。まあ、毎日失敗しているのだけれど。あ、負けた。だなんて呟きが聞こえた。私にできるせめてもの抵抗だ、無視してリュックを背負って玄関に向かってやった。


「こーら、返事くらいしなさいな」


 リビングから聞こえる声に親かよ、と小さく呟いて堅苦しいローファーに足を入れる。秋乃はいつの間にゲームの電源を消したらしくぱたぱたとこっちに駆け寄ってきた。母がキッチンから洗い物の音とともにいってらっしゃい、と言うのに応え、いってきます、と聞こえるように大声で返して家のドアを開けて外に出る。


 春は花粉症がひどい、太陽の光なんて浴びると余計にくしゃみしたくなってくる。しかしこの生暖かい空気感は嫌いじゃない。皆浮かれながらも心にどこか『足りなさ』を感じているこの季節がなんとなく心地よさも含んでいて、私は冬の次に春が好きだ。歩いていると降ってくる何かの花びらたちも寂寥感を含んでいる。頭に乗ったそれを払いながら秋乃は話題を振った。


「冬佳は部活どこ入るとか決めてるの?」

「まだ」

「えー、じゃあどっか一緒に入ろ」

「考えとく」


 うわあひど、なんて返答が帰ってきたけどゆるく無視した。幼馴染だからこそ機嫌が良ければこういう雑な対応が許されるというものだ。まだ部活どころか入学式さえしていないのに部活なんて気が早い。


 徒歩の通学路は住宅街の中をかき分けるように繋がっていて、少し複雑だけれど相当な方向音痴でなければたどり着けないことはない。学校に近付いて来るとたくさんの学生が先導するように自転車で私達を追い越していく。少しずつ日が昇って新しい日々の到来を祝っているようだった。全くもって喜ばしくはないのだけれども。


 うちの制服は他校よりまだマシだなんてどうでもいい雑談をしながらも裏門から入ればもう着いたも同然だ。生徒数の多いこの高校は駐輪場がびっくりするほど混んでいて、徒歩通学にしてよかったとしみじみ思う。私はこういう人の多いところが苦手だ。


 しかしぼうっと見ていたたくさんの学ラン、ブレザー、凡庸な制服の行き交う人混みの中にただ一つ、目が眩むほどはっきりと輝く存在がいた。そこで起きたのは人生初の事象。


 ――――それは、痛いほど鮮烈な一目惚れだった。季節外れの花火のような衝撃が私の胸を打った。自転車に乗った彼の背、風にはびくともしないその学ランの黒い影、春の淡い光が反射した黒縁の眼鏡。その全てが脳に熱烈に焼き付いて、ぶわ、っと火傷のような恋は面積を広げていく。心に積もった雪を融かすようにごうごうと拡散する。


「冬佳?」


 誰の声も耳に入らない。ただこの春の暖気と、この瞳に映る彼が、私の頭と身体をひたすらに陶酔させて動けなくする。硬直させる。くらくらするほど鈍痛の酩酊。混んだ駐輪場をくぐり抜けて自転車から滑らかに降りた彼はそれに鍵をかけて、靴箱の方に向かって行った。


「冬佳、ぼーっとしてないで! こっちだから」


 思わず追いそうになってしまったのを秋乃に引き止められて正気に戻る。私達一年生はまだ自分の靴箱の場所も知らされていないため、ローファーを持ったまま教室に集合しなさいと言われていたのだった。私と秋乃は学科が違うからクラスも違う。だけれども彼女は私の腕を引いてずんずんと自分の教室の方に突き進んで行った。


「ねえ、クラス違うじゃんか、私多分そっちじゃない」

「あ、そっか、じゃあ帰りは迎えに来てよ! じゃあね」


 ぱっ、と手を離しては全く気にしてもいなさそうにからっと言って、指摘さえも受け流して勝手に去っていった。迎えに来いなんていう要望もおまけにして。こうして私は一人で教室に向かい、貼られた席順表の通りに座り、スケジュール通りに入学式に出席して高校生になった。入学式は新入生が一人一人点呼されるけど誰かの名前を覚えようという気にもなれなかった。密かに在校生の中から彼を見つけ出そうとするだけの時間。何年生かも分からないし全校で千人ほどいるのだから全く無駄な努力なのだけど。


 帰りはなんだか上機嫌な秋乃と帰った。しかしまあうるさいくらいに新しくできた友人の話ばかりするものだからほとんど無視を貫き通した。自分の部屋に帰って椅子に座ると一日の疲れがどっと襲いかかってきて思考がすっからかんになる。机に伏せて目を閉じた。


 ただぼんやりと、頭の中に今朝の火傷の痕がひりひりと疼いているのを感じただけだった。




 ラベンダーの香りが今日も鼻を突く。アロマオイルの量を間違えただろうか、と思いつつも昨晩の記憶がはっきりしないのでどうとも言えない。今日は問題の部活動見学がある日で、秋乃がうるさいであろうことは安易に予測できた。


「冬佳、今日放課後一緒に見学行こうね!」


 案の定リビングに足を踏み入れた瞬間これだ。今日はさっさとおにぎりを頬張って支度をして家を出る。今日は確かクラス活動といくつか授業があるんだっけか。オリエンテーションとかから始まるだろうし、と油断しつつも秋乃のことは半分放置で登校した。まだローファーに足が慣れなくて小指のあたりが痛い。まだ場所をはっきり覚えていない靴箱でローファーを脱いだ瞬間の外気が少し長めの靴下にすうすうと染みた。


 ――――なんだかんだあって、日も落ちてきた放課後。授業はただ進みが思っていたより早くて課題も多いというそれだけだった。オリエンテーションは一瞬で終わりすぐ授業に入ったし、進学校というのは伊達じゃない。放課後になると一気に疲れが襲ってきてこの先やっていけるだろうかと絶望的な気持ちになる。このまま机に突っ伏していたい気分だ。


「やっほー、ね、どこから行く?」


 そんな気持ちに気付く様子もない秋乃は教室にずかずかと入ってきてそんなことを言う。周囲の視線が一斉に彼女と私に集まったのを感じて圧迫感を覚える。


「じゃーとりあえず文化部から回ってこ!」


 答える前に勝手にそう決めて彼女は私の腕を掴んだ。待って、と言って、まだ空のリュックに荷物をまとめる。秋乃は早くしてよと言わんばかりにそわそわとしていた。大量の教科書や課題を詰め終わってリュックを背負い、一応謝った。


「待たせてごめん、行こうか」

「遅いし」


 むっとした表情のまま文句を言う。文句を言いたいのはこっちの方だ、帰る準備くらいゆっくりさせてくれ、なんて言えない。雑な対応はできるというのにこういうことはいつも言えないのだ。秋乃の機嫌を伺いながら生活している。彼女のポニーテールが視界で揺れていた。


「よし、行くよー!」


 そう言っては遠慮もなく廊下をどんどん進んでいくので着いていくのが精一杯だ。早歩きしながらさっき配られた紹介パンフレットみたいなものを開いてみる。運動部は最初から選択肢に入れないことにした。写真部、悪くなさそうだけど部員数が多いし馴染める気もしない。まず写真は得意でもないしな。華道部、まあ候補に入れておこう。文芸部、うん、これも悪くなさそう。本を読むのは昔から好きだし。部員数が二人しかいないっていうのが少し気まずそうだけど。


 歩いていると色々な部活が呼び込みをしていて秋乃はよく引き止められていた。私はそんなこともなくてただその後ろにいるだけ。彼女は運動部にも文化部にも向いていそうだしまあ当たり前か、なんて思いながら興味のないものを平然と無視するのを見ていた。放課後の空虚な夕日に纏わり憑かれた空き教室が並ぶ特別棟二階の隅の方、一年生がごった返す廊下。秋乃の目を引くような部活もなくてそろそろ運動部の方を見に行こうかという流れになった時。


「文芸部どうですかー」


 どこからか聞こえた、呼び込みの割にはやる気のなさそうな声。ほんの少し低くてどこか憂いのある落ち着いた声。この辺りでよく聞く気の抜けた方言とはちょっと違うイントネーション。なぜか私はそれに惹かれてしょうがなくって、目を向けるとそこにはこの間の彼が居た。


 え、と声が漏れるより先に、夢を魅せられているのかと思って、頭のてっぺんからつま先までもう一度ちゃんと見た。紛れもなく彼だった。あの時よりもはっきりと映るその姿は明らかに私の恋そのもので、彼は柔らかい光の下でなくともその黒髪を密やかに照らされているのだと分かった。眼鏡の奥の瞳は知的な輝きで満ちていて――――ばちり、と目が合う。まるで電流を流されたみたいに全身がびりびりとした感覚に襲われて、思わず目を逸らした。それでも私は彼に明らかにマークされてしまったようで、じわじわとこちらに近づいて来るのが察せられる。どうしよう、と思うけれど身体は動かない。


「文芸部、興味ありますか」


 緊張のせいかちょっとだけ引きつった微笑が目の前に現れた。学ランの首元には三年生であることを示す赤い校章のバッジが光っていた。隣に立つ秋乃は面倒くさそうな顔をして、早く他のところに行こうよとでも言いたそうな顔で私の袖をちょいちょいと引く。でも私はここから去ることができない。行かなきゃという思いに相反して私の心中で燃え盛る火事が逃がしてくれない。


 そもそも文芸部は候補の中に入っていた部活だ。だから彼と関わりたいなんて下心があるにせよ何にせよ、ほんの少し話を聞いたっていいかもしれない。真面目に検討しているんだ。そう自分を納得させて、動かそうとした足を留める。


「候補ではあります」

「え、ほんとに!?」


 私が返事をした瞬間その大人しい声が弾んで明らかな喜びが滲み出たのが分かった。神様が丁寧に線を引いたであろう口角が上がって、その聡明そうな目が細められる。


「マジか、文芸部に興味ある子とか初めて見た、本当? ちょっと文芸誌とか見ていく? ごめん、急にこんなナンパみたいな、いや、テンション上がっちゃってさ」


 あまりの勢いにびっくりはしたけれど、いえ、大丈夫です、と言うと彼は急いだ様子で教室に入っていった。なんだかそのはしゃいだ様子がかわいらしいな、なんて失礼かもしれないけどちょっと思ってしまう。


「ねえ、マジで? 私早くチア部とか見たいんだけど」


 秋乃は心底嫌そうな声で言う。チア部なんてそんな美人しか入れないキラキラした部活動、全くもって私には興味がないわけなのだが。それは彼女も同じ状況か、なんて思ってちょっと返事に躊躇する。待たせるのも申し訳ないし、そうだな、と折衷案を思案した。


「じゃあ先行ってていいよ」

「は?」


 あ、これはまずい。


「いや、あ、えっと、多分興味ないだろうなって――――」

「なにそれ、もういい、分かった。知らないから。勝手にしたらいいじゃん」


 健闘も虚しく、喧騒の中でヒステリックな声を出して秋乃はずかずかと去って行ってしまった。周りの数人はこちらをちらりと見たけれどすぐに目を逸らす。これでも気を使ったつもりだったんだけど、また失敗しちゃったか。いちいち気にしたら負けだって分かってはいるけどやっぱりちょっと申し訳ない。そんな反省をしているとしばらくして教室の扉が開く。


「これ、文芸誌。良ければ読んで」


 あれ、さっきの友達は? と訊かれたけれど、喧嘩しただなんて言ったら気を使わせてしまうだろうしごまかした。手渡されたのはタブレット端末くらいの厚みの冊子。今まで読書家でいてよかったなと思った。そうでないとこれだけの文章をこの短い時間で読める気がしない。ぱらぱらとページを捲る。ざっと読んで、ああまあこんな感じかとなんとなく雰囲気を掴んだ。どうやらつい昨年度までは部員ももっといたみたいだ。ネットのそこら中に漂っていそうな、失礼だけど言ってしまえば『ふつう』で『ありきたり』な文章たち。そんな平凡な海の奥底に光る原石を私は見つけてしまった。


 ペンネームは『春』ただその一文字。それなのに私はそれにひどく惹きつけられる。一つ一つ細い糸を編み合わせていくように繊細でその奥に密かな情念が込められているような、控えめなのに激しく響くものがある。緻密に組み立てられた作品の軸がはっきりとしていて人物の核のようなものが確かに存在するのだ。――――趣味のクオリティじゃない。もうここまで来れば流石に私も察するところがあった。いやでもまさか、ありえないだろう、と顔を上げて訊いてみる。


「……あの、これ、もしかして先輩の作品ですか?」


 彼は目を見開く。そしてちょっと視線を逸らし、その長い指で手遊びをして、はにかんだ。


「よくわかったね」


 息を呑む。これは何かの間違いなんじゃないか――――ああ、本当に、困った。私はどこまでこの人を好きになれば気が済むのだろう、どこまでこの人に侵食されればいいのだろう。その全てが否応なく私の深層に刺さって離れてくれない。


「……なんとなく、です」


 そう答えたけれど、間違いじゃないもんな。なんとなく、ってすごく曖昧なのに本質を掴んでいる見えない手みたいな言葉だ。逃げで、ずるくて、それでいて何か頑なで。でもそうとしか言いようがなかった。なんとなく分かってしまったんだから。


「あの、私、入部します」

「え、即決? いいの、他のところとか見た?」

「はい、もちろんです。……先輩の作品見て、いいなって思って」


 そのままの勢いで覚悟を決めて切り出した。先輩は目を真ん丸にしている。最後の台詞はちょっと言い訳がましくなってしまったけど間違いじゃない。いいなと思ったのは作品だけじゃなくて、なんて下心は滲み出てしまっていないだろうか。自分の言葉をもう一度考え直してまあ大丈夫そうだなと安心する。


「そっか、それは嬉しいな……うん、ありがとうね」


 口元を綻ばせて、先輩はその暖かな雰囲気をより柔らかく解した。発された声のニュアンスから彼自身の小説への感情は読み取れた。きっと優しい人なのだろうなって。自分の生み出したものを愛せる人。私とは違う世界の人。ほんの少し羨ましかった。


「あっそうだ、俺は春松優斗って言います……ごめん、敬語混ざっちゃうな。慣れないや」

「私は藤野冬佳です」


 自分の名前なんて適当に流して、春松先輩、優斗先輩――――なんて、脳内で呼び方を模索しながらその響きを味わう。『春』ってペンネームは名字からか、と点と点が繋がった感覚を覚える。人の名前なんて一番覚えるのが苦手なのに、その名前さえも綺麗で愛おしいもののように思えてしまった。名前を呼ぶっていうのは考えてみたけど緊張してしまうだろうしできそうにない。最終的にはただの先輩呼びに落ち着きそうだ。


「なんて呼べばいい?」

「なんでも大丈夫です、好きなように呼んでください」


 彼はうーん、と腕を組んでしばらく考え込む。その悩む横顔の輪郭の線が細いながらもあまりにはっきりしていて目を離せないまま、不審であることは分かっているけどただ眺めていた。あの時の衝撃が今も尾を引いている。


「……えっと、じゃあ、ふゆちゃん、とか?」


 ブラックチョコレートのような深い甘味の声が私を呼んだ。――――ありえないほどの心拍数の増加に自分の脳が追いついていない。男性にあだ名で呼ばれたことなんて初めてだし、というか、ちゃん付けされたことすら初めてで、なんと言い表していいか分からないくすぐったさと甘さで胸が一杯になった。


「はい、それで、大丈夫です」


 震える声がこの感情を孕んでしまっていた。本当は全く大丈夫じゃない。呼ばれる度に死んじゃうんじゃないかというくらいどきどきと胸が高鳴るのを抑えられないのが既に予想できる。今だって心臓が爆散してしまいそうなほどにうるさいというのに。


「あ――――いや、ごめんね、距離感おかしかったかもしれない。ちゃんと後輩ができたのとか初めてだからつい、浮かれちゃってさ」


 私のぎこちない返答に、引いていると思われてしまったのか弁解された。気付かれなかったことだけが幸いだ。


「二年生に一応部員が一人いるにはいるんだけど、会ったことも一度しかなくて幽霊部員状態なんだ」


 そう言って頭をかいて、確か他の部活と兼部してたはずなんだよね、たぶんほとんど来ることはないよ、なんて言う。じゃあ部活中は二人きりになるのかな、とまた不純な思考が脳を支配した。


「引退まで間もないけど、よろしく」


 先輩は人の良さそうな笑みを向けてくれた。ありきたりな言い方をすれば、運命。必然。だけれど私は、それ以上にずっとぐるぐると私を縛り付け操る糸のような、まるで洗脳されて操作されているみたいな、そんなものを感じるほどにこの再会を訝しんでいた。神様は時々そういうことをする。弄ばれてる人生。だけれどこんな風に弄ばれるのなら悪くないのかもしれない、と思えた。空き教室前にたった二人、正しくは二人と文芸誌一冊。廊下を埋め尽くしていた他の一年生たちは既にほとんどいなくなっていて、人通りはまばらだ。


「……あれ、なんかラベンダーの匂いしない?」


 突然先輩はそう言って首を傾げる。ちょっと嗅いでみたけどそんな匂いはしない気がした。でもラベンダーって、あれ、私がいつも焚いてるアロマの香りと一緒だな、って思って、じゃあ私かもしれない。


「あ、それ、多分私です」


 一応申し出てみる。言ってからようやく、もしかしたら不快にさせてしまったかもしれないということに思い至って言い訳を考える。香水を振っているとかそういうのではないから大丈夫かなとも思ったけれど苦手な人は苦手だろう。


「寝るときにアロマを焚くんですけど、多分その匂いが制服についてるのかもしれないです」

「本当? 良いね、俺も最近アロマ焚いてるんだ」

「何の香りですか?」

「ん、オレンジ。柑橘系好きだからさ」

「そうなんですね」


 なんとか絞り出せた質問とぎこちない相槌と共に、じゃあ帰りに買おうかな、なんて思った。けれど先輩の気付いてくれたこの香りを残しておきたいという気持ちもあってとりあえず今度にしようと脳内にメモを残す。先輩のことを知れてよかった、とうんざりしていたラベンダーの濃い香りを初めてありがたいと思った。ただなんとなくやっていたことが役立つなんて幸運だ。


 そのままの流れで話題は弾んで、私はひたすらに先輩の作品を褒めた。例えるのなら春の雨上がりの朝方、軒下に残った壊れかけの蜘蛛の巣のような儚さだったとか、とにかく自分の持つ最大限の語彙と比喩で賛美した。先輩は照れくさそうに笑ってそこまで褒められたのは初めてだと言った。それに先輩のクラスも知ることができて、彼は私と同じ学科の選抜クラスにいるのだということが分かった。じゃあ勉強とかも聞けるかもとかそんなしょうもないことを考えてしまう自分に嫌気が差す。貴方と話したいなんて思っているのはきっと私だけだっていうのに。一人きりの帰り道はいやにすっきりとしていて気味が悪かった。




 それからしばらくの期間数回部活をして、先輩との距離はちょっとずつ近づいていった。先輩のくれる優しさの喜びは簡単に私を幸せにしたけれど、その幸せの裏にいつもどす黒い内罰が塗りたくられてしまう。『とりあえず作品を作ってみて』と言われて真っ先に思い浮かんだのは貴方との甘い恋物語で吐き気がした。そんな自分が嫌いだ。だからやめておいた。


 そう言われた日、夕食も食べずに夜中まで学校指定のタブレット端末で文章を書くことにした。新品のキーボードのさらさらした手触りはやけにしっくりくる。ああ、ここが私の居場所だったんだ。先輩から仄かに香った『たった一人の新入部員』としての期待に答えるために必死に書いた。貴方が私を殺す物語。バレないように取り繕って、覆って、醜い不完全な少女を優しく殺す騎士の物語に変貌させていた。ありがたいことに私にはそれができる程度の能力はあって、初めて人並みの脳があってよかったなと思った。


 騎士が少女をその剣で貫いて優しくその死体を地に還す最後の一文字を書き終えた瞬間、ぶわっと私の中に感じたことのない感覚が広がってこれが達成感かと恍惚に浸る。暫く惚けていると気がつけば時刻は日を跨いでいて、まずい、と思ってアロマも適当に入れては急いで布団に潜り込む。目を閉じれば闇の中へ堕ちるのにそう時間はかからず、また永遠に深く自分を埋める夢を見るのだ。




 その日の朝、秋乃は家に入ってこなかった。花粉症がひどいので慣れないマスクをした。その鼻炎のせいかアロマの香りなんて全くしなくて、もし今日に限ってすごく強かったりしたらどうしようかと不安にもなる。前日の夜ふかしを引きずったまま準備をして家の扉を開けるとそこに秋乃がいた。若干機嫌が悪そうにおはよう、と言うだけだった。しばらく無言のまま歩いて、ようやく彼女が口を開く。


「冬佳さ、文芸部入ったんでしょ。聞いたよ、そっちのクラスの友達から」


 いつの間にそんな交友関係を、と思ったが秋乃は昔からそうだった。私の周囲を埋めるように友達を作っていくから私の情報は常に筒抜けだったのだ。流石に高校生になったらそんなことは起きないだろうと思っていたのに。というか一人も友達がいないのにそもそもなぜ周りは知っているのかとか色々と気になることだらけだけれど、訊くこともできなくて呑み込んだ。


 隣に立つ秋乃の表情はびっくりするほど不機嫌を表していた。今までもこういうことは度々あったしどうにかなるかと思っていたけれど、予想していたよりもずっと怒っていた。


「勝手に部活入るとか信じらんない、一緒に入るって言ったじゃん」


 そんなことは全く言っていない。秋乃はこういうところがある。そんなこと言ってもないのに勝手に約束したつもりになってこうやって怒るのだ。まあ放っておけば機嫌も戻るから単純でいいのだけれど。秋乃は私をじっと睨んで言う。


「私も入るから、文芸部」

「は?」


 自然と声が漏れた。さすがにそんなことを言われるとは思っていなかったため驚きが隠せず、表情が固まるのが自分でも分かった。彼女はきっと私を睨みつけて続ける。


「今日入るから! 放課後部室連れてってよ」


 ありえない、としか言いようがない。さっさと先に歩いて行ってしまった。言い逃げされた。断る隙さえ与えてもらえない。どうせ帰りには機嫌よく私の教室にやってきて案内して、なんて言うんだ。目に見えてる。諦めたほうが早いし楽だ。いつものことだった。悪いのはいつも私。ため息をついて憂鬱への道を歩いた。今日の英単語小テスト、ちっとも対策してないな。昨日の雨の重苦しい余韻が肌を伝う。湿った塀を這う蛞蝓が私を見上げていた。




「冬佳、来たよ。早く連れてって」


 ――――放課後、案の定。秋乃はためらうことなく教室に入ってきては私の席の前で仁王立ちしている。都合よく忘れていてくれたらなと思ったのにダメだった。英語の再テストでも食らっていればよかったかと思ったけれど、やっぱり私は運が悪い。こういうときに限って対策ゼロにも関わらず合格だった。こちらを睨む秋乃は毎度のごとくこちらの準備なんて知ったこっちゃないみたいだ。急いで荷物をまとめて、逃げるように教室を出る。最近は周りも慣れてきたのかこちらを見てくる人も少なくなってきてありがたかった。


 静かな廊下を歩いて着いた空き教室の扉を開くと、そこには既に先輩が居た。こんにちは、と挨拶をして目の前の椅子に座る。秋乃も遠慮なく私の隣に座った。


「水村秋乃です、よろしくお願いします。先輩っ」


 満面の笑みで先程までの機嫌の悪さをちっとも感じさせない愛嬌たっぷりの挨拶。私にはきっとできない。私も初対面でこういう挨拶ができていたら先輩にもっと好かれただろうかなんて気持ち悪くておこがましいことを考えてしまった。


「あれ、あの時のお友達?」


 先輩は気付いたみたいで、よく覚えてるな、なんて人の顔と名前を覚えるのが苦手な者として思う。貴方のそういうところがやっぱり素敵だななんてどこ目線の褒め言葉なんだろう。


「はい、私も入部します!」


 元気いっぱいにそう言ってのけた秋乃にため息が出そうになった。入部も何もまだ部室に入ったばっかりだし普段本なんか読むタイプでもないのに。先輩だってあまりの急展開に苦笑いしている。このままじゃ、せっかく私と先輩で二人きりだったのに、なんて不純な考えが頭をぐるぐると撹拌する。秋乃がそうしたいと言うなら受け入れた方がいい? それとも、ってぐちゃぐちゃになりそうで。とにかく声を出した。


「いや、でも……」

「だって冬佳と一緒がいいもん、勝手に一人で楽しまないでよ」


 反論できるような理論ですらないので意見を言う隙もない。こうなったらもう秋乃は止められない。というか、私なんかでは彼女には全く敵わないのだ。彼女の人望と、嫌になる程の真っ直ぐさには、いつも。ため息を呑み込んで納得したことにした。


「はは……あっそうだふゆちゃん、作品書いてきた?」


 先輩は助け舟を出すように話題を変えてくれた。上擦った声ではい、と返事をして立ち上がり、先輩のそばに寄って小説のファイルを開いておいたタブレット端末を手渡す。ほんの少し身体が熱を持った。


「ありがとう」


 手が触れそうで触れない。少しどきり、としたのは乙女の性。乙女だなんて、本来私には一番縁が無い言葉だけれど。先輩は手渡されたタブレットで私の文章を目で追い始めた。眼鏡にブルーライトの四角い光を反射させながら、画面をスクロールして続きをつらつらと読んでいる。なんだか私の中身を暴かれているみたいで少し恥ずかしくなる。もしバレてしまったらどうしよう。貴方のことを想いながら書きました、だなんて恥ずかしすぎて質が悪いとかそれどころじゃない。そもそもそれをあんな歪んだものにしているのも気持ち悪いし気付かれるわけもないか、なんて自己完結して冷静になった。


「書いたことあるの?」


 数分ほどして、顔を上げた先輩は私を見てそう訊く。それがこれまでに小説を書いたことがあるのかという意味だと脳が理解するのにしばらくかかってしまった。頭の中が恋の懊悩でいっぱいになっていて思考がうまくまとまらない。


「あ、……いえ、初めてです」


 なんとかまともに絞り出せた答えは愛想もなくて、秋乃とは大違いだった。そっけなかったかな。考えても仕方ないのに反省はぐるぐると回る。


「そっか」


 数秒間の沈黙。何を言われるのだろうか、と息を呑む。


「才能、あると思うよ」


 その瞬間、私の視界に溢れんばかりの光が差した。彼は夏の太陽よりも辛いくらい眩しかった。春の太陽よりも痛いくらい優しかった。くら、っと眩暈を覚えるほどに私の承認欲求は大きな音を立てて豪雨の中の河川の様に増水した。満たされた。同時にそんな川に飛び込んでしまいたくなるほど死にたくなった。こんなの貴方の小説と比べてしまったらほんの小さな塵よりも価値がない。伊達に本を読んできた人間じゃないから自分の文章が拙いということくらい分かる。多分そういうことじゃなくてもっと作品の本質的な部分のことなんだろうけど、やっぱり受け入れることができなくてお世辞だと思ってしまう。もしそうなら申し訳ないな。その優しさがぴり、と傷口に染みるような感覚がする。


「なに見てるんですかっ」


 感傷にふけっていると秋乃が私と先輩の間に入ってきた。夢から覚めるとともに咄嗟にタブレットを隠してしまう。秋乃に見られるのはどうしてか嫌だった。変に勘が鋭いところがあるから気付かれてしまうかもしれないというところもあるけど、それ以上に私は彼女に醜いところを見せたくないのだ、と分かった。しかしそんなことを言えるわけもなく、秋乃はむっとして文句を言う。


「冬佳は昔っからそうだよね、私のことハブろうとするんだから」


 厳しい言い方にひゅ、と息が詰まる。そんなこと、ない、って言おうとして、怖くなった。そんなこと、あるかもしれないし。何より先輩が私のことをそういう子だって思ってしまったらどうしよう。どうしよう。嫌われてしまったら、なんて、元々嫌われてもしょうがない人間なのにそう思ってしまうのだ。軽く流すこともできなかった。


「まあまあ……二人は昔からの知り合いなの?」


 たしなめるように先輩が間に立ってくれた。迷惑かけちゃってるな、とも思うけど私じゃどうしようもない。


「そうなんですよ、小学生の時から! 毎朝私が起こしてあげてるんですから」


 そんなことを言って秋乃は自慢気にしている。間違いではないからもう放っておくことにした。私の家で朝からゲームをしたかっただけでしょ、そもそも。まあ、いつも一緒に登下校してくれるのはありがたいのだけれど。


「へえ、そうなんだ、俺も幼馴染がいてさ」


 若干ピリついた空気感を察してか、先輩は昔の面白かった話とか思い出とかを語ってその場を和ませてくれた。私の脳に刻まれる彼の情報はどれも宝石のようにきらきらと眩しくて愛しいのに、なぜだか私は空虚だった。そうだ、私、今までの人生で楽しかったことなんてあった――――? そう考えた瞬間笑みはすう、っと引いていって、花粉症だからとつけてきたマスクの存在に感謝した。目元だけで愛想の良い微笑みをなんとか維持していたけれど心の奥は底冷えしていた。私はつまらない人間だ。あまりにも欠けている。本当はあったのかもしれないのに何一つ『思い出』として残ってくれていない。


 先輩への想いもそうなるのかもしれないと思った。こんなに熱くて、痛くて、死んでしまいそうなのに、いつかはこの火傷も治って忘れて生きていくのかな。残った痕を眺めてただ記録された空っぽの感情を撫でて。もしそうなったら、寂しくなるのかな。それともむしろ楽になるのかな。今の私には分からない。


 秋乃は隣で愛想良く笑っていた。そんな彼女との思い出だって記憶を探れば今の私にはちっとも残っていなくて、自分の薄情さに反吐が出る。


 そうしているとなんだか抑えきれない情念が湧き出てきて、優斗先輩、と口内で呟く。醜い恋の響きだった。もし本当に声に出してしまったらこの微かな甘ささえ気付かれてしまうような気がして、そっと呑み込んだ。私は貴方に釣り合わない。痛いほどに焦がれてしまって触れることすら叶わないのだから。これ以上はきっと燃えるどころか融けて、消えてなくなってしまう。だって私は薄情な人間だから。この世に残せる情も、ないんだろうな。


 貴方が褒めてくれた私の小説はどう読んでも拙くって、醜くて、汚いとしか思えなくて。書き終えた瞬間の恍惚はもう二度とは帰ってこないんだ。上手く相槌も打てない自分にうんざりして俯くと、やけにつやつやした紺色のスリッパが視界の中で私を笑っていた。




 なんだかんだで秋乃は入部すると言い続けて本当に入部することになってしまった。先輩も秋乃のノリにすぐ慣れて楽しそうに話していた。二人だけの薄暗い帰り道、何も喋らない。


「先輩っていい人だよね」


 春の終わりを告げる生ぬるい風の中、秋乃がぽつりと零した。それには心の奥底から同意したけれど自分の中でもやもやとした感情が疼くのが分かる。


「初めて見たときから思ってたんだけど」


 本当に初めて見たとき、貴女は早く他の部活に行きたいって言ってたじゃん、ふざけないで、私の方が、なんて醜い嫉妬が顔を出す。そんなことを思えるような資格はないのに。必死でそれを押さえつけて何も無いような顔をする。また心の奥で何かが燃えていた。秋乃はなんだかもじもじとして、リュックを背負い直して、そうして私の方を見て言った。


「ねえ冬佳、私優斗先輩のこと好きになっちゃった」


 ――――思考停止。目の前にはにっこりと笑う彼女がいる。ああ、いつもそうだ。秋乃はいつも全部知っていながら自分の思うままに行動してしまう。私のことを一番分かっているはずなのに一番分かっていないような行動をする。昔からそうだった。ずるい人だ、と思う。


 彼女はその快活な性格から人気のある方だし、きっと先輩だって秋乃みたいな元気いっぱいでちょっとわがままな子の方が好きだろうな。好きになるだろうな。私は秋乃を止めようとさえ思えなかった。私の方が前から好きだった、なんて決して口にはできない。おこがましくて、自分が憎くて。


「そっか」


 ただ、受け止めた。それ以上何も言わない。言えない。喉に理性というストッパーをかけてなんとかこの激情を抑え込む。口を開けば何を言ってしまうか自分でも分からないから。


「応援してよ」


 答えられなかった。自分の中で、もうこんな醜い恋を諦めて応援したいという気持ちと、せめて秋乃だけには先輩を汚されたくないという気持ちがぐちゃぐちゃになっていた。そんなの何様だよって感じだけど。返事はしないまま黙って帰り道を歩く。コンクリートの道にローファーの足音だけが響いて、二つ重なって、ずれて、歪に鳴る。私はやっぱり最低なんだろうなと思えた。


 顔を上げれば黒と黄の派手な蝶が自由に空を舞っている。ああ、蛾だっけか。最近大量発生している害虫らしい。あなた達はいいよね、自由で、なんて、人間風情が思ってしまう。だってこんなにも人は、私は醜くて弱い。害虫なんて言われても気にせず生きていけるの、ずるいな。虫だからかな。私だって虫になってしまいたい。いっそのこと嫌われたい。そんなの虫に失礼だな、ごめんねなんて飛び交う蝶に申し訳なく思いながら歩く。


 そうして何も話さないままに家の前に着いた。今まで何度も歩いてきたはずの帰路はいつもより長く感じた。無言のまま私の家の前で二人して立ち止まる。金属製の門扉は茶色く錆びていて、手をかけると私の指まで汚れて染まる。秋乃はそれを何を言うでもなく見て、一歩先に行った。


「じゃ、また明日ね」


 この瞬間初めて、出そうとしても声が出せなくなっていたことに気付いた。秋乃は何事もなかったかのように手を振って帰っていく。手を振り返すことさえもできない。ただ家の前で立ちすくんでいた。私は汚いな、錆なんかよりずっとずっと汚い。私と一緒にいてくれるたった一人の幼馴染を応援することもできなくって、自分のことばっかりで。


 ようやく扉を押し家に入れた時には、私は自己嫌悪の苦みでいっぱいになっていた。






 ――――六月中旬、先輩が部活を引退する日。彼は選抜クラスだから勉強にももちろん力を入れているらしくて、ちらりと見えた鞄の中には参考書やら何やらがぎっしり詰まっていた。


「あー、最後の部活だ」


 目の前に座る先輩は部室の机に伏しながら気の抜けた声で言った。梅雨のじっとりとした空気が肌にまとわりついて気持ちの悪い放課後。全く作品を作る気配のない秋乃に顧問の先生がしびれを切らして、私にもついでにと押し付けてきた短歌コンテストのプリントが手元でかさり、と音を立てて嗤った。秋乃はともかく多分私にはこういうの向いてないし。とにかく二人とも書いて出せとは言われたもののあまり乗り気にはなれなかった。


「先輩、短歌ってどう書けばいいんですかねえ」


 わざと先輩の隣に座る秋乃は私相手には出さない甘えた声でそう訊く。もや、と心に霧が立ち込めたけれど私も気になることではあった。先輩はまだ古びた机に身を任せたまま、顔だけ上げて答える。


「あんま俺短歌詳しくないんだけど……うーん、まあ、割と自由ではあるかな。とりあえず最初は素直に書いてみればいいと思うよ」

「じゃあ一回書いてみていいですか? いい感じの思いついたかも」


 そう言って秋乃は意気揚々と立ち上がり、黒板にチョークで何か書き始めた。沈黙の中にチョークの摩擦音だけが響く。彼女の濃い丸文字がまっすぐに黒板のど真ん中に広がった。


『太陽を まっすぐ見つめる ひまわりよ クリーム塗った? 日焼けしちゃうよ』


「どうですか!」

「うん、いいと思う」


 わーい、なんてきゃっきゃと秋乃は騒ぐ。まあ、確かに素直な彼女らしいし悪くないとは思うけれど。なんだか気に入らなくて、対抗するように立ち上がっては私も黒板に向かって言葉を考えた。でもやはり浮かぶのは先輩のことばかりで、ええいままよ、先輩の言った通りとにかく素直に書いてしまえ。ヤケクソになりつつチョークを握った。かっかっか、と軽薄な音がする。慣れなくて、筆圧の弱い私の字は黒板だと余計に情けない。すみっこに現れた短歌はちょっぴり斜めに歪んでいて、見苦しいなと思った。


『はるびかり学ランの背の影追えば魅入られ二秒落つるは恋か』


「あの…………どうですか」


 何と言っていいか分からなくて、片言になってしまった。こんなのに評価を求めるのも変かもしれないけど、一度出した言葉には引っ込みがつかない。


「……なるほど」


 先輩は身体を起こすとそう一言だけ呟いて黙り込んでしまった。短歌を書くのは慣れていないから、あまり質が良くないのは自分でも分かっている。『恋』なんて安易な言葉を入れてしまったのも反省点かなあなんて思いつつ、まあ下手なりに頑張ったほうだと思いたい。


「なになに、冬佳も恋してるの? 聞いてない、教えてよ」


 にやにやしながら、も、だなんて匂わせたことを言っている。教えるわけがない。本当は分かってるくせになんて言葉が喉の奥にひっかかっていた。先輩と居られる最後の部活、こんな濁った気持ちで過ごしたくなかったのに。私は席に戻って書きかけの小説を再開した。ただ静かな空間が広がる。先輩はまだ黒板を見つめて私の短歌を吟味しているみたいだ。そんなに見なくたって拙いのは分かるのにな、なんてちょっと自虐的になってしまう。


 パソコンのタイピング音だけが教室に響いた。私の紡ぐ文章はいつも通り才能もなく技術もなく、ただの自己満足の塊だった。先輩は真剣な面持ちで画面と向き合っていて、その横顔がブルーライトに照らされてほんの少し冷たい色をしているのを私はちらちらと眺める。秋乃も先輩に気を使ってかいつものように騒いだりはしない。一時間以上もの間誰も何も言わないでただ文章と向き合う。そうしていると時間の感覚なんて私達の間には全く干渉してこない、ただ一瞬で過ぎていってしまうみたいだ。いつの間にか外は暗くなっていて、帰らなきゃいけない時間になって、軽薄なチャイム音が鳴って、帰りましょうなんて棒読みの放送が流れては最後の部活動は情緒もなく簡単に終わってしまった。


「せーんぱい! 最後ですし一緒に帰りませんか?」


 秋乃が先輩に話しかけている。私はどうすることもできないまま、ただそれを見ていることしかできなかった。先輩はちょっとの時間躊躇を思い切り顔に出して悩んで、じゃあ、どこどこまでだったら、なんてまごつきながら私の知らない場所を言う。秋乃はやったー、と可愛らしく喜んで荷物をまとめる。


「じゃあ私、黒板消しておきますね。お疲れ様でした」


 先回りしてそう言っては黒板に残された短歌と向かい合った。二人はお疲れ様とだけ残して部室を出ていった。ああ、どうしよう、明日秋乃が先輩と付き合いましたとか聞かされたら。そんな嫌な妄想が頭の中に広がる。応援するべきなのは分かっているけれどそう簡単には感情に逆らうことはできなかった。立ちすくんだまま、ただ私だけが黒板に残る短歌を見ていた。なんとか身体を動かし黒板消しを手に取ってその文字を粉に戻していく。なんだか辛い作業だと思った。私の短歌はすぐ消えたのに秋乃の短歌は全然消えなくて、チョークの粉が雪のように私に降り注ぐ。肩に染みついて、払っても払っても取れないそれは余計に制服を白く染めた。どうしようもなかった。どうにか全部ある程度は消せたから黒板消しを置いて手先の白を拭う。しばらくぼうっとしてから、思考をかき消すようにちょっと中途半端だった執筆の続きをした。キリが良くなったところで諦めて荷物を全部リュックに詰め込んで、背負う。


 固い部室の扉を開くと、目の前に先輩が立っていた。


「え」


 帰ったはずじゃ、と言いたかったけれど声は出なかった。先輩は眉を下げて苦笑いした。


「はは、なんか、地雷踏んじゃったみたいで一人で帰っちゃった」


 それに関してはなんだか納得がいく展開だった。先輩はなんだかんだ飄々としているというか、はっきり言うところははっきり言いすぎてしまうような部分もあるし、そういうのが嫌いな秋乃が拗ねてしまっても仕方がない。私でもよくある。すぐに安堵感が胸の奥に広がって、ああ、やっぱり私は薄情だ。でもなんで戻って、と思っていたらすぐに答えは返ってくる。


「こうなったらふゆちゃんを暗い中一人で帰すわけにもいかないし、待ってた」


 きゅ、っと胸が苦しくなった。そういう優しいところが好きで、だけれど怖い。私にはそんな価値なんてないんです、って叫びたくなる。ごめんなさい、私なんか、って。そんな気持ちを口にしたって迷惑なのは分かってるからそのまま押し込めた。


「あ、チョークの粉付いてるよ」


 先輩はそう言って私の肩をぱっぱと払う。さっきは取れなかったはずの粉は簡単に取れてしまって、自分の弱さが改めてはっきりと映し出されたようだった。ばくばくと脈打つ心臓を抑えながら、ありがとうございます、と小さく言ったけれどどうやら届いていなかったみたいで何の反応もない。このまま心臓が恋の痛みのあまりに破裂して死んでしまえたらどれだけ愛しくて幸せだろうと思った。


 一緒に階段を降りて、特別棟の隅っこから靴箱へ向かう。彼は靴を履いた後駐輪場に向かって歩いて、私もどうしていいか分からなかったけれど着いて歩いた。高校生になって二ヶ月以上も経ったのに未だに足に馴染まない新品の硬いローファーがときめきの音を立てる。あの時、私が先輩を初めて見た時の黒いフレームの自転車が控えめに駐輪場の端で待っていた。3H14と番号の書かれたシールがきっちりと貼られている。


「行こっか。道、こっち?」


 裏門の方を指差すから、頷いて答える。彼は自転車を押してそっちの方に歩いていく。私はそれを追った。その速度は、歩幅は、彼の身長からして私を気遣ってくれているのかなと思ってしまうくらいゆっくりで、時々こちらを見て着いて来れているのか確認してくれる。


 私はやっぱり、ダメだ。彼に気を使われるのが苦しい。私のことを想ってほしいのに想われるのが怖い。だから踏み出せない。正直先輩は優しいから私のことを受け入れてくれるかもしれないと思う。だけれどそれじゃダメで、ただ、私は――――どうしたいのか、分からなくて。涙が出そうになるのを必死に抑えながら彼の隣を歩いた。


「そうだふゆちゃん、さっきの短歌良かったよ」


 気まずくなったらどうしよう、と思っていたけど黙る間もなく先輩は話題を振ってくれた。苦しみを呑み込んでなるべく普通に見えるように振る舞う。


「本当ですか?」

「なんというか、色々考えてたから黙っちゃってたけどごめんね」


 私はそれを肯定も否定もできなくて黙ってしまった。先輩は言葉を選んでいるように、うーん、なんて言ってしばらくして、また声を発した。


「……うん、やっぱり"らしい"なって思ってさ」


 優しいその声と共に、じわ、と私の中にその言葉が染みていくのが分かった。それと同時にそんなお世辞を言わせてしまった自分に嫌気が差した。また、ありがとうございます、とだけ返す。やっぱり私は貴方に褒められていいような人間じゃないんだから、と秋乃に対抗しようとした自分を恥じた。


「そうだ、そういえばこの間出してたあの作品の――――」


 先輩がそう切り出したところから始まった会話は止まることがなくて、学校生活のしょうもない日常の話とか、今年の文芸誌の話とか、先輩の進路の話とか、とりとめのない雑談を続けていたらあっという間に家に着いてしまった。周囲は真っ暗だけれどところどころ外灯がついていて、つまらない路地にぼんやりと暖かい光を零す。立ち止まって先輩を見た。月の光の下でもやっぱり綺麗だった。貴方は私と違ってずっとまっすぐに綺麗だった。こちらを見つめ返すその瞳が私に注ぐのは幸せと苦しみのカフェオレみたいな視線。甘いはずなのにただ苦いとしか思えない、それでもその感覚が惜しいと思ってしまう。これほどまでに誰かを求めてしまうことは今までなくてそんな自分に困惑さえ覚える。あともう少し、だなんて。


「じゃあ、引退とは言ってもまた時々は部活に顔出すと思うからさ。またね」


 そんな気持ちを口に出すこともできないまま、自転車に乗って反対方向に帰っていく先輩に手を振った。薄い月明かりと外灯の明かりとが黄金比で混じり合った光がそのフレームを照らしてきらきらと反射していた。逆方向なのにわざわざ送ってくれたなんて優しい人だな、って、改めて思うと申し訳なくて涙が出た。私がちゃんと断っていればいい話だったのに、なんてずっと頭の中でぐるぐると罪悪感が回る。


 ただいま、と家に入ったはいいものの夜ご飯を食べる元気もなくって、制服を着替えてシャワーを浴びたらすぐに自室に閉じこもった。リュックをその辺に投げ捨てて、何をするでもなく椅子に座った。窓の外はもう真っ暗で、この闇に溶け込んで消えてしまいたいと思った。机に突っ伏して絶望感に浸る。そのまま目を閉じて、眠るように死んでしまえたらいいのに、と微睡みの奥に沈んでゆく。




 目を覚ませば深夜、窓から覗くのは梅雨には似合わぬ溢れんばかりの星が瞬く空。その輝きの一つくらい分けてくれたっていいんじゃないかなんて思う。私はどうしたらいいのか、どうしたいのかって考えても答えは簡単には出てくれない。溢れ出る感情の発露はどうしようもなくて、抑えようともがいていたら私に一番ぴったりな方法はすぐそこにあった。引き出しの奥にしまわれていた夜空色のレターセットを引っ張り出して一枚取り出す。すぐそばにあったペンを握って書き始めた。先輩へ。春の柔い風の吹くあの日、入学式、私は貴方に鮮烈な一目惚れをしました――――。一文字一文字、丁寧に、貴方に向けた感情を手紙にしたためる。足りなくってもう一枚取り出す。この一画一画に甘くて痛い恋の激情が秘められていくのが自分でも感じられる。こうすれば諦めてしまえるんだって、自分が一番分かっていた。


 私は小説を書きたくて書いてるんじゃなくって、感情を押し込めるために書いてるんだ。文芸部に入ってしばらくして気付いたことだった。本来私に小説は向いてなかった。だからそれと同じでこれを彼に読んでもらう必要はない。もし明日の私にこれを渡す勇気があったら渡そう。多分、無理だろうけど。最後の一文字を書き終えると、なんだか少しすっきりしたような心地がした。ただ私の中にあるのは情熱の残り火なんじゃないかと思えた。最後の一文は「もう、ひどく恋しい貴方と二度と関わらないで済むことを願います」と、歪んだ文字が意地を張っているだけ。


 ベッドに入る前に加湿器をつけて、こっそり買ってあったオレンジのアロマオイルを数滴垂らした。すぐにその蒸気はぶわっと広がり、私の気持ちまでじっとりと濡らしていくような心地がする。先輩が好きだと言った柑橘の明るくも苦い香りが肺の奥まで侵食して芯から腐らせていく。貴方の姿に惹かれて、声に惹かれて、文章に惹かれて、性格に惹かれて、そんな貴方の好きなものにまで惹かれてしまって、もう、どう抑えていいかも分からなくなって。先輩への好意が自分でも辛くて、貴方といると私は幸せになってしまう。それが怖い。私は幸せになっていい存在じゃない。迷惑をかけてしまうくらいならその前に諦めてしまえばいい話だから。死にたくなっちゃうような恋はきっとそのままでは生きてはいけない。


 私を優しく包みこんでくるオレンジの香りから逃げるように、毛布を頭まで被って無理やり眠りについた。




 香りも薄れた翌朝、秋乃はうちに来なかった。今までも時々あったことだし今更気にすることでもない。だけれどほんの少し寂しいのは彼女が私の親友だからだろうか。梅雨時、湿度の高い空気が肺にじっとりと溜まる一人の通学路。朝の学校は静かで足音の一つ一つが廊下中に響く。私は部室に向かっていた。本当はそうではないのだけれど、実質的に空き教室として扱われているそこには鍵なんてかかっていない。


 ちゃんと消せたはずだったのに、朝日に照らされた黒板には昨日の短歌が消された跡が残っていた。『はるびかり学ランの背の影見れば魅入られ二秒落つるは恋か』私の想いはあの拙い短歌とともに消してしまうべきだった。今からだって遅くはないから、リュックから手紙を取り出した。 こっそり封筒を部室のゴミ箱に捨てる。きっともう、これで終われるよね。焼け融けてなくなってしまいそうなほどに焦がれた恋は捨てられて、ただケロイドになった傷跡が残るだけ。さよなら、先輩。ごめんなさい。

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