【完結】アントワープ恋物語(作品240120)

菊池昭仁

アントワープ恋物語

第1話

 中世の港町、アントワープに細雪ささめゆきが降っていた。


 『飾り窓』の石畳の道は、緩やかに曲がりくねり、どこまでも長く続いていた。

 私は思わずビートルズの『The Long and Winding Road』を口ずさんでいた。

 この娼婦街もアントワープでは芸術的だった。


 『フランダースの犬』の哀しい物語の舞台。

 ルーベンスの大聖堂には行っても、この美しくも妖艶な『飾り窓』を訪れる日本人は少ない。

 『飾り窓』というのは「娼婦を飾るショー・ウィンドウ」のことである。

 大きなガラス窓の両サイドには、それぞれピンクとブルーの蛍光灯が灯り、商品(娼婦)を美しく照らしている。

 レースのカーテンを左右に引き分け、エマニエル夫人が掛けていた、あの藤の椅子に同じようなポーズを取って不機嫌そうに座っている、ガーターベルトの下着姿の娼婦。

 各々の窓にひとりずつ、鎮座して客を待っている。


 彼女たちは東洋人には見向きもしない。

 チャイニーズやコーリャンは金払いが悪く、プレイのエチケットを知らないからだ。

 俺はショー・ウインドウに息を吹き掛け、曇ったガラス窓に文字を書いた。


      Japanese $20


 するとニッコリ笑って手招きをするブロンド美女。

 入口のドアが開かれ、中に入るとパーテーションの後ろにパイプ・ベッドが置かれていた。


 「前金だよ」


 ブーツを履いたまま、ブラとショーツを脱いでベッドに仰向けになる女。


 「靴は脱がないのか?」

 「脱いで欲しければもう10ドルだよ」


 私は50ドルを女に渡した。

 

 「いいの? こんなにもらって?

 でもアブノーマルはダメよ、100ドルくれるなら好きにしてもいいけど」

 「俺にはそういう趣味はない」

 


 彼女は十分に俺の性欲を満たしてくれた。

 コトが終わり、身支度を整えながら俺は彼女に尋ねた。


 「この近くで食事をするところはあるか?」

 「何が食べたいの?」

 「中華なんてあるか?」

 「あるわよ、この坂を上って2つ目のブロックを右に行けばすぐに見える筈よ」

 「ありがとう」

 「どういたしまして」


 私はチップとして10ドル紙幣を女に渡した。


 「日本人大好き! また来てね? うんとサービスするから」

 「ありがとう。また来るよ」

 「私はキャサリン。あなたは?」

 「俺はマイケルだ」


 名前などどうでも良かった。

 たまたまマイケル・ジャクソンが浮かんだのでマイケルと名乗ったまでだ。

 どうせ「Kitagawa」などと答えても、キャサリンには発音しづらいし、すぐに忘れてしまう。

 そして彼女もキャサリンが本名であるとは限らない。

 所詮、我々は「疑似恋愛」を演じている、ただの役者同士なのだから。


 「じゃあマイケル、また来てね? 待ってるから」

 「そのうちまた世話になるよ」

 「よろこんで!」


 キャサリンは笑って俺にキスをした。





 その中華レストランは意外にもしっかりとした深夜営業のレストランだった。

 ドイツ人らしき給仕がメニューを渡してくれた。


 「おすすめは何だ?」

 「この店は何でも美味しいですよ。東洋人なら麺はいかがですか?」

 「じゃあそれをくれ」

 「かしこまりました」

 「それからビールも頼む」

 「ビールは何を?」

 「アンタが好きなやつでいいよ」

 「それならいいのがございます」



 ビールを飲んでいると、料理が運ばれて来た。

 それは確かに麺ではあるが、「春雨」だった。

 日本を離れて二日目、懐かしい味だった。不味くはない。

 誰も知り合いのいない異国の街で、白人の女を抱き、そして深夜にひとりで春雨を食べている俺。

 俺はそんな自分が滑稽で、声を出して笑った。

 何事かとやって来るドイツ人の給仕。


 「どうかされました?」

 「失礼、あまりにも美味しくて、つい笑ってしまったんだよ」

 「そうでしたか。シェフにそう伝えます」

 

 彼はうれしそうに厨房へと戻って行った。




 食事を終え、夜中の歓楽街をひとりで歩いていた。

 日本ならいざ知らず、外地でそんなことをすればいいカモにされてしまう。

 案の定、俺はすぐに地元のチンピラたちに囲まれた。

 

 「チャイニーズか?」

 「いや、ジャパニーズだ」

 「おとなしくカネだけ置いて行け、そうすれば痛い目に遭う事はない」

 「イヤだと言ったら?」

 「後悔することになるだけだ」


 その男は手際よくバタフライナイフを構えて見せた。

 俺は空手の構えをして見せた。


 「お前、「ジュードー」が出来るのか!」


 外人には空手も柔道も同じだ。

 ブルース・リーはヨーロッパでも有名だったが、日本人だと思っている奴も少なくない。

 日本人は誰でもブルース・リーのように武術を習得していると信じている者もいる。


 「俺たちが悪かった、勘弁してくれ」


 そう言うとチンピラたちは去って行った。

 私はまた笑った。


 「あはははは あはははは」


 日本では笑うこともなかったこの俺が、冬のアントワープで大声で笑っている。

 私は歩道に降り積もった柔らかい新雪の上に大の字になり、星空を見上げた。


 とめどなく降り注ぐ真っ白な雪。

 俺はこのまま死んでもいいとさえ思った。


 そんな心地良い、アントワープの夜だった。




第2話

 大学病院の待合所では、幼稚園児くらいの女の子が母親に質問していた。


 「ママー。このドアの数字、間違ってるよ。 

 1、2、3・・・、5、6、7、8・・・、10だもん。

 4と9がないよ」

 「それはね、病院では4は「死」を想像させ、9は「苦るしみ」を思わせるからよ」


 その母親はまるで大人に話すように答えた。


 「ふーん。4は「しあわせ」で9は「九州」、それに4と9で「なる」なのにね?」

 「うふふ、そうかもね?」



 やっと俺の名前が担当医からアナウンスされた。


 「北川さん、北川伸之のぶゆきさん。5番にどうぞ」


 3回ドアをノックして中に入いると、40代位のゴルフ焼けした精悍な外科医が私を待っていた。

 その医師はパソコンのモニターを見ながら私を見ることもなく、呟くように言った。


 「北川さん、ご家族は?」

 「いません」

 「ご兄弟は?」

 「おりません、独り身です」

 「そうですか・・・」


 医者は落胆していた。


 (それはお気の毒に・・・)


 と言うかのように。


 「検査の結果、膵臓に悪い腫瘍が見つかりました。

 残念ですが、手術は出来ません」

 「そうですか? 転移もあるということですね?」

 「そういうことになっています」

 「結論としてあとどのくらいでしょうか? 私の余命は?」

 「長くて半年かな?」

 

 まるで「今日の夕食はアジフライ定食かもしれません」とでも言うように、医者は答えた。

 私は悪い夢を見ているのかと思った。




 都内のマンションは賃貸に出し、家賃収入は離婚した妻の口座に入るようにした。

 預貯金は1,000万円だけを残して、その残りと有価証券、絵画2点は妻と一緒に暮らす子供たちに生前贈与をすることにした。

 金銭管理はすべて前妻の理恵がしているので困ることはない。


 

 日本を離れる一週間前、俺は理恵と娘の美咲を叙々苑で「最期の食事」に誘った。

 息子の悠輔も誘ったが、来なかった。

 悠輔は今も母親を泣かせた俺を許してはいない。



 焼肉を美味そうに頬張る理恵と美咲。

 俺はまだ口を付けていない自分の生ビールをふたりに勧めた。


 「少し飲んでみるか?」

 「うん」


 美咲は19歳になっていた。まだ付き合っている彼氏はいないらしい。

 少しだけ飲むと、美咲は母親の理恵の前に無言でグラスを置いた。


 「全部飲んでもいいぞ。飲めるならお前たちの分も注文してやるから」

 「ううん、あなたの少しもらえばそれで十分」

 「そうか。美咲、センマイ刺し、食べてみるか?

 見てくれは悪いが旨いぞ」


 美咲はコクリと頷いた。

 子供の頃は好き嫌いというより、自分が好きな物しか食べない娘だった。

 しかし大人になるにつれ、美咲は益々俺に食事の好みが似て来た。

 美咲は美大で油絵を学んでいた。


 

 デザートのアイスクリームを食べ終え、理恵と美咲が食後の珈琲を飲んでいる時、私はカバンから理恵に渡す物をテーブルの上におもむろに並べた。

 叙々苑はブースで仕切られているので都合が良かった。

 

 「これが通帳と銀行印。キャッシュカードとクレジットカード。

 暗証番号はお前の誕生日にしてある。

 これが実印と印鑑証明のカード。あとこれが株券だ。株について悠輔に任せるといい。

 もしわからないことがあれば証券会社にいる竹内に訊いてくれ。

 連絡先はここに書いておいた。

 それからこれが俺の生命保険の証券だ」


 竹内は俺の学生時代からの親友で、理恵も知っている。


 「どうしたの? いきなり」

 「先日病院に行ったら末期の膵臓ガンだと言われた。

 だが俺は何も後悔はない。

 お前たちには随分と迷惑を掛け、嫌な思いをさせた。

 せめてカネだけでもと思ってな?」

 

 理恵は深い溜め息を吐いた。


 「ホント、あなたって人はいつもそう・・・」


 その後には「自分勝手なんだから」と続く筈だ。

 娘の美咲は大きな瞳に涙をいっぱい溜めていた。


 「パパは死なない。パパは強い人だから」

 「ありがとう美咲。でも俺は強くはない。強かったらお前たちに辛い思いはさせなかった。

 俺は弱い駄目な父親だ」

 「それでお医者さんは何だって? 手術とか、抗がん剤で治らないの?」

 「もう手遅れだそうだ。長くて半年だと告知された」  

 「どうしてそんなになるまで放っといたのよ!」 

 「俺がそういう男だと言うことは、お前が一番良く知っているだろう?」

 「これからどうするの?」

 「アントワープに行ってみようと思う。 

 前から一度、行ってみたいと思っていたんだ」

 「そう・・・」


 

 帰り道、上野駅のエスカレーターに乗っていると、美咲が私の背中を擦ってくれた。


 「パパ、痛くない? またお肉、ごちそうしてね? 約束だよ」

 

 俺は娘を振り返らずに頷いた。

 娘に自分が泣いているのを見られるのが恥ずかしかったからだ。

 俺は何度も頷いた。


 女房の理恵も私の背中を軽く叩いた。


 「長生きしてね?」

 「ああ。お前もカラダに気をつけろよ」


 私はそのまま右手を挙げ、改札に入って行った。

 最期の別れが出来て、本当に良かったと思った。

 

 

 

 退職金も含め、財産はすべて整理した。

 そしてその翌日、10年付き合った山神沙都子とも別れることにした。


 沙都子のマンションで最後のセックスをした。


 「うっ、は、あ、うんっ・・・あっ」


 俺は俺の下で喘いでいる沙都子に見惚れていた。

 いい女だと思った。


 会社ではバリバリのキャリアウーマンだが、ベッドでは子猫のようになる女だった。


 「イクッつ! あっ・・・」


 俺を差し入れたそこが熱く疼いていた。

 俺は沙都子にキスをした。



 沙都子はタバコに火を点け、いつものように俺の口に煙草を咥えさせてくれた。

 沙都子の形のいい白い尻が左右に揺れ、冷蔵庫に向かって行った。


 「ビール、飲むわよね?」

 「ああ」


 沙都子は缶ビールを2本持って俺の脇に座ると缶を開け、ひとつを私に渡すと、缶ビールを一口飲んでメンソール煙草に火を点けた。


 「あー、美味しいー。

 セックスの後のビールとタバコは最高」

 「来週、ヨーロッパに出張になった」

 「そう? ヨーロッパのどこ?」

 「アントワープ」

 「アントワープならダイヤモンドのシンジケートがあるわよね? 

 お土産は指輪でいいわよ。サイズはわかっているわよね?」


 沙都子はそうおどけてみせた。


 「ああ」

 「いつ帰ってくるの?」

 「少し長くなるかも知れない。行ってみてからだな?」

 「病気とか貰って来ないでよ」

 「ちゃんと着けるから大丈夫だよ」

 「そういう問題じゃないでしょ? 成田? それとも羽田?」

 「羽田だ」

 「いつ? 何時のフライト? 見送りに行ってあげる」


 そう言って沙都子は俺に甘えた。


 「ただの出張だ。見送りなんて大袈裟だよ」

 「いいじゃない? 愛するダーリンの旅立ちだもん。

 私も一緒について行こうかなあ」


 出来ることならそうしたい。

 俺の最後を沙都子に看取って欲しい。

 だがそれは出来ない。

 俺は静かに消えるために日本を離れることにしたのだから。



 

 当日、沙都子が空港に見送りに来てくれた。


 「気を付けてね?」

 「ああ」


 俺たちは強く抱き合い、熱い口づけを交わした。

 最期のキスだった。


 「じゃあ行ってくるよ」

 「うん、向こうに着いたら電話してね? 待ってるから」

 「ああ」


 私はひとり、出国ゲートへと向かった。


 


第3話

 ホテルに戻り、熱いシャワーを浴びて沙都子に電話をした。


 「もしもし? 連絡が来ないから凄く心配しちゃった。

 アントワープに無事に着いたのね? ああ良かった。

 何かあったのかと思ったわよ」

 「すまない」

 「どうしたの? 元気がないみたいだけど」

 「会社を辞めたんだ。もう日本には戻らないつもりだ」

 「エイプリル・フールにはまだ早いわよ」

 「本当なんだ、沙都子。今まで世話になった。ありがとう」

 「ちょっと何を言っているのよ! そんなこと「はいそうですか? さようなら」なんて言える訳ないじゃないの!」

 「ステージ4の膵臓ガンだと診断されたんだ。

 人の命などあっけないものだよな?」

 「何をそんな悠長なこと言ってるのよ!

 兎に角、私もすぐにアントワープに行くから! どこのホテルに泊まっているの?」

 「悪いがそっとして置いてくれ。

 退職金はお前の口座に振り込むから後で銀行口座をメールで送っておいてくれ。

 沙都子と一緒で俺は本当にしあわせだった。ありがとう。

 そしてしあわせになって長生きしてくれ。それじゃ」

 「ちょっと伸之・・・」

 

 私は携帯電話の電源をOFFにし、そのまま深い眠りに就いた。




 街へ散歩に出掛け、カフェに入った。

 ジンの発祥はベルギーだという。

 ベルギーワッフル、ベルギービール、ベルギーチョコレート。

 ベルギーと名の付く名物は多い。


 ここではフラン語にワロン語、それから英語にドイツ語、フランス語と様々な言葉が飛び交っている。

 それは絶えずベルギーという国が隣国から侵略されて来た歴史的背景があるのと、ヨーロッパの地理的中心地だったからだろう。

 EU本部も首都、ブリュッセルに置かれているのもそのためだ。

 私はこのベルギーという国がすこぶる気に入っていた。


 ここには有名な料理もたくさんある。

 クロケット・オ・クルベットにブレ・ア・ラ・リエジョワーズなど、日本人にも食べやすい料理も多い。

 そしてバゲットはパリよりも旨いと感じる。


 小麦とバターの豊潤な香り、表面のパリッとした食感と、それに相反するモチモチっとした内部のしっとり感。

 そんなバゲットなど、あっという間に食べ切ってしまう。

 日本にも旨いパン屋はたくさんあるが、ここアントワープのバゲットには敵いはしない。

 私はカフェでフィレ・アメリカンを肴に、ジントニックを飲んでいた。


 夕日に染まるアントワープのカテドラルは、まるで「光の魔術師」、レンブラントの描く絵画のようだった。

 時を告げる大聖堂の鐘の音が、アントワープの街に響いていた。


 俺はアントワープで残りの1,000万円を使い果たし、ここで死ぬと決めた。


 人生の終着駅をアントワープに選んだのには理由があった。

 それは子供の時に観た、『フランダースの犬』のアニメの場所がアントワープだったからだ。

 アントウエルペンという地名の由来は、現地の人間の話によると、「大男の足跡」だという。

 巨人の足跡がこの街になったというのだ。

 ポルダーという海抜ゼロメートルの湿地帯。街には運河が張り巡らされている。

 そして風車がその水を掻き出し、その風車の動力を使って小麦を粉に挽いていた。


 高緯度のために潮汐ちょうせき差が大きく、10メートルを超えることも珍しくはない。

 水門がないと船が通れない仕組みになっていた。

 原理はあのパナマ運河と同じ原理だ。

 船が昇ったり下がったりしてアントワープ港に出入りしている。

 アントワープはヨーロッパ第二位の貿易港だった。


 私はネロとパトラッシュが天使に連れられて昇天していく場面よりも、吹雪の中でアロアがネロの名を叫ぶシーンが忘れられなかった。


 もちろん大聖堂の中で死ぬわけにはいかないが、せめてこの大好きなアントワープで自らの人生を終えたかった。  

 大好きな酒と、見知らぬ白人の女を抱いて。

 


    人は生まれ、なぜ死んで行くのだろう?



 俺はそんな結論の出ない空論を考えながら、ジントニックを飲み、アントワープの街に夜の帷が降りるのを待った。

 私はギャルソンを呼んだ。


 「同じものを」


 俺は残りのジントニックを一気に飲み干した。




第4話

 その時、ひとりでパリからアントワープ駅を目指して列車に乗っている女がいた。

 嶋村由紀恵、36歳。声楽家。


 由紀恵は結婚してパリで暮らしていた。

 だが2年前にオーケストラでチェリストをしていた夫が鬱になり、自殺してしまった。


 由紀恵は生きる屍のようになってしまった。

 飲酒、喫煙、睡眠薬がないと眠れない毎日が続いた。

 かつてマリア・カラスの再来と称賛されたソプラニスタの面影は消え、どん底の生活を送っていた。


 そんなある日のこと、ネット配信サービスのアニメ番組を何気なく検索していると、アニメ『フランダースの犬』を見付けた。

 懐かしかった。子供の頃、よく観て泣いた。



    (そうだ、ネロとパトラッシュに会いに行こう)



 そして由紀恵は冬のアントワープ駅へと降り立った。

 運命の扉が開かれようとしていた。

 



 アントワープ中央駅のコンコースで、俺はじっと待っていた。


 「失礼ですが日本の方ですか?」

 「静かにしろ。今から始まるんだ」


 俺は唇に指を立てて女に言った。


 「何が始まるんですか?」


 その日本人の女は大きなスーツケースを曳き、喪中のような黒のカシミアのロングコート、ツバの広い黒の帽子に赤いリボンを巻いていた。


 突然『ドレミの歌』が鳴り出した。


 「始まったぞ。素晴らしいパフォーマンスが」


 すると駅のコンコースの中央で、ひとりの中年男が踊り出した。

 そして今度は少し遅れて小さな女の子がその男とダンスを始めた。

 唖然とそれを見ている駅の乗降客たち。スマホで写真や動画を撮っている者もいた。


 そこへまたひとり、またひとりと老人も若者も、そのダンスの輪に加わって『ドレミの歌』を踊り出した。

 次々と広がってゆくダンスの輪。

 『フラッシュ・モブ』が始まった。

 体を揺らして一緒に踊る恋人たち。



 その女はそれを見て泣いていた。


 「素敵・・・」


 

 パフォーマンスが終わり、大喝采が巻き起こった。

 俺も女も叫び、手が痛くなるほど拍手を贈った。


 「ブラボー!」

 「ブラボー! 初めて見ました! フラッシュ・モブ!」

 「時々やるんだ、通行人を装ったゲリラ・ダンス。

 今日は『ドレミの歌』だったがジャズ・アレンジのソシアルダンスや、子供たちがバレエで『白鳥の湖』を踊ったりもする。

 この駅は「もう一つの大聖堂」と呼ばれているんだ。素晴らしいステージだよ」

 「アントワープにはご旅行ですか? おひとりで?」

 「旅行? そうかもしれない。人生は旅だからな?」

 「私は今さっき、パリから着いたばかりなんです」

 「そうか? ところでアンタ、晩メシは食ったのか?」

 「どこか美味しいお店とかご存知ですか?」

 「近くに安くて旨い店がある。一緒に来るか?」

 「いいんですか?」

 「アンタは気をつけた方がいい。今会ったばかりの男に簡単について行くもんじゃない」

 「私、これでも人を見る目は確かなんです。特に男性は。

 今のダンスをキラキラした瞳で見ているあなたは悪い人ではありません」

 「馬鹿な女だ。ついて来い」


 女は大きなスーツケースを転がして俺の後について来た。

 階段を降りる時、彼女の重いスーツケースを持ってやった。


 「ありがとうございます。やさしいんですね?」

 「アンタがヨタヨタして階段で転んだりされたらみんなに迷惑が掛かるからな?」

 「もうー、素直じゃないんだからー」


 俺たちは笑った。




 駅近くのカフェに入った。

 

 「素敵なカフェですね?」

 「ここは何でも旨い」

 「お勧めは何ですか?」

 「食べられない物はあるか?」

 「何でも食べます」

 「じゃあ俺と同じ物でいいか?」

 「はい、それでお願いします。あー、お腹空いたー。それからビールもお願いします」


 コートと帽子を脱いだその女は、パリコレのモデルのようにスレンダーな美しい女だった。

 吸い込まれそうな黒い瞳、セミロングの黒髪。細くて長い白い指には結婚指輪の痕が残っていた。

 

 (離婚したばかりなのか? それともわざと外しているのか?)


 まあそんな事は今の俺には関係のない話だった。


 「ワインじゃなくていいのか?」

 「折角ベルギーに来たんだから、やっぱりビールでしょ」

 「他に好きな酒は何だ?」

 「ジン。断然ジントニック」


 俺はジントニックが好きだというこの女が気に入った。

 少し気取った女なら、ワインだとかシャンパンを飲みたがる。


 「じゃあつまみにはムール貝とフライドポテト。

 それからシュリンプ・クロケットでどうだ?」

 「あとピュレもお願いします」

 「よく知ってるな? ポロネギやホワイトアスパラガスのポタージュだよな?」

 「私、大好きなんです! それを飲んで温まったところで冷たいビールをいただく。最高じゃないですかあ」


 俺は給仕を呼んでそれらをオーダーした。

 ビールはチャイナ・レストランで飲んだ、シメイ・レッド・トラピスト・ビールにした。



 ピュレを飲んだ後、俺たちはビールで乾杯をした。


 「カンパーイ!」

 「いつまでここにいるんだ?」

 「飽きるまで」

 「それじゃあ日本には帰れなくなるな? この街は人を飽きさせない」

 「そんなにいいところなの? アントワープって?」

 「俺が知る限り、ここがヨーロッパで一番美しい港町だ。

 あの中央駅を見ればわかるだろう? 空港や港、駅はその都市の顔だ。そしてこのビールと料理。

 このフライドポテトもジンも、ベルギーが発祥なんだ」

 「そうなんですか? だからこんなに美味しいのね?

 私、さっきは感動して泣いちゃいました。

 もう涙は残ってないと思うほど泣いたのに」


 俺はその理由には触れなかった。

 大方、男に振られた程度の話だろうと思ったからだ。


 彼女は黒のネイルを気にしながら、ムール貝に取り掛かった。


 「私、ムール貝って大好きなんです。

 日本ではパエリアやペスカトーレにちょっとだけ添えてある程度じゃないですか? 本当はバケツで食べたいくらい大好き。

 ビールがとても進むわよね?」


 沙都子とは正反対の女だと思った。

 ずっと以前から一緒にいたような気さえする。


 「私の名前は嶋村由紀恵。未亡人よ、あなたは?」

 「北川だ。北川伸之」

 「それじゃあ伸之、どうしてアントワープに?」

 「気がついたらここにいた」

 「じゃあ私と同じね? 私も気づいたらアントワープに来て、伸之とこうして一緒にビールを飲んでる。

 不思議よね? 私たち、ずっと前から知り合いだったような気がする」

 「前世ではお前が男で、俺が女だったかもしれないな?」

 「あははは そして夫婦だったりして?」


 由紀恵はクロケットにナイフを入れた。


 「ビール、お替り」

 「食後のベルギー・ワッフルが入らなくなるぞ」

 「大丈夫、別腹だから」


 これが俺と由紀恵のアントワープ・ロマンスの始まりだった。

 



第5話

 俺たちは酒をビールからジントニックに変え、かなり酔っていた。


 「由紀恵、帰るぞ。ホテルはどこだ? 送ってやるよ」

 「泊まるところ、まだ決めてないの」

 「お前はいい度胸をしているなあ? ここは治安のいい、寝呆けた日本じゃないんだぞ?」 

 「だって何も考えずにふらっと来ちゃったんだからしょうがないでしょー。

 伸之と同じホテルでいいよ。同じベッドで一緒に寝ようよ。あはははは」


 由紀恵はパリからの長旅で、かなり疲れているはずだ。

 俺は由紀恵を早く休ませてやりたかった。

 

 タクシーに乗り、俺の宿泊しているホテルへと向かった。


 


 「このホテルだ」

 「あら、素敵なホテル。中世のお城みたい」

 

 俺は由紀恵のために部屋を取ってやった。

 酔った女につけ込むほど俺は野暮じゃない。


 

 「私ではご不満かしら? の方は結構評判いいのよ、私。うふっ」

 「取り敢えずシャワーを浴びて寝ろ。明日のためにな?

 俺の部屋は303号室だから何かあったら電話しろ」

 「それじゃあ伸之の携帯番号も教えて」


 俺たちはお互いの携帯番号を交換した。



 

 由紀恵の電話で起こされた。


 「お腹空いた。朝ごはん食べに行こうよ」

 

 時計はすでに朝の9時を回っていたが、まだ外は暗い。



 俺は着替えて1階のロビーへと降りて行った。

 由紀恵が俺を待っていた。



 「よく眠れたか?」

 「うん、おかげで凄くよく眠れた。私、いつもは眠剤がないと眠れないの。

 久しぶりに日本語もいっぱい話せたし」

 「何が食いたい?」

 「何でもいい、伸之に任せる」



 朝の冷たい空気が頬を刺す。


 「昨夜も訊いたけどさあ、伸之はどうしてひとりでアントワープに来たの?」


 俺は由紀恵の質問に質問で返した。


 「お前はどうしてヨーロッパにやって来たんだ?」


 ようやく現れた朝日に、由紀恵の白い横顔が溶けた。


 「私、オペラ歌手だったの」

 「だった? 過去形か?」

 「そう、過去形。 もう昔のようには歌えなくなってしまったわ」


 (夫との別れが原因なのか?)


 「それほど辛いことがあったということか?」

 「夫とは死別したの。彼、自分で生きることを諦めてしまった。馬鹿な人・・・。

 夫はね、チェリストだったの」

 「音楽家同士の結婚というわけか?」

 「夫はオーケストラでチェロを弾いていた。音楽なんて所詮は奏でたその瞬間から消えていく、儚いものなのに。

 いつの間にか夫はその一瞬に紡がれた世界に入り込んで出られなくなってしまったの。

 もっと上を、もっと深く音楽の深淵をと彼は藻掻き続けた。

 死んじゃうくらいなら、音楽なんてしなきゃよかったのに。ただ聴くだけでよかったのよ、音楽なんて。

 だって音楽なんてただの娯楽でしょ? 

 学生の時、夫とはパリの音楽院で一緒だった。そしてパリで暮らし始め、結婚した。

 鬱に苦しみながら音楽と向き合う夫をずっと傍で見ていたわ。

 凄く繊細でストイックで、誠実でやさしい人だった。

 最近、ようやく楽しかった夫との生活を思い出せるようになってね? ネットで偶然、アニメの『フランダースの犬』を観たの。

 そして気付いたら列車に乗ってアントワープに着いていたっていうわけ」


 面倒な女と関わってしまったと思った。

 俺も旦那と同じように、自ら命を絶とうとしているのだから。


 「あなたも奥さんと別れたの? 結婚指輪はしていないようだったけど」

 「俺は会社を辞めてヒマになったからここへ来ただけだ。ただの観光だ」


 私は結婚していたことも、沙都子のことも由紀恵には話さなかった。

 これ以上この女と親しくなってはいけない。記憶に残らないようにしなければならないと思った。

 それがこの世への執着になりかねないからだ。


 「何で会社を辞めたの?」

 「サラリーマンが嫌になったから辞めた。働くのが虚しくなったんだ」

 「そうは見えないけどなあ? だってあなたも夫と同じ匂いがするから」


 勘のいい女だと思った。

 確かに俺は既に生きる気力を失っていた。

 死期も近い。


 「朝食を食べたらルーベンスの大聖堂に行ってみるか? 『フランダースの犬』のあの教会に。

 俺もまだ中には入ってはいないんだ」

 「どうして中に入らなかったの?」

 「ちょうど閉まっていたんだ。だからその広場のカフェでジントニックを飲んでジプシーの音楽を聴いていた。

 フルートとバイオリン、そして竪琴。

 今までに聴いたことがない不思議な音楽だった。

 おそらくケルト音楽なのかもしれない」

 「興味あるなあ、その音楽。私も聴いてみたい」


 

 私たちは軽い朝食を済ませ、アントワープ大聖堂へと歩いた。

 



第6話

 「ねえ、大聖堂に行く前にちょっと買いたい物があるんだけど」

 「何をだ?」

 「パトラッシュの縫いぐるみ。カテドラルでネロとパトラッシュを演じてみたいから。

 もちろん私がネロの役で」

 

 俺はそんな由紀恵を笑うことが出来なかった。


 「犬の縫いぐるみはあるかもしれないが、あのアニメのパトラッシュの縫いぐるみはここには売られてはいないぞ。

 『フランダースの犬』の物語を知る者はこのアントワープには少ないからな?」

 「日本では誰も知らない人はいないのに?」

 「そもそもあれはイギリスの19世紀の女流作家、ヴィーダが書いた児童小説なんだ。

 児童書でありながら、主人公のネロが貧困と社会の不条理の中で死んでしまうという悲劇の物語。

 ルーベンスはアントワープの人間にとっては誇りでも、ネロとパトラッシュはそれほど有名ではない」

 「何だか寂しいなあ」



 大聖堂へ向かう途中、由紀恵はセントバーナードの縫いぐるみを買ってご機嫌だった。


 「ほら見て! かわいいでしょ?」


 俺は無邪気に喜ぶ由紀恵を見て、思わず笑ってしまった。


 (俺はそんなお前の方がかわいいよ)


 



 アントワープの大聖堂の正面、グルン広場には羽毛のような雪が舞っていた。


 「まるでネロとパトラッシュがここに辿り着いた時みたいね?」

 「そびえ立つ聖母大聖堂。ベネルクス三国の中では最も高い、125mもある尖塔があるが、本来はツインタワーだったそうだ。それが火災による損壊で1塔だけとなり、資金的にも修復が難しく、白人が好むシンメトリーではなくなってしまったらしい」

 「ベネルクス三国って中学の時に習ったわ。ベルギーとオランダ、あと何処だっけ?」

 「ルクセンブルグ」

 「そうそれそれ」

 「この教会は「ルーベンス大聖堂」とも呼ばれているが、正式には「聖母大聖堂」、つまり「ノートルダム大聖堂」というわけだ。

 世界に点在する聖母マリアを祀る大聖堂のひとつだ。

 この入口の上部にあるタンパンには、パリのノートルダム寺院と同じように『最期の審判』が彫刻されている。

 1352年に建造が開始され、それから約170年の歳月をかけて完成した大聖堂だ」

 「170年も掛けて作ったの?」

 「気の長い話だ。寒いから中に入ろう」


 


 大聖堂の中に入り、俺たちは息を飲んだ。

 そこはパリの暗くて荘厳なノートルダム大聖堂とは違い、まるで天使が飛び回っているかのような明るい「白亜の聖堂」だったからだ。


 「きれい・・・」


 由紀恵はそう言って立ち尽くした。

 彼女の瞳からは大粒の涙が零れていた。

 数名の外国人観光客がいるだけで、日本人は俺と由紀恵だけだった。



 「この大聖堂は教会というよりまるで美術館のようだな?

 ゴシック建築の主祭壇へ続く身廊は48本もの円柱に支えられ、128箇所の窓があり、そのうちの55箇所がステンドグラスになっている。

 マサイス、ノロリスなどの16世紀から17世紀にかけてのフランドルの巨匠たちの絵画も展示されている。

 そしてここにあるのが4つのルーベンスの祭壇画だ」


 俺たちは主祭壇に向かって再び歩き出した。



 「これがネロが見ていたルーベンスの『聖母被昇天』なのね?」

 「そうだ。そしてカーテンで隠され、拝観料を払わなければ見ることが出来なかった絵が三連祭壇画、『キリスト昇架』と『キリスト降架』だ。そしてさらにもう1つ、『キリストの復活』がある。

 そしてこの『キリスト昇架』の左下に描かれている犬がルーベンスの愛犬、パトラッシュだと言われている」

 「へえー、このワンちゃんがパトラッシュなのね?」

 「少し聖堂内を見学してみよう」

 「うん」


 俺たちは主祭壇の周りを見て回った。


 「この黄金の櫃が『聖櫃』だ。あの映画、インディー・ジョーンズの『レイダース・失われたアーク(聖櫃)』のそれだ。

 この中にはモーゼの『十戒』の石板が収められているらしい」

 「あのハリソン・フォードの映画の「聖櫃」がここにあるなんて不思議」


 そしてマリアに抱かれた幼いキリストの彫刻があった。


 「アントワープと神戸は姉妹都市でもあるんだ。

 この『ムーズ川のマドンナ像』のレプリカが、1995年に起きた阪神淡路大震災の時に神戸の六甲カトリック教会に鎮魂として贈られた物の原型だ」

 「幼子のイエスがマリア様の頬に触れる姿は微笑ましいわね?」



 主祭壇の天井画はスフートの描いた『聖大被昇天』だ。


 「この天井から天使たちがネロとパトラッシュを迎えに降りて来たのね?」

 「そうだ。天井までは43mもある」


 すると由紀恵はそのまま犬の縫いぐるみを抱いて大理石の上に寝そべった。


 「パトラッシュ、ボクは見たんだよ、いちばん見たかったルーベンスの2枚の絵。

 だからボクは今、すごくしあわせなんだよ」


 そう言って縫いぐるみを撫でた由紀恵は嗚咽した。

 それはネロとパトラッシュに対する涙というより、死んだ旦那を忌憚いたんでいるかのようだった。


 「どうしてあなたは死んでしまったの・・・」


 由紀恵はパトラッシュを抱いて立ち上がり、おもむろに歌い始めた。

 美しい彼女のソプラノが大聖堂に響き渡った。



    『Woman ~Wの悲劇より~』



       もう 行かないで 傍にいて 


       窓の傍で腕を組んで・・・




 俺の眼から熱い物が溢れ、大理石の床に落ちた。

 誰も彼女を咎める者はいなかった。

 そこにいるすべての人が由紀恵の歌声に涙した。




第7話

 大聖堂を出て、俺たちは少し遅めのランチを摂ることにした。


 「ここでもいいか?」

 「蔦が絡んで素敵な外観ね?」

 「ここはアントワープでは凄く有名なカフェなんだ。

 カフェというよりビアホールだな?」

 「ビール大好き! もう薄暗くなって来たわね?」

 「ここは北緯51°の高緯度にあるからな? 冬の日中は短い」



 

 店内に入るとカトリックの彫刻や絵画、雑貨で溢れていた。



 「不思議なお店ね?」

 「この建物は400年前にこのノートルダム大聖堂を作る職人たちのための仕事場だったところをカフェに改装したらしい。

 これは初代オーナーが集めたコレクションだそうだ」

 「オーナーさんは敬虔なクリスチャンだったのね?」

 「中々いいセンスをしているよ。ここの店名、『ヘット エルフデ ヘボド』は、英語では「The 11th commandment」。つまり『11番目の戒律』という意味があるらしい。

 カトリックの戒律は10個だろう? それにオーナーは11番目の戒律を付け加えたという訳だ。

 「ビールを飲め」という戒めをな? あはははは」

 「それじゃあその戒律を私たちも守らなくっちゃね?」



 俺は牛肉のカルパッチョを、そして由紀恵はアントワープ名物の「ホロホロ鳥のワーテルゾイ」をつまみにビールを楽しんだ。



 「念願だったルーベンスの絵も見れたし、ネロとパトラッシュの真似も出来た。

 伸之、連れて来てくれてありがとう」


 俺は由紀恵が泣いていたことには触れなかった。

 それを話題にすれば折角の旨いビールの炭酸が抜けてしまいそうだったからだ。


 「もう目的が達成されたわけだからパリへ戻るか? それとも日本へ帰国するのか?」

 「まだアントワープに来たばっかりなのに、戻るわけないでしょ」


 それを聞いて少し安心した俺がいた。


 「あの『フランダースの犬』の20年後の続編があるのを知っているか?」

 「そんなのあるの?」

 「劇場版『フランダースの犬』だ。監督は同じ。

 だが内容はかなりオリジナリティのある物になっている。

 当時8歳だったアロアは美しい修道女になって、教会の施設の孤児たちを連れて、ネロとパトラッシュが死んだあの大聖堂のルーベンスの聖母マリアの祭壇画を見せているシーンからアロアの回想が始まる」

 「アロアは修道女になったのね? 

 消去法で考えてもネロとパトラッシュを失ったアロアには、神に仕えることでネロたちの供養と、父親のコゼツたちのネロやおじいさんに対する贖罪もしなければならないしね?」

 「バカな女だ。ネロが死んだのはアロアのせいではないのに。

 金持ちのイケメンとでも結婚して贅沢な暮らしをして、ネロとパトラッシュのことなど忘れてしまえばいいものを」


 俺は由紀恵に言うように、わざとそう吐き捨てるように言った。


 「ウソばっかり。心にもないこと言っちゃって」

 「本心だ。ビールのお替り、いるか?」

 「うん。同じ物で。それからムール貝のワイン蒸しもお願い」

 「ムール貝、本当に好きだよな?」

 「いいでしょう? だって好きなんだもん」


 俺は再び話を続けた。


 「ネロの友だちだったジョルジュと弟のポールも出てくる。

 ジョルジュは船乗りになって、ポールはアロアの父親のコゼツの元で働いていたこともあるという設定だったが、詳しい内容は忘れた」

 「へえー、そうだったんだ?」

 「見なきゃ良かったよ。あんな続編」

 「どうして?」

 「テレビのアニメーションにあったあの温かみのある絵は消え、まるでAIが作成したようなデジタル的なアニメーションになってしまったからだ。

 そしてその続編ではキャラクターたちが成長してしまっている。

 例えばサザエさんのタラちゃんが東大を出て商社マンになって、波平も舟も他界してサザエさんもマスオさんも年金暮らしになってあの家を売り払い、都内のタワマンに住んでいるなんて幻滅するだろう?」

 「クレヨンしんちゃんやコナン君、そしてちびまる子ちゃんが大人になっちゃったらちょっとイヤだなあ」


 俺はビールを飲んで由紀恵に言った。


 「人生には知らなくてしあわせなこともある」

 「そうね・・・」


 由紀恵は寂しそうに頷いた。

 死んだ旦那のことを考えているようだった。

 「なんで旦那は死んだのか?」、それを追求したところでそれは玉ねぎを剥くような「虚しい作業」になる。

 最後まで玉ねぎを剥いたところでそこには何も無いのにだ。

 

 旦那は何で死んだのではなく、ただ死にたいと発作的に思ってそれを実行しただけの話だ。

 それは死んだ本人にしかわからない。

 俺がそうであるように。


 その時俺は沙都子のことを思い出していた。

 沙都子も未亡人だった。

 俺はほとほと未亡人と縁があるらしい。

 沙都子は10年前に旦那をガンで亡くしていた。

 沙都子は俺との結婚を望んでいたが、俺は沙都子との結婚には否定的だった。

 彼女に不満があるわけではない。寧ろ妻にするならこんな理想的な女はいないだろう。

 だが私はそれを望まなかった。

 なぜなら俺は、「結婚には向かない男」だったからだ。

 俺は女の愛し方が分からなかった。

 人間には男と女がいるが、結婚してもいいヤツと駄目なヤツがいる。

 俺のように惚れやすい人間は結婚するべきではない。

 結婚相手を不幸にしてしまうからだ。

 俺は一度結婚に失敗してそれを学んだ。

 そして別れ際、女房は俺に真顔でこう言った。


 「これ以上、不幸な女を増やさないでね?」


 俺はその教えを今までずっと守って生きて来た。

 そして不治の病になり、余命宣告を受けた今、やはり女房が言ったことは正しかったと思っている。

 俺のような男はひとりで死んで行くべきなのだ。


 

 「美味しいビールね? ねえ、ビールお替りしない?」


 俺はまたビールのお替りを頼んだ。

 俺たちは今日もまたアントワープで呑んだくれていた。





 ホテルに戻り、自分の部屋に入ろうとした時、由紀恵に呼び止められた。

 

 「ねえ、もう少し私のお部屋で飲まない? 今度はジントニックを」

 「お前も好きだな? 酒が」

 「お酒でも飲まなきゃ生きていられないでしょー? シラフでなんか」

 

 由紀恵の言う通りだと思った。

 俺は由紀恵の部屋で酒を飲むことに同意した。


 


第8話

 俺は自分の部屋から酒を持参した。


 「オールドパーとチョコレートくらいしかねえぞ」

 「ありがとう。ジンとビーフジャーキーとチーズならあるからお好きな物をどうぞ」

 「今夜は俺はこのウイスキーでいい」

 「私もオールドパーをいただいてもいいかしら? 氷とグラス、持って来るわね?」


 俺たちは乾杯もせずに酒を飲み始めた。



 「私、アル中かもね? 毎日飲んでるから。飲まずにはいられない」

 「俺も同じだ。俺のカラダには血液じゃなく酒が流れている」

 「いつもはね? 嫌なことを忘れるためにお酒を飲むんだけど、あなたとこうして飲むお酒は美味しいお酒。楽しいお酒よ。

 伸之はどう? 私と飲むお酒は楽しい?」

 

 俺はその質問には答えず、板チョコを半分に割ると、片方を由紀恵に渡した。


 「本場ゴディバのチョコレートだ。けっこういけるぜ。ウイスキーによく合う」


 由紀恵は細い指でチョコレートの端を割り、口に入れるとウイスキーを飲んだ。


 「ホント、オールドパーとよく合うわね? まるで私たちみたい」

 「俺はこんなに甘くはねえ」

 「違うわよ、あなたは私を酔わせてくれるウイスキー。

 そして私は蕩けるように甘い、ゴディバのチョコレート」

 「俺はビターの方が好きだけどな?」

 「私たちって似た者同士だもの。お互い心に深い傷を負った・・・」

 「一緒にするな」

 「私ね? アントワープに来て伸之と出会うまでは、何もかもが嫌になっちゃっていたの。

 でも伸之と一緒にいると、嫌なことを忘れられる」

 「俺にはイヤなことはねえ。毎日が楽しい」

 「うふっ、あまり楽しそうには見えないけど。

 とても辛そうに見える。だから私と同じ」

 

 俺はゴルゴンゾーラを食べ、オールドパーを飲んだ。


 「昨日も言ったけど、あなたは死んだ夫と同じ匂いがする。

 それが懐かしいのかもしれない」

 「それはあまり嬉しくはねえなあ。俺はアンタの旦那の「スペア」じゃない」

 「ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないの。

 一緒にいるとほっとするの。安心するのよ」


 (自殺した旦那と同じ匂いがする?)


 それは正しい。

 なぜなら俺は旦那と同じ行動をとるつもりだからだ。

 由紀恵は酒を飲むのを止め、チョコばかりを舐めていた。


 「ゴディバは日本にもあるけど、本場で食べるゴディバは一段と美味しい気がする」

 「明日、チョコレート街を散歩してみるか?

 街がチョコの甘い香りで溢れている。

 ハリーポッターの映画に出てくる、魔法グッズが売られているあの商店街のような場所だ」

 「行ってみたい。私、チョコレート大好きなの」



 俺は携帯のYou Tubeでホロビッツのショパンを流した。

 酔いも回り、会話が面倒になって来たからだ。


 「ホロビッツが好きなの?」

 「ピアノはホロビッツに限る。特にショパンはな?」

 「私も好き。そしてショパンも」


 俺たちは同じソファに並んで座っていた。

 由紀恵が俺にキスをした。

 俺はそれを受け入れた。チョコの甘い香りと味がした。



 「抱いて」

 「俺には喪に伏している女を抱く趣味はねえよ」

 「さびしいの、すごく・・・」

 

 由紀恵は俺に寄り添い、そっと俺の手を握った。



 「紳士なのね? 伸之は。

 でもそれはやさしさとは言わないわ、狡さよ。

 あなたをこんなに好きにさせておいて・・・」

 「男と女が愛するためには物語が必要だ。

 俺たちにはまだそれが足りない」

 「じゃあ物語を作ればいい。私たちの物語を」

 「・・・」

 「どうすれば物語が作れるの? 教えて?」

 「物語は作るものじゃない。与えられるものだ。

 突然降ってくるとか、湧いて来るものなんだ。

 今の俺たちにはそれがまだない」

 「私たち、愛し合う運命じゃないの? このアントワープで。

 伸之は私が嫌い?」

 「俺にも性欲はあるし、女も好きだ。

 お前は魅力的な女だ。だが由紀恵の心の中にはまだ死んだ旦那が生きている。

 時間が必要だ」

 「死んだ夫はもう私に何もしてはくれないわ・・・」


 由紀恵の頬に一筋の涙が流れた。


 俺は心にもないことを言ってしまったと後悔した。

 俺が今、由紀恵を抱いてしまえば俺には生きることへの未練が、執着が生まれてしまう。



    (死にたくない)



 という想いが。

 そして由紀恵を再び悲しみのどん底に突き落としてしまうことになる。

 「これ以上この女と関わってはいけない」と俺は自分に言い聞かせた。


 

 由紀恵は急に無口になり、寝息が聴こえて来た。

 俺は由紀恵を抱き上げ、服のままベッドに寝かせ、毛布を掛けてやった。


 明かりを消して部屋を出ようとした時、


 「和也・・・」


 寝言で由紀恵は旦那の名前を呼んだ。

 俺は彼女を抱かなくて良かったと思った。


     (この女を守ってやりたい)


 この女と別れる決心が揺らいだ。

 私はもう少し、由紀恵の部屋で酒を飲むことにした。


 グラスのペリエにジンを注いだ。

 



第9話

 カフェでグラッパを飲み、アントワープのチョコレート街にやって来た。

 すると由紀恵が言った。


 「伸之のことがもっと知りたい」

 「知ってどうする?」

 「もっと好きになって恋を愛に変えたい。

 そうすれば物語になるでしょう?」

 「それはただの「気まぐれ」というやつだ」


 俺は笑った。

 そして俺は当たり障りのない話題を探した。


 「チョコレートの甘い香りがするだろう? このチョコレート横丁は?」

 「中世の香りが残る素敵な所ね? 伸之はいつまでアントワープにいるつもりなの?」

 「死ぬまでだ」

 「じゃあずっとアントワープにいるんだね?」

 「・・・」


 (由紀恵、それはお前がこのアントワープを去る時と同じだよ) 


 「ここは不思議な場所だわ。 前に来た気がする。これってデジャブなのかしら? 

 ねえ? ホテル代が勿体ないからアパートを借りて一緒にここで暮らさない?」

 「お前は日本に帰った方がいい。

 ここはお前が住む街じゃない。ここは観光に立ち寄る所だ。一時的にな?

 所詮俺たちはただのエトランゼ。異邦人なんだ。すぐに飽きる。

 この街も、そして俺にも」

 「そんなのわからないじゃない、実際に住んでみないと。

 でもどうしてパリじゃなくて日本なの?」

 「日本にはお前を待ってる家族も友人もいる。由紀恵を支えてくれる仲間が」

 「家族かあ? 友だちはいないの。私、面倒臭いのが嫌いだから」

 「俺と同じだな?」



 エルメス・レッドのような色のチョコレート専門店で、由紀恵が真剣にチョコレートを選んでいると、俺のスマホが鳴った。

 沙都子からだった。


 「もしもし」

 「伸之? 今アントワープ国際空港なの。迎えに来て」

 「わかった。1時間ほどでそこに行く」

 「慌てなくていいから気を付けて来てね?」

 「ああ」


 沙都子のことだ、何となく予想はしていたが、まずいことになったと思った。

 由紀恵は沙都子との会話に聞き耳を立てていた。


 「誰? 女?」

 「空港に知り合いが来たようだ。迎えに行って来る」

 「私も一緒に行ってもいい?」

 「・・・。ああ、いいよ。

 ただしお前は俺の「現地エージェント」ということにしろ。ヘンに疑われるのは本意じゃねえ」

 「やっぱり女なんだ? もしかして奥さん?」

 「いや、ただの「物好き女」だ。俺を追ってアントワープまでやって来たお人好しだ」

 「それだけ伸之のことが好きだってことでしょう? 妬けちゃうな」


 どうせわかることだ。由紀恵とは幸い男女の関係はない。

 付き合っているわけではないし、ただの現地で知り合った女友だち、ガールフレンドだ。

 やましいことはない。

 俺は彼女を「エージェント」として沙都子に紹介することにした。



 空港へ向かうタクシーの中で俺は由紀恵に言った。


 「日本で俺と同棲していた女なんだ。同じ会社に勤めていた。社内恋愛ってやつだ。

 俺は彼女と別れてアントワープにやって来た」

 「どうして別れたの?」

 「色々あってな」


 私はそれ以上のことは何も言わなかった。

 由紀恵は気の利く女だ。それだけ言えばそれなりの役割は果たしてくれるだろう。

 沙都子は仕事もあるから長くは滞在するまい。せいぜい1周間程度だろう。

 いい思い出だけを作って帰してやりたい。

 沙都子は俺を日本に連れ戻すためにここへ来た筈だ。




 空港のカフェで沙都子は煙草を吸い、ビールを飲んでいた。


 「お前の行動力には感服するよ。会社は大丈夫なのか?」

 「1週間、休暇を貰って来たわ」


 沙都子が由紀恵に敵意のある鋭い視線を向けた。


 「そういうことだったのね? 回りくどいことしちゃって」

 「勘違いするな。紹介するよ、現地エージェントの嶋村由紀恵さんだ」

 「こんにちは、ようこそ我がアントワープへ。

 ツアー・エージェントの嶋村由紀恵です。

 すみません、今日は名刺を忘れて来てしまいました」

 「下手なお芝居は結構。さあ伸之、私と一緒に日本に帰るわよ」

 「うふっ、バレちゃいました? 私、彼の女です。

 二日前にここで偶然出会いました。昔からの付き合いではありません。

 それにまだ抱いてもくれないんですよ、酷いでしょ?」

 「折角来たんだ。アントワープの街を案内するよ。

 まあ俺もまだこの街をよくは知らないがな?」

 「とてものんびり観光なんてする気にはなれないわ!

 どんな想いで私がアントワープまで来たと思っているの! 馬鹿!」

 「そうカリカリするな。お前は働き過ぎなんだよ。たまにはいいだろう? 俺とアントワープを観光して回るのも。旨い酒を飲んで美味い物を食って色々な場所を見て歩く。

 それくらいのことは許される筈だ」

 「三人で周りましょうよ、この素敵な童話の街、アントワープを。

 伸之とあなた、そして私という愛人と三人で。

 「旅は道連れ」って言うじゃない?」

 「誰がアンタなんかと」

 「兎に角まずはここを出よう。

 時差ボケもあるだろうから少し俺の部屋で眠るといい。

 話はそれからだ」


 沙都子は渋々それを承諾した。



 

 ホテルに着くと俺と沙都子は無言で部屋に向かった。


 「それじゃごゆっくり。私はお邪魔でしょうから部屋でチョコでも食べてお酒でも飲んでいるわ。

 あんまり大きな声を出してでね?

 ここは日本のラブホじゃないんだから」


 そう戯けて由紀恵も自分の部屋に戻って行った。




 部屋に入ると沙都子はコートも脱がずに俺を真っ直ぐに見て言った。


 「カラダはどうなの? お薬はちゃんと飲んでる?」

 「大丈夫だ。腹、減っていないか?」

 「空港で食べたから平気。

 ねえ、一緒に日本に帰ろう? そしてちゃんと治してくれるお医者さんに診てもらおうよ」

 「ゆっくりバスタブに浸かって少し眠れ。長旅は疲れただろう? 話はそれからだ」


 俺はバスルームに行き、バスタブに湯を入れ始めた。

 バブル・ボールを入れてバスタブが一杯になるまで待った。

 このバスは日本のような湯船ではなかった。

 バスタブはブラシでカラダを洗うタイプの物だった。

 かといってシャワーだけでは疲れが取れないと思ったからだ。



 ベッドルームに戻ると沙都子はスーツケースを開け、入浴の用意をしていた。


 「泡風呂にしておいた。ゆっくり浸かって来い」

 「ありがとう」


 沙都子がパウダールームへと出て行った。



 俺は冷蔵庫からビールを出して飲んでいると、いつの間にか眠ってしまった。

 体力の衰えを感じる。やはり病気は進行しているのだろう。


 

 「そんなところで寝ていたら風邪を引くわよ。ベッドで寝なさい」

 「俺もシャワーを浴びて来る。先に寝てろ」



 俺は熱いシャワーを浴び、考えていた。

 明日からの沙都子とのアントワープでの旅のプランを。


 ベッドの沙都子と合流した。

 彼女はすでに裸だった。


 「伸之のばか。凄く心配したんだから」

 「わざわざアントワープまで来てくれて、悪かったな?」


 沙都子はむしゃぶりつくように俺にキスをし、俺の顔やカラダを舐め回した。


 「凄く会いたかったんだから!」


 沙都子は泣きながら俺に抱きついた。

 俺も夢中で沙都子を抱いた。


 「あ、あ、もう、離れないから・・・、うっ、あん、あ、あ。ノブ・・・」


 我慢していた俺の性欲が一気に爆発した。


 「沙都子、沙都子、俺の沙都子・・・」

 「愛しているわ、ノブ。はっ、んっあ!」


 今までにしたことがないような激しいセックスだった。

 俺は満足し、いつの間にか深い眠りに落ちて行った。


 「余程疲れていたのね? うふっ

 本当にこの人、不治の病気なのかしら? こんなに元気なのに」


 沙都子は北川のまだ硬いペニスに触れた。


 

 時差ボケで眠気が起きなかった沙都子は、北川にキスをしてベッドを降り、化粧を整えホテルのBARへと降りて行った。

 少し強い酒を飲みたい気分だった。

 


 そこにひとりで飲んでいる由紀恵がいた。


 「ここ、いいかしら?」

 「どうぞ。伸之は? ケンカでもしたの?」

 「その逆よ。やりまくって彼は寝てるわ。

 興奮して眠れないから飲みに来ちゃった」

 「あら羨ましい」

 「すみません、ギムレットを」

 「かしこまりました」


 沙都子は由紀恵に躊躇うことなくメンソール・タバコに火を点けた。


 「私にも一本、ちょうだい」


 沙都子は由紀恵にタバコを渡し、北川から誕生日プレゼントに貰った、カルティエの紅いライターで火を点けてやった。


 「彼、女がいるなんて一言も言ってなかったわよ?」

 「それはそうでしょう、一方的に「別れてくれ」だもの。

 ホント、頭に来ちゃう」

 「そうだったの? それで彼のことが諦め切れずにアントワープまで追いかけて来たって訳だ」

 「私はただの愛人。あなたと同じ・・・」

 「余程好きだったのね? 日本から飛んで来るなんて?」

 「彼、膵臓ガンなの。それも末期の・・・。

 だから彼を連れ戻しに来たの。

 私は彼の命をまだ諦めたくないから」

 「えっ」


 由紀恵のタバコを持つ手が震えた。

 



第10話

 「膵臓ガン? 何それ? そんなのウソよ! 絶対にウソ! ウソに決まってる!

 だってあんなに元気じゃない! 信じないわよそんな話!」


 由紀恵は思わず席を立ち上がって叫んだ。


 「私だって信じたくなんか無いわよ!

 でもしょうがないでしょう! なっちゃったんだから!

 だから私はあの人を日本に連れて帰る! そして絶対に治してあげる!」

 「勝手にすれば!」


 由紀恵はBARを出て行った。

 沙都子はギムレットを一気に飲み干すと、


 「テキーラをちょうだい」


 と言って溜め息を吐いた。




 沙都子が酔って部屋に帰ると、スヤスヤと寝息を立てて眠っている北川を見詰め、泣いた。


 「絶対に私があなたを助けてあげるからね」


 服を脱ぎ捨て、沙都子は北川の隣に寄り添って眠った。


 


 一方、部屋に戻った由紀恵は泣き続けていた。


 「どうして? どうしてなの!

 今まで私は真面目に生きて来た。それなのに最愛の夫を亡くし、今度はあの人が、あの人が死んでしまうなんて!

 私は前世で悪い行いでもしたと言うの?

 もうイヤ! パリへ帰る!

 もう誰も愛さない! 恋なんてまっぴら!

 それに伸之には沙都子さんがいる。もう私の出る幕はないわ!」


 由紀恵はパリへ帰ることにした。




 早朝、由紀恵は荷物をまとめ、伸之たちの部屋のドアの下にメッセージカードを差し入れてホテルをチェックアウトした。



       パリへ帰ります

       お幸せに


     

           由紀恵





 朝食を食べようとふたりが部屋を出ようとした時、北川がカードに気付き、それを拾い上げた。


 「由紀恵さん?」

 「ああ、パリに帰ったらしい」

 「さびしい?」

 「まさか。彼女はただの知り合いだ」

 「いいの? 追い駆けなくても?」

 「何で俺が? メシ、食いに行くぞ」


 


 俺は殆ど食事には手を付けず、ビールばかりを飲んでいた。

 何か大切なものを失ったような気がした。


 「そんなにショックだったの? 彼女がいなくなったことが」

 「死んで行く俺にはもうショックなんてない。

 ただアイツは旦那に自殺されて精神的にボロボロだった。

 そしてようやく立ち直ってここへ来たんだ。

 それが気になっただけだ。

 所詮この世は幻だ。すべてが幻想なんだ。

 仏教真理が「空」であるようにだ。

 このビールもコンチネンタル・ブレックファーストもこのレストランもアントワープの街もすべてが幻なんだ。

 俺たちはその中で生かされている。

 人は事故や病気で死ぬんじゃない。神がお決めになった「寿命」で死ぬんだ。

 そして死ぬのは俺だけじゃない。あそこの老夫婦も恋人も、ビジネスマンもウエイターも、そしてお前もみんな必ず死ぬ。独り残らず絶対にだ。

 俺たちは裸で生まれた。そして裸で死んでゆく。

 カネもクルマも家も家族も恋人も親友も、そしてこの肉体さえもがすべてが天からのレンタルなんだ。

 そしてすべてをお返しして魂だけがあの世へと帰ってゆく。

 やがて生まれ変わり、また新たな人生が始まるんだ。

 魂の修行は永遠に続く。

 あの世に持って行けるのはこの世での記憶だけだ。

 ゆえに地獄か天国かは自分がして来た事、あるいは受けた事で作られる。

 つまり自分が作り出す想念の世界なんだ」

 

 沙都子のソーセージを切る手が止まった。

 彼女はボーイを呼んだ。


 「私にもこれと同じビールをくださらない?」

 「俺にも同じ物をくれ」

 「かしこまりました」


 ソーセージを食べ、沙都子は言った。


 「あなたの病気のこと、彼女に話したわよ」

 「そうか。それで彼女はなんて?」

 「馬鹿みたいに泣き叫んでいたわ。

 「そんなの絶対に信じない!」って」 

 「旦那が死んで、今度は俺だからな? 無理もない」

 「好きなんでしょ? 彼女のことが」

 「好きというより「気の毒」なだけだ」

 「それを普通は愛というのよ」






 俺と沙都子は腕を組んでアントワープの街を歩いた。

 まるで安っぽいイタリア映画のように。



 (せめて「さようなら」くらい言ってから行け。バカ野郎・・・)



 俺は由紀恵と別れた深い悲しみに沈んでいた。



 「アントワープって、素敵な街ね?」

 「俺はパリやロンドンよりもこの街が好きだ」

 「私も一度、新婚旅行でヨーロッパを訪れたことがあるけど、ここには古き良きヨーロッパの哀愁があるわ」

 「アントワープ大聖堂に行ってみるか?」

 「うん」




 大聖堂に近づくにつれ、あのジプシーの音楽が聴こえて来た。

 私の胸が高鳴った。


 グルン広場に着くと、あの時と同じジプシーたちが不思議な音楽を奏でていた。

 カラダが宙に浮き上がりそうだった。


 (由紀恵もせめてこの音楽だけでも聴いて帰れば良かったものを。馬鹿なヤツだ)


 

 演奏しているジプシーの前に、大きなスーツケースと佇む女が立っていた。

 由紀恵だった。

 彼女は泣いていた。


 「パリには帰らなかったのか?」


 驚いたように振り向き、慌てて涙を拭う由紀恵。


 「あはは パンダみたいな顔になってるぞ」

 「うるさいわね! 駅に行く途中に寄っただけよ!」


 彼女は泣きながらうれしそうに笑っていた。

 

 「パリへ帰る前に俺たちと一緒にメシでもどうだ?」

 「ご飯は食べたくない。でもお酒なら飲みたいかも」

 「その前にコイツにルーベンスを見せてやってくれないか?

 俺はあそこのカフェでこのデカいスーツケースを見張っているから」

 「ありがとう。それじゃ沙都子さん、中に入りましょうか?」

 「しっかり頼むわよ。ガイドさん」


 沙都子は笑っていた。



 

 「へえー、ここがあのネロとパトラッシュが天国に召された教会なのね? 

 あの人も天国に行けるといいのになあ」

 「何を言っているのよ。助けてあげるんでしょう? 彼のことを」

 「今はちょっと悩んでいる。

 彼の残りの人生を病院に閉じ込めて、それが彼にとって本当にいいことなのかどうか・・・。

 それより残りの人生を彼が思うまま、最期まで自由に楽しく好きなことをして過ごさせてあげる方がいいのかもしらない。あなたはどう思う?」

 「それは彼が決めることだと思う。私たちにそれを決める権利はないわ。

 だって彼の人生なんだから」

 「そうね。人の人生はどれだけ永く生きたかじゃない、「いかに生きたか?」だから。

 彼、あなたが突然いなくなって酷く落ち込んでいたのよ。

 悔しかった。ひっぱたいてやろうかと思った。自分を。

 どうして彼の気持ちをわかってあげなかったんだろうって。

 彼は猫になろうとしたんだと思う。私に自分が死ぬところを見せたくはなかったから日本を離れてアントワープまでやって来たというのに、私はその彼の思いやりを無視して彼を追い駆けて来てしまった。

 それは私のただの自己満足だったのかも知れない。

 正直、私には彼の死を見届ける勇気がないわ。

 あなたにはある? 彼の死を看取る自信が? 強さが?」

 

 由紀恵は『ムーズ川のマドンナ像』を見ながら呟いた。


 「私には自信も強さもない。でも最期まであの人の傍にいてあげたい。

 でも今はあなたがいる。それは私の役目ではないわ」

 「私、明日日本に帰ろうと思うの。

 あの人のこと、お願いしてもいいかしら?」

 「沙都子さん・・・」

 「あの人はもう私を愛してはいないわ。あの人が愛しているのは由紀恵さん、あなたよ。

 でも良かった。これであの人が死んでも少しは気が楽になるから。

 だって伸之は私を捨てた浮気者だもん」

 「それは違うと思う。あなたのことが本当に好きだから、愛していたからこそあなたの元を離れたんだと思う」

 「ありがとう、やさしいのね?

 あの人が惚れるわけだ。

 彼のこと、お願いね?」

 「任せて下さい。

 彼のことは私が最後まで見届けますから」

 

 ふたりは強く抱き合って泣いた。




 「どうだった? ルーベンスは?」

 「凄く良かったわ。泣いちゃうくらいにね?」

 「そうか、それは良かったな? それじゃあ「最期の晩餐」とするか?」

 「私、パリに帰るの辞めたの」

 「そうか? じゃあ最期じゃなくなったって訳だ」

 「ううん、やっぱり「最期の晩餐」よ。私のフェアウエル・パーティをしてよ。

 私、明日、日本に帰ることにしたから」

 「折角来たんだ、もう少しいればいいじゃないか?」

 「決心が鈍るといけないから、明日、帰ることにする」

 それからお金は貰うわよ、後で振り込んでおいてね?

 そのお金で贅沢に暮らすから。今度は若いイケメン君と一緒に」

 「ああ、わかった。後で銀行口座を教えろ。

 それじゃあ今夜は日本料理でさよならだ」

 「やはり私は日本食が好き。日本人だから」



 俺たちは吹雪の中、タクシーに乗った。


 


第11話

 その日本食レストランはゴシック建築の建物の一角にあった。

 靴を履いたサムライのような、少し違和感のある店だった。

 ロマンス・グレイの支配人が応対に出た。

 日本人のようだった。

 店内には微かに雅な箏曲が流れていた。

 

 「いらっしゃいませ。3名様でいらっしゃいますか?」

 「はい。良かった、日本人のお店なんですね?」

 「わたくしは福島の田舎者でございます。テーブル席の方がよろしいですか?」

 「いえ、カウンターでお願いします」


 俺は敢えてカウンター席を選んだ。

 それはこの3人でテーブルを囲むことに戸惑いがあったからだ。

 板前を交えて会話をすることで、暗い話になることを避けたかった。

 支配人は快くそれに応じてくれた。


 「それではこちらへどうぞ」

 「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいますか?」

 「日本のビールはありますか?」

 「アサヒとサッポロがございます」

 「それでは私はサッポロで。お前たちはどうする?」

 「同じ物で」

 「私もサッポロでいいわ。「女も黙ってSAPPOROビール」だから。あはははは」


 由紀恵が場を和ませてくれた。


 「かしこまりました」

 「彼女だけ魚卵系はNGですが、私たちは苦手な物はありません」

 「わかりました。ではおまかせでお出しいたします」

 「よろしくお願いします。まずは天ぷらと刺身の盛り合わせを下さい」

 「酢の物はありますか?」

 「酢蛸がございます」

 「ではそれも下さい。あなたたちはどうする?」


 沙都子が言った。


 「私にもお願いします」

 「それじゃあ私も。酢蛸なんて何年ぶりかしら?」


 由紀恵がうれしそうに言った。

 私たちはビールで乾杯をした。


 「ベルギーのビールも美味しいけど、やっぱり日本のサッポロビールは最高ね? ふーっつ」

 「私、Asahiのスーパードライも飲んでみたい」

 「私も私も。すみません、スーパードライもお願いします。

 伸之も飲むわよね?」

 「ああ」

 「かしこまりました」

 「何だか東京で飲んいるみたいね?」

 「本当ね? ここが日本から1万kmも離れているなんてウソみたい」

 「そろそろお寿司を握ってもよろしいですか?」

 「お願いします」



 最初は平目が供された。

 食材は日本の食品商社、明治屋からの物なのか? 日本の一流店となんら変わらない鮨飯のクオリティに安心した。

 シャリは重要だからだ。


 「美味しい。日本の板前さんはやっぱり凄いわ。

 パリに青い目をしたフランス人の板前さんがやっているお寿司屋さんがあるんだけど、そのご飯が硬くて餅米だったのよ」

 「外人には繊細で優美な日本料理は理解出来ないよ。

 それは俺たち日本人がワインやフランス料理の真髄がわからないのと同じだ」

 「やっぱり私は外国では暮らせないわね。食事が合わないもの。

 日本が一番。まだアントワープに来て2日目なのにね? うふっ」


 沙都子が寂しそうに呟いた。

 板長らしき30代の職人が、由紀恵に話し掛けて来た。


 「アントワープへはご旅行ですか?」

 「はい。姉夫婦と私と3人でやって来ました」


 由紀恵は咄嗟にそう答えた。

 この関係を他人に説明するのは大変だからだ。


 「そうでしたか。ここはとてもいいところですよ。

 歴史と伝統のある港町です。楽しんで行って下さいね?」

 「実は私たち、『フランダースの犬』のアントワープ大聖堂を見に来たんです。

 でもこちらではあまりあのアニメは有名ではないとお聞きしました」

 「そうおっしゃる日本の方は多いですね? 私も最初、こちらに来て驚きました。

 アントワープの人はみなさん、ネロとパトラッシュをご存知なのかと思っていましたから」

 「東京にはまだ和服を着て刀を差したサムライが歩いていると思っているのと同じかもしれないわね?」


 

 私たちは無難に「最期の晩餐」を終え、ホテルに戻った。

 俺と沙都子はベッドで冷たいカラダを重ねた。

 沙都子は冷え性、俺はガンになって体温が低くなっていた。

 沙都子は行為の最中に泣いていた。


 「ノブ、長生きしてね?」

 「あっちで先に待ってるから、なるべくゆっくり来ればいい」

 「一緒に行きたい。あなたと一緒に・・・」

 「そう焦ることはない。いずれお前にもその日は必ず訪れる。

 出会いと別れは常にワンセットなんだ」


 俺は沙都子の記憶を自分のカラダに刻み付けようと必死だった。


 「あっ、う、あ、あ・・・

 ノブ、愛して、いるって、言って」

 「愛しているよ、沙都子」


 

 俺たちの最後の夜は朝まで続いた。




 由紀恵とふたりで沙都子を空港まで見送った。



 「それじゃあ行くね?

 由紀恵さん、この人のこと、よろしくお願いします」

 「沙都子さんもお元気で。

 いつかまた会いましょう。今度は東京で」

 「うん。楽しみにしているわ。

 この人の悪口で盛り上がりましょうね?」

 「はい!」


 沙都子と由紀恵は抱き合って泣いた。

 まるで何年も前からの親友のように。

 俺はふたりの光景を見て、つくづく人の付き合いとは長さではなく深さ、「縁」なのだと感じていた。


 そして沙都子は俺に抱きつき熱い口づけをした。

 涙の味がする、最後のキスだった。

 俺も沙都子もお互いを強く抱き締め、別れを惜しんだ。


 「沙都子、今までありがとう。

 いつもお前を見守っているからな?」

 「さようなら、伸之」

 「元気でな? 沙都子」


 沙都子は振り返らずに出国ゲートに入って行った。


 由紀恵は私の手を強く握った。

 その手には覚悟の強さが込められていた。


 空港アナウンスが虚しく空港ロビーに響いていた。


 


第12話

 「とうとう行っちゃったね? 沙都子さん」


 俺は話題を逸らした。


 「何か食いに行くか?」

 「餃子でビールが飲みたい」

 「餃子はないかもしれないが、美味い中華の店ならあるから行ってみるか?」

 「うん、行く行く」


 由紀恵と俺はタクシーに乗ってアントワープ国際空港を後にした。




 由紀恵は珍しそうに『飾り窓』を見渡していた。


 「オランダのアムステルダムで見たことはあるけど、アントワープにもあるのね? 飾り窓」

 「ロッテルダムやドイツにもあるそうだ」

 「伸之も行ったことあるの? 飾り窓」

 「さあどうかな?」

 「こんなところに来なくても、これからは私がしてあげるからね?」

 「ほら着いたぞ。ここだ」


 俺はあの『飾り窓』のチャイニーズ・レストランに由紀恵を誘った。



 店のドアを開けるとあのドイツ人給仕が俺たちを出迎えてくれた。


 「再びのご来店、ありがとうございます」

 「覚えていてくれたのか? 今日はワイフを連れて来たんだ。この前勧めてくれたビールを頼む。

 それからあのビールに合うお勧め料理はあるかい?」

 「本日のお勧めは「ブロッコリーと海老のマヨネーズ・ソテー」がございます」

 「じゃあそれとあのヌードルを頼む」

 「かしこまりました」

 「餃子はあるか?」

 「ギョウザ? それは何でしょう?」

 「いいんだ。それじゃあ何か「揚物」があれば頼む」

 「ムール貝のフリッターはいかがです?」

 「じゃあそれを頼む」



 俺たちは料理が来る前に暖かい店内で冷えたビールを飲んだ。


 「沙都子さんから、「彼のこと、よろしくね?」って頼まれちゃった。

 だから今度は私が伸之の「愛人」だからよろしくね?」

 

 なぜ由紀恵に俺を託したのかは沙都子から聞いていた。

 

 「あなたを自由にしてあげる。あなたは大空を飛ぶ、イーグルだから」


 俺は話題を変えた。


 「旨いだろう? このビール」

 「以前ごちそうしてくれたビールよね? 確か「シメイ・レッド・トラピスト・ビール」だったかしら?」

 「よく覚えていたな?」

 「また飲みたいと思っていたから」

 「そうか。さっきの給仕に勧めてもらったビールなんだ」



 料理が運ばれて来た。


 「美味しそう! でもこれって確かにヌードルだけど「春雨」?」

 「その通り、春雨だ。

 でも意外に旨いんだ。スープはジャンがベースになっている」


 由紀恵が春雨を一口啜った。


 「美味しい! 何だかホッとする味」

 「俺たち日本人好みのスープだよな?」

 「うん!」


 かわいい女だと思った。

 

 (俺はこの美しい女に何をしてあげられるだろうか?

 俺に残された時間は少ない。

 今のこの幸福な一時を忘れないようにしたい)




 ホテルに戻って来た。


 「今度は一緒のお部屋だね?」

 

 由紀恵は俺にキスをした。それは濃厚なフレンチ・キスだった。

 俺たちは服を脱ぎ捨てベッドに上がった。


 「待って、シャワーを浴びて来る」

 「それじゃあ俺が先に浴びて来るよ」


 

 俺がシャワーを浴びていると、由紀恵がやって来た。


 「お邪魔しま~す」


 美しい均整のとれたカラダだった。

 

 「背中、洗ってあげるね?」


 由紀恵は俺の背中に回ると背後から手を伸ばし、俺の固くなったシンボルに触れた。


 「そこは背中じゃないぜ」

 「ふふっつ あら、間違えちゃった」


 由紀恵は戯けてみせた。

 石鹸をつけて、由紀恵が丹念に俺のそこを洗ってくれた。

 そしてシャワーでその部分の石鹸を流し終えると、それを咥え、頭を動かし始めた。

 知性と美貌、教養を兼ね備えた女の淫らな表情が俺の性欲を掻き立てる。

 由紀恵の口の中が熱い。


 「もうその程度でいいよ。イキそうだから」


 すると由紀恵は口からそれを離すと、上目遣いに俺を見て言った。


 「そのままお口に出してもいいわよ。飲んであげるから」

 「どうせ1回しか出来ない。もう俺も歳だから」

 「そう? じゃあ先に行って待っていて、すぐに行くから」



 由紀恵が白いバスローブを着てやって来た。

 俺たちの初めての戯れが始まった。

 俺は由紀恵にキスをして首筋に舌を這わせ、耳に熱い吐息を吹き掛けた。


 「あ、それいい、ゾクゾクしちゃう・・・」


 彼女のやわらかい乳房に触れ、俺は乳首を舌で転がした。

 より反応が鋭敏になって来た。

 下腹部に手を伸ばすと、すでにそこはかなり潤んでいた。


 「ずっとご無沙汰だったから・・・、やさしくしてね?」

 「自分ではしなかったのか?」

 「内緒」


 俺はまず、由紀恵の女の部分を丹念に舐めると、ぷっくりと突起したその部分の皮をやさしく剥いた。

 由紀恵のカラダが弓なりになった。


 「あ、うっ・・・」

 

 私はそこに自分を宛がうと、ゆっくりと挿入を開始した。


 「大丈夫か? 痛くないか?」

 

 由紀恵はゆっくりと頷いた。


 「うん、大丈夫。もっと奥まで欲しい・・・」


 俺はそれが彼女の子宮に到達したことを確認すると、そこで一旦停止をした。


 「動かすぞ」

 「ゆっくりね?」


 私は熱く濡れそぼったそこに強弱を加え、出し入れを繰り返した。

 由紀恵の顔とカラダがみるみる紅潮して来た。


 セックスとはカラダで行う男と女のコミュニケーションだ。

 相手の欲求を絶えずカラダから読み解かねばならない。

 女性経験の乏しい若い男のように、「どこがいいの?」なんて野暮なことは訊けやしない。

 相手が今、何を要求しているかを察知しなければならないのだ。


 由紀恵が少し腰を浮かせ、俺にその部分を押し当てて来た。

 それは由紀恵がさらなる快感を求めているというシグナルだった。

 私は更にその動くスピードを加速させた。

 

 「うれしい! 凄くいいの! 凄く! もっとちょうだい!」


 男と女は愛し合うために生まれて来た。

 男には凸があり、女には凹がある。

 つまり結合するための構造が、既に人類の誕生から備わっていたのだ。

 人は愛するために生まれた。

 そして人生の目的は自己の進化とその遺伝子の継承にある。

 セックスの持つ意味は深い。



 俺たちにクライマックスが近づいていた。


 「来そう、来そうなの! そのままお願い! 中に出して!」

 「沙都子っ・・・」


 その時、俺は無意識に沙都子の名前を口にしてしまった。

 俺は射精を断念し、由紀恵のカラダから離れた。


 「気にしないで。しょうがないわよ、伸之のその気持、私にも分かるから」

 「すまない」

 

 私のソコはみるみるうなだれていった。


 「私だって死んだ夫の名前を叫びそうになったもん。

 エアコンみたいに冷房モードを急に暖房モードになんて簡単には出来ないわよ。

 お互いに長く真剣に愛していたんだから。

 いいのよ、私と同じように沙都子さんのことも忘れずにずっと想ってあげて」


 由紀恵は私にやさしくキスをして、まるで母親のように私の頭を撫で、抱きしめてくれた。


 「明日のない俺でもいいのか?」

 「明日のない恋でも恋は恋よ。それに明日が来るかどうかなんて誰にもわからないじゃない?

 私は夫からそれを学んだわ」

 「不思議だよ、数日前に出会ったばかりなのに、ずっと前からお前と一緒だったような気がする」

 「私もよ。出会った時からそう感じたの、「この人が私の王子様だ」って」

 「俺は王子ではなく、かなりくたびれたロバだけどな?」

 「ロバさんなんかじゃないよ。私は伸之のことが大好きだから」

 「明日、一緒にロバを見に行かないか?」

 「どこへ?」

 「アントワープ動物園にだ」

 「いいわね? 動物園デート」


 俺は由紀恵の隣に横になり、由紀恵と手を繋いだ。


 「私たちの恋物語はもう始まっているのよ」

 「俺たちの物語の始まりかあ?」

 「そうよ、アントワープでの私たちの恋物語が始まったの。

 もう誰も止められないわ」


 俺たちはカラダを寄せ合い、静かに眠りに就いた。




第13話

 由紀恵は亡夫、和也の夢を見ていた。


 夫はパリの白い部屋で、沢山の鉢植えに水をやっていた。


 「ねえ、朝食の卵はどうする? 目玉焼き? それともスクランブルエッグ?」

 「由紀ちゃん、彼は辞めた方がいいよ。

 彼はもうすぐ死んでしまう」

 「彼って誰のこと? おかしな人」

 

 すると夫が伸之に変わった。


 「さようなら、由紀恵」

 「伸之!」

 


 目が覚めた。イヤな夢だった。

 隣で寝ている筈の北川の姿がない。


 「んっ! 伸之がいない!」


 由紀恵は慌てて身支度を整え、化粧もせずに北川を探しに出掛けようとした時、北川が戻って来た。


 「着替えてどこに行くんだ? すっぴんのままで」

 「一体どこに行っていたのよ! 凄く心配したんだから!

 伸之のバカ!」


 由紀恵は伸之に縋って泣いた。

 北川は焼き立てのバゲットを由紀恵に渡した。


 「ごめん、バゲットを買いに行ってたんだ。

 由紀恵にこの焼き立てのバゲットをどうしても食べさせたくて」

 「すごくいい香りがする」


 由紀恵はそのバゲットを千切り、食べた。


 「美味しい・・・。パリのバゲットより美味しいわ」

 「ゲーテは言った。「涙と共にパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」とな?

 だからお前は人生の味を知ったというわけだ。おめでとう」

 「人生の味って、素敵な小麦の味がするのね?」

 「旨いだろう? そのパン」


 由紀恵はまだ温かいバゲットを千切って、俺の口に入れてくれた。


 「うん、やっぱり旨いな? これ」

 「もう勝手にいなくならないでね?」

 「本当は一緒に行こうと思ったんだが、あまりにもよく眠っていたから俺一人で行って来たんだ。

 ごめん」

 「ありがとう。とっても美味しい」

 「今、コーヒーを淹れるよ」


 そんな朝から今日が始まった。




 アントワープ動物園はアントワープ中央駅に隣接していた。

 とても動物園には見えない外観だった。


 「動物園って、中央駅の隣にあったのね?

 何だか宮殿みたい」

 「このパンフレットによると、1843年に『王立動物学協会』として創設されたらしい。

 広さは10ヘクタール、8,000種類もの生き物がいるそうだ。

 とても全部は回り切れねえな?」

 「動物園というよりも巨大な庭園ね?」



 俺と由紀恵は園内を腕を組んで散策した。

 穏やかな冬の日だった。


 「ここには世界でもめずらしいオカピやコンゴ孔雀がいるらしい。

 アフリカのコンゴはベルギーの植民地だったからな?」

 「オカピって図鑑でも見たことがないわ」


 動物たちは多頭飼いされ、優美なクラシカル・ガーデンが続いていた。


 グレイト・エイプスの施設に入ると、ゴリラがいた。


 「うふっ なんだかあなたみたい。愛想がなくて」

 「俺はあんなに強そうじゃねえよ。どちらかと言うとチンパンジーだな?」

 「じゃあ私もメスのチンパンジーになる」

 「お前は白鳥だよ」


 (由紀恵、お前は白鳥だ。また北へと帰る白鳥だ)



 疲れたので『Grand Cafe Framing』でお茶にすることにした。

 吹き抜けのある大空間には天井まである大きな窓があり、ピンクのフラミンゴを見ながら俺たちはカフェ・オ・レを飲んだ。


 「フラミンゴって飛んで逃げないのかしら?」

 「フラミンゴは飛行機のように滑走路が必要らしい。

 飛び立つためにはかなりな助走がいる。

 だからここのフラミンゴは飛べない。

 日本の福島にもあるんだ。フラミンゴを見ながら食事が出来るレストランが」

 「そうなの?」

 「『メヒコ』という、カニピラフで有名な店だ。

 面倒な女と行くには丁度いい。カニピラフの蟹が殻付きなんだ。

 だから蟹の殻を剥いている時はお互い無口になるからだ」

 

 俺はその時、沙都子を思い出していた。

 以前、沙都子と東北を旅行した時、たまたま立ち寄った店が『メヒコ』だった。

 俺は沙都子のために、蟹の殻から身を取り出すのに夢中だった。


 「ありがとう。もういいからノブも食べて」




 「そのお店に沙都子さんと一緒に行った訳だ?」

 「俺ひとりの『孤独のグルメ』だよ」

 「ふふっ ウソばっかり。

 でもいいの。私も今、こうしてあなたとフラミンゴを見ながらお茶しているから。

 でも今度はそのお店で「カニピラフ」が食べたいけど。お茶じゃなく」


 由紀恵は俺を見ずに、フラミンゴを見ながらカフェ・オ・レを飲んでいた。

 綺麗なその横顔には憂いがあった。



 (怖い。このひとが死んでしまうなんて)


 

 俺は由紀恵がそんなことを考えていたなんて、その時夢にも思わなかった。

 



第14話

 ベッドでのピロートーク。

 俺は由紀恵の髪を撫でながら訊ねた。


 「歌うのはもう辞めたのか?」 

 「うん。だってもう歌えないんだもん」

 「そう決めつけるのはまだ早いんじゃないのか?

 歌えないのと「歌わない」のは違うと思うけどな?

 自分で限界を決めてどうする?

 お前が歌えないかどうかを決めるのは、お前のファンだ」


 由紀恵は俺の顎にそっと指を置いた。


 「そうかもしれないけど、もうプロとしてお金を貰って舞台に立つわけにはいかないわ。

 お客様がそれで納得しても、私が納得出来ない」

 「俺はお前が大聖堂で歌った、あの『Woman ~Wの悲劇~』のアカペラには感動したけどな?」

 「ありがとう。でもあの程度じゃ本当の私の歌じゃない。ちょっと歌の上手い素人と同じよ」

 「由紀恵は自分に厳しいんだな?

 ところでひとつお願いがあるんだ。もし俺が死んだら、グノーの『Ave Maria』を歌って欲しい」

 「じゃあその時まで練習しておくわ」

 「頼む。約束だ」

 「約束のキスして」


 俺は由紀恵にキスをした。


 


 霧の深い朝だった。

 俺たちは運河沿いを散歩していた。

 風がなく、水辺に並ぶ風車は止まったままだった。

 大きな貨物船がドックを通過して行った。


 「大きなお船ね?」

 「アントワープ港はヨーロッパ第2位の貿易港だからな? 干満の差が大きいからパナマ運河のようにドックで水を注水したり排水したりして、上がったり下がったりしながら出入港をするんだ」

 「この運河を作るのはさぞかし大変だったでしょうね?」 

 「白人のやることはスケールがデカいよな? 

 そろそろ寒くなって来たからホテルに戻るか?」

 「うん、何か温かい物が食べたい」


 俺は朝からあまり体調が優れなかった。


 

    ゲボッ ゲボッ



 突然ドス黒い血を吐いた。


 「伸之!」


 咄嗟に由紀恵が俺の口を手で塞ごうとしたが、その手の隙間から俺の吐く血が石畳に滴り落ちて行った。

 由紀恵はすぐに救急車を呼んだ。

 

 

 


 病院に救急搬送された俺にすぐに応急処置が施され、出血は止まった。

 処置をしてくれた老医師が問診を始めた。


 「何か既往症はありますか?」


 俺は診察台で抗生剤の点滴を受けながら言った。


 「末期の膵臓癌なんです」

 「・・・なるほど。その診断はいつ、どこで受けましたか?」

 「2ヶ月前に日本で受けました」

 「そうでしたか。一応、どの程度病気が進行しているか検査してみましょう」

 「お願いします」



 

 結果は予想していた通りだった。


 「痛みはかなり前からあったはずですが?」

 「そうですね」

 「いかがでしょう? 一度日本に帰国されては? 

 尊厳のある死をふる里で迎えるために。

 取り敢えず、少し症状が収まるまで入院していただくことになります。

 これからのことはよく考えて見て下さい」



 診察室の前で待っていた由紀恵が心配そうに俺に駆け寄って来た。


 「先生、何だって?」

 「ただの飲みすぎだそうだ。

 酒を控えろと言われたよ。

 数日で退院出来るそうだ」

 「ああ良かった。このまま死んじゃうのかと思っちゃった。

 それじゃあ私も今日から禁酒するね?」

 「お前はいいよ、俺に付き合うことはない」

 「ひとりで飲んでも美味しくないもん」



 (由紀恵。悪いがどうやら計画が少し早まりそうだ)





 翌朝、余程疲れていたのか、由紀恵は椅子に座ったまま、安心してよく眠っていた。

 俺は由紀恵に遺書を書き、病院を出た。

 俺の死に場所、アントワープ大聖堂へ向かうために。


 


 激しい吹雪の朝。俺はタクシーに乗り、大聖堂へと急いだ。

 頭の中ではモーツァルトの『レクイエム』が鳴り響いていた。



      主よ 彼らに永遠の安息を・・・

 

 



 由紀恵が目を覚ました。

 北川の点滴が残ったまま放置されていた。

 彼の姿がベッドになかった。

 ベッドの上にメモ紙が置かれていた。



 

     愛する由紀恵へ


     お前と出会えて本当に良かった。

     色々と楽しかったよ。ありがとう。

     おかげで俺は有意義な最後を送る事が出来た。

     感謝している。


     このキャッシュカードはお前へのお礼だ。

     暗証番号はお前と初めて出会った日の「1220」にしてある。

     パリで何か美味い物でも食ってくれ。


     それから歌は辞めるな。

     お前はみんなのDivaだから。


     さようなら、由紀恵。


                

               たくさんの愛を込めて 


                     北川伸之




 

 由紀恵は病院を飛び出し、タクシーで北川を追い駆けた。


 「アントワープ大聖堂まで。急いで!」


 タクシーは吹雪の中を走り出した。



 (伸之のバカ! いつも一緒だって言ったのに!)


 

 由紀恵の心は悲しみと焦りで軋んでいた。




最終回

 走馬灯のように流れてゆく沢山の思い出。

 幼かった俺と若かった両親。しあわせだった理恵との新婚生活、「パパーっ!」と走って来る悠輔と美咲、飼い犬のレイン。

 学生時代の親友、皿屋、佐藤、早野。そして沙都子と由紀恵。

 涙が止まらなかった。


 人は死ぬ間際、自分の人生の短編映画を観るというが、どうやらそれは本当らしい。

 映画のエンドロールは近い。 



 俺は吹雪の中、タクシーを降り、運転手に100ユーロ紙幣を1枚渡した。


 「釣りはいらない。チップだから取っておけ」


 運転手は歓喜し、俺にこう言った。


 「旦那。帰りも送りますぜ」

 「いいんだ。俺はここからまた旅に出るから」

 「日本人でもジョークは言えるんですね? 

 旦那、大聖堂からどこへ行くんです?」


 俺はそれには答えず杖をつき、最後のチカラを振り絞って大聖堂の前に立った。

 既に教会は開いていた。




 大聖堂の中に入ると、今度はシナトラの『My Way』が頭で鳴り始めた。




      And now, the end is near

And so I face the final curtain

My friend, I'll say it clear

I'll state my case of which I'm certain


I've lived a life

That's full

I've traveled each and every highway

And more,much more than this

I did it my way




 よく先輩とスナックに飲みにいくと、


 「北川、『My way』だけは50歳になるまでは歌うなよ。人生を振り返る歌だからな?」と言われた。


 私はゆっくりと踏みしめるように、中央の聖祭壇へと進んで行った。



 あのネロとパトラッシュが息絶えた場所まであと数メートルとなった時、うつ伏せに倒れ、杖が手から離れ、大理石の床を滑って行った。



 「あと、あともう少し・・・、あともう、少しだ・・・」



 その時、叫び声がした。

 由紀恵だった。


 

 「のぶゆきーっつ!」



 俺は再び、匍匐前進を始めた。


 

 「がんばって伸之! あともう少しよ!」



 それを不思議そうに見ている多くの参拝者たち。日本人のツアー客もいた。



 「あなた自身で進むのよ! 誰もあなたに手は貸せないの!

 あなたは自分のチカラで天国へ旅立たなければならない!」



 そしてようやくそこへ辿り着くと、俺は仰向けになった。



 「はあ はあ・・・」



 高いドーム天井が見えた。

 由紀恵がそこに座って倒れた俺を抱き寄せ、頬ずりをしてくれた。



 「よく頑張った、伸之、あなたは私のヒーローよ」

 「それじゃあお前は、俺のヒロインだな?

 なんだかとても眠いんだ。少し、このまま眠ってもいいか?

 今、凄くいい気分なんだ。

 ほら、ネロとパトラッシュが俺を迎えに・・・」

 「伸之? のぶゆきーーーーーーっ!」



 北川のカラダから魂が抜け、彼の魂が天国へと旅立って行った。



 「誰か救急車を!」

 「早く彼を病院へ!」


 人々は叫び、すぐに人集りが出来た。

 蘇生を試みようとする者もいた。

 由紀恵はそれを拒んだ。


 「止めて下さい。 彼はネロとパトラッシュのいる、天国へと召されました」



 そして由紀恵はゆっくりと立ち上がり、約束通り、グノーの『Ave Maria』を歌い始めた。




Ave Maria, toi qui fus mere sur cette terre,


Tu souffris commenous,・・・




 

 遂に由紀恵は北川との約束を果たした。



                   『アントワープ恋物語』完



      


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【完結】アントワープ恋物語(作品240120) 菊池昭仁 @landfall0810

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