第1話「鼻を啜るように、息を殺すように」

 澄川 龍輝すみかわ りゅうきは目を覚ます。

 救急車の音だった。

 カーテンを開くと、赤い光が目に飛び込んでくる。

「あ」

 反射的に声が漏れた。救急車が停まり、救急救命士が駆け込んでいくのは、道路を挟んだ向かい側、七瀬さんの家だ。

 大丈夫だろうか、あまり詳しくはないけれど、娘二人と両親が暮らす、四人家族だったはずだ。

 月明かりのみが灯りの暗い部屋に、人工の光がドアの隙間から差し込む。廊下の電気が付いたようだ。ドアが開き、そこから母親が顔を出す。

「あ、やっぱり起きてたのね」

 龍輝は母親の方に顔を向ける。

「そりゃ、この音じゃ」

 目線を窓の外に移す。

「そりゃそうよね。皆起きちゃったし、リビングでゲームでもしない?」

 龍輝は少し考える。忘れていたが次に日が昇れば土曜日だ。夜更かしは罪に当たらないのかもしれない。

 気づけば救急車は遠くへと行っており、外は相変わらずの雪と月明かりに包まれていた。

 冬の冷たいフローリングを裸足で乗り切り、カーペットが敷かれたリビングへ到着する。すでに父と兄は格闘ゲームを始めている。

「はー、そのキャラ攻撃発生早いって」

「おらおら!!降参してもいいんだぞ!ま、待ってその攻撃は聞いてない」

 父と兄はお互いに駄弁りながらコントローラーを握っている。日付が変わっているのに、よくそんなに騒ぐ元気があるものだ。

「そうえば、七瀬さん大丈夫かしら」

 母がそう呟く。空気が少し重くなった。

「大丈夫だろ、今朝出勤前に見たが、四人とも元気だったぞ」

 と、父。

「朝元気だったから今元気とは限らねぇだろ。人は五分で死ねる」

 兄が呟く。

 龍輝は特に喋ることもなくホットミルクを傾ける。できれば早く寝たいが、既に目が覚めてしまっている。

「なぁおいおい、これどうやって避けるんだよ」

 父はまたゲームについて呟く。暗い話題を必死に避けようとしているようだ。

 その後数時間に渡ってゲーム大会が催されたようだが、龍輝は眠気が来たので寝室に戻った。部屋に戻ると、雪雲はどこかへ行っており、先ほど開けたカーテンから月明かりが部屋に満ちている。

 冷たいような温かいような、温度はないはずの月光が、不思議と龍輝の心を満たしてくれた。


 その数日後。

 目が覚めた龍輝がリビングに行くと、七瀬姉妹が落ち着かない様子で椅子に座っていた。

「へ?」

 パジャマ姿の龍輝の気の抜けた声がリビングに響く。

「あらおはよう、七瀬さんたちが来てるのよ、今」

 母親が説明する。

 いや、見なくてもわかる。

「あ、おはよう。龍輝くん」

 姉の方――七瀬 愛虹ななせ あこが龍輝に向かって挨拶をする。

「え、あ。おはよう?」

 状況がつかめない龍輝は、母親と七瀬姉妹を順繰りに見ながら呟く。

 実は、愛虹と龍輝は、中学時代の同級生で、顔見知りで合った。

「ちょっと、母さん、これどういうこと」

 龍輝の目は母を捉えて、不安げに口にする。

「色々話すから、とりあえず七瀬ちゃんたちとご飯食べるわよ」

 龍輝の頭にははてなマークばかり浮かぶ。母親の強引さには毎度手を焼いていた。

 父は早朝から仕事だろう。兄は先日から合宿に行ってしまい、母、自分、七瀬姉妹の計四人で食卓を囲む。

 いつにない女性の割合で、混乱が一向に収まらない。

「それで、なんで七瀬はウチに来てるの」

 龍輝は疑問をそのまま質問に変換する。

 その質問には愛虹が答える。

「えっと、実は両親が自殺して、それで、アテがなくて」

 龍輝はその言葉を耳にした時、聞かなければよかったと即座に後悔する。彼女の言葉には悲しさ以上の感情が籠っている気がする。

 愛虹の方に視線を向けると、うつむいていた。

 母親が補足で説明する。

「七瀬ちゃんたちの祖父母から、少しの間面倒をみてやれないか、って言われたのよ。仕送りの準備ができ次第、なんとかするからって」

 龍輝はサラダを咀嚼しながら頷く。妹の方に目をやると、うつむきながらサラダを口に運んでいた。

「前の救急車、それ?」

 姉妹のどちらに聞いたでもないが、二人同時に頷く。

「そう……」

 その言葉しか、出てこなかった。

 彼女たちからすれば、ある日突然両親が消えてしまったのだ。混乱や悲しみが常駐して、できれば一人で居たいだろう。だが、生きるにはそれはできないのだ。

 彼女らは頼れる人間を探し、この家にたどり着いた。いわば、この家は最後の砦と言える。

「だから、数日面倒をみようと思って」

 母親の顔を見る。声は明るいがその顔と瞳は真剣そのものだった。

「えっと、ありがとうございます」

 泣き出しそうな声で愛虹が呟き、頭を下げる。

「ありがとうございます」

 続けて妹――七瀬 愛衣ななせ あいも頭を下げた。

 母親と龍輝は、そんな二人をなだめながら食事を続けた。


 食器を片付けた後、龍輝は思考を落ち着かせるために自室に戻る。

 混乱した自分への対応策は、十六年という今までの人生の中で、もう既に見つけていた。

 パソコンを起動し、お気に入りのフォルダの音楽を再生する。

 音楽を趣味としている龍輝は、自室にそれなりに高いスピーカーを装備している。ちなみに外への迷惑を考え壁には防音材が取り付けられている。

 好きな曲が流れる中、椅子に座り思考を巡らす。

 ――しばらく一緒に暮らす。

 龍輝は青春期真っただ中だ。そこに、一つ屋根の下、二人の少女が泊まるらしい。

 もちろん、彼女らの境遇もあるし、そんなこと考えている場合ではない。けれど、やはりいろいろ考えてしまうのが年頃というものだろう。

 目をつぶっている龍輝の耳を、音楽が通過していく。その中で一つ、音楽ではない音――ドアが開く音が聞こえ、龍輝は目を開いてドアへ視線を送る。

 七瀬愛虹の妹、愛衣が魅力的なおでこと目をドアの隙間からのぞかせている。

「どうしたの?」

「えっと、音楽が聞こえて、それで」

 愛衣の年齢は。確か愛虹と五歳差だったはずだ。つまり小学六年生か中学一年生。

 愛衣はあたふたした様子で、部屋の中へ一歩踏み出す。ドアが自重で勝手に締まり、音楽で満たされた空間が再び誕生する。

 龍輝はマウスを少し動かし、音楽のボリュームを調整する。お互いの声を認識できるように。

 龍輝は一息深呼吸をして、できるだけ柔らかく語り掛ける。

「この曲、知ってる?」

「えっと、お姉ちゃんがよく聞いてて」

「え、そうなの?」

 龍輝は目を丸くする。愛虹の音楽趣味に、このようなグループはないと思っていた。

「うん、いっぱい聞いてる」

 彼女の声には怯えが見えた。初対面の男の人に怯えているのだろう。

「愛衣ー?どこにいるのー、って、あ。」

 妹を探すために家を探索する姉が、ちょうど龍輝の部屋のドアノブを捻る。

「あ、龍輝くん。ごめんね今日は突然」

「いいや、俺は大丈夫だよ。そっちの方が大変でしょ」

 妹は、姉の方にすたすたと走っていき、足に抱き着く。

「うーん、まぁそうかも。でも澄川さんが受け入れてくれてよかった。家にも帰りやすいし」

 愛虹は窓の外を見て、自分の家の方へ視点を動かす。

 ウチってこんな見た目なんだ、と愛虹はつぶやいた。

「あ、そういえばこの曲」

 外を見ていた視線がスピーカーに移り、彼女の少し口角が少し上がる。

「知ってるんだ?」

 龍輝は尋ねる。

「うん、色々辛かった時に助けてくれた音楽だから」

 龍輝はその言葉で自分のことのようにうれしくなった。

「へぇ。奇遇だね。俺もだ」

 愛虹が振り返り、目が合う。彼女の口が微かに動く。

「今回も乗り越えられるといいな」

 愛虹の声は、音楽にかき消されるほど小さな声だったが、なぜか龍輝の耳にははっきりと聞こえた。


 その日の晩。空き部屋で七瀬姉妹が寝た頃、龍輝は母親に呼び出された。

「どうしたの」

 龍輝はぶっきらぼうに母親に呟く。彼自身も寝始めた頃に起こされたので、不満が募っていた。

「二人のことについて、少し話しておきたくて」

 心臓が跳ねる音が大きく聞こえた。

 いつもは笑っている母親の目が、今は冷たく清水のようだった。

「それで、今後泊まるかどうかはさておき、彼女たちはしばらくこの家にいると思うわ。それでね、貴方に限ってそんなことないと思うのだけど」

 母親の言わんとしていることが、龍輝にはよくわかった。

 異性が二人。家にいるというこの場で、息子の不貞を疑う気持ちは分かる。

 現に、昼間には同じ思考を龍輝自身が巡らせていたのだ。

「安心してよ母さん、愛虹らの気持ちは分かってる。向こうが安心できる環境作りを徹底するよ」

 龍輝は微笑みながらそう返事する。

 気づけば母親の冷たかった目は、いつの間にかハイライトが輝いている。

「ありがとう。あなたの言葉で安心したわ。こんな時間に起こしてごめんなさい。おやすみ」

 その言葉を聞き、龍輝はリビングを去る。

 その後母親はスマホを取り出し、父親に連絡をするそぶりを見せた。

 そういえば、父は数日出張だったことを思い出す。

 龍輝は寒く鋭い冷たさの廊下を歩く。救急車のサイレンが響いた数日前のように、月明かりが廊下を照らしている。

 七瀬姉妹が眠る部屋の前を通りかかる。特に意図はないが立ち止まる。

 微かな泣き声が聞こえる。二人分。

 一方は鼻を啜るように、もう一方は息を殺すように。

 龍輝は中の二人に聞こえない様に溜息をつき、また歩き出す。

 これからは自分自身の行動に気をつけなきゃいけないと、心に刻む。

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ミュージック・エンドマーク 猫山釐懿 @nekoyamarii

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