人間理解

ぽんぽん丸

人間理解

この陰気の漂う喫煙所で私はついに談笑することに成功した。


「俺はこんななりだし、ここの喫煙所で誰かに笑わせられるとは思わんかったよ」


男は骨に響くような野太い声で私にこの会話の終わりを告げながら、根元まで吸ったタバコを灰皿に入れた。私はそのタバコの短さをしめしめと眺めていた。


「こっちこそ、こんな楽しく話せるなんて思わなかった」


相手は190cmくらいの大男。男の手の中のタバコは私の吸うものより二回りは小さく見えた。ジーンズ生地のオーバーオールを着て髪はちりちりの長髪。黄色いカラコンをしていた。もちろん分厚い唇の端の方を円環のピアスが貫いているし、無論耳にも鼻筋にも銀の小さな球体がくっついている。きっともし男が全力を出せば私の生命を奪うこともできると思う。暑くなったこの季節に長袖を着ている点も私の中でであった。


昼間の繁華街の喫煙所にはこんな人が山ほどいる。その誰もが命を狙う敵に尾行でもされているのような険しい表情をしている。なんとなく、私はなんとなくいつか彼等を笑顔にしてみたかった。


私は本を読んだ。


表紙には生まれつき笑顔だったのかと思うような著者の写真がでかでか描かれたコミュニケーションの本はベストセラーというだけあって案外おもしろかった。おもしろいだけでなく大いに役に立ってしまった。


マッチングアプリも頑張った。


(;^ω^) 令和の時代にこういう顔文字を使うピンク髪で青カラコンの写真の人。本人の写真はなくクロミちゃんが変わりに自己紹介をしている人。自己アピールに自分がいかにデブでお金にだらしないかを書く人。私はまず関わらない人と文字での会話に励んだ。


そしてそれらが今日実を結んだのである。大男は私とのタバコ一本の間の友情に感謝を伝えて去っていった。


案外簡単なことだったのかもしれない。同じ時代、同じ場所に生まれ、同じ形をしたもの同士。笑顔にするなんて簡単なことなのかもしれない。


私は人間を理解した。


私はいつも怯えて歩いたこの繁華街を征服して手中に収めた気分になった。ホストクラブやぼったくり居酒屋がまるで合法だと言わんばかりにひしめき合う。そんな街に生きる人間だって無意味に笑っていたいのだ。


いやこの街だけではないのかもしれない。今なら誰に声をかけようとも笑わせてしまえるような全能感を感じた。私はきっとこの地球上の誰とだって笑い合える。


そこで私が足を止めたのは道端のゲロだった。鳩はそれをついばんでいた。そのすぐそばには若い黒髪の女性が屈みこんでいた。吐いてしまって自分の苦しさや情けなさに立ち上がれないのではないだろうか。


-私はこの人のことを笑わせられるだろうか?


自信に満ちて女性の近くに立った。すると女性は何かをささやいていた。私はさっき得た全能感を試したくて女性と同じ目線になるように屈みこんでその囁きに耳を傾けた。


「おいしい?おいしい?おいしい?おいしい?おいしい?」


女性は鳩に向かってゲロがおいしいか尋ねていた。私は途端に何を言えばいいのかわからなくなった。彼女は私の気配に気づいていて、おいしいと繰り返したまま鳩が歩くくらいの速度でこちらに向きなおった。


彼女には二つの目があった。ゲロに向かって前かがみだった彼女がこちらを向くと、その分距離は近づいて虹彩の筋が見えるほど近くにいた。その上にうっすら私の姿が反射していることまでわかる。つまり彼女が私を見ている。確かに彼女が私をみている。私は気温には関係なく汗をかいた。


彼女の口元は木が風に揺れるみたいに自然に動いて「おいしい?」と繰り返す。もう鳩ではなくて私に向けられているように感じた。質問に対する答えを、そもそも設問を私は持っていなかった。


私はすぐに逃げ出した。


先ほど得た全能感は私よりさきにどこかにいってしまっていた。彼女の目に吸い込まれる前に立ち上がってしまって駆け出した。


私が足を止めずに振り返ると、さっきの出来事がなかったように彼女がまたゲロをついばむ鳩に向かって囁いている姿が見えた。その姿を目に写すだけでもう届くはずのない小さな「おいしい?」という問いかけがまた鼓膜を振動させたように感じた。


私は足早に繁華街を出た。駅に向かって人の目を見ないようにいろいろな靴を見ながら駅へ向かった。急行で5駅ほどの距離にある自宅に向かう電車が3駅目を出た頃にようやく私は落ち着いた。


同じ時代、同じ場所に生まれて、同じ形をした異質。私はあの体の中にある彼女の意識について考え続けてしまう。あれから彼女は鳩に答えをもらったのだろうか?いや今もずっと聞き続けている。そんな気がした。


私はまた一つ人間を理解した。

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