SIDE-B 前略、笹岡倉穣一から殺人鬼へ

 窓越し、またあの夫婦が騒いでいる。相変わらず朝から騒々しい。角家の奥まった家、念願の新居に引っ越したにもかかわらず、笹岡倉ささくらおか穣一じょういちは憂鬱だった。妻ともようやく離婚でき、心機一転作家活動に邁進できる、と穣一思っていたのだ。


 離婚調停は意外と手間取り、妻に財産の七割を渡すことで合意できた。ミステリー作家としてのこれまでの功績は妻にもある。そういう点からも本来なら五割が妥当だが、将来に渡っての印税は妻の手に渡ることがない。そういった事情を組んで、二割積み増しの七割で合意したのだ。


 お金ならまた稼げばいい。「殺人鬼と四十四人目の被害者」は年間コレが怖いミステリーランク二十八位だった。じりじりと人気も高まっているし、三回目の重版もかかった。暗いことばかりじゃない、と穣一は前向きだった。この家を買うまでは。


 不動産屋からは、特に瑕疵かし物件、いわゆる事故物件とは聞かされていなかった。越してきたその日、スーパーまでの道を老婆に訊ねた。「あの家、ですか…息子さんかなにか?え、買われた?そうですか…」とそそくさと逃げるように、逃げた。逃げたのだ。


 あの家に引っ越してきた、あの家を買ったと言った日から。公園で子供を遊ばせていた主婦、コンビニの店員、工事現場の警備員、犬を散歩させていた若者、誰もが穣一を見ると逃げ出す。あの家に住んでいる男として、誰もが穣一を警戒していた。


 穣一が不動産屋を問い詰めると、あの家では老夫婦が惨殺されたと聞かされた。だが、疑わしきは罰せず、犯人らしい人物は特定できていたようだが、警察はそれ以上捜査を行わなかった。二十一世紀ならまだしも、いまは二十二世紀。人権擁護が活発な時代だからこそ、犯人は逮捕にまで至らない、その事実はミステリー作家である穣一のメシの種でもあった。


 地域の住民が自分を避けるのは、事故物件に住んでいるからだと理解すればいい。納得はできないものの、理屈はわかる。ここが作家の辛いところだ、と穣一は珈琲を淹れながらざわつく心を整えた。ハンドミルタイプの手で回して豆を挽く、このガリガリという音が唯一のなぐさみだった。


 さまざまな人物の心理を描くからこそ、理解できなくても「わかる」。自身の職業病をありがたいと思いつつも、作家でなければよかったと思うこともしばしばだ。妻が離婚を切り出した時も、夫婦の不破があったわけではないのに、妻の気持ちがわかった。きっとこんな曖昧で、どっちつかずの自分に愛想をつかしたのだと、穣一は反省してもしきれない悔やんでも悔やみきれない想いを抱えていた。「あなたの意見はどうなのよ?」妻の口癖だった。


 不動産屋との話し合いの結果、クーリングオフが適用されたが、穣一は住処を変えなかった。思いのほか、集中できる角家だったことが理由だった。 穣一を避けていた住民は、力業でほとぼりを冷ました。というのも、穣一はブログを開設し、家の前にブログのQRコード大きく看板上にして立てかけた。自己紹介の一環で、作家活動の宣伝も兼ねた。興味本位で家の前の写真が拡散され、QRコードも読み取られ、今の状況や作家活動、作品について丁寧な説明がなされていた。


 ブログトップの自己紹介文には、こう書かれていた。四十四人目の被害者は、誰だ!!「殺人鬼と四十四人目の被害者」でおなじみの笹岡倉穣一です。疑わしきは罰せず、証拠がなければ誰も捕まえることはできない!その紹介文の下にはテキストリンクで、「詳しくはこちら」とあり、クリックすると書籍販売ページにジャンプする仕掛けだった。


 変わり者の作家が引っ越してきた、そう理解した近隣住民たちは、穣一を避けることをやめ、むしろ町の有名人として取り扱った。一軒の家を除いて。それが、依田家だった。


 依田の家の前では、よく犬が死んでいた。穣一は角家かどいえで、依田の家と「カギかっこ」の “ 」 ” の形でつながっていた。横棒の方が穣一の家、縦棒の方が依田の家。穣一の家の二階からは、ちょうど依田の玄関門扉が見える。ここのところ三日に一回の頻度で、犬が死んでいる。   夜中に原稿を書いていると、どうも依田の妻らしい人物が犬の死骸を玄関に置いている。穣一は動画を撮影して証拠を残そうと試みたが、暗すぎて映らなかった。市役所や警察にも連絡したが、疑わしきは罰せず、の精神が浸透していて相手にしてくれない。 ある夜、依田の家ではまた玄関門扉の前でガサガサしていた。穣一は翌朝、証拠と言質をとるべく依田の家に行った。


 門扉の前には、新聞をかぶせられた物体。新聞には血のようなどす黒いシミが広く滲んでいた。手袋をして、新聞をめくる。首を斬られた犬だった。写真を撮り、一応の状況証拠を残す。処分されてからでは、そんなものはなかったといつでも言える。 玄関前の傘立てには、小さなナイフと斧が置かれていた。斧には血の跡がついていた。決定的な証拠になるかもしれないと思い、穣一はナイフと斧を手に取り、果敢にもチャイムを鳴らした。この証拠を突きつければ、依田夫妻も何か自白するかもしれない。


 ピンポーン!穣一はナイフを持った手でチャイムを鳴らした。ドアが開く。


 玄関から一直線、奥はキッチンのようだった。穣一の眼にはそう見えた。奥には、近隣の女子高の制服を着た少女が見えた。あの子は、家の前でQRコードを撮影していた子じゃないか?穣一はとっさに土足で玄関に上がり込んだ。少女の手が見えた。少女が監禁されている、ナイフを振り、斧をふるう。威嚇のいかくつもりだったが、怯んではいけないと穣一の勘が言っていた。


 この状況は間違いなく、監禁だと穣一は判断した。振り回したナイフは空を切り、斧は床に突き刺さった。その瞬間、前からフライパンが飛んできた。穣一はそこから意識を失った。依田慎太郎が斧を取り、穣一の首をめがけて振るった。斧は穣一の首に刺さった。そのまま穣一は完全に意識を失った。


 慎太郎は穣一に刺さった斧を抜き取らなかった。斧を下手に抜けば、辺りが血の海になるだけではなく、返り血を浴びると考えたからだ。


 薄れゆく意識のなかで、ポケットの財布から何かが奪われ、依田夫妻が何かを話しているのが穣一に聞こえた。どうも、穣一のことを殺人鬼だと思っているようだった。


 穣一は二人が家の中に帰っていくのを確認し、すぐさま腕時計型の電話で、警察に通報した。「首に斧が刺さっている、自分自身が証拠だ!」と伝えた。薄れゆく意識のなかで、穣一は最後の力を振り絞った。


 十分後、近くにいた警察官が一人でやって来た。捨てられるようにして置きっぱなしになっていた、犬の死骸と斧が刺さったままの穣一を確認。犬は死んでいたが、穣一はまだ脈があった。


「さ、殺、人鬼が、いる、よだ、ふたり、夫婦、おくに、じょしこうせ、い」穣一は意識を失った。


 警察官は救急車両と応援を要請した。間髪入れず、ドア越しにチャイムを鳴らす。


「警察です、依田さん、開けてください」 ドアがゆっくりと開く、依田慎太郎の顔がドア越しに見える。パンと乾いた音が響く。ドアを開けた右肩に命中。倒れ込む慎太郎を踏みつけ、そのまま、麻衣子にも銃弾を撃ち込む。パンと一撃。威嚇射撃なしで、同じく右肩に命中した。


 警察無線が鳴る。「けが人一名、笹岡倉穣一さん。残り被疑者、二名。正当防衛のため発砲。依田慎太郎・麻衣子らしき人物無力化に成功。二名とも意識あり。」「いま応援が向かっている、現地で待機。安全を確保せよ」とだけ、無線から返事があった。殺さなければおとがめはない、拳銃打ちたさに警察官になりたいものも増えていた。


 警察官が奥に人影を発見した。近隣の女子高の制服を着ている。警察官が駆け寄った。女子高生は、血の付いたナイフで警察官の脇腹を突き刺した。防刃チョッキの隙間にナイフが入り込む。警察官は倒れ込んだ。


「四十二、と」女子高生は倒れ込んだ警察官から拳銃を奪いとり、玄関に向かった。右肩を打たれた依田夫妻に近づいた。二人とも出血しているが息がある。無表情で、慎太郎に銃弾を放つ。「四十三、で」 麻衣子の後頭部めがけて、さらに一発。「四十四、やったぁ」


 女子高生は、拳銃の指紋を拭き取り、警察官の手に握らせた。 キッチンで警察官の無線が鳴り響いていた。女子高生はさっそうと玄関を出て、倒れ込む穣一にかけよった。「先生!サイン、ください」 女子高生が差し出した本は、「殺人鬼と四十四人目の被害者」だった。リュックからペンケースを取り出し、太い油性ペンを穣一に渡した。穣一は無理やりペンを握らされた。そのとき、首に刺さったままの斧に、女子高生のつま先が当たり、斧が抜けた。


穣一の首から大量の血が噴き出す。噴水のように、女子高生は返り血を浴びた。穣一は息絶えた。


「えー、これはノーカウントよね」


 昨日の夜、カバンに斧とナイフを入れたまま依田家に侵入してもよかったが、「殺人鬼と四十四人目の被害者」の主人公ならそうはしない。敢えて武器は手放す、“負けの状態から逆転する自分を楽しむ”ことを信条としている主人公に近づきたかったと女子高生は考えていた。


 持ってきたナイフと斧は忘れずに、カバンに入れた。どっちみち斧は抜いて持って帰らなければならなかった。穣一がサインしてくれれば、斧を抜かないという選択肢もあったかもしれないと、女子高生は妄想した。もっと作品を読みたかったと、女子高生はほんの少し残念な気持ちだった。


女子高生は着替えるために、自分の家へ帰って行った。歩いて30秒、依田の西側の隣家だった。


 証拠がなければ、罰することはできない。疑わしきは罰せず、良い時代に産まれてきたと、親や親たちの世代、学校の先生、政治家、学者たちに感謝しながらシャワーを浴び、冬服の制服のスカートと長袖のシャツに着替えた。もう依田さんはいない。あしたは、西隣の佐々木さんの家に、どの犬を置いておこうかと考えながら、学校へと向かった。自転車の後ろから風が吹く、追い風だった。


おわり

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【短編小説】隣の殺人鬼はノーカウント【SIDE-A/B】 西の海へさらり @shiokagen50

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