【完結】月うさぎ(作品230523)

菊池昭仁

月うさぎ

第1話 白昼夢

 病院の中庭のベンチで、私は噴水が作る虹を見ていた。

 時折吹き抜けていくそよ風に、その虹はオーロラのように揺れた。


 昨日受けた緊急手術で右脇腹がズキズキと痛んだ。まだカラダに力が入らない。

 私は点滴スタンドを引き摺りながら、少し怠け気味の太陽に自分を晒すためにここへやって来たのだった。


 元来、ペシミスティックな私には身寄りもなく、ひとりで暮らしていた。

 入院を知らせる者も、そして見舞いに訪れる者もいない。

 今まではそれで良かったが、こんな時は心細くなるものだ。

 このまま病院で死ねば私は無縁仏となり、集合墓地に葬られることになるだろう。

 こうして午後の光に包まれていると、魂が自分の肉体から離脱し、死神に迎えられてもいいとさえ思う。

 体に痛みはあるが、気持ちはとても穏やかだった。



 「おじさん、病気なの?」

 


 いつの間にか私のベンチの隣には、私の子供の頃に流行っていた仮面ライダーのパジャマを着た、小学一年生くらいのサラサラの髪をした男の子が座っていた。

 

 「ああ、そうだよ、おじさんは病気なんだ」

 「じゃあボクと同じだね? ボクも病気なんだ」

 「いつからこの病院にいるんだ?」

 「ずっと前からだよ」

 「そうか? この病院、メシは旨いよな?」

 「うん、ボクは朝ごはんの時に出る、ヤクルトジョアのマスカット味が好きだよ」

 「オジサンは鯖の味噌煮が好きだ」



 私は15年前に別れた、息子の孝明のことを思い出していた。

 孝明もこの子のように静かで大人しい子供だった。

 おもちゃを#強請__ねだ__#ることもなく、いつも静かに本を読んでいる子供だった。

 おそらくそれは、女房の陽子の影響だろう。陽子は読書が好きな女だった。


 陽子は物静かな女だった。

 いつも淡々として、感情を表に出すような女ではなかった。

 だがそんな彼女が感情を剥き出しにして、泣き叫びながら何度も私を叩いた。

 それは私の不倫を知った時だった。

 その時付き合っていた女が、陽子に私との離婚を迫ったのだ。


 「旦那さんと別れて下さい!」と。


 人間は良心というものを持って生まれて来る。

 それゆえ、罪を犯した者はその罪を隠蔽しようとする気持ちと、同時にその罪を告白したいという衝動に駆られるものだ。

 私は罰を受けることを選択し、女とも別れ、そして家族からも捨てられることになった。



 「おじさんはよくがんばったよ」

 「おじさんは全然がんばってなんかいないよ、家族も好きな人もみんな不幸にした。

 そしてどっちも失くしたんだ、おじさんは」

 「そうだね? でもしょうがないよ、それがおじさんの定めだから」

 

 振り向くと、もうそこに子供の姿はなかった。

 どうやら私は夢を見ていたようだった。

 まだ麻酔から完全に醒めていないのか、あるいは夢と現実とが混濁していたのかもしれい。

 

 どこから飛んで来たのか、気の早いモンシロチョウがひらひらと目の前を横切り、青空に溶けて消えた。


第2話 砂時計

 「室井さん、どう? まだ痛いですか?」


 手術をしてくれた担当の女医、#所沢蒔絵__ところざわまきえ__#が回診に来てくれた。


 所沢医師はテレビドラマに出てくるような若くて美しい女医だった。

 救命救急の担当医でもあり、まだ若いがそれなりに医者としての知識と経験は積んでいるようだった。

 専門は消化器外科で、こんな綺麗な女医に便の詰まった腸を切ってもらったのかと思うと、申し訳ない気がした。


 「看護師の元木さんから「術後は痛いでしょうけど頑張って歩いて下さいね」と言われたので、痛くても歩いていますよ、病院中を」

 「でも痛い時は我慢しないで下さいね。痛み止めのお薬を出しますか?」

 「じゃあお願いします」

 「ナースに渡しておきますね。痛い時に飲んで下さい」

 「ありがとうございます」

 「室井さん、この病院は初めてでしたよね?」

 「はい、毎日がヒマで死にそうです」

 「目が悪いから本や雑誌も疲れるでしょう? テレビやラジオも飽きるしね?」

 「糖尿で左目を失ってからは好きな本も読めなくなりました。皮肉なものです、こんなに時間があるのに」

 「私も旅行に行きたいなあと思っても、中々休みが取れない。折角休みが取れても行くのが面倒になって、ダラダラと休日が終わっちゃうのよね。うまくいかないものね?」


 この女医はたくさんの人の死を、自らの手で感じ取って来た医者だと思った。


 「室井さん、ちょっとお腹を見せてもらってもいい?」


 私はパジャマをたくし上げた。

 所沢医師は慎重に絆創膏を剥がし、縫合跡を確認した。


 「大丈夫ですね? 術後の経過は。

 お通じはどうですか?」

 「はい、朝方に1度」

 「そうですか? じゃあなるべく動いて下さいね、その方が回復も早いので」

 「わかりました。先生、手術をすると結構痛いものですね?」

 「そうですね? カラダを切るわけですからね」

 「戦国時代の人たちはさぞや痛かったでしょうね?

 温泉なんかで治るもんではないですよね? ばい菌が入ってそれで亡くなった人もいたんでしょうか?

 私はラッキーですよ、戦国時代に生まれず、所沢先生に手術してもらって」


 所沢医師は楽しそうに笑って言った。

 

 「お役に立てて良かったわ」

 

 だが、その笑顔はすぐに消えた。

 彼女は深い悲しみを秘めた、深い森に浮かぶ湖のような瞳で私を見詰め、オーケストラと協奏曲を弾き終えたバイオリニストのように病室を出て行った。



 この病室は4人部屋になっていた。

 カーテンで仕切られてはいるが、同室者たちはやることがないので、他人の話に興味深く聞き耳を立てていた。


 隣のベッドから軽い咳払いが聞こえた。

 私は窓際のベッドで良かったと思った。

 私のベッドからは東北新幹線が見えていた。

 前に訪れた旅の思い出が蘇る。

 私はリクライニングを起こし、腕に繋がれた3つの点滴から集まる薬液が滴り落ちる様を眺めていた。

 その雫が私には砂時計のようにも見えた。


 自分の余命を示す砂時計のように。


第3話 見舞客

 いつの間にか私は眠っていた。

 目が覚めると既に時計は昼の11時を過ぎていた。

 嫌な夢だった。


 大型自動車運搬船の三等航海士をしている私が、たくさんの大型船舶に囲まれて、本船の位置をロストしてしまい、窮地に立たされているという夢だった。


 私は二十代の頃に国際航路の航海士をしていた。

 航海士として船位をロストすることはもちろん、他の船舶との衝突や座礁など、絶対にあってはならないことだった。

 夢占いなどは信じない私ではあるが、自分が苦境の中にある時、よくこんな夢を見る。

 そしてまた今回もそんな夢を見た。


 死の恐怖が私の背中にピッタリと貼り付いているせいかもしれない。

 私はこの病院から生きて退院することが出来るのだろうか?

 私は病床から見える雲を目で追った。


 ある宗教家の話では、雲というのは人間に生まれ変わる前の姿だという。

 羊の形をした雲は、人間に生まれ変わる前は羊であり、象の形をした雲は、前世では象だったというのだ。

 自分の雲は人間の形をした雲なのだろうか? それとも私の次の転生は蟻なのかもしれない。


 そんなことを考えながら、私は加藤登紀子の歌を思い出していた。


       

        空を飛ぼうなんて 悲しい話を


        いつまで考えて いるのさ


        あの人が突然 戻ったらなんて


        いつまで考えて いるのさ


        暗い土の上に 叩きつけられても


        懲りもせずに空を 見ている


        凍るような声で 別れを言われても


        懲りもせずに信じてる 信じてる


        ああ 人は昔々 鳥だったのかもしれないね


        こんなにも こんなにも 空が恋しい



 最初、人間には翼があったのかもしれない。

 その昔、翼は退化して消えてしまったのだ。

 本当は人間には天使のように翼が生えていたはずだと私は思う。

 翼がなくなってしまったのは、人間が空を飛ぶことを諦めてしまったからなのだと。


 蟻は昆虫学的には蜂と同じ分類になるらしい。

 ほとんどの蟻には針もなく、羽根も消えた。


 それは蟻が外敵を傷付けることをしなくなり、毒針が退化して、這いつくばって餌を確保することで空を飛ぶ必要がなくなり、羽根も退化したのだそうだ。

 私の命も役目を終え、生きる必要がなくなりつつあるのだろうか?


 そんなことをぼんやりと考えていると、久美子が見舞に来てくれた。

 久美子にだけは入院したことを告げ、入院に必要な物を依頼したのだった。


 「大変だったわね? 救急車で運ばれるなんて。まだ痛い? 手術したばかりだもんね? 取り敢えず、着替えとか必要な物を持って来たから。

 他に何か必要な物があったら言ってね?」

 

 久美子は大きな紙袋を両手に下げて見舞いに来てくれた。



 「悪いな、忙しいのに」

 「全然平気よ。でもびっくりしたわ、救急車で運ばれたなんて言うから」


 久美子はベージュのスプリングコートを脱ぐと。幾何学模様の春物のワンピースを着ていた。

 ショートボブがとても似合っていた。

 少し大きめの金のイヤリングには見覚えがあった。それは私が以前、久美子にプレゼントした物だった。

 久美子とは付き合って三年になる。

 彼女は私との結婚を望んだが、私はそれを拒絶した。

 それは私の寿命が長くはないと感じていたからだ。



 「悪いけど靴下を履かせてくれないか? 痛くて手が届かないんだ」

 「お安い御用よ、この靴下でいいの?」

 「ああ、すまないな?」

 

 私は幼い頃から母親に靴下を履かせてもらった記憶がない。

 そして今、私は靴下さえも自分で履くことが出来なくなってしまっていた。


 久美子の柔らかく温かい手が自分の足に触れた時、私は嗚咽した。

 私はこの時、不謹慎にも「このまま死ねたら、どんなにいいだろう」と考えていたからだ。



 その時、点滴を交換するためにナースの#横河梢__よこかわこずえ__#がやって来た。


 

 「あら室井さん、奥様ですか?」

 「いえ、彼女です」

 

 私がそう言うと、久美子は寂しそうに笑った。


 「すみませんが面会は午後1時からになっているので。次回からは気を付けて下さいね?」

 「あらごめんなさい、気が付かなくて」

 「ごめんなさいね? 今、院内感染とか色々と問題になっているので」

 「わかりました。今度から気を付けます」

 「すみませんでした、横河さん。私が彼女にそれを伝えていなくて」

 「でも安心しました。室井さんにもこんな美人な彼女さんがいて。うふっ。

 「俺には誰も知り合いはいない」なんて悲しいことを言うから、心配していたんですよ。まったくもう」


 梢はてきぱきと点滴を交換し、部屋を出て行った。


 昼食の配膳が始まったようだった。配膳車が近づいて来る音が聞こえた。


 「じゃあ私も何か食べて、また午後から来るわね?」

 「今日はもう帰っていいよ。わざわざどうもありがとう」

 「大丈夫? じゃあまた明日来るわね? ゆっくり治してね。欲しい物があればLINEして頂戴」 

 「ありがとう、気をつけてな」

 「うん、お大事にね」


 久美子は私の手を握り、寂しそうに微笑んで病室を後にした。


 私の好きな、スズランのコロンの香りを残して。



第4話 卑しい嫉妬

 昼食を終え、春雨のように緩慢に落ちてゆく点滴を眺めていると、突然廊下でナースの梢が叫ぶ声が聞こえた。


 「壁際を歩かないで! ウンチが転がっていますから!」


 どうしてウンチが廊下に転がっているのか、私にはその原因がすぐに予想出来た。

 そんなことをするのは、このフロアには1人しかいない。

 おそらくそれは、403号室の個室に入院している、80歳を超えた痴呆老人の仕業だ。

 名前は知らないが、いつも1日に何度かは暴れ、喚き、病院スタッフを困らせていた。

 どうやら自分の糞便を廊下に投げ捨てたらしい。



 「ああ、ダメダメ、そっちにはまだウンチがあるかも! こっちを歩いて!」

 「梢ちゃんも大変だね?」


 大腸がんで入院している香川が梢を労わっているようだった。


 「大丈夫、慣れてるから。あはははは」


 冷たい病院の廊下に、梢の屈託のない明るい笑い声が響いていた。


 看護師の仕事は過酷だ。

 ギリギリの人員、不規則な勤務に加え、様々な難題が幾つも、あるいは同時に降り掛かって来る。

 やって当然、失敗すれば将来も失いかねない命を扱う仕事だからだ。


 体力の消耗、崩壊寸前の精神状態の中で、ストレスという泥沼の中で働いている。

 だが、それに対する報酬は少しばかり高い給料と、患者の笑顔だけだった。

 看護師という使命感がなければとても務まる仕事ではない。


 私の中学時代の同級生、歌川は国立大学の医学部の教授をしている。

 彼とはいつも、1番、2番を競う成績だった。

 ただ違っていたのは彼が裕福な開業医の息子で、私は大学に進学することも許されない、貧しい家庭の子供だということだった。


 私が30歳の時、母が地元の総合病院に胆石で入院した。

 その病院で、私は偶然、医者になった歌川と遭遇した。


 「おう、室井じゃないか? お前は全然変わらないな? 誰か入院しているのか?」

 「おふくろが明日、この病院で手術なんだ」


 歌川は白衣を羽織り、首には聴診器を掛けていた。

 私にはそんな彼が疎ましかった。

 

 (変わらないよ俺は。今も燻ぶったままだ。俺もお前と同じように医者になれたかもしれないのに)


 私は彼の出世を妬んだ。


 「そうか? それは心配だな? 担当の先生によく言っておくよ」

 「ありがとう」

 「じゃあ、またな」


 そう言って歌川は足早にその場を去って行った。


 私はホッとした。

 歌川に対する自分のジェラシーを、見破られるのが悔しかったからだ。




 母の病室に行くと、ナースが母親と話していた。


 「さっき歌川に会ったよ、ここの医者をしているらしい」

 「歌川君って、お前と中学の時に同級生だったあの歌川君かい?」

 「ああ、そうだよ、立派な医者になっていたよ、俺と違って」

 

 私は皮肉を込めて母にそう言った。



 「お前は成績が良かったのにごめんね、大学にも出してやれなくて・・・」

 「室井さん、歌川先生と同級生だったんですか?」

 「彼はクラスの出世頭ですよ」


 私は心にもないことを言った。


 「ペンシルバニア大学での研修を終えて、短期ですけどうちの病院の消化器外科の先生をしていただいています。とても評判のいい先生ですよ、患者さん想いの」

 「彼、そんなに評判がいいんですか、歌川は?」

 「ええ、先日も便秘で苦しんでいた、少しボケたお婆ちゃんの肛門に指を入れて、便を手で掻き出してあげていたんですよ。「辛かったよね? 辛かったよね?」って言いながら。

 そんなのドクターが直接やることじゃないですからね?」


 私は歌川を見直した。

 中学の時、私に1番を取られると、「親父に叱られる」と半べそをかいていた歌川がである。

 その時私は自分の卑屈な心を恥じた。





 梢が検温にやって来た。


 「室井さん、検温のお時間ですよ~」


 梢は私に体温計を渡した。


 「さっきは大変でしたね?」

 「ああ、聞こえてましたか? ウンコ事件」

 「頭が下がりますよ、梢さんには」

 「仕事ですから」


 検温終了のアラームが鳴り、体温計を梢に渡した。


 「35.8℃ね?」


 その病は体温が下がるが、梢は明るく言ってのけた。


 「辛いでしょうけど動いて下さいね? お通じはどうですか?」

 「はい、今日は2回」

 「そうでしたか? じゃあまた寝る前に検温に来ますね?」

 「よろしくお願いします」



 安っぽいネオンサインのように、窓の外を夜の新幹線が走り抜けて行った。


第5話 元医者だった男

 今日は珍しく、四床ともカーテンが開けられていた。

 病院の少し早い夕食が始まっていた。

 隣のベッドの川崎が話しを始めた。

 

 「ここの病院はメシが旨いよな?

 前の病院は最悪だったよ、いかにも病院食って感じでさ。

 女房も心配してよ、ふりかけとか缶詰とか差し入れてくれたもんだ。 

 「言われた通り作りました」って食事だったが、ここはうめえよ、ホントに」


 川崎は還暦を少し過ぎたような男だった。

 だいぶ長く入院しているようで、一日置きくらいに家族が代わる代わる見舞いに来ていた。


 「そうですよね? ここの管理栄養士さんがいいのか、調理の人の腕がいいのかはわかりませんが、病院食とは思えないクオリティですよ。

 しかもこの金額で。

 これなら街にお店が出せるレベルですよね?」


 そう川上が言った。

 川上は三十歳くらいの細身で、見舞いに来る奥さんや両親、同僚の話から推測すると、自動車メーカーの工場で三交代勤務で働いているようだった。

 私と同じ窓際のベッドだったので、よく外の景色を眺めていた。

 少しぽっちゃりした奥さんと、幼稚園くらいの娘さんが毎日のように来ていた。


 「そうだよなあ、飽きねえもんな、ここの食事は」


 川崎もそれに同調した。


 だが、出入り口のベッドの磯崎だけは、私たちの会話に加わろうとはしなかった。

 

 昨日、手術を終えたばかりの磯崎はまだ辛そうで、重湯にも手を付けてはいなかった。

 私は彼に自分と同じ匂いを感じていた。

 磯崎と私は、多分同じいくらいの年齢のはずだ。手術後だというのに、誰も見舞いに来る者はいなかった。


 「室井さんはどこが悪いの?」


 川崎が箸を動かしながら私に尋ねた。


 「大腸です。まさか手術した後がこんなに痛いとは思いませんでした。ちょっと切っただけなんですけどね?

 傷口が痛みますよ」

 「俺も何度も切ったが、慣れるもんじゃねえよ、術後の痛みは」


 その時、黒縁のメガネをかけた研修医と、小太りの指導医が磯崎のところにやって来た。


 「食事はまだ無理ですか? 痛みます? 磯崎さん?」


 磯崎はそれに答えようとはしなかった。

 だが、磯崎の次の言葉で病室が凍り付いた。


 「ヘボ医者」


 憮然として怒りに震える若い研修医。

 指導医の方は慣れた口調でこう言った。


 「何かお気に召さないことでもありましたか? 磯崎先生」

 「明日、退院するぞ。どうせお前らには治せやしない。俺でも無理なんだからな?」


 研修医の態度が変わった。


 「磯崎さん、ドクターだったんですか?」

 「昔の話だ。だが、お前らよりは腕はいい。

 だからもういいんだ、最後くらい自由にさせろ。

 ここは大学病院じゃねえんだから」

 

 ふたりの医師は困惑していた。


 「とにかく今は安静にしていて下さい。

 明日から経過観察になりますので、よろしくお願いします」


 そう言ってふたりの医者は出て行った。


 どうやら磯崎は医師だったようだ。


 しかも余命の少ない・・・。


第6話 愛しき亡霊

 ナースステーションの隣にある談話室の自動販売機で、私は缶コーヒーを買った。


 普段はあまり珈琲など飲まない私だったが、落ち込んだ心を癒す為にこの香りが欲しかったのだ。

 談話室の窓の外を、新幹線が通り過ぎて行った。

 早くここを出て、あの新幹線に乗って旅に出たいと、私は缶コーヒーを飲みながら、ぼんやりと考えていた。



 「おじさんはあの新幹線に乗って、どこに行きたい?」


 先日、中庭で出会った子供が私に話し掛けて来た。

 私は驚きも恐れもしなかった。


 「お前、死神か?

 俺を迎えに来たんだろう? いいよ別に、もうこの世に未練はないから。

 俺はもう疲れたんだ、生きていることに」


 私は#項垂__うなだ__#れて缶コーヒーを見詰めた。


 すると少年は微笑んで言った。


 「おじさんは好き勝手に生きたもんね? でもいいんだよ、それで。

 おじさんは多くの人を傷付けたけど、それ以上に自分も沢山傷付いたんだから」

 「いや、俺は傷付いてなんかいない。俺はただの弱虫さ」

 「弱くない人間なんていないよ、みんな悩みながら苦しみながら生きているんだから」

 「お前は誰なんだ?」

 「もう忘れたの? 僕は小さい頃のおじさんだよ」


 その時、ナースステーションの前の薄暗いエレベーターホールから、こっちを見ている中年の男女が立っていた。

 私は心臓が止まりそうだった。

 それは紛れもなく、死んだ若い頃の両親の姿だったからだ。


 「親父、お袋・・・」

 

 だがふたりは、黙って私を見ているだけだった。


 「おじさん、それじゃあまたね? パパとママが待っているからボク行くね?」

 

 幼い頃の私は両親の亡霊と共にエレベーターに消えた。



 私が呆然とエレベーターを見詰めていると、ナースの梢が怪訝そうな顔で私に話し掛けて来た。


 「室井さん、どうかしたの? 気分でも悪い? 顔色が真っ青だけど? 血圧、測りましょうか?」

 「大丈夫です。ベッドに戻りますね?」


 私は点滴スタンドを杖代わりに、病室へと戻って行った。



 あれは幻覚なのか幽霊なのか、私は寂しい気持ちになっていた。

 何も言わない私の両親に。





 朝の6時、梢が検温にやって来て私は目を覚ました。


 「おはようございます室井さん。検温の時間です」


 私は梢から体温計を受け取り、それを脇の下に挟んだ。


 ピピッとアラーム音が鳴り、体温計を梢に渡した。


 「36.2℃ですね? そういえば昨日の夕方、ボーっとしていたようでしたけど、何か考え事でもしていたんですか?」

 「いつ、ここを退院出来るのかなあと思ってね?」

 「早く帰りたいですよね? お家に」

 「まあ、ここもいいけどね? 食事は美味しいし、スタッフの人たちも親切だし」

 「検査の結果次第ですよ」

 「うん」




 所沢医師が見慣れない、日焼けしたアスリートのような精悍な医師と一緒に回診にやって来た。


 「初めまして、心臓外科の大西です。少しよろしいですか?」

 「はい」

 「先日の心エコーの検査で、室井さんの心臓に問題があるのが判明しました」

 「心筋梗塞ですよね?」

 「ご存知でしたか? 今現在、室井さんの心臓は40%しか機能していません。

 心臓カテーテルを挿入して狭窄している血管をステントで拡張してはいかがでしょうか?」

 「それをしたところで壊死した心筋が再生するわけではありませんよね?」

 「残念ながらおっしゃる通りです」

 「申し訳ありませんがこのままで結構です、このままで」


 所沢医師と大西医師は憐れむように私を見ていた。


 「よく検討してみてください。また参ります」



 だがそれ以来、大西医師がこの病室に来ることはなかった。


 私は気分を変えるため、点滴スタンドを引き摺りながら、中庭に向かって病室を出て行った。


第7話 女神

 「室井さん、起きてます?」


 朝6時、いつものように梢が検温と血圧測定にやって来た。

 梢の声にはいつものような力がなく、彼女の瞼は泣き腫らしていた。

 

 「おはよう。夜中、バタバタしていたようだけど、大丈夫だったの? あの爺さんは?」

 「ダメだったの・・・」


 梢はそう呟き、私に体温計を渡した。


 「36.8℃。じゃあ血圧を測りますね?」


 梢は私の腕に血圧測定器を装着した。

 梢の手の温もりが切なかった。


 「あの爺さんは幸せだったと思うよ。美人看護師に最期を看取ってもらえて。

 いい人生だったよ、爺さんは。

 大金持ちも貧乏人も、偉い奴もそうじゃない奴も、最後の死に様がそいつの生き様だからな。

 あの爺さんはきっといい人だったんだろうな?」

 「私もそう思う。あの人はやさしい人だったわ。

 ボケると感情が剥き出しになるでしょう?

 でもね、誰でもそうなる可能性はある。

 だから私は「自分がボケたらこうなるんだろうなあ」ってお世話していたの。

 なんだか卒業生を送り出した担任の先生の気分」


 そう言って、梢はまた涙ぐんだ。

 

 「ウンチを投げつけられてもか?」

 「だってそれでお給料をいただいているんですよ。

 仕事ですよそれは。どうせ食べたカスだし」

 

 梢は寂しそうに笑った。

 彼女は私の測定したデータを測定表に記録した。


 「梢さん、俺も看取ってくれるかな?」

 「いいですよ。でもその頃は私もおばあちゃんになっているかもしれませんけどね? うふふ」

 「そんなに長くはないよ、多分俺は」


 俺は吐き捨てるように白い天井を見ていた。

 気まずい沈黙が流れた。



 「私、生まれつき股関節に異常があってね? 今も医大で治療を継続しているのよ。

 だからこの仕事も結構辛いんだけど、私をずっと看てくれていたナースさんが大好きでね、それで私も看護師になろうと思ったの。

 私、その看護師さんだと痛い注射も我慢出来た。

 私たちはドクターじゃないけど、患者さんの不安や痛みを笑顔に変えることが出来る。

 だからこの仕事が好きなんです。

 だってそんな私を救ってくれたのがそのナースさんだったから。

 私も同じような看護師になりたい。まだまだですけどね?」

 「そうだったんだ。

 良かったよ、私の担当が梢さんで。

 患者の痛みや気持ちが理解できる看護師は少ないからね?」


 いつも明るくニコニコしている彼女にも、そんなカラダで激務をこなしていたのだ。

 私は投げ遣りな自分を恥じた。



 彼女は幸せだと思う。

 自分の仕事に明確な使命感を持って働いているからだ。

 人生を豊かに生きるとは「生き甲斐」なのだから。

 彼女はこれから益々いいナースになっていくことだろう。


 清らかな朝日が梢の顔を輝かせていた。


 私は女神を見ているようだった。


第8話 春の予感

 術後の身体を動かすため、私は点滴スタンドを引き摺りながら、病院の中をダラダラと徘徊していた。

 すれ違う老人たち。

 当然のことだが、病院には老人が多く入院している。


 昔、日本には姥捨て山という風習があったそうだが、現代の姥捨て山は病院なのかもしれない。

 日本の完璧な老人医療制度に守られた老人たちが、病気やケガを治しにやってくる。

 ここは温泉と娯楽のないホテルのようだった。

 

 身体的苦痛は伴うが、友だちも出来て、病院関係者たちとも親しくなり、食事も上げ膳据え膳だ。

 テレビやラジオ、本や雑誌を読んでいればあっと言う間に一日が過ぎてゆく。

 家族からは厄介者扱いされている老人も、病院生活は快適だとも言える。


 果たして人生にも賞味期限はあるのだろうか?

 若い時には自分が年老いて、病気になることなど考えもしない。

 20代、30代、40代と、どんどん人生は加速されて行く。

 気が付けば髪も白くなり、艶々だった肌もシミやたるみ、皺が出てくる。

 病院通いも次第に多くなり、周りの人間関係も変化していく。

 久しぶりに会う同級生たちを見て、「老けたなあ」と思う時がある。

 だがそれが自分の姿だとは気付かない。

 定年を迎え、職場では管理的な仕事をしていた夫は、家の中ではやることがない。

 少しでも多く金を稼ごうと、出世レースを懸命に走り、子供の教育も家のこともすべて女房任せ。

 やがて子供は成長し、家を出てゆく。

 家には父親も夫も消え、寝室が別々の「夫婦」という名の同居人同士の「シェアハウス」が出来あがってしまうのだ。

 そして女房に纏わり付こうとする夫。

 スーパーで買い物をしている老夫婦は、決して楽しそうな夫婦ばかりではない。

 「濡れ落ち葉」とはよく言ったものだ。


 信長の時代の人生は50年だったが、今ではその倍の「人生100年」といわれるようになった。

 社会から邪魔者扱いされたまま、カラダも衰え、僅かばかりの年金で老後を過ごす。

 これはある意味「生き地獄」だ。

 それでも人生を生きる価値はあるのだろうか?

 85歳の老人に、延命治療は必要なのだろうか?

 そんなどうでもいい事を考えながら、私はいつの間にか中庭にやって来た。

 

 ベンチに座り、私は空を見上げた。

 午後の陽射しが眩しい。



 「今日も天気がいいね? 素敵なお日様の匂いがする。

 おじさん、まだ痛い?」


 また、子供の頃の私が傍にいた。


 「なあ、人間の価値ってなんだ? カネか? 地位か? 権力か?

 今の俺に生きる価値はあるのか?」

 「人はね、何もしなくても生きているだけで価値があるんだよ。

 この世に必要のない人間なんてひとりもいないよ。

 必要ないと、自分で勝手に思い込んでいるだけなんだ。

 大会社の社長さんは価値があって、八百屋のオジサンは価値がないの?

 東大を出た人には価値があって、小学校しか出ていない人は人間として劣っているの?

 人間は「物」じゃないんだ、価値として考えること自体おかしいよ。

 人は裸で生まれ、裸で死んで行くんだよ。

 どんなに沢山のお金があって、どんなに権力があろうとも、あの世ではみんな同じなんだよ。

 すべてがリセットされてしまう。「ゼロ」になってしまうんだ。

 それなのにどうして人間は、上を目指して他人と競争したがるんだろうね?

 もっといい家、もっといいクルマ、いい大学、綺麗な奥さん、素敵なご主人。

 バッグに宝石、ブランド物の服に美食・・・。

 でもその為に努力することは決して悪いことじゃない。

 欲は人を向上させるチカラを持っているからね。

 欲は人を成長させるんだよ。

 だけどそれにはルールがあるんだ。

 それが「#恕__じょ__#」だよ。

 自分がされたくないことは、それを人にしない。 

 自分がして欲しい事は、他人にそれをしてあげる。

 つまり、思い遣りを持って生きるということなんだ」

 「今日はパパとママは来ないのか?」

 「今日は来ないよ。パパもママもおじさんに会いたがっていたから、きっともうすぐ会えるよ」


 そして子供の自分は消えた。


 庭の桜の蕾が綻びかけていた。


 そこには春の予感が潜んでいた。


第9話 屋上でタバコを吸う女

 採血室にはたくさんの病人たちで溢れていた。

 5つある採血ブースはすべて埋まっている。


 ようやく私の順番が回って来た。

 私は担当の検査技師に整理券を渡した。

 その検査技師は30才前後の美しい女で、ひときわ目立っていた。

 髪をアップにして止め、少し憂いを秘めた聡明な表情をした女だった。


 「生年月日とお名前をお願いします」

 「昭和37年8月10日。室井洋一郎です」

 「ありがとうございます。では親指を強く握って下さい。

 本日は三本採血させていただきます。少しチクッとしますね」

 

  いつ針を刺したのかさえ気付かないほど、彼女は私の静脈を正確に捉えた。

 ドス黒い血が試験管の中に溜まっていく。


 「私の血は真っ黒ですね?」

 「みんな同じですよ、静脈の血液はこれが普通です」


 その技師は初めて笑ってみせた。眩しいほどの笑顔だった。

 まるで雲間から突然現れた、雨上がりの太陽のように。


 ネームプレートには「今野路子」と記されていた。


 「技師さんに流れている血は、おそらくロゼワインのような血液なんでしょうね?」

 「ふふっ、室井さんよりもっと黒いですよ」


 3本の採血が終了した。


 「5分ほど、押えていて下さい」


 絆創膏を貼ってくれたその手はとても冷たかった。


 「ありがとうございました」

 「お大事に」


 混雑していたので、私はすぐにその場を離れた。




 昼食を終え、気晴らしに屋上へ出ると路子がタバコを吸っていた。

 邪魔されたくはないだろうと思い、私は話し掛けずに階段を下りて行こうとした。

 すると彼女の方から呼び止められた。


 「ごめんなさいね、気を遣わせちゃって。

 禁煙を勧める技師のくせに、自分からタバコなんか吸って」

 「いえ、外の空気が吸いたかっただけですから、どこでもいいんです。暇潰しですから」

 「そうね、今日はとてもいいお天気だから」


 路子は缶コーヒーに吸いかけのタバコを落とした。


 「すいません、せっかくの休憩時間を邪魔してしまって」

 「ううん、全然」

 「さっきはありがとうございました。

 採血、全然痛くありませんでした。注射や点滴の時もあなたにしてもらいたいくらいですよ」

 「うふっ、それはどうも。でも臨床検査技師は注射は出来ない決まりなの、残念ながら採血だけ」

 「学校を出てからずっとこの病院なんですか?」

 「いいえ、半年前からよ」

 「そうだったんですか?」

 「私、前の病院から追い出されちゃったの」


 路子の顔が曇った。


 「・・・」

 「私の父が殺されたの。その病院の医療ミスで」


 私は戸惑った。聞いてはいけないことを聞いた気がしたからだ。


 「医療過誤ですか?」

 「ええ」


 採血をしただけの患者の私に、路子は衝撃的な事実を打ち明けてくれた。


 「まだ初期の大腸がんだったので、内視鏡でガンを切除したんだけど、術後、すごく痛がってね。

 その時の大腸の縫合が悪く、腹腔内に便が漏れてしまっていたらしく、すぐに開腹手術したんだけどそれっきり。父は病院に殺されたのよ」

 「医療知識と病院内部をよく知っているから大変でしたね?

 そして病院を告発して裁判に?」

 「私と母は院長と事務長に呼ばれて多少の「口止め料」を渡されてそれで終わり。そしてこの病院を紹介されたという訳」

 「テレビドラマみたいな話ですね?」

 「それ以上よ。その時事務長から言われたわ、「まさか医療裁判なんて考えていないよね? そうなると君を雇う病院はどこにもなくなるということはわかっているよね?」とも脅された」

 「最低だな? その病院」

 「そんな話、ざらにあるわよ」


 すると彼女はタバコを取り出し、再び火を点けた。


 「ごめんなさいね、ヘンな話をして」


 彼女は私に煙がいかないように顔を背けて煙を吐いた。


 「私にもタバコを1本、貰えませんか?」

 

 路子は私にタバコを差し出し、火を点けてくれた。


 「タバコはこの病院に来てから吸うようになったの。不安と悲しみと憎しみを抑えるために」


 路子の目から涙が溢れて落ちた。

 そして彼女は声を上げて泣いた。

 私はこれほど悲しい女の泪を見たことがなかった。

 彼女は左手でネットフェンスをギュッと掴んだ。


 「ごめんなさいね、こんな話を聞かせてしまって。う、ううっ・・・」

 「大変だったんですね? 今野さんも」

 「不思議なの、知り合いでもないあなたに、どうしてこんなに素直になれるのかが。でも何故かあなたには聞いて欲しかった」

 「今野さん、またここにタバコを吸いに来てもいいですか?」


 路子はコクリと頷き、タバコを消して階段を下りていった。



第10話 磯崎の過去

 誰も見舞いに来なかった磯崎のところに女がやって来た。

 凛としたその女には、私服ではあるが医者の雰囲気が漂っていた。

 微かにクレゾール石鹸の匂いがした。



 「どうして知らせてくれなかったの?

 たまたま医学部の私の同期がこの病院にいたから、それで教えてくれたのよ。

 あなたがオペをしてここに入院しているって」

 「帰れ! お前とは何も話すことはない!

 もう俺は医者じゃないんだ! 俺のことはもうかまうな!」

 「ドクターを辞めてもあなたは私の大切なひとよ」

 「とっとと将来のある、優秀な金持ちイケメンドクターとでも結婚しろ! 

 冴子にはこんな落ちぶれた死にぞこないは似合わねえ!

 帰ってくれ!」

 「ごめんなさいね、突然押しかけて。また来るわね。

 でも安心した、あなたの居場所が分かって。

 何か必要なものはない?」

 「早く帰れ!」

 「それじゃお大事に」


 女は病室を出て行った。




 私が談話室で缶コーヒーを飲んでいると、磯崎がやって来た。

 彼はお茶を買い、私の隣に座った。

 

 「さっきはうるさくしてすまなかった。

 アンタ、どこが悪いんだ?」


 磯崎はそう言ってお茶を啜った。


 「心筋梗塞に左目を失明し、そして今度は悪性腫瘍も見つかりました。

 もう笑うしかありませんよ、そして腎臓透析も時間の問題だそうです。

 私は病気の「総合商社」ですよ」

 「アンタ、独身か? 家族とか来ていないようだが」

 「バツイチです。それが唯一の救いでもありますけどね。

 家族に迷惑を掛けずに済んでいますから」

 「俺もあんたと同じようなもんだ。患者の家族から「母ちゃんを返せ」って言われ、訴訟になった。

 それを病院は示談にした。

 俺はそれ以来、メスの握れない外科医になったというわけだ。

 そして俺は医者を辞めた。

 俺もアンタと同じだ。自分の専門外だがあと2, 3か月と言ったところだ。

 医者の俺でも最初は怖かったし絶望もした。でも不思議なものだ、自分の死期が近づくにつれて、穏やかになっていく自分がいる」

 「私もそうでした。最初は絶望しました。自殺も考えました。「どうして俺が」なんて。

 でも今は、私も磯崎さんと同じ気持ちです。

 さっきの人、綺麗な人ですね? 女医さんですか?」

 「馬鹿な女だ。死んで行く俺にわざわざ会いに来るなんて。

 アイツは小児科医なんだ。大人を助けられないのも辛いが、それが子供の場合には、この世の地獄を見せられる。

 小児科医になる奴はどうかしているよ。余程の医者としての崇高な使命感がないと務まらない。

 アイツの場合は「誰もやらないから私がやる」というタイプだがな」

 「大変なお仕事ですね? 遣り甲斐はあっても」


 磯崎は天井を仰いだ。


 「遣り甲斐かあー、そうなのかもしれないなあ。

 俺の場合は野戦病院の医者のようなもんだった。次から次へと運ばれて来る、重症な患者たち。まるで患者がベルトコンベアで流れて来るようにも思えた。

 カルテは症状だけを確認し、いつの間にか患者の名前すら見なくなっている自分がいた。

 昼間は外来で夜はオペ、やっと家に帰ったかと思うと患者の容態が急変したと病院から連絡が入る。

 患者は助けることが出来ず、気持ちの整理が出来ぬまま、死亡診断書を書いていると、休む間もなくまたすぐに外来だ。

 俺はいつの間にか病気だけを診る医者になっていた。人を診る医者ではなく」


 

 翌日、磯崎はひとり黙って病院を去って行った。


 俺のサイドテーブルに缶コーヒーだけを置いて。


第11話 慕情

 久美子と私は談話室にいた。


 窓の外を新幹線が通り過ぎて行く。それは今までの私の人生のように、あっと言う間に過ぎ去って行った。

 人生が短いのではない。人生の終わりが近づいているからそう感じるのだろう。


 人生は良い思い出と嫌な思い出の半分半分で出来ている。

 歳を取るにつれ、嫌な思い出は消去されていくのだ。

 私の場合は50年の人生の中で、忘れてしまいたい記憶の半分が消され、かろうじてバランスが保たれているという状態だった。

 それは神からの死にゆく者への配慮だろう。

 嫌な思い出は現世に置いて、魂の世界に帰って来なさいという神の御心なのだ。



 「まだ痛む?」

 「だいぶ良くなったよ、久美子、色々とありがとう。お前には世話になった」

 「ねえ、退院したら一緒に暮らさない?」

 「退院出来たらそれもいいかもしれないな?」


 私は適当な返事をした。


 「退院出来るに決まっているでしょう? 変なこと言わないでよ」


 私は少し温くなったブラックコーヒーを飲んだ。

 今日は珈琲の味も人生の味も、甘い方がいいと思った。


 「俺たち、付き合って何年になるかなあ?」

 「出会ってからだとそうね、もう15年になるかしら?

 付き合うようになってからは10年だけど」

 「もうそんなに経つのか? よく我慢してついて来てくれたよな? こんな我儘な俺と」

 「ホント、自分でも不思議。喧嘩して「もう二度と会うもんか!」と思っても、朝が来るとまた会いたくなっちゃう。若い頃は外見に惹かれるものだろうけど、オバサンになると、その人そのものに魅力を感じてしまう。

 「あれしてこれして」の要求から、「あれもしてあげたいこれもしてあげたい」という奉仕の感情になるから厄介なのよね? 大人の恋は」

 「もう俺には何もない。ただの老いぼれだ。

 どんどん弱っていくだけの死に損ないだ」

 「それでもいいの、私がちゃんと介護して、看取ってあげる。

 ご飯も食べさせてあげるし、オムツも交換してあげるから安心して」

 「久美子はどうかしているよ、お前ならもっといい男と付き合えるのに。

 財産も何もない俺と付き合ってもなんの得にもならないのに」

 「そうかもね。でもね、人生って損得で生きるものじゃないでしょう?

 私は自分が納得出来る人生を送りたいだけ」

 「こんな俺と生活して、それが納得のいく人生なのか?」

 「そうよ、私にとってはそれが納得のいく人生なの」

 「馬鹿な女だ。だからお前はいつまでも幸せになれないんだ。

 人生は自分にとって都合の良い方を選ぶべきなんだ。相手のことなど考えなくてもいい。

 現にみんなそうして生きているじゃないか? 損か得かだけで」

 「いいの、私は馬鹿な女で。年を重ねるといろんなことが見えてくるわ。

 就職だって私の頃は航空会社とか百貨店、保険会社が人気だったけど、今は厳しくなっているでしょう?

 結局、お給料や待遇、ステイタスで仕事を選ぶべきじゃないのよ。

 つまりは自分が何をしたいかでしょう?

 人生は条件で選ぶものじゃないわ、自分が好きな方を選べばいいのよ。

 だってそれならどんなことがあっても平気でしょ? 自分が好きで選んだ人生なら」

 「そうやって生きて来た結果がお前の目の前にいるこの俺だ。

 こんな俺がしあわせそうに見えるか?」

 「しあわせそうには見えないけど、「しあわせにしてあげたいと思う人」よ。

 放ってはおけない人」

 「感謝しているよ、久美子には。

 でもな? 傍から見ると不幸に見える人生でも、俺は自分の人生を不幸だと思ったことはない。

 久美子が言うように、「自分で選んだ人生」だからだ、後悔はない」

 「結婚なんて望まない。それでも洋一郎と一緒にいたいの。

 退院したら一緒に暮らそうよ、約束して」

 「退院したらな・・・」


 それが久美子と私が交わした、最後の言葉になった。


最終話 春の陽だまり

 ふと目が覚めた。

 時計は深夜の2時過ぎだった。

 ベッドの傍らに幼い頃の自分が立っていた。


 「おじさん、今までご苦労様でした。

 辛い人生だったよね? でもおじさんの人生は輝いていたよ。

 多くの人に支えられ、愛されていたおじさん。

 ただ、おじさんはそれに気が付かなかっただけなんだ」

 「そうだな、俺の人生はいい人生だったと思うよ。

 多くの人たちに支えられ、愛された人生だった。

 その恩返しは何も出来なかったけどな」

 「しょうがないよ。それは来世で償えばいいんだから。

 とにかくおじさんは天寿命を全うしたんだ」

 「死んだら俺はどうなるんだ?」

 「死んだらね、あの世でこう聞かれるんだよ。

  

    楽しい人生だったかい? 

    お前は何をして、何をしてもらった?


 ってね?

 大金持ちも貧乏人も、大学教授も無学の人も、みんな最後は平等に裁きを受けるんだ。

 地位も名誉も財産も、恋人も家族もみんな、すべてはこの世の幻なのに。

 神様からのレンタル品なの、全部。

 それなのにそれらを多く与えられた人ほど、もっとたくさんのお金や物、愛欲を欲しがる。

 他人と競い、争い奪い、他人を蹴落とし支配しようとする。

 実に哀れだよね? そう思わない? おじさん。

 でもおじさんはそれをしなかった。偉いと思うよ。

 どうせ最期はみんな、すべてを剥奪されて死の星に帰るのにね。ふふふっ。

 この世には自分という魂を向上させるためにやって来たんだから。

 そして魂を穢した者はその罪を贖い、魂を向上させた者はより高いステージへと導かれるという訳さ。

 ねっ、簡単なお話でしょ?」

 「じゃあ俺は地獄行きだな? 人に嫌な事ばかりして来たし、たくさんの人たちに迷惑を掛けてしまったから」

 「それは死ねばわかることだよ」



 そう言って子供が消えた。私はベッドに横たわっている自分を天井から見下ろしていた。

 どうやらこれが幽体離脱というものらしい。



 所沢医師や梢たちが必死に私を蘇生しようとしてくれている。


 「室井さん! 室井さん! まだ早いわよ! お願い戻って来て!」

 「室井さん! 室井さん! 行っちゃだめー!」


 私の心臓は再び動くことはなかった。


 (ありがとう先生、梢ちゃん)




 気が付くと私は満開の桜並木の前にいた。

 桜が美しく、まるで液体の中を沈んで行くように、たくさんの桜の花びらが落ちてゆく。


 「じゃあおじさん、行こうか?」


 幼い私が私と手を繋いだ。

 それは#紅葉__もみじ__#のように小さく、温かい手だった。


 桜のトンネルの真ん中あたりに来ると、川が流れていた。

 向こう岸には父と母、そして私と親しかった人たち、大好きだった犬のレオンがいた。

 みんなが微笑みながら俺を手招きしている。


 いつの間にか子供の姿は消え、私は川の前に立っていた。


 「迎えに来てくれてありがとう、今、そっちに行きますから」


 私は大きく手を振り、船頭に船賃を渡し、三途の川の渡し船に乗った。

 私の心は春の陽だまりのように安らかだった。

            

                        『月うさぎ』完



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【完結】月うさぎ(作品230523) 菊池昭仁 @landfall0810

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