第6話 予想外の再会相手
新たな闖入者にフレイヤは思わず両目を瞠っていた。
(あの人は図書館の!? でも変装していたし気付いてない……よね?)
呆気として見ていたら目が合ってにこりとされた。さすがに微笑みを返したりはしないが。
「……どなたですか?」
どなた。フレイヤは素性を知らないのでこの質問に嘘はない。
ただ、わざと彼女が初対面っぽく問えば、彼はテーブルを回ってフレイヤの傍へと歩いてきた。
「何があったのかは詮索しないけど、自分を傷付けるのは良くないよ」
そう言いつつ青年はフレイヤの血塗れの方の手を開かせて握り込んでいたカップの取っ手部分を取り除く。彼は慎重に傷口と小さな破片の有無も確かめた。
ようやく正常に痛みを思い出して口元を引き結ぶフレイヤに、彼は「痛いだろうけど少し我慢してね」と仄かに微笑むと、何と彼女の手袋を手早く外して彼の綺麗なハンカチを傷に当てた。
「え、あの!?」
「動かさないで」
ピシャリと言われ思わず従ったが遠慮も拒絶もする暇はなかった。くるくると手に巻き付ける一連はテキパキとして手当てに手慣れている者のそれで、フレイヤは彼のような綺麗な男が他人の血に汚れるのに躊躇わないのを意外な感心とどこか奇妙な感覚で以て見据えた。
『――ヘスは、すぐに怪我をする』
前世、貧民街でそう言って窘めながら同じように世話を焼いてくれたのはミゲルだ。
(こんな上等なシルクじゃなかったけどね)
この青年の見た目も、おそらくは社交的だろう性格も、ミゲルとは全く違うのに何故かふと思い出してしまった。
半分伏せられた瞼の繊細な銀の睫が長い。
その下の鮮やかな青い瞳は秘境の湖のように澄んでいて綺麗だ。図書館でも思っていたが彼は独特のふわりとした空気を纏っている。馴染みやすく、そこも一見すると綺麗だが硬質さを連想させたミゲルとは違う。
(何か、女の子みたい……って何を変なとこに着目してるんだか。それに顔は綺麗だけど全然女の子じゃないし。中身は知らないけど見た目はこんな立派な男性に女の子みたいなんてちぐはぐ、私ってば自分でも結構混乱しているみたいね)
何年も昔、フレイヤがどこかの子の誕生パーティーに行った折に名前を偽っていた女の子がいたのだ。
嘘の有無しかわからないフレイヤに少し年上だったその子の本名までを知る術はなかったが、随分と綺羅な子だったのは何となく覚えている。
混乱したのは髪や目の色の特徴がその女の子とよく似ていてふと思い出したせいだろう。
友人でもなかったので今はどうしているのか知らないが、あの子に兄がいたなら目の前の青年のようかもしれない。
僅かな時間だが、黙って手を動かす青年を止める者は誰もなく、フレイヤ自身も含めて不思議と全員が手当てを見守った。
どこか彼の決定した行いを邪魔できない空気が流れていた。
彼は最後にハンカチの端を結ぶと目線を上げる。
「はい、応急処置だけどできたよ」
「あ、どうもありがとうこざいます。ハンカチも」
「そのハンカチは君にあげる。代わりの品を返そうとなんてしないでいいからね」
「ええと……はい、ご厚意に感謝します」
「どういたしまして」
ここでイケメンからの親身な手当てに感謝感激して微笑んでやる程前世持ちのニューフレイヤはお人好しではない。しかし手当てのためにとは言え予告なく手袋を外されて憤る程狭量でもない。
加えて、大きく警戒をしなかったのはヴィンセントの連れだと察していたからだ。少なくとも不審者ではないだろう。
「ところでフレイヤ・アイスフォード嬢、お久しぶりだね」
「は、い? お久しぶり……?」
青年はフレイヤの名を呼んだ。
それもフルネームで。
ヴィンセントも驚いた顔をした。彼もよもやフレイヤが留学先のルームメイトと知り合いだとは考えもしなかったのだろう。
「僕の顔を忘れた?」
(まっまさか図書館での事を言ってるの? あの伊達眼鏡女が私だって見破ったの? あ、髪の色から? でもどうして名乗ってないのに名前まで? ヴィンセント様が教えた、とか? うん、そうかもしれない)
「……ええと」
とは言え、皆の前でナンパの常套句同然のものを吐かれ、どういう態度でいればいいのか判断が付かない。遅かれ早かれ破談にするつもりだがこれでもまだ一応は婚約者の前なのだ。不利にならない破談のためにもフレイヤの非になるリスクある言動は避けたいのが本音。ついさっきは自棄っぽくなってしまったが、基本的にニューフレイヤは冷静なのだ。
とは言え、青年はどう見てもヴィンセントの客人だ。テキトーにあしらいたいが今は立場的に余計なリスクは冒せないというジレンマ。
加えて、彼が誰なのか全く見当も付かない。
「ああそりゃあ何年も会っていなかったんだし、覚えていないか」
「え、何年も……?」
そうすると可能性のある相手すら浮かんではこず、益々謎は深まるばかり。
「でも残念だなあ、覚えてくれていなかったなんて」
「す、すみません。記憶力が乏しいみたいで。せめてどこで会ったのか教えて頂けますか?」
「子供の頃のパーティーだったかな。どのパーティーだったのかは、君が当ててみて?」
「パーティー……」
「ああでも子供の頃の僕はお世辞にもカッコ良いとは言えないから、思い出しても僕達二人だけの秘密にしておいてほしいな」
「カッコ良くない……」
無意識に呟きつつフレイヤは彼の瞳を見つめ記憶を手繰ってみて、唐突にはっとした。
(え、でもあの子は……――女の子)
フレイヤが他の令嬢達と距離ができた最も初めのきっかけ、その出来事の中心だったのがとある銀の髪の少女だ。さっきもちらと思い出した。
現在目の前にいるのは明らかに、男。
(うーん、だとすると心当たりはないなあ。申し訳ないけど覚えていないってハッキリ言うしかないわよね)
「ごめんなさい。思い出せないです」
気まずげに告げるフレイヤへと青年は落胆するでも不機嫌になるでもなくにっこりした。
「そっか。残念。まあいいさ。秘密は秘密のままの方がわくわくするものだしね?」
微苦笑して意味深に唇の前で人差し指を立てた。謎やミステリーは確かに人の心を擽るがそれはあくまでもフィクションの中での話だとフレイヤは考える。
(えーと、こういう気障な美形は食えない奴だと昔から相場が決まっているのよね。それに、今の言い様からすると、どうしてかこっちが思い出せないのを確信していたんだわ。……この人ってもしかして割と性格悪い?)
無駄に会話を長引かせたくないフレイヤは明確な返答は避けて曖昧に微笑んで首を傾げるだけにした。
けれど二人は傍から見れば親しげに見えたかもしれない。
その時ヴィンセントが微かに口元を引き結んだが、彼自身無意識にしていたそれは妹のキーラ以外は気付かなかった。小さく腕を引かれて彼はハッと我に返って不思議そうに妹を見やる。キーラは不満そうにしかけたところで笑みで取り繕った。
フレイヤはフレイヤで警戒心を引き上げて謎の青年を見据える。
(はあもう、ヴィンセント様の知り合いみたいだし、些細な面倒も避けたいのに)
ここでようやくヴィンセントも気が進まない様子でフレイヤの傍までやってきた。フレイヤは無感動に一瞥しただけにした。その今までにはなかった淡白な態度にも彼はぐっと不満を堪えたように顎を引く。
「怒鳴って悪かったフレイヤ、その傷も屋敷できちんとした手当てをさせる」
「いいえ結構です。これくらいならすぐ治りますのでご心配には及びません。どうかお気になさらず」
すぐ治る、の部分で直接傷を見た青年が何か言いたげにしたがフレイヤは気付かないふりをした。嘘ではない。治癒能力ですぐ治せる……などとは誰にも言うつもりはないが。
「意地を張るなフレイヤ。化膿したらどうするんだ」
「しません。どうぞお気遣いなく」
普段は控えめなフレイヤが頑固にもハッキリ主張したせいか、ヴィンセントは先の勢いが嘘のようになくなりややあって憮然として「わかった」と口にした。
彼はフレイヤと会話を続ける意気地がなかったのか、どこか少し放心したように傍に立つ友人へと目を向ける。
「何だよ水臭いな。アレクはフレイヤと知り合いだったのか」
「いや、僕もヴィンスから教えてもらうまで、彼女が知ってる子だとは思ってもいなかったんだよ」
(ふうん、アレクって言うんだ。ニックネーム?)
そうなら本名はアレクサンダーやアレックスかもしれない。
友人と話しながらもヴィンセントはまだフレイヤの手を気がかりそうに見る。
(はっ、何? ついさっきは妹のおもりに忙しくてこっちのことなんて空気同然って顔していたのに、今更体裁を取り繕うつもり? 白々しいな)
昔から何事もヴィンセントの優先順位はキーラが上だった。フレイヤは彼のいつにない眼差しに不愉快なものを感じたが、先とは事なりおくびにも出さない。
(無駄に軋轢を生むのは後々を考えると得策じゃないものね。逆恨みされた挙句腹いせとか嫌がらせで破談を延ばされても嫌だから、このアレク様にはある意味感謝よね)
一方でヴィンセントは友人に感謝の笑みを向ける。
「アレク、彼女の婚約者として応急処置には感謝する」
一瞬、奇妙な間があってアレクシスも笑みで返すようににこりとしてみせた。
「……いや、紳士として当然の行いをしただけさ。君からの礼には及ばないよ」
(いやいやいくら婚約者だからってどうしてヴィンセント様がお礼言うわけ? この件に関係ないでしょうに。大体にしてあなたの大好きな妹が事の発端なんだし、気遣われるのは逆に腹しか立たないっての)
一方、婚約者を案じる兄の様子に両目を吊り上げていたキーラがその目をアレクシスへと向けて輝かせた。その途中フレイヤとも目が合ったのだが、途端にビクッと肩を震わされてしまった。彼女なりにそれを悔しく思ったのか次にはキッと睨み付けてきたが。
「ところでお兄様、その方は?」
フレイヤから目を背けたキーラはこういうところは図太いのか期待を込めた目で兄の返答を待った。たった今テーブル上で起きたトラブルなどもう完全忘却の彼方だ。彼女がこうだと子分たる他の令嬢達も従うので話題がフレイヤに戻りはしないだろう。フレイヤとしてはむしろ有難い。
(まあ、喧嘩売られても全然構わなかったけど)
「ああ、友人のアレクシス・カーライルだ。留学先で同室だった。偶然にも彼もこの国出身で、最近帰国したと言うんでうちに招待した」
「そうでしたの。ご実家はどちらの方で?」
キーラは興味津々だ。アレクシスは同世代でしかも破格な麗し男子なのだ。彼女の好奇心はこの場の令嬢達の総意でもあるだろう。
アレクシスはにこりと微笑んだ。
「うちは男爵位で、辺境に近い場所に小さな領地を賜っているんだ。レディ方、以後お見知りおきを」
(痛……っ。――何てこと、この人嘘ついてる!)
フレイヤが密かに耐えている横では、キーラの目の輝きがかなり落ちた。どんなにイケメンでも自分の家よりも爵位が下の相手は結婚相手にはならないらしい。次には兄の手前アレクシスに形式的な挨拶と自己紹介をしただけだ。フレイヤは呆れた。他の令嬢達は貴族階級であれば然して障害とは感じないのかキーラに続いて自己紹介をしている間も蕩けるような目をしていた。顔が良いって得にも損にもなるとフレイヤは密かにしみじみと思った。
それよりも、このアレクシスだ。
(何なのこの人? ヴィンセント様は嘘の素性だって知っているの? かなり怪しいんですけど。ってかそれで友人面してるの怖っ。この手の人とは関わらない関わらない~っと)
そのためにもハンカチの借りは早々に返すのがベスト。気遣いは要らないと言われたが無理矢理にでもお礼の品を送り付けようと決める。
ハッキリ言って向こうから勝手にハンカチを巻いてきたのであってフレイヤの方から頼んだわけではないので、何かを返すのも多少納得いかないでもないが、後腐れないようそうするつもりだ。
きっと紳士としての厚意から出た行動なのだとなるべく良い方向で考えて深くは考えない。裏を考えてしまうと切りがない。
どうせもう会う機会もないだろう。
(もう社交界に顔を出すつもりはないもの)
そろそろこの時間の無駄でしかない集まりも辞したいしと、フレイヤは早速アレクシスへと連絡先を訊ねる。
「あの、カーライル様、何かお礼をさせて下さい。このままで何もしないのは実家の方針に反します。ですのでお礼をどちらにお送りすれば宜しいでしょうか? 断るなんて薄情は仰らないで下さいね?」
「いや、本当に何も……」
「いいえっ、ヴィンセント様のご友人でもありますし、婚約者のご友人を蔑ろにはできません。手当てをして頂いたのですし、ヴィンセント様もそう思いますよね?」
急に水を向けられたヴィンセントはちょっと慌てたようにしてから「あ、ああそうだな確かに」と同意してくれた。彼としてはどちらでも良かったのだろうが、彼の後押しがあればスムーズに話も進むだろう。
「何だいヴィンスまで」
外堀から埋められたアレクシスは「んーじゃあ」と喉の奥で思案する声を出す。
「わかった。それなら物の代わりに一つお願いがある。どうか僕と会う時間を作ってもらえないだろうか」
「はい……?」
まさかの想定外がきた。あろう事か婚約者の前で個人的に会う約束を取り付けようとするとはさすがにフレイヤも思わなかった。ゴシップでも立てたいのか思慮に欠ける。実際令嬢達は顔を見合わせての驚きと嫉妬心も孕んだ下世話な興味をその目に覗かせている。
ヴィンセントは戸惑った様子で両目を瞬かせた。
そんな中、フレイヤは静かに告げてやった。
「申し訳ありませんが、ご要望には応じられません。ヴィンセント様から渡して下さるよう、お礼の品は近日中に彼に託しますので」
アレクシスの反応を待たず、丁寧な語りとは裏腹に冷めた眼差しのフレイヤはテーブルから数歩離れた。
「改めて、カーライル様、丁寧な手当てをどうもありがとうございました。それと、今日は少々体調が優れませんのでこの辺で先に失礼させて頂きますね。それでは皆様ごきげんよ……ああそうでした、私当分予定が立て込んでおりましてキーラさんのご招待には応じられないと思います。ですので紙資源の無駄な消費はお控え下さいますよう、心よりお願いしますね?」
言って、その場でドレスをつまんで優雅に淑女の挨拶をするとくるりと踵を返す。
テキパキとして行動力のある土台有り得ないフレイヤの姿に、何か悪い幻影でも見ているような顔付きで、誰もが呆気に取られたまま引き留めてくる様子もない。
(皆いつもこうなら煩わしくなくていいのに)
あとはさっさと帰るだけだとフレイヤが安堵したその時だ。
「残念だな。是非とも――ミゲル・ヒューや女帝ヘスティアについての談義を君としてみたかったんだけれど」
(――!?)
彼のわざとらしい独り言に危うく足を止めそうになった。されど辞去の挨拶は告げたのだ。素知らぬ顔で先を進む。
ハラハラして待っていた侍女を従えて彼女に馬車を呼ばせると、さっさとブレア邸を後にした。
あの後キーラは兄に文句と共に泣き付いたのかもしれない。自分は悪くないと更なるフレイヤの悪口を吹き込んだのかもしれない。そうならばそれでいい。
(ブレア兄妹ってば見てなさいよ。秘密の領地改革してせっせと財政立て直して、さっさとバッサリ縁を切って差し上げますからね!)
とは言え彼女は彼らについてはそれ程気にしてはいない。むしろより厄介な懸念材料が他にできてしまった。
アレクシス・カーライル。
理由は不明だが偽名を使うあの男は危険だと、フレイヤは言い知れない警鐘を胸にした。
前世悪女は癒したい まるめぐ @marumeguro
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