第5話 タブーと望まぬ登場者

 フレイヤとしては話題が転換するだろうと思っていた。実際転換したような会話が二言三言は続いた。しかし予想に反し何を思ったのかキーラは話題を再び女帝周辺に絞ったのだ。

 ついさっきフレイヤが下手に反論のような真似をしたからだろう。

 話を戻すようで悪いけれど、と全く悪いなどとは思っていないだろう口調でキーラは前置いた。


「文献では確かあの女帝は貧民出身らしいわね。どうやら側近も。同じ階級から見事に下剋上を果たした二人を、皆はどう思う?」


 彼女の問いに、やや強引な話題転換だったせいか令嬢達は少しキョトンとする。女帝の話に戻ったとすぐに察しても、結局は彼女が何を言わんとしているのかわからないからだ。フレイヤも同じだった。


「うーん、女帝になってからの侵略や粛清の嵐は恐ろしいですけれど、どん底から這い上がった気骨は史実なのにまるで空想の物語みたいで、それだけ主従二人の息がピッタリ合っていた証拠だと思いますわね」


 素直な意見を口にした令嬢の一人にキーラはやや傲然と顎を上げて満足気に微笑んだ。その言葉が欲しかったと言わんばかりだった。


「でしょう! とても親密だからこそ成し得た偉業、ああいえ悪行よね。私が思うに、女帝と側近、きっと二人は男女の関係だったのよ」


 フレイヤは危うく紅茶を噴き出すところだった。

 全くそんな関係ではなかったし、不思議と一度も彼をそんな邪な目で見たためしはなかった。本当にたったの一度もだ。普通血の繋がった兄や弟に欲情しないのと一緒だ。そうだ、意識しなかったが意識などしなくともミゲルは過去の自分にとって家族だったのかもしれないとフレイヤは今更ながらに思った。

 ただし、今は突拍子のない憶測には呆れるしかない。

 しかし他の令嬢達は違っていた。

 フレイヤに意地悪をしても、そこは恋バナ好きの年頃のレディ達なのだ。


「そこはわたくしも同じように思いますわ! 若い男女が四六時中一緒にいたのですもの、いくら女の方が出世して身分が高くなって、しかも厳しい身分の壁があったとしても、長年連れ添った感情は別のもの。何もないなんてあり得ないですわよね!」

「まあ、そのような考え方もできるのね。二人きりになる機会も多かったに違いないですし、他には知られていないあれやこれやがあっても不思議ではないですね、きゃーっふしだらあぁんっ!」


 次々と同調の声が上がる。恋愛話になると途端目の色を変えるようにして色めき立ち話に花を咲かせる少女達にフレイヤは正直付いていけなかった。

 普段は屋敷で刺繍や行儀作法を学んでいて刺激の少ない少女達には、時々こうして集まって恋バナに熱中するのが楽しみでありストレス発散の一つでもあるのだろう。これもまあ仕方がないかとフレイヤは思った。

 暫し無難に話には入らないでいたフレイヤだったが、試しにミゲルと自分が……と考えてしまえば全身が痒くなる。逆にそんな風に考えてごめんなさいとさえ思った。土下座で。


(私が死んでどこに行ったのかは知らないけど、ミックにはミックのイイ人がいたに決まってるんだし。彼がモテないわけないもの)


「フレイヤさんもそう思うでしょう? 断固側近が殺すわけがないと言い切ったくらいだし、二人の仲は近しかったと考えているのよね? けれど嫌じゃないの? 大好きな推しが悪女なんかと恋仲で。あなたって熱弁するくらいに随分とミゲル・ヒューに肩入れしているみたいだから」

「え、いえ私は別に恋仲だとは思ってないのだけれど」

「まあ真実がどうあれ、どうせ歴史の教科書は変わりはしないわよね。ミゲル・ヒューは殺人犯として濃厚な無罪の男だわ」


 やや食い気味に言う訂正もろくに取り合わないキーラの上機嫌な声には何か引っ掛かりを覚えながらも、フレイヤは余計な事は言わなかった。


「ところで、数多の男を誘惑してのし上がった女帝は、その母親も同類だったと言われているわよね。父親が誰かもわからないって言われているし、血は水よりも濃いとはこの事よ。大悪女の母親もとんだビッチだったんだわ。ねえ、皆もそう思わない?」


 キーラの発言には、視線はともかく皆の意識がフレイヤに向いたのは彼女自身わかった。


 平民が身分差を乗り越えて貴族と結婚し高い身分を得る。そこには時に姑息さと卑怯な誘惑があるのだろう。その手のゴシップは昔からよくあり、今だってよくある。


 フレイヤ・アイスフォードが実はアイスフォード伯爵の実の子供ではないと、そう囁かれているように。


 フレイヤは平民だった母親が伯爵と結婚する前に付き合っていた相手の子供だと噂されていた。


 その恋人だった男の素性は不思議と誰も知らないが、確かに恋人がいたのだ。


 ただ、伯爵は現在に至るまで結婚以前の妻の交際には一切のコメントを控えている。夫婦仲だって悪くない。むしろフレイヤが引くくらいに甘い。故に世間はアイスフォード伯爵は妻の腹の中ごと過去を受け入れた寛大な男だと言い、惚れた弱味だと揶揄と同情を交えて二人の新婚当初はよくそう口々に上らせたらしい。フレイヤもそこの経緯は聞いて知っていた。


 噂上では父親知らずと、ある意味共通する部分のある悪の女帝とフレイヤ。


 キーラはだからこそ、当てこする意図を持って女帝の話題を蒸し返したのだ。


 アイスフォード家の醜聞は極秘事項でもないので集った令嬢達もどこかで聞いて知っているはずだ。ただ、今回キーラに言われて初めて結び付けた者もいるようだが、ほとんど大半の令嬢はフレイヤのみならず彼女の両親にまで及ぶ中傷にはさすがに表立って賛同はできないようだった。

 決して下位貴族ではないアイスフォード伯爵夫妻を貶したと露見すれば、彼女達の実家までキーラとフレイヤの不仲のとばっちりを受けかねない。

 キーラのフレイヤへの執拗な虐げに加担しているのは、キーラという盾があるからなのだ。婚約者の妹たるキーラがいればフレイヤは誰にも告げ口しないとわかっている。

 しかし伯爵夫妻に関してはわからないが故に下手な事を言わないように皆口をつぐんだ。それでも集団から醸される敬遠するような微妙な空気がフレイヤを侮辱するには十分だとキーラはそう考えたに違いない。


 しかし、フレイヤにその精神攻撃は効かない。


 何故なら、世間の誰も知らないが母親の謎の恋人の正体は何とアイスフォード伯爵その人なのだ。


 フレイヤの人間関係のとばっちりを受けている両親には悪いとは思うが、いつもならスルーしていた。

 この先真実を知って気まずい思いをするのはどうせ向こうだし、どの道、今日の事をフレイヤの弟達が知ればキーラ達にさりげなく倍返しするだろう。

 遠方の学術都市にある全寮制寄宿学校で学んでいるはずの弟達が一体どこから情報を仕入れているのかは教えてくれないので不明だが、いつの間にやら知っている。

 二人からの手紙で指摘されたりもしばしばで、いつも彼らの耳の早さには驚かされている。フレイヤ想いの聡明な弟達がいるおかげで、彼女は意地悪令嬢達からの悪意にも耐えてこられた部分もあった。


 しかし、今日は違った。


 断じて看過できなかった。


 断じて許容できなかった。


 ――ティーカップの派手に砕ける鋭い音が明るい庭園に大きく響いた。


 フレイヤはべらべらと煩い耳障りなキーラの声をテーブルの端に白磁のティーカップを叩きつけて割る事で強引に遮ったのだ。


 小花模様のあしらわれた白いテーブルクロスにも紅茶と破片が飛び散り、複数の慄きの悲鳴が上がった。

 もしも破片でこの中の誰かが怪我をしても自らの力で治してやろうとさえ自棄にも思っていた。冷静だったなら絶対にそんな無謀はやらかさない。

 テーブルの皆が恐怖を浮かべてフレイヤを見つめていた。

 無論唖然としたようにしてキーラも。いつもならフレイヤはほとんど無表情か耐えるようにしているかのどちらかなので、まさかそのような暴挙に出られるとは思いもしなかったのだ。


 前世では散々慣れた類いの眼差しを浴びながら、絶賛ぶちギレ中のフレイヤは激情が治まらず指先に僅かに残る割れて尖った取っ手部分をぎゅうと握り込む。


 鋭い先端が淑女用の薄い手袋を易々と突き破り繊細な皮膚をも裂いて手の内に痛みが走った。指の隙間から赤いものが滲んでくる。しかし気にならなかった。


(母さんを侮辱するな……っ!)


 辛うじて怒鳴るのは堪えた。カップの破片を握り締めた拳からは既に血が滴り落ちている。


「キーラ・ブレア嬢、言葉が過ぎるわね」


 常日頃のような「キーラさん」呼びではなく硬い呼び方だ。これは前世の冷淡な性格が多少出たためで、抑揚のない低く平たい声のフレイヤの絶対零度の目が、この上なく矮小なものを見るようにキーラを見下ろしている。

 威圧されたキーラは硬直ですっかりぴっちり合わさった上下の唇を震わせヒクッと咽を痙攣させた。

 前世、眼差しだけで人を処刑できるとまで言わしめたそれをもろに受けて、とうとうキーラは全身で震え出す。

 テーブルからやや離れて控えていたフレイヤの侍女は蒼白な顔で「お嬢様っ」と両手で口元を覆ったが、駆けてこようとした侍女の足をフレイヤは一瞥だけで難なく止めた。仮に何かがあっても常の如く黙して控えるようにと言い含めてあったのだ。

見えない所で下剤は盛ってもフレイヤに直接的に表立った傷を負わせないキーラは、身分下の侍女にならば折檻を容赦しない性格だ。不用意に関わらせない、これも侍女を護るためだった。


 ポタポタポタと既に手袋の半分を染めた真っ赤な血が滴って、それだけでは飽き足らないように白いテーブルクロスをどんどん汚していく。拡がっていく。フレイヤの深く滾る怒りのように。


 故意に森で迷わされても池に落とされても告げ口もできない大人し過ぎる彼女の豹変に、皆のいつもの意地悪や高飛車は完全に鳴りを潜めていた。

 微動だにできず、誰もがフレイヤの次の行動を待った。


 件の非道な女帝を知る者がいたならば、彼女本人を目の前にしているかのように感じただろう。


 ややあってはたと我に返り、はあ、とフレイヤは荒く息をついて平気な方の手を腰に当てた。よく前世では旦那を尻に敷く貧民街の近所のおばさん達が呆れや不満な時にしていたポーズだ。そして尻込みした旦那を顎でこき使うのだ。

 こんな仕種も前世を知る前までは滅多にした事がなかった。知って以後は敢えてしないようにしていたので猫被りの自覚はあるフレイヤだ。


 正直やってしまったと内心で苦々しくなるが今更誤魔化そうとも後の祭り。

 ならば開き直ろうと決めた。


(そもそも、母さんをここまで侮辱されて黙っているくらいなら、もう一度死んだ方がマシ。幸い今の私には令嬢達との仲がより悪化しようと屁でもないし、好きにさせてもらうわ。多少計画を早める必要はできたけれど)


 フレイヤは、自分のために苦労に苦労を重ねて体を悪くした前世の母親を侮辱されるのだけはどうしても我慢ならなかった。

 だから気付いたらこのようにしていた。


 前世の母親の悪口はフレイヤの絶対のタブー。


 誰も知らない特大の地雷。キーラは愚かにもそれを踏んだのだ。


(はあ、それにしても面倒ね)


 怒りを表現した事自体に後悔はない。さてこの場からどう帰ろうか、とそれだけを考えた。


(このままふんって鼻で嗤ってやって無言で去ってもいいけど、この際二度とお茶会とかに招待する気がなくなるように、もっとたっふり凄んでおくのもありかもしれないわね。そのうち絶対ヴィンセント様とは別れるんだから別にブレア家と関係悪化したところで構わないし)


 祖父の事は決して嫌いではないが、勝手に婚約を押し付けてきた彼への良い意趣返しにもなる。フレイヤがすう、と息を吸い込んだ時だった。


「キーラ、フレイヤ、一体何があった!」


(えー、ほんのちょっと考えただけだったのに、噂をすれば影じゃないのこれじゃあ)


 フレイヤが冷めた心地になっていると、何か事件か事故かと気掛かりそうな顔付きで駆けてきたのはヴィンセントだ。


「フレイヤ、怪我を!?」


 テーブル傍まで近付いた彼は珍しくもぎょっとした。そんなレアな面を拝めただけでも怪我の功名かもしれない、とフレイヤはどこまでも皮肉げな気分で思った。


「おっお兄様助けて! フレイヤさんがいきなり暴れ出して!」

「何? そうなのか?」


 あからさまに眉をひそめるヴィンセントは妹キーラの方へと寄ってその肩を落ち着かせるように抱く。それがキーラには免罪符のようにも最強の印章のようにも感じられたのだろう。フレイヤへと向けられる眼差しに優越と蔑みが戻ってくる。


「私が少し揶揄うような事を言ってしまったせいなの。あとフレイヤさんのお茶にもちょっと不手際があって、けれどまさかこんなに怒るなんて思わなかったから。とても怖かった……!」


 兄へとか弱く寄り掛かっていかにも自分に落ち度があるようなふりをしているが、キーラからは謝罪の言葉は聞こえて来ない。言わずに済むように巧みに狡く言葉を選んでいるのだろう。

 演技上手のキーラの主張を真に受けて、ヴィンセントは婚約者の怪我の心配よりも妹を安心させる方を優先した。


「フレイヤ、キーラは少しふざけただけだろう? 近いうちに義理の姉になる君に親しみを感じているからこそ出てくるんだ。だからそう目くじらを立てないでやってくれ」


 ヴィンセントの言葉にフレイヤは心底白けて乾いた笑いさえ浮かべた。こんな展開は自分達三人の間では最早恒例行事みたいなものだった。

 いつもフレイヤが悪者になる。

 この先もそれは変わらないだろう。

 誰かが変わらなければ。

 そう、――例えばフレイヤが。


 くすくすくす、くくく、とフレイヤは両肩を揺らして低く笑い始めた。

 今度は何事かとその場の面々は不安そうにする。

 ヴィンセントは怪訝にした。


「フレイヤ?」

「怒ったのは、キーラさん方が聞くに堪えない事ばかりをベラベラと煩く喋っておいででしたから、どうにも我慢ならなくて」

「何ですって! よくもそんな口をっ……ととっ、フレイヤさんってば酷いわお兄様あっ!」


 これまた迫真の演技で泣き付くキーラにまんまと騙されたヴィンセントはフレイヤを窘める目で見据えた。


「フレイヤ、君はどうしてキーラに辛く当たるんだ。妹は健気にも常に君を気に掛けていると言うのに!」

「ヴィンセント様は相変わらずとても妹思いですよね。常々感心していました」


 さしものヴィンセントも言葉に内包されたトゲには気付いたようで、不愉快そうにする。


「君がそんなだから揉めるんだ」


 身内贔屓と言うよりは、フレイヤ達の関係性の本質が全く見えていない暗愚さで以て薄い非難さえ込めてくる婚約者へと、フレイヤは呆れ果ててハッと嘲りにも似た短い笑いを吐く。

 そんないつにない反抗的な彼女の態度には、ヴィンセントもいよいよ表情を本気で険しくした。フレイヤからはキーラが密かに口元をほくそ笑ませるのが見えた。


(あら奇遇、私もこの展開が嬉しいわ。予想外にもヴィンセント様も出てきた事だし、むしろより一層好都合。今後は公式行事でもない限りは私に関わらないように釘を刺してやるんだから)


「はー。あなた方兄妹がそんなだから、こちらもこちらでいい加減うんざりしているのがわかりませんか?」

「な、何だと? フレイヤ!」


 婚約者から声を荒らげられて、計画していた展開に持ち込めそうだと吸い込んだ時だ。


「――びっくりしたなあ。ヴィンスも落ち着きなよ」


 やけにゆったりとした誰かの声が場の空気を弛めた。

 芝を踏む足音が近付く。


「最近の女の子達の喧嘩はちょっと過激なのが流行っているの?」


 一斉に向けられた視線の先には銀髪の青年が穏やかな面持ちで立っている。今の声も彼だ。

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