第4話 垣根の向こうの来訪者
そんなブレア家の庭先で、足を止めていた者がいた。
「はあ、悪いなアレク、妹達が騒がしくて」
「……いや、きゃぴきゃぴしていて可愛らしいよ」
「きゃぴきゃぴって……お前本当はだいぶ年上とか言うなよ?」
「あはは」
この庭先はブレア伯爵家に招かれた者なら誰でも自由に見て回れ、屋敷への案内の途中に通りかかる事もある。
彼、アレクシスは後者だった。
背の高い生垣のすぐ向こうの芝生で令嬢達が楽しそうに歴史ミステリーへの私見を述べているのは途中から聞こえていて、どこにでも転がっている話題には別段興味もなかったので気にせず歩いていた。
生垣のおかげで気付かれないのはありがたかった。とは言え隙間はあるので場所によってはこちらが見えてしまうだろうが、令嬢達はお喋りに夢中で気が付かないに違いない。
しかし、とある令嬢の言葉に思わず足を止めてしまったのだ。
耳は傾けていたが目は向けていなかったアレクシスは、思わず令嬢達のいる野外テーブルを文字通り垣間見た。奇跡的に生垣と生垣の間から見えた唯一の姿がつい先日の図書館での姿に重なった。
(ああ、やはり彼女だ)
思った通りに赤毛の娘がいた。
公式には浴室での事故死とされている女帝の死だが、そこに至る前後が判然としないからこそ殺害疑惑の付いて回る側近の男ミゲル・ヒュー。
公式文書には彼のアリバイがあるので彼の肩を持つ意見は珍しくないが、あれは断言だった。
現在のこの国の王家がこの地の主権を握ってから改めて纏められたと言う公式文書。当時は荒廃していて資料に乏しく正確性にも欠け情報の穴も多いというわけで、それを重視する歴史家達でさえどこかでは実は猜疑心を抱いているという女帝の最期。
単に教科書通りに歴史を信じているだけの令嬢なのか、それとも彼女には彼女なりの裏付けがあっての発言だったのか、そこはわからない。
(しかも彼女は……ミゲル・ヒューをミックと呼んだ。親友のような親しい間柄の相手でも呼ぶみたいに。余程ミゲル・ヒューに肩入れしているのか、それとも何か他の特異な理由があるのか……)
「……わからないな」
わからないからこそ、興味が湧いた。
偶然にも王立図書館で生まれた好奇心の芽がここでぐんと成長したようだ。
「そもそも彼女のあれは伊達眼鏡だったのか……あれで変装のつもりとか、面白い娘だな」
「アレク? 急に誰の話だ?」
横で友人のヴィンセント・ブレアが困惑しているが、アレクシスは自らの考えに没頭する。
どうして図書館で下手なプチ変装をしていたのかはわからないが、発言だけではなく行動も中々に自由人なようだ。
「ヴィンス、あそこの赤毛で若草色のドレスの子ってどこの誰かわかるかな?」
「若草色の? ああ、フレイヤ・アイスフォード伯爵令嬢だよ」
「フレイヤ・アイスフォード……フレイヤ?」
「――俺の婚約者だ」
「婚約者……?」
「そう、婚約者」
アレクシスは無意識にへえと鼻から抜けるような声で理解の返事をしていた。
他方、ヴィンセントは婚約者を語るのには特に何も思わなかったようで、頬を染めたりも嫌がったりもせず、これと言って表情を変えず再び歩き出す。
おそらくヴィンセントには婚約者への特別な感情はないのだろうとアレクシスは思った。
何故だか些かホッとしながらも、彼に続くアレクシスは意識してしっかりと地面を踏みしめた。自分でもわからないがどうしてか酷くショックを受けていたからだ。
「あ、ヴィンス、婚約者に挨拶しなくていいのか?」
「いや、女子会の邪魔するような無粋はしないさ。それによく会うから今日はいい」
「……へえ、よく、会うんだ」
「まあな、ああでもよく会うと言うよりよく見かけると言う方が正しいな。妹と一緒にいる事が多いようだから」
朗らかに言ったヴィンセントの横顔をアレクシスは探るようにじっと見据えたが、そこに婚約者を慕うようなものはやはり見られない。彼はややあってあっさり視線を外した。
とは言え、ヴィンセントの様子からは婚約者との関係は悪くはないようだと察せられた。
(ヴィンスに家同士が決めたって婚約者がいるのは知っていたけど、まさか彼女がその婚約者だったのには正直驚いた)
――フレイヤ・アイスフォード。
(この国をずっと離れていたせいで、その手の社交界の情報に疎くなってしまったよ。はは、そうか、図書館ではうっかりしていたかな。そうだよ、赤毛だったのに彼女だって思い出しもしなかった。別の事に気を取られていたせいだよなあ。はあ……。だけどまさかこんな所で再会するとは思わなかったよ)
『嘘つき』
脳裏に赤毛の少女の悲しげな声が甦る。
かつて彼をそう非難した少女がいた。
しかし嘘つきはその少女フレイヤ・アイスフォードだとされてしまった。
本当は彼の方こそ皆に嘘をついていたというのに。
当時、盛大に行われたどこかの貴族の子女の誕生会で、訳あってアレクシスは身分を隠して出席していた。
『あなたは、どうして皆に嘘の名前を教えるの?』
簡単な挨拶と自己紹介の時に、そこを不思議そうにして指摘してきたのがまだ七歳か八歳だったと思しきフレイヤだ。
どうして彼女がその偽りに気付いたのかは不明だが、アレクシスは肝を冷やしたのを覚えている。
彼女は悪意などなく単に子供心に偽りを疑問に思っただけだったらしいが、しかし本来の身分を明かせない彼と彼に従っていた大人達は認めるわけにいかなかった。
フレイヤがどうして偽りを見抜けたのかは結局今以てしてもわからないが、大人達は変な嘘はよしなさいと彼女の言葉を全否定した。周囲が何だそうなのかと納得するまで徹底的に。半ば大罪を糾弾するみたいに。叱責にも似て……。
結果、その場にいた他の子供達もフレイヤは嘘つきだと言うようになった。それが当時の彼女の心を深く傷付けたのは明白だ。アレクシスが十歳の時だった。
アレクシスは後日、本当の事を言う許しが出たら謝ろうと思っていたのに、意に反して母親の母国へと強制的に長期に亘って留学させられてしまったのでそれも叶わなかった。
今になって思えば今日に至るまでついぞ身分を明かす許しは出ていないので、仮に当時ここ王都に留まっていても謝る機会は来なかったかもしれない。
それだけではなく、泣きそうに歪められた彼女の表情がどうにも気持ちを苛んで、心のどこかでは早く忘れたいと逃げていた。
そんな後味の悪さも伴って、そして薄情にも留学先の忙しさにいつしか罪悪感も記憶も薄れてしまって、本当に彼女の存在をほとんど忘れてしまっていたのだ。
何の因果かつい先日は図書館で、そして今日は友人宅で彼女と再会した。
庭の後方を一瞥すれば、もう令嬢達の場所からはだいぶ離れてしまったのか会話は聞こえてこない。アレクシスは横の友人をちらと見やった。
ヴィンセント・ブレアの冷静で堂々とした立ち居振舞いは留学先でも女性の視線を集めていた。告白だってされていた。
婚約者がいるからと正式な交際は断ってはいたようだが、彼女ではないとした上で女の子と遊んではいたようだ。
恋愛と婚姻を別物と考える貴族は決して珍しくない。そしてそこに何ら疑問や呵責を抱かない者も。
この友人はその類いの男だ。
勉学には熱心だったし、決して根は悪い友人ではない。
しかし、婚約者泣かせのその手の価値観を持っている。
(どうして、よりにもよって……)
「アレク? さっきから押し黙って、どうしたんだ?」
「え、あー、ジョージに本を借りパクしていたのを、荷ほどきの時に出てきたなあって思い出したんだよ。今更送って返すのも微妙な本なんだよね。処分するのもどうしようかなと思って……」
誤魔化しだと見抜いたのか、ヴィンセントが急に真顔になった。アレクシスに気まずさが込み上げる。
「ジョージの? ……どんな本だった?」
「…………」
ややあってアレクシスも極めて真剣な眼差しを返す。ヴィンセントはモテる癖に日々真面目にモテるための情報を集める男でもあり、そんなギャップがどこか憎めない性格の持ち主だ。
「……僕達若人が大志を抱けそうなやつ」
「やっぱりか。よし、アレク、温室でも歩きながら詳しく本の話を聞かせてもらおうか。それか、稽古場で手合わせしながらでもいいが」
潤沢な資金を持つブレア伯爵家には大きな温室があるのだ。剣の稽古場も。
ジョージと言うのは留学していたアレクシスとヴィンセントの同級生で、共通の友人でもある男だ。彼は男の青春と欲望が見事に内包された書物を多く所持していた。
因みに、ヴィンセントの方が家の事情でアレクシスよりおよそ一年早く帰国している。
アレクシス自身もつい最近帰国を果たし、早速ヴィンセントに連絡を取ったという次第だった。
ただし、アレクシスはヴィンセントにさえも身分を偽っている。
留学先ではたまたま同郷だったために自然と親しくなった仲だが、それでも真実を告げていなかった。
いつか打ち明ける日が来るだろう。その時彼はよくも黙っていたと憤るだろうか。
(いや、ヴィンスは怒らないだろうね。こちらの事情をむしろ気にするかな)
異国で彼が編入してきてからの数年間とは言え共に過ごしたからこそそのひととなりを知るアレクシスは、密かにそんな友人へとどこか申し訳ない感情を向けた。
一見寡黙そうだが話してみれば案外社交的で誰に対しても平等に接するヴィンセントは、実は友情にはとても熱いのだ。普段から物静かでそうは見えないが恋愛にも積極的である。
しかし、女子同士の陰湿な部分には疎いきらいがあった。
留学先ではそうだったので、帰国後も同じではないだろうか。約一年会っていなかったが、話した感じも一年前と全く変わった様子はない。ならばきっと鈍いと言うか無頓着なそこも変わっていないのではないだろうか。
(ちょっと会話を聞いただけじゃあ、細かな部分まではわからないにしても、彼女達の雰囲気は良好とは思えなかったなあ)
ヴィンセントは本当にどこまで把握しているのか、アレクシスは胸中に少しの懸念を抱いた。
「どうするアレク?」
「んんー、じゃあ久々に手合わせでもしようか」
「そうこなくてはな!」
調子良く軽く肩を叩いたヴィンセントに促されて稽古場に歩き出そうとした矢先だった。
ガシャンと皿かティーカップか何かの派手に割れる音がして、令嬢達のだろう幾つかの短い悲鳴が二人の元まで聞こえてくる。
「何だ!?」
「行ってみようヴィンス!」
互いに見合わせていた顔を頷き合わせると、来た道を戻った。
見える場所までアレクシス達が駆け付けると、赤毛の娘フレイヤ・アイスフォードが一人席を立って令嬢達を鋭く、そして冷たく蔑むように睨み付けていた。
「喧嘩か? だが大人しいあのフレイヤが?」
(大人しい? 図書館ではそうは思わなかったけど)
「一体何があったんだ?」
ヴィンセントは明らかに困惑している。彼は婚約者のあんな様子を見た事がなかったに違いなかった。仲裁しようとしてか先に一人で令嬢達のテーブルの方へと爪先を向ける。
一方、アレクシスは暫し動けなかった。
(あんな冷たく凍った目には覚えがある。だけどどうして彼女が怒る状況に?)
図書館ではあたふたとして慌てたイメージもあった彼女にもあんな顔ができるのかと、ほとんど知らない相手だと言うのにアレクシスは驚いた。
「僕も行かないと……」
彼は友人に遅れ馳せながらもフレイヤの近くに行かなければと、まるで何か見えない力に吸い寄せられるような後押しもあり大きく一歩を踏み出していた。
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