section 29 つながる新しい命

 結婚して1年が過ぎて青葉が輝く季節、ふたりの両親を前に蒼真が小さな命を授かったと告げた。頬を染めた由紀を眺めた蒼真の母は、泣き虫ピアノと地獄のリハビリに耐えた息子を見つめた。そして今、孫を宿した由紀が実の娘のように思えた。

「由紀ちゃん、おめでとう! お腹の子の分までしっかり食べるのよ。蒼真はお母様に任せたんだから、由紀ちゃんは私に任せてください。もう嬉しくって泣いちゃいそうよ!」

 その後も相変わらず蒼真の母は頻繁に訪れ、安価な食材を使っては一家に旨い飯をふるまい、由紀のピアノを聴きながらせっせと手を動かして、赤ん坊の布団やケープを縫ったり編んだりした。


 由紀の腹が尖っているから男の子だと信じて、水色の小さな靴下を編んでいる母に蒼真が訊いた。

「こんなに家を空けて、父さんをほっといて本当に大丈夫か? また女を作ることはないだろうな?」

「由紀ちゃんと比べると周りの女がバカに見えるって、おとなしく留守番してるわ。今度浮気したらフザケンナって叩き出すって言ったの! 心配しないでよ」


 少しづつ腹が膨らむ由紀を抱き包んで、俺は男でも女でもいい、五体満足な普通の子であればいいと願った。家族もそう思ってるはずだ。蒼真は蒼一に呼びかけた。

「俺はアンタが誰だかわかったよ、アキヅキ蒼一さんだ。頼みがある。もうじき子供が生まれるが、アンタの子でもあるんだろ? だったら胸の十字だけは勘弁してくれ! アンタの願いどおりに由紀と出会った。由紀はアンタのユキコさんだな? 由紀のおかげで俺は幸せだ、アンタもそうだな? 夢で会ってくれないか? 訊きたいことや話したいことがある、俺はアキヅキ蒼一さんを待っている」

 毎晩、蒼真はそう伝えて眠りについた。


 由紀はギリギリまで教室を続けたが、暦が変わろうとする大晦日に小柄だがしっかりした男児を産んだ。片目をつむってウィンクしたまま誕生した子は蒼真を驚かせたが、産声をあげる胸には十字の焼印はなく、家族全員がホッとしたのは言うまでもない。新米ジジたちの相談で翔真(しょうま)と名付けられた赤ん坊は、鬼軍曹たちの手厚いサポートで元気に育った。由紀の父は診療が終わるとすぐ翔真のもとに駆けつけ、飽きることなく眺めて小さな心に語りかけた。

 蒼真は2時間程度は連続歩行できるようになり、翔真を膝に抱いて育児を手伝い、平凡な幸せに浸った。晴れた日は、折りたたみ椅子を入れた大きなデイバッグを背負って、翔真を抱いて公園に通った。時々、蒼真は椅子に座って体を休め、腕の中の翔真をあやした。


 蒼真の母は翔真の離乳食作りに夢中になり、旨い食事を満喫した翔真は日毎にぐんぐん成長し、やがて伝い歩きを始めた。赤ん坊は足に筋肉がつくとつかまり立ちを始め、伝い歩きするのか、蒼真は翔真の成長を見て鬼軍曹のカリキュラムの正しさがわかった。欠落した箇所を地獄の特訓で作り上げてカバーしたのは、そういうことか。人がアスリートと錯覚する俺の体は鬼軍曹の汗と信念の作品だ。やはり鬼軍曹はタダモノじゃない、凄いな……


 由紀はピアノ教室の生徒を指導し、蒼真はリモート勤務日以外は、折りたたみ椅子を入れたデイバッグを背負って東京本社に通ったが、生涯クルマ椅子が手放せないだろうと思っていた周囲は、その超人的な回復経過に驚いた。

 一方、チビ蒼ちゃんはいつも元気いっぱいで、由紀のリクエストに喜んで応え続けた結果、翔真が1歳を迎える頃、由紀は第二子を宿した。大喜びのジジババ連合軍の協力に感謝して、由紀は女の子を出産した。胸の中心にぽつんと小さなホクロがあったが、十字はなかった。

「まあ、色白で由紀ちゃんそっくりで可愛いこと! でも蒼真と同じで手足が長い! さすがだわ」

 鬼軍曹たちから詩(うた)と名付けられた子も翔真と同じで、持病はなく健やかに育って行った。とりわけ蒼真の父は詩に目がなく、玩具や衣服を山ほど抱えてやって来た。


 親父の浮気ぐせは完全に消えたなと蒼真が笑ったある夜、ふと目覚めて、妻と子供たちの幸せな寝顔を見つめていたら、待っていたあの男がやっと出てきた。

「俺はお前で、お前は俺だ」。

 初めて笑顔を見せて消えて行った。

<完>


<あとがき>

終わりまでお読みいただきまして有難うございます。この作品中に登場する“秋月蒼一”を知りたいと思われましたら、このサイトで『心臓外科医・カミソリ秋月に捧げるレクイエム――若き心臓手術の神様を愛した追憶』をお読みください。

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運命の人 胸に十字の傷痕が…… 山口都代子 @kamisori-requiem

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