section 28 鬼軍曹が増員された
五月晴れの青葉神社の神前でふたりは挙式した。東京から恩師や友人たち、吉田先生のほかに会社の上司や同僚、神戸からヤマハの店長やデキソコナイが参列して、ふたりを祝福した。音大を再受験してサックスを学んでいると報告したデキソコナイは、別人のように明るい表情で、「由紀さんみたいな人と出会いたいです」と微笑んで、披露宴では“One Love”や“Wherever you are”を演奏した。
蒼真は挙式が執り行われる30分を、自分の足で立って御神酒のあとに誓詞を読み上げ、玉串を捧げた。この30分間のために蒼真がどれほど苦しいリハビリに挑んだか由紀は知っていた。それを正視できずに2階に駆け上がり、ショパンの“英雄ポロネーズ や“華麗なる大円舞曲”を弾いて励ましたことが幾たびもあった。リハビリを終えた蒼真は外に出て2階の窓に小石をぶつけて、「おーい、泣いてるのか」とからかった。そんな日々を思い浮かべた。
9月オープンのピアノ教室に向けて、多忙だが充実した時間が訪れた。蒼真は月に1度か2度、東京本社に通った。由紀が車で仙台駅まで送り、車イスを利用して新幹線に乗車した。
高齢者の増加に伴って車イス需要が高まると考えたトヨタは、これまでのノウハウを活かした開発に取り組んでいたが、安全面を重視したあまりに重すぎた。
蒼真は、移動手段にマイカーを利用しない人でも持ち運びが楽で、コンパクトな軽量電動車イスの開発を希望した。また、車イスは室内移動用、散歩や買い物などの近距離用、電車や飛行機を利用するときなど、さまざまな生活のシーンに対応する製品ラインナップを提案した。シーンによって最適な機能性・サイズ・仕様など、多様化するべきだと話した。
さらに健常者では感知できない段差や横断歩道の滑りやすいペイントなどが、車イス利用者にとってはリスクが生じることなど、身を以て体験する蒼真の意見は技術者の貴重な参考になった。
しばらくして、完成した教室に2台のピアノが届いた。1台は蒼真の母のプレゼントだが、どちらも練習用には贅沢すぎる品だった。ピアノが届くとほぼ同時に神戸からヤマハの店長がぶらりと訪れ、由紀が愛用したスタインウェイを懐かしがって、2台の新品ピアノ同様に調律し、自画自賛で大喜びした。由紀の父と意気投合した彼はなかなかの酒豪で、“一期の栄は一盃の酒”などと吟じて2泊して帰った。
由紀と暮らす穏やかな毎日に蒼真は癒された。リハビリテーションは卒業したが、連日鬼軍曹の指導を受けた。鎮痛剤と決別した蒼真はときには痛みで顔を歪めるが、それを完全無視して鬼軍曹は次のカリキュラムに進んで行く。忍耐のリハビリはまだ続いていた。
また、結婚した途端に鬼軍曹が増員された。蒼真の母が由紀に料理の特訓を開始したからだ。
「ダメ! ダメ! 何度言ったらわかるの! そんなんじゃ指を切るわ、しっかりしてよ。指がなくなっちゃ元も子もないでしょ!」
毎月1週間は、頼まれなくても食材をどっさり抱えて押しかける蒼真の母が、息子の新妻に遠慮なく料理をスパルタで叩き込み、一家で旨い食卓を囲んだ。
「ダメ、違うわ! 肉は炒める前にちゃんと広げなさい! このままだとムラ焼けになっちゃうわよ。煮物はね、醤油の前に砂糖を入れるの! なーにも知らないのね、まったくしょうがない嫁だわ!」
鬼軍曹が増員かぁ、蒼真と由紀は首をすくめた。
夕暮れになると近所のスーパーに出かけ、あれが食べたい、これもいいかなと由紀と相談しながら、蒼真はカートを押しながらゆっくり歩いて、足腰の回復度を確かめた。車イスで散策するときは、季節の移ろいや風の匂いを楽しんで、ふたりは時々プチュして笑い合った。
ラブラブを絵に描いたようなふたりに、チビ蒼ちゃんはヤル気満々だが、「普通じゃ手に入らない強い薬を半年間も使ったから、あと3カ月は子供を作っちゃダメ!」、元祖鬼軍曹のダメ押しを忠実に守って避妊を続けたが、やっと解禁日になった。張り切ったチビ蒼ちゃんは、ロコモティブやボディフェイントを続け、見事にハットトリックを2度決めた。
一方、ヤマハが「トップグレード1で東京芸術大学卒業の教師が仙台でピアノ教室を開校!」とweb広告した効果で、教室は幼児から大人まで生徒が集まって、蒼真が驚いた。午前中に自分の練習と家事を終わらせ、午後になると蒼真はリハビリ、由紀はピアノ教室に熱中した。この頃、蒼真は1時間ほどは歩けるようになり、歩行姿はほとんど健常者と差はなかった。
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