section 27 ヤマコンでピアノ

 由紀は卒検は問題なくクリア出来そうだが、もうひとつの課題に取り組んでいた。蒼真の母が神戸のヤマハショールームで聞き込んだ話だが、ヤマハピアノ教室の教師を公開募集しているというニュースだった。

「1位になるとトップグレード1とかに認定されて、好条件で教室を開業できるの。それでね、副賞に新品のピアノが貰えるのよ、いい話でしょ! どう、チャレンジしたら」

 それを聞いた由紀は、ピアノ教室のオープンには自分が使い古したピアノの他に、欲を言えばあと2台は欲しいが、これ以上父に無理はかけられない。やってみよう! 落選しても自分のレベルがわかる、悔いはないと気持ちを固めた。


 蒼真に相談すると、

「応募者は由紀のような卒業したてのピヨピヨじゃなくて、エキスパートばかりだろうがやってみろ! 落ちたっていいじゃないか。戻るのが少し遅れてもかまわないぞ。それとも僕を置き去りにして何処かへ消えるつもりか?」

「蒼真さんを人質に取られている私に、どこへ行けと言うのです? でも、タダのピアノは欲しいなあ。毎晩、ピアノが欲しい、ピアノが欲しいと呪文を唱えて眠ってるんです」

「おい、僕はどうでもいいのか、心配しないのか?」

「あっ、ごめんなさい。すっかり忘れてました」

「言ったな! 次はメチャクチャゴールだぞ、覚悟しとけ! そうだ、僕は会社をクビにならなかった。詳しい話は会ってからだ、ガンバレよ!」

「チビ蒼ちゃんもガンバレ!」

「はあ? 由紀がいないのにガンバレはないだろう」

「へへへっ」


 由紀は楽典と筆記試験に合格し、全国上位20名の中に残って銀座のホールで演奏することになった。このヤマコンのユニークな特徴は、国籍、性別、年齢など一切のプロフィールを隠して演奏することだ。しかも審査員と演奏者はカーテンで遮られていた。

 出題曲はショパンのエチュード27曲だが、くじ引きのように曲名が書かれた紙が箱に入れられ、簡単な曲を引き当てるかは演奏者の運次第と思えた。

 いよいよ演奏が開始されたが、さすがにどの演奏者も素晴らしいテクニックで場内を沸かせたが、由紀が最難曲で有名な作品25-6“三度のエチュード”を引き当てたとき、場内からは同情のため息が漏れた。


 由紀はどの曲が自分のテスト曲になるかより、久しぶりに会えた世界最高レベルのグランドピアノに触れるのが嬉しかった。大学のピアノとはまったく違う研ぎ澄まされた清艶な高音と、ハイスピードのタッチに遅れずに奏でられるメロディとハーモニィ、すべてが嬉しくて楽しくて仕方がなかった。

 “三度のエチュード”の演奏時間は2分強だが、譜面を見ては絶対に弾けない曲だ。三度の重音によるトリルと、ハイスピードで指を滑らせて表現する半音階と三和音の連続を、ピアノと同化したように譜面なしで弾き終えた。演奏後は万雷の拍手が鳴り止まなかった。


 由紀の実力を知りたかった吉田は、こっそり聴衆に紛れて演奏に耳を澄ませていた。由紀の演奏が終わると、賞賛と悔し涙をにじませて讃えた。

 石原さん、私はテクニックでは負けないと信じてたけど、とっくに負けてたんだ、よくわかったわ。ピアノは心がいちばんなのね、心を持たない私は音大の教師で十分に幸せだと微笑んだ。

 全員の演奏が終了し、審査発表が始まった。

「1位は14番の方です。ステージへ上がってください」のアナウンスに、自分のカードを見たら、14番! えっ! 私が!!


 5日後、由紀は迎えに来た父の笑顔に包まれて、卒業証書とトップグレード1の認定証、ピアノの目録を抱えて、仙台へ帰った。

 仙台に戻ると、卒業を祝って蒼真の両親が訪れていた。由紀を見るや否や蒼真の母はダッシュで駆け寄り、飛びついて大泣きした。

「お母さま、どうしたんです? 何かあったんですか?」

「違う、違うわ! やっと蒼真が由紀ちゃんと暮らせると思ったら嬉しくて……」

「お帰り、千年待った気分だ! 最近の母さんは鬼の目にも涙ってやつだ、気にするな。そんなことより驚いたなあ! ピアノをもらったんだって! 本当に届くのか?」

「私もまだ信じられません、とっても嬉しいです、でもどこに置きましょうか?」

 そのとき由紀の父が、

「ふたりの家の隣に防音の教室を建てよう、ピアノの音でご近所さんに迷惑はかけたくないからな」

「お父さん、お金あるの? そんなに無理しないで」

「大丈夫だ、心配するな。これはイキガネだ。ふたりの将来に力を貸せると思うと、何でもない」


 蒼真の母が嬉し涙を拭きながら、

「生徒さんが集まるともっとピアノがいるでしょ、私が由紀ちゃんに買ってあげる! 高いのは無理だけど、お父さんの女に払った慰謝料のローンがやっと終わったのよ。それに比べるとピアノのローンなんて何でもないわ。値切ったけど650万も払ったの、今でも腹が立って血圧が上がって倒れそうよ!」

 面目丸つぶれの蒼真の父は俯いた。 

「そうだ! ヤマハの店長さんが由紀ちゃんを心配してたから、相談してみるわ。ヤマコンを教えてくれたのもそうなのよ。値切り倒すから心配しないでね。由紀ちゃんは大船に乗った気で安心して!」

 はぁ~ 男たちは黙ってしまった。

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