section 26 立ち上がった!

 年の瀬に戻った由紀を待っていたのは、ふらつきながらも車イスからゆっくり立ち上がった蒼真だった。

「お帰り! どうだ、驚いたか? まだ長い時間は無理だが立てるようになった」

「えーっ、ホントだぁ、嬉しい! わーっ、嬉しい!」

 蒼真は胸に飛び込んだ由紀を抱きしめて声をあげて泣いた。地獄の特訓に耐えたのはこいつがいるからだ。由紀がいなかったら、途中で挫折したオチコボレだろう、あれは酷すぎる、辛すぎる、本当にキツかった…… 言葉もなくふたりはいつまでも抱き合っていた。

「蒼真くん、いつまで突っ立ってるのよ。由紀、早く座らせなさい! 立てるようになったけど無理させたくないの。これからも筋肉を鍛えて、毎日少しずつ立てる時間と歩く距離を延ばす予定よ! 由紀もわかってよ!」

 鬼軍曹がふたりを叱った。息子が心配でしょっちゅう顔を出す蒼真の母は、息子が両足で立った姿を写メして涙を拭った。自分で用を足せるようになった息子に一安心した。


 その夜、電動ベッドを初めて見た由紀は、パネルをプッシュして眼を輝かせた。プッシュする度に蒼真が横たわったベッドの角度が変わるのが珍しくて仕方がなかった。

「こら、そんなに遊ぶな、君のお父さんが僕を気遣って入れてくれたベッドだ。これに随分助けられた。起き上がれない僕をベッドが起こしてくれた。やっと自分で起き上がって立てるようになったが、鬼軍曹の特訓はずっと続くそうだ。

 はっきり言うが君のお母さんは正真正銘のオニだった、一切妥協しない大オニだ! 僕はまったくついて行けず、何度も無理だと思ったが、鬼軍曹は僕が諦めても私は絶対に諦めない! ふたりの人生がかかっているから諦めない! 僕を睨んでそう言った。ものすごい気迫だった。そのお陰で立てるようになったが、君が卒業して戻って来る時はたくさん歩いて自慢したい。そうだ、今夜から君はここで僕と一緒だ、君の部屋は僕の母が占領している、わかったか?」


 にっこり笑った由紀に、

「ホットなニュースがある、君が大好きなチビ蒼ちゃんがやっと復活したんだ! まだメチャ暴れは無理だが試してみるか?」

 ほんのり瞼を染めた由紀は

「ホントですか? 試したいです、トライさせてください。あっ、ホントだ! 天井を睨んでエラソーなチビ蒼ちゃんだ、でも泣いてる!」

「遊んでくれる君がいなかったから、僕のチビは寂しくて怒って泣いてるんだ」

「いい子、いい子、してあげる」

 恋人たちは笑って見つめあった。


 由紀が東京へ戻っても蒼真は鬼軍曹とリハビリに励んだ。弱音を吐かずに黙々とカリュキュラムをこなし、1分、いや、1秒でも時間と距離を延ばすことに夢中になった。そんなある日、思わぬ朗報が神戸の実家に届いた。どうせクビだろうと想像した父は、息子に無断で封を切って驚いた。

 新年度から東京本社経営企画部の任を解き、新商品開発部へ移動を命ずる辞令だった。勤務形態の基本は在宅勤務で、リモートで業務に参画するというものであった。父はトヨタから上司や同僚が見舞いに来てくれたのを思い出した。巨大企業であっても企業を創るのは人間だ。その温情に頭を下げた。息子に無断で封を切ったことを詫び、ことの次第を説明した。


 蒼真は上司にお礼の電話を入れ、現在は仙台でリハビリに励んでいること、短時間だが立って歩行が出来るまで回復したと告げ、辞令は有り難く受けさせていただきますと感謝した。

 そして、支えてくれた人の卒業を待って、この春に結婚しますと報告した。トヨタからは新年度を待たずに28インチの大型デスクトップと接続されたPC、多機能プリンタが貸与された。蒼真はPCに夢中になって海外の知識を吸収した。


「ほめてくださーい、1回で合格したんです、すごいでしょ!」、由紀から運転免許が取れたと予期せぬニュースが入った。あんな凄まじい事故に遭遇した記憶で、車を怖がると思っていた蒼真は驚いた。あいつが? あの運動オンチが1発合格か? 驚いて不思議に思った。そうか、俺の移動手段を考えて免許を取ったのか…… いつか母が言ってたな、女ってそんなヤワじゃないと。確かにそうだと痛感した。

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