section 25 壮絶なリハビリ
10月初旬、トヨタが手配した大型ワンボックスカーは蒼真一行を乗せて仙台に向かった。蒼真は休職扱いで在籍を認められていた。
「あれが蒼真くんのトレーニングルームだ、突貫工事だがね」と指差された先に、平屋の広々とした建物が見え、中には電動ベッドのほか手動と電動の車イス、数台のトレーニングマシンが用意されていた。
「毎朝リハビリテーションの車が迎えに来て、昼前に送って来るが、そこでのリハビリは一般的なものだ。午後からは鬼軍曹の地獄の特訓が待っているぞ。外科の看護師だった妻はカリキュラムを作って、1日でも早く蒼真くんを社会復帰させたいと張り切っているが、それは壮絶なリハビリだろう。わかって欲しい、今がいちばん大切なときなんだ、鬼軍曹に耐えてくれ! 君はエースストライカーだったと聞いた、車イスを脱却できるかどうかのトレーニングだと思って欲しい。
知っているだろうが、これらのマシンは足と腰を鍛えるものだ。下半身に力が入らない君には過酷なマシンだが、一気に無理しないで、徐々に鍛えるのがリハビリのコツだ。失礼だが今の君は健常者ではない。過去の栄光を捨て、毎日1ミリでいいから進んで行くことを忘れないで欲しい。地獄の毎日で気の毒だが土・日は休みだ。体は休ませることも必要だ。毎日ガムシャラにオーバーワークした若いアスリートが潰れて行くのを何度も診た。蒼真くん、自分を信じることだよ」
マシンを眺めた蒼真は、これは下半身、特に腰と太ももと脹脛を鍛えるものだが、今の俺はこれを動かせない。動かせるまでどれほど時間がかかるのか…… 巨大な敵に立ち向かおう、ピッチへ飛び出そう、覚悟を決めた。
一方、由紀は大学の卒検の課題曲を練習し、夜間は蒼真が免許を取った自動車学校に通った。車イスの可能性が残る蒼真の移動手段に車は欠かせない、私は免許が必要だと教習を受けるうちに、走行に不安定な自転車より車の運転が楽しく感じた。何もわからないまま蒼真から守られた由紀には、事故の恐怖は残ってなかった。
地獄の特訓が始まった。車イスに座ったまま脚力を強化するマシンに挑戦した蒼真はあっけにとられた。今の俺はこんな数字さえクリア出来ないのか、激痛を堪えながらも情けなくて涙を落とした蒼真の背後に、鬼軍曹が立っていた。
「はーい、蒼真くん、左が弱すぎ! そんな顔しない! 痛いのは当たり前よ、骨が砕けた部分を筋肉でカバーするためのリハビリよ。痛いってことは体が反応してるの、さあ、もう一度頑張ろう」
くそババア! この痛さがわかるか! 悔しさが! そして情けなさが……
蒼真は下半身を動かす度に経験したことがない激痛に襲われ、幾度も気を失いかけた。しかし激痛はなんとか我慢しても、出口が見えない焦燥感が何よりも辛かった。疲れきって抜け殻になった体を投げ出した夜、あの男の夢を見た。
「俺はお前だ、お前は俺だ、自分を信じろ、立ち上がれ!」と言った後、急に画面が変わった。
横殴りの雨が叩きつけ雷鳴が轟いたとき、大型ダンプが真正面に迫った。男はハンドルを切ったが、スカイブルーの旧型スポーツカーはガードレールを突き破って、幾度もバウンドしながら崖下に転落した。右眼から血が滴る男はドアを蹴って河原に転がり出て、川の水を飲んだ。そして空を見上げた。そこには雲ひとつない蒼天の空が広がっていた。ああ、この男はユキコという愛する女を残したまま死んだ。その絶念が時空を超えて俺と由紀を巡り逢わせたのか、俺はあの男で由紀はユキコか? そしてあの車は今に語り継がれるトヨタの名車、2000GTだ……
由紀は蒼真に毎日メールかケイタイしたが、リハビリの進み具合は一度も訊かなかった。日が経つにつれ声が苛立っているのを知り、演奏を録音してメールに添付した。それは由紀が傍にいるかのように心を癒し、心身ともにボロボロになってベッドに倒れ込む蒼真を優しく包み込んだ。バッハの“アリア”、ショパンの“雨だれ”やノクターンを聴きながら毎晩眠りに就いた。返信する度に明日もリハビリに耐えるぞ! 蒼真の気持ちは少しづつ熱くなった。
「俺はお前だ、お前は俺だ、自分を信じろ、立ち上がれ!」、蒼真の腹にあの男の声が響いた。
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