【完結】酒と女(作品230501)
菊池昭仁
酒と女
第1話 私 再婚しようかなあ
小夜子はシャンパングラスに注がれたキール・ロワイヤル、私は銅のマグカップに入ったモスコミュールを飲んでいた。
正統派のBARのモスコミュールは、これにライムが付いてくる。
レモンは邪道だ。
反則かもしれないが、俺はこれにミントの葉を入れてもらう。
なんとなくオアシスのようで好きなのだ。
「マスター、ミントも入れて」
「モスコミュールにミントですか?」
マスターは名の知れたバーテンダーだったので、少し嫌な顔をする。
それがまた楽しい。
もちろん、ミントを入れる店もあるが、本来、ライムとジンジャエールにミントは邪魔だ。
店にはスティングの『Englishman in New York』が流れていた。
「それじゃ、カンパイ」
「お疲れ様」
小夜子は前の会社の同僚だった。
月に1、2度、こうして一緒に酒を飲む。
不倫ではない、今は。
お互いに不倫がバレて、バツイチ同士になったからだ。
ふたりとも飲んだくれていた。
「サヨに似合っているよな? キール・ロワイヤル。
『王家のキール』、なあ王妃様」
「めずらしいじゃない? あなたがモスコミュールを頼むなんて。
どういう風の吹き回しかしら? 新しい女でも出来たの?」
「このカクテルの意味を知っていて言っているくせに。
相変わらず嫌味な女だ」
「だったら回りくどいことしないで、ちゃんと謝りなさいよ」
「アイツとはただ一緒に食事をしただけだ。別に何がどうしたわけじゃない」
「ふーん、最近ではホテルでエッチすることを「食事」って言うようになったんだあ? 知らなかった」
俺は話題を変えた。
「モスコミュールはな、ウオッカをジンジャエールで割ったやつだが、「モスクワのラバ」という意味がある。
ラバは後ろ足で蹴る癖があり、強い酒のことを「キックがある」と表現することから、この名が付けられた。
ハリウッドのBARで大量に余ったジンジャエールを処分するために考えられたカクテルらしい。
そしてこの酒の酒言葉はサヨが言うように「仲直り」の意味がある」
「しないわよ、仲直りなんて」
「サヨこそ珍しいじゃないか? そんな弱い酒」
「ホントはね、キールにしようか迷ったんだけど、ロワイヤルにしたの。
なんとなく炭酸が飲みたくて」
「ブリュットで作ると旨いよな? 殆どの店は安いスパークリングワインを使うが」
「ウチの店はブリュットですよ、しかもモエ・エ・シャンドンですからね」
「わかってるよ、マスターの酒は銀河一だ」
マスターはうれしそうに笑った。
「私、再婚しようかなあ?」
「相手は?」
「これから探す」
「俺じゃダメか?」
「その気もないくせに」
私は一杯目を口にした後、カップの淵にあるライムを外し、モスコミュールに絞るとそのまま銅のマグカップへ落とした。
鮮烈なライムの香りが広がった。
「爽やかな香りね? なんだか頭がスッキリするわ」
すると小夜子はグラスを一気に空け、
「マスター、ワイルドターキーをダブル、ロックで」
「かしこまりました」
「ごめんなさい、やっぱりテキーラにして、それとライムも」
「はい」
それは彼女の俺への説教が始まる前兆だった。
私もそれに備えてモスコミュールのお替りを注文した。
「マスター、同じものを」
小夜子は笑った。
「もっと強いお酒にしたら? 今夜はたっぷり虐めてあげるから、言葉攻めで」
「お手柔らかに頼むよ」
私も小夜子も笑った。
私たちの夜が更けていった。
第2話 恋と愛
テキーラ・ショットの三杯目を飲んで、潤んだ瞳で私を見詰め、小夜子が言った。
「奥さんのこと、まだ愛してる?」
「サヨはどうなんだ? まだ旦那を愛しているのか?」
「私が質問しているのよ、質問に質問で返すなんてダサいわよ。いいから答えて!」
小夜子は頭の切れる女だ。面倒な質問には質問返しで応戦するのがセオリーだが、彼女にはそれは効かない。
俺は別の手を考えることにした。
「どうだろうな? そもそも結婚して夫婦になっても愛はあるのかなあ?」
「否定しないということは、まだ愛しているって白状したようなものよ。
このペテン師! 偽善者!」
「でも俺がどう思おうが、離婚したんだからそれで終わりだ。
俺はサヨを誘惑したんだから。
マスター、マティーニを」
俺は酒をマティーニに替えた。
こんな時、ジェームス・ボンドならなんて言うのだろう? この美しい野獣に。
「あら、誘ったのは私の方よ。でも、誘わせるようなことをしたのはあなたの方だけどね?
罪な男。
一体、何人の女とヤレば気が済むのかしら?」
「サヨだけいればそれで十分だよ」
その時、小夜子は俺の手を取り俺の小指を少しだけ強く噛んだ。
私はされるがままにしていた。それはまるで子犬が甘噛みするかのように。
小夜子が俺の指を口から離すと、小夜子のルージュと歯型が小指に付いていた。
「あー、歯形が付いてるぞ。コラッツ」
「お仕置きよ、後で別なところにも歯形を付けてあげましょうか?」
「勘弁しろよ」
「ああ、どうしてこんな浮気者と付き合ってるんだろう? 私。
私ってバカなの? どう思う?」
「サヨは頭は良いけど賢くはない。俺みたいな男と付き合っているんだから。
でも俺はしあわせだよ、サヨとこうして飲んでいることが」
「ホントにあんたって男はズルい男。いつも私の撃った銃弾をスルリと躱してしまう。
そして撃った私はいつも傷だらけ・・・」
小夜子が俺を「あなた」から「あんた」に呼び方を変えた。
それは彼女にスイッチが入った合図だ。
「サヨはダイヤモンドだろ? 傷付くことはないはずだけどな?」
「ダイヤだって傷付くの! マスター、お替り」
「かしこまりました」
俺はマティーニを一口飲んだ。
「なあ、恋と愛ってどっちが上だと思う?」
「愛に決まってるでしょ、そんなの!」
「俺はそうは思わないな」
「どうして?」
「愛ってさ、船や飛行機が自動操縦しているようなもんじゃないのかな?
つまり、安定して動いているというようなさ。
飛行機にはクリティカルイレブンといって、離陸の4分と着陸の7分が一番危険なんだそうだ。
そのクリティカルイレブンが恋なんじゃないかな?
恋が愛に変わるまでのドキドキが俺は好きだ。
そのまま愛に発展するか? それともそこで終わるか?
結婚もそうだ、ドキドキ感がないと長続きはしないものだ。
俺たちのお互いの結婚のようにな?」
「どうして私がアンタと付き合っているのか、わかった気がする。
アンタはいつも理屈っぽいからだ!
前のダンナはイケメンだったけどあまり会話がなかったもん。
それが退屈だったんだと思う・・・」
「理屈っぽい男は女にモテないけどな?」
「私は好きよ、だって反論出来るから退屈しないもの。
喧嘩出来るじゃない? ああでもない、こうでもないって」
小夜子の言う通りだった。
俺たち夫婦にもあまり会話がなくなっていた。
女房は俺に対して反論しない女だった。
「ねえ、もっとお話して」
「そろそろ帰ろうか?」
「じゃあおんぶして」
「いいよ」
小夜子は私におどけて背中に抱き付いた。
「好き・・・」
耳元で小夜子が囁いた。
その時俺は、首筋に冷たいものを感じた。
それは小夜子の涙だった。
俺たちの関係はクリティカルイレブンを過ぎて愛に変わろうとしていた。
第3話 亡き親父と俺たちの酒盛り
「ここは卵焼きが美味いんだよ、ふわふわで。
サヨは卵焼きが好きだから。お勧めだよ」
「じゃあそれと・・・、へえー、富山の『黒づくり』もあるんだ? 懐かしいなあ。
黒づくりとホタテのお刺身もお願いね。
お酒は純米大吟醸の『飛露喜』を常温で」
「俺は『九重桜』を」
「かしこまりました」
「よく来るの? このお店」
「なんとなく、親父に会いたくなった時にね?」
「亡くなったお父さんに?」
「そう、ここに来ると親父に会えるんだ」
「どうして?」
「俺の親父は岩手の地主の末っ子で、飛行機のパイロットになるのが夢だったんだ。
自衛隊のパイロットの試験に合格したらしいんだが、その当時はまだ戦後間もない頃で、親父の母親、つまり俺の婆ちゃんがその合格通知のハガキを隠してしまったそうだ。
特攻隊のイメージがまだ強かったからだろうな?
親父はそれを責めなかったそうだ。それは母親の自分への思い遣りだと思ったはずだ。
その後、親父は婆ちゃんのコネで銀行員になった。
親父は中々のいい男でね、若い頃の写真は津川雅彦の若い頃にそっくりだった。
当然、銀行でも人気があり、ある女性と恋に落ち・・・」
「それであなたが生まれたわけね?」
「いや、そうじゃないんだ。
その女性と親父は心中未遂をしたそうだ。
もちろんこれはお袋から聞いた話で、親父から直接聞いたわけじゃない。
親父は銀行を辞め、親戚の叔父さんを頼って酒蔵に入り、杜氏になった。
そして親父が作っていたのが、この大瀧酒造の酒、『九重桜』なんだよ」
俺はその酒を味わうように飲んだ。
すると小夜子は私の盃を取り上げ、その酒を飲んだ。
すらりと伸びた白い腕が、サテンのブラウスから覗いていた。
「甘口なのね?」
「親父が作っていた頃のやつとは違うはずだ。
子供の頃、親父の自転車の後ろに乗って、よく酒蔵について行った。
お袋に弁当を作ってもらってね。
小学校の2年生くらいの夏休みだったかなあ。
瓶詰をする酒瓶にコルク栓を乗せる係だったんけど、子供だから乗せられなかったりする。それがとても悔しくて、親父に申し訳なくて泣いたよ。
今でもあの酒蔵のいい香りは忘れない」
「これがあなたのパパのお酒なのね?
あなたのパパと一緒に飲んでみたかったなあ」
「俺は親父に怒られた記憶がないんだ。一度も。
いつも静かで、家に帰ると毎日晩酌をするんだが、サントリー・レッドのボトルを半分、ストレートで飲んでいた。
だが、乱れるような飲み方はしなかった。
博識でね、俺はいろんなことを親父から教えてもらった。
小夜子とは話が合っただろうな?」
「なんだか素敵なお話ね? 絵画や小説、映画なんかもそうだけど、その人が作ったものが、こうして後世に残っているなんて。
お父さんは、いつ亡くなったの?」
「14年前だ。俺が事業に苦しんでいる時だった。
生きていれば87才になる」
「あなたが恋愛体質なのは、パパさんからの遺伝なのかしらね?」
「どうかなあ、お袋の方かもよ。
そう言えばサヨの激しくて涙もろいところはお袋に似ているかもしれないな」
「じゃあお母さんは綺麗な人なのね、私に似て」
「お袋は今、施設にいて、姉ちゃんと妹が看てくれている。
俺はもう何年も会ってはいない・・・」
俺は小夜子の『飛露喜』を飲んだ。
「いい酒だ、切れが良くて深い酒だ。
会津坂下町の廣木酒造の酒だったかな?
会津はいい酒が多い。
親父がよく言っていたが、本当にうまい酒というのは「水に近い酒」なんだそうだ。
水に近づけて、酔い心地がいいなんて、難しいだろうなあ」
「ふーん、そうなんだ。
私たちもそうなるといいね、水みたいに自然で、そして酔い心地のいい関係になりたいなあ。
ねえ、パパさんと三人で乾杯しようよ。
すみません、盃をもう一つ下さい」
私はカウンターの小夜子の手に自分の手を重ねた。
親父が隣でうれしそうに笑っているような気がした。
「親父、俺の女、いい女だろ?」
私はその夜、かなり酔った。
とてもいい酒だった。
第4話 焼肉とビール
小夜子は美しい華奢な喉に、冷えた生ビールを流し込んだ。
「冷たくて美味しい~! 昼間飲むビールは最高ね?」
「俺はキャンプとか、バーベキューをしないからわからないが、青空の下で飲むビールはもっと旨いのかもしれないな?」
「昼は昼でも、焼肉屋さんでのお昼だからね?
気持ちいいんだろうけど、私、アウトドアの服は持ってないし、虫に刺されるのもイヤ。
蛇とか熊さんも出るだろうし。
バーベキューは後片付けも面倒だし、手が汚れるでしょ?」
「サヨには山は似合わないよ、ビーチでのビキニなら似合うけどな」
「別に外で飲まなくてもいいの。時間的に昼間であればそれで。
みんながお仕事をしている時に、こうして飲む背徳感? ちょっと不良になった気分がいいのよ」
「外で焼肉よりも、俺は店の中での焼肉の方がいいな? ビールもキンキンに冷えているし」
「焼肉とビール、私とあなたみたいね?
これでワンセット、どちらが欠けても駄目」
「俺が焼肉?」
「私が焼肉よ、肉食系だから」
「ビールって不思議な酒だよな?
あのピラミッドを作っていた労働者の賃金は、ビールで支払われていたと聞いたことがあるが、それだけ魅力のある飲物だったんだろうな? 生温いビールでも。
ビールは麦芽をビール酵母で発酵させてアルコールにするんだが、炭酸の爽快感とホップの苦みのあるラガー、ピルスナーが主流だ。
他にエールとか色んなビールがある。「液体のパン」とも呼ばれ、紀元3000年も前からメソポタミアのシュメール人は既にビールを飲んでいたそうだ。
そのビール作りの行程が「モニュマン・ブルー」という粘土板に描かれているらしい」
「そんな大昔からあるの? ビールって?」
「そうらしいよ、そしてその後、修道院でも作られるようになる」
「お酒を修道院で?」
「ほら、キリスト教ではパンは「キリストの肉」だろ?
ビールが「液体のパン」なら、それは「液体のキリストの肉」だというこじつけさ。
そしてジャンジャン旨いビールを作ったわけだ。
男ばかりの修道院では、そりゃ酒も飲みたくなるはずだ。
酒を飲んで魔女狩りで女をレイプして、今のキリスト教にはその面影もないけどな? もちろん男色も盛んだったはずだ」
小夜子はハラミを口にした。
「こういう洒落た焼肉屋のビールはピルスナー・グラスタイプが多いのがチョッと残念だ。
俺は一度に飲む量が多いから、このグラスだと1回で飲み干してしまう。
サヨみたいに、どんな酒も同じペースでは飲めないから。
大ジョッキで豪快に飲みたいよ。何度もお替りするのも面倒だし」
「私は大ジョッキだと温くなるのがキライ、重いし。それにお洒落じゃないでしょ?」
「ドイツに行くと、あまり缶ビールは見かけないんだ。殆どが瓶ビール。
おそらくそれはアルミ缶の匂いが嫌なんだろうと思うんだ。
死んだ親父もよく言っていたよ、「缶臭くて缶ビールは旨くない」ってね。
だからいつも親父は瓶ビールばかりを飲んでいた。
ビールは昔、長靴で飲んでいたらしい」
「えっー、私のピンヒールにシャンパンならいいでしょうけど、あなたの長靴でビールはねえ。
ちょっと考えちゃうな」
「踏み絵だな? サヨが俺を本当に愛しているかどうか?
愛していたら飲める筈だ」
「あなたは私のヒールでお酒が飲める?」
「もちろんだよ! よろこんで!」
「うーん、じゃあ私も飲むわ」
「ホントに?」
「うん、でももっと意識がなくなるまで飲んでからね?」
「まるで手術の時の麻酔じゃないんだから。あはははは。
すみません、生お替り。サヨは?」
「私もお替り」
「じゃあ、生、3つね、俺、すぐ飲んじゃうから俺はふたつ、一度に持って来てね」
私と小夜子の焼肉宴会は、いつものようにダラダラと続いた。
人生には旨い酒といい女がいればそれでいい。
この女に惚れて、本当に良かったと思った。
第5話 情熱の赤ワイン
「あなたってワインも詳しい?」
「あんまり得意じゃないな、ワインは奥が深い。
というより、出口のないラビリンスと言った方が正しい。
何しろワインは「キリストの血」だからな?」
「お酒、大好きなのに?」
「それは、女なら誰でもいいというのと同じだよ」
「お酒と女は違うでしょ?」
「いや、俺にとって酒と女は同じだ。どちらも俺を酔わせてくれる」
「似合わないわよ、あなたにそんなセリフ。
あなたって頭はいいけど、バカだもん」
「サヨはバカじゃないけど頭もいい。
でも、俺に対してはデリカシーがねえよな? ちょっとは労われよ。
一応、年上なんだからさ」
「年上なら年上らしくしなさいよ」
「それ、そういうところがやさしくねえんだよなあ」
「これが私のいいところよ。優柔不断のダメ男に厳しいダメ出しをするの、私、好きよ」
小夜子はそう言って、笑いながらワインを飲んだ。
(ワインの似合う女だな? 小夜子は)
と、私は思った。
ワインに限らず、酒の似合う女はいいものだ。
「ワインならワインバーでもよかったのに、こんな高級フレンチじゃなくても」
「俺はワインの良さをよく知らない。ワインって料理と合わせることで、どっちも美味さが引き立つと思わないか? ワインだけ、料理だけを味わうよりも。
世界中に酒はあるが、フランスには料理に合うワインを選ぶだけの仕事があるんだぜ。
酒の専門家は沢山いるかもしれないが、料理との相性、つまり、結婚相手を選んでカネがもらえるなんて仕事、他にはないだろう?」
「ソムリエさんって、凄いわよね? これだけ多いワインリストの中から、「このお料理にはこのワインが合いますよ」って断言するんですもの」
「ソムリエになるには最低100万円は掛かると言われる。
50万円、20万円 10万円、5万円と、まずは基本のワインの味を押さえる必要があるからだ。
そしてフランス料理にも精通していなければならない。
フレンチを知るにはフランスの文化、生活、芸術、そして言語を習得しなければならない。
田崎真也など、まさに奇跡のソムリエだ。
アジア人がフランス人にワインで認められるなんて快挙だからな? 彼のソムリエとしての能力は人種差別を超えたんだ」
「ロマネコンティなんて100万円を軽く超えるしね? 飲んでみたいなあ、どんな味がするのかしら?」
「そのうち飲ませてやるよ」
「絶対によ、ハイ、指切り!」
潤んだ瞳で俺を見つめる小夜子の白く、しなやかな指。
私は指切りをさせられた。
「ちなみに50万円クラスだとシャトー・ペトリュス、ボルドーのポムロール産の赤ワインがいい。
スクリーミング・イーグル・カベルネ・ソーヴィニヨン・ナパバレーの1992年のヴィンテージワインに至っては、5,000万円以上の値がついたといわれている。
そしてブルゴーニュのロマネ村で作られるロマネコンティについては、農薬を一切使わず、月の満ち欠けに合わせた「ビオディナミ農法」により栽培された、神秘の葡萄で作られているそうだ」
「一度は飲んでみたいわね? そんな神秘のワイン」
「それにはどんな料理が似合うのかなあ?
俺はシェフじゃないが、もしかすると一流のフレンチの料理人は、ワインに料理を合わせているんじゃないだろうか?
このワインにはこんなソースが似合うはずだとね?」
「ねえ、私たちはお似合いのワインとお料理なのかしら?」
「どうかな? 似合っているかは別として、俺はサヨという高級ワインが好きだけどな?」
「ありがとう、私もあなたという高級フレンチが好きよ」
私は小夜子の大きなワイングラスに、ボルドーの赤ワインをゆっくりと注いだ。
精一杯の愛を注ぐかのように。
最終話 砂漠に咲く薔薇
紅葉が美しい山荘にやって来た。
パチパチと燃える暖炉の炎を見詰め、小夜子はヘネシーのXOを飲んでいた。
私は彼女の隣でテキーラをロックで飲みながら、ハイファイセットの『燃える秋』を軽く口ずさんでいた。
燃える秋 揺れる愛の心
人は出会い ともに生きて行く
「誰の唄?」
「ハイファイセットだよ、人は出会いともに生きて行く、いい詩だろう?
五木寛之が作詞をしたんだ」
「本当に燃えるような秋の紅葉ね? とっても綺麗」
「君はどの季節が好きだい?」
「そうねー、冬かな? 真っ白な冷たい冬」
「どうして?」
「だってお酒が美味しい季節じゃない?」
「酒は年中旨いと思うけどな?」
私はグラスの氷を鳴らして、ミントの葉を浮かべただけのテキーラを飲んだ。
「俺は夏だな? ギラつく残酷な太陽の夏」
「どうして?」
「ビールが旨いから」
小夜子はクスッと笑った。
「私と同じじゃない?」
私は小夜子の手を片手で握った。
「若い頃、モロッコのカサブランカで薔薇の形をした砂の化石を見たことがあるんだ。
サハラ砂漠が近くてね? 砂漠ってさ、すごく綺麗なんだよ。朝は黄金に輝き、昼間は地平線が燃えるようなピンク色になるんだ。そして夜は昼の灼熱を忘れ、月明かりに銀色に輝く。
でもね、砂漠は死の世界でもある。
音もなく、焼かれるような太陽と砂。
水も緑もない。
迷い込めば干からびてミイラになって死んでしまう。
そんな砂漠に出来るんだよ、薔薇のような石が。
それをDesert Rose、あるいはSand Roseとも言う。
小夜子、君は俺にとっての砂漠に咲く永遠のDesert Roseだ」
小夜子はハイバックの椅子に座っている私の膝の上に乗り、首に細い腕を回した。
彼女の紫のタートルネック越しに乳房が当たり、シャネルのアリュールの甘い香りがした。
「買ってよ、その砂漠の薔薇が欲しい」
「いいよ、今度探しに行こう、砂漠の薔薇を」
小夜子はそう私の耳元で囁き、頷いた。
「ねえ、私のこと好き?」
「もちろん」
「愛してる?」
「愛してるよ」
「じゃあ、お嫁さんにして」
「それは出来ないな」
「どうして?」
「だって俺は小夜子よりも先に死ぬから」
「そんなのわかんないわよ、明日、私が先に死んじゃうかもしれないじゃない?」
私は小夜子を強く抱きしめた。
「死なせやしないよ、絶対に」
「だったら私もそう、絶対にあなたを死なせはしない、絶対に・・・。
あなたが死んだら、私も死ぬわ・・・」
赤く燃える暖炉の炎。
私はこの女に惚れて良かったと思った。
もっと早く出会っていればなんて思いはしない。
人生は一寸先は闇だ。
私は今、この女に確実に酔わされている。この小夜子という美酒に。
それでいい、そしてこれ以上、私は何を望むというのだ?
「小夜子のヘネシー、俺も飲みたいな?」
小夜子はグラスのブランディを口に含むと、キスで私の口にそれを流し込んだ。
「おいしい?」
「どんなヴィンテージの酒よりも、酔い心地のいい酒だ」
「私を独りぼっちにしたら許さないから」
「俺が死んで生まれ変わって、小夜子の前に現れるよ。今度はジャスティン・ビーバーになって」
「そんなんじゃなくていい、今のまま、幽霊になって戻って来て頂戴」
「・・・怖いだろう? 幽霊じゃあ?」
「あなたの幽霊なら全然平気よ、だってあなたの幽霊だもの」
私たちは長いキスを交わした。
それから4カ月後、私は満開の桜の季節にこの世を去った。
小夜子の前に幽霊となって現れることもなく。
『酒と女』 完
【完結】酒と女(作品230501) 菊池昭仁 @landfall0810
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