電子の海

亥之子餅。

電子の海

 ――――西暦2094年、香港。

 科学の発展により、あらゆる物資やインフラが電子的に制御された時代。ホログラムと超高層ビルが屹立きつりつする、世界屈指の未来都市。


 その夜、遥か上空を見上げ、人々は目を疑った。


「お、おい……なんだあれは!?」



 ――――それは、突如として現れた、巨大なクラゲ。



 狭く窮屈な空を覆いつくさんと横たわるその全長は、優に1kmを超えている。青白く発光する長い触手を伸ばし、悠々と夜空を漂う。

 報道機関のヘリやドローンが、けたたましいプロペラ音を立てて飛び交い、競い合うようにサーチライトを放つ。


≪こちら香港上空です! 突然、正体不明の巨大なクラゲが――≫



 リポーターが伝えようとしたその時――クラゲが、その長い触手を振り払った。

 飛んでいたものたちをぎ払い、連鎖するように空中で次々とぜる。赤黒い光に照らされて、クラゲの巨体が漆黒の空に浮かび上がる。


「――――おい! まずいぞ!」


 群衆の中で、誰かが叫ぶ。

 すると次の瞬間、砕け散り炎上したヘリの破片が、街に降り注いだ。そこらじゅうで二次的に爆発が起こり、瞬く間に火の手が広がる。人々はパニックになって叫び声をあげた。


***


 誰もが逃げまどい阿鼻叫喚あびきょうかんする最中さなか、ある中年の男だけは、急いで廃屋はいおくの階段を駆け上っていた。


「間違いねぇ……ここの屋上に、明らかに様子のおかしい奴がいた……!」


 闇市で手に入れた電子ドーピング剤をこめかみに打ち込み、さらに速度を上げる。なかば飛び込むようにして、屋上に出る扉を蹴破った。


 そこには一人の少年がいた。

 パーカーのポケットに手を突っ込んで、頭上のクラゲを見上げて立っている。


「おい! お前何して――――」


 怒鳴りつけようとしたとき、ゆっくりと少年が振り返る。

 青白いクラゲを背に、深いマリンブルーの瞳が、宵闇に鋭く輝いた。


「やあ、待ってたよ」


 少年が言う。やけに落ち着いた口調に、男は言葉を失ったまま立ち尽くした。


「あれ、僕のこと忘れちゃったの?」


 黙り込む男をよそに、少年は楽しそうに続ける。


「僕ね、無かったことにするんだ。――――この街も、全部」


「……は? んなことされて堪るか――」

「――――だからぁ、忘れちゃったの?」


 呆れたように少年が溜息をく。


 そして男の瞳を見つめ、にっこりと笑って言い放った。



「恩返しに来たよ、おじさん。一緒に帰ろ?」



 少年の背中で、クラゲは街の夜空を――崩れゆく電子の海を、ゆらりと光り揺蕩たゆたっていた。



<続……?>

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