第7話 これから生きていくために
黄泉路芽生が生きてきた世界は、煌びやかに輝いていた。全てに興味を持てたし、誰だって分け隔てなく接することが出来た。
ただそれも、中学までの話。それから世界は色褪せた。
美しく見えた人間関係も、綺麗に思えた生きる世界も、全てがくすみ始めた。高校に入り、それは若干の緩和を見せたものの、先日色の無い世界はついに意味を失った。
この世界は生き辛い。
そう思った人間は二つに分かれる。世界そのものを壊す人間と世界そのものから離脱する人間。黄泉路芽生は、後者だった。
だから、死を望む。だから死を選ぶ。そのためならば、どのような手段だって使う。藁にだって縋るだろう。
こうして公園に訪れたのも、死に向かう手段の一つであるつもりだった。
「ようやく、終わるんですね」
公園に訪れた足音を聞き、振り返る。
「殺してくれるんでしょう? 夢幻堂の透瀬さんと、学園の人気者笹川さん。それと、淡海君」
微笑みかけるが三人の表情に変化は無い。透瀬以外の二人は顔に影を作り、納得のしていない様子だ。
「本当に、死にたいの?」
笹川とは直接の接点は無い。ただ彼女は学園内では正義感が強いことで有名だったし、間違いなく一定の人気を誇っていた。
だから、正義感に溢れる笹川がそんなことを訊いてくるのも、予想出来た。
彼女はこういうことが許せない性質なのだろう。真っ直ぐ、見透かすような視線で射抜かれる。
それに黄泉路は、満面の笑みで肯定してみせた。
気持ちに変化はない。何があっても死を選ぶだろう。薄汚れた世界はもう見たくない。きっとどこの世界だって、そう大きく変わりはしないのだろうけど、せめてもう少し、光り輝いて欲しかった。
「さて、もう話は終わりでいいですか? 私、早く殺してほしいんです」
「黄泉路……っ」
「淡海君とも、お別れだね」
彼を見るだけで、そんな悲しい顔をされるだけで――
本当は――
「へえ……」
笹川が力強く、一歩踏み出す。その瞳に映るのは、様々な感情。正でも負でも、ありとあらゆる葛藤が見て取れる。
「あなたが殺るの? てっきり、透瀬さんだと思ってたけど。まあ殺してくれるのならどちらでも構わないんだけどね」
「本当に……」
笹川はどこからか手袋を取り出し、右手にはめる。その表情には未だ迷いが見え、殺気は感じられない。
けれど――
「……凄いね。一体どういう理屈なのかな」
その手袋をはめた瞬間、彼女の手から火柱が上がった。夕刻の明かりに馴染むような朱色の光。真夏の日射しを思い起こさせる、それ以上の高温。
熱で空間は歪み、光が眩しく目を潰す。
恐らく、その火が彼女の殺す手段なのだろう。
「それじゃあ早く。殺して見せて。抵抗も、何もしないから」
「……っ!!」
その足はさらに強く、その体は前へと弾ける様に跳躍した。
距離は近く、瞬く間に笹川と手が触れ合うほどにまで、空間が詰められた。
火が近い。それはそのまま、死の距離を表す。
目の前に迫るそれに、黄泉路は思わず笑みを零す。場違いであることは理解出来ているが、それでも、嬉しいのだ。
笹川が何か動きをした。そう思った時には、もう既に爆音が耳を鳴らしていた。
肌が焼けるのが分かる。命そのものを奪い取ろうとしているのも分かる。
炎が髪を燃やし、身を打つ衝撃に全体が軋んだ。
そこに痛みも何も感じない。ただあるのは、死へと近づける喜び。それは間違いなく、待ち望んでいたものであったはずなのに。
ただ、その業火に身を包まれても――
「足りない……」
身を纏う炎は確かに身を焼いている。起きた爆発は確かに人を死にまで至らしめるものであるだろう。
そうであっても、足りないのだ。
「殺意が、あなたには無いのね。その程度では、今までのどれよりも劣るし、私を殺すことは出来ない」
「なっ――」
笹川の腕を掴む。その表情に恐怖は無く、ただ見えるのは、迷いだけ。しかし、今ここではその迷いは必要ない。黄泉路にとって、それは障害以外の何ものでもなかった。
「殺すか殺せないかのギリギリのラインを狙った、ってところかな。やっぱり笹川さん、人殺しには向いてないよ。優しすぎるんだよ。……もしかしたら、もう少し追い詰めれば本気出してくれるのかな。生存本能レベルにまで追い詰めたら、私を殺してくれるかな」
「や、止めてっ……!!」
掴む手に力が入る。殺されるために、相手を傷つける牙を剥く。
こんな炎程度では足りない。
もっと死を。もっと絶望を。もっと地獄を。もっと悲惨を。もっと殺意を。
もっと、もっと。もっともっともっともっと!!
望んでも叶いきれない。願っても達しきれない。求めても満たしきれない。
早く、早く死を……!!
「全く。覚悟も出来ていないのに飛び込むからそういうことになるのよ。しっかりと、相手の望みを叶えてあげる。それが夢幻堂の仕事でしょう?」
「……」
何時の間にそこにいたのか、夢幻堂の店主が間に割り込んでいた。
透瀬はファンタジーで見るような足元まで隠せるようなローブを身に纏い、その感情のない顔を黄泉路へと向けた。
「あれで殺せるのなら、それに越したことは無い、というだけの話だったのよ。でもまあ、やはり荷が重かったみたいね」
これは、この人は、異常だ。何処がどのように異常なのか、今ひとつそこら辺は分からない。けれど、得体のしれない、底知れない闇を覗き込んでいるような感覚に陥る。
炎は収束し、代わりに訪れた闇に、黄泉路は喜びを隠せずその表情を露にする。
一体どうやってこの店主は、殺そうというのだろうか。
そんな疑問が口に出る前に、透瀬が口を開く。
「死を強く、イメージしておくといいわ。そうでなければ、その石に負かされてしまうから」
『死神の御守』
確か彼女はそう言っていった。致死は誘うが、死へは届かない。そんな不思議な道具。
きっと恐らく、人類には到底成し得ないような事象をもって、その石の効力など無に帰す勢いで、殺しに来てくれるだろう。
笹川もそうだが、夢幻堂の人間からは異質な雰囲気を受ける。先程の、何もないところから出現する炎だって、原理こそ分からないが、不思議と疑問を覚えない。漠然と、そういうものだと、思い込まされてしまう。
透瀬からも、それと同じ雰囲気を覚える。
黄泉路はその雰囲気を足掛かりに、言われた通りイメージする。
死を。明確な命を絶つビジョンを。
刺殺、撲殺、銃殺、絞殺、斬殺、毒殺、圧殺、焼殺、爆殺……。
一体どの方法で殺してくれるのか。
何でもいい。ただ、殺してくれるのなら――
「はい。これでいいわ」
透瀬の言葉がやけに響いて聞こえる。透瀬の姿が遠ざかっている。
気づけば、笹川の姿も無い。代わりに、笹川を掴んでいた手には糸が巻かれていた。
「これは……?」
見覚えのある光景。確か昨日、賢護と似たようなことをした。おまじないだとか何とかと言っていたことを思い出す。
ただ違うのは、糸は指で巻き終わることなく、透瀬の方へと伸びている。
「繋がる意思は強く。糸に想いを乗せ、その硬さはより強固に。繋ぎ目を切断するほどに、何者も寄せ付けない、強靭な刃となる。賢護君が黄泉路芽生を助けたいという想いと、私が彼女を救いたいという想いがあれば、きっと望む結果が得られるわ。さて……」
不吉な余兆。背筋が凍るように、この空間を支配するように、それは酷く全身を蝕み粘りつく。
これが本当の、死。今まで知ることも無かったその感覚を、黄泉路は深く噛み締める。
死とはこれほどまでに、気持ち悪く。これほどまでに、逃げ出したくなるものなのか。
成程道理で。これを選択する人間が圧倒的に少ないはずだ。
「――覚悟は、出来ているわね」
有無は無い。決意ならば、とっくに築き上げている。
あとは――
「さようなら」
透瀬の手が、宙を飛んだように見えた。
それが、最後に見た景色。
それと同時に、身体が崩れる感覚。手足の重みは消え、重力に負けていることが分かる。
何が起きたのかは、直接見たわけではないので分からない。それでも手足の消失は、認識出来る。
不思議なほど、冷静だった。
不自然なほど、あっという間だった。
「――!!」
誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
何か温かい液体が顔を濡らすが、そこに意識を向ける前に、思考がその幕を閉じる。
――ああ、ようやく。
最後だけは。ほんの少しだけ。自分自身の意思を。
――私は、死ぬんだ。
■
目を覚ますと、そこは真っ白な世界だった。
ただ、ぼんやりとした意識が覚醒してくると、その世界は白を基調とした一室だということが分かった。
未だ覚め切らない頭で室内を見回す。
開けた窓のようなものに、はためくカーテンのようなもの。身体に被さっているのはシーツのようなもので、壁も天井も、人工的な白さで統一されていた。
そして――
「……やっと、目を覚ましたか」
旅立ったはずの世界。そこに生きているはずの人間が、傍らに座っていた。
一気に、その事実が脳を揺さぶる。唐突に、全身に力が入る。
「どうして……」
事態が飲み込めない。いや、ただ認めたくないだけかもしれない。
ここが夢世界でないのならば、ここはきっと、自分の求めた世界ではない。
つまりここは――
「また、死ねなかったのね……」
紛れもない現実の世界。一刻も早く離れたかったはずの世界が、目の前に広がっている。
「ああ、ここはお前が生きなきゃいけない世界だよ」
「淡海君は、どうして……」
愚問だと、問い掛けた直後そう思った。自分の身に何が起きたのかは、分かっているつもりだ。
あの状況、あの場で、彼が何もしないわけがない。それは、よく分かっていた。
「良かったな。切断された手足も、元通りに近い状態で引っ付くらしいぞ。切断面が綺麗で良かったって、医者がそう言ってた」
やはり、そうなのだ。助けられた。それで、死ねなかった。ただそれだけの結果だった。
「多分、これで良かったんだ。透瀬さんも、初めからこれが狙いだったのかもな」
「何も、良くないよ……」
死を望んだ。死だけが正しい選択なのだ。
けれど結果、生きてしまっている。逃げたかった世界に、今尚取り込まれている。
これは望まない結果であるはずだ。
「何で、何で生かしたの? 私が死にたいの、知ってるでしょ? ここで生きていても私は幸せになれない。この世界に身を置いている以上、私は一生、死よりも辛い道を生き続けるしかないの。淡海君は、私を苦しめたいの?」
「そうじゃない」
「じゃあどうして……!!」
「お前、本当は死にたくないんじゃないのか?」
涼しい風が吹き抜ける。咄嗟に、視線を落としてしまう。
そんなはずはない。死にたかった。世界から離脱したかった。だから、夢幻堂であの石を貰ったのだ。
「本当に死にたい奴は、こんな石には頼らない。人に、世界に死を求めねえよ」
賢護はその石を机に置いた。その輝きは依然として目を引くような黒で、吸い込まれるような闇だ。
「そりゃあこの石を貰ったその時は、死にたかったかもしれない。でもさ、黄泉路はあの日学校に来たよな。不登校で、来る必要も無かったのに。死ぬことを目的としてるなら、無駄な行動だ」
「それは……」
あの日。どうして学校を訪れたのだろう。
覚えているはずなのに、それは今でも胸中に渦巻いているのに、ここでそれを吐露したくはなかった。
「……淡海君には、分からないよ。世界に絶望して、死にたくなる気持ちなんか」
幾ら彼が正論を並べ立てても、幾ら彼が信頼に足る人物であっても、死を否定されるわけにはいかない。
これまで、それだけを求めてきたのだから。簡単に、それを諦めてしまうわけにはいかない。
「ああ、俺には分かんねえ。でもさ――」
一拍置いた彼の顔を見る。その顔は少し複雑で、悲しみや辛みは確かにあるのに、何処か晴れ晴れとした表情だった。
「今生きている今日は、誰かが生きたかった今日だって思うと、それだけで頑張ろうって思わねえか?」
「……別に。そういうのって生きている人間のエゴじゃない。どうしても死にたい人間にはそんな言葉……」
「そうだな。そうかもしれねえ。だけど、必死に生きたい人間だっているんだ。それに、生きていて欲しいって願う人間も、同時に存在するんだよ」
「生きていて欲しいって、願う人間……」
同じ言葉を復唱してみたが、そんな人間思い当たらない。そこまで、自分の存在を大切に思ってくれている人間なんて、いないだろう。
そんな人間がいたなら、こんなところで寝ていない。死を願ったりしない。世界の離脱を望まない。
そんな人間――
「じゃあさ、淡海君は……、私に生きて欲しい、の?」
何故それが口から出たのか、自分でも分からない。
黄泉路にとって、淡海賢護はただのクラスメイトで、ただの友人で―
「ずっとそう言ってるだろ。俺と黄泉路はクラスメイトで、友達だ」
僅かに、鼓動が跳ねた。
ずるい、と自分でもそう思う。
彼ならば、絶対そう答えるに決まっているではないか。
そこまでして、認めたかったのか。そこまでして理由を見つけたかったのか。
これではまるで、本当に、生きていたいと――
「それに、俺の他にもお前のことを想ってる人間がいるんじゃないのか」
「え……」
誰のことか。思考が巡る前に、賢護は立ち上がった。
「じゃあな。また、学校で会おうぜ」
そう言い残し、命の恩人は振り返ることなく立ち去った。
一瞬の静寂。それが刹那である理由は、入れ替わるように入ってきた人物の影響だ。
「芽生さん!! ようやく目が覚めたって――っ」
こちらの容態を気にした様子もなく、病室への闖入者は有無を言わさず、抱きついてきた。
「か、管理人!? そんな、いきなりっ!?」
「だって、芽生さんがまた怪我したって……っ」
年甲斐もなく、ぐずり泣く管理人の重みに苦い顔をするが、それを彼女は見ていないし、引き剥がそうにも四肢は動かない。
思えば。彼女はどうしてここまで自分のことを気にしてくれているのか。
年の差は丁度親子ぐらいか。親としては若いが、思い当たる理由がその辺りしか思い浮かばない。
ただ、今は――
「このままでも、良いかな……」
煩わしい涙声を聞きながら、黄泉路は今を生きることにする。
――世界に幾つか、光が見えた気がした。
――きっとそれは薄い、小さな明かりだろうけど。
――今を生きる理由には、とりあえず十分だ。
夢幻堂へようこそ 秋草 @AK-193
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