第6話 放課後に待つ
淡海賢護はこの数日間、ひたすら待ち続けていた。
誰もいない教室。テスト期間ということもあって、午後には誰一人として居残っていない。それでも賢護は待ち続けていた。
いつもよりも長く、残り続けていたのだろう。気が付けば夕刻だった。オレンジ色の光が、室内を眩しく照らしている。
「帰るか」
どれだけ待っていようが、やはり来ないものは来ない。そもそも来るという確証すらないのだ。
黄泉路芽生に会えればいい。これは、淡海賢護の願いだった。
『あることを言うだけで、彼女は私たちの誘いに乗ってくれるわ』
透瀬に渡されたものを握り締め、彼女の言葉を反芻させながら、立ち上がる。
また明日、残ってみよう。それでも駄目なら――
「あれー? ヨミちゃんじゃん」
他に誰一人居ない静かな空間。唐突に響く音に、賢護の思考はそこで閉ざされた。
教室の外から聞こえたその声、その名前。賢護の脳に嫌なビジョンが描かれる。
「何? 包帯なんか巻いちゃって。もしかして、それで労わってくれるって思っちゃってる? その程度で優しくしてくれるって、そんな甘い考えしちゃってるのかなー?」
「そんなこと……」
「あるわけないよねー。だとしたらあんた、どんだけムカつく奴だ、っていう話よ」
声は近く、鮮明に聞き取れる。その後の賢護の行動は早かった。
「何やってんだ」
勢いよく開け放たれたドアに、一瞬、空気は凍った。ただそれも一時的なもの。先程まで話していた女生徒が口を開けば、それはすぐに氷解を見せ始めた。
「あら、賢護君。今日も帰りが遅いんだね。もしかして、誰か待ってたりしてたのかなー?」
率先して喋る女生徒はニヤニヤと、薄ら笑いをしており、その取り巻きも同じような表情を見せている。
傍らにいる当の黄泉路芽生はと言えば、申し訳ない、という顔だ。
「それとも、苛めんなー、って。正義の味方気取って出てきたって感じ?」
黄泉路芽生苛めの主犯が、意地悪く笑う。
正直、相手もしていられない。何故このタイミングで彼女たちが鉢合わせるのか。疑問しか出てこない。
ただそれをとやかく考えるより、問い詰めるより、変な誤解が生まれるより前に、ここで肯定しておくべきだろう。
「ああそうだ。俺は黄泉路芽生を待ってたんだ」
発言の直後。
明確に分かってしまう場の硬直。似合わない笑いをしていた女生徒は眉を不機嫌に吊り上げ、黄泉路芽生本人は何やら俯いてしまった。
よく分からないが、流れていた不穏な空気はとりあえず解消されたようだ。
女生徒は視線を鋭く、露骨に苛立った表情を見せる。
「あんた、黄泉路芽生につくって言うの?」
「どっちにつくとかって問題じゃねえだろ。それに、俺はただ黄泉路と話がしたいだけだ」
その言葉の真意は。意図は。一切が有耶無耶であるままに、ただ時だけが経過する。
「もういいっ。帰りましょう!!」
賢護と黄泉路とを交互に見比べていた女生徒は、そう叫ぶと立ち去ってしまった。
途端に、辺りは静けさを取り戻す。何となく、気まずい沈黙が二人の間に流れていた。
会いたかったはずなのに、いざ会うと何から話せばいいのか見失ってしまう。賢護が答えを出しあぐねている内に、黄泉路が口を開く。
「ねえ。どうしてこんな時間にまで……」
黄泉路へと改めて向き直る。制服姿ではあるものの、その腹部には不釣り合いな包帯が巻かれており、その表情には生気がない。おまけに、透瀬が言っていた石のアクセサリを首から下げている。
苛められる前の、黄泉路芽生の記憶が霞む。それ程までに、しばらく見ない内に、随分と変わってしまっていた。
「夢幻堂に来たんだってな」
「……」
「その石が、そうか」
黒々とした、妖しく不気味な丸い石。一見すればそれはただの石ころ。見た目には綺麗では無いし、アクセサリには到底適さない。
しかし、それは普通の石ではない。
『死神の御守』
仰々しい名前ではあるが、その効力は名前通りで、死神に守られている。
人を致死にまで至らしめるその石は、死神に守られている結果故だ。
死神の許す死しか受け付けない。よって、死神の御守。
「賢護君が何処でその情報を知ったのかは、この際どうでもいいんだけど。それよりも、この石を知っているあなたに出会ったのは最悪ね。どうせ、止めるんでしょう?」
「当たり前だろ。止めない方がおかしい」
「やっぱりね」
溜め息交じりに紡がれた言葉は、けれど、どこか嬉しそうにも見えた。
ただそんな変化は一瞬で消え、黄泉路は再び憂いを顔に出す。
「でもね、賢護君には悪いけど私の願いは死なの。痛みも苦しみもない、楽にこの世から離脱出来る死を望んだの」
「……っ」
そのつもりでいたのに、彼女の願望は知っていたのに、いざ本人からそれを告げられるとどうしようもない不安に駆られる。いかに透瀬からの秘策があるとはいえ、実際に死へと向かう人間を目の当たりにして怯んでしまう。
けれど、このまま見過ごすわけにはいかない。
「そんな簡単に死ぬだなんて――」
「賢護君は知らないんだよ。この世界には希望も何も無いって。黒くて歪んで、そして醜い世界。今目に見えている現実なんて、そんなものなの。私はそれを、知ってしまったから」
黄泉路は諦めたように笑った。それは儚く、今にも溶けて無くなりそうな、そんな淡い印象を与える。
賢護はここ一週間の黄泉路芽生を知らない。苛められていたという事実のみが先行して、詳しい話は少しも耳に入らなかった。
けれど、それで生を諦めて良いはずがない。死を選んで良いはずがないのだ。
「相談に乗る。ちょっと遅くなったかもしれないけど、きっとまだ間に合うから」
今なら希望は持たせられる。絶望から帰ってこられる。そんな淡い期待を描いてしまう。
しかしそれでも、黄泉路からの返答は素っ気ないものだった。
「やっぱり、ダメ。もう、間に合わないよ」
「……」
ダメだ。今ここで幾ら引き止めたところで、彼女の心境に変化が訪れることは望めない。
「じゃあさ……」
言うべきか言わないべきか。透瀬の言葉を直接伝えれば、恐らく彼女とはまた会えるだろう。だが、本当にそうなってしまいそうで、発言が憚られる。
「何?」
「……明日の夕方、夢幻堂近くの公園に来てくれないか? そこで――」
唾を飲み込む。鼓動が早まる。これが彼女にとって有益になるか、それとも生を与える結果になるのか。
透瀬のことを信頼していないわけではないが、これで命運が決まるのだ。どうしても、その一歩を踏み出すことに、多少の勇気が必要だった。
「――そこで黄泉路芽生。あんたを殺す」
現状、打つ手立てがこれしかなかったとはいえ、かなり不本意だ。自分の無力さに苛立ちさえ覚える。
「へえ……」
そして、やはり黄泉路は笑みを浮かべた。
願望が叶えられるというのだから、誰だって喜ぶ場面ではある。それが死で無ければ、賢護だって共に喜んだかもしれない。
ただそれは、孤独な笑いだった。
「ようやく、終わるのね。長かった……」
笑みの中に、全てに疲れきった表情が見えるのは気のせいではないだろう。生に疲れたのか、それとも死への挑戦からくる疲労か。賢護には、どちらとも判別つけられない。どちらでもあって欲しくないが、恐らくどちらとも当てはまってしまうだろう。
彼女は、変わってしまった。
「話はそれだけ?」
嬉しそうに、そう尋ねてくる。
その笑顔、その表情。それを見ただけで、胸が張り裂けそうに、死を受け入れていることへの悲痛が、賢護に襲い掛かる。
歯を食いしばり、苛立ちを噛み潰すが、それで事態が好転するわけでも、解決するわけでもない。
結局、無力なのだ。
「俺も、夢幻堂で働いているから、当然立ち会うことになると思う。―俺は、黄泉路が死ぬところなんて、見たくない。なあ本当に、死ぬつもりか?」
「――私も……、ううん。この世界は、私には不釣合いだったみたいだから。そこから私が退場しても、きっと何も変わらない。きっと世界は、何事もなかったみたいに、動き続ける」
「そんなこと――っ!!」
「私は死ぬわ。明日が、最後になりそうね」
そのまま立ち去ろうと、黄泉路は歩み出す。本当にこのまま行かせてもいいのか。もっと何か出来ないか。
焦る賢護は、手の内に透瀬から受け取ったあるモノの存在を思い出す。
「じゃあさ、ちょっと手、出してくれるか?」
「何をするつもり?」
「ちょっとしたおまじない、だな」
賢護が取り出したのは一本の糸。そこにどのような効力があるか、どうなってしまうのかは、賢護本人も知らない。ただ透瀬からそれを受け取っただけだ。
「今からちょっとした誓いを立てようと思う」
「誓い?」
「そう。おかしな話だけどさ、また黄泉路と、前みたいに話せるようにってな」
「これから死のうとしてるのに?」
「そうならないための、おまじないだろ」
素直に出された手、その指に賢護は糸を巻きつけていく。
『巻きつけるのはどこでも構わないわ。まあ小指とかが無難でしょうけれど』
透瀬からの言葉を思い出す。
『巻きつける際、しっかりとイメージを持つことが大事よ。このケースならそうね、手足を拘束するイメージいいかしら。全体に巻くのではなく、必要最低限縛り上げる感覚ね』
ゆっくりと、糸を巻いていく。
『これは説得が上手くいかなかった場合の措置に過ぎないわ。これをしたからといって、助かるとは考えないことね』
説得はした。けれど彼女は生を捨てた。賢護として、あとはこの糸に縋る他ない。
しばらく、無言の時が過ぎた。
黄泉路も、何も言わず付き合ってくれている。
やがて、糸を巻き終える。
それはとても丈夫で、白く眩いている。一見すればその美しさに目を奪われるだろう。
ただ、その輝きも一瞬。それは音も無く、光もなく、彼女に取り込まれるように、消え失せた。
「何だったの?」
「一先ず、これで終わりだな」
これで何が変わったのか、何が起こったのか。今この段階で見られる変化は特にない。
ただ今は、これが限界だ。
彼女がどうなるのか、それは明日に掛かっている。
「悪いな。長い間引き止めて」
「ううん。私も、賢護君と話せて良かった。……じゃあ、また明日ね」
充実したように黄泉路は立ち去った。賢護はそれが、たまらなく嫌で、そして、二度と見たくなかった。
「そういえば……」
彼女はどうして学校に来たのだろうか。
新たに生まれた場違いな疑問は、校舎に射し込む夕陽に溶けて消えた。
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