第5話 道具の対価
幸せになりたかったわけではない。
ただ、人並みの生活が欲しかっただけ。最高でも最低でも無い、極めて普通な暮らしを目指してきた。
努力は惜しまなかった。そして、そうすることが当たり前だとも思えた。
しかし、それだけやっても、望んだものは手に入らなかった。
完璧だったのに。自らに非は無いのに。
男の歩んだ人生は、多数の偶然と悪意で、踏みつぶされてしまった。
男の願望は潰えた。男の日常は壊れた。もう再生不可能で、同じ水準にまで至ることは叶わない。自分自身の生きている世界は酷く色褪せてしまった。こんな世界、最早意味など無かった。
だから、殺した。
世界を変えたかったのかもしれない。心の底では悔しくて、憎かったのかもしれない。男は自分に悪意を持った人間を殺してまわった。そうすることで、生きる世界そのものを変えたかった。
悪意は両の手で収まらない数だ。それら全てを根絶やしにするのは骨が折れるだろうし、男にはそもそもその方法さえ思いつかなかった。
さ迷い歩く中、あの店に行き着いたのも、偶然だった。
「――ようやく、終わったか」
男は手にするそれを二、三回振ってみる。カラコロと、スプレー缶特有の音が鳴る。
マスコミを騒がせている男は、現在人通りの多い市街地を歩いていた。
真夏の日射しを受け、心身ともに疲労が溜まるが、それすらも飲み込んでしまえるほど、男は上機嫌だった。
復讐は遂げた。忌々しい相手はもう、この世にいない。自分を取り巻く世界は、一度リセットされただろう。
ならば今度は、今度こそは、変わらない一般的な世界を。
目の前には、様々な人間が行き交っている。
忙しそうな社会人に、暇そうな店員、走る子供にベビーカーを押す主婦。何でもない、数秒後には忘れてしまいそうな日常が広がっていた。
これから、自分もこの世界を構築する一員となるのだ。男が観るその世界は、色鮮やかに彩られていた。
「あの――」
これからの未来に展望を見出し、いざ歩み出そうとした矢先、背後からの声によって止められた。
出鼻をくじかれた。露骨に不機嫌を顔に出しながら、男は振り返る。
少女だった。歳は高校生ぐらいだろうか。それなりに整った顔立ちではあるが、何処か生気は欠けているように見える。
知り合いではない。そもそも人間関係を全て断ち切った男に、知り合いなどいるはずもない。
少女が声を掛けてきた意図を掴めないまま、男は相手の出方を窺う。
「あなた、殺人犯、ですよね」
「――ッ!?」
呟かれたその言葉。喧騒に紛れてしまいそうな小さな声は、しかし、確かに耳に届いた。
だから、耳を疑う。理解が追いつかない。現実を無視してしまう。日常にはおよそ相応しくない殺人は、とっくに終わっている。万が一にも、それが露見するようなことがあってはならない。
男は出来るだけ間を置かず、かく必要もない汗をかきながら、視線をあちらこちらへと泳がせる。
「いきなり、何を言って――」
「あなたと、私。すごく似ているんです。でも、あなたからは強い『死』を感じる。よく分かりませんが」
殺人犯を前にして、少女は朗らかに、捜し物を見つけたような顔を見せた。
何故だか分からないが。
ただ本能で、それに恐怖を覚えてしまった。少女とはこれ以上関わってはいけないと、思ってしまった。
だから、気づけば路地に逃げ込んでいたことも、驚きこそない、納得の上での行動だった。
走り続けていた足を止め、男は振り返る。薄暗い空間が広がるだけで、そこには誰もいない。
うまく撒けたと、そう安堵する暇はなかった。
「どうして逃げるんですか?」
またも背後からの声。弾かれたように振り向けば、やはりそこには少女がいた。
何が楽しいのか、その顔に笑みを貼り付け、ゆっくりと近づいてくる。
得体のしれない少女。彼女が何を目的としているのか、そんなことを頭で考える余裕などない。
その恐怖を生命危機だと誤認した脳が、反射的に今すべき正答を導き出す。最早男に思考は無く、そして何かをしたという意思は無かった。
「……」
少女の瞳は真下に向く。深々と、腹部に突き刺さったナイフと、溢れ出る鮮血に。
「……くっ、また、やっちまった」
男は息を荒く、素早くナイフを抜き取った。辺りには深紅が跳ね、少女の腹からは、栓を抜いたように血が流れる。
もうしないはずだったのに、またこの手で人を殺してしまった。
後悔と、無念が胸中を埋める。
ただ、やはり少女には悪いと思うが、見つかるわけにはいかない。これを最期に、望む普通の世界へ身を移すのだ。
どうせ助からない。男はその場を離れようとし、ふと視界に入った少女の顔に思わず、動きを止めた。
「何で……」
自分は殺人鬼。少女はナイフで深手を負った。今尚それによる流血は止まっていないし、痛みも相当なものであるはずだ。
それなのに、どうして彼女は――
「何でお前は笑っているんだ!!」
その口角は引き延ばされ、血に触れた少女はさらにその笑みを深くする。
「いい殺気、ですね。あなたは本当に、私を殺すつもりだった。その点については、とても嬉しいんです」
けれど、と。彼女は不気味に続ける。
「そんなものでは、私は殺せません。直感ですけど、分かるんです。あるいは、もっと追い詰めれば殺ってくれるんでしょうか」
本能だった。彼女が一歩踏み出しただけで、逃走に至ったという結果は、そうでなくては説明出来ない。
命が惜しい。もっと生きていたい。この世に執着し切った想いを足に乗せ、全力で少女から距離を取る。
「逃げないで下さい殺人犯さん。あなたのこと、周りに言いふらしますよ」
最早言葉からさえも逃げる。何時までも、何処までも追い掛け続けてくる気がして、角を曲がっても、死角に入っても足を止めることが出来ない。
それだけ走っても、一向に差は広がらない。それは、背後の声だけで判別出来てしまう。
「今までみたいに姿をくらませないんですか? どうしているのかは分かりませんが、それならそれで、構いません」
何度も人を殺し、逃げ切ってきた。今までそうしてきたのだ。男は思い出したように、スプレー缶を取り出した。
振り掛けるだけで、その存在を隠滅出来るモノ。何故そんなことになるのか、理屈は全く分からないが、実際にそれで痕跡を消すことに成功している。
男は走りながら、夢中で全身に振り掛ける。中身が無くなるまで、それを吹き掛ける。
これで大丈夫なはずだ。後は人通りの多い場所に出て、姿をくらませるだけ。
それは、わずかに生まれた安堵。それでもやはり、得体の知れない恐怖は大きく、背後を気にしてしまう。
余裕が無かったのかもしれない。あるいは、背後を気にしていたからかもしれない。恐怖が身体を支配した。安堵が隙を呼び込んだ。様々な要因が重なって、男は道路に勢いよく飛び出していた。
「――は?」
悲鳴のようなものが聞こえた気がした。それは誰かの声かもしれないし、迫りくるトラックのクラクションかもしれないし、幻聴かもしれなかった。
何であるかも分からない音が、幾重にも交じり合い、そして、爆ぜた。
時間が止まる、と。そんな奇跡は起こらない。
それは一瞬で訪れ、唐突に終わりを告げる。
その日男は、この世から一切の痕跡を消した。
■
何を探し彷徨っていたのか、最早記憶には無い。何か自分にとってとても都合の良いものだったことは覚えているのだが、その詳細を幾ら探っても、記憶からは何も出てこない。
「こんな傷じゃ、どうせ死ねないんでしょうね」
腹部を触ると紅い粘液が付着した。身体を動かす潤滑油。それが溢れ出ているのに、死とは掛け離れているように感じた。
一体どうすれば死ねるのか。即死でなければ恐らくこの世に留まることになってしまう。一刻も早く、この腐りきった世界から消えたいが、どうにも上手く事が運ばない。
「おい、君!! 血が出てるじゃないか!? 早く手当を……」
まただ。
またこうして死ぬことの邪魔をする。
どうやらやはり、致命傷にしかなれないみたいだ。
だから、尚更渇望する。
死を。人生の終焉を。
きっとそれは、訪れると信じて――
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