ねむりまもり
さなこばと
ねむりまもり
椅子を引く音、友だちを呼ぶ声、駆けていく靴音が俺をどこかへと連れていくような気がする。目を開くとともに、今まで眠っていたことに気づく。俺は椅子に座り、机の上に顔を突っ伏している。周囲の騒々しさは、ボリュームをしぼるような不自然さをもって遠ざかっていく。
俺は顔を上げる。そこは学校の教室で、夕陽が差し込んでいる。人はいない。あの騒がしさはどうして失われてしまったんだろうと思う。
グラウンド側の大きな窓が開いていて、風がそよいでいるのかカーテンがはためいている。ふくらんでしぼむ動きはクラゲのようだ。
俺は、机にかけた鞄を掴み取ると、教室を出ることにする。
廊下は陽射しから遠く、影が差していて薄暗い。空気はわだかまるかのようにじめっとしている。天井の蛍光灯が灯り、次いで点滅し出す。何かが出そうだ、と俺は思う。
階段へと向かうと、下の階から足音が聞こえてくる。俺は立ち止まる。ほどなくして現れたのは――牧奈だ。クラスも学年も違うけれど顔見知りの女子。段差に躓かないように気を付けているのか、ずっと下を向いている。
牧奈は階段を上りきると、ようやく正面に向き直り、俺を見て、
「あれ? 知史がいます。忘れ物でもしましたか?」
と言う。
忘れているといえば、自分がなぜひとりで残っていたのかわからない。
「それは、知史が居眠りし続けていたからでしょう?」
誰も起こしてくれないなんて薄情だと思う。
牧奈はしかし、真剣に取り合ってくれず、くすくすと笑っている。
「知史が気持ちよさそうに眠っている姿、わたしも見たかったのです」
牧奈は微笑みを崩さず、反対に俺は渋い顔になる。
この階段に立っているのはどこか不安定だ。ふとするとバランスを崩して落ちていきそうな、透明な手が伸びてきて突き落とされそうな、不吉な予感が肌を走る。
「下には何もなかったですよ。玄関も閉まっていましたし。だからわたしは階段を上がってきたのです」
牧奈は歩き出す。その長めの髪を揺らして俺のそばを通り過ぎる。静かな足音を鳴らし、進む方向は上階へと続く階段だ。蛍光灯が明滅を繰り返し、向かうその先には一層の闇が感じられる。上から開いた底なしの暗い穴が階段の根っこを飲み込んでいるみたいだ。
帰るという目的を失った俺は、牧奈と一緒に行くことにする。
牧奈の背を追って階段を上る俺は、この校内が無音であることに疑問を持ち始める。靴音だけが聞こえることが、背筋を這いずる違和感で気持ち悪くなる。
着いた階では、草木が茂る床と、壁に天井にと這い回る蔦と旺盛な枝葉が視界に広がる。失った陽射しは若干の回復を得たようだ。ひょっとすると夜が明けたのかもしれない。しかし階段を上るのにそんなに時間をかけただろうか?
目の前で牧奈は壁から下がる葉に触れていたけれど、すぐに飽きたらしく手短な太い根に腰掛けて、俺を見上げる。
「知史は何を忘れたのですか?」
わからない、と俺は答えるしかない。
「そうですか。わたしは、これです」
と、牧奈がスカートから取り出したのは小さな鍵だ。ペンギンのキーホルダーがぶら下がっている。シンプルなデザインの、複製も簡単そうなその鍵を、牧奈は手の中でいじる。
「昔は持っていたのに、最近になって失くしていることに気付きました。こうして戻ってきても、また知らぬ間に落としてしまい、いつもこれを探して、ここに来ています。すごく大切な鍵なのです」
そうなんだ。
「はい。わたしはあの頃が懐かしいのです。とても穏やかな日々で、取り戻したいけれど……。わたしも、あなたも」
あなたも?
ともあれ鍵はもちろん大切なものだ。俺はそれが何の鍵か訊こうか迷い、視線をよそに向けてから、戻す。
先ほどまで話していた牧奈は、姿を消している。緑の繁茂する校内を見回すけれど、どこにもいない。
鍵を手に入れたから帰ったのかもしれない、と俺は思う。
無音が俺の心を責めたてるようだ。
俺は階段に引き返し、さらに上階を目指すことにする。
上るたびに汗がにじむ。じっとりとした熱さが体の内側から湧き出てくる。この校舎の上階はあらゆる窓が閉め切られているのかもしれない。
階段の終わりには扉がある。この鉄でできた無骨な両開きの扉だ。ここから屋上へ出られるのだろう。
俺は取っ手を回し、力を込めて引く。
砂塵が顔に当たる。扉の外には砂漠が広がっている。細やかな砂粒が風に流れる様子は、直視すると目が眩む。俺は腕で顔を覆いながら、広大な砂地へと踏み出し始める。
俺はひとりだ。話していた牧奈もとうに去り、この砂漠には、ほかの生き物が一匹いるかどうかも怪しい。
ひとりだ。
いつも、いつも。
きっと砂の下では、砂漠の虫や動物が寄り集まっていて、地上にひとり佇む俺を嘲笑っているのだろう。かわいそう、あわれ、不思議だねと話しては盛り上がっているのだ。悪い想像を、やめられない。
これだって、いつもなんだ。
こんなところにいる俺を直射日光が追い立てるようで、全身がほてるように熱くて、帰ろうと振り向くと、来た扉はない。後ろも全ての風景が砂漠化している。
進むも戻るもできない諦めの気持ちが、体の動きを鈍くしている。力を込めれば動けないわけではないけれど、もうどうにも動く気力のほうが果てている。
せめてこの熱さが和らげば、
ピピピッピピピッピピピッピピピッ――!
けたたましいアラーム音で、俺は目覚めた。
ここは、俺の部屋だ。寝起きして生活している場所、ここは俺と両親と妹が暮らす家だ。
鳴り続けるアラームを止めようとするが、なぜか腕が動かない。かなしばりにあっているのかもしれないけれど、こんなにも感覚がなくなることがあるのだろうかと思う。
俺はその右腕に視線を動かして――牧奈がその全身で絡みついているのを見つける。俺の腕を抱き枕のようにして顔を押しつけ、育ちつつある胸を当てて、両脚は俺の腿をホールドしている。
腕の動かせない理由は単なるしびれのようだ。
「てめぇ牧奈、なんで俺の部屋にいる!」
牧奈はしばらくじっと動かなかったけれど、鳴り止まないアラームが煩わしくなったらしく、顔を動かし始めた。
「俺の腕によだれを押しつけるな!」
「ん、あれ、トモにい、なんで私の部屋にいるの……って、知史何してるのよ! へんたい!!」
「ここは俺の部屋だ! さっさと体を離せっ!」
「サイアク! サイアク!! アラームはうるさいし!!」
騒ぎ立てるだけ騒ぎ立ててから、妹の牧奈は起き上がってまず俺を足で蹴りつけた。
蹴りにはそこそこ力が入っていて、襲い来る痛みとともに眠気は完全に消え失せる。目覚め方としてはひどいものだ。
腕のしびれは遠のいて、俺はようやくアラームを止めることができた。
何か夢を見ていたのは間違いないことだ。しかし、すでに漠然としていて記憶も薄ぼんやりとしている。
「で、どうして俺の部屋で寝てたんだ」
「……知らない」
「夜中にトイレに起きて、帰るときに間違えたとかか?」
「それでいい」
牧奈は仏頂面で頷くと、ぱたぱたと部屋を出ていこうとする。
俺のベッドに見慣れないスマホが残されていた。
「おい牧奈、スマホ忘れてるぞ」
「え、あ」
高速で翻してくると、牧奈はスマホを掴み取って何も言わずに扉を出ていった。
なんて礼儀を知らないやつだ。
牧奈のスマホには、いくつものアクセサリーが混み合って付いていた。そのひとつ、小さなペンギンのキーホルダー。幼い頃、俺が牧奈にあげたもの。まだ持っていたのかと思い、そしてなぜだか記憶の網に引っかかってしまう。
俺もベッドから起き上がり、着替え始める。その間も、頭の中に浮かぶのはそのペンギンのことだ。かわいいものが苦手だった当時の俺が、ちょうどその場にいた牧奈に渡しただけのもの。どうして気になるのだろう。最近どこかでそれと似たのを見たりしたのかもしれない。
何度も首をかしげるけれど、ただ感じる。
それを牧奈がずっと持っていてくれることがすごく嬉しい。
この世界で、俺はひとりになっていないとわかるから。
ねむりまもり さなこばと @kobato37
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