若きヒーローのために(Part1)

八無茶

第10話 試合開始(1~7)及び 明日に向かって

  若きヒーローのために                                                                    

 第1話 野球への起動

   1


「ただいま」

「あっ、おかえりなさい。今日は早かったのね」

 週末の金曜日、肩を落とし疲れた顔を隠しきれない御船淳平の様子は、直子にとって働き盛りの頼もしい夫の姿であった。

「お風呂、先にする?」

「・・」

「あがったらお父さんが喜ぶ話があるの」

「なんだ」

「お風呂あがってからのお楽しみ」

 食事の用意をしながら、うれしそうに話す直子であった。

 淳平は背広からパジャマに着替えながら、もったいぶって話してくれない直子の様子に首をかしげながらも「まあいいさ」と独り納得させていた。

 風呂から上がり淳平はビールのプルトップを気持よさそうに開け食卓についた。

「卓也はもう学校に慣れたかな?」

「友達もできたみたいで楽しそうよ。今日は三人遊びに来ていたわ。それよりも淳一のことよ」

 直子は早く話したくてたまらないようすである。先程、話したそうにしていた事は、どうも淳一のことのようだ。

 この春、淳一は大城小学校の五年生、弟の卓也は一年生になったばかりの二人兄弟である。

「淳一がね、野球部に入ったの。今日卓也から聞いたわ」

 期待にあふれ話す直子とは対照的に、淳一が野球部に入ったと聞いた淳平は一瞬言葉をなくし一点を見つめ考え込んでしまっている。                         

「ほら、淳一がまだ二歳か三歳の頃からお父さんよく言ってたじゃない。いっしょにキャッチボールができるように早く大きくならないかなぁ、いっしょにビールが飲めるように早く大きくならないかなって言ってたじゃない」

 その頃の淳一は網とバケツを持ってはザリガニ獲りの名人で、朝早く起きてはカブト虫やカミキリ虫、時には蛙を虫かごに、満杯にして帰ってきたこともあった。かくれんぼをすれば木登りが得意で、木の枝で「ミーン、ミーン」と蝉になりきって鳴いていた。

 自転車に乗れるようになったらどこに行ったかわからない程夢中になり、エレクトーンに興味を持ったら発表会も堂々とがんばるたくましい子であった。

小学二年生の頃に彼が選んだ部活はバトミントン部だったが楽しそうであった。

 そんな淳一に「キャッチボールをしようか」と何度も誘った淳平だったが、いつも「いや」の一言であった。

 そんな彼が今になって・・・・

「あら、どうしたの」

 直子は喜ぶであろうと思っていたのに、考え込んでいる淳平を見て不思議に思っている。

「野球は、皆んなジュニアからやって来てるだろう。好きな子は一年生から部活をやっているよ・・・・今頃から大丈夫かな」

「どうして?子供って皆んな野球はできるのでしょう。大丈夫よ」と直子は楽観的である。広いグランドで白球を打ち、走りまわる淳一の姿を思っている。

 淳平は直子には聞こえない小さな声で独り言を言っていた。

「屈辱を味わってもいい年頃だし、まあいいか」

 激しい音を立てて階段を下りてきたのは卓也だった。

「お父さん聞いた? お兄ちゃん野球部に入ったんだって」

 息急き切って下りてきて何かを訴えようとする卓也の様子に、淳平の脳裏には一抹の不安が走った。

 しかし淳平は不安を押し殺し「楽しくなるね。試合の時は一緒に応援に行こうよ」と返した。

「う、うん・・・」

 卓也は父の生返事にあてが外れ、照れくさそうに下を向き、次ぎの言葉を失ってしまったようだ。

 食事を終えた淳平は、淳一の部屋の前にいた。

「入るぞ」

 ドアを開けると元気なさそうに机に向かい椅子に座っている淳一の横に卓也もいた。

ひそひそ話をしていた様子である。

 淳平は不安がすでに的中していたことを直感した。すでに屈辱を味わったのだろう。それがどれほどの物かわからないが卓也には話していたようだ。

「聞いたぞ。やっとお父さんとキャッチボールができるな。お父さん楽しみだったんだ。明日学校は休みだからさっそくキャッチボールをしようよ」

 淳平はなぜ野球をやる気になったのか聞きたかったが、野球部に入った事を後悔している時期かもしれない不安がよぎり、詮索することを控えた。  

 そして淳平の耳は淳一の返事一点に集中していた。

「ううん」

 案の定、力ない返事であったが、淳平は「よーし」と一言残して部屋を出ていった。

 ドアを閉めるとすぐさまひそひそ話が聞こえる。

 淳平の耳には卓也の声で「・・・鬼おやじの・・・」がかすかに聞き取れたが、兄の気持を気遣っているのだろうと淳平の顔はほころび、軽い足取りで階段を下りていった。


   2


 朝を迎えた。願ってもないいいお天気だ。

 朝食を終え新聞を見ている淳平の頭の中では自問自答が繰り返されている。

「プロでもない私が、野球の指導をしたこともない私が、自分の経験とスポーツに関する知識だけでどこまでやれるのか。遊びのキャッチボールでは淳一も満足できないだろう。もし時間が充分あれば休みのたびに遊び相手をし、そうしているうちに半年も経てばいっぱしのプレーヤーになるだろう。しかしできれば短い時間で淳一の笑顔を取り戻してやりたい。悩んでいることを聞いてそれだけを練習しようか。いやいや筋道を立てて教えるほうがいいだろう。私は考え過ぎだろうか・・・・・」

 暫くして淳平は、いろいろやっているうちにいい知恵も出てくるだろうと開き直りの結論を出していた。

「さあキャッチボールをしようか」と淳平が声をかけると、テレビを見ていた二人が振り向いて「うん」と、大きな声で返事をしたのは卓也のほうだ。

「あら、卓也の方が気合入っているのね」

 直子が片付けをしながら笑っている。

 淳平が淳一にたずねた。

「今日は部活の無い日だよな」

「うん、今日運動場を使っているのはサッカー部と陸上部で、野球部は明日だよ」

 淳平は学校の運動場を使うのはやめて団地内の広場に行くことにした。淳平の考えでは狭い場所の方が都合良かったのだ。

「卓也も行くか。但し、今日は見ているだけだぞ」

「うん、いいよ」

 緊張している淳一とは反対に自分のことのように喜んでいる。

 団地内の広場は、もともとテニスコートを作る予定で整地されたもので、周り三面には柵があるし、もってこいの場所である。

 卓也はもう鉄棒で足掛けあがりをして遊び始めている。

 淳一と淳平のキャッチボールが始まった。

 なんとも奇妙なキャッチボールが始まった。

 淳平は七メートルほど離れた距離に淳一を立たせ、大きく腕を広げ「この範囲に入る球を投げろ。いいな。この範囲に入ったボールは受けるが、はずれたボールはおまえが拾いに行け。いいな」

「いいよ」と言ったものの、淳一は、こんな距離でのキャッチボールか、年寄り相手じゃしょうがないなと不服を押し殺して投げ始めていた。

 やり始めて淳平は不安が的中していたことにすぐ気がついた。

 捕球が様になっていない。ボールが怖いようだ。捕球と同時に顔をそむけるような、捕球と同時にグローブを払いのけるようなしぐさをする。今は捕球のレッスンより球に慣れてもらうのが先決として、返球の時は淳平も山なりのゆるい球またはワンバウンドの取り易い球を投げている。

捕球には問題を残すものの近い距離からゆったりと投げる淳一の投球フォームを見ていると投げ方は良く、心配のかけらがひとつ落ち安堵の気持ちに加え、短期間で皆の技量に追いつき追い越せるだけのレッスンが可能なように思えはじめた。球を押し出すような投げ方をするのではないかと心配していたのだが、投げ方の基礎レッスンは省ける事でまずは好調な滑り出しだった。

 淳平は淳一がまだ小さかった頃、河原で石を投げ、水面で何回バウンドさせて遠くまで投げられるか必死になって競争したことを思いだしていた。

「まだこの年では無理かな」と思っても遊びの中で経験させ夢中になったことが役に立っていたのだろう。

「そんなに速い球を投げると体がもたないぞ。今は力ではなく体で投げる練習だ。腰を落とし、膝を使って、腰が回り、つられて肩が回り、後から腕がついてくる感じで手首のスナップでボールを投げる。手首がボールの発射台だ。重たい発射台を体全体で順番に少しずつ加速していく感覚を掴む練習だ」

 淳平がしゃべりながら練習を続けている。

「もっとゆったりと膨らませ。山なりのボールを投げろ」

 それはスローモーションのような投げ方であった。

「もっと膨らませ。こんな近い距離だぞ」

 淳一には淳平の言葉の意味が分からない。反対のことを言っているようにしか思えない。こんな近い距離で山なりの球を投げて父の両手を広げた捕球範囲に投げ込むのは、かえって難しいのである。

「膝、腰、肩、腕、スナップの順だ。短い距離でも基本は同じだ。体で発射台を加速していく感じを掴め。発射する前の踏み込んだ軸足に軽く体重がかかってくる感じを掴め」

 ボールに蝿が止まりそうなゆったりとした球速で円弧を描く球筋の投球だ。それで父の捕球範囲に投げ込むのは難しく何度も何度も自分の投げた球を拾いに行く淳一の姿に、鉄棒で遊んでいた卓也も茫然と立ちすくみ見守っている。

「よし、倍の距離までさがれ」十四メートルである。

淳一は、やっとピッチャーの投球練習が出来るのかなと思ったが、依然として山なりの投球を求める父であった。

 淳平の声がだんだん大きくなってくる。

「腕の力じゃない。膝、腰、肩、腕、手首の順だ。もっとゆったりと大きく山なりに、そしてフィニッシュは右に体を折りたたみ、手首は右膝の外だ。グローブは腰か脇の下へたたみ込め。スムーズな回転とバランスが良くなっていく感じを掴め」

 淳一は左利きだ。幼児の頃こたつの中で遊んでいて、加温部のふちに指を挟みブリキの

板で右指に三針程縫うけがをした。けがをした手を舐められないように右手に手袋をさせているうちに左ききになってしまった。後日、鉛筆や箸を持つのは無理やり右手を使わせたが、なぜかボールは左投げ、バットは右打ちになっていた。

 淳一は何度も自分の投げた球を拾いに行きながら、山なりの球で的に投げる事がうまくできないことよりも、なぜこんな練習をするのか腹立たしく、また自分がみじめに思えてならなかった。

「よーし。倍の距離にさがろう」と淳平。

 投げ初めてからもう一時間になる。

「まだやるの?」淳一は、を上げ始めたようだ。

「この距離で今日は終わりだ。がんばれ」

 ひとごとみたいに言う父の態度に悔しくて、涙まじりの汗をふいている。

 この距離では山なりの球でないととどかない。疲れも加担してゆったりとした大きなフォームで投げざるを得ない。またその投げ方が楽であり、力の割に思ったよりよく飛び、的に投げ込めるのが少しずつ淳一にも実感し始めていた。相変わらず淳平は怒鳴っている。

「柔らかく膝、腰、肩、腕、スナップの順だ。体をたため、回転のバランスが崩れないようにグローブの位置を考えろ」

「軸足に体重がかかるのを感じろ。体重を逃がさず発射台に集めろ」

「そうだ。うまいぞ」

 淳平は怒鳴りながらも二日を予定していた遠投練習が今日で満足できそうな淳一のがんばりに手応えを得て、不安のかけらがまたひとつ落ちていくのを感じていた。

「よーし。今日はここまでだ」

 疲れ果て茫然としている淳一のところに卓也が走って行った。予想もしていなかった練習に卓也の方が興奮して淳一と何か話しをしている。

「兄ちゃん大丈夫か、あの鬼おやじめ」

淳平は満足の笑みを浮かべその二人の様子に見とれている。

 帰り道、しばらく三人は無言で歩いていた。

 話を切り出したのは淳平だった。

「明日はあの距離から少しずつ距離を縮め、今日のフォームの回転を速くしていく練習だ。今日のフォームに回転力を加える。山なりの球筋から徐々にストレートの速い球筋に持っていく。バランスが崩れるか崩れないか楽しみだ。すごい球がビシビシ来るだろうな。今日のフォームを体が覚えていたらコントロールも抜群だろう。楽しみだ」

 思いも寄らぬ父の言葉を聞いた淳一は、疲れ、うなだれて歩いていた顔に明るさを取り戻し始めている。

  つらかったけどなんとなく親父が言う回転で投げる感覚を体が感じ始めていたことに加え、親父の言葉で、今日の練習の意味がやっと納得できた喜びに笑みと涙がこぼれ、いつしか家並みの屋根、もっと上の空を仰ぎながら、明日の部活とその後のお父さんとの練習が楽しみで待ちどおしく思える淳一であった。

 スキップをし始めた卓也は、そのまま勢いよく走って家に帰っていった。

 その夜、子供たちは疲れたのか早めに床に就き寝てしまったようだ。

 くつろいで新聞を見ている淳平の傍に直子がやってきた。

「卓也が興奮して話してくれたわ。あなたらしい教え方ね。ついていけるかしら」

「明日からが本番だ。大丈夫だろ」

 淳平は一人「うん」と頷き充分に手応えを感じていた。


  3


 日曜日の部活は昼までだったらしく、淳一は急いで帰ってきたようだ。何もかもが嬉しくてたまらない様子である。

「お昼ご飯を食べたら、そうだな、バットを買いに行こう」

「ええっ、バットを買ってくれるの。だけど団地内では練習できないよ」

「家での練習用だ」

 また理解できない言葉だったが、淳一はもうお父さんのする事を信じるのが楽しい気持ちでいっぱいだという表情をしている。

 やや重ためのバットを買ってもらって御満悦の淳一は、もうタオルで磨きをかけている。

「家での練習って何をするの」

「練習は二つだけ」

「たった二つ、家で何をするの」

「一つは、朝、昼、晩、三分間バットをしっかり握っているだけ」

「それ何、まじ? それが練習?」

 ばかにされているような感覚が走った。

「一度バットを握って立ってみろ。いいか、腕は前に三十度、バットは水平、グリップエンドを持ち、思いっきり握ってみろ」

 淳一は訳がわからないまま言われた通りバットを握って立っている。父の目つきが変わったのに気づいた淳一は、蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんだ。

「絞れ、脇を締めて絞れ。小指、薬指の順に強く握れ」

「次ぎ、右手」

 淳一は、父の目が肘のあたりを見ているのに気づいたが何を意味しているのか理解できない。

 突然淳平は部屋を出て行き、部屋に戻ってきた時はカメラを持っている。

淳一の腕をまくり、右手で持っている時と左手で持っている時の腕の写真を撮っている。そして言った言葉は

「朝、昼、晩、左、右、それぞれ三分間だ」

 たわいもない事を真剣な顔をして言っている父の姿が滑稽にも思える淳一だった。

「二つ目は何?」

「庭の木で、腰の高さ位の所にバットを当てたまま、木の幹、枝を揺する練習だ。バットが球を捕らえ、球を押し出す瞬間をイメージするんだ。アッパーや水平の力ではバットが逃げるぞ。幹が逃げてもバットが逃げないように練習するんだ」

 狭い庭と言うより通路に一本、直径五センチにも満たない若い桜の木がある。

 淳一はなんとなく理解できたが、

「あの木を揺すれるかなあ。雨の日は?」

「雨の日は部屋のドアの柱で練習だ」

「家は揺すれないよ」と冗談が出始めた。

「暇を見つけたら練習するんだ。いいな。今日は昨日の練習の続きをやろう」と言って淳平が立ち上がった。

「僕も行く」卓也の声だ。

 遊びから帰って玄関に入るやいなや卓也の声である。

「卓也、お兄ちゃんのボール拾いをしたら」

 奥から直子の声がした。

「そうだな。頼もうか」

「うん」

 広場に着くと淳平が今日のテーマを話した。

「今日の練習の注意点は、出来るだけ頭を動かさないこと。発射台からボールが離れるまで、上下、左右に振らないこと。頭が揺れると目が揺れる。出来るだけ目を一定の高さに保つことだ」

「何で?」

「全ての球技の基本だ。いかにして目を一定の高さに保つかだ」

「ふーん」

「そのためには体重の移動を軸足でしっかり止めること。出来るだけ腰を落とすこと。つらいぞ」

「ふーん。目の高さを出来るだけ一定にして揺らさない・・ね」卓也が復唱している。

「卓、今日は淳一とお父さんの立つ場所を交代するから、お父さんの後ろの方でボールを拾ってくれ」

「了解」

 お兄ちゃんの手伝いを出来るのがこの上も無く嬉しそうである。お母さんへの練習報告も楽しみのひとつなのだろう。

「昨日の距離から始めよう」三十メートルはある。

 初めの二投は卓也の出番であったが、その後は淳平がちょっと動けば取れる範囲に投げ込んでくる。「覚えの早い奴だ」と淳平は安心を越え、たくましさを感じていた。

 大きな山なりの球筋は、昨日淳平が要求し練習した球筋だ。

「膝を使え、目の高さを一定に」

「腰、肩を使え、腕に頼ると、首が振れるぞ」

 三十球ほど投げた頃「回転を少し速くしろ」

 山なりの球筋が徐々に弓なりになっていく。それにつれ徐々に淳平の声が大きくなる。

「腕の力で投げると肩と肘を壊すぞ。体の回転で投げろ。回転だけで投げられる範囲が何処までか掴め。腕力に頼るのはまだ早い。軸足で体重が支えられてバランスが崩れない範囲で体の回転に腕力をプラスする」

「まず体の回転だけで投げられる感覚を掴め。スナップを有効に使え」

 卓也は淳一のゆったりとしたスローモーションの様なフォームから弓なりではあるがすばらしい球がビシビシ飛んで来るのに目を丸くして見とれている。卓也の目には、あたかも三十メートルも先のピッチャーマウンドから投げ込んでいるようにさえ思えた。

「よーし、半分の距離だ」

 淳一はこれから本格的なピッチャーの練習だな。と思って駆け寄った。しかし父のかけ声は違っていた。

「もう一度、山なりのボールからだ」

 意地悪にしか思えない。距離が短くなると逆にきつくなった。遠いほうが楽であった。

「もっと山なりの球だ。なにをしている。昨日の練習をもう一度やり直すか」淳平の声が一段と大きくなっていく。

 淳平の捕球範囲を外れる球が増え、卓也が走り回っている。

 ボールを拾ってきて父に渡す卓也の口は一文字にかみ締めて、「この鬼おやじ」と言いたそうな、また目はすでに赤くなり泣き出しそうな形相をしている。

「何をやっている。昨日の練習はどうした。距離が短くなったからと言って腕で投げるな。肘が抜けるぞ。使い物にならなくなるぞ」

「球が離れるまで頭を動かすな」

「もっと膝を使って目を固定しろ」

 淳平の怒鳴り声が続いた。

「よーし。休憩だ。淳一ちょっと来い」

 淳一は、駆け寄るわずかの間に何もかもが崩れていくような気がした。ピッチャーの投球練習はさせてもらえなかった。

もう、やめだ。かってにしろと怒鳴る父の声が聞こえるのを待つ自分が惨めに思えた。

「肩慣らし終了だ。いいセン行ってるぞ。基本に戻れば難しいことはないだろ。よし、休憩したら今度はあの距離で回転を早くしていく。さっきの遠投よりももっと回転を早くしストレートに持っていく。今度は回転とバランスだ。軸足が腫れるぞ」

 淳一は後ろを向いてしまった。決していやだったわけではない。我慢していたものが噴出しただけだ。涙を見せたくなかっただけだ。

 卓也がそっと後ろから回りこみ、お兄ちゃんの顔を覗き見上げている。母へ報告すべきことかどうかを考えているのだろう。

 一服し終わった淳平が歩き始めた。

「まず山なりだ。徐々に回転を速くしていけ。初めは腕の力を使うな。腕の力は、バランスが崩れない事がわかってきたら使え。それが最後だ」

 やっと本格的な投球練習が出来る喜びを噛み締めながら父の話を聞いている。卓也も定位置についた。

「卓、気をつけろ。ひどい球が何処に来るかわからないぞ」

「よっしゃ」と言って肩をすくめた。

 徐々に回転が速くなり、スピードが増していくのが球を受けた時の音でわかる。

淳平は、わざと大きな音が出るように捕球の衝撃を肘で逃がさず肘をまっすぐ伸ばして手のひら部分で捕球している。

「パーン。パーン」小気味良い音が次第に強くなっていく。

「グローブでバランスを取るな。グローブは腰か脇の下にたたみ込め。グローブでバランスをとろうとしたら腕が広がり回転が遅くなる」

 大きな声を出しながら、今まで立ったままで捕球していた淳平が、腰を落としキャッチャーの構えを始めた。

「投げた後は体を折りたため。フィニッシュはいつも定位置に手首を納めろ」

「回転が速くなると、足の踏み出しを大きくしろ」

「右足で全ての体重を受け止めろ」

「踏み出しを大きくしたら頭が上下に振れているぞ。投球開始からもっと膝を低く」

「そうだ。スナップを効かせ。発射台から球が出て行くのを指先に感じろ」

「ばかたれ、バランスが崩れたぞ。意識するな。膝、腰、肩、腕、手首、スナップの順番にやるんだ。瞬時にな。バランスが崩れるようなら最初からやり直しだ」

 大きな声が、また同じ掛け声が繰り返し繰り返し響いていた。

 団地の中はこの三人だけではない。通りすがりの主婦、子供たちがこの異様な三人をかわいそうだという目で見ながら無言で通り過ぎる。そんな目が、疲れた上に大声で怒鳴られ続ける淳一にとって初めは恥ずかしくも思っていたが、日が暮れ始める今は、もう夢遊病者みたいに言われるがままに実践するしかなかった。

「手首を納める時、手の平が上か前向きで納めてみろ」

 ひときわ父の大きな声だった。

「よーし。今の球がカーブだ」

 そう言って捕球後淳平が立ち上がった。

 確かに曲がった。大きな曲がりではなく落ちるような球筋だった。ひねったわけでもない。手の平を低いゴロのボールを受ける形に納めただけなのに。

今まで友達に聞いていたカーブは、こう持ってこうひねって投げるのだ。と聞かされるたびに友達との差をひしひしと感じていた。確かに球は鋭く落ちた。

「よーし。今日はここまでにしよう」

 疲れ果て何度ももうやめたいと思っていた淳一は、続けて今の球をもう一度投げてみたいという意欲がこみ上げていた。

「もう薄暗くなってきたからやめよう」

「お父さん。あれがカーブ?」

「すばらしいカーブだったぞ」

「僕、ひねってないよ」

「あれだけビシビシいい球を投げていて、手の平を返したら意識してひねらなくても落ちるよ。ひねるのは徐々に覚えろ」

 淳一にとって父の言葉は最高の賛辞であった。

「卓」淳平は帰るつもりで声をかけたが卓也はもういない。

一目散で家に帰ったみたいだ。

 帰り道、淳平が静かな声で話し始めた。

「もっと速い球が投げたいか」

「うん」

「だったら踏み出しがもっときつくなる。その体重移動と速い体の回転を踏ん張れる足腰、膝を部活で鍛えろ。それと背筋を鍛えろ」

「背筋ってなに」

「ここの筋肉だ」と言って淳平は淳一の背中をポンとたたいた。

「どうして鍛えたらいいの」

「そうだなあ。エキスパンダーを一番弱くして背中から前にこうやるんだ」

「三本でも出来るよ」

「強いと腕が勝ってしまう。弱く一本で、まず両肩を下げそして前にたたむようにしてエキスパンダーを開く。ちょうどボディビルディングをしている人がポーズをとる時にするしぐさだ」

 淳平がそのしぐさをしてみせる。

 淳一は納得してうなずいた。

「淳一」

 まじめ腐った呼び声に淳一はドキッとした。

「スポーツはパワーだぞ。一般的には『力じゃなく技だ』と言われているが、一瞬にしてそして確実にその技をコントロールできるか出来ないかは訓練され鍛えられた足腰、腹筋、背筋、微妙なコントロールに対応できる握力だ。そして技が生きる」

 親父の長ったらしい講釈はいつも上手に聞き流していた淳一だが、今日の講釈は違う。ずっしりとした重みを感じる。

「もう一つ。あらゆる技のどこに円を使うかを考えマスターしろ。技は、円なり」

「円ってなに」お金でないことは淳一にもわかっていた。

「お父さんが怒鳴っていたことは、全て円をどれだけうまく使えるかの練習だ。そうだなあ。ボクシングのストレートも直線ではない。体が円を上手に使うことで目にも止まらぬ速さで重いパンチが打てるようになる」

 淳平はもっと分かり易い説明に気がついた。

「腹筋練習をする時、反動をつけずにまっすぐ上半身を起こすのはきついが、腹筋の弱い子でも起きる瞬間、右か左におなかで円を描くイメージでおなかを起こすと、すばやく起きられるよ。部活での練習、暇を見つけて家での練習、全てが積み重ねだ。がんばれ」

「はい」

 いつもの返事は「うん」であった自分が、思わず「はい」と答えてしまったことに照れ臭さよりも大きく変わり始めた自分に気づいたのだった。

 食事中、直子は心配そうに淳一に話しかけている。

「部活の後、お父さんとの練習はきつくない? 楽しいの?」

「うん。楽しいよ。こんな練習初めてだ」

 そう言って勢いよく空腹を満たしている淳一を見る直子の顔は、かわいそうな我が子を見つめる母親の姿をしている。

「ごちそうさま。次はいつ練習するの」と卓也。

 お兄ちゃんの顔色をチラッと伺いながら気を使っているのが痛々しい。

「明日は仕事が遅いので出来ない。練習はあさってからのゴールデンウイークにしよう」

 淳平は続けた。

「宿題、復習が終わったら、自主トレだぞ」

「自主トレ??」

「バット、バット」

「了解」

 二人は勢いよく二階に駆け上がって行った。

「淳一、今日泣いていたらしいじゃないの」

「卓也の情報か。ほんとうは・・・」

直子は身を乗り出して聞いている。

「いいセンスをしているよ。投げることではもう皆んなに追いついているよ。後は捕球と打撃だ」

「まだやるの?」

「連休が終わる頃には追いつけると思う。連休中、私は野球塾の先生だ」

「まあ、気取って」

 直子は安心したのか片付けを始めた。

 しかし翌朝、また不安の種が直子を襲う。

 朝が早い淳平が食事をしていると、珍しく淳一が下りてきたのである。

「三分間持てないよ」半分ベソをかいている。持てる自信が崩れたのだろう。

「そうだろう。大丈夫だ。練習したら必ず持てるようになる。小指と薬指でギュッと握ってバットは水平に三分間、左右一回だけ。それ以上はするな。部活でも時々練習してみろ」

 笑っている父を見て淳一は安心したようだ。

 直子は、普段になく早起きして淳平に訴える淳一にびっくりしてしまった。話を聞いてほっと胸をなでおろしたものの、楽しい遊びでない淳平のレッスンに、いつか挫折を迎えそうな不安は捨て切れなかった。


   4


その日淳平が帰ってきたのは、もう九時をまわっていた。

 淳平の帰りをいち早く察知した淳一と卓也が駆け寄ってきて訴えている。

「バットを持つのはまだまだだけど、バットで押すのが良くわからない。卓也が笑うんだ。お父さん見てくれる」

「おい、おい、まだ服も着替えていないのだぞ。まあいいか見てやろう」

 そう言って淳一の部屋に行った。

 ドアの柱を押す格好は確かにぎこちない。淳平は淳一の勉強机のところに行って腕をまっすぐ伸ばし、両手の手のひらを合わせたまま机の角に手の甲をあてた。

「この机の端がボールだ。打つ瞬間は膝を使って腰を回し、その体のねじれた力がまっすぐな腕のバットに伝わり、手の甲がボールにあたる。ボールに勢いをつけて発射するのは腰の回転による体のねじれだ」

 机が揺れた。卓也の目と口が丸くなっている。

「やってみろ」

「その調子だ。もう一つ注意することは、机の角つまりボールの位置より頭が前にある時と、正面にある時と、やや後ろにある時での力の伝わり方を比べてみろ」

 前方にある時、正面で捕らえた時、ボールよりやや後ろに顔がある時、その時卓也が大声をあげた。

「動いた。揺れたよ。後ろの時揺れたよ」

 感動の顔をしている。

「うん。揺れたね。そこがヒッティングのポイントだ」

「今度は、まっすぐ伸ばした腕にバットがあるイメージだ。右側に十センチさがって机の角がボールだとすると先程のポイントよりずいぶんポイントが前になる。この位置で打ってしまったら球はどっちに飛ぶ?」

「ううーん。レフト方向」

「正解。この位置でまっすぐピッチャー返しをするにはどうしたらいい?」

「手首が、さっきの頭の位置にあればいい」

「正解。監督の指示がライト方向に流せ。の指示だったら」

「もう少し手首が前に出てバットが手首より遅れていたらいい」

「合格」

 大きな淳平の声が下にいた直子の耳まで届き、直子にも笑みがこぼれている。

「いまの答え全て正解だが実際にバッティングする時の注意事項は、回転してきた体の軸と頭はまったく動かさないことだ。つまり目が動いたらそんなコントロールをしようと思ってもできない。

 もう一つ、これだけのコントロールを楽々こなすには、強靭な握力と腕の筋肉が必要だ」と言って淳平は淳一の左腕の肘から手首までにある筋肉をつついて部屋を出て行った。

「キャッホー。やったね」

 うれしそうな卓也の声が聞こえる。淳平は服を着替えながら昔を思い出していた。


「淳一。キャッチボールをしょうか」

「いや」

 冷たい返事だった。

「どうして」

「いつでも出来るよ」


 淳平は苦笑いをしながら階下に下りていった。

 食卓に着くと直子が尋ねた。

「明日からまた練習なの」

「連休、どこかに行く予定をしていたのか」

「そうじゃないけど」

「淳一はいいセンスをしているよ。しかし捕球が問題だ。まだ球を怖がっている。明日から捕球の練習だ。バウンドしながら迫る速い球を捕球出来るかだ。淳一にとっては修羅場になるだろうなあ」

「ああ、聞いただけで怖くなるわ。ほどほどにしてね」

「うん」

 とは言ったものの、淳平は最短期間で的確に、また挫折させずに教えるにはどうしたらいいのか、頭の中ではまた試行錯誤の繰り返しが始まっていた。


第2話 連休初日

  1


 淳平にとっても試練の朝がやってきた。

 テレビでは、観光地に向かう車の渋滞状況が放映され、空港ではインタビューに「タイ四泊五日です」淳一と卓也ぐらいの子供ずれの家族が「フィジー三泊四日です」と誇らしげに答えている。観光旅行など予定のない者まで駆り立てて、どこかに出かけるのがゴールデンウィークのすごし方だと言わんがばかりの画面構成である。野球一色で修羅場を迎えるかもしれない御船家の連休を考えていた淳平は、テレビを見ながら大きなため息をついていた。

 やっと子供たちも起きてきたみたいだ。

「おはよう」

「おはよう」

 眠たそうな顔をしているが元気そうだ。


 食事の時、淳平が切り出した。

「淳一、今日から強化合宿だな。野球は面白いか?」

「うん、おもしろい」

「今日から守備の練習だ。怖くないか?」

「怖くないよ。こつを教えてもらえるのが楽しみだ。あんな速い球投げられるとは思っていなかったし、カーブが投げられたのにもビックリした。あんなカーブ誰も投げられないよ」

 興奮気味にしゃべる淳一であった。

「そうだな。こうして投げるんだ、ああして投げるんだじゃなくて、発射台を加速し発射の寸前に手の納まる位置と手首の微妙な状態で球は変化する。発射台を最大限に加速できず、またバランスを崩す人にかぎって、思いっきりひねって投げたりするがコントロールは悪く、球威もなく、バッターのいい餌食だ」

「お兄ちゃんにシュートやフォークを教えてやったら」卓也がじれったそうに言った。

「時間があれば教えるけど昨日のストレートでも重い速い球で、お父さんもびっくりしている。後は手の平が昨日のカーブとは反対向きに返して見たり、いろいろ投げて見ると自分の得意な球種が掴めると思うよ。すべてに共通する事は、同じ投球フォームで加速し、手が納まる場所も同じで、バランスを崩さないようにスィングすることだ」

 卓也はまだ納得できず不満そうな顔をしているが、淳一は理解しているようだ。

「はい、はい、話し込んでないで食事が終わったら練習、練習」

 珍しく直子が景気付けてくれたが、本音は早く片付けを始めたいのだろう。

「学校のグランドに行こうか」と淳平が提案した。

「よし、行こう」


 学校のグランドは連休初日の上に朝早いのでまだ誰も居ない。

 気持のいい朝だ。

「準備運動の代わりにフライのキャッチ練習をしよう」

 淳平は続けた。

「自分で球を上に放り投げ、キャッチはまず腕を水平にまっすぐ伸ばしたままで取る。落ちてくる球の軌道と距離感のテストだ。十回のうち何回取れるかだ。放り上げる高さは自分で自信がある高さでいい。卓也も競争だ」

「うん、やるよ」

「おっとっと」「おしい」

 大声を出しながら卓也も遊んでいる。

「卓、腕は伸ばしきっているから球が落ちてくるところに体を先に持っていかなきゃ」

「そうか」卓也は得意になって遊んでいる。

「よーし。何回とれた?」

「卓、五回」

「淳一は?」

「七回」

「次ぎは肘を軽く曲げた状態で取る。コツは肘を曲げたままヘソで取りに行く。いいな」

 面白い格好でまた競争が始まった。

「卓、七回取れたよ」

「淳一は?」

「八回」

「次ぎはグローブをヘソのところに構えて取る。コツは腹で取りに行く。だから上半身はやや後ろに反り気味で取る。さあ競争だ」

 またまた面白い格好だ。

「卓、完璧や」

 淳一も完璧であった。

「次ぎは顔を上に向け顔の真上で受ける。但し腕はまっすぐ伸ばしたままで受ける練習だ。受けると言うより止めてしまう感じだ。コツはなあ、腕の二倍の高さにボールがせまったぐらいの時にグローブを構える。いいな。後は球が落ちてくるスピードに合わせ掴むだけだ」

 淳一と卓也の捕球を比較すると、ボールに対する慣れの差が確実に出ていた。卓也はおっかなびっくりである。淳一も捕球時にボールが見えなくなるため、ぎこちなさがうかがえる。しかし顔面に向かってくる球の恐怖を拭い去らなければ次ぎの練習は無理なのだ。

 回を重ねるにつれ自信が出てきたのか淳一はボールをおもいっきり高く投げ始めている。

 淳一が九回、卓也が三回で差は歴然としていた。

「よーし、次は肘を柔らかく曲げての捕球だ。曲げた分、距離が短いから、落ちてくる球も最後の最後まで見ることが出来る。同じように曲げた腕の倍の距離まで近づいたら構えて取れ」

「逆じゃないの、早くかまえないと危ないのじゃないの」

 淳一が心配そうだ。

「逆じゃない。グローブはいつでも出せるように胸のあたりに構えておき、顔にあたりそうになったら、すっと出して受ける。はい、やってみよう」

 怖さが倍になったようだ。先程の捕球よりぎこちなさが目立つ。

 おもわず淳平は大声を上げてしまった。

「顔をそむけるな。スポーツの基本は頭を動かさないことだ。目が揺れたら的確な動作は出来ない。手で払いのけるような捕球を誰がしろと言った。ボールを止めるだけだと言っただろう。顔面でボールを止めるぐらいまで球を引き付けて、顔にあたる寸前にグローブをスッと出してボールを止めろ」

 楽しくてしょうがなかった卓也が父の大声にびっくりして立ちすくんでしまった。

「卓、お父さんと練習しよう」優しい淳平の誘いだった。

「うん」力ない返事である。

「お父さんが、近くからゆっくり投げるから捕ってみよう。それが出来たらこんなもの簡単だよ」

「うん」

「グローブは胸の前に構えて、よーし、ボールは顔に向かってくるけど、顔は動かさないでグローブで止めるのだ。慣れるまでは掴まなくてもいい。止めるだけでいい。ボールが卓也の顔にあたらずポトンと前に落ちたら大成功だ。いくぞ」

「あいよ」

 顔に向かってくるボールは怖い。腰が引けている。

 淳平は掛け声でリズムを掴ませることにした。

「あーら、よいしょ。この『よいしょ』の時に構えて捕る練習だ。あーら、よいしょ。うまいぞ。あーら、よいしょ。その調子だ」

 百発百中の捕球になった。捕球と言うより止めているだけだが、少しずつタイミングがわかり始めている。

「あーら、よいしょ。うまいぞ」

 淳一は卓也がおやじに怒られるのかと心配で見ていたが、淳一もヒントを得たのであろう、ボールをより高く放り上げての捕球練習をし始めたのを淳平は横目で見ていた。

「卓、うまいぞ。お兄ちゃんを見てみようか」

「うん」

 淳一はもう怖さが無くなった捕球をしている。

「今度はお兄ちゃんと練習だ。卓也は見てろ」

「うん」

 先日の遠投とピッチングの練習時、淳平は返球をワンバウンドで返していたのがじれったく思っていたのだが、やっとキャッチボールが出来るだろうことに満足している。

「お兄ちゃんの場合はちょっときついボールを投げるぞ」

 淳平は淳一の顔をめがけ投げた。

 きついと言っても速い球ではなかったが、淳一の捕球を見てびっくりした。捕球時、目の前がグローブで見えなくなる怖さはすでに無くなっている。昨日まではあれほど怖がっていたのに、その上、次第に余裕さえ見え始めている。捕球後、次の投球に入る準備動作の右足を軽く持ち上げながらの捕球が出来るのである。

「完璧だ。そのリズムだ」

 子供の才能は計り知れないものがある。ちょっとしたヒントでコツを掴んでしまうと体が動き始める。もう怖さは微塵も無く、どんな速い球も練習さえすれば取れるようになるだろうという自信がついたのだろう。

 淳平は淳一の顔をめがけて投げ続ける。

 いいタイミングだ。いい身のこなしだ。

 疲れてきた淳平は自分が一休みしたくなり、次の練習にメニューを変えた。

「よーし、次ぎは難しいぞ、後ろの腰のあたりにグローブを構えて落ちてくるボールを後ろ向きで掴む。コツはなあ。感だ」

「ええっつ、感?」卓也は楽しさを取り戻したようで、ふざけて見せた。

「卓、五回取れたよ」

「僕も五回取れたよ」

「どの辺を球が通っているかの感を養うにはいい練習だ。時々遊んでみるといいよ」

「次はゴロを受ける練習をしようか」

 やっと本番だ。ボールを受けることの恐怖感は少し和らいだことを確信し、次のステップに入ることにした。

 何気ない遊びも次の練習への準備であった。淳一はお父さんとの練習で不思議と自分が変わっていくのを感じ始めていた。


 五年三組になってクラスのメンバーが変わった中で、一番に声をかけて来たのは三年の時に同じクラスにいた野口達雄であった。

 彼は二年生の頃から野球部に所属している。

「御船、久しぶり。バトミントンは続けているのか」

「おう、達っちゃんか。バトミントンは四年の時やめたよ」

「そうか、ちょうど良かった。野球部に入ってくれよ。お前なら入って欲しいな」

「どうした。メンバーは十分居ると聞いているぞ」

「それが、監督も嘆いているんだ。けっこう野球を好きな者が集まってまじめに練習をしているのだが、五年、六年生の内の三人程が学外のジュニアチームに入っていて、そちらの活動の方が活発らしく部活では他の者とのレベルが違うことにじれったさから足並みがそろわず、ずる休み、そのうちまったく来なくなって困っているんだ」

「野球をしたことも無い俺が入ったからってどうなるってもんじゃないだろう」

「体育の時、走っても速いし、泳ぎもクラス一番だったし、サッカーでも人の倍、動いていたお前を知っている。運動神経は抜群だ。すぐに慣れるよ」

「かえって迷惑をかけるよ」

「そんなこと言っていたら何時になっても野球はできないぞ。正直な話をすると、毎年夏休みに入ったら和泉小学校との対抗試合、十月には大成北小との試合がある。これらは六年生と五年生が主体での試合なのだが、今の状態では戦力不足で試合は無理だろう。目標が見えず皆練習に身が入らないし、その三人はチームワークの面であてにならないし・・・正直言ってメンバーを補強したいんだ」

 淳一がバトミントンをやめた理由はバトミントンにスポーツ性を求めたが、この大城小学校のバトミントン部は、女性部員との交流の場であり失望を感じてやめてしまった。

 野球部に対する野口の熱意と、その三人の先輩や同輩に対する情け無い気持から淳一は、この際、野球をやってみよう。その三人を見返してやりたい。と思う気持が芽生え始め、翌日には部室の前に立っていた。

 しかし、そう甘いものではないことがその日の部活練習でさっそくわかった。監督は気を遣い、上級生組と一緒に練習をさせてくれるのだが、それが余計に負担となり、それからの毎日は屈辱さえ感じる日々であった。

 ノックの球をトンネルした。

 顎で球を受けた。

 腹でも受けた。

 バッティングの練習では何とか打てる程度の自分に他の部員とのレベルの差をひしひしと感じていた。うまくなるしかない。練習するしかない。と自分に言い聞かせても、一朝一夕でうまくなるわけでもない。部活で遅くなっても家族には部活で遅くなったとは言いづらく、遊びで遅くなったとごまかしていた。

 そんなある日、弟の卓也に部活の練習を見られてしまった。

 学校から帰ると、卓也から話を聞いたお母さんは喜んで「監督はどの先生?」「友達は何人いるの?」「誰が上手?」など質問攻めの後には「ユニフォーム汗まみれなんでしょう。洗濯するからもって帰ってきなさい」と怒られる始末であった。

 しかしこの事件をきっかけに急速な展開が起こるとは淳一も予想すらしていなかった。淳平が仕事から帰ってきて直子から淳一が野球部に入った事を聞かされたのが、ちょうどその日のことだった。


 淳平はグランドの地面に指で何かを書き始めた。

「空中を飛んでいるボールが突然方向を変えることは絶対無い事が今までの練習でわかっただろう」

「うん」二人が元気よく答えた。

「バウンドをしてくる球もまったく同じだ。大きくバウンドしてくる球も小刻みにバウンドしながら来る球も、皆同じだ」

「だって石に当たったら急に方向が変わるよ」

 卓也がえらく熱心だ。お兄ちゃんの言いたいことを代わりに言ってあげているつもりだろう。

「確かに卓也の言うとおり。しかしグランドには大きな石は無いだろう。小さい石やくぼみでの変化はグローブの大きさでカバー出来るがそれでも地面の状態で突然変化する場合もある。だから確実に捕球できる位置で捕球することと、とっさの場合はそれに対応できるだけの反射神経が必要だ」

「卓、反射神経はいいよ。あっちゃ向いてホイは得意だから」

 淳平は卓也の真剣さに笑みを浮かべながら説明を続けている。

「そうか、あっちゃ向いてホイは夜しよう」

 そう言って淳平は地面に書かれている大きなバウンドの線を指した。

「この大きなバウンドのカーブで絶対球筋が変化しない所は何処だ?」

「ここ」

 淳一が指差したのは、山の頂上を過ぎて地面に着地するまでの所であった。

「正解」

「着地に近ければ近い所ほど球筋は明確で、また捕球が下手したて取りだから目が最後まで球を見続け捕球することが出来る。一番確実な捕球する位置だ」

「なるほど」と言ったのは卓也だ。

 分かって言っているのかは疑問だが、お兄ちゃんが正解したことで相づちを打ったのだろう。

「テニスでも同じ事だ。この位置に自分を持って行けるかどうかが問題だ。地面から跳ね上がり、カーブの頂上までの間で捕球をしても、先程言ったように球筋は前のバウンドとほぼ同じのカーブを描くので難しい事では無いのだが、バウンド時の突然の変化には鋭い反射神経と熟練が要る。出来るだけバウンドの頂上を過ぎた所に自分を持って行くことで確実性が増すし捕球し易い」

「そーか」また卓也だ。

「そのコツは膝を柔らかく曲げて構え、ピッチャーが投げた球を打者がどの位置で、どのようなスイングで打ったかで球筋をすばやく察知することから始まる」

「そんなの、わからないよね、お兄ちゃん」

 父の説明を否定することになるので、お兄ちゃんの同意を求めるように淳一の顔を覗き込んでいる。

 淳一は昨日聞いたバッティングの室内練習の説明を思い出していたが、完全には理解できない説明であった。

「この事はバッティングの練習時にまた説明しようか。今日の練習のコツは、バウンドしてくる球のリズム、バウンドのリズムを掴むことだ」

「例えばどんなリズム?」卓也が質問した。

 淳平は、また地面の絵を指差し、

「この大きなバウンドの時は『トーン、トーン』この中ぐらいのバウンドは『トン、トン、トン、トン』この小さいバウンドは『トトトトトトト』もっと小さいゴロは『トトトトトトト』と速いリズムになる」

「なーんだ。ラップかロックのリズムかと思っていたのに、鶏が走るリズムだな」

 卓也の冗談に皆、大笑いである。

 この笑いも出なくなるような修羅場が訪れるとは淳平以外誰も想像していなかった。

「さあ、始めよう。卓也は見てて」

「あいよ」

「二十メーターほど離れろ。大きいバウンドから練習だ」

 大きな山なりのツーバウンドで届くぐらいの球を投げる。

 うまくキャッチした。

「次は、やや後ろ。いいか、いくぞ」

「次は、前だ、いくぞ」

「後ろだ」

 バックしたけど間に合わず、ボールは淳一の後ろにぽとりと落ちた。

「ばかたれ、後ろに下がるのに後ろ向きでバックするばかが何処に居る。前向きで走れ。着地点を予測し、不安だったら首だけ振り向き、球筋を確認しろ」

「次は、前だ。」

「そんな走り方をして突っ込みながらの捕球じゃ頭、目が揺れて、球を的確に捕らえられないだろ。着地点を予測したら思い切り突っ込み、捕球前には余裕を持って膝を使って目の揺れを抑えた捕球をしろ」

「次はバックだ。お前は左利きだから球筋が右側にあるようにして走れ。追いつけなかったら走りながらでも取れ」

「前だ」

「基本を忘れているぞ。前、前のバウンドを見てその軌道とリズムを掴め。出来るだけ下手したて取りでヘソから下で取るのが基本だろ」

「後ろだ」

「振り向け、そうだ」

「前だ」

「これだけ大きなバウンドは着地点しか捕球位置は無い。うろたえるな。軌道を見極めろ、リズムを掴め」

「トーン、トーンだ」

 何度、繰り返しただろうか。次第に淳一の走りと捕球体勢の取り方に余裕が出始めた。決して疲れて動きが鈍くなったのではない事を淳平は確信していた。

「後ろだ。ナイスキャッチ」

「前だ。ナイスキャッチ」

「休憩」

 淳平は卓也のほうを見た。固まって見ている。しばらく動こうともしない。一年生の卓也にとっては、ショックだったのかもしれない。

「さっきの練習と今の練習がつながったな」

 汗なのか涙なのか顔は紅潮している淳一が、こっくりうなずいた。

「次の練習は軌道の読みより、リズムに合わせた捕球の感と体の動きが優先する。やれるか」

「やれるよ。大丈夫」

 なかば、やけくそ気味の返事であったが淳平には頼もしく聞こえた。


「おーい、次は御船。上がりだ、バックフォーム」

 監督が打った球は大きく伸びてくる。

 顔の前でグローブを構え後ろ向きにさがったが間に合わず、ボールは後方に着地し淳一は転がるボールを一目散に追いかけていく。

「どんまい、どんまい」達ちゃんの声が聞こえる。

 淳一の目には、呆れた顔で御船先輩のあがりを待つ後輩部員の姿が焼きついていた。


 淳平は目が潤んでいる淳一に気がついたが目を合わさないように勤めた。悔しかっただろうことは今日の練習を見てもわかったからだ。

 必ず皆のレベルには追いつける。

 追いつかしてあげる。

 くじけるな。

 頑張れ。

 淳平の目も潤み始めたが隠すように次の練習に立ち上がった。

「やるぞ。今度は中ぐらいのバウンドだがスピードは先ほどより速くなる。コツはバウンドのリズムだ。鼻歌でも歌いながらバウンドのリズムを掴むんだ。気楽にやれ」

 とは言ったものの、一番難しい練習になるだろうことを淳平も淳一も感じていた。

「最初はもっと離れよう。もう十メーターバックだ」

 この距離だと十分バウンドのリズムが掴めて自分をベストの捕球位置に持っていく事ができると考えた。

「いくぞ」

 始まってしばらくすると淳平の声がしだいに大きくなっていく。

「なにやってんだ。ベストの捕球位置はどこだ。忘れたのか」

 ベストの位置に体を持っていくことができない。

 顔にボールが当たる。

 肩にボールが当たる。

 つぎは怖くなり捕球体制に入る前に顔は逃げている。

「跳ね上がる球を取るのは十年早いぞ」

 下手したて取りで捕球しようとするのだが、球のリズムが掴めない。

 着地前の地点に入り込めない。

 入り込もうとするがタイミングが合わず難しいショートバウンドとなり、顔面や肩に当たった球が大きくはじいて後方に横にと転がっている。

「スコップを前に突き出し、ボールをすくいに行く感じだ」

「そんな捕球では胸か顔で捕球するようなものだ」

「球のリズムが掴みにくかったら円を使え。真っ直ぐ突っ込んだらリズムが掴めないのなら、お前は左利きだから球筋に対し左側から回りこみ正面で受けろ」

「そうだ。回りこみながら、どの着地点に飛び込めるか考えろ」

「もう一度さがれ。いくぞ」

「そうだ。その調子」

 と言っておきながら、わざと淳一の左側へ投げる。

「ばかたれ、バウンドがよく見えリズムが掴める時にわざわざ左側に回りこむな」

「そうだ、その調子」

 捕球のたびに後ろに下がるのだが次ぎの球に間に合わず、次第に淳平と淳一の距離は短くなっていた。それでも淳平はスピードを落とさず、速いバウンドの球を投げ続ける。

 顔で、肩で、腹で、また顔での捕球が続く。

「正面に入り込め」

「そうだ。その調子」

 突っ込む勢いで前につんのめりながらの捕球をするや、

「捕球の後は投球だろう。そんな格好で投球に移れるか。腰を落とせ、尻を落とせ」

「リズムが掴めてきたぞ。できるだけ球筋に真っ直ぐ突っ込め」

「ダシュが遅い。円を使え。ダッシュの一歩目は左に踏み出す感じだ。やって見ろ」

「そうだ。ダッシュし易いだろ」

「追いつけない球筋に対し、前にダッシュしたって取れるわけがないだろう。追いつけないと判断したら斜め後方にダッシュだ」

「そうだ。うまいぞ」

 着実にリズムを掴み始めていた。真っ直ぐ、また左右に振っても確実に着地点に体が入り込めるようになり、その上、余裕を持って着地点に入れるコツを掴んだ様だ。上達すれば難しい球を投げて見たくなる。そんな感覚が淳平にも現れた。

「ナイスキャッチ」

 ちょうどサードを守る距離に淳一がいた時、淳一の目の前でバウンドするような速い球を投げた。痛烈な当たりの球がサードを強襲したような状況である。驚いた事にそれをさばいたのである。

「終了」

 淳一が走って帰ってきた。

「最後の球は明日の練習予定だった。バウンドして跳ね上がってくる球をさばくのは、球の変化が予測できないので捕球の確立は悪く、非常に難しい。しかし、怖がらずうまく体で押さえ込んだな。正解だ。突然予測できない変化が起こっても体で止められる。もう明日の練習はいらないかな」と冗談げに淳平が言った。

「だけどバットで打った球が取れるかな」

 淳一のこの笑顔の一言は、淳平には自分が言っている意味以上に、捕球する事への意欲を見せてくれた淳一の言葉としてたまらなくうれしく思えた。

「体で受けたらお父さんの球よりチョット痛いだけだ」

 いい笑顔だった。自信がついたのだろう。

「さあ、帰って、休憩したら昼ご飯だ」

「卓」

 忘れていた。完全に忘れていた。

「あれ、卓は?」

「途中で帰ったよ」

「悪い事したなあ。ほったらかしにして。怒ったのかな」

「大丈夫だよ。帰る時、Vサインを出していたよ」

 それにしても淳平は卓也がお母さんにどんな報告をするのか気がかりであった。


   2


 家に帰ると、卓也はすでに帰っていた。

 まずはひと安心だが、淳平にはまだ卓也の報告内容が気がかりである。一年生の卓也にはお兄ちゃんの練習は、見るに酷な光景であったかもしれない。十分とは言えないが、体ができている五年生の淳一だからこそあの練習ができたのであって、もし卓也に教える場合は全くやり方、進め方は違ってくる。野球に対する恐怖感や嫌悪感、ましてや父の教えに対しては弱い者いじめとしか思えない不信感が芽生えてしまっていたら? 取り越し苦労であってほしいと祈る気持であった。

「どうしたの、その顔」と直子。

「たいしたことないよ」

「赤いあざが三つもあるよ。どうしたの?」

 時間が経つにつれて赤黒く目立つようになってきたようだ。

「左の目、大丈夫? 目薬持ってこようか」

「大丈夫だよ。もう痛くないから」

 居間でくつろいでいる淳一と淳平に「お疲れさま」と声をかけるつもりで来た直子だが、淳一の顔を見てびっくりしてしまった。

 興奮してしゃべる卓也の様子から、そうとうハードな練習だと察知はしていた直子であったが、想像以上の練習であったことに我を忘れ、かん高い声を一段と高く響かせている。

 淳平の目は、直子より二階から下りてきた卓也の顔が気がかりであった。普段なら冗談の一つも出る頃合であるが、冷めた顔をして、目の焦点が定まらない様子に淳平は心配していた事が的中してしまったことを知ったが、もう後の祭り。いずれわかってくれるさと自分に言い聞かせていた。

 淳平に「顔を冷してこいよ」と促され、淳一は顔を洗い、濡れたタオルを気持ちよさそうに顔にあてて上を向いて立っている。

 直子は昼食の用意をしながら、洗面所で顔を冷している淳一の姿を見るにつけ不敏に思えてならなかった。なぜそこまでやらねばならないのか、練習相手をしてくれるお父さんでいいのに。

「淳一、リズムに体を合わす事ができるようになったな。明日も今日の続きをやるぞ」

「バウンドした直後の位置に入るのは易しいが、取るのが難しいね。反対に、着地前に入るのは難しいが、捕球は楽だよね」

 洗面所から居間に戻って来ながら、はつらつとした声で淳一が話す。

「そうだな、とにかく走ってくる球のリズムだ。慣れるしかないな。母さん、淳一は見込みがあるぞ」

「何の見込みがあるの」

「理解が早いし、・・・・・・」

 淳平は、連休中の練習で皆に追いつけなかったら可哀想だと口から出そうになったが、楽しく部活をやっているだろうと思っている直子を傷つけることになると考え、思わず口を濁した。

 昼食を終えると子供たちは二階に上がっていったが、それを待ちかまえていたように直子の口が開いた。

「お父さん、休み返上で淳一や卓也と付き合ってくれるのはありがたいと思うけど、度が過ぎるんじゃない」

「いろいろ教えてあげるにはいいチャンスだと思っている」

「部活で監督がいろいろ指導してくれているのだから、休みの間の練習相手でいいと思うのだけど」

「部活では全体のレベルアップとチームワークに終始する。まあ俺のレッスンは塾の勉強みたいなものさ」

「淳一は、へただと言うの」

「そうは言ってないだろう」淳平の語気も上がった。

「あの顔を見たら、お父さんの練習が異常なのか、淳一のレベルが低いのかわからない」

 そう言って涙ぐみ言葉が途切れ途切れになる直子を見ても本心は言えない。言えばもっとつらい思いをする。しかしびっくりするほど覚えが早い淳一であるが、そのことを言っても我が子の傷だらけの顔をすばらしい上達の軌跡に置き換えることは母親には無理だと感じていた。

「お願い。お兄ちゃんを見る卓也もかわいそう。楽しい連休にしてあげて」

 鼻をすすりながら訴える母親の姿に心が動いた淳平であった。しかし

「淳一は笑っていただろう」

「淳一は昔から負けず嫌いなの。私の手前、意地を張っているのよ」

「その意地がヒーローになれる資質じゃないか」

「ヒーローなんかになって欲しくない。普通の子で十分よ」

「わかった。あいつがを上げたら、あいつが無口になったら、手を抜こう。それでいいだろう」

 泣き崩れる直子を見ながら淳平は心の中で叫んでいた。

時間があれば俺もそうしたい。部活で肉体の痛み以上に精神的な苦痛を味わったからこそ、あの笑顔が出るんだ。つらいだろうけど見事にこなし身についている。心配するな。負けん気の強い本来の淳一は健在だ。


      連休二日目


 今日も同じ練習がおこなわれた。

 帰ってくるやいなや、直子は心配そうに

「今日はどうだった」

「疲れたぁー」と淳一。

 直子は淳一の顔より卓也の顔のほうが情報源として気になっている。

「お兄ちゃん、すごいぞ。バッチリ。取れないと思った球も、後ろ向きに走って振り向いてキャッチ。抜群のタイミング」

 興奮気味に話す卓也の声を聞いて直子に安堵の笑顔が見える。

 決して淳平が練習で手を抜いたわけではないのだが、直子には淳平に自分の意が通じ手心を加えてくれたと思って心の中で淳平に感謝していた。

「お父さん、明日も今日の練習の続きをするの?」

 淳一は今日の出来を本当に満足しているようだ。

「そうだな、明日はバッティングの練習を始めようか」

 卓也が大きな口と大きな目を見開いてお兄ちゃんの顔を見た。

「やったね」と言わんがばかりの顔である。

「淳一、バットを持って来いよ」

 駆け足で取ってきた。

「今までの自主トレの成果を見てやる。まず左手をピンと伸ばし思いっきりバットを握ってみろ」

 淳一は身体検査を受けるような顔つきでバットを握った。

「次は右手で」

 何の意味だかわからない。

「うん、やっぱり右打ちだな」

「なんで? 左のほうが腕相撲も強いよ。左打ちの方が一塁にも近いし有利だと聞いているよ。この際、左打ちを練習したいのに」


「御船、球を良く見ろ。引き付けて打て」

 監督の大きな声が飛ぶ。

「御船、飛ばそうと思うな。合わせろ」

 達ちゃんの声も聞こえる。

 なぜだ、なぜ打てない。当たってもボテボテのゴロ、バットは空を切り、体はのけぞってしまう。

「ドンマイ、ドンマイ」

 下級生部員の声に惨めさを感じ「右打ちは苦手なのかもしれない」と感じていた淳一であった。


「左打ちは時間があれば練習しよう。まず確実なのは右打ちだ」

 そう言って淳平は自分の部屋になにかを取りに行った。戻ってきた手には自主トレを始める日に撮った淳一の腕の写真があった。

「淳一、この写真と今の腕の具合を比べてみろよ」

 思わぬ話に淳一は不思議そうに写真を見始めた。

「左腕をよーく比べてみろ。以前に比べ、しっかり握れるようになったことがわかるだろ」

 さっぱりわからない。卓也も覗き込んでいる。

「お兄ちゃん、バットを強く握ってみて」と卓也が言う。

「やっぱり」

「えっ、卓也わかったのか」淳平は半信半疑だ。

「お兄ちゃんの左腕のここが立ってきてるよ。ほら、前は、開いて腕の内側が上を向いていたのに今は横を向いているよ」

「正解」

 淳平の大きな声に卓也は飛び跳ねて喜んでいる。

 淳一は笑顔すらなく、自分の腕の違いに気づき、何度も強く握ってみては写真と見比べ、右腕とも比べあっている。確かに肘の筋肉が立っている。三分間の練習で一分を過ぎる頃から痛くなりピンピンに張っていた筋肉の場所だ。小指と薬指で強く握ると確かに筋肉が立ってくる。また脇もしまる感じがする。まだ淳一はバットを握り締めている。じっとバットを持って三分間、ただ痛いのを我慢するだけのあんな練習が、こんな形で自分の体に変化を起こし、それを我が目で確かめられた不思議な体験に我を忘れている。やっと卓也のほうを見た淳一はニヤリと微笑んだ。

脱皮したな。彼を包んでいた殻から脱皮したな。もやもやが吹っ切れたな。淳平はそう思いながら淳一の様子を見ている。

「お兄ちゃんがんばったんだ」卓也も嬉しそうだ。

「なのになぜ右打ちなの」卓也のほうが意気込んでいる。

「速い球、変化する球を的確に捕まえるには微妙なコントロールが必要になる。脳はコンピューターだ。脳は的確な判断をし瞬時に指令を出すが、末端の腕がバットを振り回す勢いに負けて、次から次に出る脳の指令どおりに球を捕まえられなかったら空振りだ。仮に当たったとしてもバットに自分のパワーが伝えられなかったらボテボテのゴロだ」

「左が強いのだからパワーが出せるのは左打ちじゃないの」

「球を打つパワーは体の回転から生じる遠心力であり、腕の力で打つのではないよ。遠心力は腕の力の何十倍もの力があるんだ」

「ふーん」

 卓也の熱心な質問に負けてしまいそうな淳平であった。なんとかいい説明はないかと模索している。

 その時、淳一が質問をしてきた。

「バットを強く握るのは、なぜ小指と薬指なの」

 その質問を聞いた瞬間、淳平はあるひらめきを得た。それは『百聞は一見にしかず』ある人のスイングを見てもらうと全てがわかるだろうと考えたのだ。

 その前に、淳一の質問に答えることにした。

「昔から小指は五本の指の中で力指と言われていて、何かを握る時はまず小指からしっかり握り始めると力が入るんだ」

「握力計で測定する時も?」

「そう。小指から締め上げるんだ」

 卓也が不思議そうな顔をしている。

「ふーん。こんな小さな小指が力指か」

「友達と何か約束した時に指切りをするだろう」

「うん。『指きりげんまん』のことだね」

「約束を破ったら一番強いこの力指を切ってお詫びします。と言う意味なんだぞ」

「えっ、そんな意味だったの、もう絶対『指きりげんまん』は止めよう」

 大笑いが起こった。

「直子、受話器を取ってくれ」

 受話器を持ってきながら、

「こんなに遅く誰に電話するの。もう九時半よ。迷惑よ」

「大丈夫だ。後藤さんだ」

「御船です。夜分申し訳ございません。ご主人をお願いしたいのですが」

「こんばんは。御船です。・・・明日、予定、あいていますか・・よかった。打ちっ放しに行きませんか?・・うちの息子も連れて行こうと思っているので。・・・・いえいえそうじゃなく、あなたのすばらしいスイングを息子たちに見せてあげたいのですよ。・・・ハッハッハッ・・・ありがとうございます。じゃ、明日十時、オオシロレイクゴルフセンターでお待ちしています。おやすみなさい」

「やったー。今度はゴルフの練習だ」卓也が大喜びしている。

「おいおい。ゴルフがしたいのか?」

「うん」

「そうか、しかし明日は『パワーとは何か』の勉強会だ。それがわかってから、ぼちぼち教えてやるよ」

「ちぇ、つまんないの」

「後藤さんはゴルフがじょうずらしいね。シングルクラスで、ドライバーは三百ヤード近く飛ばすんだって」と直子が話した。

「シングルって何? 三百ヤードってどれくらい?」淳一が質問した。

「ゴルフのスコアーが基準スコアーより何打オーバーしているかで、九打までは一桁の数字なのでシングルクラスと言うんだ。つまりうまい人のことを意味しているんだ」

「お父さんのスコアーは?」卓也のきつい質問だ。

「お父さんは、九十から百十の範囲だから、十八から三十八オーバークラスだ」

 大笑いだ。卓也は腹を抱えて笑っている。

「三百ヤードは?」淳一は距離が気になっているようだ。

「十パーセント引きがメートルだから、約、二百七十メーター位だな」

「そんなに飛ばすの?」

「お父さんは?」また卓也だ。

「二百ヤードから二百二十ヤードかな」

 また腹を抱えて笑う卓也に苦笑いをする淳平だった。

「後藤さんは、お父さんより七歳も年上のかたよ」

 追い討ちをかけるように直子が言ったため、皆大笑いだ。


   連休三日目


 今日も皐月晴れだ。もうたくさんの人がゴルフの練習をしている。

 最近ウッドクラブのヘッドがメタル製になった物が増え始め、キーン、キーンと空気を切り裂くような金属音を残し、白い球が弾丸のように二百五十ヤードのマークが表示してあるネットに向かって飛んでいる。淳平も一ヶ月ほど前にドライバーをメタルウッドに新調したばかりだった。

「おはよう」

 振り返ると後藤さんだ。

「おはようございます。せっかくのお休みの日にお付き合いいただいてありがとうございます」

「ぼんもゴルフを始めるのか?」と淳一のほうに話しかける。

「僕は野球をやっています」

「そうか、野球がうまい人はゴルフもうまいぞ。がんばれよ」

 こっくりうなずく淳一であった。

 お父さんの隣で準備を始め、左手に手袋をする後藤さんの右手をふと見た瞬間、淳一の目は、後藤さんの右手に釘付けになってしまった。なんと指が二本しかない。親指と人差指の二本しかないのである。右手の、それも力指の小指も薬指も中指もない。頭を殴られたような衝撃が走った。身震いが起こった。

 卓也も気づいたらしく

「お兄ちゃん、・・・」

 淳一は首を振って話を制止させた。

「さあ、始めようか」と言って短いクラブを手に持っている。

「淳一、卓也、後藤さんのスイング、球筋をしっかり見るんだぞ。すばらしいぞ」

「おだてるなよ。緊張するなぁ、こんな真剣な目で見るギャラリーの前で打つのは初めてだな」と言いながら、短い距離の柔らかい球を打ち始めた。

 後藤さんの後ろで、同じようにお父さんも打ち始めた。

 打ち方にさほど差は認められない。

 少しずつ体の回転が速くなりだした。

 速くなったとはいえ、後藤さんのスイングはスローモーションの様な振り方である。なのに飛び出した球はぐんぐん空に昇っていくような、そして頂点を過ぎると、ひらひらと木の葉が落ちてくるような球筋である。お父さんのは飛び出しから高く舞い上がり、大きな円弧を描いて飛んでいく。打ち方には差がないし、体の回転はお父さんのほうが速いように見える。

「後藤さんの球筋はきれいだろう。バックスピンがフルに効いた球筋だよ」

 バックスピンのことは知っている。しかし何処が違うのだろう。

「見るポイントは頭の上下左右の振れ、ダウンスイングの始まりから中間そしてヒッティングまでのスピードの変化と体の回転、ヒッティング時の左腕、右腕の状態と体の状態、特にパワーをどのように受け、どのようにして百パーセント球に伝えているかだ」

「御船さん、そんなにたくさん言ったら混乱してポイントがわからなくなるぞ」

「そうですね。ポイントは遠心力で球を打つことと、その遠心力を支える回転の軸が何処にあるかだ」

「その通り。ハッハッハッ」

 淳一も卓也も無言のまま見続けている。

 クラブを取替え、アイアンの練習が続いている。

 後藤さんの右手は親指と人差指の根元をしっかり閉じて、親指の指先の腹をグリップに当てて、人差指の指先を軽くグリップに巻きつくように添えているだけだ。なぜこんなに飛ぶのだろう。右手はほとんど使っていないように見える。長いクラブになってもほとんど同じゆったりとしたリズムで打ち続けている。

「後藤さん、ドライバーショットを見せてくださいよ」

「そろそろドライバーにしようか」

 同じように立ち、同じタイミングで同じような速さのスイングだった。

「ビシーン」と異様な音を残し、水平に飛び出した球はぐんぐん上昇し、ネットの中断に刺さった。生唾を飲む二人だった。

「スゲー」

 淳一は声も出ず、後藤さんの顔をじっと見ている。

 ビシーン、ビシーン、ビシーンとすごい球が飛んでいく。

 淳一はお父さんのほうを見た。

「キーン」という金属音を残しすごい球を打った。そのはずだが球は放物線を描きネットまで届かない。

「お父さん、力いっぱい打ってみて」淳一からのリクエストだった。

「よし、ドラコンだと思って力いっぱい振ってみるか」

 後藤さんも手を休め、お父さんのスイングを見ている。

「キーン」先程よりは強い音だ。しかし同じように放物線を描き、落ち際にネットの下部に当たった。

「やった。ネットに当たったね」卓也が喜んでいる。

「御船さん、練習不足だね。左足がパワーを逃がしているよ。右腕が勝って左腕が負けていますよ。右腕で押してもだめだ。右腕は左腕のコントロールを助けてやる程度でいいんですよ。腰が右腕を押し出してくれる感じでいいんですよ。それでも右腕は強いからね、ヒットした後にパワーが爆発し、継続したパワーで加速する感じですよ」

 決して父のスイングや飛距離は他の練習している人に引けを取らない程きれいなスイングと飛距離をだしている。しかし後藤さんの的を得た指摘は三つだと淳一は考えた。

 軸足がパワーに負けて、せっかくのパワーを逃がしている。腰、肩、腕の順なのに、利き腕の右腕が邪魔をしている。そしてヒット後の継続した加速につながっていない。

「ありがとうございます」と言って素直に助言を受ける父を、淳一は誇らしく見つめていた。

「一服しますか」と言って、全員が喫茶室のテーブルについた。

「おじさんはね、淳一君のお父さんよりまだ若かった頃、人一倍腕力も強く、よく飛ばすしゴルフが面白くて、こう打つんだ、ああ打つんだとゴルフ談義に花を咲かせていたよ。ところが或る日、仕事中の事故で指を飛ばしてしまったの。ショックだったねぇ。右手でクラブが握れなくなったんだ。悲しかった。もうゴルフが出来ないと諦めたんだ。

 そんな時、テレビでトムなんとか言ってたなぁ、レッスンプロの人がいろいろな曲打ちをやっていた。その中に左手一本で球を打つ曲打ちをやったのを見たんだ。感動したね。俺もやれる、やって見せると決心したんだ」

「よく飛んだの。その人の球」

「そうだよ。二百ヤード飛ばしたんだ」

 卓也が淳平の顔をチラッと軽蔑するような目で見た。片手でも二百ヤード飛ばすんだよと言いたい顔つきだ。

「左手一本では、かすりもしなかったね。恥ずかしかったよ。人差指と親指でグリップを掴んでスイングしてもダメで指の皮が破れたよ。あまりに痛いんで、グリップにそっと添えるだけで振ってみたら、いい感じで振れて当たったんだ。それからだ。左腕の筋力アップ、握力アップの練習を続けた。そしてゆっくり振ってジャストミートさせなければ飛ばないこともわかった。右腕の腕力で打っていた時よりもきれいな球筋で打てるようになった。つまり、ジャストミートしたら、ほっといても飛んでいくよ」

 緊張もほぐれ、皆な大笑いで後藤さんの話に聞き入っていた。


 後藤さんの話しとスイングは相当インパクトを与えたのであろう。家に帰ってからは、お母さんを捕まえてお母さんの後ろから二人がついて回りながら今日の出来事を話している。

「そう、そうなの、後藤さんもがんばったんだ。淳一も卓也もがんばらなくちゃー」

 後藤さんは、もう少し練習をしてから帰るとのことで別れたが、自分の思いつきに付き合ってくれて、これだけの勉強をさせてもらったことに、淳平は感謝の気持ちを持って子供たちの弾む会話を聞いていた。

 淳一が駆け寄ってきて淳平の横に座った。

「お父さんのスイングも後藤さんのスイングも他の人に比べたらゆったりとしたスイングだけど、なぜ飛ぶの」

「お父さんだって、後藤さんだって、もっと回転を速くしてもっともっと飛ばしたいさ。しかし、後藤さんが言ってただろう。ジャストミートできなかったら飛ばないって」

「そうか」

「技量がないのに回転を速くしても、そのパワーをコントロールできなかったら意味がない。お父さんも後藤さんに指摘されただろう。速いダウンスイングをしてパワーを作ったのだが、当てるほうが精一杯でインパクトの瞬間にはパワーを逃がしてしまっているって」

「じゃ、後藤さんも左腕の筋力アップと右腕の補助のタイミングの練習をもっともっとして回転のスピードを上げれたら、もっと飛ばすことが出来るんだね」

「その通り、お父さんももっと飛ばしたいよ」

「練習しなさい。足腰を鍛えなさい」

「はい。・・・ハッハッハッハッ」

「パワーが逃げるってどんなこと?」

「うん、勢いよく飛んできた球を捕球する時、飛球線に対しちょっと引いてやると受けた時の衝撃が減るよね。またハンマー投げや砲丸投げで回転を加速している時、回転軸がフラフラしてたらせっかくのパワーが出ないだろう。野球やゴルフでは軸足が遠心力を支えきれず、回転軸が流れてパワーを逃がしてしまうことだ」

「そうか、わかった。後藤さんは柔らかく握っていても加速してインパクトの時、左腕はピンと張っていたよ。すごく太い腕だったね」

「よく見てたね。プロは一トン近いパワーに耐えるため噛みしめた奥歯が割れてしまう時があるそうだよ」

「うそだろ」

「ほんとだ。相撲取りの武蔵丸のぶちかましは、二トンの計測値が出たのをテレビで見たことがあるよ」

「うそだー。受けたら死んでしまうよ」

「お父さんが受けたら死ぬだろうね、それがスポーツの世界だよ」

「卓、一トンだぞ・・」と言いながら卓也のほうに走っていった。


 昼食時、直子が淳平に尋ねた。

「昼から練習するの」

 淳平は淳一の顔を見た。やりたそうな顔をしてこちらを見ている。

「お父さんは疲れたよ。今日お父さんはお休みだ。だけど淳一は自主トレだぞ」

「よっしゃ。何をするの」

「素振りをして次のことがわかったら明日から本格的に練習だ」

「宿題は何?」

「一つ、膝を曲げ腰を落とし、素振りをする時に、加速する感じを掴め。加速は、膝、腰、肩の順だ。

 二つ、ヒッティングの位置から目を離さず振りぬく練習だ。ヒッティングの位置を過ぎて十センチはまだ加速している感じを掴め。その時は後藤さんが言ったように右腕が効いてくる。右腕が伸びたら左腕にかぶってくるはずだ。その感じを掴め。

 三つ、そのまま振りぬいたら、二回転ぐらいしてしまうぞ」

 卓也が笑った。意味がわかっているみたいだ。淳平は続けた。

「フィニッシではパワーを逃がせ。さっき話した通りだ」

 卓也がお兄ちゃんの顔を覗き込み「さっきの話って何?」

「パワーの逃がし方だ」

「どんなにして逃がすの?」

「回転軸を、膝を使って流すんだ」

「正解」

 淳平は理解できていた淳一に、喜びから大声をだしてしまった。 父の大声に圧倒され、卓也は理解できない様子だったが「ふーん」と言って黙ってしまった。

「練習しながら卓也にも教えてやってね」直子が淳一に頼んでいる。

「四つ」

「まだあるの」卓也がふざけて見せた。

「一人が練習している時に見ている者は三メートル離れて見ること。近づく時には声をかけ、声をかけられたら、絶対スイングはしないで確認すること。以上」

「わかった、わかった、けがをするなって言うことだろう」

「正解」

 またもや淳平の大きな『正解』の声に、皆大笑いであった。


     連休四日目

 

「今日もいいお天気よ、お父さん」

 直子は疲れが見え始めた淳平が気がかりである。

「今日も練習するの」

「もちろん」

「子供たちも疲れたみたいでまだ起きてこないわ」

「そうだな。いろいろなことがあり過ぎる連休だもんな」

「そうそう、卓也は友達の誘いで今日は釣りに行くと言ってたわ」

「川か? 気をつけないと危ないぞ」

「注意しておくわ。昨日子供たちが練習している時、お父さんはスポーツショップにテニスボールを買いに行っていたけど、テニスボールで野球の練習をするの」

「うん、店で空気を少し抜いてくれって頼んだら不思議そうな顔をしていたよ」

「お父さんらしいね。空気の抜けたテニスボールを買いにきた人はお父さんが初めてでしょうね」

「軟式のボールで空気を少し抜いたらブヨブヨだ」

 そんな会話が続いていると子供たちが二階から下りてきた。

「おはよう」

「おはよう」

 親の心配は取り越し苦労だ。子供たちは元気そのものである。

「卓、フリスビーを持っていたよな」と淳平。

「持ってるよ」

「何枚持ってる? 貸してくれ」

「何するの?」

「打撃練習だ」

「フリスビーで打撃練習?・・・聞いたことがないですねぇ。かみさんに買ってもらったフリスビーを二枚持っていますけど何に使うか教えてもらえませんか」

 下を向き右手の指先を額に当てて考え込む刑事コロンボのしぐさをする卓也の姿を見た直子は、吹き出しそうになるのをこらえながら朝食の配膳をしている。そして淳一がまだ四歳の頃の事を思い出して、もう我慢が出来ないとばかり一人吹き出していた。

 それは淳一がおもちゃの人形を操り「チョー」「バギューン」と大きな擬音を発しながら一人座って遊んでいた時の事である。

 卓也がまだ乳飲み子の頃で、ぐずって泣いている。

「あーあ、嫌になるね、卓也の大きな泣き声には」

 すると淳一が「子供ちゅうもんはな、腹が減ったら泣くもんよ」

 その言い方はお父さんそのものであり、その夜、淳平と大笑いしたことを思い出していたのだった。


 今日も学校のグランドには誰もいない。絶好の練習日和だ。

「さっそく練習だ。素振り開始」

 淳一の素振りを横目で見ながら淳平も準備体操をしている。

「気持ちがいいなぁ」

 連休四日目だ。淳平は淳一がここまでついてきてくれたことをうれしく思いながら、朝の空気を思いっきり吸っていた。

「打撃練習その一、スイングは昨日練習した通り。そのスイングでお父さんのグローブを打ってみる。構えて・・・ヒッティングポイントは何処だ?」

 淳一はバットでその位置を示した。

「よし、そこにグローブを斜め前からトスするからたたいてみろ」

 淳一には目的がなんだかわからなかった。

 しかし打つたびにズシンと衝撃が返ってくる。

「いいか、よいしょのリズムでポイントにグローブが入ってくる。そのタイミングに合わせ、バットを加速しヒットする」

「その調子だ。次は後藤さんの話だ。ヒットする瞬間、腰の回転で右腕を押し、バットをさらに加速し、ヒットをもう少し継続する。桜の木や部屋の入口の柱をバットで押す練習したあの感じだ。但し、回転軸は逃がさないようにすること」

「そうだ。もっと滑らかに。そうだ」

 淳一もバットにグローブがまとわりつく感覚、またバットがグローブを掴んではじき出す感覚を察知した。

「そうだ。グローブが五メーターも飛んでいったぞ。右腕で力を入れたわけではないだろ。今までのスイングの加速をヒッティングポイント以降にまで継続しただけだ」

「グローブの芯に当てて遠くに飛ばすのが目的ではない。今は自主トレの成果が感じられるかどうかだ」

「よし、回転を速くしてパワーアップだ。但しグローブは同じ速さでポイントに入るぞ」

「そうだ、よくわかったな。ダウンスイングの開始を遅らせる。よくプロ野球の解説者が引き付けて打つと言っているだろう。このことだ。何か感じるか?」

「うん、グローブがバットに吸い付く感じがする。腰がグローブを放り投げているような感じがする」

「よーし、その通りだ。しばらく続けるぞ」

 淳平はうれしくなった。しっかり自主トレの練習をしていたことがよくわかる。タイミングもいい。腕も真っ直ぐ伸びている。右腕はポイントまで余裕を持ってためを作っている。軸足もしっかりしている。ひときわ感心したのは、フォロースイングだった。柔らかく膝、腰、そして体の反りを少し加えパワーを逃がしている淳一のフォームに見とれている様子であった。

「今の感覚を忘れるな。速い球だからと言って速く振るんじゃないぞ。今のタイミング、つまりスイングの開始を早めるだけで、ヒッティングポイントに入ってくる球に合わせるだけだ。他のことは考えるな。いいな」

 淳平の興奮した言い方に、大事なことなんだろうな、くらいの理解であった。

「よし、次ぎはヒッティングポイントに入ってきた球のどこを叩くかだ」と言って淳平はグローブをフリスビーに持ち替え、淳一の正面五メーターほどの場所に立った。

「フリスビーが野球の球だ。ゆっくり投げるから、今練習したタイミングで、フリスビーの先端を叩け。スイングは変えるな。今までと同じダウンスイングでフリスビーの先端もしくは一センチ奥を狙え」

 淳一は、やれやれ人が見ていたらかっこ悪いな。友達にでも見られたら笑い者になるだろうなと考えたが一理一理ある父のレッスンは自分に絶対必要だ。役に立っている。恥ずかしさよりも一言も聞き漏らさず実践していきたいと自分に言い聞かせていた。

 ゆっくりとスーと飛んでくるフリスビーだが、先端を叩くのは思ったより難しい事に気がついた。狙えば狙うほど空振りだ。淳平は黙ったままフリスビーを拾いに行き、また投げてくる。大きな声で怒鳴って欲しい。どこがおかしいのか怒鳴って欲しい。そんな迷いを淳一は感じていた。

「リズムだ。リズムを忘れているぞ」

「リズムでタイミングを掴め」

 父の助言は聞こえているが自分の煩悶している事とは違う。先端を叩くには水平か、ややアッパー気味にスイングしなければいけないのでは。そんな迷いと戦っていた。

「何をしてる。ダウンスイングが崩れたぞ」

「何をしてるんだ。今度は大根切りか」

 次第に大きくなる父の声に、頭の中はパニックになりだした。

 やっとフリスビーに当たるようになってきたが、グシャ、パカッと変な音を立てて目の前に落ちる。どうなればいい当たりなのかわからない。

「休息」

 淳一は立ったまま動かない。

 淳平はフリスビーを拾いに行きながら、

「大きな球だぞ。フリスビーは野球ボールの五、六倍はあるぞ。気楽にやれよ。リズムだ。タイミングだけ考えて今までのスイングをすればいい。他は何も考えるな」

「はい」

 気を取り直し練習を再開した。

 リズムだけを考えタイミングを合わせることに集中した。父のいった通りだ。当たり始めた。一端当たり始めると面白いように先端が見えてきた。淳一は改めてリズムの大切さを知った。焦れば焦るほどリズムが悪くなっていった事を痛切に感じていた。

「淳一、ゆっくりスーと飛んでくるフリスビーのスピードは近くから投げているせいもあるが、ピッチャーが投げる球の速さと同じ位かそれ以上だ」

 父の声に我が目を疑った。そう言われてみるとそうかもしれない。父の手を離れてからあっという間に届いている。

「もっと早く言ってくれてたらよかったのに」と淳一。

「それぐらい、自分の目で確かめろ。リズムを掴む事を忘れているからだ」

 父の一言が自信となって、いいタイミングで当てている。

「いい当たりだ。フリスビーがお父さんの近くまで戻ってきたぞ。平ぺったいフリスビーだから回転させるのは無理だが、見事に上向きの力が加わっているぞ。こんな平ぺったいフリスビーがバットに吸い付き跳ね返されたね」

「よくわからないけど、フリスビーがバットに乗ったような感じはしたよ」

「それが感じられたら上出来だ」

「どういうこと」

「グローブやフリスビーで練習してきたことは球を掴むことなんだ。出来るだけ長くバットに吸い付かせて打つ、これが基本だ。スイングはダウンスイングがいい事は知っているだろう」

「聞いて知っているよ。なぜだかわからないけど」

「フリスビーの先端をたたく為には水平に振った方が当たり易いと考えたとして水平に振った場合、打ち返せるポイントは先端の一点になってしまう。球は水平にまっすぐ飛んでこない。この状態でフリスビーの先端にバットの芯を合わせることは当たったとしてもまぐれに近い。たいていは芯をはずすよ」

 どう振れば当たるのか水平に振った方が、あるいはアッパーに振った方が当て易いのではと悩み迷ってしまった淳一だけに、父の長い講釈も心地よく聞き入っていた。

「芯をはずしたらどうなるかな。バットの芯が上に少しはずれたらフリスビーはバットの下側を滑って後方地面に落ちるだろうし、芯が下に少しはずれたらバットの上を滑って後方高く跳ね上がるだろう。しかし先端またはその近くをダウンスイングで叩くとフリスビーは回転が加えられバットの上面に乗りながら吸い付いてくる。つまりフリスビーを捕まえている間が長くなるんだ。野球のボールも同じだ」

「丸い球でも?」

「そうだよ。野球のボールは平べったいフリスビーのように現象がはっきり現れないだけでまったく同じだ。だってフリスビーの先端がうまく捕まえられなかった時でもフリスビーは後方に飛んでいかずに前に叩き落とされていただろう。あれを水平に打っていたら勢いよく後方に飛んで行ってたはずだ」

「そう言われるとそうだよね。野球ボールの先端を捕らえ、インパクトの瞬間ヘッドが返るとき、ボールはバットの曲面を回転しながら吸い付いているわけだ」

「その通りだ。ボールの場合で良く考えられたね。フリスビーの練習も合格だ。タイミングの取り方が非常にうまくなった」

「次は何をするの」

「次はフリスビーのように硬い物ではなく柔らかいテニスボールで練習しよう。テニスボールの球を潰して回転をかける感じを掴む練習だ」

 淳一は首をかしげた。

「初めからボールで練習しても良かったのになぜフリスビーで練習したの?」

 人に見られたら笑われるような練習をなぜしたのかと聞きたい淳一だった。

「先程、水平打ちや大根切りをやっていただろう。迷いがある時、ボールではその差がわからない。フリスビーは現象がはっきりと現れるしバットに乗せる感じが目で確認できるからだ」

「なるほどね」

「ほんとうはな、ボールを投げるよりフリスビーの方が楽だろう。スピードも出せるし、ハッハッハッハッ」

 淳一もうなずきながら笑っている。

 暫くの休息の後、待ちきれないように淳一は素振りを始めた。どんな結果が出るのかが楽しみのようだ。

 淳平はテニスボールの缶を開け、真っ白いボールを四つ用意した。

 サイドスローで投げてくる父の球だが、フリスビーよりもタイミングは取り易かった。空気が抜かれやっと丸さを保っているテニスボールはグチャと音を立てて跳ね返る。二人とも黙々と練習を続けていた。

「先程の疑問を確かめてみようか。水平に振ってみろ」

 確かに正面に打ち返せる数が減って、ボテボテの球か後方へのチップが増えた。

「ダウンスイングに戻してみろ」

「すごい」

 思わず淳一が声をあげた。グシャという音を残し、前方に転がる球にも勢いがあり、ゴロでも生きたゴロだ。

「アッパーで振ってみろ」

 見事に後方へのファールチップが多くなるのがわかった。

「もとに戻してみろ」

 ここまで来たら信じざるを得ない。タイミングが遅れ、球の下を叩いたかなと思ってもファールチップにならず、前方へストレート気味の球が返る。タイミングが早過ぎて球の上を叩いたかなと思っても球は勢い良くゴロで父の方へ転がる。

「今度は少しスピードを上げるぞ。力で振るな。タイミングだ。リズムだ。負けそうなら腰で打て」

 空振りだ。

「どんまい。どんまい」

 当たり始めるとグシャという音が一段と強くなり始めた。打球に勢いが付き始めた。

「何か変わったか」

「気持ちいいよ」

 淳平が期待した返事とは違っていたが、気持ちよく打っているみたいだ。

「もっとスピードを上げるぞ」

「何かわかるか」

「ちょっと腰が入ると、テニスボールがバットにベッタリ引っ付いたようだ」

 やっと期待した返事が返ってきたようで淳平も満足しながら投げては受けている。

「球の飛び方が自分の思っていた感じと違うだろう。打ったバットの線に対しボールの飛ぶ角度、ボールを叩いた位置に対しボールの飛ぶ方向をよく見ておけ」

「外角低め」

「今度は高めだ」

「わかったか。スッポ抜けのストレートなら高めは水平打ちでもボールが目の高さに近いので打ち易くまた当たる確立も高いが、今みたいに凡フライになるぞ。だから高めのボール球は打ちたくても打つな。今日はボールを拾いに行くのが面倒だから打ってもらう方が助かるが、その代わり高めを打った時の悪い球筋をしっかり頭に入れておけ」


「太田先生おはようございます」

「小野先生か、おはよう」

「見てますな。私も先程駐車場の方から見ていましたが、なかなかいいフォームで打っていますね。そうとう年期が入ってますな。六年生の子ですか」

「五年生だ。つい最近野球部に入った子ですよ」

「よその部からの引っこ抜きですか」

「野口が連れて来た子だが、ずぶの素人だったよ」

「そんなことないでしょう。ジュニアクラブでやっていたとか。ところで誰ですか」

「五年生の御船だ」

「彼が御船君か。以前はバトミントンをやっていると聞いていたが」文化系のクラブを担当している小野先生には馴染みが薄かったとみえる。

「職員会議の資料を作ろうと早く来たのだが、ついつい見とれていたよ。面白い練習だ」

 十一時からクラブ活動関係の最終予算会議が開かれる。四月中に終わる予定だったものが連休に持ち越されていた。

「監督もあの練習を取り入れてみてはどうですか」

「御船には、もう卒業だ。もっと足腰を鍛え、守りのフォーメーションとコンビネーション、攻撃のフォーメーションを徹底的に練習させるよ」

「楽しみですなあ」


「淳一、次は野球のボールでやるぞ。ボールは一つしかないし、拾いに行くのが大変だから淳一はバックネットの前に立ってくれ」

 空振りを想定しての配置だった。数回は空振りするだろう。また本球の怖さもそのうち克服するだろうと淳平は考えていた。淳平は小学生が投げる球の速さを知らないので、淳一との投球練習で投げ込んできたスピードを参考にして投げ始めた。

 一球目は空振りだった。

「腰が引けているぞ。今までのスイングと違うぞ。球が怖いのか。卓也と一緒に練習しただろう。目の前までボールが来ても目を離さなかったら、すっとグローブが出て捕球できただろ。あれと同じだ。思い出せ、リズムだ、タイミングだ、頭を動かさず、目を揺らすな。いい球だけを打て」

 二球目は外角にはずれ、淳一は見送った。バックネットの裾の鉄板に当たったボールは、淳平の近くまで跳ね返ってくる。

「ボールの先端を桜の幹と思え。部屋の入口の柱と思え」

 三球目、淳一はボールを止めることができた。

「よし、球をとめたな。上出来、次は後藤さんのスイングを思い出せ」

 四球目、膝、腰、肩を流れるように使ったいいフォームだ。やや遅れ気味のタイミングであったためライト方向へ飛んだが、生きた打球であった。拾いに行って返って来た淳平が言った。

「よし、スピードを上げるぞ」

 もう小学生の投げる速さを越えている。

「違う。スピードが速くなったからといって回転を上げるんじゃない。回転を上げるのは次のステップだ。今までのスイングで十分だ。リズムだ。タイミングを掴め。そして球を捕まえたら腰で加速する感じを掴む練習だ」

 速い球に負けまいとしてスイングが速くなるのは必要条件ではあるが、今はスイングのリズムを崩さず、ダウンスイングの開始からヒッティングまでバットを加速する感じを掴み、バットを球のスピード、リズムにあわせる練習である。それをうまく淳一に伝える言葉がないことにじれったさを感じていた。スピードを落として、すばらしい球を打った先程のスピードで投げてみた。速い体の回転からのスイングは遅い球に合わすことが出来ず、回転軸は流れ、見事に空振りである。

「こんな遅い球が打てないのか」ひときわ淳平の声が荒くなった。

「もし、振り始めのタイミングが早いと気づいたら、後藤さんのスイングを思い出せ。膝、腰を使い、ゆったりとした加速をするんだ。速い球のリズムに間に合わないと思ったら、後藤さんのスイングを思い出せ。膝、腰を使って、ダウンスイングの加速を速くし、リズムを合わせろ。つまりスイングの開始から力を入れて振回すな。スイングの開始は、電車のスタートスピードだ」

 緩急をつけた球を交互に淳平は投げた。二人とも無言で練習が続いていた。しだいにリズムが掴め、球がよく見えるようになって来たのだろう。いい打球が返り始めた。

「次はインパクト後の継続する加速だ。後藤さんが言っていたパワーの爆発だ。腰を入れろ」

「腰の回転が早すぎる。腰を入れるのはインパクトの直前からだ。後藤さんのスイングを思い出せ」

「軸が流れているぞ。腕を折らずに遠心力を背筋で引っ張れ。体重を左足で受けろ」

「よーし。すばらしい」

 淳平が大きく飛んだ球を拾いに行っている間に、淳一は右腕で目の辺りを拭いている。

 太田監督は職員室の窓越しに、涙を拭く淳一の姿を見逃さなかった。あれだけ速い球を打ち返せるとは、ゆったりとしたフォームから打ち返せるとは、この連休中に何があったのか。彼が一番苦手な守備を見てみたい。

「太田先生、職員会議ですよ」

 後ろ髪を引かれる思いで職員室を出て行く監督であった。

 速い球、遅い球に対し、見た目ではまったく同じスイングとしか思えないゆったりとしたスイングから打ち出される打球は、毎回淳平を球拾いに走らせていた。

「卓也がいないと、お父さんはばててしまうぞ」

 父の声音が柔らかくなってきたことで、淳一は自分のスイングに自信を持ち始めた。

 またもや淳平が拾いに走る。走りながら「何かわかったか」いつもの父の質問だ。

「球がよく見える。ゆっくりに見えるよ」

 最高の返事であった。淳平の講釈がまた始まった。

「むちゃなスイングをすると、目が揺れる。遠心力をコントロールできなくなって、加速を鈍らせ、手打ちになる。その結果軸が流れる。パワーは出ない。芯をはずす。いい事は何もないぞ。毎日やった自主トレの効果は、目が動かないスイングで発揮されるんだ。わかったか」

 淳平は息を切らしている。また投げてくる。

 拾って帰って来るとハアハア息をしながらまたしゃべる。

「更に回転を速くするのは後日だ。部活で足腰を鍛えろ。家で腕、腹筋、背筋を鍛えろ。今は耐えられずバランスを崩し始めているぞ。激しい遠心力が十分支えられる様になってから飛距離アップだ」

 返事する間もなく、また投げてくる。

「今のはカーブだ。ちょっと泳がされたな。もう一度投げるぞ」

「見えたか」と言うやいなやいい当たりだ。また走ってボールを拾いに行く淳平だった。

「次はシュートだ」

 ストレートに近い速い球だが、みごとに打たれた。球拾いの淳平は、ついに疲れからか歩き出した。黙って帰って来た淳平が、また投げた。アンダースローの球だ。淳平めがけて勢いよくライナーが戻ってきた。淳平はグローブに納めると、息も切れ切れに言った。

「びっくりしたか」

「うん、だけどアンダースローの球のほうがよく見えたよ」

「合格だ。終了」

 その声は疲れ果て、いつものあの大声はもうなかった。そして走って片付けを始めた淳一と足を引きずりながらグランドを後にする淳平の姿が対照的であった。

 帰り道、ふと見渡すと田植えが始まっている。

「この米が実るまで、米の成長とお前の成長の競争だな」

「うん、お父さん疲れた?」

「当たり前だ。ちょっと速い球を投げたら、あんな大振りをするとは思ってもいなかった。

自主トレのイメージで素振りのイメージでやってくれたらこんなに苦労しなかったのに。しかしよくわかっただろう」

「うん、ボールがよく見えるようになった。スイングが楽になった。自主トレの意味がやっとわかった」

「楽しくなったか」

「うん、野球って思っていたより簡単だね」

「こいつ、生意気に。パワーが付くと、もっと面白いぞ」

「今日で終わり?」

「そうだな。明日も天気が良かったら仕上げをやろうか」

「なにするの」

「打球を受け、バックフォームの練習だ」

「いいぞ、やりたい」


「御船、なにやってんだ。ボールはグローブで受けろ。顔がつぶれるぞ」

 朦朧とする頭の中に遠くの方から逹ちゃんの声が聞こえる。

「逃げてどうするんだ。体で止めろ」

 監督の大きな声が聞こえる。

「ドンマイ、ドンマイ」

 後輩の声が聞こえる。トンネルをした。

「腰を落として、グローブでとめろ」キャプテンの木下先輩の声が聞こえる。なぜか真っ暗闇の中から白いボールが牙をむいて向かってくる。先輩や後輩の声が遥かかなたから聞こえてくるようだ。気が付くとボールが頭上を越え、後ろに飛んでいく。

「なにボサーとしている。拾って来い」

 監督の怒鳴る声が聞こえる。

 部活の帰り道、逹ちゃんがいつも励ましてくれた。

「だいぶ慣れたな。皆、始めはそうだった。そのうちうまくなるよ。コツを覚えたらすぐうまくなるよ」

 この道を歩きながらだった。


 今は違う。もう皆についていける。このお父さんのおかげだ。

 疲れはてたお父さんの顔を気遣い見上げながらも、足取り軽く歩いている親子の後ろ姿を農作業の手を休め見送るお爺さんがいた。

「達の友達の御船君じゃなかったかな」


 家に帰ると卓也も帰って来たところだ。

「お兄ちゃん、どうだった」

「バッチリだ」

「お父さん、ほんと」

「ああ、ほんとだ。卓也が来てくれなかったから、お父さん球拾いでクタクタだ」

「やっぱり卓がいないとだめか。情ないなあ。明日は手伝ってやるよ」

 なまいきな言い方だが憎めない可愛さがある。

「そうだな、明日はお父さんの助手をやってくれ」

「助手じゃなくて、マネージャー」

 みんな大笑いである。

 昼食の後、淳平は昼寝をすると言ってソファーで寝てしまった。

「お父さん、そうとう疲れているのね。卓也、明日はお願いよ」と直子が言った。

「まかせなさい」

 相変わらず、憎めない子である。


 淳平は夕方、電話の音で目がさめた。

「淳一、野口君から電話よ」直子の声だ。

 淳一が二階から駆け下りてくる。

「もしもし。えっ見てたのか・・逹ちゃんのおじいちゃんが?・・そんなんじゃないよ。うん、練習した。天気が良かったらやるよ。ちょっと待ってね」

「お父さん、逹ちゃんが練習一緒にしたいって、いいかな」

「いいよ。もってこいの話だ。ボールも持って来るように言って」

「逹ちゃん、いいって、ボールも持って来てね。じゃ明日な」

 電話を切った後、淳一は大喜びだ。

 直子が心配そうだ。

「お父さん大丈夫、二人相手じゃ疲れない? あさってから仕事よ」

「明日は捕球練習だが、お父さんのノックはへただから思った所に行かず、打球は散らばると思う。捕球する者がたくさん居る方が安心して打てるよ」

「僕も入ろうか?」

「卓也には、打球がきつ過ぎる」

「ちぇ面白くないの」

「卓也はホームベースに居て、ワンバウンドで返って来る球を受けてお父さんに渡す練習だ。ワンバウンドでも怖いぞ」

「おまかせ」

「おお怖、剣道部の防具、借りれないかしら」

「ばかに、すな」

 卓也が剣道の防具を身につけグランドに立っている姿を想像して大笑いであった。


   連休最後の日


 曇り空であるが疲れが残っている淳平にとって、皐月晴れのまぶしい日差しの中での練習よりは恵みの日和だ。

 いつものように九時過ぎにはグランドに立っていた。

「準備運動だ」

 子供の体は準備運動など必要がないほど柔らかく、淳平自身の為の準備運動であった。

「おーい。御船」

「逹ちゃんだ」

「おはよう」

「おはようございます」

 礼儀正しい子だ。

「毎日やっていたのか」

「うん」

「誘ってくれたらよかったのに。家のいやな仕事がサボれたのに」

 悔しそうな野口君の顔を見て淳平が笑ったので、淳一もつられて笑っている。

「今日は私が打つ球の捕球練習だ。卓也がホームベースに立ってワンバウンドでバックホームされる球を受ける。手を抜くな。卓也はうまいからな」

 逹ちゃんの顔を見ると心配そうな顔をしている。

 淳平は練習内容の説明を続けた。

「グランドの中ほどで二人が守備をする。外野の浅い守りを想定する。一人が突っ込んだら、もう一人はエラーした場合のことを考え、バックに回ってフォロー体制をとる。いいな」

「はい」

 二人同時に返事が返った。

「それから、淳一のことを淳と呼ぶが、野口君のことを達と呼び捨てにしていいかな」

「いいよ」

 守備に向かう時、野口君が淳一に話しかけている。

「お前の父さん気合が入ってるな。怖いな」

「へましたら怒鳴られるぞ」と言って淳一が脅しをかけている。

 ホームベース上では淳平が卓也に説明をしている。

「掴まなくてもいい。止めるだけでも練習だ。もし怖いと思ったらヒョイとよけろ。こうだ。ヒョイ、ヒョイ」

 淳平はよけ方を教えているが、その格好はくねくね人形のようなよけ方である。

「球は、バックネットの鉄板に当たって返って来るからそれをうまく捕球しろ。いいな」

「はい」

 相当緊張しているのが手に取るようにわかる。卓也が顔面キャッチをしないことを淳平は祈った。

「いくぞ」

 始まった。まだ弱い打球だ。淳一が捕球し返球する。余裕がある。それよりも卓也のほうが心配であった。

「あーら、ヒョイ」

 卓也には先天的なリズム感を持ち合わしているのかと疑ったくらいで見事にすれすれで身をかわし、跳ね返ってくる球に食らい付いている。思わず吹き出しそうになる淳平であったが、これなら安心して任せられると思った。

 次第に打球が強くなり始めた。それに呼応するように、淳平の声も大きくなっていった。ほとんどが速いリズムのゴロであり、フライはたまにしか無い。

「そんな取り方ではバックフォームがワンテンポ遅れるだろう。ランニングキャッチでも捕球時は次の体勢が取れるようブレーキをかけろ。走りながらボールが投げられるか。ステップを踏むのは無駄だ」

「達、リズムが取りにくかったら、飛球線に対し、右側に踏み込み、斜めから見てリズムを掴め」

 逹ちゃんは右利きだ。意味がわかるか心配する淳一だった。

「人のことは心配するな、着地点に確実に入れ」

「達、跳ね上がる球を取るのは十年早い。確実に捕球できる着地前に入り込め」

 淳平は跳ね上がる球を難無くこなす野口君のさばき方に、さすが野球部と思ったが、あえて着地点に入り込む確実な捕球練習を期待した。

 高いバウンドの球が来た。

「さがれ」ひときわ大きな声だ。

「ナイスキャッチ」

 野口も思わず叫んだ。バックに走る淳一、そして振り向きざまにキャッチしバックフォームする淳一に野口は息を呑んだ。

「達、下がれ、なにをしてる。飛球線に対し右を走れ。それが基本だ」

 逹ちゃん意味がわかるかな。またもや心配する淳一だった。

「達、もう一度だ、走れ、右に振れ」

「そうだナイスキャッチ」

 さすがにいい身のこなしだ。理解が早い。

「突っ込め、腰を落とせ、そうだ。ランニングキャッチよりそれの方がバックフォームが早いし確実な投球が出来るだろ。ランニングキャッチで失敗したら、被害が大きい。わかったか」

「達、突っ込め」

「なにをやってる淳、フォローに入るのに真横に走るな。捕球位置が交差する一点になってしまうだろう。確立の悪い取り方をするな。まぐれだ。フォローに入る時は円を使え。飛球線に突っ込む体制が間に合わないと思った時は、飛球線に対し円を使いながら後方に回り込みバックハンドだ。その位置を掴め。リズムだ」

 なぜ見えるのだ。真横に走ったことが。

 フォローに入った淳一が怒鳴られている。

「淳、突っ込め」

「よーし」

 次の球は、また淳一の方ではあるが到底取れない飛球線だ。

「達、フォローだ。なにをやってる。今言ったことを聞いてなかったのか。真横に走るな。円だ。飛球線に対し弧を描くように追いつくんだ」

「もう一度」

 また淳一には到底取れない位置の打球だ。

「達、フォローだ」

 淳一は振り返って見た。

「ナイスキャッチ」

「さすがだ、円をこなした」

「いいか。まぐれに期待するな。練習の時はしんどくても確率の高い基本を練習しろ」

 逹ちゃんが回り込んで飛球線に入る姿が見えた。体が傾き、急カーブを曲がりながら飛球線に入るのがはっきり見えた。

 この光景を熱い目で見ていたのは、淳平と淳一だけではなかった。 先程からこの光景を駐車場の方からじっと見つめている人がいた。

 太田監督である。

 たぶん今日も練習しているだろうと思って来たら、野口も一緒にやっているのには予想外であった。

 ショートバウンドを体で包み込むような捕球や、体をのけぞらして捕球する技は、長年野球をやってきた野口には当たり前のことだが、御船の捕球は野口を超えているように思った。あの確実な位置への入り方と、安心して見ていられるあの捕球は野口に無い華麗さを持っている。後ろ向きにダッシュし、確実にポイントに入り振り向き、余裕を見せる捕球は、いつ覚えたのだろう。確実さでは、他の者のレベルを超えている。また返球がすばらしい。柔らかく力が入っていない。そしてスピードのある返球を見ていた監督は、どんな球を投げるか一度マウンドに立たせてみたい。そんなことを考えながら見ていた。

 淳平は、バックフォームの返球がされた時は次のノックの球筋を考えており、卓也から当たり前のようにボールを受け取り次ぎのノックをしていた。卓也の存在をすっかり忘れていた事に気がついたのだ。返球がされた時、じっくり卓也を見てみた。

 なんと受けているではないか。

 そう思えば、先程からバックネットの裾の鉄板にボールが当たる音を聞いていない。

「すごいな。怖くないのか」

「うん、『あーらヒョイ』で手を出したらボールがグローブに入るようになったよ」

 意外な話にびっくりしてしまった。

「すごいな。ボールが見えているな」

「うん、ボールに寄って行き、すれすれでよけて、手を出したら、簡単に掴めたよ」

 飛球線から体を瞬間逃がしての捕球であるが、この速いボールを正面で止めるのは一年生には無理な話しだ。しかし実にうまく体を逃がし球威を殺している。

「卓に任せたぞ。怖いと思ったら逃げろよ」

「あいよ」

「もう少し、続けるぞ」

 それからは、淳平の口数も減って黙々と練習が続いた。

「外野フライだ。バック」

「よーし、あがりだ」

 淳一と野口君が駆け足で帰ってきた。

「休憩だ」

「おじさん、こんな練習を毎日していたのですか?」

「まあな。しかしバットで打っての捕球練習は今日が初めてだ」

「びっくりしたんだ。御船が変身してたんで」

「へんしーん」卓也が変身のポーズをしている。

「どこが違っていた?」

「ボールを怖がっていたのが無くなっていたし、ボールを取るのがむっちゃうまい」

「なんだ、その、むっちゃは」

「おじさん知らないんだ。流行り言葉だよ。無茶苦茶うまいをむっちゃうまいって言うんだ」

 淳平はついて行けない感じがした。

「今日、役に立ったかな」

「むっちゃ勉強になったよ」

 またむっちゃだ。しかしいい響きを感じる。

「何が勉強になった」

「御船の動きを見ていたら、おじさんの言ってることがすぐわかったよ。真似したらスムーズに捕球できるし、楽ちんだったよ」

 淳一は嬉しかった。達ちゃんの慰めや励ましの言葉はよく聞いていたが、心から誉めてくれている言葉は初めてで心地よく聞こえた。

「野口君の守備はどこだ」

「セカンド。時々キャプテンの代りでキャッチャーもするけど」

「セカンドか、セカンドは守備の要だ。エラーをすると被害が大きいぞ」

「ショートやサードの方が重要じゃないの」と卓也が質問をした。

「打球は比較的ショートやサードによく来るからうまい人を配置するが、重要なポイントはセカンドだと思うよ。一、二塁間を抜かれると、一塁走者は三塁まで狙うし、二塁走者はホームまで突っ込む可能性があるだろ」

「そう言われたらそうだなあ」

「達ちゃんは、ダッシュもいいし、捕球もうまいから認められてるんだ」

 淳一は達ちゃんがお父さんに誉められているのが自分の事のように嬉しかった。

「野口君、淳一の球を受けてみるか」

 突然の提案に淳一も野口君も口をポカンと開け、お互いの顔を見合っている。

「気持わりーなあ。淳一の球を?」

 守ってはヘタ、打ってはボテボテ、まあ見られるのは投球ぐらいだったけど、捕球がこれだけうまくなっている事を考えると、もしかして淳一が何かやらかすのでは、と期待と好奇心に不安が重なり合っていた。

「よし、やろう」

 達ちゃんの声を聞いてガッツポーズをする淳一を見た淳平は安堵の肩を落としていた。もう大丈夫だ。部活の練習時、後輩たちの前で受けた屈辱感がいい形で練習にそして自信に結びついたことを確信していた。

「突然、おかしな変化球なんか投げるなよ」

「変化球の投げ方は知らない」

「えっ」

 淳一がマウンドに立った。マウンドから投げるのは初めてだ。

 淳平も固唾を飲んで見守っている。

 大きく足を踏み出し、腰が思ったより低い流れるようなフォームで一球目が投げられた。大きく足を踏み出した時は、力み過ぎだと一瞬思ったが、低い安定した腰の高さと、右足で全体重を受け止めるサウスポーに、おもわず『おみごと』と叫びそうになった。

 二球目、三球目、四球目と投げるたびにスピードが増しているようだ。ゆったりとした同じタイミングで流れるような投球である。 膝、腰、肩の回転に加え、教えていないはずの上半身のバネを回転に加えている。

 フィニッシュの上体と手の位置がいつも安定して同じ位置だ。コントロールもいい。投げるのが嬉しくてたまらないのか、のびのびと投げている。

 野口君は何も言わず、何かに取りつかれたように捕球している。手応えがあるのだろう。

 二十球ほど投げた頃、淳平は休みを入れた。

「休憩」

 淳一が駆け寄ってきた。野口君が信じられない顔をしている。

「化けもんや」

「なんで化けもんなんや?」

「いつ練習したんや。球が浮き上がって来たぞ。ストレートで来た球が、手前でホップするんや。グーっと」

 淳一にはそんな投げ方をしたわけではなく意味がわからなかった。

 淳平には野口君の言っている意味がわかったが、あえて説明するのを控えた。

「淳一、まだ回転を上げれるか」

「まだ余裕があるよ」

「よし、やって見よう。但しバランスが崩れそうに感じたら、そこが今の筋力の限界だ。それを越すと肘が抜けるぞ、肩を壊して使い物にならなくなるぞ」

「うん。わかった」

 ならび淳一がマウンドに立って野口君がキャッチの準備をした。 ゆったりとしたモーションから大きく足を踏み出した。息を呑む瞬間だ。

「ビシッ」

「スゲー、すごいよ」と野口君が絶賛している。

「お父さんがバッターボックスに入るぞ。まずインコース高め胸すれすれだ。威圧をかけろ」

 全く同じフォームで流れるように投げてくる。先程より回転が速くなったとも思えない。力が入っているとも思えない。どこも変わったように思えないのに凄さが増している。淳平もそう感じていた。 踏み込みがやや大きくなったのと肩の回転が腕より速く、そして腕が肩より遅れてくるのがもっと遅くなった様にしか見えない。

「真中」

「アウトコース低め」

 コントロールもいい。ビデオテープを巻き戻し見ているような錯覚に陥った。

 突然淳平が言った言葉には野口君も度肝を抜かれてしまった。

「セカンドの位置から投げろ。今のリズム、今の力で、わかるか、練習時の反対だ」

「セカンドから?」野口君がびっくりしている。

 言葉足らずで理解してくれたか淳平は戸惑ったが、成り行きに任せた。遠投、遠投でフォームを作り、徐々に距離を短くしたあの練習の反対だ。意味はない。ただあの練習の意味が、このことであったと淳一に思い出して欲しかっただけだった。

 淳一が投げた。少し外角にはずしたが見事な弓なりの球だった。 力みの無い見事なフォームだった。淳平の顎は小刻みに震え、つらかった練習に耐え、よく身に叩きこんだ淳一を見て、目頭が熱くなるのをひっしに我慢していた。そして一言叫んだ。

「いい遠投だ。終わり」

「遠投? 今のが遠投?」

「そうだ。力で投げるんじゃない。あれを膨らませたら遠投だ」

 野口は次ぎの言葉が考え付かない。

淳平は野口君にアドバイスをした。

「キャッチャーはあんなゆったりとした投げ方では盗塁されてしまう。クイックモーションで球の位置は肩の高さか肩より低い軌道で、腰、肩の回転と肘で投げるから逆につらいぞ」

 投げる事がこんなに重要とは考えても見なかった。キャッチャーはピッチャーの球を上手に受けるのが仕事だと思っていた。しかし淳一の投球を見て、セカンドも守る自分に投球の重要さと練習したらこんな球も投げられるのだと教えられたようだった。

 淳一が駆け寄ってきた。

「もうやめるの」

「十分だ。連休の強化練習はすべて終了だ。後は、部活で基礎体力をつけて、パワーアップ。そして攻め方、守り方を勉強しろ」

「おつかれさま」

 卓也が一声をあげると全員が呼応しグランドをあとにした。

 彼らがグランドを後にする光景を腕組みをし見ている太田監督がいた。手帳を出して何かを調べている。そして携帯電話を取りだし電話をし始めた。

「大城小の太田です。御無沙汰ですなあ。やっと決心がつきましたよ。やりましょう。

ところで夏休みに入った次ぎの週の二十八日の日曜日はどうですか。決定ですな。いやいやこちらこそ胸を貸してもらいます。楽しみにしています。よろしく」

電話を終えると厳しい顔をして車の方に向かって行った。

 

 淳一と野口君にとっては通いなれた帰り道であった。

 淳平はこの連休前の週末に淳一が野球部に入っていることを聞かされた。それがこの強化練習の始まりであった。

 淳一はキャッチボールもしたことが無かった子である。部活での淳一の練習振りは見なくても淳平には想像ができた。団地内の広場で近い距離からの投球練習、そして少しずつ距離を広げての遠投の練習を始めたのだが、返球したボールを捕球する淳一の姿はボールを怖がり野球部のメンバーとは思えないものであった。また学校から帰るとその日にあったことをいろいろ話してくれる子だったのに、野球部に入った事を一言も家族に話さなかったのはつらいものがあったのだろう。練習では痛い思い、部員の手前恥ずかしい思いや屈辱を味わったに違いない。私が教えることで屈辱の上塗りになったら二度と立ち上がれなくなっていただろう。しかしよくがんばってくれた。家でも練習が出来る宿題を与えたが、苦しみながらも、こつこつがんばり、その成果は練習に表われ、短期間、短時間での理解と、得とくに結びつけた。すべて淳一の前向きな努力と、そして淳一が他の部員とレベルの差があることを知って、いつも明るく気遣いをしてくれた卓也のお陰もある。

 また後藤さんには感謝だ。右手の指が二本しか無い後藤さんのすばらしいゴルフスイングを見せてもらえたことは、淳一に深い感動と理屈だけでは納得できないスイングスタイルが目に焼きついたことだろう。いろいろなことが走馬灯のように思い出され、そして満足な完結を味わえたことを淳平は淳一以上に喜んでいた。

「もっと練習したかったな」

「そうだよ。俺なんかびっくりの連続だ。俺も一緒にやりたかったよ。家の手伝いばかりやっていたのがもったいなかったな」

「うん。おじさんは疲れ果てたよ。しかし野口君はさすがだと思ったな。一言いったらすぐ実践できていたから、基礎がしっかり出来ているんだ。淳一のいい友達で、いいライバルで、励ましあってお互いを磨いてくれ。おじさんの教えることは終わったよ」

「バッティングを教えて欲しかったな。なあ御船、俺、ヘタだよな」

「ヘタじゃないけど、飛ばしたいんだよね」

「飛ばそうと思うと余計飛ばなくなるぞ。自分の体がバランスを崩さずにパワーを出せるかどうかだ。それ以上を求めるなら毎日の基礎体力アップの練習しかない。今度部活の時、淳一のバッティングを見た感想を淳一に言ってくれ。おじさん楽しみにしているから」

「おまえ、バッティングの練習もしてたのか? どうだった」

「今、お父さんの言った通りで、我慢我慢のバッティングしかしていないから辛かったよ。しかし気持よく振り抜けていたことは確かだよ」

「へえー、おまえの口から我慢我慢とは、楽しみだなあ。飛ばすんだろうな」

「プレッシャーかけるなよ」

「ハッハッハッハッ」

 四人の大きな笑い声はこれからの部活での淳一の活躍を期待していた。


「おつかれさま。野口君も一緒に練習したの」

「うん、楽しかったよ。最後に逹ちゃんがキャッチャーをして僕がピッチャーをしたんだ」

「うまく投げられた?」

「お兄ちゃんの球、けっこういけるぞ。卓が保証するよ」

「ほんと? 卓也は大袈裟だからね」

「ほんとだよね、お父さん」

「うん、なかなか良かったな。野口君がびっくりしていたよ」

「そう、それじゃピッチャーになれるといいのにね。がんばらなくちゃ」

 昼食の準備をしながら直子は楽しく練習が終わってくれたことを何よりだと思っていた。連休最後の日で、淳平に疲れが見える。思ったようにならなかったら、苛立ちからきつい言葉や激しい練習でお互いが投げやりになってしまうのではないかと心配していた直子であったが、楽しそうに帰って来た皆を見てホッとしていた。

「あらあら、お父さんが一番お疲れのようね」

「そうだなあ、疲れたよ」

「お父さん、練習中、怒鳴り続けているから疲れるんだよ。お兄ちゃんはけっこううまいのに」

「そうよね、お父さん、むきになるから」

 淳平は苦笑いをするだけで、もう笑う元気も無かった。

 やっと終わった。

 これほど練習が充実するとは予想もしていなかった。何をどう教えていいかもわからないまま、自分の経験と知識だけで成り行きに任せながらの練習開始であったことを思い出しながら淳平は満足感に浸っていた。


  連休明け


 連休明けの日、淳平がめずらしく早く帰ってきた。

「おかえりなさい。早かったのね。具合でも悪いの」

「淳一のことが気になってな、急いで帰って来たよ」

「まあまあ、ご熱心なこと。淳一も先程帰ってきたばかりだけど、元気いっぱいだったわよ」

「そうか、何か言っていたか」

「疲れたって、それだけ言って部屋に上がって行ったわ」

 淳一は部活でも、もう大丈夫だろう。皆のレベルには追いつけたはずだ。と思ってはいても、今日の部活での話を聞きたい一心で早く帰ってきた淳平だった。

「お風呂、先にする?」

「う、うん。そうしょうか」

 直子は、淳一の話が早く聞きたいとおねだりする子供のような淳平の様子に、呆れ顔で含み笑いをしている。

 淳平が部屋で着替えをしていると淳一と卓也の楽しそうな話し声が聞こえる。聞き耳を立てたい気持を我慢し、楽しみは後に残すことにした。

 風呂を上がると淳一も卓也も食卓についていた。

 淳平は淳一と卓也の笑顔を見た瞬間、疲れが吹き飛んだように感じた。

「どうだった。今日の練習は?」

「楽しかったよ、ランニング、ダッシュの練習、トスバッティング、そして捕球練習ではみんなびっくりしていたみたい」

「うまく、捕球位置に体が入れたか」

「うん、監督が、連休の間おまえ何食べてたんだ。急に動きが良くなったぞって」

「シートバッティングはやらなかったのか」

「やったよ。六年の富木先輩がピッチャーで練習した。速い球で以前は打てなかったんだけど、今日は遅く感じた。おもいっきり振らずに思った方向に打てるかどうか一生懸命練習したんだ」

「それはすごいな。それでどうだった」

 本当は必死で聞きたいくせに、ビールを飲みつくろいながら聞いている淳平の姿が直子には滑稽でならなかった。

「完璧ではなかったけど大体思った方向に打てたよ」

 嘘はついていないはずだ。思った方向に打てたことは相当自身がついた結果であろう。

「どんな風に打ち分けたんだ?」

「前、お父さんが教えてくれたじゃない。ヒッティングポイントに対し手の位置とバットが返っていくタイミング」

 淳一はビールが喉につまり咳き込んでしまった。まさかそんな練習が出来たとは。あの時の話は、もしタイミングをはずしてバットが遅れた場合どうなるか、ヒッティングポイントにボールが入るタイミングより、スイングが早くバットのターンが早過ぎた場合はどうなるか、などのミスに対しての説明であったように記憶している。そのようにして打ち分けることを教えたわけではない。連休中の練習の何がそこまで功を奏したのか淳平自身わからなかった。

「そうだ。飛ばす事だけがバッティングではないぞ。思った所に打てることが最高だ」

「バットのマジッシャン。バッティングの引田天功だね」

「卓也、いい事を言うなあ。その通りだぞ」

 相変わらず卓也は人を笑わせる天才のようだ。

「今日も宿題が終わったら自主トレだ。腹筋も鍛えろよ」

「はい」

 部活の練習が楽しくなったことだろう、その話しが聞けさえすればそれで満足だったのに、お釣りまで聞けて淳平はこの上なく満足していた。


   対抗試合へ向けて


 五月の中旬ともなると日差しは一段と厳しくなる。紫外線の照射量も一年で五月が最高だとも言われている。

 グランドでは野球部の練習がおこなわれている。もう六時を回っているのだが、まだ日は高く、汗と砂で泥まみれの姿が大きな掛け声と共にボールを追い求め、走り、取り、投げ、また走り、そして肩で息をしている。

 監督が大きな声で叫んだ。

「そろそろ今日の仕上げに入ろうか。今日のピッチャーは御船、富木はライトに入れ、他はいつもと同じでスタート」

 五年、六年のスターティングメンバーが守備に就き、他の部員が順番に打ち、試合形式でおこなわれる練習だ。今日の打撃練習、守備練習の成果が発揮される設定だ。スターティングメンバーも守備を交代し順番に攻撃に回る。

 淳一は連休後、ライトのポジションをもらっていた。球を追いかけ、セカンド、サード、バックフォームとランナーを刺すのが面白く練習を続けていたが、今日初めてピッチャーを指名された。

 守備に就く時、木下キャプテンが淳一に声をかけた。

「楽しみだぞ」

セカンドに向う野口が、すれ違いざまに声をかけて行った。

「落ち着いてやれよ。この前のあの調子で」

 四年生の中でも一番センスがよく、バッティングもうまい赤城がバッターボックスに立った。

「開始だ」

 キャッチャーのキャプテンの声で始まった。

 淳一に緊張の瞬間が来た。整理がつかないまま投球に入る。キャッチャーを見た瞬間、遠いと感じてしまった。球は大きくはずれたうえ、五十センチ手前でワンバウンドだ。

「ばかたれ、がちがちじゃないか、自信がないなら代れ、自分の力が維持できるよう考えろ」

 監督がいつもに無く大声で怒鳴っている。いつもと違う監督の様子にキャプテンも監督の方を見ている。

 淳一は監督の大声がお父さんの声の様に思え、気を取り直すことが出来た。

「御船、深呼吸、同じマウンドだぞ」逹ちゃんの声が後ろから聞こえる。意味は理解できた。

 淳一は大きく深呼吸をして二球目の投球に入った。

 それからは、監督の声は無く、キャプテンの采配で練習が進んだ。

「いいコントロールだ。その調子」

「どうした。赤城、球をよく見ろ」

 赤城が打てない。やっと五球目に打って走ったがファーストゴロだ。

「次、立松。赤城はレフト守備の準備」

 立松は四年生で守備がうまく走りも速い。塁に出すと厄介である。

 淳一が投げる初めての球に、てこずっている。ファールを含め六球目にセカンドフライで終わった。

 レフトの高田が呼ばれ赤城がレフトに入った。

 高田は四年生だが肩が強くレフトのポジションをもらっている。 相変わらず監督は無言のままだ。

 淳一は淡々と投げている。ゆっくりとしたフォームから伸びのある球に手も足も出ない光景が続いた。高田もやっと打てたがセカンドフライである。

「坪井、バッターボックスに入れ」

 坪井は三年生であるが体は六年生並の体格をしている。体に似合わず俊敏でセンターポジションを任されている。

 さすが坪井は皆の様子を見て、四球までは球筋スピードを見ながら粘り、五球目には腰がしっかり入ったバッティングで痛烈にショートを襲った。ショートは五年生の坂田。うまい守備だ。捕球後のスローイングの流れが見事だ。彼は去年までジュニアチームに所属していただけあって、相当訓練されてきたことが淳一にもわかる。守備のうまさに加え、坂田の打撃もキャプテンと同じぐらいうまいと監督も褒めていた。

 突然監督が声を上げた。

「次、木下。キャッチャー野口。高田はセカンド」

 ついに来た。打撃ではトップのキャプテンが登場だ。淳一はストレートだけの球で何処まで通用するのか戦いを挑む決心をした。

「キャプテンだからと言って手を抜くな」監督の声が響く。

 逹ちゃんが、すれ違いざまにポンと淳一の肩を叩いて行った。そして逹ちゃんの威勢のいい声が、マスク越しに聞こえる。

「御船、ドンと来い」

 淳一の右足がゆっくり上がった。大きく右足を踏み出し・・・投げた。やわらかく流れるようなフォームは、風になびく柳の枝が鞭の凄みとなってキャッチャーを襲うようにみえる。

「ナイス。ど真ん中だ」野口の声が響いた。

 木下は静かに見送った。

 二球目、空振り。「よっしゃー。いいぞ」

 三球目、空振り。「よーし。まだまだ」スピードが増してくるのが野口にははっきりとわかる。

 木下も唖然としている。今までとは違う。先程までの球とは違う。手元で勢いよく伸びてくる。加速しながらキャッチャーミットに飛び込んでくるようだ。

 四球目、腰でバットを止めるようにして御船の球に当てるだけのスイングを試みた。球はライト線のファウル。

 五球目、一段と速くなる球に木下はバランスを崩し空振りである。

 六球目、セカンド後方へのフライでアウト。

 ガッツポーズをする淳一の姿を監督は腕組みをしたまま見ている。

「御船、ナイスピッチィング」野口も自分のことのように喜び上機嫌だ。

 木下は何かを訴えたい顔をして監督を見たが、監督は笑顔でおまえの言いたいことは分かっているよ。と言っているようにうなずいていた。

「全員集合」

 監督が皆を呼び集めた。ミーティングである。

「今日は皆に連絡することがある。夏休みに入っての次の週、七月二十八日の日曜日、和泉小と恒例の対抗試合をする。ここ二年ほど負けっぱなしだ。今年は三度目の正直、勝つ予定だ」

「キャッホー」

「やったー」歓声が上がった。

木下は拳を上げて喜んでいる。

「部員数やその他戦力では、和泉に劣っていると思うが、今からの二ヶ月半、最高の試合が出来るようにがんばって欲しい。明日から基礎練習と守備練習の後、打撃練習は木下中心に強化訓練をおこなう。富木と御船の球が確実に打てるようになること。富木は御船とピッチング練習、指導してやってくれ。それから野口」

「はい」

「おまえは富木、御船のキャッチャーで付き合え」

「質問は?」

「その日の仕上げでは、富木、御船先輩の球で練習ですか」

「その通り。毎日の練習結果、上達振りを見る」

「よっしゃー」と喜んだのは、今日先頭打者に立った赤城であった。納得がいかなかったのだろう。

「お疲れさま。解散」

「ありがとうございました」

 部室に戻ると、今日は御船の話題で一段と賑やかであった。

「連休後、見違えるほど御船の動きが良かったけど、あんな球投げるとは思ってもいなかった。見ていて鳥肌が立ったよ」

 口火を切ったのは、いつもショートを守る淳一と同級生の坂田だった。

 富木先輩も御船に話し掛けてきた。

「大野にも負けないくらいのいいピッチングだったぞ。頼もしいなあ」

 大野は去年の五年生の時からのエースであるが、ほとんど練習には来ていない。

「コントロールの良さと球の重さは大野以上に思ったぞ。合わせるのが精一杯だったな」

 キャプテンの言葉に、今日打席に立った者が相づちを打っている。それを見て野口が御船に肩組みをしてきた。

「富木先輩と御船が居たら、安心して守備練習と打撃練習が出来るな」

 部室の方から大きな笑い声が聞こえる。

「連休後、暫く御船の様子を見てきたが、野口もいい男を連れてきたものだ」と監督は独り言を言いながら部員の結束に大きな期待を膨らませていた。


   2


 翌日からの練習は監督の予想通り、目標が出来たこともあって全員の意気込みが変わっている。ランニングに始まり、ストレッチング、トスバッティング、捕球練習すべて全員が声を掛け合い、励ましあう姿があった。後輩に対する先輩のアドバイスの声が飛ぶ。相変わらず御船の動きはすばらしい。確実にキャッチングポイントに入り、難なく処理をしている。

「回り込め。そうだ、ナイスキャッチ」

 いきいきした木下キャプテンの大きな声が後輩に飛ぶ。

 バッティングも変わってきた。大振りをせず、自分の技量にあったゆったりとしたスイングで確実にミートさせることの方が生きた打球で良く飛ぶことに納得できたようだ。

 御船の影響が大きかった。

 四月中旬、野口が同級生の御船を連れてきた。戦力不足の部にとって監督以下全員が歓迎したが、ズブの素人の御船の練習には、見るに耐えかねる程で後輩も気まずい思いで見守っていた。その御船が見事に変身したのである。

 変身後の姿は、流れるような身のこなしと感のよさ、何処にも力みを感じさせないゆったりとしたスイングから打ち出される強烈な打球には理屈抜きのすごさがあった。練習をすれば、自分にも可能性がある。そんな自信を全員が持つようになったのである。

 教えるだけではなかなか身に付かないことで限界を感じていた時、すばらしい見本が目の前に現れた。連休中の御船の練習を見て、全部員に御船の与える影響を予測し、衝動的に対抗試合を申し込んだことは間違いでなかったことに満足しながら監督は練習を見守っていた。頼りにしていた大野、小林、奥村は相変わらず練習に現れないが、このメンバーでも十分戦えると感じ始めたのは自分だけではないことを監督は実感していた。

 対抗試合は六年生、五年生が中心となっておこなう試合だが、六年生を十一人そろえている和泉小に対し、六年生三人、五年生は御船が入ってやっと三人、四年生三人、三年生二人、計十一人で戦わねばならない。三年生、四年生は体力的に劣る。必要なのは大野が抜けた投手陣の強化と全部員の結束力、チームワークしかないと誰もが考えていた。

「よーし、富木、野口、御船はピッチング練習。他はヒッティングの練習。キャッチャーは木下、ピッチャーは高田。木下が指導で練習開始」

 高田は肩が良く、四年生ながらレフトのポジションを得ている。淳一に似たタイプで、柔らかいフォームで投げる次期ピッチャーの候補生である。

 皆とは離れた場所にある練習用マウンドで野口が捕手を勤めて富木先輩からピッチングの練習が始まった。パーン、パーン。小気味よい音が響く。淳一は食い入るように先輩の投球を見ている。逹ちゃんがグローブで投げ込む位置を合図し、その場所に先輩が投げ込む練習が続いていた。

 五年生の時からエースだった大野先輩はどんな球を投げていたのだろう。淳一は富木先輩の投球を見ているうちに入部当初の頃を思い出していた。


 富木先輩のあの球が打てなかった。当たってもボテボテの球しか打てなかった。

 あの時も逹ちゃんがキャッチャーをしていた。

 監督の苛立ちの声が聞こえる。

「御船、何時になったら練習が終わるんだ?」

「気にするな御船、球を良く見て合わせればいいんだ。ドンマイ、ドンマイ」いつも励ましてくれる逹ちゃんの声が聞こえる。

「次、立松」

 屈辱であった。いい当たりの感触もつかめないまま、一塁に走ることなく、練習を交代しライトの守備と言うか球拾いに就く淳一であった。バッターボックスに入った立松は四年生。カーンという気持のいい音を残して一塁へ走る。次の打者の坪井は体格では六年生並だがまだ三年生。あだ名は関取。坪井の大きな空振りの時に立松が二塁を盗む。逹ちゃんの送球が間に合わない。あだ名は鼠小僧である。そのような後輩のはつらつとした練習風景を見るにつけ屈辱の毎日で、自分はいつになったら快音を残し走り回れる日が来るのだろうかと意気消沈した日々を送っていたのだ。

 

「御船、交代」

 富木先輩の声で我に戻った。

「御船、正捕手じゃないけど遠慮するな」

「お願いします」連休の最後の日を思い出した。逹ちゃんが目をむいて喜んだ姿を。

 今日は逹ちゃんがリードする所に思い切り投げ込むだけだ。

 踏み込みもいい。膝、腰、肩が加速する感じがよく分かる。指先から発射される球の感触がはっきり分かる。踏み出した右足に体重がかかってくるのが良く分かる。フィニッシの左手の位置はいつもと同じ場所だ。バランスも崩れていない。今日も調子がいいぞ。

 淳一は、自分の調子を判断するチェックポイントを一つ一つチェックしながら投げ始めた。

「御船、スピードアップ」富木先輩の声だ。徐々に回転を速める。 ビシッ、ビシッ。不気味な音を立て始めた。富木先輩は野口の後ろに回って中腰で淳一の球筋を見始めた。暫く沈黙の投球が続いた。

「すごいな。球速が落ちない。まだ伸びてくる感じだ」

「そうでしょう、先輩。僕には浮き上がってくるように見えます」

「監督を呼んでくるよ」

 富木先輩は首を振りながら監督の方へ歩いていった。

 監督と富木先輩が野口の後ろに立って話をしている。

 野口はリードしながら聞き耳を立てている。

「監督は知っていたのですか」

「ああ、ライトからバックフォームする投げ方、タイミングを見ていたら予想はついたよ。昨日初めてマウンドに立たせた時、見た目では投げ方の違いが分からなかったがコントロールもいいし、これはすごい奴だと思ったよ。木下がうろたえていたよな」

「球が加速しているように見えるなあ」富木が首をかしげている。

「ライトとホームベースの距離が三分の一の距離になった所から投げていると考えたら分かるだろう」

 富木が口をあけ大きく息を吸った。そしてうなずいている。

「やっと分かったようだな。おまえもいい投球をしている。しかし今の投げ方でライトからバックフォームをしたら肩を壊すぞ。御船のライトからのバックフォームする投げ方とマウンドからの投球フォームはほとんど同じだ。今後の練習のポイントが分かったようだな」

「そうか、わかりました」

「あいつには変化球なんか知らなくても十分だと思うが、試合までには一つか二つ、教えてやれ。いい武器になると思う」

「はい」

 監督はヒッティング練習の方が気になるのか、グランドの方に引き返した。

 野口は全てを聞いてニタリと笑っている。すごいカーブが投げられることを知っているのはこの俺だけだ。その時が来たら皆びっくりするぞ。

 自分のことのように誇らしく思っている野口であった。

「集合、仕上げだ」

 監督の声で全員が監督のもとに集まった。

「今日も御船がピッチャー。石井、竹田、坂田、野口、富木の順で練習開始」

 石井は三年生だが去年から野球部でがんばっている。柔らかい身のこなしとセンスのよさでは、同じ三年生の関取以上で、体が出来てきたらいい選手になるだろうと監督も期待をしている。

 きれいなスイングでジュストミートだ。セカンドライナーに終わったけど、淳一も石井はきれいなスイングをする奴だ思っている。

 竹田先輩は六年生。いつもはサードを守っている。守備では一番だと淳一は見ている。

 御船が大きく足を踏み出した。来るぞとキャッチャーのキャプテンは構えた。

 速い。一球目空振り。

「竹田、大振りはやめろ。打てないぞ。腰で合わす練習だ」

 監督の声が飛んだ。

 キーンと快音を残しライト前ヒット

「ナイスバッティング」

 次の坂田は淳一と同級生でいつもはショートを守っている。ジュニアチームでやっていただけあって守備はうまいし、打撃ではキャプテン以上ではないかと思える程よく打ち飛ばす。

 木下キャプテンは一段と球のスピードが増してくるのを感じていた。坂田がてこずっている。苛立ち始めているのが分かる。外角低めから浮き上がってくるような球に、タイミングが合わない。

「おい、手を抜いてくれよ、御船」

 坂田の声に淳一の顔がほころんだ。

 次の瞬間、坂田がすばらしいヒットだ。センターを越した。

「甘いな。御船」と言って坂田が笑っている。

「ばかか、手を抜くな」逹ちゃんが大声で怒りながらバッターボックスに入る。

 自分のことのように悔しがっている様子に淳一は苦笑いをしている。

 淳一がセットポジションに着いた。はずした。速い。ファーストへの牽制だ。アウト。度肝を抜かれたのは坂田だけではなかった。 淳一がガッツポーズをしている。

 ファーストを守っていた赤城が飛び跳ねて淳一のほうに駆け寄る。

「やってくれるよ」と言って野口は大息をついている。

 監督は腕組みをしたまま一部始終を見ていた。

 次の富木はショートゴロで終わった。

「集合」

 ミーティングが始まる。

「野球が面白くなってきたな。皆も同じだと思う。塁に出てもっと面白い練習にしたい。毎日の守備練習、打撃練習をがんばれ。いいな」

「はーい」

「解散」「ありがとうございました」


   3


「おはよう。卓也」

「おう、真也、おはよう」

 浅野真也はクラスは違うが卓也と同級生の一年生だ。卓也の後ろから追いついてきた。

 大城湖を水源に流れる田島川の土手は大城小学校への通学路でもあった。この土手の下の道は、のどかな田園風景の中を大城小学校の前の幹線道路につながっている。

いつもは淳一と一緒に通学しているが、今日はウサギの世話当番でいつもより三十分早く家を出ていた。

「真也もウサギ当番か?」

「うん。ウサギは可愛いいが糞の掃除はいやだなあ、はやく二年生になりたいよ」

「一ヶ月に一回だけど、雨の日は臭いなあ」

「もう梅雨だし、雨の日に当たったら学校休みたいよな」

 そんな話をしながら歩いている。 

「おはよう。あけみ」

「おはよう。陽子。えらくうれしそうね。何かいいことでもあったの」

 息せき切って追いついてきた速野陽子は五年生。同級生の斎藤明美とは大の仲良しである。

「聞いた? 御船君のこと」

 御船と聞こえ卓也はびっくりしてこの二人の話に聞き耳を立てた。

「おまえの兄さんの事のようだぜ」

「しぃー」卓也は真也の話を止めた。

「御船君は知っているけど・・・・」

「学校では御船君の話で持ちきりよ」

「もったいぶらないでよ。御船君がなにかやらかしたの?」

「御船君、野球部に入っていたの。ピッチャーをやっているんだって」

「いつ入ったの? 今年から? ピッチャーは大野先輩じゃなかったの?」

「大野先輩と小林君、奥村君が練習にこないので今年の対抗試合は中止かもしれないって噂だったでしょう」

「私もそう聞いていたわ」

「野口君が御船君を勧誘したんだって。そしたらうまいのうまくないの、誰も打てないんだって」

「うっそー。大野先輩よりうまいの?」

「監督が今年のピッチャーは富木と御船でやるって宣言したらしいよ」

「ほんと?」

「ほんとよ、諦めかけていた部員全員が活気付いてやる気満々らしく、部活練習を見に女の子まで来てるらしいよ」

「うっそー。ほんと?」

「和泉小との対抗試合が七月二十八日に決まっているのよ。女子応援団を復活させる話も出てるの」

「マネージャーは卒業してしまったから、まだマネージャーは不在ね」そう言って斎藤明美は突然駆け出して行った。

「明美、なに考えてるの、明美待って」

「おまえの兄さんそんなに野球うまいのか?」

「まーにゃ。兄ちゃんなんにも話してくれないんだから」と言って悔しそうな顔をする卓也を見て、浅野真也は不思議に思い首をかしげていた。


 その日の放課後、もう部活は始まっていた。野球部員はランニングをしている。部室の方からトスバッティング用のネットを運び出し、セットしているトレパン姿の斎藤明美の姿も見られた。無事マネージャーにありつけたようだ。

 体育館ではバレー部と剣道部が練習を始めている。体育館の入口の階段に卓也が座ってグランドの方を見ている。


「兄ちゃんよくがんばったよなあ」

 卓也の脳裏にはあの日のことが思い出されていた。


 卓也はクラブ活動を見て回っていた。スポーツ好きの卓也は、どんなクラブがあってどんなことをしているのか興味があった。

 体育館を訪れた後ふとグランドの方を見ると野球部の練習が目に入った。

「あれっ、あれ、お兄ちゃんと違うかな」

 立ち上がって見てみると確かにお兄ちゃんだ。お兄ちゃんが野球部に入っていることは知らなかった。そしてその練習の様子は目をそらしたくなるようなお兄ちゃんの惨めな姿であった。

 顎に球を受け、腹に球を受け、トンネル、打っては空振り。

「御船・・・」

「御船・・」

 大きな声が卓也の耳にこびりついてしまった。

「家に帰っても黙っていよう」と思ったのだが、お兄ちゃんが下手なりにも一生懸命野球部でがんばっていることが卓也にとって何か勇気付けられた様な気持になり、ついお母さんにお兄ちゃんが野球部で練習していることをしゃべってしまったのだった。


「お兄ちゃんよくがんばったなあ」

 ふと気がつくとお兄ちゃんがピッチャーマウンドに立っている。 そのフォームは遠くから見ていても流れるような堂々とした投球であった。


「ただいま」淳平の声だ。

 待ちわびたように直子が出迎え疲れ果てて帰ってきた淳平の後を追いながら、今日卓也が通学途中、女の子の話を聞いたことから始まり、次ぎから次ぎへと機関銃のような早口で話し掛ける。

「七月二十八日、和泉小学校と対抗試合をするんだって」

「淳一がピッチャーよ」

「すごいって話よ」

「誰も打てない位、いいピッチャーだって」

「七月二十八日は日曜日よ。お弁当作って見に行きましょうね」

「和泉小学校は強いって話よ」

「だいじょうぶかしら」

「二年負け続けているんだって」

「今年は勝てるよね。淳一が出るんだもん」

「今日もマウンドに立って投げていたんだって」

 淳平にとっても突然の朗報であるが、直子の重爆撃に圧されて返事する余裕も無く、笑顔で聞いている状況だ。

「そうか、いい話だな。先に風呂に入ってくるよ」

 淳平も日頃、野口君がキャッチャーでピッチング練習したことや、皆が声を掛け合って練習している様子などの話は聞いていた。皆と同じレベルでの練習が出来て楽しくやっていることも聞いていた。淳平は直子の喜び様をみて、連休後の部活で淳一の努力が身を結んだのだと確信し共に喜びをかみしめていた。

「今日の風呂は格別だ。鼻歌が出そうだ」

 湯舟につかっている淳平の頭の中ではもう対抗試合が始まっていた。

 ピッチャー御船、キャッチャーは誰だろう。

 どんなリードをするだろう。

 和泉小の実力は?

 四番打者がバッターボックスに立った。第一球目、外角低めボール。二球目はバッターの体を起こす内角高めだ。第三球目、真中低めのストライク。四球目、ど真中から外に逃げるカーブで空振り。

「ちょっと待てよ。淳一はストレートしか投げれないのでは?」

 そう思うと、そそくさと風呂をあがる淳平だった。

「ビールを出してくれ」

「はいはい」

 直子も今日は上機嫌である。食卓に就くと子供達も下りてきてテーブルに就き話し始めた。

「お父さん聞いた?」

「聞いたよ。おまえピッチャーのポジションをもらえるって?」

「うん、富木先輩がエースだけどね。まさかピッチャーになれるとは思ってもいなかったよ」

「たいしたもんだ。ピッチングの練習をしているのか?」

「うん、毎日」

「最初はあがっただろう。そうだろう。図星だろ」

「最初、監督に投げて見ろと言われて投げた時は監督に怒鳴られたけど、その後は、思うように投げられたよ」

 淳一は照れくさそうに直子の顔を見ながら話しを続ている。

「やっぱり最初は緊張したなあ。達ちゃんが同じグランドだぞと言ってくれたから連休中の練習を思い出して落ち着いたし、怒鳴る監督がお父さんに見えたよ」

「あら、お父さんそんなに怒っていたの?」と直子が問いただした。

「大きな声で指導していただけさ」

「そうだよ、怒るのと、しかるのは違うからなあ」

 卓也の急に高尚な意見に皆、絶句してしまった。直子がかしこまった様子で卓也に質問をした。

「卓也、怒る事としかる事の違いがわかるの?」

「それ位、知ってるよ」

「言ってみろよ」

 淳一が催促する。どうも淳一はわかっていないようだ。

「この前、女の子が先生に怒られて泣き出したんだ。その時先生が「怒ったんじゃないよ、しかったの。もうわかったね」と言っていたよ。たぶん怒る事は腹が立って怒る事で、しかる事は注意してる事と思った」

「同じじゃん。怒った事では」淳一が追い討ちをかけた。

「お父さんは怒ってたんじゃないよね。しかってたんだよね」

 卓也はうまく説明ができず淳平に助けを求めた。

「その通りだぞ。相性が悪いからとか、憎しみ、悲しみ、苦しみ、苛立ちなど、感情的に大声をあげ相手にうっぷんをぶちまけたり解き伏せようとするのが怒る事で、大声をあげる事は別として注意し教えている事がしかっている事だ。そこに憎しみなどは無い。よくわかったなあ。卓也」

 卓也の得意なVサインポーズが出た。

「ところでキャッチャーは誰だ」

「キャプテンの木下先輩。キャプテンがサードの時は達ちゃんがキャッチャーをするよ」

「この前、いっしょに練習した子だな」

「うん」

「ピッチャーは他には」

「富木先輩・・去年からエースの大野先輩がいるんだけれど全然練習に来ないんだ」

「どうして? 対抗試合も決まったと言うのに」

「地域の少年野球チームのピッチャーをやっているらしいけど僕、知らないんだ。凄いらしいよ」

「ふーん、部活ではもの足らないんでしょうね。そうとう上手な子なのよね」直子にはライバル意識がもう芽生えたようだ。

「僕もその人は知らないけど、先週の日曜日に大城湖畔のグランドで野球の練習していたチームのピッチャーじゃないかな?」

 卓也の話を聞いて淳平はひとつの提案をした。

「今度の日曜日に見に行ってみようか」

「賛成」

 卓也が大喜びだ。


   4


 今日は日曜日。約束していた大城湖畔のグランドに淳平、淳一、卓也が来ている。

 野球もできる多目的広場である。

 隣には市が管理する市民グランドがあり、今年の対抗試合は、ここ大城市民グランドでおこなわれる予定である。

 最近、近くに大城湖水生生物博物館ができた。グランドからも見えている。大城湖水生生物博物館は大城湖の生い立ちや、大城湖に住む魚貝類、生態系を紹介するもので水族館、水生植物園もあり観光客がたくさん訪れている。また環境問題への取り組みの一環として風力発電用の大きな風車を設備し、博物館の電気をまかなっている。遠くからでもゆっくり回転しているのが見える直径三十四メートルの白い風車は、発電用と言うより観光のシンボルの様相を示している。

「誰も来ていないなあ」

 淳平がグランドを見渡して言った。

「もしかして今日は休みだったりして。その時はごめんね」

 卓也が責任を感じているようだ。

「まあいいや、キャッチボールをやろう」

 三人が三角形に位置し、キャッチボールを始めた。

「卓也も上手になったなあ」

「時々、友達とキャッチボールをしてるんだ」

 しばらくして風車が回っているのに卓也が気づいた。

「お父さん風車が回っているよ」

 キャッチボールを中断し、淳平は振り返って白い三枚羽根の大きな風車の方を見ている。

「お父さん、あんなにゆっくり回っていて電気が作れるの?」

 淳一が質問をした。

「自転車は必死にこがないと明るくつかないよ」卓也も疑問を抱いたようだ。

「ギヤを介して発電機を回しているから発電機の所の回転は何倍にもなっていると思うよ」

「ふーん」

「ゆっくり回っているね」と言って淳平は数を数えている。

「約三秒で一回転しているね」

「うん」

「そうだな。淳一あの羽根の先端のスピードはどれ位だと思う?」

 淳一は考えているが、淳平は話しを続けた。

「あの風車の直径は三十四メートルだから円周は三・一四倍の・・えーと・・三倍として約百ニメートル、そして三秒で一回転するから一秒で三十四メートルだ。時速にすると三千六百倍でそれをキロに直すと・・・・えーと・・、時速約百二十二キロメートルだ」

「うわー、高校生ピッチャーの球の速さだね」

卓也が大声をあげた。

「その通りだ。中心軸は三秒かけて一回転しているのに羽根の先端は時速約百二十二キロメートルだ」

「そんなに見えないね。ゆっくり回っているようにしか見えないよ」淳一は不思議そうに見つめている。

「羽根の回転軸が人間の体として羽根が腕とすると、先端にボールをもって投げたら百二十二キロ。もし体の回転が一秒で投げたら時速三百六十六キロメートルだ」

「わお、誰も打てないよ」

「人間の体とゴルフのクラブで考えてもいいな。後藤さんのスイングを思い出すんだ。ゆっくり振って、確実にパワーを伝える事ができたら、あのすばらしい打球だ」

「なるほどねえ」

 先程から卓也が一人悦に入っている。

「回転を速くするとそれだけ威力は増すが、自分の体力、技量を超えるとバランスを崩したり、芯をはずしてパワーを伝える事ができなくなる。風車の場合はあの羽根が曲がったりねじれたりして壊れてしまうだろうな」

「台風の時はあの風車はどうなるの? 壊れないかなあ」

「いい質問だ。羽根の傾きが可変式になっていて風を受けないよう羽根の傾きを調整してしまうと思うよ。そしたら風は素通りするから羽根は回らないね」

 淳一は淳平と卓也のやり取りを聞きながら頭の中はあらためて遠心力とパワー、そしてゆったりとしたスイングでフォームを崩さず確実に投げる事、確実に打つことが伸びのある投球、威力のある打球につながる事を再確認していた。

「ところで、変化球の練習もしているのか」

 変化球と聞いて目を丸くしガッツポーズを取ったのは卓也であった。やっとその日が来たぞと言わんがばかりのポーズである。

「いいや、ストレート一本で散らしている」

「そうか。練習して見るか」

「うん」

「やったあ、はやくやろうよ」卓也のほうが気合が入っている。

「基本的なボールの回転を言うと、カーブは右回転でこう変化する」

 淳平が回転の方向と変化する方向を説明している。初めてお父さんが教えてくれる変化球の説明なので二人は食い入るように聞いている。

「シュートは左回転で変化はこうだ。フォークは球に回転を与えず投げるとボールは強い風圧を受けてストンと落ちる」

「それぐらい知っているよ」と卓也。

 卓也の不満そうな顔を、淳一はさとすように睨みつけた。

「硬球の縫い目に当たるのが軟式ボールではこの突起部だが、これは回転中に空気の抵抗を受ける。軟式にあるこのへこみはディンプルと言って、逆に回転に対し揚力が働く」

「揚力って何?」卓也が一生懸命だ。

「普通にボールを投げたら回転は上向きで強い回転が加わるとこのディンプルのおかげでボールは上昇しようとする力、つまり揚力が働き、球の勢いが無くなるまでは浮いてくるような球筋になる。揚力が働くには速い球速と速い回転が必要だよ」

「そうか、お兄ちゃんの球は速く回転してるんだ。野口君がホップしてくるような球だと言ってびっくりしてたよね」

「そうだな。鞭のような腕のしなりと、柔らかい手首のスナップから発射された球は速い回転を与えられているんだ」

「そうか、だから兄ちゃんの球はすごいんだ。だけど兄ちゃんがカーブを投げた時はひねってなかったよね」

「よく覚えていたな。ヘタにひねるとバランスは崩れてコントロールは悪くなるし、曲がってもドロンカーブだ。ほとんどストレートのようで、球速が落ち始めた時に急ブレーキがかかりストンと落ちるようなカーブの方が威力があるだろ」

「そうだ、その通り」卓也がうなづいている。

「ストレートと同じ投げ方で投球後の手を収める位置も同じで、ストレートの時は手の平は下または後ろを向いているが、カーブの時は手の平を上向きに収める気持ちで投げると必然的に右回転を与える投球になってしまうんだ。すごいぞ」

「そうか、やっぱり回転を与えてるんだ。僕の場合はどっち向き?」と言って、卓也が手の平を上にしたり、横にしたりして考えている。

「シュートの場合は、バックハンドでボールを捕球する時の形に収める。つまりこの形だ。投げ方はすべて同じだぞ」

「フォークの場合はどっち向きだ」

 また卓也が頭をひねっている。

「フォークはストレートと全く同じで、ボールの握りかたの違いだけだよ。球の回転を殺すために思いっきり指を開いてボールを握り指の間からボールを抜いて投げるんだ。投げた瞬間ボールより手が先に抜けたような感じだ。回転がかかっていない球は、球威が落ちると風圧を受けてストンと落ちるよ」

 淳一がはじめて質問をした。握る位置を一番気にしていたようだ。

「ボールのどこを握って投げるの」

「いい質問だ。しかしあまり気にする事ではない。ただ効果的な握り方はある。ストレートにしろカーブ、シュート、フォークにしろ投げたボールに抵抗を与えるのはもったいない話しだ。つまりボールの縫い目はわずかだが抵抗になる。ボールがこう回転すると縫い目が直角に抵抗を受ける回数は二回だね。しかしこう回転したら、縫い目は何回当たるかな」

「四回だ」

「ただその違いだけだ。ストレートの時、しっかり握れるように二本の指が縫い目にかかるように持つと、必然的に抵抗は一回転に二回だ。同じ持ち方でカーブやシュートを投げても」

「二回だ」

「そうだな。同じ位置で指を開いて縫い目から指をはずし抜けやすい形でフォークを投げたら」

「二回だ」

「そう。握る位置は同じでいい。変な所に神経を使う必要はないよ。まあしいていえばフォークの時は、今の位置と真反対の位置、つまり全く縫い目に触れることがない位置で握って投げても二回だ。みな二回だろ」

「そうか、そうだったのか。なぜお父さんは握り方を教えてくれないのかわからなかったんだ。変化球は投げるなと言う意味だと思っていた」

「そんな事はないよ。しかしストレートが基本だ。ストレートで思う所に投げ込める事が最高のピッチャーだぞ」

「うん。わかった」

 淳一のもやもやがやっと吹き飛んだようだ。明るい笑顔が戻ってきた。

「どれ、部活での練習の成果を見てみようか」

「うん、いいよ」

「卓也はアンパイヤをやってくれ」

「よっしゃ」

 第一球目、柔らかいフォームで腰が低く鞭のような腕の振りからすばらしい球が飛んできた。

「ストライク」

 フォローも見事だ。バランスを崩していない。

「アウトコース低め」淳平の声が飛ぶ。

「ストライク」

「アウトコース高め」

「ストライク」

「インコース、高め」

「ストライク」

「インコース低め」

「・・ストライクだな」

「だな。は、ないぞ卓也」

「もとい。ボール」

 大笑いである。

「よし、カーブだ」

「ストライク」

 球威のあるすばらしいカーブだ。連休の時より凄みが増している。鋭角に曲がって落ちている。

「次はシュートだ」

「ボール」

 球威が落ちた。ひねりを気にしたのだろう。

「ストレート同じように投げろ。手首をバックハンド捕球のイメージで納めてみろ」

 こっくりうなずいて二球目を投げた。

「ストライク」

 すばらしいシュートに淳平は笑顔だ。

「すごいぞ。ストレートで来て、クイッと外に逃げたぞ」

 びっくりしているのは淳一のほうであった。

 ひねってはいない。バックハンド捕球の形に納めただけなのに。確かにボールが手から離れる寸前に手の平が内側から外に回転し始めたように感じた。

「これだけのシュートが投げられるのは、ストレートの基本フォームが完璧になってきた証拠だぞ」

 淳平には見えなかったが、淳一の目は真っ赤になり涙ぐんでいた。嬉しかった。何もかも嬉しい。卓也の声までも嬉しかった。

 三球、四球と投げ続ける。

「ナイスピッチング」

 二十球ほど投げた時フォークの要求があった。

「ストレート、カーブ、シュートと同じタイミングだぞ。意識するな。発射の瞬間、手が先行する感じだ」

 淳一は投げた。球は淳平の二メートル前でワンバウンドだ。

「おっととと」

 淳平も卓也も思わず吹き出してしまった。これには淳一も吹き出してしまった。

「おいおい、せめてキャッチャーの前で落とせよ。そうだなあ。回転がかかってもいいと思ってストレートを投げて見ろ。ストレートと同じように手はざるそばの何枚かを手の上において出前している格好だ」

 このアドバイスは的確であった。球を抜くことに気を取られ手首が立っていた事に気づいた。二球目はストレートの感じで投げた。

「ボール」

「そうだ。いいフォークだぞ。回転がかかっても風圧で落ちる。その感じだぞ」

 三球目、ゆるいストレートで打ち頃の球だがストンと落ちた。

「ボール」

「いいぞ。その感じだ。打者は打てない。空振りしているぞ。いい球だ」

 淳一はなんとなく感じがわかってきた。しかしボールはそうとう回転しているだろうになぜ急ブレーキがかかったように落ちるのか不思議でならなかった。そして淳一は体の回転をストレート並に速くしてみた。淳一の踏み出しがひときわ大きく尻が地面に着くほど低い投球フォームに入った時、淳平の目が光った。

「くるぞ」

 卓也も一瞬今までとは違う雰囲気、兄ちゃんが牙をむいた事に気づいた。

 ビシーン。

「ストライク」

 急ブレーキがかかりストンと落ちる球ではなかった。やや高めの球はバッターボックスの一メートル手前位から鋭角にキャッチャーのど真中に落ちてきた。落差は十五センチはあったろう。淳平はゆっくり立ちあがりながら

「この球は、打てないよ。どんなふうに投げたんだ?」

「お父さんが回転をかけてもいいと言ったから、指を開いてストレートを投げたんだ」淡々と話す淳一だった。

 淳平には理解できなかった。

「もう一球投げて見てくれ」

「いいよ」

 先ほどと同じだ。大きく足を踏み出し、尻は地面にすれるような低いフォームで鞭のように振り出した腕は高く空を刺し見事に右膝の外のあたりまで振りぬいている。

 ビシーン。

「ストライク」

 淳平は無言のまま返球した。

 ビシーン。

「ストライク」

 淳平は立ちあがって言った。

「もうやめよう。指の皮が剥けるか、爪がはがれるぞ」

「大丈夫だよ。何ともないよ」

 淳平は淳一の所まで歩いていき左手の指を心配そうに見ている。

「無理をすると指の皮が剥けるぞ。あれだけのスピードが出せるには指の内側と肩にそうとうのストレスを与えている。絶対無理はするなよ」

「大丈夫だよ。心配性なんだから」

「お父さんの言うことを聞くんだ。凄い武器になるが多用はするな」

 突然大声で怒鳴る淳平に、淳一は震え上がってしまった。そして何かを父は感じたのかもしれない。それはお父さんから見て、とてつもない不安なのかもしれない。

「そうだよね。ストレートとカーブ、シュートで十分だよね。そしてストライクを取りに来たと見せかけてゆるいストレートからストンと落とすフォークで十分だよね」

 卓也は淳一が怒られた事を気遣って話しをそらしている。それでもフォークの事を言う段には、フォークがいけないのか淳平の顔を覗き込み反応を伺っていた。

「その通りだ。すべてすばらしいできだ。特に最後の威力あるフォークは最高だ。しかしもう一度言うぞ。多用したら指の皮が破れるか肩が抜けて使い物にならなくなるぞ。ここぞと思う勝負時のミサイルとして有効に使うこと。それから大事な事だ、よく聞け。練習の時も三球、多くとも五球までだ。それも肩が柔らかくなってから練習しろ。 練習開始直後または疲れが出始めた終わりの頃は、練習したくても禁止だ。約束だぞ」

「はい」

 落ち込みかけているお兄ちゃんをなんとか助けたい気持からか卓也は、お兄ちゃんの顔とお父さんの顔を交互に見て何か言いたそうなそぶりである。

「お兄ちゃん、あれは魔球だよ。揺れながら猛スピードで飛んできてフッと下に消えたよ」

「お前漫画の見過ぎだぞ。巨人の星だろ」

「お父さんも知っているよ。大リーグボールだろう」

「ちえっ、ばれたか」

 大きな笑い声をグランドに残し三人はグランドを後にした。

 ジュニアチームの練習も大野先輩の投球も見ることはできなかったが、淳一はこの上なく満足であった。忘れかけていたバッティングの基本、そして初めて知った変化球の感触、なりよりも嬉しかったのはお父さんが誉めてくれた事だった。怒られてばっかり、いや、しかられてばっかりだったのに、真剣な顔で誉めてくれた。嬉しかった。


「結局、ジュニアチームの練習は見れなかったのね。話しを楽しみに待っていたのに残念だわ」

「だけど僕、満足してるよ。最高の気分だ」

「なにが?」

「あのね、兄ちゃん今日変化球を教えてもらったんだ。そしたらね、兄ちゃん、凄いボールを投げたよ」

「目にも止まらぬボール?」

「ううん、揺れながら猛スピードで飛んできてフッと消えるんだ。魔球だよ」

「手品みたいね」

「うん、マウンドのマジッシャンだよ」

「卓也、またかよ。二回目だぞ」

 淳一は大げさ過ぎる卓也の説明に照れくささから制止をかけている。

「そー、消える魔球?・・消えたらキャッチャーはどうするの」

「一瞬消えてまた現れるんだ」

「ほんと?・・お兄ちゃんがそんな球投げたの。お父さんひっくり返ったでしょう」

「ほんとだよ。信用しろよ」

「そー、一度見てみたいね」

「今度いっしょにおいでよ」

「はいはい」

 淳平はこのやり取りを聞いていて卓也がまんざらでたらめを言っているようには思えなくなってきた。ボールは私の顔をめがけて飛んできたが、捕球したのは胸のあたりだった。もし私がバッターボックスに立っていたらおいしい高さのストレートだ。狙っただろう。しっかり球を見て振ったら球がなかった。ありえるかもしれない。

 バッターは球の軌道を見切る。カーブの軌道、シュートの軌道を見切って狙う。しかしあの軌道はスピードに乗ったストレートだ。急な縦の変化は、消えたように見えたのかもしれない。卓也にはそう見えたのかもしれない。

 しかし淳平はもろ手を上げて喜べなかった。不安を拭い切れないでいる。ストレートの場合は最後までボールに初速を与える負荷が指にかかっており、強い遠心力であればあるほどボールは腕、肩に重く感じる。しかしフォークの場合はボールを指から抜く投球だ。あの遠心力ですっぽ抜けた時、肘または肩が抜けてしまうのではないか。そうなるとピッチャーにとっては致命傷だ。二度と今のフォームでは投げられなくなるだろう。すっぽ抜けを起こさない何かいい訓練はないものか頭を抱え込む。

「あらどうしたの、お父さん」

「疲れが出たようだ。ちょっと上で横になるよ」

 そう言って二階にあがって行った。

「毎日、仕事の帰りが遅かったから疲れが出たのね」

「お父さんはなんでこんなに野球の事を知ってるんだろうね。野球をやっていたのかなあ」と淳一が直子に尋ねた。

「聞いたことないよ。バスケットはやった事があるって言っていたけど・・あとはゴルフが好きだよね」

「お父さんに教えてもらうと凄くうまくなるんだ。何でだろう」

「お父さんは理屈屋さんでしょう。うるさいでしょう」

「しかし意味がよくわかるんだ。またうまくできるんだ。不思議だよ」

「それはね、多分だけど、あなたがお父さんの宿題を文句も言わずコツコツがんばってやったからよ。そう、自主トレ。そして聞く耳を持ったからよ。自主トレもせず、話も聞いてくれなかったら、お父さん教えるのに困ったでしょうね。次ぎのステップに進めなかったでしょうね」

「うん、そう言われたらそうだよな」

「さあ、勉強の宿題もしてね、教える先生を困らせないように。早い理解ができるように」

「痛っ。薮蛇だ」

「もう・・兄ちゃんったら」と卓也までとばっちりを受けておかんむりである。

 二人が二階に上がってくるのを淳平は知っていた。

 横になって天井を見ている淳平の手にはテニスボールが握られている。大きく指を開いての握り方はフォークの握り方だ。このテニスボールに砂を詰めるか。軽すぎる。紐を通して本をぶら下げるか。あまりいい格好ではないな。野球ボールぐらいの大きさでもっと重たいものはないか。

「淳一」

「なーに」

「鉄アレイは何キロのものを持っていたっけ」

「一キロと五キロを持ってるよ」

 むくっと淳平は起きあがり淳一の部屋に入った。卓也も何事かと思いお兄ちゃんの部屋に入ってきた。

「自主トレの課題を増やすぞ。一キロの鉄アレイの丸い部分をフォークの握り方で三分間ぶら下げる。いいな」

「えー、できないよ。無理だよ」

「初めからできたら自主トレになるか。今日五秒間持てたら明日は十秒だ。記録をのばせ。いいな。「バット持ち」と「柱押し」の自主トレも続けろよ。「バット持ち」も三分間維持できるようになっただろ」

 それだけ言って淳平は部屋を出た。

「兄ちゃんできるよ。ほれ」

 卓也が鉄アレイの丸い部分をわしづかみにしてぶら下げて見せた。

「フォークの握り方でだぞ」

「ドスン」と音が聞こえてくる。鉄アレイが床に落ちる音だ。

やり始めたな。がんばれよ。小さなヒーロー。

「何やってるの、勉強しなさいよ」

 階下から直子の怒る声がしたとたん、音がしなくなった。母親は強い。「俺よりも迫力があるな」淳平は苦笑いをしている。

 そして淳平が提案した自主トレには、一キロの鉄アレイをフォークの握り方でぶら下げられる力を指につける事以外に別に大きな訓練の意味が隠されていた。それは鉄アレイを落とした時、つまり指からはずれた瞬間に肘や肩への微弱な反動衝撃を何度も受けることで、速いスイングの投球ですっぽ抜けた時に受ける強い反動衝撃に絶えられる肘と肩を作る訓練であった。

 子供達は、音を立てない練習方法をすでに考え付いてもうやっているだろう。と、にんまりと薄笑いを浮かべながらくつろいでいる淳平であった。


    5


 季節は夏至を過ぎていた。日は長く午後七時過ぎまで明るく、野球部の練習も七時頃まで続けられている。一ヶ月後に迫った対抗試合に向けて監督以下、部員の練習も半端じゃなく、常に怒号が飛び交っている。

「よーし。今日の仕上げだ。三年、四年生の動きが非常によくなってきた。特に石井がよくなってきたぞ。よって今日は三年、四年生主体で守備をし、五年、六年生が攻撃する。メンバーが足らないので御船ピッチャー、野口キャッチャー、富木レフト、竹田センターに入れ、順次打者と交代する。ファースト赤城、セカンド立松、ショート坪井、サード石井、ライト高田で守備につけ。始め」

 三年生、四年生は誉められて上機嫌である。

 淳一はこの配置は監督の意図があっての守備配置だと直感した。サード石井は小柄でショートについた関取の半分に見えるが、何かと淳一の動きを真似て今では三年生とは思えない上達振りだ。それにしても三年生がショートとサードを守る形になっている。

 監督は木下キャプテンと坂田を呼んで何か話をしている。

「坂田、一球目を狙え。もう御船の球は見切っているだろ。スピードが増す前のストレートを狙え。塁に出たら御船を挑発しろ。そして二塁を狙え。挑発し続けるんだぞ。木下はとどめを刺せ。いいな」

 うなずく二人だった。

 坂田がバッターボックスに入った。

「いくぞ」野口がナインに号令を発した。

 淳一は久しぶりに仕上げ練習のマウンドに立った。

 マネージャーの斉藤明美は練習マウンドで投げている御船の姿は見てきたが、打者相手に投球する御船の姿は初めてである。一塁ベースの近くから緊張した面持ちで見守っている。

 ゆったりとしたフォームから一球目を投げた。

「キーン」

 痛烈な当たりはライトに抜けた。

 鼠小僧のあだ名を持つセカンドの立松も追いつけなかった。

「立松、飛びつけ、打球が速い場合は飛びつけ、はじいても拾えばアウトにできるタイミングだ。高田、ライトは思いっきり一塁側にフォローだ。セカンドがミスした球をライトがフォローする場合は一塁で殺せる確立は少ない。セカンド方向に向かって捕球できるように突っ込め。セカンドへの送球が早くなる。わかったか」

「はーい」

「リーリーリーリー。もう御船の球は読めたな。木下先輩、ホームランでいきましょ」

 大きなリードを取る坂田の挑発に淳一の気持ちが動いた。牽制で刺せるものなら刺して見ろ。と言わんがばかりの大きなリードに加え、うかつにも初球から狙われた事に闘争心に火がつくのを感じ始めていた。

「先輩、まかせなさい」

 ショートの関取が声をかけた。打たせて取ろう。と言う意味だ。

 監督は成り行きを見守っている。

 御船が牙をむいた。セットポジションから大きく足を踏み出し尻は地面にすれる位低い姿勢からの投球だ。

「ストライク」

 木下は見送った。

 坂田も二塁へ走れるタイミングであったが、あまりの迫力に見送ってしまった。

「そんな投球だと走るぞ」坂田の声だ。

 三年、四年生主体のナインは挑発を続ける坂田の今までに無い異様な雰囲気に飲まれてしまっている。セットポジションについた。達ちゃんがサインをだしている。高めにはずせのサインだ。淳一は野口のサインに従って投げた。

 その瞬間坂田が走った。野口が投げた。

「アウト」

 セカンド立松のガッツポーズだ。

 野口の送球は速く、セカンドベースの五十センチ手前に確実な送球であった。野口が淳一に向かってガッツポーズをした。

 淳一がガッツポーズを返した時、三年、四年生の部員は金縛りから解き離されたようにマウンドに集まってきた。

「打たれたら頼むぞ」

「よしゃー」

 淳一の声を聞いて元気よく守備位置に散って行った。

 監督が口惜しそうに野口の顔を見て、

「やられたな。もっと動揺させたかったのに」

 監督と野口の目が合った。

「木下、勝負だ。野口、勝負だぞ」

 野口はこっくりうなずいて淳一にサインを送った。外角低めにはずせだった。

「ボール」

 木下はもう誘いには乗ってこない。野口からもう一度外角低めにはずせ。球筋はシュートの要求だ。今日の練習マウンドで初めて変化球の練習をした。それを要求してきたのだ。

 ゆったりとしたフォームから流れるような投球だ。

「ど真ん中だ。もらった」

 木下は狙い定めたように、待っていたかのように振った。

 木下のバットはうなり音を立てて空を切った。ボールはど真ん中ストレートから鋭角に野口が構える外角低めに落ちていった。

 監督も初めて見る御船のすばらしい変化球であった。

 一瞬静まり返ったグランドでニヤリと笑って拳を突き出したのは、このシーンを予測できていた野口と富木先輩の二人であった。

「どんまい。まぐれ、まぐれ」

 静けさを破ったのは監督の声だ。

 野口のサインが変わった。外角高めから打者の足元に落ちるカーブだ。全く同じタイミングでゆったりとしたフォームから淳一の球が吼えた。キャプテンは手も出せなかった。

「ストライク」

 外角高めから内角へ鋭角に落ちてくる。スピードもストレートと変わりない速い球だ。木下は口を硬く閉じたままだ。同じフォームで同じタイミングで投げ出される球筋は読み様がない。

「今までは威力のあるストレートばかりであった。やっとタイミングを合わせることができるようになったと言うのに今度は変化球か、まいったな」

 監督の叱咤が飛ぶ。

「木下、打ちこなすのはお前の課題だぞ」

「こんなカーブ、シュートは初めてです」

「当たり前だ。いつかは初めてのことに出くわす。和泉小との試合でなくてよかったと思え」

「わかりました」

「いいか、そして部員に教えてやるんだ」

「はい」

「全員集合」

 ミーティングが始まった。

「今日、打者は二人で切り上げたが、皆、しっかり見てたと思う。私自身こんなに嬉しい日はない。御船のストレートを打ち崩す力を坂田もまた石井も皆も実力をつけレベルアップしてきた。しかし御船はそれ以上にレベルを上げている。こんな嬉しい事は無い。御船をうち崩せ、また御船はレベルを上げるだろう。それをまた打ち崩せ、そしたら和泉小とは互角に戦えると思う。あと一ヶ月だ。皆の力を結集するんだ。三年生、四年生のレベルも上がってきている。明日も今日の守備位置で仕上げ練習をする。以上」

 部員達はベースのかたづけをした後、一目散に部室に向かって走っていく。

 いつのまにか薄暗くなっていたグランドを一人とぼとぼと歩いている斉藤明美の姿があった。左脇に二本のバットをかかえ、ボールを握った右手で涙を拭いている。決して辛い訳ではない。仕上げの練習で打者は二人だけだったが息詰まる勝負に感動したのだろう。去年からエースの大野先輩に呼応して小林君奥村君が抜けたチームでは、バリバリの六年生が十一人もいる和泉小とは勝負にならない。そう、今年はだめチームとの噂を聞いて悔しく思っていた。しかし私の見て来たチームは日々動きが良くなり流れるようなプレイをして、全員がレギュラーであってもおかしくないチームになってきている。今日は凄かった。息が詰まった。戦える。きっといい試合ができる。なぜか涙が出てくるのであった。

「もっともっとお世話をして励ましてやらなくっちゃ勝てないぞ」

 根っからの明るい性格の斉藤明美は涙を見せたくないのであろう。部室に近づいた時には涙を拭き笑顔をつくろっていた。

「お疲れさま」

「明美、どうした。目が赤いぞ」

 坂田だ。

「目に虫が入ったの。痛かったわ」

「両目にか」

「片方が痛かったら両方涙が出るよね、坪井君」

「う、うん」

 三年生の坪井は体こそ六年生並だが、お姉さんみたいな五年生のマネージャーに、違うとは言えず生返事をして下を向いてしまったので全員大笑いである。

「坂田君、いくら仲間だからと言っても練習中のあれは言い過ぎじゃないの、私も腹が立ったわ」

「おっと、反撃か?」坂田が気まずい顔をしている。

 笑いながら野口が説明に入った。

「後で知ったんだけど、あれは監督の指示だったんだ。御船を挑発しろ。挑発して塁を狙え。挑発に乗って冷静さを無くしたらキャプテンがとどめを刺すよう指示だったらしい」

「野口のファインプレイでおじゃんだ。御船は冷静さを取り戻してしまったし苦労したよ。監督は御船が冷静で投げ続けられるかどうか試したかったようだな」

「そうだったの」

「打てなかったのはそればっかりじゃない。野口のすばらしいリードだ。完璧に振り回され冷静になれなかったよ。監督も見ていて言ってただろ『野口勝負だぞ』って、そしたらあの変化球だろ。まいったよ」

「野口、正捕手。御船エースの誕生だな」

 富木先輩が言った。決して嫉んで言っていないことは富木先輩の明るい顔でわかる。

「俺は正捕手をクビか?」

 キャプテンのしょげた顔にみんな大笑いである。

 キャプテンが話しを続けた。

「明日も今日の守備メンバーで仕上げの練習をすると監督が言ったのは、三年四年生の上達がすばらしいので練習の成果を見るためだろう。がんばれよ」

「はーい」

「よし、おつかれさま」

 帰り道、野口は御船に話したくてたまらない様子である。

「練習マウンドで初めてお前の変化球を受けたが、速い球で急に変化するから後逸しそうで必死だったよ。仕上げの練習の時、監督に『野口勝負だ』と言われた時は変化球を使うのはここだと思ったね。バッチリだったな」

「達ちゃんのファインプレイで冷静さを取り戻せたよ。後は達ちゃんのリードを信じて投げただけだ」

「カーブと言うよりあの曲り方はスライダーだな。お父さんに教えてもらったのか?」

「うん、この前の日曜日にね」

「恐ろしいおっさんだな」

 野口も興奮がまだ醒めていないようである。淳一がむきになり、あのまま投げていたらバランスを崩し監督の思う壺になっていただろう。達ちゃんに助けられたものの冷静さを維持する事の大切さを痛切に知らされた今日のマウンドだった。


        6


「陽子、おはよう」

 速野陽子と数人の登校集団に斉藤明美が追いついてきた。

 速野陽子は明美と同級生で、御船が野球部に入った事をいち早く聞きつけ明美に知らせた親友である。明美はその日のうちに部室を訪ね、びっくりする部員を相手に、マネージャー志願を申し出たのであった。


「五年の斉藤明美です。みなさんのお世話をしたいのです。いっしょに戦いたいんです」

 男所帯では部室の整理整頓も十分にできず、梅雨時には悪臭がたちこめる日もあった。新入部員や後輩にさせたいとこだが、なにせ部員数が少なくそれどころではない状況であり、できればマネージャー役が欲しいなと思っていた矢先の事だった。

「みんな反対じゃないよな。しかし」

「初めは大野先輩らが抜けて今年は対抗試合も無理だと聞いた時は悔しかったんです。だけどそれでもやると聞いたら、いっしょに戦いたくなったのです。何をどうしたらいいのかもわかりませんが少しでも役に立ちたいのです」

 必死に懇願する様子にキャプテンもたじたじであった。

「みんな賛成だから監督に頼んで見るよ」

「ありがとうございます」

「まだマネージャーに決まっていないが、部員の紹介をしようか。守備は正式ではないが練習の時、主に守る位置だ。僕はキャプテンの木下、捕手。副は富木、ピッチャー。サードは竹田、こいつはうまいぞ。次ぎが五年生でセカンド野口、時々捕手もする。いい肩をしてるぞ。ショート坂田、坂田はジュニアチームから去年入部したが打撃は俺以上かな。御船、ピッチャー、肩がいいのでライトだったが、最近ピッチャーに変更した。凄いぞ」

 照れくさそうにしている御船を見て明美は「この子が噂の御船君か」とうなずいていた。

「次ぎは四年生、センター赤城、四年生にしてはバッティングがうまい。天才かな。レフト立松、守備はうまいし走りが速い。人呼んで鼠小僧だ。ライト高田、いい肩をしている。次期ピッチャーの候補生だ。あのでかいのが三年生の坪井、今年入部した新入部員だが彼もジュニアチームでやっていただけあっていいセンスをしている。あだ名は関取」

 明美は吹き出してしまってから「ごめん、ごめん」と謝っている。

「同じく新入部員の三年生、ファースト石井。非常にまじめで練習熱心。御船の動きを恋人のように見つめまねをしている。いずれレギュラーだな」

 明美がニッコリ笑うと恥ずかしそうに下を向き、可愛いい弟のように思える。淳一にとっては同期入部である。淳一が入部した時はキャッチボールもしたことがなかった淳一の可哀想な姿を見ても御船の後ろについて回っていた子である。それとなく淳一は不思議に思いながらも気づいていたが自分の事が精一杯で気遣う余裕はなかった。五月の連休を境にしてダメ御船が変身してしまってからは誰もが気づくほど、御船の動きを素直に真似て、みるみる実力をつけて来た石井であった。

「よし、練習開始だ」

 全員がグランドに飛び出ていったが、明美の最初の仕事は部室の掃除からであった。


「ねえ、ねえみんな聞いて」

「何よ、明美」

「きのうの部活の時、ひさしぶりに御船君がマウンドに立ったの。凄かったわよ。キャプテンの木下先輩との対決。息が止まりそうだったわ。軍配は御船君」

「噂は本当だったの?」

「本当も、本当。凄い迫力に私涙がでたわ。今年はやるよ」

「へー」

 皆同じ事を考えたのかお互い顔を見合わせ相槌を打っている。それを代表したかのように陽子が言った。

「やっぱり応援団を作ろうよ」

「やろうよ」

 全員が小躍りして喜んでいる。

「私もマネージャーでがんばるから、みんなもがんばって」

「私、今日太田監督に話しして体育館での練習の許可をもらうわ」

 陽子が動くことを決心した。

「やっぱり陽子だ頼りになる。がんばって」

「それで御船君のボールは速いの?」

「六年生は三人しかいないんでしょう。大丈夫かしら?」

「マネージャーってどんなことをしてるの?」

 にぎやかなお喋りは学校に着くまで続いていた。


 大城小学校の昼休み、運動場ではドッジボールやバレーボール、縄跳び、Sけん、陣取りゲームなどして遊ぶ生徒達の楽しそうな声が聞こえてくる。

 校舎の屋上では昼寝をしている者もいる。

 心地よい昼寝を醒ます大きな声を揚げながら走って来る者がいた。

「先輩、大野先輩」

「どうした、奥村」

「今、廊下での立ち話を聞いてびっくりしましたよ。今年もやるらしいですよ。和泉小との対抗試合を」

「今年の試合は諦める話しじゃなかったのか? ろくなメンバーしかいないのに勝てる訳がないじゃないか」

「試合は七月二十八日らしいですよ」

「六年三人、五年二人で野球ができるのか? よその野球部は六年生だけでレギュラーが組める位そろっているのに」

「今年入った五年の御船と三年生を合わせて十一人で戦うらしい」

「ほんとか? 信じられないな」

 確かに信じられない事であった。育ち盛りの子供達は一年違うと体力の差は歴然としている。ましてや小学生で六年生と三年生では見ただけで体格、体力の違いはわかる。

 去年は六年生が八名いたがそれでも他校に比べると少なかった。

 今年はとうてい無理である事は大野自信も察知していた。部活に出ても初めて野球を始めた三年生達と練習するのはもどかしく、また面白くなかった。もっと活躍ができて緊張感もあり、やりがいのある練習をしたい。そんな気持から地域のジュニアチームに参加し練習する方を選んだいきさつがあった。

「先輩、俺達三人が入れば六年と五年で九人になる。皆んなメンバー不足で困っているんじゃないかな」

「そうだな、来て欲しいと思っているだろうな。助っ人として今日行ってみるか」

「よし、小林にも連絡して今日、野球部に行くようにします」

 そう言って奥村は小林に連絡を取りに走った。

 去年からエースを務めた大野先輩と五年生ではあるが誰もがレギュラーを認める奥村、小林が練習に来なくなった事で落胆し、今年の対抗試合は無理だと考えた。もちろん野球部員もそう思っていたが、今のメンバーで例年通り対抗試合をやると言う太田監督の突然の発表で、やる気を出し全員で目的に向かってがんばってきた。そしてこの三人の来訪はチームワークに戸惑いの波紋を投げかける事件となってしまった。

 三人が部室を訪れたのは練習が始まる前だった。

「木下、久しぶり」

 突然の来訪に木下キャプテン以下全員がびっくりしている。

「誰?」「大野先輩だ」小声で話す声も聞こえる。

「久しぶりだな。今日は何事だ」キャプテンは平静を装っている。

「メンバー不足で困っているらしいな。明日から練習に参加するよ。ユニフォームを持って来るからな」

「どう言うことだ、今頃」

 キャプテンは怒り気味でしゃべりだした。

「対抗試合の助っ人だよ。なあ坂田」

 ジュニアチームで仲間だった坂田に同意を求めている。坂田は気まずい思いで下を向いた。

 キャプテンがその気まずい雰囲気に割って入った。

「今のメンバーで戦うつもりだ。みんな見違えるようにうまくなっている」

「必要無いって意味か?」

「そうじゃないよ。戦力不足は覚悟して力を合わせ練習してきたんだ。だから・・・・」

 キャプテンも言葉に詰まってしまった。

 戦力として彼らを欲しいという気持と、チームワークに問題を起こしかねない懸念が交錯していた。なぜなら目的に向かって先輩は後輩に技術を教え、励まし、後輩は先輩のいいところを吸収しようと毎日練習に励んできた。そんないい雰囲気が出来上がった矢先の事だからだ。

「わがまま過ぎるよ。勝手に練習をサボって頼りのあなた達が抜けた事で対抗試合を諦める所まで皆に挫折感を与えておいて、今ごろ何よ。何様と思っているのよ」

 マネージャー斉藤明美の目に涙を浮かべながらの訴えは部員全員のうなずきとなって三人へ返ってきた。

「誰だ、こいつは」

「マネージャーだ。俺達を励まし支えてくれて、いっしょに戦う部員だ」

 明美は振り返り声の主を捜すと御船だった。御船の形相はいつもの柔和な表情からは想像もできない怖い顔をして大野を睨んでいる。

「お前が御船か、評判らしいな。新入部員のくせに顔だけで評判か?」

「入部したのは先輩のだらしない態度が理由だ」

 まさか御船の口から喧嘩を売るような言葉が出るとは、野口もびっくりした顔で御船に制止をかけている。

「だらしない? どう言うことや」

 険悪な雰囲気になりかけたのを六年生の竹田があわてて割って入り終止符を打った。

「監督の意見を聞こうよ」

「そうしよう。さあ練習の準備だ」

 沈黙の中でそれぞれが準備を始めた時だった。

「どうした。今日は練習休みか?」と言いながら監督が部室の入口に立っている。

 キャプテンが説明した。

「大野、奥村、小林がまたいっしょに練習をしたいと言って来ています」

「おお、小林、奥村、大野久しぶりだな。また何で練習をする気になったんだ? ジュニアチームの方が良かったんじゃないのか?」

「和泉小と対抗試合をすると聞いてメンバー不足で困っているんじゃないかと思って」

 監督は期待していた返事に反したものであったため、ムッツとした顔をして部員の方を見て言った。

「ところでみんなの意見はどうなんだ」

 キャプテンが一呼吸おいたものの気まずい思いは隠せなく、時々下を向きながらではあったがみんなを代表しはっきりと答えた。

「戦力としてはいっしょにやりたいが、自分達で戦力不足を克服できるように力を合わせ練習しがんばってやっと戦う力がついてきた時なので・・・結論は出せず監督の判断に従うことを話し合っていました」

 暫くの沈黙があった。部員達には長い静寂であった。そして監督が落ち着いた口調で話し始めた。

「三人の気持は尊重する。また対抗試合に向かってメンバー不足にもくじけずがんばっている部員達の気持も尊重する。そして三人が練習に加わることは歓迎する。しかし三人は練習不足なので今回の対抗試合のレギュラーメンバーからは、はずす。次回十一月頃に予定の大成北小との対抗試合は六年と五年を中心としたレギュラーを組むのでがんばって欲しい。いいな」

 大野は顔を斜めにしたまま監督の顔を睨んでいる。「欲しくないのかよう。今のメンバーで勝てるのかよう。欲しいなら欲しいと素直に言えよ」

 納得できない奥村が意見をした。

「練習はジュニアチームでやっていました。少年野球の試合にも出ました。すぐにでも試合に出られます」

「ばかたれ」

 突然監督の大きな声に全員に緊張が走った。

「去年の大成北小との試合の後、お前達は練習に来なかったじゃないか。卒業していった先輩達ですら最後だからと言って二学期が終わるまで後輩と一緒に練習していた。それも毎日だ。ジュニアチームの練習は土曜か日曜日だけだろ。ジュニアチームでやるのはかまわないが、なぜ部活の練習に来なかった。さぼりたかっただけだろ。その間に皆、すばらしく上達したぞ」

 少年野球チームの監督やコーチは野球が好きな大人達で大半の人は仕事を持っている。平日に時間が作れた時は練習もするが不定期になりがちで土曜日か日曜日が練習日である。

 また監督やコーチ自身が企業体の中で野球部に所属していたりするので、技術面では厳しい指導がおこなわれ部活では物足りなさを感じるじょうずな子供達が少年野球チームに所属するケースが多くある。

 太田監督は技術の向上以上に野球部員全員で力を合わせ戦いに挑む姿勢をこの三人に求めていたのだ。

「今日はグローブもユニフォームも持ってきていないだろう。明日から毎日みんなと一緒に練習するんだ、いいな。他の者はランニング開始!」

 部員はランニングを開始したが、いつもの活気、笑顔はなくまだすっきりしない様子である。

 三人は地面を蹴るような引きずるような歩き方をして不満を隠しきれない様子でグランドを後にした。


 翌日の練習開始前、部室では彼らが来るか来ないかの話しで持ちきりだった。

「私は来て欲しくないわ。試合に出たいから今頃突然来て助っ人なんてわがまますぎるわ。野球はチームワークの競技でしょう」

 マネージャーの斉藤明美は断固として受け入れない様子だ。

「そうだ、自分達がちょっとうまいからと言って生意気だよね」

 四年生の高田からも反対の意見が出た。さぼりたい時もあったが目標に向かって苦しい練習をして耐えて来た事を、今思い出している。

「彼らは今日練習に来るのかなあ」

 坪井が不安そうである。

「多分来ないよ。さあ練習開始だ」とキャプテンが気合を入れた。

 キャプテンの予想は当たっていた。練習は始まったが彼らは来なかった。しかしその後、監督からとんでもない話しを聞くことになったのである。

 監督が来てマネージャーに皆を集合させるよう告げたため、明美はランニング中の部員への連絡に走った。

「今日ジュニアチームの佐々木監督から電話があった。内容は和泉小と対抗試合をやると聞いて、良かったら練習試合をしようと言う誘いであった」

「いつですか」と坂田だ。

 以前ジュニアチームに所属していた坂田は複雑な心境なのだろう。

「今週の日曜日、大城湖畔の市民グランドだ。練習に借りていたらしい」

「やるんですか」キャプテンの声はうわずっている。

 監督は一呼吸おいて力強く言った。

「やる。胸を借りる。そしてその二週間後の和泉小との試合には勝つ」

「やったあー。やろうぜ。なあみんな」

 富木はやる気十分である。大野が抜けた大城小のエースとしてどこまでやれるか気になっていたのであろう。

「もちろん向こうのピッチャーは大野先輩でしょうね」

 赤城が質問した。その顔は闘志を剥き出しにしている形相である。生意気な先輩の言葉が悔しかったのであろう。

「そうだろうな。練習試合は大野が提案したらしい。気持が納まらなかったのだろうな」

 大野先輩の提案と聞いて全員、言葉がつまってしまった。

「いいじゃないか、俺達を試すのなら試して見ろよ。伊達に練習してきたんじゃない事を見せ付けてやろうぜ。なあ御船」

 野口がそう言って御船を見た。御船は歯をくいしばってうなずいている。監督は一縷の不安を感じ皆に念を押した。

「レギュラーをはずされた仕返しとは思うな。大野がそんなケチな男と思うなよ。レギュラーからはずされたならせめて皆のためにできる事は練習試合をする事で試合に慣れて欲しいと言う気持からの提案だったと私は思う。いいな・・・。しかし勝負は勝負だ。手心を加えたら彼らもがっかりするぞ。真っ向から勝負だ」

「はーい」

「日曜日、部室に十時集合。一時間半程軽い練習の後、市民グランドに移動する。移動の時にコンビニで弁当を調達する。斎藤は前日十三人分の弁当の予約をしておくこと」

「はい」

「市民グランドで食事の後、軽く練習をする予定。試合開始は二時だ。目標ができたぞ。さあ練習だ」

「よっしゃー」

 その日の練習は普段に無くきびきびと、はつらつとした動きが見られた。突然現れた大野先輩達。思いもよらぬ監督の判断。そしてその大野先輩達のチームと練習試合をすることになった。同じ部員としてのこだわりが吹き切れたのだろう。御船も昨日の怒りに満ちたような感覚はもうなくなっていた。五年生の時からエースを務めた大野先輩の実力を見ることが楽しみになっていた。

 その日、監督の指示で斎藤をバッターボックスに立たせ、富木先輩は野口とのピッチングの練習に終始した。

 御船は打撃練習、守備練習時のピッチャー役で全員が何度も繰り返し御船の球で練習を続けた。キャッチャーの木下キャプテンのリードは打者の欲しがる、また予想する球筋をわずかにはずしたり、裏を突く見事なリードであった。淳一は「なるほど」と納得しながらすばらしい配球を経験していた。

「御船、無理はするな。お前の球を確実に打てるようになる練習だからな」

「大丈夫です」

 淳一は練習の前にキャプテンから聞いていた。

「俺は大野を知っている。お前とよく似たタイプだ。監督はあえてお前を練習台にしたと思うよ」

 淳一も考えていた。打ち慣れて欲しい。そして大野先輩を打ち崩して欲しい。

 暫くの練習の後、監督からピッチャー交替の指令が出た。

「よーし、御船は富木、野口の練習にまわれ。ピッチャー高田」

 試合を目の前にして富木と御船の投げる球で徹底的に打撃練習をするはずじゃなかったのか。意外な采配に木下キャプテンは監督の方を見ている。

 監督がピッチャーマウンドの方に歩いて行き高田に話しかけている。

「木下のリードに素直に投げ込め。力むな。変化球は使えるか?」

「カーブ、シュートぐらいは」

「よし、木下のリードに合わせろ」

「はい」

 戻ってきた監督はキャッチャーの木下に意外な事を言った。

「カーブ、シュートも使えるぞ。リードしてやれ。『瓢箪から駒』かもしれないぞ」

「えっ」木下は意味が理解できなかった。

「よーし、再開」

 バッターは竹田だ。守備はバツグンだが打撃に吹っ切れないものを持っている。

 淳一は、高田のコールを聞いて気になりピッチングマウンドの方から高田の投球を見ている。高田は淳一を「先輩、先輩」と慕い、淳一の守備動作、バッティングのタイミング、またキャッチボールをしては食い入るように淳一のフォームを見て真似をしていた。まだ四年生だがもともと肩がよく素直な投球フォームで、淳一自身も自分と似たタイプだと思っていただけに彼のマウンド姿が気になっていたのだ。

 小さい体からゆったりとしたフォームで投げ込んでくる。一球目を見送ったが竹田はキャプテンの木下と顔を見合わせ、二人とも「ホーッ」と言ってびっくりした顔をしている。

「やっぱりな」

 監督のひと言に木下と竹田は振り返って監督の顔を見ている。

 木下はど真ん中から外角に逃げるカーブを要求した。見事に竹田は空振りをした。

 三球目はストレートど真ん中の要求だ。コントロールもいい。

「カキーン」

 竹田のナイスヒッティング。竹田の代りにサードを守っていた立松がショート側にフライイングキャッチの見事な処理をしてアウト。

「ナイス、鼠小僧」

 キャプテンの声に立松のガッツポーズが出た。キャプテンが監督に向かって言った。

「高田は使えますね」

「そうだな。最近ライトを守っている時の返球が御船そっくりの投球フォームになってきていたからもしやと思って投げさせたのだが・・・・。練習してたんだろうなあ」

「御船二世の誕生ですね」

「二世じゃないだろ。御船の子分だ」

 監督とキャプテンの和やかな様子を見て喜んだのは高田だけではなかった。淳一も遠くから見て喜んでいた。自分を慕ってまじめに練習をした弟子の晴れ舞台を見ているようであった。

 赤城がバッターボックスに入った。見事なシュートにタイミングをはずされたが二球目はさすがに赤城だ、ライト前にヒットを放った。

 一通り全員が高田の投球でのバッティングを終えていた。

「よーし、次はバントの練習だ。外野は引き上げて来い」

 外野が呼び戻されバントの練習が始まった。

「木下、ストレート、カーブ、シュートの順に投げさせろ」

「はい」

 打者は監督から交代の指示が出るまでバントの練習を続けている。

「球種によって球の転がる方向が違うことをしっかり掴んで自分の思う方向に球を転がせ」

 監督の声に一段と熱が入る。

「次ぎは一塁線の同じ場所に転がせ。確実に同じ場所に転がせ」

「バントは顔で球を止める感じだ。顔で打つと痛いからバットを顔の前に出して球を止めろ」

「もっと低い姿勢でバットは水平ではなく、やや立て気味で顔の前だ。バットを持つ右手は脇の高さだ。ストライクゾーンの高さいっぱいの位置だ」

「右手より高いボールはボールだろ。考えろ」

「目を閉じるな」

「そうだ。その調子だ。球がよく見えるだろう」

「次、交代」

 高田は、もう百球近く投げている。木下は心配であった。

 その時監督の口から意外な掛け声が出た。

「高田、今度の試合はお前が先発だ。今日の投球が出来るか」

「出来ます」マウンド上から元気な返事だ。

「よし、練習マウンドで軽く肩をほぐせ。富木を呼んできてくれ」

「はい」

 高田は練習マウンドの方に力いっぱい走って行った。

 突然の先発指名にキャプテンをはじめ皆が唖然としている中、監督が言った。

「みんな聞いてくれ。ピッチャーは高田、御船、富木で戦う。四年、五年、六年生だ。全員で戦う。フォローしてやってくれ。いいな」

 『全員で戦う』ありふれた言葉だが絶句し身震いをする者そして全員無言のままうなずくのが精一杯のようであった。

 富木がマウンドに着いた。

「次は富木の球でバントの練習だ。富木、手を抜くな。皆バントはうまいぞ」

 富木の速い球での練習が日が暮れるまで続いた。

 練習マウンドの方では、野口、御船、斎藤、高田が何やら話をしている。高田が先発に指名されたことだろう。さっそく高田の投球が始まったのを見て監督は笑顔に戻った。


  7


 淳平の帰宅は今日も夜八時をまわっていた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 直子の返事が終わらないうちに二階から駆け下りてくる音が聞こえる。

「えらく賑やかだな。何事だ」

「おとうさん、試合があるんだよ。今度の日曜日。野球の。市民グランドで」

 卓也が一番に話さなければ気がすまないといった様子である。

「おい、おい、ゆっくり話せよ」

 直子が笑って見ている。

「あのね、今度の日曜日に市民グランドで野球の試合があるんだ。一緒に見に行こうよ」

「和泉小との対抗試合は夏休みに入ってからじゃなかったのか」

「ジュニアチームのジャガーズとの試合だよ」

「淳一、ジャガーズはあの大野先輩らがいるチームのことか」

「そうだよ」

「なんでだ? 大野は練習をしていないのか?」

「うん」

 淳平は理解できないようで首をかしげながら、

「服を着替えて食事をしながら話を聞こうか」と言って二階に上がっていった。

 食卓には淳一と卓也が既に就いている。食事は終えているがお父さんとの話を楽しみにしているようだ。

 淳平が食卓に就くと淳一が先程の話の続きを始めた。

「火曜日に突然大野先輩、小林、奥村の三人が、対抗試合の助っ人に来たと言って現れて事件が起きたんだ。監督は練習に参加することは快く受けたが三週間後の対抗試合には練習不足としてレギュラーからはずし、秋の大成北小との対抗試合に期待することになったんだ」

「監督も思い切った判断をしたもんだな。チームワークを優先したのだろう。それには日数が足らないと判断したのだろう。それで大野も一緒に練習を始めたんだろ?」

「ううん、翌日来なかった。その代わり練習試合をしたいとの申し出が監督にあったんだ」

「大野もお前たちのことが心配だったんだろうな。いいチャンスじゃないか、思いっきり胸を借りたらいい練習試合になるぞ」

「お父さんもそう考えるのか・・・」と卓也が腕を組み、首をかしげながらお兄ちゃんの顔を見ている。

 淳一は納得したように卓也の顔を見ながらうなずいている。

「どうしたんだ」と淳平が問い掛けるが二人は首を振って「なんでもない、なんでもない」と言っているようだ。

「それでメンバーは決まっているのか?」

「まだだよ。だけど先発は決まったよ。高田だ」

「高田?」

 淳平には初めて聞く名前だった。

「高田は四年生だけどうまいよ。フォームは僕にそっくりだと言われているよ。ピッチャーは高田と富木先輩と三人でやるんだ」

「そうか、お前が教えてやったのか」

「教えたのは今日が初めてだよ。五月の連休以後、高田と石井が先輩、先輩ってうるさいぐらい付いて回っていたんだけど、その内、僕とそっくりになったんだって」

「ハハハハッ。結局お前が先生だったんだ」

「石井は三年生だけど守備もバッティングも抜群にうまくなったよ」

「そうか、ハハハハッ」

 淳平はうれしかった。淳一が模範になるほど活躍していることがうれしかった。

「母さん、日曜日は弁当作って応援に行こう」

「それがね、お昼ご飯はコンビニで弁当を調達するんだって、残念よね」

「それは残念だな。だけどお昼には市民グランドに集まるんだろ」

「うん、市民グランドで弁当食べて二時の試合開始までお互い練習するんだ」

「よし、母さん、弁当作って市民グランドで食べよう」

「やったぁー。練習を見ながらお弁当だ」

 卓也が大喜びだ。

「淳一、自主トレは続けているか。あれが基本だぞ。握力、腰が強くなる。ヒッティングの感覚の基本だぞ。練習を積めば積むほどパワーアップが可能になる」

「やってるよ。最近、自分ではゆっくり振っているつもりなのに飛距離が伸びてきて皆がびっくりしている」

「そうか、鉄アレイを掴む練習もしているか」

「うん、もう掴んだまま一分間は我慢できるよ」

「ほんとか、手を見せてみろ」

 淳平は一分間も掴むことに期待していたわけではない。我慢できず鉄アレイを落としてしまう時の肘にかかるショックを繰り返し受ける事でフォークボールのすっぽ抜けに耐えられる肘を作るのが目的であった。

 淳平は淳一の手を見て言葉が出なかった。左手人差指と中指の間接部の内側にたこが出来ている。たこが四箇所出来ているのである。ここまでになるには何度鉄アレイを落としたことだろう。

「部活の時、フォークを投げているのか」

「お父さんとの約束通り、五、六球しか練習していないよ。逹ちゃんにお父さんとの約束を話したら逹ちゃんもうなずいていたし」

「野口君はお前のフォークを受けて何か言っていた?」

「いつも褒めてくれるよ。すごいって。小学生では打てないって、秘密兵器にしておけって」

 淳平の目頭が熱くなり始めた。面白くもない辛い練習をよく続けたものだ。淳平はまだ淳一の手を握っている。

 直子が淳一の手を覗き込み、

「鉛筆だこが出来るぐらい勉強もしてくれたらいいのにね」

 卓也は、お兄ちゃんの顔、お母さんの顔、お父さんの顔を交互に見ている。

「フォークボール、解禁だ。思いっきり練習開始だ」

 思いも寄らぬ淳平のフォーク解禁宣言であった。

「お兄ちゃん・・・・・」

 自分の事のように喜ぶ卓也であった。

「フォークの握り方だが、今は基本型の人差指、中指親指の三本主体で投げていると思うが薬指を使って指四本で投げてみろ。楽だしコントロールが安定するぞ」

「どんな風に握るの」

 卓也が二階に駆け上がっていきボールを持ってきた。淳平の握り方を二人が覗き込んでいる。

「なるほど、握り易い」

「もっと教えて」

「カーブの切れはいいか?」

「逹ちゃんがスライダーって言うんだ」

「そうか、カーブは曲がって落ちる球筋だが、スライダーは曲がりが横滑りして行く球筋で打者にとってはスライダーの方がやっかいだろうな」

「投げ方は知らないし変えてないよ」

「無意識に人差指と中指が球の中心線から外目に握って投げた時にスライダーになっているんじゃないかな。この場合投げる瞬間に中指に力が入る。これが斜めの回転じゃなく真横の回転を与える結果になるんだ」

 二人が頭をぶつけ合いながら覗き込んでいる。

「ふーん、カーブでも色々あるんだなあ」

「シュートでもスライダーのように曲げて沈ませるシュートがあるよ」

「教えて、教えて」

「親指を深く置いて、シュートを投げる瞬間に親指に力を入れ回転を殺すんだ。シンカーだが、淳一は左利きだからスクリューボールだな」

「スクリューボール・・・・」

「この投げ方は小学生には難しいかもしれないな。簡単なスクリューボールの投げ方を教えようか」

「うん、うん」

「球の回転を殺すにはフォークの握り方だがシュート回転を与える為にちょっと違った握り方をする。中指と薬指でフォークの握り方をして開いて握り、人差指は軽く中指に添える。つまり五本の指全部でわし掴みした形でシュートを投げるんだ」

「ええっ、どんな風に握るの?」

「ほんと? お父さん投げたことあるの」

「子供の頃投げたことあるよ。シュートして来た球がストンと落ちるよ」

「へー、お兄ちゃん・・・・」

 淳一はうなずいている。

「淳一はサウスポーだ。卓也にはそのままの説明でいいが淳一にとっては逆だったな」

「ややこしいの」

「ハッハッハッ」

「お父さん、お風呂はどうするの」と直子の声だ。

「ごめん、ごめん、すぐ入るよ。淳一、風呂から上がったら打者の攻め方を勉強しようか」

「いいの? お父さん」

「宿題は済んだの? お父さんが上がるまででも宿題をやっておくのよ」

「はーい」

 淳平は笑いながらお風呂に向った。


 風呂から上がった淳平が缶ビールのプルトップを気持よさそうに開けて飲み始めるやいなや二階から二人が下りてきた。淳一はノートを持参している。

「あら、あら、ご熱心なこと。勉強もそれくらい熱心だとお母さんは安心なのにね」

 二人は苦笑いをしている。

「打者の攻め方の基本は、打者の技量、性格、癖を早く見抜いて裏をかくことだ」

「技量って?」

「うまいか下手かだ。性格は短気とか動じないとか気が弱いか気が強いとか無謀なことを平気でする、その反対の堅実派などで、癖はスタンスが広くノーステップで打ち抜く、スタンスが狭くノーステップで打つ、一歩ホームベース側に踏み出してクローズドスタンスで打つ、踏み出したステップが開いてオープンスタンスで打つ、ホームプレートに近く立つ、離れて立つなどだ」

「難しいね。やってみないと分からないかも」

「そうだな。しかし素振りを見ても分かるよ。例えばダウンスイングの素振りでヒティングポイントを通過する時、バットの先端が水平か上を向いているスイングをしている選手は、淳一のように握力、リストが強く正統派の打者でミートがうまいから要注意だ」

「ふーん」

「またスタンスが広くノーステップで振りぬく打者もミートはうまく高めでも低めでもきっちり当ててくるぞ。内角、外角へ交互に揺さぶりをかけるしかない。高めはのびのあるストレート、低めは変化球が有効だ」

「スタンスが狭くノーステップの打者は?」

「狭い分、構えからインパクトまでの時間がわずかに遅くなる。だからスローボールは厳禁だ。内角高めにのびのあるストレート、外角低めにストレートやカーブ等でバランスを崩させることが効果的だ。バットを長く持っている打者も同じだな」

「踏み出してクローズドスタンスで振りぬく打者は?」

「やっかいだぞ。腕力に自信がある奴だ。外角低めの球を強引に引っ張るぞ。裏をかけ。外角低めのフォーク、外角低めで外に逃げるカーブかスライダーだ。一番の弱点は踏み出した足元だ。内角低めのシュートかシンカーだ」

「ややこしいな。頭がこんがらがってきたよ」

 そう言って卓也がノートに絵を書き始めた。

 バッターとベースを書き、『くろーずど』と書いてベース上に球筋の曲線を書いている。

「そうだ、その通りだ。卓也は賢いな」

 淳平は驚いた。汚い字ではあったが、右打者の踏み込んだ左足元を打者側にくい込む球筋に、ひくめ、かーぶ、すらいだーと書いたのである。私の説明は右投手の場合であり、それをサウスポーの淳一に合わせ訂正して書いた卓也の理解度に驚いたのであった。

 それからは淳一が絵を書きながら、クイズ形式で淳平が質問をして淳一が答えていく問答が夜遅くまで続いていた。


         8


 翌日からの御船家は野球の話題一色になってしまった。

「カーブとスライダー、シュートとスクリューボールが投げ分けられるようになったよ」

「そうか、さすがだな。しかし百球程、投球が持続できるか」

「フルスイングでは投げたことがないけど出来ると思うよ」

「いい事を教えてやろう。調子のいい時はモーションに入った時、お尻優先で上がりバランスよく膝と足が上がるが、疲れが出ると膝が優先し形だけのモーションで後ろにふらついたりバランスを崩したりして、フルスイングが出来なくなるぞ。疲れた時は意識してお尻を打者の方に引き上げるようにしてモーションに入ると楽だ。覚えておくといいよ」

「うん」

「それからマウンドプレートの横幅は約五十センチ以上あるだろう。右端、左端を有効に使うとストレートも生きてくるよ」

「そうか。しかし三塁への牽制は難しいね」

「左ピッチャーの三塁牽制は難しいな。牽制の時に躊躇したら失敗の確立は右投手より高いな。牽制はベースめがけて投げるのが基本だが、左投げはそのベースに向って戻ろうとするランナーが邪魔なんだな。しかし睨むだけの牽制やプレートを踏んだままでの牽制の真似が出来るから走者もあまりリードが出来ないはずだ。心配するな」

「そうだよね」

「一塁走者への牽制球はプレートを踏んだままでもいいが、真似だけの時は必ずプレートをはずせよ。プレートを踏んだままではボークになるぞ」

「うん、知ってる。逹ちゃんに教えてもらった」

「今日もイメージトレーニングをやろうか」

「うん、やろう」

「一死一塁、右打者はバントの構えだ。得点圏内に確実に走者を送るつもりだ。さあどうする」

「内角高めのストレート」

「正解、昨日も言ったが高めは当たってもフライになる確率が高い。うまくいけばダブルプレーだ。内角高めストレートでツーストライクまで追い込んだが、まだバントをするようだ。さあどうする」

「ヒッティングに変えるかもしれないから、ダブルプレーを狙って低め内角に逃げるシュートか逆のスライダーを投げる」

「うん、ヒッティングに変えられたら淳一の言うとおりだ。タイミングが遅れることを見込んで速いシュートが有効かな。しかしお父さんならバントの構えの打者の右手を狙うボール球を投げるね。のけぞって腰が引けたら確実にファールでアウトだ」

「怖いなあ。バットに向って飛んでくる大リーグボールだね」

 卓也が目を丸くして言った。

「その通り。次は腰が引けているはずだ。そしたらもう一度ストライクゾーンぎりぎりの内角高めで脇の高さ、つまりストライクゾーン上端の高さに投げ込めば手が出ない確率が高い。見送り三振だ」

「ボールになってもツーストライク、ツーボールだね」

「次は、一死二塁、バッターは右打ち四番で確実にボールに当ててくる実力者だ。下手したら二塁走者はホームに突っ込むだろう。さあどうする。どこに投げる」

 御船家からは夜遅くまで淳一や卓也の笑い声が絶えなかった。


 翌日は土曜日、週休二日制の淳平の会社は休みで、淳平が淳一の帰りを待っていた。

「ただいま」

「おかえり。あらあら、今日も泥だらけ。今日もスライディングの練習があったの」

 直子も次第に野球用語を覚えてきたみたいだ。

「びっくりしたよ。ジャガーズには和泉小の野球部員が四人も居るんだって」

「いいから、動かないで。そこでユニフォームを脱いでよ」

「お父さん居る?」

「いるよ。淳一、先にお風呂入ったら」

 淳一は早く誰かに聞いて欲しい話したい一心である。淳一が帰ってきたことを察知して卓也も居間に下りてきた。

「お父さん、重大ニュース。明日の試合のジャガーズには和泉小の野球部員が四人も居るんだって。びっくりしたよ」

「四人ともレギュラーだったら和泉小との試合みたいだな」

「今日監督に、ジャガーズの監督から和泉小の野球部員四人を出すことと、塁審が一人都合つかなくて三人でする連絡があったんだって」

「審判は問題ないな。和泉小のメンバーは何年生だ」

「六年生が三人と五年生が一人らしく噂では皆うまいらしいよ」

「部活もやってジュニアチームでもがんばっているとは相当野球が好きなんだよ。要注意だな。しかし楽しみだなあ。ところで今日の出来はどうだった?」

「最高。仕上げのシートバッティング練習でランナーが一塁二塁の時、富木先輩から僕に変わったんだけど、坂田が左バッターボックスに入ったんだ。本来は右なんだけど左でもよく打つんだ」

「ライト線ヒットで二塁走者をホームに帰すつもりだな」

「ライトに引っ張られたら最悪だから、打たれても三遊間のゴロで二塁走者を釘付けにしてやるつもりでショートに入っていた立松に打たせる合図をしてから外角低めのカーブを投げたら、見送られたので二球目は外角低めにスライダーを投げたんだ。ストレートに見えたんだろうね。空振り。三球目は速いストレートを同じ場所に投げたら案の定、ボテボテのショートゴロで二塁は動けず。最高だったね」

「すごいな。さすがだ」

 淳平はうれしかった。一緒に遊び半分のクイズ形式でイメージトレーニングをしたことを応用して組み立てた攻撃的ピッチングの実践に脱帽していた。

「逹ちゃんも飛び上がって喜んでいたよ」

「キャッチャーをしていたのか? サインの取り決めはしっかりしているのか」

「打たせて取る合図をしたから、ほとんど逹ちゃんのサイン通りで相槌するだけだよ」

「野口君がリードしたのか?」

「うん、だって昼休みに僕のノートを見せて話をしているから考えが合うんだ」

 淳平は感激のあまり言葉が出なかった。

「お前のおやじは野球選手か、って言ってた」

「しかしお父さんは野球選手ではない。淳一の年頃に野球が好きだったことは確かだ。よく友達とああでもない、こうでもないと言って遊んでいたよ。中学の時はテニスをしたり陸上部の友達と一緒に走ったりしたけど長続きはしなかった。高校ではバスケットをしたがこれも長続きはしなかった。色々やっているうちに覚えたことは『シンプル イズ ベスト』『円はスポーツ全ての基本』そして『筋力の源は尻と尻の穴』この三つだ」

「お父さん、はしたない。『筋力の源は尻と尻の穴』って何のことよ」と直子。

 卓也が大笑いをしている。

「腹筋を締める時も背筋を締める時も、太ももを締める時も、また末端の握力を締める時もすべて尻の穴をキューっと絞って尻から腹、胸、腕、腕、握力と締めていくと楽に締まるよ。どんなに軽やかな動きの中でも尻の穴、尻の筋肉を締め上げておくと最大のパワーが出せるんだ」

「うそだー。信じられない」

「だまされたと思って練習してごらん」

「お父さんったら、いいかげんな事を教えないでよ。恥をかくのは子供達だから」

「いいかげんじゃないよ。私の長い間の経験からだ。尻が締まっていない奴は、つい手だけ足だけでバランスが悪くパワーの無い動きしか出来ないんだ」

「円がスポーツの基本と言うのは僕なんとなくわかるよ。後になって気づいたけど」

「そう、すべて後になってしか気づかないことだよ」

「シンプル イズ ベストって何?」卓也が聞いた。

「難しく考えずに、こうしたい、ああしたいと思ったらもっと簡単に出来ないかを考えていくと、すばらしい結果が生じる。そして、やっぱり単純が一番いいのだと気づくよ」

「それも今になって何とかわかる。投げ方にしてもストレートの投げ方で手を納める時の手の向きだけでカーブやシュートが投げられた時びっくりした。先輩のカーブやシュートより切れがいいんだ。不思議だった」

「その通りだ。普通ピッチャーの手からボールが離れる時、つまりリリースポイントと言うんだが、打者はそれを見て球種を判断する。しかしだ、淳一みたいにいつも同じフォームで同じタイミングで投げてカーブ、スライダー、シュート、スクリューましてやフォークまでしっかり握ってストレートと同じ投げ方をされたら的が絞れないと思うよ」

「お父さん、巨人の王選手は、飛んでくる球の縫い目が見えていたって話しを聞いたことがあるよ」

 卓也の目はらんらんと輝かせて質問をしてくる。

「お父さんが思うのは、王選手はリリースポイントでの見切りがはっきり出来て、仮にカーブだったら手から離れるポイントが早かったかまたは遅かったかまで見切ってそれなりの読みで球を迎えると思った通りのカーブの回転が見えたと思う。もしフルスピードで飛んでくる球の回転を見てカーブだと判断して打とうと思った時にはボールはすでにキャッチャーミットの中だと思うよ」

「そうか、新発見だ」と卓也。

「そうか、だから初めの頃は変化球を教えて欲しかったけど教えてくれなかったんだね」

「そうだな、第一に安定した投球フォーム。第二に安定した投球フォームから生じる安定したコントロール。第三に円を上手に使った体の回転のスピードアップに耐えられる体力と安定した投球フォーム。この三つが出来たら球は微妙な力の加わり方で変化し始める。その段階で意識的にその回転が起こるような投げ方をするとそのスピードで急激な変化をし始めるんだ」

「お父さん、尻の穴はどこで使うの?」

「卓也、お前何か勘違いして無いか」

 卓也と淳一の掛け合いに直子も吹き出してしまった。

「お父さん、分かったよ、バッティングも同じだね。第一に安定した打撃フォーム。第二に安定した打撃フォームから生じる安定したバッティングコントロール。第三に円を上手に使った体の回転のスピードアップに耐える体力と安定した打撃フォームだろ」

「その通りだ。卓也、すごいな。その通りだよ」

 卓也は名誉挽回のうれしそうな笑顔を作っている。

「はい、はい、食事を終えたらお風呂に入って早めに寝なさい。明日は大事な試合なんでしょう」

「はーい。お兄ちゃん一緒に入ろう」

「お前とか」

とは言いながらも淳一も楽しそうに部屋を出て行った。

 お風呂場から兄弟の和やかな話し声がいつまでも聞こえていた。



   試合当日の朝


 少年野球チームのジャガーズと大城小野球部の試合は晴天に恵まれた。和泉小野球部との対抗試合のちょうど二週間前の日曜日である。

 大城小野球部の対抗試合は夏休みの初めの頃と十月か十一月頃の年二回が恒例でジャガーズとの試合はひょんなことからすることになった。ジャガーズには大城小六年生の大野、五年生の小林と奥村の三人がいる。彼らは大城小の野球部に所属はしていたものの去年の大成北小との対抗試合以降、全く練習には来なかった。

今年三年生が二人新入部員として入ってきて部員数は十人になったが、六年生が三人、五年生が二人、四年生が三人、新入部員の三年生が二人では戦力不足として今年の対抗試合はとうてい無理だと誰もが考えていた。四月の半ば、淳一は同級生で友達の野口達雄から野球部への勧誘を受けた時、野球部の実情を聞き、同情と憤りから野球部に入った。その三人が所属するジャガーズからの練習試合の申し込みに対して淳一は和泉小の対抗試合以上に大野先輩がいるジャガーズには勝利したい闘志を燃やしている。

「おはよう。いい天気だね。最高の日和だね」元気な淳一の声だ。

「ここ数日、うだるような暑い日が続いていたじゃない。私はもううんざりよ。淳一の応援に行ったら日焼けして真っ赤になりそう」

「お父さんは」

「居間で新聞を読んでいるみたいよ」

「おはよう、お父さん」

「おはよう、気合が入っているな」

「うん、気持がいい朝だね」

「落ち着いていけよ。戦いだからな。周囲がよく見え、相手の挙動がよく見え、自分がよく見えていること。いいな。裏を返すと自分を見失うような事にならないこと」

「はーい。もう説教の始まりだ。顔を洗ってこよう」

 淳一の元気で明るい姿を見て淳平は安心した。

 しかし野球を始めてまだ三ヶ月に満たない。また初めての試合だ。ましてや大野先輩に対して憎しみに近い発言もあったと聞いている。自分を見失わないようがんばって欲しいと思う気持がつい口に出てしまった。


 十時の集合時間前には部員全員が大城小のグランドにそろっていた。キャプテンが各人に声をかけている。

「竹田、調子はどうだ」

「最高」

「石井、先輩達に負けるなよ。出番の時は六年も五年も四年も無いぞ。全員が野球部員だ」

「はい」

「御船、楽しみだなあ。たぶんキャッチャーは野口だろう。頑張れよ、名コンビ」

 野口も笑顔でこちらを見ている。

「よし、十時前だがランニングを開始しよう」

 監督が来る前からランニングが開始された。

 監督は既に来ており職員室の窓から部員達の様子を当直の宮田先生と一緒に見ていた。

「太田先生、学内では野球部の話題で持ちきりですよ」

「どういう話題だ」

「今年の対抗試合は戦力不足で無理だと言っていた先生がよくここまで育てましたね。感心しているんですよ」

「私はチームをまとめ、どちらかと言うとフォーメーションの練習を強化しただけだ。チームワークと連携プレーのな」

「しかしメンバーが新入部員の三年生二名を入れてやっと十一名と聞いた時はびっくりしましたよ。三年生と六年生とでは体力の差は歴然としている。技量だって三年生は初心者でしょう」

「宮田先生、五月の連休前までは私もそう思っていましたよ。ところが連休後にスーパースターが誕生しましてね・・・目の前で動く、走る、打つ、投げるそのスーパースターを食い入るように見て真似をした新入部員の三年生や少しは経験を積んだ四年生がみるみるうまくなっていった。私の力よりも見て覚えるスーパースターの影響はすごい物があった。いつしか彼は野球部員のヒーローになっていたね」

「そんな子がいましたか? 誰ですか太田先生」

「あの子だよ。三番目を走っている御船だよ」

「御船って水泳がうまい、走っても速い、あの御船君?」

「今年、四月の中ごろに入部してきたが野球はズブの素人だったな。思うようにならなくて悔しかったのだろう。連休前から特訓をやってたみたいだ」

「誰が特訓を?」

「彼の父親だった。たまたまこのグランドで練習しているのを見たんだ。すばらしい教え方だった。ダメ少年がみるみる上達していく姿を見ていたんだ。不死鳥が蘇えり羽ばたき始める姿を見たよ」

「太田先生はロマンチストですね。大袈裟だなあ」

「そうかなあ、小野先生に聞いてみなよ」

「小野先生も見ていたんですか」

「そうだ。私はその鳥の羽ばたきを見て対抗試合は例年通りやるべきだと思った。負けてもいい。必ずあのスーパースターと一緒に全員が全力で戦ってくれるだろう事を確信しましてね」

「それは初耳だな、あの御船君がね」

「連休明けの練習では全てにノーマルで野球選手の基本をマスターした模範選手になっていたよ」

「そりゃー楽しみですね。今日の試合の勝算はありますか」

「たぶん勝つだろう。万一負けたとしてもバネとなって和泉小との対抗試合は大差で勝てるだろう。そして三年生、四年生、五年生主体で六年生が三人しかいないチームに負けたことに、彼らは自分達の目を疑うだろうな」

「相当の強気ですね。そんなに御船の存在は大きいのですか」

「彼は、ストッパーとして温存しライトを守ってもらう。それともう一人、三年の時ジャガーズで基本を学び四年生から部員として活躍して守備、打撃共にバランスが取れている坂田も先発からはずす」

「バッティングではキャプテンの木下と肩を並べていると言われている坂田もですか」

「この二人は切り札だ。三年二名、四年三名、五年二名、六年二名で先発する。面白い試合になるぞ」


 監督がグランドに現れた時には部員達はストレッチも終わりそれぞれがキャッチボールをして体を慣らしていた。

「全員集合」

「おはようございます」

 全員の元気のいい挨拶でジャガーズとの試合の幕が切って落とされた。

「スターティングメンバーを発表する」

 全員の私語が止まった。

「一番センター赤城」

 赤城がガッツポーズをしている。バッティングがうまい四年生だ。

「二番ライト御船、三番ショート竹田、四番サード木下、五番キャッチャー野口」

 淳一と野口は「やったね」のサインを交わしている。

「六番セカンド立松、七番レフト石井」

 立松はどこかに駆け出したいような喜びのステップを踏んでいる。石井もガッツポーズをした手を淳一の方に向けて喜んでいる。

「八番ファースト坪井、九番ピッチャー高田」

 思わず坪井は高田の手を取って握手をしている。

「エース富木は二番手控え、坂田は全員の懐刀だ。チャンスの時は確実に勝負してもらう。ばてても富木と坂田が控えている。全てを出して戦え、いいな」

 淳一は坂田のことが気になった。同じジャガーズ出身だからはずされたのだろうか、そうではないだろう。そんな時、キャプテンの一言で淳一も坂田も平静を取り戻したのだった。

 キャプテンの木下が坂田の肩をたたき、

「坂田、俺たちの切り札だ。責任は重いぞ」

 短い言葉だったが監督やキャプテンの期待そして全員がうなずく光景に坂田の緊張は和らぎ笑みとなっていた。

「このスターティングメンバーは佐々木監督に連絡済みだ。続いてジャガーズのスターティングメンバーを発表する」

 また静まり返って監督の声だけがグランドに響いていた。

「一番ファースト小林、当校の五年。

 二番ショート堤、和泉小六年。

 三番サード滝川、和泉小六年。

 四番キャッチャー、キャプテンの大場、和泉小六年、和泉小のキャプテンでもある」

 どよめきが起こった。

「五番ライト神谷、和泉小五年。

 六番セカンド奥村、当校の五年。

 七番センター浅岡、上田小六年。

 八番レフト三宅、勝宮小六年。

 九番ピッチャー大野、当校の六年、

その他控えに上田小と勝宮小の野球部員が六名いるらしい。相手にとって不足無し。気を抜くな。全力で当たれ。全員の力で勝つ」

 どよめきはまだ続いている。

「小休止。十分間の休息後、ティーバッティングとトスバッティングに分かれて練習開始。その間に全員サインを再確認しておくこと。木下、徹底しておけ」

「はい」

 そう言って監督はマネージャーの斎藤に弁当調達の確認とスコアーブックをつけるよう指示している。

 小休止は監督の粋な計らいであった。サインは普段の練習で徹底されている。自分達のメンバー発表以上にジャガーズのメンバーに全員が驚きの気持でいっぱいであり、監督の話が終わるやいなや全員がまとまりのつかない話で休息どころではなかった。監督の気持は、彼らが今の発表で意気消沈する事は無いだろうが彼らの士気を上げる為にも彼らに短い時間を与え、お互いの気持を確認し合い試合に臨んで欲しい気持であった。

「和泉小の大場や滝川は去年、すばらしい活躍をしていたのを知ってるぞ」

「打順はまさしく和泉小との試合だね」

「大場、滝川以上に有名なのが勝宮小の三宅だ。噂らしいぜ」

「確か去年、滝川は控えのピッチャーじゃなかったっけ」

「相手は六年が六人、五年が三人か」

「彼らに勝ったら和泉小はちょろいもんだぜ」

「大野先輩はどんな投手ですか?」

「控えの投手は誰だろう」

「ファースト、セカンドは先輩の小林と奥村だぞ。坪井、立松、先輩に負けない働きを頼むぜ」

「お任せ。先輩に練習の成果を見せ付けてやるよ」

「強打者ぞろいだぞ。御船、赤城、石井、外野を頼んだぞ」

 小休止の十分間は彼らには短かった。しかし監督の意図は十分伝わったようである。

 マネージャーの斎藤はティーバッティング用のネットの準備を始めている。

「よーし。練習開始だ」


 ちょうどその頃、市民グランドではジャガーズの佐々木監督からスターティングメンバーの発表がおこなわれていた。

 対戦相手の大城小のメンバーが発表され始めると驚嘆というよりは憤慨のどよめきが起こり始めた。

「ピッチャーが四年生、どんな奴や大野」

 先発は御船だろうと予想していた大野は返事のしようが無い。真一文字に歯を食いしばっている大野は他の誰よりも悔しさを我慢していたのだった。

「三年、四年生を相手かよ。甘く見られたものだ」

 佐々木監督はこの状況はまずいと思い注意をうながした。

「大城小は戦力不足で恒例の対抗試合を諦めていたチームだ。しかし三年生と四年生の上達は目に見張る物があって体力的には劣るが野球のセンスは五年、六年生並だと聞いている。決して手を抜くな。もし軽く勝てると思うなら何点差で勝てるか各人予想をしておくことだ。それが今日の目標であり、下手をしたら痛い反省材料になるだろう」


 大城小のグランドでは十一時前頃から仕上げのシートバッティングが始まっており、ピッチャーは富木、御船、高田が交代で投げていた。監督の目は各人のバッティング、守備そしてピッチャーの調子を細かくチェックしていた。野口のリードもいい。左投げの御船とショート竹田がセカンドへ入る牽制のタイミングもいい。坂田のバッティングも五年生とは思えないほど腰が入ったすばらしいヒットを毎回連発している。高田も落ち着いていつもの調子で投げている。監督に不安要素は何も無かった。

「集合」

「ちょっと早めだが午前中の練習を終了して市民グランドに移動する。相手チームの練習を見るのもいい勉強だろう。ベンチは三塁側だぞ。弁当は市民グランドで食べる。市民グランドでの練習は食事の後、一時から三十分間、肩慣らし程度の練習をする。以上。片付けをして解散」


 その頃御船家では家の中をうろうろ歩き回っている卓也の姿があった。

「どうしたんだ、卓也。落ち着きなさい」

「お父さん、先発はお兄ちゃんと違うって言ってたけどお兄ちゃんピッチャーで出れるのかな」

「四年生の高田君が先発でエースの富木君と淳一が控えって言っていたじゃないか。心配なのか」

「うん、出番が無かったら大リーグボールが見れないし」

「出番が無かったら大城小が有利に展開している証拠だ」

「そうだよね、しかしせっかくあれだけ練習して耐えてきたのに残念だよね」

 卓也は家に帰ってきてからの淳一の自主トレを毎日のように見てきたのだ。バットを片手で水平に三分間、バットで柱相手に腰で押す練習三分間、一キロの鉄アレイを人差指と中指で挟んで一分間ぶら下げる練習。その他にも自主的に腹筋百回、背筋五十回、五キロの鉄アレイを使っての腕力の鍛錬、卓也も足の上に乗って腹筋の回数を数えたりして淳一の自主トレを応援していた。

「ピッチャーだけが野球じゃないよ。お父さんは守備、打撃の方がもっと期待できると思って楽しみにしているよ」

 卓也にとって淳平の言葉は以外であった。淳一の球は小学生には打てないだろうとお父さん自身が言っていたことを覚えている。なのに守備、打撃を楽しみにしていると言う意味が分からなかった。

「なぜ守備、打撃に期待するの?」

 淳平はどう返事したらいいのか考えている。

「そうだな、守備が悪ければ点を取られる。打撃は攻撃であり攻撃がうまくいくと点が入る。点が取れなくちゃ勝てないだろ」

「そうか、ピッチャーも守備だよね、それだけじゃダメなんだな。攻撃が無くちゃー」

「そうだよ。お兄ちゃんや皆がガンガン打ってくれると必ず勝ちだ」

「よし、行こう。お父さん行こうよ」

「お母さんは?」

「置いて先に行こうよ」

「お弁当を作ってくれてんだぞ。置いていくのか」

「うーん。早く行きたいな。お母さんに話してくる」

 結局、卓也の要求が通って卓也と淳平は一足先に市民グランドに行くことになった。

 市民グランドは家から歩いて十分位の距離である。大城湖畔に市が管理する市民グランドと、同じく市が管理している多目的広場として開放されているグランドが隣接している。

 ジャガーズの練習は多目的広場のグランドをよく利用しているらしいが今日は試合のため市民グランドを借りていたのだ。卓也と淳平が市民グランドに着いた時ジャガーズは仕上げのシートバッティングをしていた。

「わー、市民グランドは大きくてきれいだなあ」

「そうだね」

 淳平はジャガーズの練習に見とれて卓也への返事はうわのそらである。二人は三塁側ダッグアウト上方のベンチに腰を下ろした。

「卓也、あれが大野先輩かな。いい球を投げているぞ」

「速えー。むっちゃ速えー」

 確かに打者は球威に押されている。

 一通り見ているとキャッチャーが交代し打席についた。一球目は見送ったものの二球目は鈍い音がしたかと思うとセンターを越すナイスバッティングだ。

「ホー」淳平はおもわずため息をついてしまった。

 暫くすると大城小の野球部がグランドに到着した。監督が挨拶を交わしているのが見える。

「お兄ちゃん達だ。野口君もいる。オーイ」

 卓也が手を振り始めると淳一や野口君も気がつき手を振っている。

「かっこいいな。しびれるぜー」

 淳平には大城小の選手達がジャガーズの選手達に比べ、とても小柄に見えた。三年生と六年生では体格の差は歴然としている。一抹の不安を感じざるをえなかった。

 淳一たちは三塁側のダッグアウトの前でジャガーズの練習の様子を見ている。

「淳一、もう試合は始まっているぞ。敵の選手各人の癖を掴め、性格を掴め、技量を掴むのだ。大野投手の球筋とフォームの癖を早く掴め」

 淳平は心の中で淳一にエールを送っていた。

「御船、あれが和泉小の強打者、滝川だよ」

 木下キャプテンが指差す選手が左バッターボックスに向っている。ひときわ体格がいい選手だ。

「そうだ。滝川だ」

 淳一の傍で野口も去年の試合を思い出したようだ。淳一は食い入るように見つめている。

 一球目は高めの速い球。見送った。

 二球目は変化球だ。遅い。ダイナミックな振りから強引に引っ張った球はライトの頭上を越えた。

「やるなー。力みすぎだな」坪井が言った。

「関取、体格でも負けてるぞ」

「富木先輩、それは無いでしょ。相手は六年生ですよ」

 みんなに笑いが起こった。

 マネージャーが弁当と飲み物を配って食事が始まった。ジャガーズの練習を見ながらの昼食は余裕の昼食なのだろうか、遠足気分の昼食なのだろうか、淳平は複雑な気持で見ていたのだった。

「お母さん遅いね」と卓也が見回していると直子がやってきた。

「こんな所にいたの、バックネットの裏が特等席じゃないの」

「そうなんだがバックネットの裏に三人がいると目立つし、淳一が気になって嫌じゃないかと思って」

「あら、あら、優しいのね。淳一はそんなに繊細かしら」

「それより、弁当を食べようよ」

「大変だったわよ。車で運んできたわ」

「ごくろうさん」

 直子はパラソルを広げ始めた。

「お母さんはさすがだな。用意がいいよ。日陰が出来て助かった」

「お父さんはこの傘ね」

 淳平は黒の雨傘をさして三人の楽しい昼食が始まった。

「あっ、お兄ちゃんだ」

 昼食の途中、淳一がダッグアウトから出てきた。

「卓也、お父さんに」と声をかけてしたて下手投げで白いものを卓也へ投げた。

 慌てながらも卓也はナイスキャッチ。

「お父さん、何?」

 手渡された物は、紙を丸めたものであった。

 紙をほぐし開けて見ると、小さな石に紙が丸められてあり、その紙には淳一のチームのスターティングメンバーが書かれている。

「あら、淳一も粋な事をするのね。紙と鉛筆を持って行ってたのかしら。小石はどこで拾ったのかしら。お父さん、試合が十倍面白く見れるね」

「お兄ちゃんは、二番ライトだね」

「うん、次ぎの対抗試合のために各人の評価、意見が聞きたいのだろう。のんびり見ておれないぞ。責任重大だな」

と、言いながらも淳平は、淳一のこの余裕と気配りを頼もしく思っていた。

 昼からの各チームの練習はキャッチボールや監督のノックで守備、送球、転送の練習程度で終わり、そして両監督から集合の掛け声がかかった。



  試合開始

    1


 勢いよく走りホームベースに集まる選手の姿を見て、今から始まる。今からすべてが始まる。自主トレーニングの成果が、毎日の練習の成果が、そして勝つための戦いが始まる。つい昨日のようだ。ゴールデンウイークの前の週から淳一と始めた初歩からの練習光景が走馬灯のように頭の中を駆けめぐり、淳平は自分の事のように緊張し始めていた。

 大城小野球部とジャガーズのメンバーが二列に並び主審からの話を聞いている。

 主審は先攻と後攻および試合は七回までで延長は十回までと言い渡した後、塁審が一名欠けた事のお詫びと、一塁と三塁、主審の三名で公正な審判をおこなう事を宣誓し、そして試合開始を宣言した。

「お願いします」

 両チームの元気な挨拶の後、大城小野球部はダッグアウトの前で円陣を組んでいる。

「監督からの伝言だ。まずは落ち着いて力まず大野の球にタイミングが合わせられるかだ。まぐれの長打より確実に合わされる方が相手には恐怖だ。まず恐怖感を与えること」

「よっしゃー」

 赤城がバッターボックスに向かった。四年生とは思えないほどの自信ある風貌である。

「プレイボール」

 淳平の頭の中ではサイレンが鳴っている。まるで自分が選手としてバッターボックスに立っているような錯覚を覚えた。

「お兄ちゃんがネクストサークルにいるよ」

 淳平は大野がどんな球で攻めてくるのか第一球目を楽しみに見ている。「たぶんストレートで体を起こしにかかるだろう。そして赤城は一球見送るだろう」

 大野の一球目はゆったりとしたフォームから余裕を持った様子見の投球である。

 しかし思わぬ展開に悠長に構えていた淳平の予想は吹っ飛んでしまった。

鈍い音を残して球は三遊間を抜く痛烈なヒットである。

 ダッグアウトから大歓声があがった。

「やったー、凄いな。次ぎはお兄ちゃんがホームランだ。ガンバレー」

 開始直後の第一球目からのヒットに卓也も大喜びだ。

「そうだ。ビデオ、ビデオ」と言って、直子がビデオを用意した。

「お母さん、さすが準備がいいな」

「そうよ、何もかも私に持ってこさせてあなた達は何も持たずにいつのまにか居なくなるのだから大変だったのよ。充電は昨日しておいたし、四十五分用のバッテリーを二個持ってきたわ」

「ごめん、ごめん」

 恐縮している淳平にビデオが渡された。

卓也が「カメラ。はいどうぞ」

「参った。参った」

 卓也も母親の気配りに感心している。

 淳一がバッターボックスに入る。

 大野の目の色が変わった。うかつだった。四年生の赤城がまさか一球目から打ってくるとは思わなかった。次ぎは御船か、打てるものなら打って見ろ。

一球目、スピードに乗ったシュートがど真ん中から内に食い込んできた。

「ストライク」

 淳一は考えていた。「いい球だ。自信があったのだろう。もう一度来る。必ず来る。練習の時にも投げていた球だ」

 淳一は打つ気十分であったが監督のサインが「ヒッティングからバントに変えろ」だった。得点圏の二塁に赤城を進める作戦だ。

 二球目は淳一の予想通り、またシュートである。淳一はすかさずヒッティングからバントに切り換えて、みごと一塁側に転がした。

 これには大野も慌てふためき一塁への送球がやっとであった。

 淳一はギリギリでアウトになったが赤城は二塁に進塁している。大城小のダッグアウト内がしだいに賑やかになってきた。それとは対照的にジャガーズのバッテリーはワンアウト二塁、打者は三番六年の竹田、四番キャプテンの木下と続くことに焦りを感じ始めている。キャッチャーの大場がマウンドの大野に駆け寄り話しかけている。大場は和泉小のキャプテンでもある。

「落ち着いていこう。一点、二点はハンディーだ。いつでも取り返せるぞ。リラックスして堂々と勝負しようぜ」

 大野はうなずいたが投げ勝つつもりでいた御船にバントをされ、軽くいなされた事が悔しかったのであろう。

 三番は六年生の竹田、強打を警戒して外野は深い守りに変更している。

「卓也、面白くなってきたな。初回からの攻防か。点が取れるか取れないかの重要な場面だな。点を取れなかったらジャガーズは勢いづくぞ」

「大丈夫、ホームランで二点入るよ」

「卓也は楽天家でいいね」直子が笑って観戦している。

 第一球目外角低め「ストライク」

「三年、四年生では手が出ないな。いい球だ。竹田君は狙っているぞ」

 二球目、速いストレート、「ファール」

「惜しかったね」

 三球目、外角「ボール」

 四球目、「カーブだ。勝負をかけたな」

 なんとバントだ。球は三塁線近くをコロコロ転がり止った。

「おみごと」淳平は声が出てしまった。

 勝負をかけたのは大城小のほうであった。バントに自信が無ければツーストライクに追い込まれてからあんな真似は出来ない。サードの和泉小六年の滝川は、ボールを拾っても二塁を飛び出していた赤城の進塁を食い止めるのが精一杯であった。滝川が苦虫をかんだ顔は大城小のナインや三塁ダッグアウト上のベンチから観戦している淳平達にも見られた。

 ワンアウト一塁、二塁でバッターはキャプテン木下。

 キャッチャー大場のサインに大野はうなずき第一球目を投げた。

 打った。泳ぎながらも一球目を軽く振りぬいた球は右中間を抜くヒットだ。

「うまい。すばらしい攻撃だ」

 ヒットエンドランがかかっていたのか赤城はすばらしいスタートを切っており、ライトが球に追いついた時には、すでに赤城は三塁を回っていた。

「いけー、つっこめー」

 淳平はビデオ撮影どころでは無く、右拳を上げて立ち上がって応援している。

 大歓声が上がった。赤城の生還だ。ナインから、もみくちゃにされながらも飛び跳ねて喜んでいる。

「木下君のバッティングが良かった。低めの外角に逃げる球をすなおに柔らかいスイングで捕らえたのはすばらしい。りきみも無い、これは面白い試合になるぞ」

「お父さんたら、まだ相手の実力も見ていないうちから調子に乗っていると、後でショックが大きいわよ」

「まだワンアウト、二塁、三塁だぞ。次は野口君だ」

 淳平の立ち上がっての応援振りに、卓也はお父さんの知らない一面を見て、自分とあまり変わらないなと、親近感を感じたものの、顔は呆れ顔で淳平の顔を見上げている。

 野口に対し、第一球目「ボール」内角高めのストレートだ。

 野口は監督の方をチラチラ見ている。スクイズ、ヒットエンドラン、粘ってフォアボールで満塁策といろいろ考えられる場面だ。サインは出ていない。

 二球目「ストライク」内角低めぎりぎりだろう。野口は見送った。

 サインが出た。「内角高めストレート打て」だ。野口は狙った。

 三球目、打った。軽く確実に振りぬかれた球はライトフライだ。

「浅いぞ・・・タッチアップは無理か」

 淳平は身を乗り出している。

 ライトの神谷がボールを取った。

 タッチアップだ。竹田が猛然とホームにダッシュした。

 見事な返球だ。ワンバウンド。竹田が飛んだ。タッチ?? 「セーフ」主審の大きな声がグランドに響いた。

「うおー」

 ダッグアウトを飛び出し喜んでいる大城小のナインを監督とマネージャーが制止している。

「すごい。格闘技のよう」直子も興奮を隠しきれない。

「いい返球だった。返球のタイミングはアウトだったが、球がベース一つ分右にそれたためほんのわずかタッチが遅れたんだ」

「返球がベースより三塁側にそれていたらアウトだったんだね」

「その通りだ。キャッチャーはランナーをブロックして楽にタッチアウトだね」

 立松がバッターボックスに入った。

「立松君はね、鼠小僧ってあだ名だよ。体は小さいけど走るのが速いんだって」

「塁に出ると面白くなるね。四年生か・・・」

 ツーアウト三塁、第一球目、低めの速いストレート「ストライク」

 立松が監督の方を見ると「肩をリラックスして軽く振れ」と監督自身が肩を上げ下げして、ゆったりと打つ格好をして指示している。

 二球目、カーブ「ボール」

 三球目、低めのストレート。

 打った。ショートの左、堤が大きく左足を踏み込み捕球し、一塁アウト。

 戻ってくる立松に監督が言った。

「ナイスバッティング。大野のストレートが打てたじゃないか。それも三遊間に」

 立松は嬉しかったのだろう。笑顔でうなずき守備の準備に走った。


 一塁側ダッグアウト前に佐々木監督を中心に円陣が組まれている。

「さあ今からだ。皆の動きはいい。大野のコントロール、伸びもいい。ちょっとバント、バントで振り回されたな。バントは今後も続くだろう。要注意だ。よし攻撃開始」

 マウンドでは高田が投球練習をしている。

「四年生と聞いていたが見るとやはり小さいな」

「お兄ちゃんを出せばいいのにね」

「うん、監督に何か考えがあってのことだろう」

 一番小林がバッターボックスに入った。

「あれ、お兄ちゃんの野球部の人だよ」

「そうか、うわさの子だな」

 第一球目、内角高め「ストライク」

「ほう、やるじゃないか」

 柔らかいフォームから素直な球を投げてくる。御船の弟子と言われるだけあって右投げではあるがよく似ている。

 サインにうなずき、二球目外角低め「ボール」

 三球目、カーブ、球速がない。「ストライク」

 小林が空振りだ。

「ヒャツとしたな」

 四球目、内角高めストレート。打った。大きい。御船が全速力でバック。振り向いた。取った。

「あー、怖。心臓に悪いわ」と直子。

 淳平が珍しく口を閉じている。完璧だ。着地点への回り込み、振り向いて余裕のキャッチ。淳一と二人でやった練習を思い出していた。


「ばかたれ、後ろ向きでバックする奴がいるか。どの辺に落ちるか予想して先回りだ」

「フライを追いかける時、飛球線の真下を走るな。球を見失うぞ。左利きだから飛球線の左側に入れ。取り易いだろ」

 走りながら、前につんのめりながら、振り向く余裕も無く、バックハンドで捕球する姿を思い出していた。


「野球をやり始めてからまだ三ヶ月か、よくがんばったなあ」

「あら、何を感激しているの。先程までの講釈が出ないのね。静かでいいわ」

 ハッと我に帰る淳平であった。

 和泉小の堤がバッターボックスに入った。

 第一球目「ボール」

 二球目、野口はもう一球外角低目のボール球を要求した。

 第二球目、浮いた。打った。痛烈な当たりは三遊間を抜けた。レフト石井の好プレーにより堤は二塁への進塁が出来なかった。

「ナイス、石井」

 石井が拳をあげ答えている。

 三番滝川が左バッターボックスに入った。中学生かと見間違う程、体格がいい選手だ。ライトとセンターが深い守りをとった。

 第一球目、「ボール」余裕が見られる。

 二球目、「ボール」引っかかってこない。

 三球目、打った。強烈な打球はセカンドの頭上を越えヒットだ。御船と赤城が走る。

 俊足の堤は二塁を蹴って三塁に向っている。

 御船が大きく円を描きながら走り込み捕球した。投げた。

 サードをめがけて山なりの球だが、確実に木下キャプテンに向っている。

 三塁コーチ役の神谷が「スライディング」と大声を上げている。堤は、まさかとは思ったがヘッドスライディングだ。伸ばした腕が三塁ベースに付く寸前にタッチされてしまった。

「アウト」

 一瞬の静寂の中、気合の入った塁審の声だけが響いた。

 木下が無言でガッツポーズをきめた。こうなることを予期していたような余裕だ。

 太田監督は立ち上がってゆっくりと手を叩いている。

 ジャガーズの佐々木監督は腕組みをしたまま「打った瞬間走り出した感の良さ、体は傾斜しながら大きく回りこみ、ボールが着地する前の確実なポイントに入り、低い姿勢から投球フォームに入った流れるような動きに、そしてあのコントロールは」ただ者ではないと直感したのは監督だけではなかった。無言のままネクストサークルにいる和泉小キャプテンの大場と目を合わしていた。

 ツーアウト二塁、大場がバッターボックスに入った。

 野口は流し打ちをさせて御船で討ち取るか、三遊間のゴロでキャプテンか竹田先輩に討ち取ってもらうか考えていた。

 サインが決まり、第一球目ストレート。低い「ボール」

 二球目、内角低めストレート「ストライク」

 三球目、打った。

「よっしゃ」と叫んだのは野口だった。ど真ん中から内角低めに入るシュートだ。三遊間のゴロを打たせたかったのだろう。

 痛烈な打球は、三遊間、木下が横に飛んだ。ワンバウンドをキャッチ、起き上がるやいなや一塁へ送球。

「アウト」

 予想外の強烈な当たりに野口はびっくりしたが、キャプテンの捕球後の処理のうまさに打球が速かったのも手伝いアウトに出来たことで、ホッと胸を撫で下ろしていた。


  2


 二回表の大城小の攻撃は、七番石井がピッチャー返しのヒットで出塁したが、八番坪井は送りバントが相手に読まれ、ダブルプレーとなってしまった。

 九番高田も快音を残すいい当たりだったがセカンド真正面でアウトになった。

 二回裏のジャガーズの攻撃も打撃では大城小に勝る物だったが、センターフライ、ショートゴロ、レフトフライと三者凡退で終わった。


    3


 三回の表、大城小の攻撃は打順良く一番の赤城からだ。

 ジャガーズのメンバーは相手チームを甘く考えていたことに気づき始めた。自分達より低学年の三年生、四年生が五人もいるチームから点が取れない。ましてや相手のピッチャーは四年生である。マウンドの大野にしては相手チームの下位打線を四人で抑えたものの、三振で討ち取ったわけではなく、まだ三振を一人も取れないことに苛立ちさえ感じていた。

 赤城がバッターボックスに入る。

 大野が牙をむいてきた。二球ともストレートで臭いコースを攻めてツーストライクと追い込んだ。

 ジャガーズの選手から野次が飛んでいる。

「どうした。田んぼのかかしか」

 三球目カーブだ。赤城が振った。

「カーン」ピッチャー返しのヒットだ。

 監督がうなずきながら呟いている。

「やりおるわい。球威が落ちるカーブを待って打ったか。大野は投げる球が無くなるぞ」

 淳一がバッターボックスに入る。

 大野は御船の立つ位置が第一打席の時よりベースからやや離れて立っていることに気づいた。ダブルプレー狙いで内角低目を狙うつもりであった大野は、御船がそれを逆に狙っているように思え、苦虫をかんだ。あの体勢から送りバントはないだろう。打ってくるつもりだな。それなら勝負だ。

 第一球目内角低め「ボール」

 二球目、大場のサインは真ん中低目から内にくいこむシュートの要求だ。うなずいて自信の球を投げた。

 淳一のスイングが始まった。それはスローモーションのようにゆったりとしたスイングで腕が伸びてきたインパクトの瞬間からバットがうなりを上げた。

 おもわず立ち上がったキャッチャーの大場は呆れた顔をして球の行方を追っている。

 ダブルプレーシフトを敷いて、やや浅く守っていたライトとセンターが球を追う体勢に入った時、球は既に右中間を越えていた。

「やったー、ホームラン、ホームランだ。お父さん」

 卓也が淳平の顔を見たが淳平は身動き一つもせず目が据わっている。

 我に返った淳平が首を縦に振りながら「うん、うん」と相槌するだけだった。

 淳一は一気に三塁に向った。やっとボールが帰ってきた時には淳一は三塁に立っていた。

「きゃー、御船君」

 突然淳平らの後ろから金切り声が響いた。

 淳平、直子、卓也が振り向くとそこにはトレーニングウエアー姿の女子生徒が五人、悲鳴に近い声を上げて応援している。

 突然の女性の応援にダッグアウトから飛び出てきたマネージャーの斎藤明美に向かって大声で話しかけている。

「明美、なぜ教えてくれなかったの。昼から体育館で練習していたら当直の宮田先生が「応援に行かないのか」って。びっくりして飛んできたの」

「陽子、ありがとう」

 大城小の即席応援団だ。

 それからの三塁側ベンチは賑やかで華やかになったが、淳平の鼓膜はひどい振幅に耐えながら野球の観戦をする羽目になり、さすがの卓也も圧倒されていた。

 三番竹田はショートライナーで淳一は動けなかった。

 バッターは四番キャプテンの木下、ジャガーズにも緊張が走る。犠牲フライでも点が入る場面だ。長いサイン交換の後、第一球目、低めのストレート、その瞬間またもや意外な事が起こった。

「スクイズだ。しまった」四番のキャプテン木下にスクイズバントだ。球はピッチャー方向にコロコロ転がっている。大場は三塁を見た。既に御船はスタートを切っている。

 大野が突っ込んでくる。淳一が突っ込んでくる。直子は下を向いて手で顔を覆ってしまった。淳一が飛んだ。大野が走りながらグローブで球を拾い、そのままグラブトスプレー。

 大場がタッチ・・・・・「セーフ」

 大場は二塁へ牽制、木下は一塁にとどまった。

「きゃー、御船君」

 大野の走りながらのトスプレーも見事だったが、淳一のヘッドスライディングが一瞬早かった。

 直子が顔を上げた時には淳一は立ち上がっていた。

「どうだったの、けがしなかったかしら」

 淳平と卓也がおもわず顔を見合わせて大笑いしている。

「聞こえなかったのか「セーフ」の声が」

「よかった。女の子の悲鳴で聞こえなかったの」

 直子はホッと胸を撫で下ろしている。

 誰も予想しなかった。一球目からスクイズとは。ましてや御船のあの当たり、竹田のショートを襲った強烈な打球、その後の四番キャプテンに一球目スクイズの攻撃指示が出るとは。

 佐々木監督以下ジャガーズのメンバーは、確実に点を稼ぐ太田監督の采配も脅威であるが、それを確実に成功させる選手の動きに、ただならぬ恐怖感を感じ始めていた。

「お父さん、四対ゼロだね。すごいね」

 興奮気味の卓也の声を聞いた応援団の速野陽子は我が耳を疑った。

「うっそー、四対ゼロ、ほんと?・・・みんな聞いて四対ゼロだって」

 歓声とも悲鳴とも思われるけたたましい応援の声があがった。

「フレー、フレー野口」

 野口が応援団の方に腕を挙げて答えている。大城小ナインに余裕が出始めた。

 一球目見送り、二球目打った。三遊間抜けるか? ショート真正面、堤が取って二塁へ「アウト」二塁の奥村すかさず一塁へ「アウト」

 ダブルプレーになってしまった。

「あのショート、うまいね」

「ショート、サードともにうまいな」

 野口君のことだけに、残念そうな二人であった。


 三回の裏、太田監督が主審に選手交代を告げている。

「ピッチャー高田に代わって富木」

 主審から大声で告げられた。

「お兄ちゃんに交代するのかと思った」

 淳平も淳一のマウンド姿を期待している。

 バッターは三宅、勝宮小六年生。

「でかいな」

 卓也の言うとおり、ひときわ背も高く幅もある。腰、太ももの大きさも鍛え抜かれた感がする。

「怖いな。監督も警戒したな」淳平も思わず唸った。

 外野も相当深い守備をしいている。

 富木と野口が慎重にサインを確認し第一球投げた。

「ストライク」

 余裕を持って見送った感がする。

 野口は外角低めにはずれるカーブを要求した。「ボール」

 手を出さない。野口は揺さぶりをかけた。内角低めストレート「ボール」

 不気味な時間が流れている。

 野口はいざとなれば歩かせてもいいと思い、もう一度外角低め外に逃げるカーブの「ボール」球を要求した。

 富木が投げた。「甘い」内過ぎる。

「カーン」打った。でかい、大きな放物線を描きセンターを越えた。赤城が猛烈にバック。

御船と石井がフォローに走る。

 赤城が球に追いついた時には既にランナーは三塁を蹴っていた。

 ジャガーズのナインが沸き立っている。

「ホームラン、ホームラン」

 ホームインした三宅選手はナインからの頭たたきの洗礼を受けている。

「すげー、あれで小学生かよ、和泉小の選手だったら悲劇だね」と卓也。

「そうだな、すばらしい選手だ」

「ドンマイ、ドンマイ、締めていこうぜ」

 キャプテンの声に大城小のナインも我に返ったようだ。

 バッターは大野、大城小同士の対戦だったが軍配は富木にあがった。太田監督は三振した大野を見て去年の対抗試合では五年生ながらエースとして、またバッティングでも活躍し期待のエースだったことを思い出し口惜しい顔を隠しきれなかった。

 続く一番も大城小の小林だ。監督の目はジャガーズでの彼らの練習結果が気がかりで目はピッチャーの富木のことより野球部を離れてジャガーズに席を置いている大野、小林、奥村のことが気がかりであった。真摯な気持で帰ってきて欲しい。野球の楽しみを苦しみを、そして感動を先輩、後輩一丸となって感じて欲しい。

 残念である。小林もセカンドゴロで後輩の立松にうまく処理されてしまった。

「お父さん、バッターはあのうまいショートの人だよ」

「そうだな」

 堤がバッターボックスに入った。

 さすがに大城小のエース富木だ。堤が苦労している。ツーストライクワンボールと追い込まれている。

 野口は堤の好みはど真ん中やや高め、と読んでいた。内角高目から外角へ落ちていくカーブを要求した。「球速がやや遅い分、必ず食いついてくる、打たれても左翼フライだろう」と山を張った。

 振った。空振り。三振だ。

 野口と富木のガッツポーズがきまった。

「富木先輩はさすがエースだね。決める時は決めてるよ」

「うん、そうだね」と言ったものの淳平は一抹の不安を感じていた。

 カーブの時、シュートの時、ストレートの時、微妙に腕の振り方、出て来方が違っている。コントロールが乱れたら球種が読まれて狙い打ちされる危険性であった。

 淳平の予想は四回の裏に的中してしまったのである。


   4


 四回の表は大野の変化球にも切れ、凄みが出始め三者凡退に終わっていた。

 四回の裏の攻撃は三番、四番、五番と和泉小の選手がそろっている。二番も和泉小の堤であったが、前回誘い球に釣られ討ち取られていた。

 左バッターボックスに滝川が入った。

 富木は野口のサインに納得し内角高め、滝川の体を起こしにかかった。「ボール」

 滝川は胸をかすめる速い球にわずかに肩を引いただけでほとんど動じていない。

 野口は外角低めシュートを要求した。

「シュートだ、読まれた」淳平は思わず叫んでいた。

 ボールがピッチャーの手を離れた瞬間、滝川は一歩大きく足を踏み出し低い態勢から流し打ちの要領でヒッティング。変化する直前の球を捉えていた。

 センター前に抜けてヒット。

 四番キャプテンの大場がバッターボックスに立った。

 バッテリーのサインは三遊間に打たせてダブルプレー狙いである。内角を執拗に攻める作戦だ。ワンストライクツーボール、三球目内角低めの要求が球二つ分、中にずれた。打った痛烈な当たりはセカンドの横を抜きヒット。バッテリーは冷や汗をかいた。

 五番神谷、討ち取るか打たれても三遊間ゴロで走者を釘付けにして進塁を阻止しなければならない。内角低め攻めである。

 一塁側への送りバントも考えられる。内野は浅めのシフトを敷いた。

 ツーストライクスリーボール、誘い球にも乗ってこない。

 六球目、伸びのあるストレート、「入った」

 野口の声も虚しく主審の判定は「ボール」

 フォアボールでノーアウト満塁、最悪の状態になった。

 六番奥村、大城小の五年生で富木は奥村の癖を知っている。彼は打つときステップを開いて内角球を強引に引っ張る癖がある。

 内角高めのストレート、または外角低目のストレートかカーブ。しかし内角高めは犠牲フライになる確率が高い。避けるべきだ。「よし、外角低め狙いだ」野口とのサイン確認も出来た。

 一球目「ストライク」二球目「ストライク」執拗に外角攻めである。三球目ストレート。

 打った。セカンド立松、拾ってすばやくバックホーム。「アウト」やっとワンアウトだ。苦しい場面だ。息が抜けない。

 七番浅岡がバッターボックスに入る。

 富木は上田小の浅岡がどんな選手なのか知らない。一回表の様子を見ていただけだ。

 一球目は内角低め「ストライク」

 この窮地を何とか凌ぎたい。野口もサインを送る。

 内角低め「ボール」

 ど真ん中低め「ボール」

 外角低め「ボール」高めは怖くて投げられない。カウントはワンスリー。

 内角低め「勝負」息が詰まる戦いになった。

 打った三遊間抜けた。

 浅く守っていたレフト石井の好プレイ。バックホーム。しかし三年生の石井の返球をサードのキャプテンがカットした。木下はクロスプレーでの万一のことを考え、一点は仕方がないと考えたカットだった。そしてナインに声をかけた。「これ以上、点はやるな。死守しろ」

 八番三宅がバッターボックスに入るのを見たナインは、前回のホームランが頭から離れず思い出して身震いをしている。

 ホームランを打たれたら四対六になり、一気に逆転されてしまう。何とか四対二で食い止めておきたい。

 身震いをしたのはナインだけではなかった。

 その時であった。太田監督が主審に選手交代を告げた。

「ピッチャー富木に代わり、御船、ライト御船に代わり、富木」

「キャー、御船君」応援団の黄色い声だ。

「兄ちゃん、人気があるな」

「男前だからよ」と直子の的がはずれた返答に「アチャー」と声をあげ首をかしげる卓也だった。

 富木がホッとしたような顔で淳一に言った。

「御船、見せてくれ、頼むぞ」

 淳一はうなずき、投球練習を始めた。

 柔らかいフォームで投げる淳一の姿に、先程のライトからサードへの信じられない好返球がどのような形の投球になるのか、佐々木監督以下ジャガーズのメンバーは釘付けで見入っている。勝宮小六年の三宅はチラッと見ただけで素振りに余念が無い。

「プレイボール」主審の合図だ。

 ワンアウト、フルベースで再開だ。

 野口のサインに淳一はうなずいた。

 第一球、ゆったりとしたモーションから膝が上がった。大きく踏み出し低い体勢から流れるようなフォームだ。投げた。

 ど真ん中ストレートだ。違う落ちた。振った。「ストライク」

「うおー」歓声にならない、どよめきが流れた。

 フルスイングした三宅のバットはうなりを上げた。

 野口が三宅の方を見ながら二歩、三歩前に歩き出しての返球は余裕のポーズである。

 市民グランドは静まり返り御船の次の球を待っている。

 野口のサインは決まった。

 二球目、まったく同じタイミングとフォームから球が伸びてくる。

 ど真ん中ストレートか。三宅は狙った。フルスイング。曲がった。沈んだ。「ストライク」

 市民グランドに主審の声だけが響き渡る。

「スクリューか」佐々木監督が呟きながら髪をたくし上げている。

 三球目、投げた。内角高め「ストライク、バッターアウト」

 手前からのび上がってくるようなストレートに三宅は手が出せず見送りの三振であった。

 市民グランドは静寂が破られ、どよめきと歓声がこだまし、応援団の中には興奮のあまり泣き出した者もいる。

 卓也も淳平もまだ何も言えず感動の中に浸っていた。

「三振取ったのよね。そうよね」興奮した直子の声に卓也と淳平は顔を見合わせ我に戻った。

 淳一が富木先輩の方を振り向くと拳を上げガッツポーズでエールを送ってくれている。

「ツーアウト」キャプテンの声が飛んだ。

 九番は大野、しかし佐々木監督が動いた。

「代打、勝宮小六年、緒方」

「切り札を出してきたな」太田監督は予想通りの展開に満足しているようである。監督はジャガーズのメンバー表を見た時に、控えの投手に勝宮小の緒方健二がいることを知っていた。噂では打者としても三宅と肩を並べているとの事だ。

「この満塁のチャンスを生かす為にも緒方を出してきたな。面白い勝負になるぞ」

 太田監督は内野、外野手共に深い守備配置のサインを出して「ツーアウト」と一言大きなかけ声をかけた。

 サインに従いジリジリと後方にさがるナインの動きにグランド内は不気味な雰囲気に包まれていった。

 淳一も監督の動きから判断して三宅以上の打者だろう察しはついた。野口の要求は様子見の外角低めのストレートだ。

 第一球目、投げた。淳一も軽い気持でゆったりと外角低目を狙った。

 打った。ライト側のベンチに飛び込む大きなファールだ。

 野口は「あそこまで持っていくか」と予想外のあたりに首を振りながら主審から渡された新しいボールを淳一に返球している。

 野口の考えは変わって「先制攻撃、度肝を抜いてやれ。サインはこれだ」

 二球目、淳一の踏み出しが大きくなった。尻がマウンドに擦れるような低い姿勢から飛び出した球はど真ん中のコース。

 緒方が動いた。強打か。球は打者の手前で急激に曲がり沈んだ。

 空振り「ストライク」野口は緒方が唸っている声を聞いた。確実に捕らえたつもりだったのだろう。

「スライダーか・・・」手の施しようが無いと言わんがばかりに佐々木監督が髪をかきむしっている。

 依然、市民グランドは静まりかえっている。

 大城小にとっては逆転されるのか、抑えきるのか、祈りさえ聞こえてきそうな静けさだ。そんな緊張感が張り詰めた中、投げる、打つお互いの攻撃が繰り広げられていた。

 野口のサインは強気だ。フォークを要求してきた。

 淳一はうなずき投げた。またもやど真ん中のやや高め真っ直ぐ、うち頃の球だ。

「必ず振ってくるだろう」と緒方の意地を読んだ野口の勝ちだ。緒方が触手を伸ばした。

 振った。落ちた。

「ストライク、バッターアウト」

 悲鳴に近い歓声とどよめきの中、「あれが小学生の球か?」佐々木監督は一言残しダッグアウトを出て円陣を組みナインを励ましている。

 木下が竹田が、そして立松が大声を上げながらマウンドの淳一に駆け寄り肩を叩き合い、一点は取られたものの大ピンチを脱出したことを喜び合っている。

 勢い良く走って帰って来た大城小ナインの顔には笑顔が満ちていた。


   5


 四対二で迎えた五回の表、大城小は九番、富木からの攻撃だ。

 緒方がマウンドで軽い投球練習を済ませ、試合が再開された。

 緒方はどんなピッチャーだろう。興味津々であった大城小ナインであるが、第一球目にとんでもない光景を目の当たりにしたのだった。

 第一球目、胸を大きく張ったモーションから豪快なフォームだ。速い。速すぎる。外角高め「ボール」だったが腰が引けてしまうようなスピードだ。

 二球目、ど真ん中だ。富木が振った。

「ストライク」速い。合わせられない。富木が呆れた顔をしている。

 三球目、またもやど真ん中「ストライク」

 呆れ顔の富木であったが、その顔は決して諦めではない。同じピッチャーとしてこのままでは引き下がれない。徐々に攻撃の目に変わっていった。

 四球目、見送った。「ボール」

 五球目も見送った。「ボール」

 手も足も出ないのか。誰もがそう思った。

 しかし太田監督は笑顔でネクストバッターボックスにいる赤城にサインを送っている。

 監督のサインは富木を指差し、うなずいているだけだ。何を意味するのか。

 六球目、ど真ん中だ。富木が振った。ハーフスイングで打った。

 球威に押された球は、残念ながら一、二塁間のゴロで、セカンドの奥村にさばかれ、ワンアウト。

 一番の赤城は監督の方が気になるのか、しきりに監督の方を振り返っている。監督は相変わらず笑顔で「粘れ」のサインであった。

 第一球目、赤城には胸元に食い込んでくる球が、唸りを上げて飛んで来るかのように思え、反射的にのけぞってしまった。

 二球目、外角低めに鋭く入ってきた。「ボール」

 三球目、ど真ん中だ。振った。一塁側へファール。ワンストライク、ツーボール。

 監督の方を見ると、笑顔で何度もうなずいている。「粘れ、続けろ」だ。

 四球目、またもや胸元に食い込む球で、赤城の構えが起こされている。「ボール」

 五球目、ど真ん中。タイミングが合わず見送った。「ストライク」

「赤城、食いつけ」声援が飛ぶ。

 六球目、緒方は自信を持ったのだろう。またもやど真ん中だ。「討ち取った」と思った瞬間、我が目を疑った。まさかのバントだ。

 意表を突かれたスリーバントにジャガーズはうろたえた。

 ふわっと浮いた球は勢いが死んでいる。

 ナイスバントだ。

 キャッチャーの大場が飛び出し拾って一塁へ。

 赤城、ヘッドスライディング・・・・

「アウト」

「うおー」両チームからため息とどよめきが起こり、赤城の闘志と大場のナイスプレーを讃えている。

 僅差でアウトにできたものの大場は二週間後に行われる大城小との対抗試合を考えながら、大城小の選手が自信を持って確実に成功させるバントに恐怖を感じ始めていた。

「今度は兄ちゃんだよ、打てるかなあ」

「うん」淳平にも展開を予想できない返事であった。

 卓也が不安そうに見守る中、淳一に対する一球目はボールであった。卓也がホッとしたのも束の間、二球目は、内角球を見送り「ストライク」

 三球目、外角低目を見送った。「ストライク」

「お父さん、兄ちゃん打てないのかなあ。あんなに速い球は違反だよね」

 淳平は考え込んでいた。

「確かに速い球だが私の球より速いだろうか。そんなことはない。私の投げる球よりは遅いはずだ。焦るな、焦るな淳一。思い出せ、私と練習した時のことを。自主トレを思い出せ、剛球を打ち返せるための練習であったことを。そして思い出せ、後藤さんのスイングを、あのタイミングとインパクトを」

 息を殺して守り見ているジャガーズのメンバーは、この段階でまだ大城小監督の作戦意図に気がついていなかった。富木、赤城、そして御船と、緒方潰しの作戦が実行されていたのである。

 四球目、緒方は自信を持って速いストレートで討ち取りにきた。

 淳一が軽いスイングで打った。球はライナーでレフト側フェンスに直撃したファールボール。

 五球目、ど真ん中だ。淳一の余裕とさえ見えるゆったりとしたスイングから強烈なインパクトの音が響いた。

 大きい。ライト側ベンチに飛び込む大きなファールだ。

 淳一のスイングはスローモーションの様な流れるような、そしてインパクトからフォロースイングにかけての加速の素晴らしさが見る者にため息を誘っている。

 太田監督は緒方が汗を拭き肩で大きく息をし始めたのを目ざとく察知していた。

 六球目、早く決着を決めたい緒方は焦りを感じ始めている。

 打った。またもや大きいファールだ。

 飛距離にあわせ外野が少しずつ下がり始めたのが見える。

 太田監督が立ち上がった。右腕をゆっくり振るそのサインは「いいだろう。ゴー」だ。

 七球目、見送れば外角を僅かにはずれるボール球。淳一が打った。

「ビシーン」鈍い音を残して球はセンターを越えている。

「回れ、回れ、兄ちゃん、回れ」

 淳一が二塁を蹴った時、三塁コーチ役をしていたキャプテンが淳一を止めた。

 センター浅岡の守りが深かった事とピッチャーである淳一の体力消耗を気にしての判断だったのだろう。

 三番竹田、一球目「ボール」際どいコースだったが竹田が良く選んだ。監督が動いた。ヒットエンドランだ。勝負に出た。

 二球目、淳一が走った。打った。三遊間抜けた。レフト勝宮小の三宅が強烈なバックホーム返球だ。キャプテンが三塁を回った淳一を止めた。

 ツーアウトながら大城小は一、三塁でキャプテン木下がバッターボックスに入る。追加得点のチャンスだ。両チームに緊張が走る。

 一球目、内角高め「ストライク」

 ピッチャー緒方は満身の力で押してくる。

 息も荒くなっている。

 二球目、「ボール」

 三球目、ど真ん中だ。木下が打った。三遊間。サード和泉小六年、滝川が横に飛んだ。ジャンピングキャッチ。

 息つまる一瞬・・・・・・「アウト」

 両チームから突然拍手が起こった。その拍手は木下の痛烈な当たりと、滝川のファインプレーに対する素直な賞賛の拍手であった。


 五回の裏を迎えたジャガーズの攻撃は一番、大城小五年、小林からの攻撃だ。

 野口のサインは、ストレート、そして拳を握った。速い球の要求だ。そして構えは、ど真ん中の要求だ。

「逹ちゃんも僕と同じ考えだ」淳一の挑戦的な顔が意見の一致で笑顔に変わったのである。

 同じ部員ではあるが練習には参加せずに、ましてや和泉小と対抗試合をする話を聞いたら助っ人だと言って図々しく部室に現れた小林、奥村そして大野のわがまま振りに憤りを感じていた淳一であった。

「逹ちゃん、いくぞ」

 淳一が振りかぶって大きく足を踏み出した。

 地を這うような球がぐんぐん加速する。

「ストライク」

 球は小林の膝上、そしてど真ん中に「パーン」と心地よい音と共に突き出した野口のミットに納まった。

「逹ちゃん、わざといい音を立ててるな」

 淳一の気持は完全にほぐれ野口とのバッテリーを楽しんでいる。

 監督も気持を指したのだろう。しきりにうなずきながら見ている。

 二球目、ストレート、そして内角高めの要求だ。拳は握りで速球の要求だ。打ち頃の球で釣るつもりだな。淳一は納得した。

 二球目、またもや打者の手前からホップしてくるストレートに小林は空振りであった。

 三球目、一球目と同じ要求に淳一も納得した。

「逹ちゃん、信じるよ」

 地を這うような球が打者の手前から浮き上がってくるストレート。速い。

小林が振った。「ストライク、バッターアウト」

 照れくさい顔をしている小林とは対照的にダッグアウトの他の選手の顔は、恐ろしい物を見てしまったような顔で引きつっている。

 野口は淳一の好調ぶりを確信している。ストレートにいい回転がかかっている。

野口がこのストレートに出会ったのは五月の連休最後の日、淳一と淳一のおやじさんの特訓に参加したときであった。

 ゆったりとしたスイングアークからボールの手離れを限界までコントロールして投げる淳一の投球を始めて知って驚愕してしまったことを思い出していた。

 二番は和泉小六年、ショートの堤だ。

 堤がバットを短めに持ったのを野口は見ていた。

「気合が入っているぞ」

 野口の要求はストレートそして外角やや低め、ボール球の要求だ。

 淳一が投げた。振ってきた。

 空振りストライク。タイミングが合わないようだ。

 二球目の要求はスライダー、そしてコースは一球目と同じコースだ。淳一が投げた。外角低め真っ直ぐ伸びてくる。

「もらった」堤が動いた。

 曲がった。沈んだ。

 球は空振りした堤の右足のつま先に当たるかと思うぐらい内に食い込んできた。

 堤が焦る。

「ストレートではなかったのか。球種が読めない。山を張るしかないのか」堤はど真ん中のストレートだけに的を絞ることにした。

 野口に薄笑いが出始めている。野口のサインは強気だ。

 淳一が投げた。

 柔らかいフォームからの球はバッティングマシンから飛び出すボールのようにも見える。

「ど真ん中、ストレートだ」

堤が狙った。振った。「ストライク、バッターアウト」

 堤にはボールが一瞬消えたように思えた。

「めっちゃすごいフォークだ。打てないよ」

 ネクストバッターの滝川に申し訳なさそうな顔をしてすれ違いざまに告げた。

 三番和泉小六年、滝川、打撃ではキャプテンの大場と肩を並べる強打者だ。一言もしゃべらず静かに左バッターボックスに入った。威圧感がある選手だ。

 三塁側、即席応援団の黄色い歓声と応援もぴたりと止まり、左投手と左打者の勝負に固唾を飲んで見守っている。

 野口の要求は初球からスライダーだった。ましてやコースは打者の脇腹狙いの外角へ逃げる球を要求している。打者の体勢を崩すつもりだ。

 淳一が投げた。

 予想外のことに冷や汗をかいたのは滝川でなく野口であった。

「ストライク」

 ストライクが取れたものの滝川めがけて飛んでくる球に滝川はピクリとも動かなかったのである。デッドボールで出塁されたら次はキャプテンの大場で苦しい展開になるところであった。 

「生意気な」と野口は舌打ちをしたが同じコースの球を投げさせることは躊躇した。

 二球目、野口の要求は同じスライダーでど真ん中から外に逃げるコースだ。

 淳一が投げた。またもや動かない。

 「ボール」

 野口は滝川の態度が気になり、しきりに滝川の様子を見ている。 

 淳一は野口のサインが異様なのに気づいた。

 滝川の足元を指差し、その指先をファースト側に振っている。

 一、二塁間に打たせる意味か、違う、野口が指差す滝川の足元を見てやっと意味がわかった。滝川はボックスの最もピッチャーよりに立っていたのだった。変化球の変化する前を打つつもりだろう。ど真ん中のコースは狙われる。

 淳一はうなずいてポジションプレートの左端に立った。

 要求はストレート内角、ギリギリ高め。

 淳一が投げた。伸びのあるストレートが内角ギリギリに入った。「ストライク」

 ポジションプレートの左端から投げられたサウスポーの球は、手を離れた時は打者をめがけているように思え、ベースの打者側コーナーをかすめた球はストライクであった。

 ツーストライクワンボールに追い込んだ。

 滝川は相変わらずピッチャーよりに立っている。野口はもう一球、同じコースを攻めるか迷っていた。外角に釣り球で様子を見るか迷った末、同じコースで勝負に出ることにした。

 淳一が振りかぶって投げた。やや真ん中よりのコース「やばい」

 滝川が動いた。振った。球がミットに収まる「パーン」と心地よい音が響いた。

 佐々木監督が頭を抱えている。

「化け物め」

 緊張感から開放された応援団も、もう声も出ない。抱き合って喜んでいる。

「兄ちゃんすごいな、三者凡退だよ」

「あら、お父さん涙ぐんでるんじゃない」

「そんなこと無いよ」と淳平。

 卓也が覗き込んで笑っている。


   6


 六回の表、大城小の打順は野口からだ。

 キャッチャーのリードが冴え渡る野口は気分を良くして一球目から狙っている。

一球目、打った。軽く合わせただけの打球はセンター前に転がった。ヒットだ。

 次の立松は着実にバントで送り、ワンアウト二塁となった。

 バッター石井の時、ヒットエンドランがかかり、これも絶妙のバントで石井はアウトになったが野口を三塁に進塁させることに成功した。ツーアウト三塁。徐々に舞台が出来上がりつつあった。

 ここで太田監督が主審のところに歩み寄る。

「代打、坂田」

 坂田は去年までジャガーズに席を置いて練習を共にしていた。

 野球のセンスのよさは、佐々木監督もよく知っている。もちろん緒方も知っている。五年生でありながら打撃でもキャプテンの木下と肩を並べるぐらいうまい選手になっていると聞いている。監督は切り札を使ってきた。

「緒方がむきにならなければいいが」と佐々木監督は懸念したが監督の心配が本当になってしまった。

 緒方は前回、全力投球と投球数が多かったこともあって疲れが見える。そのせいか変化球の使用が増え始めてボールが先行しカウントはワンスリーになっている。坂田にとっては絶好のチャンス。まさかフォアボールで一塁に歩かせることは無いだろうと読んでいた。

 五球目カーブだ。「もらった」

 坂田の一撃はレフト三宅の頭上を越えた。

「キャー」大歓声が起こった。

 野口は坂田のタイムリーツーベースでホームインし貴重な追加点を上げた。

 バッターは富木。富木も変化球に的を絞った作戦だ。

 ワンストライクツーボールの後、第四球目、打った。

 センター浅岡が横に走る。坂田は三塁を回った。センターが追いついた。スライディングキャッチ。

「アウト」

 上田小六年、浅岡のファインプレーに坂田のホームインは食い止められてしまった。

しかし大城小は坂田のナイスバッティングで貴重な一点を追加したのだ。

 駆け足で帰って来る富木とは対照的にガックリと肩を落とす緒方の姿があった。

 大城小の切り札としてキッチリ役目を果たした坂田は坪井の代わりにファーストの守備についた。

 

 追加得点を与え二対五で迎えた六回の裏、ジャガーズの攻撃は四番キャッチャー大場からである。一、二点はいつでも取り返せると考えていた前半の試合が悔やまれていた。御船を相手にこの三点は重い。「何とか出塁し、七番浅岡、八番三宅、九番緒方までつなぎたい」と考えていた。

 御船の球は生き物のようだ。

 大場はツーストライクワンボールと追い込まれてしまった。

 何とか打ちたい。変化球の曲がる前が叩けないか。

 大場は素振りをしながら少しずつボックス内のピッチャー寄りに移動していた。

「とどめはフォークだ」野口のサインにうなずき淳一が投げた。

 打った。やっと球をかすっただけのボテボテのゴロだが一、二塁間を抜けてヒットだ。

 五番和泉小の神谷、確実に送るバントの構えだ。

 野口の要求は当然のように内角高めのボール球だ。淳一はバッターの胸元の高さでバットめがけてのストレートを投げた。ホップしてくるストレートに思わず神谷の腰が引けてのけぞった。バットに当たった球はふわりと浮いてファール。野口が突っ込んだ。取れない。「ファールボール」

「惜しかったね、アウトだったのに」

「うん」淳平はもう返事をする余裕が無い。

 二球目、内角高めバントだ。

 淳一が拾った。「一塁・・」野口の声だ。

 淳一は一塁に送球「アウト」

 六番は奥村だ。

「奥村、どこがいい?」

 同級生の奥村に野口がいやみたっぷりに声をかけた。

 奥村は野口の顔を見ようとしない。ヒッティングの構えだ。

 野口はにんまりと笑い淳一にど真ん中ストレートを要求してきた。

 第一球目、野口はいつも以上に「パーン」とミットを鳴らした。「ストライク」

 二球目、モーションに入った。奥村がバントの構えにスイッチした。大場が走った。ヒットエンドランだ。

 外角低めのストレートにつんのめるような格好で奥村がバントしたが、失敗、球はファールフライ、野口がダッシュ、取った。「バッターアウト」

 大場は二塁に戻った。もう頼みの綱は浅岡だ。

 ツーアウト二塁、バッターは上田小六年、浅岡、守りでファインプレーをした選手だ。

 外角低めの誘い球に乗ってこない。カウントはツーボール。

 三球目、内角低めストレート。クローズドスタンスで構えていた浅岡がステップを開いて強引に引っ張った。

「しまった。山を張られた」

「カーン」快音を残しレフトへ。

「石井、バック、走れ、走れ、頼む」野口は祈った。

 石井は一度振り返ったきり全速で走っている。大場は三塁を回った。次の瞬間ジャガーズのメンバーに信じられない光景が飛び込んだ。走りながら振り向いた石井が止まった。そしてキャッチしたのである。その光景はあたかも凡フライを処理するような確実で安心して見ていられる動きであった。誰もが浅岡の球はレフトを抜いた、誰もが無理だ、抜かれたと諦めかけた時の出来事だった。

「御船の弟子め、いい感と動きをしとる」と太田監督は三年生の石井をレフトに置いたことに自ら納得しうなずいていた。

 そしてもう一人、この光景を予測できた人物がいた。それは淳一であった。激しい音を残して打ち出された瞬間、石井は後方に走り出していた。そして淳一がレフトを見た時には既に石井は全速力で後退中であり一度振り返り球の飛球線を確認して落下地点に突進していた。

「いいぞ、そのまま、いけー」淳一は自分が追いかけているかのような気持で石井を見守っていたのである。

 三塁側ベンチの応援観客は淳平らを含めて八人であるが、ベンチ前を駆け足で帰って来る石井はベンチからのファインプレーを讃える拍手に迎えられていた。


   7


 大城小は石井のファインプレーで六回の裏を無得点に押さえ最終回の七回表を迎えた。打順は一番赤城からだ。

 赤城は考えていた。

「最終回のプレッシャーに加え六回の裏に得点できなかったショックが残っている間に先制攻撃だ」

 そして初球から打って出た。

 カーブにタイミングを狂わされて三塁側へバントをしたかのような死んだ球が転がっている。今日の赤城はラッキーボーイだ。球は三塁線中間あたりで止まってしまった。

 不意を突かれたサード滝川が突っ込む。一塁へ送球。「セーフ」

 一塁を駆け抜けた赤城がガッツポーズをしている。

「お兄ちゃんだよ、今度こそホームランを打つかな」

「確実に走者を得点圏の二塁に送るだろう」

「そうかなあ。五対二だよ。余裕勝ちだと思うけど」

「だけどね、この回で追加点を取ると裏のピッチングがずいぶん楽になるよ」

「兄ちゃんやっぱりバントの構えをしてる」

 ジャガーズにとって御船のバントの構えはダブルプレーのチャンス。赤城の二塁への進塁だけは阻止したいところだ。

 一球目、内角高め「ストライク」

 二球目、内角、打ち頃の高さ、バントだ。サード、ピッチャー、ファーストが突っ込む。ショートは二塁のベースカバー、セカンドはファーストのベースカバーに走った。絶対絶命。しかし球はダッシュしてきたファーストとピッチャーの頭の上を越えて、セカンドの定位置方向に飛んでいく。セカンドは既にファーストのベースカバーに走ったためガラ開きである。

「しまった」ジャガーズはバントシフト、そしてダブルプレーフォーメーションの裏をかかれたのである。球はセカンドの定位置辺りにぽとりと落ちたヒットである。

「お兄ちゃん、打った、打ったよ」

 卓也はバントなのに、いつヒッティングに切り換えたのか理解できなく淳一がライト前のヒットを打ったことが信じられないでいる。

「バスターだ」

「えっ、バスターって何。僕の知ってるバスターは映画のゴーストバスターだけど」

「そう、そのバスターだ。ゴーストバスターは幽霊封じ。このバスターはバントシフト封じだ。いつ覚えたのだろう。打った時はバントなんだけどインパクトの瞬間、強烈に腰を入れて肩をフルに回す。もちろんフォーロースイングでは腕一本になるが・・・」

 淳平はオオシロレイクゴルフセンターでの後藤さんのスイングに目を見張る淳一の姿を思い出していた。右手の中指、薬指、小指を事故で無くし、クラブを握る右手は親指と人差指の二本だけで握ると言うより支えているだけのゆったりとしたスイングから、強烈なインパクトと流れるようなフォロースルーが生み出す球筋はゴルフの好きな私でさせ賞賛に値する物であった。

「百ヤード飛ばす攻撃より今の攻撃は素晴らしかったよ。見る者を楽しませてくれた」

「お母さん、お父さん何かブツブツ独り言を言ってるよ」

「幽霊に取り付かれたのよ。ゴーストバスターを呼ばなくちゃ」

 赤城は二塁を回ったがライト神谷の好判断のプレーで三塁に進塁は出来なかった。

 ノーアウト一塁、二塁、絶好のチャンス。

 しかし赤城は三番、四番と、頼もしい打順が続くことについ油断をしてしまった。

 キャッチャー大場のサインに緒方がうなずいた直後、緒方がセットをはずした。ショートの堤がいつのまにか二塁ベースカバーに向っていた。牽制だ。

「赤城、バック」

「アウト」一塁の塁審と三塁塁審の判定がグランドに響いた。

「ワンアウト」キャッチャー大場が一本指表示と、かけ声で確認と気合を入れている。

 竹田はチームの勢いをつぶしたくなかった。

「待っておれない。初球攻撃だ」

「カーン」

 セカンド奥村、はじいた。エラー。

 竹田の速攻でワンアウト一、二塁に戻した。

 四番の木下、ワンストライクツーボールの後、四球目、打った。右中間大きい。御船がセカンドを蹴った。ライト神谷が追いついて三塁に送球。間に合わない。「セーフ」

木下キャプテンのヒットでワンアウトフルベースだ。チャンス。

「舞台は出来上がった。俺の出番だ」五番の野口が唇をかんだ。

「高め、高め、高め来い」

 野口に対する二球目「来たー」

 打った。大きい。レフト三宅バックそして構えた。取った。御船タッチアップ。「突っ込めー」

「いやー、また淳一」

 直子はまたホームベース上で繰り広げられる格闘技を見るのが辛く悲鳴をあげ顔を押さえて下を向いてしまった。

 大場がベース上に立ちはだかっている。

 ショート堤が継投、「ウオー」淳一は体当たり覚悟のヘッドスライディング、飛んだ。捕球した大場がグラブごと体当たり、淳一にかぶさった。タッチ・・・・「セーフ」

 大歓声が起こった。一番に喜び淳一に飛びついてきたのは犠牲フライを放って淳一を帰還させた野口だった。

 ツーアウト二塁、三塁。

 六番立松はピッチャー返しか、またはライト側を狙っていた。

 緒方も投球数が増え球威が落ちている。

 立松はツーボールの後三球目、緒方がストライクを取りに来た球を打ち返したが、セカンドの奥村に捕まってしまい残念ながら三塁の竹田を帰すことが出来なかった。


 最終回に貴重な一点を自ら掴み取った淳一には、もう最終回のプレッシャーは微塵も感じられない。汗で泥まみれのユニホームをはたきながら足場の調子を確認している顔は、全力を出し尽くす覚悟の表情である。

 最終回の裏、ジャガーズの攻撃は勝宮小の三宅からだ。勝宮小の強打者三宅、緒方、そして一番に戻ると二番から五番まで和泉小の強豪が待ち構えている。何とか一番の小林までで決着を付けたい。

 三宅はバットを長めに持っている。強打者の癖でもある。強引に引っ張られると怖い。

 一球目、野口は外角低目から外に逃げるシュートを要求した。

 一球目、投げた。外角低め、強打者にはもってこいのコースだ。三宅が動いた。振った。曲がった、すべるように外へ。

「ストライク」

 二球目、淳一は野口のサインにうなずき投げた。やや内のコース「もらった」

 三宅は一球目よりやや内に入ってきた球に自信を持って振った。曲がった。落ちた。スクリューボールだ。「ストライク」

 三宅が首をひねっている。シュートとスクリューの見分けがつかない。全く同じ投げ方、同じフォームにしか見えないのである。

 三球目、内角打ち頃の高さ、「今度こそもらった」

 打った三宅の球は高く舞い上がりライトへの凡フライに討ち取ったのである。

 最終回に追加点を得た大城小のバッテリーにはもう怖い物は無い。のびのびと楽しそうにサインを交わし投げ込んでくる。

 次の緒方にも大胆なそして攻撃的バッテリーであった。

 一球目、ど真ん中から強烈に内角に食い込んでくるスライダーに手も足も出ない。

 二球目はファールにされたもののど真ん中のストレートだ。

 三球目、一球遊ぶだろうと思った緒方は、ど真ん中のストレートを見送ってしまった。三振だ。

「お父さん、三球三振だよ」

「うん」

 三塁側の応援も一段と声援の声が大きくなりだした。

 一番小林。淳一と野口は大城小の同級生として小林にとどめを刺したかった。野口のサインは一球目からど真ん中のストレートだ。

 地を這うようなストレートがミットに飛び込む。「よっしゃー」

 二球目もストレートだ。

「ストライク」

 三球目もストレートだ。

「カーン」

 小林が打った。ライト線に強烈なライナー。思わず淳一はライト線を振り向く。坪井の変わりにファーストに入っていた坂田が飛んだ。バックハンド・・・・取った。体は一回転して地面に叩きつけられた。後ろ向きのままボールを掴んだグローブを高々と挙げた。

「アウト」

 塁審の声で一瞬の静寂が破られた。

「わー」

 起き上がった坂田がマウンドの御船めがけて走る。

 立松が、竹田が、木下がそしてダッグアウトの高田、坪井、マネージャーの斎藤が御船のところに駆け寄ってくる。

「やった。勝ったぞ」と喜びの声をあげている。

「試合終了」

 主審の声に両チームが向かい合って整列した。

「素晴らしい試合でした。六対二で大城小野球部の勝ち」

「ありがとうございました」

 両チームの挨拶の後、大場キャプテンが木下キャプテンに握手を求めてきた。

「対抗試合が楽しみだ」と言って硬く握手をした時、両チームから拍手が起こったのである。ジャガーズの勝宮小や上田小の選手からも心から健闘を祈る拍手が送られた。

 太田監督が佐々木監督に話しかけている。

「ありがとうございました」

「いやいや、こちらこそいい試合をさせてもらいましたよ。三年、四年生混成のチームに負けてしまいました。お恥ずかしい」

「一時は和泉小との対抗試合は無理かとも思っていたのですがこれで吹っ切れました」

「すばらしい選手達ですよ。三年生の石井君、四年生の高田君と赤城君、ジャガーズに入って欲しいですな。それに化けも・・いや御船君も・・。すばらしい選手をみつけましたな。大城小にヒーロー誕生ですな」

「アハハハハ」佐々木監督は化け物と言いかけて、あわてて訂正したが太田監督も同感とばかりに高笑いである。

 監督の話しを聞いていた両チームだが、突然ジャガーズのキャプテンでもあり和泉小のキャプテンでもある大場が大声をあげてエールを送ったのである。

「ヒーロー誕生おめでとう。ヒーロー、ヒーロー、み・ふ・ね」

「ヒーロー、ヒーロー、み・ふ・ね」

 大城小も喚起した。

 それは大城小の勝どきの雄叫びでもあり御船に対する労いの叫びでもあった。

 大場にとっては対抗試合の相手がすばらしいチームに育っており白熱した戦いが展開できる期待に満ちたエールであり、また勝宮小や上田小のメンバーにとっては、精鋭が集まっているジャガーズはこの地域で最強のチームと自負していたのに、同じ地域の中に六対ニでジャガーズに勝ち名乗りを揚げたチームへの畏敬のエールであった。

 斉藤マネージャーを囲っての応援団のはしゃぎ様も納まりかけた頃、太田監督からのメッセージだ。

「よくやった。嬉しい。全員が力を出し切ってくれた。今日はゆっくり休もう。明日、今日の反省点を持ち寄る事。そして対抗試合に向けてまた練習だ」

「はーい」

「解散」


   明日に向かって


 凄まじい戦いであった。焼け付く日差しの中、最後まで気を抜くことなくがんばれたのは日頃の練習のおかげだと誰しもが実感し、やり遂げた喜びに満ちた開放感にいつまでも話しが弾んでいた。

 淳平らはグランドへの通用口で淳一を待っていた。

 淳一の姿が通路の向こうに見えた。

 卓也が手を振って迎えている。

 淳一が走って来ながら叫んでいる。

「お父さーん・・」

 淳一が駆け寄ってきた。

「ありがとう」

「・・・・・」

 淳平は言葉が無かった。走馬灯のようにあの練習が、汗を拭く振りをして涙を拭いていた淳一の姿が、歯をくいしばって球に向かって走る姿が昨日の事のように蘇ってきたのである。

「淳一、お父さんを泣かせちゃダメよ。涙もろいんだから。人に見られたら恥ずかしいわよ」

 そう言って淳一の頭を帽子の上から撫ぜている。

「よくやったね。よくがんばったね」と母親の気持ちの現れで、淳一は久しぶりに味わう感触に嬉しく思った。

「車で帰る?」と直子

「歩いて帰ろうよ。ね、お兄ちゃん」

「うん」

「じゃ、私は荷物を積んで先に帰るわ」と言って直子は駐車場の方に歩き出した。

「いい試合だったな。息をするのを忘れて見ていたよ」

「そうだよ、お父さんは感動のしっぱなしだったよ。顔を見てたら笑えたよ」

「お前は野球を見なくてお父さんの顔を見てたのか」

「アハハハハ」

 市民グランドの前の道を歩いていると後から野口君の声がした。

「おーい、御船、一緒に帰ろう」

 淳平と卓也が振り返ると淳一と野口君は立ち止まって話し込んでいる。

「今日は本領発揮だったな」

「達ちゃんのリードが良かったんだよ。安心して投げられたから」

「三宅が目をむいていたぞ。そしてあの時はびっくりしたなあ。滝川がいつのまにかスタンスを・・・・・・・・・・」

「来そうにないね。お父さん、先に帰ろう」

 淳一と野口君の様子を見ていた淳平がふと目を揚げると、大城湖畔の純白の風車がゆっくりと回っているのが見える。

私も見ていたよ。と、上気した二人にやさしく風を送っているように思えた。

 卓也が淳平の手にぶら下がるようにして歩いている。

「兄ちゃん、ヒーローって言われてたね」

「そうだな『ヒーロー誕生』って言われていたね。淳一、がんばったからなあ」

 暫くの沈黙の後、

 卓也が淳平の前に回りこんで、後ろ向きに歩きながら、照れくさそうに淳平の顔を見上げて言った。

「今度は僕の番だよ。教えてね」

「・・・・」

 淳平は何度も何度も相槌を打ちながら明日に向かって歩いていた。

                               完





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若きヒーローのために(Part1) 八無茶 @311613333

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