若きヒーローのために

八無茶

第5話、第6話、第7話 連休の4日目、最終日と連休明け

  若きヒーローのために                                                                    

 第1話 野球への起動

   1


「ただいま」

「あっ、おかえりなさい。今日は早かったのね」

 週末の金曜日、肩を落とし疲れた顔を隠しきれない御船淳平の様子は、直子にとって働き盛りの頼もしい夫の姿であった。

「お風呂、先にする?」

「・・」

「あがったらお父さんが喜ぶ話があるの」

「なんだ」

「お風呂あがってからのお楽しみ」

 食事の用意をしながら、うれしそうに話す直子であった。

 淳平は背広からパジャマに着替えながら、もったいぶって話してくれない直子の様子に首をかしげながらも「まあいいさ」と独り納得させていた。

 風呂から上がり淳平はビールのプルトップを気持よさそうに開け食卓についた。

「卓也はもう学校に慣れたかな?」

「友達もできたみたいで楽しそうよ。今日は三人遊びに来ていたわ。それよりも淳一のことよ」

 直子は早く話したくてたまらないようすである。先程、話したそうにしていた事は、どうも淳一のことのようだ。

 この春、淳一は大城小学校の五年生、弟の卓也は一年生になったばかりの二人兄弟である。

「淳一がね、野球部に入ったの。今日卓也から聞いたわ」

 期待にあふれ話す直子とは対照的に、淳一が野球部に入ったと聞いた淳平は一瞬言葉をなくし一点を見つめ考え込んでしまっている。                         

「ほら、淳一がまだ二歳か三歳の頃からお父さんよく言ってたじゃない。いっしょにキャッチボールができるように早く大きくならないかなぁ、いっしょにビールが飲めるように早く大きくならないかなって言ってたじゃない」

 その頃の淳一は網とバケツを持ってはザリガニ獲りの名人で、朝早く起きてはカブト虫やカミキリ虫、時には蛙を虫かごに、満杯にして帰ってきたこともあった。かくれんぼをすれば木登りが得意で、木の枝で「ミーン、ミーン」と蝉になりきって鳴いていた。

 自転車に乗れるようになったらどこに行ったかわからない程夢中になり、エレクトーンに興味を持ったら発表会も堂々とがんばるたくましい子であった。

小学二年生の頃に彼が選んだ部活はバトミントン部だったが楽しそうであった。

 そんな淳一に「キャッチボールをしようか」と何度も誘った淳平だったが、いつも「いや」の一言であった。

 そんな彼が今になって・・・・

「あら、どうしたの」

 直子は喜ぶであろうと思っていたのに、考え込んでいる淳平を見て不思議に思っている。

「野球は、皆んなジュニアからやって来てるだろう。好きな子は一年生から部活をやっているよ・・・・今頃から大丈夫かな」

「どうして?子供って皆んな野球はできるのでしょう。大丈夫よ」と直子は楽観的である。広いグランドで白球を打ち、走りまわる淳一の姿を思っている。

 淳平は直子には聞こえない小さな声で独り言を言っていた。

「屈辱を味わってもいい年頃だし、まあいいか」

 激しい音を立てて階段を下りてきたのは卓也だった。

「お父さん聞いた? お兄ちゃん野球部に入ったんだって」

 息急き切って下りてきて何かを訴えようとする卓也の様子に、淳平の脳裏には一抹の不安が走った。

 しかし淳平は不安を押し殺し「楽しくなるね。試合の時は一緒に応援に行こうよ」と返した。

「う、うん・・・」

 卓也は父の生返事にあてが外れ、照れくさそうに下を向き、次ぎの言葉を失ってしまったようだ。

 食事を終えた淳平は、淳一の部屋の前にいた。

「入るぞ」

 ドアを開けると元気なさそうに机に向かい椅子に座っている淳一の横に卓也もいた。

ひそひそ話をしていた様子である。

 淳平は不安がすでに的中していたことを直感した。すでに屈辱を味わったのだろう。それがどれほどの物かわからないが卓也には話していたようだ。

「聞いたぞ。やっとお父さんとキャッチボールができるな。お父さん楽しみだったんだ。明日学校は休みだからさっそくキャッチボールをしようよ」

 淳平はなぜ野球をやる気になったのか聞きたかったが、野球部に入った事を後悔している時期かもしれない不安がよぎり、詮索することを控えた。  

 そして淳平の耳は淳一の返事一点に集中していた。

「ううん」

 案の定、力ない返事であったが、淳平は「よーし」と一言残して部屋を出ていった。

 ドアを閉めるとすぐさまひそひそ話が聞こえる。

 淳平の耳には卓也の声で「・・・鬼おやじの・・・」がかすかに聞き取れたが、兄の気持を気遣っているのだろうと淳平の顔はほころび、軽い足取りで階段を下りていった。


   2


 朝を迎えた。願ってもないいいお天気だ。

 朝食を終え新聞を見ている淳平の頭の中では自問自答が繰り返されている。

「プロでもない私が、野球の指導をしたこともない私が、自分の経験とスポーツに関する知識だけでどこまでやれるのか。遊びのキャッチボールでは淳一も満足できないだろう。もし時間が充分あれば休みのたびに遊び相手をし、そうしているうちに半年も経てばいっぱしのプレーヤーになるだろう。しかしできれば短い時間で淳一の笑顔を取り戻してやりたい。悩んでいることを聞いてそれだけを練習しようか。いやいや筋道を立てて教えるほうがいいだろう。私は考え過ぎだろうか・・・・・」

 暫くして淳平は、いろいろやっているうちにいい知恵も出てくるだろうと開き直りの結論を出していた。

「さあキャッチボールをしようか」と淳平が声をかけると、テレビを見ていた二人が振り向いて「うん」と、大きな声で返事をしたのは卓也のほうだ。

「あら、卓也の方が気合入っているのね」

 直子が片付けをしながら笑っている。

 淳平が淳一にたずねた。

「今日は部活の無い日だよな」

「うん、今日運動場を使っているのはサッカー部と陸上部で、野球部は明日だよ」

 淳平は学校の運動場を使うのはやめて団地内の広場に行くことにした。淳平の考えでは狭い場所の方が都合良かったのだ。

「卓也も行くか。但し、今日は見ているだけだぞ」

「うん、いいよ」

 緊張している淳一とは反対に自分のことのように喜んでいる。

 団地内の広場は、もともとテニスコートを作る予定で整地されたもので、周り三面には柵があるし、もってこいの場所である。

 卓也はもう鉄棒で足掛けあがりをして遊び始めている。

 淳一と淳平のキャッチボールが始まった。

 なんとも奇妙なキャッチボールが始まった。

 淳平は七メートルほど離れた距離に淳一を立たせ、大きく腕を広げ「この範囲に入る球を投げろ。いいな。この範囲に入ったボールは受けるが、はずれたボールはおまえが拾いに行け。いいな」

「いいよ」と言ったものの、淳一は、こんな距離でのキャッチボールか、年寄り相手じゃしょうがないなと不服を押し殺して投げ始めていた。

 やり始めて淳平は不安が的中していたことにすぐ気がついた。

 捕球が様になっていない。ボールが怖いようだ。捕球と同時に顔をそむけるような、捕球と同時にグローブを払いのけるようなしぐさをする。今は捕球のレッスンより球に慣れてもらうのが先決として、返球の時は淳平も山なりのゆるい球またはワンバウンドの取り易い球を投げている。

捕球には問題を残すものの近い距離からゆったりと投げる淳一の投球フォームを見ていると投げ方は良く、心配のかけらがひとつ落ち安堵の気持ちに加え、短期間で皆の技量に追いつき追い越せるだけのレッスンが可能なように思えはじめた。球を押し出すような投げ方をするのではないかと心配していたのだが、投げ方の基礎レッスンは省ける事でまずは好調な滑り出しだった。

 淳平は淳一がまだ小さかった頃、河原で石を投げ、水面で何回バウンドさせて遠くまで投げられるか必死になって競争したことを思いだしていた。

「まだこの年では無理かな」と思っても遊びの中で経験させ夢中になったことが役に立っていたのだろう。

「そんなに速い球を投げると体がもたないぞ。今は力ではなく体で投げる練習だ。腰を落とし、膝を使って、腰が回り、つられて肩が回り、後から腕がついてくる感じで手首のスナップでボールを投げる。手首がボールの発射台だ。重たい発射台を体全体で順番に少しずつ加速していく感覚を掴む練習だ」

 淳平がしゃべりながら練習を続けている。

「もっとゆったりと膨らませ。山なりのボールを投げろ」

 それはスローモーションのような投げ方であった。

「もっと膨らませ。こんな近い距離だぞ」

 淳一には淳平の言葉の意味が分からない。反対のことを言っているようにしか思えない。こんな近い距離で山なりの球を投げて父の両手を広げた捕球範囲に投げ込むのは、かえって難しいのである。

「膝、腰、肩、腕、スナップの順だ。短い距離でも基本は同じだ。体で発射台を加速していく感じを掴め。発射する前の踏み込んだ軸足に軽く体重がかかってくる感じを掴め」

 ボールに蝿が止まりそうなゆったりとした球速で円弧を描く球筋の投球だ。それで父の捕球範囲に投げ込むのは難しく何度も何度も自分の投げた球を拾いに行く淳一の姿に、鉄棒で遊んでいた卓也も茫然と立ちすくみ見守っている。

「よし、倍の距離までさがれ」十四メートルである。

淳一は、やっとピッチャーの投球練習が出来るのかなと思ったが、依然として山なりの投球を求める父であった。

 淳平の声がだんだん大きくなってくる。

「腕の力じゃない。膝、腰、肩、腕、手首の順だ。もっとゆったりと大きく山なりに、そしてフィニッシュは右に体を折りたたみ、手首は右膝の外だ。グローブは腰か脇の下へたたみ込め。スムーズな回転とバランスが良くなっていく感じを掴め」

 淳一は左利きだ。幼児の頃こたつの中で遊んでいて、加温部のふちに指を挟みブリキの

板で右指に三針程縫うけがをした。けがをした手を舐められないように右手に手袋をさせているうちに左ききになってしまった。後日、鉛筆や箸を持つのは無理やり右手を使わせたが、なぜかボールは左投げ、バットは右打ちになっていた。

 淳一は何度も自分の投げた球を拾いに行きながら、山なりの球で的に投げる事がうまくできないことよりも、なぜこんな練習をするのか腹立たしく、また自分がみじめに思えてならなかった。

「よーし。倍の距離にさがろう」と淳平。

 投げ初めてからもう一時間になる。

「まだやるの?」淳一は、を上げ始めたようだ。

「この距離で今日は終わりだ。がんばれ」

 ひとごとみたいに言う父の態度に悔しくて、涙まじりの汗をふいている。

 この距離では山なりの球でないととどかない。疲れも加担してゆったりとした大きなフォームで投げざるを得ない。またその投げ方が楽であり、力の割に思ったよりよく飛び、的に投げ込めるのが少しずつ淳一にも実感し始めていた。相変わらず淳平は怒鳴っている。

「柔らかく膝、腰、肩、腕、スナップの順だ。体をたため、回転のバランスが崩れないようにグローブの位置を考えろ」

「軸足に体重がかかるのを感じろ。体重を逃がさず発射台に集めろ」

「そうだ。うまいぞ」

 淳平は怒鳴りながらも二日を予定していた遠投練習が今日で満足できそうな淳一のがんばりに手応えを得て、不安のかけらがまたひとつ落ちていくのを感じていた。

「よーし。今日はここまでだ」

 疲れ果て茫然としている淳一のところに卓也が走って行った。予想もしていなかった練習に卓也の方が興奮して淳一と何か話しをしている。

「兄ちゃん大丈夫か、あの鬼おやじめ」

淳平は満足の笑みを浮かべその二人の様子に見とれている。

 帰り道、しばらく三人は無言で歩いていた。

 話を切り出したのは淳平だった。

「明日はあの距離から少しずつ距離を縮め、今日のフォームの回転を速くしていく練習だ。今日のフォームに回転力を加える。山なりの球筋から徐々にストレートの速い球筋に持っていく。バランスが崩れるか崩れないか楽しみだ。すごい球がビシビシ来るだろうな。今日のフォームを体が覚えていたらコントロールも抜群だろう。楽しみだ」

 思いも寄らぬ父の言葉を聞いた淳一は、疲れ、うなだれて歩いていた顔に明るさを取り戻し始めている。

  つらかったけどなんとなく親父が言う回転で投げる感覚を体が感じ始めていたことに加え、親父の言葉で、今日の練習の意味がやっと納得できた喜びに笑みと涙がこぼれ、いつしか家並みの屋根、もっと上の空を仰ぎながら、明日の部活とその後のお父さんとの練習が楽しみで待ちどおしく思える淳一であった。

 スキップをし始めた卓也は、そのまま勢いよく走って家に帰っていった。

 その夜、子供たちは疲れたのか早めに床に就き寝てしまったようだ。

 くつろいで新聞を見ている淳平の傍に直子がやってきた。

「卓也が興奮して話してくれたわ。あなたらしい教え方ね。ついていけるかしら」

「明日からが本番だ。大丈夫だろ」

 淳平は一人「うん」と頷き充分に手応えを感じていた。


  3


 日曜日の部活は昼までだったらしく、淳一は急いで帰ってきたようだ。何もかもが嬉しくてたまらない様子である。

「お昼ご飯を食べたら、そうだな、バットを買いに行こう」

「ええっ、バットを買ってくれるの。だけど団地内では練習できないよ」

「家での練習用だ」

 また理解できない言葉だったが、淳一はもうお父さんのする事を信じるのが楽しい気持ちでいっぱいだという表情をしている。

 やや重ためのバットを買ってもらって御満悦の淳一は、もうタオルで磨きをかけている。

「家での練習って何をするの」

「練習は二つだけ」

「たった二つ、家で何をするの」

「一つは、朝、昼、晩、三分間バットをしっかり握っているだけ」

「それ何、まじ? それが練習?」

 ばかにされているような感覚が走った。

「一度バットを握って立ってみろ。いいか、腕は前に三十度、バットは水平、グリップエンドを持ち、思いっきり握ってみろ」

 淳一は訳がわからないまま言われた通りバットを握って立っている。父の目つきが変わったのに気づいた淳一は、蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんだ。

「絞れ、脇を締めて絞れ。小指、薬指の順に強く握れ」

「次ぎ、右手」

 淳一は、父の目が肘のあたりを見ているのに気づいたが何を意味しているのか理解できない。

 突然淳平は部屋を出て行き、部屋に戻ってきた時はカメラを持っている。

淳一の腕をまくり、右手で持っている時と左手で持っている時の腕の写真を撮っている。そして言った言葉は

「朝、昼、晩、左、右、それぞれ三分間だ」

 たわいもない事を真剣な顔をして言っている父の姿が滑稽にも思える淳一だった。

「二つ目は何?」

「庭の木で、腰の高さ位の所にバットを当てたまま、木の幹、枝を揺する練習だ。バットが球を捕らえ、球を押し出す瞬間をイメージするんだ。アッパーや水平の力ではバットが逃げるぞ。幹が逃げてもバットが逃げないように練習するんだ」

 狭い庭と言うより通路に一本、直径五センチにも満たない若い桜の木がある。

 淳一はなんとなく理解できたが、

「あの木を揺すれるかなあ。雨の日は?」

「雨の日は部屋のドアの柱で練習だ」

「家は揺すれないよ」と冗談が出始めた。

「暇を見つけたら練習するんだ。いいな。今日は昨日の練習の続きをやろう」と言って淳平が立ち上がった。

「僕も行く」卓也の声だ。

 遊びから帰って玄関に入るやいなや卓也の声である。

「卓也、お兄ちゃんのボール拾いをしたら」

 奥から直子の声がした。

「そうだな。頼もうか」

「うん」

 広場に着くと淳平が今日のテーマを話した。

「今日の練習の注意点は、出来るだけ頭を動かさないこと。発射台からボールが離れるまで、上下、左右に振らないこと。頭が揺れると目が揺れる。出来るだけ目を一定の高さに保つことだ」

「何で?」

「全ての球技の基本だ。いかにして目を一定の高さに保つかだ」

「ふーん」

「そのためには体重の移動を軸足でしっかり止めること。出来るだけ腰を落とすこと。つらいぞ」

「ふーん。目の高さを出来るだけ一定にして揺らさない・・ね」卓也が復唱している。

「卓、今日は淳一とお父さんの立つ場所を交代するから、お父さんの後ろの方でボールを拾ってくれ」

「了解」

 お兄ちゃんの手伝いを出来るのがこの上も無く嬉しそうである。お母さんへの練習報告も楽しみのひとつなのだろう。

「昨日の距離から始めよう」三十メートルはある。

 初めの二投は卓也の出番であったが、その後は淳平がちょっと動けば取れる範囲に投げ込んでくる。「覚えの早い奴だ」と淳平は安心を越え、たくましさを感じていた。

 大きな山なりの球筋は、昨日淳平が要求し練習した球筋だ。

「膝を使え、目の高さを一定に」

「腰、肩を使え、腕に頼ると、首が振れるぞ」

 三十球ほど投げた頃「回転を少し速くしろ」

 山なりの球筋が徐々に弓なりになっていく。それにつれ徐々に淳平の声が大きくなる。

「腕の力で投げると肩と肘を壊すぞ。体の回転で投げろ。回転だけで投げられる範囲が何処までか掴め。腕力に頼るのはまだ早い。軸足で体重が支えられてバランスが崩れない範囲で体の回転に腕力をプラスする」

「まず体の回転だけで投げられる感覚を掴め。スナップを有効に使え」

 卓也は淳一のゆったりとしたスローモーションの様なフォームから弓なりではあるがすばらしい球がビシビシ飛んで来るのに目を丸くして見とれている。卓也の目には、あたかも三十メートルも先のピッチャーマウンドから投げ込んでいるようにさえ思えた。

「よーし、半分の距離だ」

 淳一はこれから本格的なピッチャーの練習だな。と思って駆け寄った。しかし父のかけ声は違っていた。

「もう一度、山なりのボールからだ」

 意地悪にしか思えない。距離が短くなると逆にきつくなった。遠いほうが楽であった。

「もっと山なりの球だ。なにをしている。昨日の練習をもう一度やり直すか」淳平の声が一段と大きくなっていく。

 淳平の捕球範囲を外れる球が増え、卓也が走り回っている。

 ボールを拾ってきて父に渡す卓也の口は一文字にかみ締めて、「この鬼おやじ」と言いたそうな、また目はすでに赤くなり泣き出しそうな形相をしている。

「何をやっている。昨日の練習はどうした。距離が短くなったからと言って腕で投げるな。肘が抜けるぞ。使い物にならなくなるぞ」

「球が離れるまで頭を動かすな」

「もっと膝を使って目を固定しろ」

 淳平の怒鳴り声が続いた。

「よーし。休憩だ。淳一ちょっと来い」

 淳一は、駆け寄るわずかの間に何もかもが崩れていくような気がした。ピッチャーの投球練習はさせてもらえなかった。

もう、やめだ。かってにしろと怒鳴る父の声が聞こえるのを待つ自分が惨めに思えた。

「肩慣らし終了だ。いいセン行ってるぞ。基本に戻れば難しいことはないだろ。よし、休憩したら今度はあの距離で回転を早くしていく。さっきの遠投よりももっと回転を早くしストレートに持っていく。今度は回転とバランスだ。軸足が腫れるぞ」

 淳一は後ろを向いてしまった。決していやだったわけではない。我慢していたものが噴出しただけだ。涙を見せたくなかっただけだ。

 卓也がそっと後ろから回りこみ、お兄ちゃんの顔を覗き見上げている。母へ報告すべきことかどうかを考えているのだろう。

 一服し終わった淳平が歩き始めた。

「まず山なりだ。徐々に回転を速くしていけ。初めは腕の力を使うな。腕の力は、バランスが崩れない事がわかってきたら使え。それが最後だ」

 やっと本格的な投球練習が出来る喜びを噛み締めながら父の話を聞いている。卓也も定位置についた。

「卓、気をつけろ。ひどい球が何処に来るかわからないぞ」

「よっしゃ」と言って肩をすくめた。

 徐々に回転が速くなり、スピードが増していくのが球を受けた時の音でわかる。

淳平は、わざと大きな音が出るように捕球の衝撃を肘で逃がさず肘をまっすぐ伸ばして手のひら部分で捕球している。

「パーン。パーン」小気味良い音が次第に強くなっていく。

「グローブでバランスを取るな。グローブは腰か脇の下にたたみ込め。グローブでバランスをとろうとしたら腕が広がり回転が遅くなる」

 大きな声を出しながら、今まで立ったままで捕球していた淳平が、腰を落としキャッチャーの構えを始めた。

「投げた後は体を折りたため。フィニッシュはいつも定位置に手首を納めろ」

「回転が速くなると、足の踏み出しを大きくしろ」

「右足で全ての体重を受け止めろ」

「踏み出しを大きくしたら頭が上下に振れているぞ。投球開始からもっと膝を低く」

「そうだ。スナップを効かせ。発射台から球が出て行くのを指先に感じろ」

「ばかたれ、バランスが崩れたぞ。意識するな。膝、腰、肩、腕、手首、スナップの順番にやるんだ。瞬時にな。バランスが崩れるようなら最初からやり直しだ」

 大きな声が、また同じ掛け声が繰り返し繰り返し響いていた。

 団地の中はこの三人だけではない。通りすがりの主婦、子供たちがこの異様な三人をかわいそうだという目で見ながら無言で通り過ぎる。そんな目が、疲れた上に大声で怒鳴られ続ける淳一にとって初めは恥ずかしくも思っていたが、日が暮れ始める今は、もう夢遊病者みたいに言われるがままに実践するしかなかった。

「手首を納める時、手の平が上か前向きで納めてみろ」

 ひときわ父の大きな声だった。

「よーし。今の球がカーブだ」

 そう言って捕球後淳平が立ち上がった。

 確かに曲がった。大きな曲がりではなく落ちるような球筋だった。ひねったわけでもない。手の平を低いゴロのボールを受ける形に納めただけなのに。

今まで友達に聞いていたカーブは、こう持ってこうひねって投げるのだ。と聞かされるたびに友達との差をひしひしと感じていた。確かに球は鋭く落ちた。

「よーし。今日はここまでにしよう」

 疲れ果て何度ももうやめたいと思っていた淳一は、続けて今の球をもう一度投げてみたいという意欲がこみ上げていた。

「もう薄暗くなってきたからやめよう」

「お父さん。あれがカーブ?」

「すばらしいカーブだったぞ」

「僕、ひねってないよ」

「あれだけビシビシいい球を投げていて、手の平を返したら意識してひねらなくても落ちるよ。ひねるのは徐々に覚えろ」

 淳一にとって父の言葉は最高の賛辞であった。

「卓」淳平は帰るつもりで声をかけたが卓也はもういない。

一目散で家に帰ったみたいだ。

 帰り道、淳平が静かな声で話し始めた。

「もっと速い球が投げたいか」

「うん」

「だったら踏み出しがもっときつくなる。その体重移動と速い体の回転を踏ん張れる足腰、膝を部活で鍛えろ。それと背筋を鍛えろ」

「背筋ってなに」

「ここの筋肉だ」と言って淳平は淳一の背中をポンとたたいた。

「どうして鍛えたらいいの」

「そうだなあ。エキスパンダーを一番弱くして背中から前にこうやるんだ」

「三本でも出来るよ」

「強いと腕が勝ってしまう。弱く一本で、まず両肩を下げそして前にたたむようにしてエキスパンダーを開く。ちょうどボディビルディングをしている人がポーズをとる時にするしぐさだ」

 淳平がそのしぐさをしてみせる。

 淳一は納得してうなずいた。

「淳一」

 まじめ腐った呼び声に淳一はドキッとした。

「スポーツはパワーだぞ。一般的には『力じゃなく技だ』と言われているが、一瞬にしてそして確実にその技をコントロールできるか出来ないかは訓練され鍛えられた足腰、腹筋、背筋、微妙なコントロールに対応できる握力だ。そして技が生きる」

 親父の長ったらしい講釈はいつも上手に聞き流していた淳一だが、今日の講釈は違う。ずっしりとした重みを感じる。

「もう一つ。あらゆる技のどこに円を使うかを考えマスターしろ。技は、円なり」

「円ってなに」お金でないことは淳一にもわかっていた。

「お父さんが怒鳴っていたことは、全て円をどれだけうまく使えるかの練習だ。そうだなあ。ボクシングのストレートも直線ではない。体が円を上手に使うことで目にも止まらぬ速さで重いパンチが打てるようになる」

 淳平はもっと分かり易い説明に気がついた。

「腹筋練習をする時、反動をつけずにまっすぐ上半身を起こすのはきついが、腹筋の弱い子でも起きる瞬間、右か左におなかで円を描くイメージでおなかを起こすと、すばやく起きられるよ。部活での練習、暇を見つけて家での練習、全てが積み重ねだ。がんばれ」

「はい」

 いつもの返事は「うん」であった自分が、思わず「はい」と答えてしまったことに照れ臭さよりも大きく変わり始めた自分に気づいたのだった。

 食事中、直子は心配そうに淳一に話しかけている。

「部活の後、お父さんとの練習はきつくない? 楽しいの?」

「うん。楽しいよ。こんな練習初めてだ」

 そう言って勢いよく空腹を満たしている淳一を見る直子の顔は、かわいそうな我が子を見つめる母親の姿をしている。

「ごちそうさま。次はいつ練習するの」と卓也。

 お兄ちゃんの顔色をチラッと伺いながら気を使っているのが痛々しい。

「明日は仕事が遅いので出来ない。練習はあさってからのゴールデンウイークにしよう」

 淳平は続けた。

「宿題、復習が終わったら、自主トレだぞ」

「自主トレ??」

「バット、バット」

「了解」

 二人は勢いよく二階に駆け上がって行った。

「淳一、今日泣いていたらしいじゃないの」

「卓也の情報か。ほんとうは・・・」

直子は身を乗り出して聞いている。

「いいセンスをしているよ。投げることではもう皆んなに追いついているよ。後は捕球と打撃だ」

「まだやるの?」

「連休が終わる頃には追いつけると思う。連休中、私は野球塾の先生だ」

「まあ、気取って」

 直子は安心したのか片付けを始めた。

 しかし翌朝、また不安の種が直子を襲う。

 朝が早い淳平が食事をしていると、珍しく淳一が下りてきたのである。

「三分間持てないよ」半分ベソをかいている。持てる自信が崩れたのだろう。

「そうだろう。大丈夫だ。練習したら必ず持てるようになる。小指と薬指でギュッと握ってバットは水平に三分間、左右一回だけ。それ以上はするな。部活でも時々練習してみろ」

 笑っている父を見て淳一は安心したようだ。

 直子は、普段になく早起きして淳平に訴える淳一にびっくりしてしまった。話を聞いてほっと胸をなでおろしたものの、楽しい遊びでない淳平のレッスンに、いつか挫折を迎えそうな不安は捨て切れなかった。


   4


その日淳平が帰ってきたのは、もう九時をまわっていた。

 淳平の帰りをいち早く察知した淳一と卓也が駆け寄ってきて訴えている。

「バットを持つのはまだまだだけど、バットで押すのが良くわからない。卓也が笑うんだ。お父さん見てくれる」

「おい、おい、まだ服も着替えていないのだぞ。まあいいか見てやろう」

 そう言って淳一の部屋に行った。

 ドアの柱を押す格好は確かにぎこちない。淳平は淳一の勉強机のところに行って腕をまっすぐ伸ばし、両手の手のひらを合わせたまま机の角に手の甲をあてた。

「この机の端がボールだ。打つ瞬間は膝を使って腰を回し、その体のねじれた力がまっすぐな腕のバットに伝わり、手の甲がボールにあたる。ボールに勢いをつけて発射するのは腰の回転による体のねじれだ」

 机が揺れた。卓也の目と口が丸くなっている。

「やってみろ」

「その調子だ。もう一つ注意することは、机の角つまりボールの位置より頭が前にある時と、正面にある時と、やや後ろにある時での力の伝わり方を比べてみろ」

 前方にある時、正面で捕らえた時、ボールよりやや後ろに顔がある時、その時卓也が大声をあげた。

「動いた。揺れたよ。後ろの時揺れたよ」

 感動の顔をしている。

「うん。揺れたね。そこがヒッティングのポイントだ」

「今度は、まっすぐ伸ばした腕にバットがあるイメージだ。右側に十センチさがって机の角がボールだとすると先程のポイントよりずいぶんポイントが前になる。この位置で打ってしまったら球はどっちに飛ぶ?」

「ううーん。レフト方向」

「正解。この位置でまっすぐピッチャー返しをするにはどうしたらいい?」

「手首が、さっきの頭の位置にあればいい」

「正解。監督の指示がライト方向に流せ。の指示だったら」

「もう少し手首が前に出てバットが手首より遅れていたらいい」

「合格」

 大きな淳平の声が下にいた直子の耳まで届き、直子にも笑みがこぼれている。

「いまの答え全て正解だが実際にバッティングする時の注意事項は、回転してきた体の軸と頭はまったく動かさないことだ。つまり目が動いたらそんなコントロールをしようと思ってもできない。

 もう一つ、これだけのコントロールを楽々こなすには、強靭な握力と腕の筋肉が必要だ」と言って淳平は淳一の左腕の肘から手首までにある筋肉をつついて部屋を出て行った。

「キャッホー。やったね」

 うれしそうな卓也の声が聞こえる。淳平は服を着替えながら昔を思い出していた。


「淳一。キャッチボールをしょうか」

「いや」

 冷たい返事だった。

「どうして」

「いつでも出来るよ」


 淳平は苦笑いをしながら階下に下りていった。

 食卓に着くと直子が尋ねた。

「明日からまた練習なの」

「連休、どこかに行く予定をしていたのか」

「そうじゃないけど」

「淳一はいいセンスをしているよ。しかし捕球が問題だ。まだ球を怖がっている。明日から捕球の練習だ。バウンドしながら迫る速い球を捕球出来るかだ。淳一にとっては修羅場になるだろうなあ」

「ああ、聞いただけで怖くなるわ。ほどほどにしてね」

「うん」

 とは言ったものの、淳平は最短期間で的確に、また挫折させずに教えるにはどうしたらいいのか、頭の中ではまた試行錯誤の繰り返しが始まっていた。


第2話 連休初日

  1


 淳平にとっても試練の朝がやってきた。

 テレビでは、観光地に向かう車の渋滞状況が放映され、空港ではインタビューに「タイ四泊五日です」淳一と卓也ぐらいの子供ずれの家族が「フィジー三泊四日です」と誇らしげに答えている。観光旅行など予定のない者まで駆り立てて、どこかに出かけるのがゴールデンウィークのすごし方だと言わんがばかりの画面構成である。野球一色で修羅場を迎えるかもしれない御船家の連休を考えていた淳平は、テレビを見ながら大きなため息をついていた。

 やっと子供たちも起きてきたみたいだ。

「おはよう」

「おはよう」

 眠たそうな顔をしているが元気そうだ。


 食事の時、淳平が切り出した。

「淳一、今日から強化合宿だな。野球は面白いか?」

「うん、おもしろい」

「今日から守備の練習だ。怖くないか?」

「怖くないよ。こつを教えてもらえるのが楽しみだ。あんな速い球投げられるとは思っていなかったし、カーブが投げられたのにもビックリした。あんなカーブ誰も投げられないよ」

 興奮気味にしゃべる淳一であった。

「そうだな。こうして投げるんだ、ああして投げるんだじゃなくて、発射台を加速し発射の寸前に手の納まる位置と手首の微妙な状態で球は変化する。発射台を最大限に加速できず、またバランスを崩す人にかぎって、思いっきりひねって投げたりするがコントロールは悪く、球威もなく、バッターのいい餌食だ」

「お兄ちゃんにシュートやフォークを教えてやったら」卓也がじれったそうに言った。

「時間があれば教えるけど昨日のストレートでも重い速い球で、お父さんもびっくりしている。後は手の平が昨日のカーブとは反対向きに返して見たり、いろいろ投げて見ると自分の得意な球種が掴めると思うよ。すべてに共通する事は、同じ投球フォームで加速し、手が納まる場所も同じで、バランスを崩さないようにスィングすることだ」

 卓也はまだ納得できず不満そうな顔をしているが、淳一は理解しているようだ。

「はい、はい、話し込んでないで食事が終わったら練習、練習」

 珍しく直子が景気付けてくれたが、本音は早く片付けを始めたいのだろう。

「学校のグランドに行こうか」と淳平が提案した。

「よし、行こう」


 学校のグランドは連休初日の上に朝早いのでまだ誰も居ない。

 気持のいい朝だ。

「準備運動の代わりにフライのキャッチ練習をしよう」

 淳平は続けた。

「自分で球を上に放り投げ、キャッチはまず腕を水平にまっすぐ伸ばしたままで取る。落ちてくる球の軌道と距離感のテストだ。十回のうち何回取れるかだ。放り上げる高さは自分で自信がある高さでいい。卓也も競争だ」

「うん、やるよ」

「おっとっと」「おしい」

 大声を出しながら卓也も遊んでいる。

「卓、腕は伸ばしきっているから球が落ちてくるところに体を先に持っていかなきゃ」

「そうか」卓也は得意になって遊んでいる。

「よーし。何回とれた?」

「卓、五回」

「淳一は?」

「七回」

「次ぎは肘を軽く曲げた状態で取る。コツは肘を曲げたままヘソで取りに行く。いいな」

 面白い格好でまた競争が始まった。

「卓、七回取れたよ」

「淳一は?」

「八回」

「次ぎはグローブをヘソのところに構えて取る。コツは腹で取りに行く。だから上半身はやや後ろに反り気味で取る。さあ競争だ」

 またまた面白い格好だ。

「卓、完璧や」

 淳一も完璧であった。

「次ぎは顔を上に向け顔の真上で受ける。但し腕はまっすぐ伸ばしたままで受ける練習だ。受けると言うより止めてしまう感じだ。コツはなあ、腕の二倍の高さにボールがせまったぐらいの時にグローブを構える。いいな。後は球が落ちてくるスピードに合わせ掴むだけだ」

 淳一と卓也の捕球を比較すると、ボールに対する慣れの差が確実に出ていた。卓也はおっかなびっくりである。淳一も捕球時にボールが見えなくなるため、ぎこちなさがうかがえる。しかし顔面に向かってくる球の恐怖を拭い去らなければ次ぎの練習は無理なのだ。

 回を重ねるにつれ自信が出てきたのか淳一はボールをおもいっきり高く投げ始めている。

 淳一が九回、卓也が三回で差は歴然としていた。

「よーし、次は肘を柔らかく曲げての捕球だ。曲げた分、距離が短いから、落ちてくる球も最後の最後まで見ることが出来る。同じように曲げた腕の倍の距離まで近づいたら構えて取れ」

「逆じゃないの、早くかまえないと危ないのじゃないの」

 淳一が心配そうだ。

「逆じゃない。グローブはいつでも出せるように胸のあたりに構えておき、顔にあたりそうになったら、すっと出して受ける。はい、やってみよう」

 怖さが倍になったようだ。先程の捕球よりぎこちなさが目立つ。

 おもわず淳平は大声を上げてしまった。

「顔をそむけるな。スポーツの基本は頭を動かさないことだ。目が揺れたら的確な動作は出来ない。手で払いのけるような捕球を誰がしろと言った。ボールを止めるだけだと言っただろう。顔面でボールを止めるぐらいまで球を引き付けて、顔にあたる寸前にグローブをスッと出してボールを止めろ」

 楽しくてしょうがなかった卓也が父の大声にびっくりして立ちすくんでしまった。

「卓、お父さんと練習しよう」優しい淳平の誘いだった。

「うん」力ない返事である。

「お父さんが、近くからゆっくり投げるから捕ってみよう。それが出来たらこんなもの簡単だよ」

「うん」

「グローブは胸の前に構えて、よーし、ボールは顔に向かってくるけど、顔は動かさないでグローブで止めるのだ。慣れるまでは掴まなくてもいい。止めるだけでいい。ボールが卓也の顔にあたらずポトンと前に落ちたら大成功だ。いくぞ」

「あいよ」

 顔に向かってくるボールは怖い。腰が引けている。

 淳平は掛け声でリズムを掴ませることにした。

「あーら、よいしょ。この『よいしょ』の時に構えて捕る練習だ。あーら、よいしょ。うまいぞ。あーら、よいしょ。その調子だ」

 百発百中の捕球になった。捕球と言うより止めているだけだが、少しずつタイミングがわかり始めている。

「あーら、よいしょ。うまいぞ」

 淳一は卓也がおやじに怒られるのかと心配で見ていたが、淳一もヒントを得たのであろう、ボールをより高く放り上げての捕球練習をし始めたのを淳平は横目で見ていた。

「卓、うまいぞ。お兄ちゃんを見てみようか」

「うん」

 淳一はもう怖さが無くなった捕球をしている。

「今度はお兄ちゃんと練習だ。卓也は見てろ」

「うん」

 先日の遠投とピッチングの練習時、淳平は返球をワンバウンドで返していたのがじれったく思っていたのだが、やっとキャッチボールが出来るだろうことに満足している。

「お兄ちゃんの場合はちょっときついボールを投げるぞ」

 淳平は淳一の顔をめがけ投げた。

 きついと言っても速い球ではなかったが、淳一の捕球を見てびっくりした。捕球時、目の前がグローブで見えなくなる怖さはすでに無くなっている。昨日まではあれほど怖がっていたのに、その上、次第に余裕さえ見え始めている。捕球後、次の投球に入る準備動作の右足を軽く持ち上げながらの捕球が出来るのである。

「完璧だ。そのリズムだ」

 子供の才能は計り知れないものがある。ちょっとしたヒントでコツを掴んでしまうと体が動き始める。もう怖さは微塵も無く、どんな速い球も練習さえすれば取れるようになるだろうという自信がついたのだろう。

 淳平は淳一の顔をめがけて投げ続ける。

 いいタイミングだ。いい身のこなしだ。

 疲れてきた淳平は自分が一休みしたくなり、次の練習にメニューを変えた。

「よーし、次ぎは難しいぞ、後ろの腰のあたりにグローブを構えて落ちてくるボールを後ろ向きで掴む。コツはなあ。感だ」

「ええっつ、感?」卓也は楽しさを取り戻したようで、ふざけて見せた。

「卓、五回取れたよ」

「僕も五回取れたよ」

「どの辺を球が通っているかの感を養うにはいい練習だ。時々遊んでみるといいよ」

「次はゴロを受ける練習をしようか」

 やっと本番だ。ボールを受けることの恐怖感は少し和らいだことを確信し、次のステップに入ることにした。

 何気ない遊びも次の練習への準備であった。淳一はお父さんとの練習で不思議と自分が変わっていくのを感じ始めていた。


 五年三組になってクラスのメンバーが変わった中で、一番に声をかけて来たのは三年の時に同じクラスにいた野口達雄であった。

 彼は二年生の頃から野球部に所属している。

「御船、久しぶり。バトミントンは続けているのか」

「おう、達っちゃんか。バトミントンは四年の時やめたよ」

「そうか、ちょうど良かった。野球部に入ってくれよ。お前なら入って欲しいな」

「どうした。メンバーは十分居ると聞いているぞ」

「それが、監督も嘆いているんだ。けっこう野球を好きな者が集まってまじめに練習をしているのだが、五年、六年生の内の三人程が学外のジュニアチームに入っていて、そちらの活動の方が活発らしく部活では他の者とのレベルが違うことにじれったさから足並みがそろわず、ずる休み、そのうちまったく来なくなって困っているんだ」

「野球をしたことも無い俺が入ったからってどうなるってもんじゃないだろう」

「体育の時、走っても速いし、泳ぎもクラス一番だったし、サッカーでも人の倍、動いていたお前を知っている。運動神経は抜群だ。すぐに慣れるよ」

「かえって迷惑をかけるよ」

「そんなこと言っていたら何時になっても野球はできないぞ。正直な話をすると、毎年夏休みに入ったら和泉小学校との対抗試合、十月には大成北小との試合がある。これらは六年生と五年生が主体での試合なのだが、今の状態では戦力不足で試合は無理だろう。目標が見えず皆練習に身が入らないし、その三人はチームワークの面であてにならないし・・・正直言ってメンバーを補強したいんだ」

 淳一がバトミントンをやめた理由はバトミントンにスポーツ性を求めたが、この大城小学校のバトミントン部は、女性部員との交流の場であり失望を感じてやめてしまった。

 野球部に対する野口の熱意と、その三人の先輩や同輩に対する情け無い気持から淳一は、この際、野球をやってみよう。その三人を見返してやりたい。と思う気持が芽生え始め、翌日には部室の前に立っていた。

 しかし、そう甘いものではないことがその日の部活練習でさっそくわかった。監督は気を遣い、上級生組と一緒に練習をさせてくれるのだが、それが余計に負担となり、それからの毎日は屈辱さえ感じる日々であった。

 ノックの球をトンネルした。

 顎で球を受けた。

 腹でも受けた。

 バッティングの練習では何とか打てる程度の自分に他の部員とのレベルの差をひしひしと感じていた。うまくなるしかない。練習するしかない。と自分に言い聞かせても、一朝一夕でうまくなるわけでもない。部活で遅くなっても家族には部活で遅くなったとは言いづらく、遊びで遅くなったとごまかしていた。

 そんなある日、弟の卓也に部活の練習を見られてしまった。

 学校から帰ると、卓也から話を聞いたお母さんは喜んで「監督はどの先生?」「友達は何人いるの?」「誰が上手?」など質問攻めの後には「ユニフォーム汗まみれなんでしょう。洗濯するからもって帰ってきなさい」と怒られる始末であった。

 しかしこの事件をきっかけに急速な展開が起こるとは淳一も予想すらしていなかった。淳平が仕事から帰ってきて直子から淳一が野球部に入った事を聞かされたのが、ちょうどその日のことだった。


 淳平はグランドの地面に指で何かを書き始めた。

「空中を飛んでいるボールが突然方向を変えることは絶対無い事が今までの練習でわかっただろう」

「うん」二人が元気よく答えた。

「バウンドをしてくる球もまったく同じだ。大きくバウンドしてくる球も小刻みにバウンドしながら来る球も、皆同じだ」

「だって石に当たったら急に方向が変わるよ」

 卓也がえらく熱心だ。お兄ちゃんの言いたいことを代わりに言ってあげているつもりだろう。

「確かに卓也の言うとおり。しかしグランドには大きな石は無いだろう。小さい石やくぼみでの変化はグローブの大きさでカバー出来るがそれでも地面の状態で突然変化する場合もある。だから確実に捕球できる位置で捕球することと、とっさの場合はそれに対応できるだけの反射神経が必要だ」

「卓、反射神経はいいよ。あっちゃ向いてホイは得意だから」

 淳平は卓也の真剣さに笑みを浮かべながら説明を続けている。

「そうか、あっちゃ向いてホイは夜しよう」

 そう言って淳平は地面に書かれている大きなバウンドの線を指した。

「この大きなバウンドのカーブで絶対球筋が変化しない所は何処だ?」

「ここ」

 淳一が指差したのは、山の頂上を過ぎて地面に着地するまでの所であった。

「正解」

「着地に近ければ近い所ほど球筋は明確で、また捕球が下手したて取りだから目が最後まで球を見続け捕球することが出来る。一番確実な捕球する位置だ」

「なるほど」と言ったのは卓也だ。

 分かって言っているのかは疑問だが、お兄ちゃんが正解したことで相づちを打ったのだろう。

「テニスでも同じ事だ。この位置に自分を持って行けるかどうかが問題だ。地面から跳ね上がり、カーブの頂上までの間で捕球をしても、先程言ったように球筋は前のバウンドとほぼ同じのカーブを描くので難しい事では無いのだが、バウンド時の突然の変化には鋭い反射神経と熟練が要る。出来るだけバウンドの頂上を過ぎた所に自分を持って行くことで確実性が増すし捕球し易い」

「そーか」また卓也だ。

「そのコツは膝を柔らかく曲げて構え、ピッチャーが投げた球を打者がどの位置で、どのようなスイングで打ったかで球筋をすばやく察知することから始まる」

「そんなの、わからないよね、お兄ちゃん」

 父の説明を否定することになるので、お兄ちゃんの同意を求めるように淳一の顔を覗き込んでいる。

 淳一は昨日聞いたバッティングの室内練習の説明を思い出していたが、完全には理解できない説明であった。

「この事はバッティングの練習時にまた説明しようか。今日の練習のコツは、バウンドしてくる球のリズム、バウンドのリズムを掴むことだ」

「例えばどんなリズム?」卓也が質問した。

 淳平は、また地面の絵を指差し、

「この大きなバウンドの時は『トーン、トーン』この中ぐらいのバウンドは『トン、トン、トン、トン』この小さいバウンドは『トトトトトトト』もっと小さいゴロは『トトトトトトト』と速いリズムになる」

「なーんだ。ラップかロックのリズムかと思っていたのに、鶏が走るリズムだな」

 卓也の冗談に皆、大笑いである。

 この笑いも出なくなるような修羅場が訪れるとは淳平以外誰も想像していなかった。

「さあ、始めよう。卓也は見てて」

「あいよ」

「二十メーターほど離れろ。大きいバウンドから練習だ」

 大きな山なりのツーバウンドで届くぐらいの球を投げる。

 うまくキャッチした。

「次は、やや後ろ。いいか、いくぞ」

「次は、前だ、いくぞ」

「後ろだ」

 バックしたけど間に合わず、ボールは淳一の後ろにぽとりと落ちた。

「ばかたれ、後ろに下がるのに後ろ向きでバックするばかが何処に居る。前向きで走れ。着地点を予測し、不安だったら首だけ振り向き、球筋を確認しろ」

「次は、前だ。」

「そんな走り方をして突っ込みながらの捕球じゃ頭、目が揺れて、球を的確に捕らえられないだろ。着地点を予測したら思い切り突っ込み、捕球前には余裕を持って膝を使って目の揺れを抑えた捕球をしろ」

「次はバックだ。お前は左利きだから球筋が右側にあるようにして走れ。追いつけなかったら走りながらでも取れ」

「前だ」

「基本を忘れているぞ。前、前のバウンドを見てその軌道とリズムを掴め。出来るだけ下手したて取りでヘソから下で取るのが基本だろ」

「後ろだ」

「振り向け、そうだ」

「前だ」

「これだけ大きなバウンドは着地点しか捕球位置は無い。うろたえるな。軌道を見極めろ、リズムを掴め」

「トーン、トーンだ」

 何度、繰り返しただろうか。次第に淳一の走りと捕球体勢の取り方に余裕が出始めた。決して疲れて動きが鈍くなったのではない事を淳平は確信していた。

「後ろだ。ナイスキャッチ」

「前だ。ナイスキャッチ」

「休憩」

 淳平は卓也のほうを見た。固まって見ている。しばらく動こうともしない。一年生の卓也にとっては、ショックだったのかもしれない。

「さっきの練習と今の練習がつながったな」

 汗なのか涙なのか顔は紅潮している淳一が、こっくりうなずいた。

「次の練習は軌道の読みより、リズムに合わせた捕球の感と体の動きが優先する。やれるか」

「やれるよ。大丈夫」

 なかば、やけくそ気味の返事であったが淳平には頼もしく聞こえた。


「おーい、次は御船。上がりだ、バックフォーム」

 監督が打った球は大きく伸びてくる。

 顔の前でグローブを構え後ろ向きにさがったが間に合わず、ボールは後方に着地し淳一は転がるボールを一目散に追いかけていく。

「どんまい、どんまい」達ちゃんの声が聞こえる。

 淳一の目には、呆れた顔で御船先輩のあがりを待つ後輩部員の姿が焼きついていた。


 淳平は目が潤んでいる淳一に気がついたが目を合わさないように勤めた。悔しかっただろうことは今日の練習を見てもわかったからだ。

 必ず皆のレベルには追いつける。

 追いつかしてあげる。

 くじけるな。

 頑張れ。

 淳平の目も潤み始めたが隠すように次の練習に立ち上がった。

「やるぞ。今度は中ぐらいのバウンドだがスピードは先ほどより速くなる。コツはバウンドのリズムだ。鼻歌でも歌いながらバウンドのリズムを掴むんだ。気楽にやれ」

 とは言ったものの、一番難しい練習になるだろうことを淳平も淳一も感じていた。

「最初はもっと離れよう。もう十メーターバックだ」

 この距離だと十分バウンドのリズムが掴めて自分をベストの捕球位置に持っていく事ができると考えた。

「いくぞ」

 始まってしばらくすると淳平の声がしだいに大きくなっていく。

「なにやってんだ。ベストの捕球位置はどこだ。忘れたのか」

 ベストの位置に体を持っていくことができない。

 顔にボールが当たる。

 肩にボールが当たる。

 つぎは怖くなり捕球体制に入る前に顔は逃げている。

「跳ね上がる球を取るのは十年早いぞ」

 下手したて取りで捕球しようとするのだが、球のリズムが掴めない。

 着地前の地点に入り込めない。

 入り込もうとするがタイミングが合わず難しいショートバウンドとなり、顔面や肩に当たった球が大きくはじいて後方に横にと転がっている。

「スコップを前に突き出し、ボールをすくいに行く感じだ」

「そんな捕球では胸か顔で捕球するようなものだ」

「球のリズムが掴みにくかったら円を使え。真っ直ぐ突っ込んだらリズムが掴めないのなら、お前は左利きだから球筋に対し左側から回りこみ正面で受けろ」

「そうだ。回りこみながら、どの着地点に飛び込めるか考えろ」

「もう一度さがれ。いくぞ」

「そうだ。その調子」

 と言っておきながら、わざと淳一の左側へ投げる。

「ばかたれ、バウンドがよく見えリズムが掴める時にわざわざ左側に回りこむな」

「そうだ、その調子」

 捕球のたびに後ろに下がるのだが次ぎの球に間に合わず、次第に淳平と淳一の距離は短くなっていた。それでも淳平はスピードを落とさず、速いバウンドの球を投げ続ける。

 顔で、肩で、腹で、また顔での捕球が続く。

「正面に入り込め」

「そうだ。その調子」

 突っ込む勢いで前につんのめりながらの捕球をするや、

「捕球の後は投球だろう。そんな格好で投球に移れるか。腰を落とせ、尻を落とせ」

「リズムが掴めてきたぞ。できるだけ球筋に真っ直ぐ突っ込め」

「ダシュが遅い。円を使え。ダッシュの一歩目は左に踏み出す感じだ。やって見ろ」

「そうだ。ダッシュし易いだろ」

「追いつけない球筋に対し、前にダッシュしたって取れるわけがないだろう。追いつけないと判断したら斜め後方にダッシュだ」

「そうだ。うまいぞ」

 着実にリズムを掴み始めていた。真っ直ぐ、また左右に振っても確実に着地点に体が入り込めるようになり、その上、余裕を持って着地点に入れるコツを掴んだ様だ。上達すれば難しい球を投げて見たくなる。そんな感覚が淳平にも現れた。

「ナイスキャッチ」

 ちょうどサードを守る距離に淳一がいた時、淳一の目の前でバウンドするような速い球を投げた。痛烈な当たりの球がサードを強襲したような状況である。驚いた事にそれをさばいたのである。

「終了」

 淳一が走って帰ってきた。

「最後の球は明日の練習予定だった。バウンドして跳ね上がってくる球をさばくのは、球の変化が予測できないので捕球の確立は悪く、非常に難しい。しかし、怖がらずうまく体で押さえ込んだな。正解だ。突然予測できない変化が起こっても体で止められる。もう明日の練習はいらないかな」と冗談げに淳平が言った。

「だけどバットで打った球が取れるかな」

 淳一のこの笑顔の一言は、淳平には自分が言っている意味以上に、捕球する事への意欲を見せてくれた淳一の言葉としてたまらなくうれしく思えた。

「体で受けたらお父さんの球よりチョット痛いだけだ」

 いい笑顔だった。自信がついたのだろう。

「さあ、帰って、休憩したら昼ご飯だ」

「卓」

 忘れていた。完全に忘れていた。

「あれ、卓は?」

「途中で帰ったよ」

「悪い事したなあ。ほったらかしにして。怒ったのかな」

「大丈夫だよ。帰る時、Vサインを出していたよ」

 それにしても淳平は卓也がお母さんにどんな報告をするのか気がかりであった。


   2


 家に帰ると、卓也はすでに帰っていた。

 まずはひと安心だが、淳平にはまだ卓也の報告内容が気がかりである。一年生の卓也にはお兄ちゃんの練習は、見るに酷な光景であったかもしれない。十分とは言えないが、体ができている五年生の淳一だからこそあの練習ができたのであって、もし卓也に教える場合は全くやり方、進め方は違ってくる。野球に対する恐怖感や嫌悪感、ましてや父の教えに対しては弱い者いじめとしか思えない不信感が芽生えてしまっていたら? 取り越し苦労であってほしいと祈る気持であった。

「どうしたの、その顔」と直子。

「たいしたことないよ」

「赤いあざが三つもあるよ。どうしたの?」

 時間が経つにつれて赤黒く目立つようになってきたようだ。

「左の目、大丈夫? 目薬持ってこようか」

「大丈夫だよ。もう痛くないから」

 居間でくつろいでいる淳一と淳平に「お疲れさま」と声をかけるつもりで来た直子だが、淳一の顔を見てびっくりしてしまった。

 興奮してしゃべる卓也の様子から、そうとうハードな練習だと察知はしていた直子であったが、想像以上の練習であったことに我を忘れ、かん高い声を一段と高く響かせている。

 淳平の目は、直子より二階から下りてきた卓也の顔が気がかりであった。普段なら冗談の一つも出る頃合であるが、冷めた顔をして、目の焦点が定まらない様子に淳平は心配していた事が的中してしまったことを知ったが、もう後の祭り。いずれわかってくれるさと自分に言い聞かせていた。

 淳平に「顔を冷してこいよ」と促され、淳一は顔を洗い、濡れたタオルを気持ちよさそうに顔にあてて上を向いて立っている。

 直子は昼食の用意をしながら、洗面所で顔を冷している淳一の姿を見るにつけ不敏に思えてならなかった。なぜそこまでやらねばならないのか、練習相手をしてくれるお父さんでいいのに。

「淳一、リズムに体を合わす事ができるようになったな。明日も今日の続きをやるぞ」

「バウンドした直後の位置に入るのは易しいが、取るのが難しいね。反対に、着地前に入るのは難しいが、捕球は楽だよね」

 洗面所から居間に戻って来ながら、はつらつとした声で淳一が話す。

「そうだな、とにかく走ってくる球のリズムだ。慣れるしかないな。母さん、淳一は見込みがあるぞ」

「何の見込みがあるの」

「理解が早いし、・・・・・・」

 淳平は、連休中の練習で皆に追いつけなかったら可哀想だと口から出そうになったが、楽しく部活をやっているだろうと思っている直子を傷つけることになると考え、思わず口を濁した。

 昼食を終えると子供たちは二階に上がっていったが、それを待ちかまえていたように直子の口が開いた。

「お父さん、休み返上で淳一や卓也と付き合ってくれるのはありがたいと思うけど、度が過ぎるんじゃない」

「いろいろ教えてあげるにはいいチャンスだと思っている」

「部活で監督がいろいろ指導してくれているのだから、休みの間の練習相手でいいと思うのだけど」

「部活では全体のレベルアップとチームワークに終始する。まあ俺のレッスンは塾の勉強みたいなものさ」

「淳一は、へただと言うの」

「そうは言ってないだろう」淳平の語気も上がった。

「あの顔を見たら、お父さんの練習が異常なのか、淳一のレベルが低いのかわからない」

 そう言って涙ぐみ言葉が途切れ途切れになる直子を見ても本心は言えない。言えばもっとつらい思いをする。しかしびっくりするほど覚えが早い淳一であるが、そのことを言っても我が子の傷だらけの顔をすばらしい上達の軌跡に置き換えることは母親には無理だと感じていた。

「お願い。お兄ちゃんを見る卓也もかわいそう。楽しい連休にしてあげて」

 鼻をすすりながら訴える母親の姿に心が動いた淳平であった。しかし

「淳一は笑っていただろう」

「淳一は昔から負けず嫌いなの。私の手前、意地を張っているのよ」

「その意地がヒーローになれる資質じゃないか」

「ヒーローなんかになって欲しくない。普通の子で十分よ」

「わかった。あいつがを上げたら、あいつが無口になったら、手を抜こう。それでいいだろう」

 泣き崩れる直子を見ながら淳平は心の中で叫んでいた。

時間があれば俺もそうしたい。部活で肉体の痛み以上に精神的な苦痛を味わったからこそ、あの笑顔が出るんだ。つらいだろうけど見事にこなし身についている。心配するな。負けん気の強い本来の淳一は健在だ。


      連休二日目


 今日も同じ練習がおこなわれた。

 帰ってくるやいなや、直子は心配そうに

「今日はどうだった」

「疲れたぁー」と淳一。

 直子は淳一の顔より卓也の顔のほうが情報源として気になっている。

「お兄ちゃん、すごいぞ。バッチリ。取れないと思った球も、後ろ向きに走って振り向いてキャッチ。抜群のタイミング」

 興奮気味に話す卓也の声を聞いて直子に安堵の笑顔が見える。

 決して淳平が練習で手を抜いたわけではないのだが、直子には淳平に自分の意が通じ手心を加えてくれたと思って心の中で淳平に感謝していた。

「お父さん、明日も今日の練習の続きをするの?」

 淳一は今日の出来を本当に満足しているようだ。

「そうだな、明日はバッティングの練習を始めようか」

 卓也が大きな口と大きな目を見開いてお兄ちゃんの顔を見た。

「やったね」と言わんがばかりの顔である。

「淳一、バットを持って来いよ」

 駆け足で取ってきた。

「今までの自主トレの成果を見てやる。まず左手をピンと伸ばし思いっきりバットを握ってみろ」

 淳一は身体検査を受けるような顔つきでバットを握った。

「次は右手で」

 何の意味だかわからない。

「うん、やっぱり右打ちだな」

「なんで? 左のほうが腕相撲も強いよ。左打ちの方が一塁にも近いし有利だと聞いているよ。この際、左打ちを練習したいのに」


「御船、球を良く見ろ。引き付けて打て」

 監督の大きな声が飛ぶ。

「御船、飛ばそうと思うな。合わせろ」

 達ちゃんの声も聞こえる。

 なぜだ、なぜ打てない。当たってもボテボテのゴロ、バットは空を切り、体はのけぞってしまう。

「ドンマイ、ドンマイ」

 下級生部員の声に惨めさを感じ「右打ちは苦手なのかもしれない」と感じていた淳一であった。


「左打ちは時間があれば練習しよう。まず確実なのは右打ちだ」

 そう言って淳平は自分の部屋になにかを取りに行った。戻ってきた手には自主トレを始める日に撮った淳一の腕の写真があった。

「淳一、この写真と今の腕の具合を比べてみろよ」

 思わぬ話に淳一は不思議そうに写真を見始めた。

「左腕をよーく比べてみろ。以前に比べ、しっかり握れるようになったことがわかるだろ」

 さっぱりわからない。卓也も覗き込んでいる。

「お兄ちゃん、バットを強く握ってみて」と卓也が言う。

「やっぱり」

「えっ、卓也わかったのか」淳平は半信半疑だ。

「お兄ちゃんの左腕のここが立ってきてるよ。ほら、前は、開いて腕の内側が上を向いていたのに今は横を向いているよ」

「正解」

 淳平の大きな声に卓也は飛び跳ねて喜んでいる。

 淳一は笑顔すらなく、自分の腕の違いに気づき、何度も強く握ってみては写真と見比べ、右腕とも比べあっている。確かに肘の筋肉が立っている。三分間の練習で一分を過ぎる頃から痛くなりピンピンに張っていた筋肉の場所だ。小指と薬指で強く握ると確かに筋肉が立ってくる。また脇もしまる感じがする。まだ淳一はバットを握り締めている。じっとバットを持って三分間、ただ痛いのを我慢するだけのあんな練習が、こんな形で自分の体に変化を起こし、それを我が目で確かめられた不思議な体験に我を忘れている。やっと卓也のほうを見た淳一はニヤリと微笑んだ。

脱皮したな。彼を包んでいた殻から脱皮したな。もやもやが吹っ切れたな。淳平はそう思いながら淳一の様子を見ている。

「お兄ちゃんがんばったんだ」卓也も嬉しそうだ。

「なのになぜ右打ちなの」卓也のほうが意気込んでいる。

「速い球、変化する球を的確に捕まえるには微妙なコントロールが必要になる。脳はコンピューターだ。脳は的確な判断をし瞬時に指令を出すが、末端の腕がバットを振り回す勢いに負けて、次から次に出る脳の指令どおりに球を捕まえられなかったら空振りだ。仮に当たったとしてもバットに自分のパワーが伝えられなかったらボテボテのゴロだ」

「左が強いのだからパワーが出せるのは左打ちじゃないの」

「球を打つパワーは体の回転から生じる遠心力であり、腕の力で打つのではないよ。遠心力は腕の力の何十倍もの力があるんだ」

「ふーん」

 卓也の熱心な質問に負けてしまいそうな淳平であった。なんとかいい説明はないかと模索している。

 その時、淳一が質問をしてきた。

「バットを強く握るのは、なぜ小指と薬指なの」

 その質問を聞いた瞬間、淳平はあるひらめきを得た。それは『百聞は一見にしかず』ある人のスイングを見てもらうと全てがわかるだろうと考えたのだ。

 その前に、淳一の質問に答えることにした。

「昔から小指は五本の指の中で力指と言われていて、何かを握る時はまず小指からしっかり握り始めると力が入るんだ」

「握力計で測定する時も?」

「そう。小指から締め上げるんだ」

 卓也が不思議そうな顔をしている。

「ふーん。こんな小さな小指が力指か」

「友達と何か約束した時に指切りをするだろう」

「うん。『指きりげんまん』のことだね」

「約束を破ったら一番強いこの力指を切ってお詫びします。と言う意味なんだぞ」

「えっ、そんな意味だったの、もう絶対『指きりげんまん』は止めよう」

 大笑いが起こった。

「直子、受話器を取ってくれ」

 受話器を持ってきながら、

「こんなに遅く誰に電話するの。もう九時半よ。迷惑よ」

「大丈夫だ。後藤さんだ」

「御船です。夜分申し訳ございません。ご主人をお願いしたいのですが」

「こんばんは。御船です。・・・明日、予定、あいていますか・・よかった。打ちっ放しに行きませんか?・・うちの息子も連れて行こうと思っているので。・・・・いえいえそうじゃなく、あなたのすばらしいスイングを息子たちに見せてあげたいのですよ。・・・ハッハッハッ・・・ありがとうございます。じゃ、明日十時、オオシロレイクゴルフセンターでお待ちしています。おやすみなさい」

「やったー。今度はゴルフの練習だ」卓也が大喜びしている。

「おいおい。ゴルフがしたいのか?」

「うん」

「そうか、しかし明日は『パワーとは何か』の勉強会だ。それがわかってから、ぼちぼち教えてやるよ」

「ちぇ、つまんないの」

「後藤さんはゴルフがじょうずらしいね。シングルクラスで、ドライバーは三百ヤード近く飛ばすんだって」と直子が話した。

「シングルって何? 三百ヤードってどれくらい?」淳一が質問した。

「ゴルフのスコアーが基準スコアーより何打オーバーしているかで、九打までは一桁の数字なのでシングルクラスと言うんだ。つまりうまい人のことを意味しているんだ」

「お父さんのスコアーは?」卓也のきつい質問だ。

「お父さんは、九十から百十の範囲だから、十八から三十八オーバークラスだ」

 大笑いだ。卓也は腹を抱えて笑っている。

「三百ヤードは?」淳一は距離が気になっているようだ。

「十パーセント引きがメートルだから、約、二百七十メーター位だな」

「そんなに飛ばすの?」

「お父さんは?」また卓也だ。

「二百ヤードから二百二十ヤードかな」

 また腹を抱えて笑う卓也に苦笑いをする淳平だった。

「後藤さんは、お父さんより七歳も年上のかたよ」

 追い討ちをかけるように直子が言ったため、皆大笑いだ。


   連休三日目


 今日も皐月晴れだ。もうたくさんの人がゴルフの練習をしている。

 最近ウッドクラブのヘッドがメタル製になった物が増え始め、キーン、キーンと空気を切り裂くような金属音を残し、白い球が弾丸のように二百五十ヤードのマークが表示してあるネットに向かって飛んでいる。淳平も一ヶ月ほど前にドライバーをメタルウッドに新調したばかりだった。

「おはよう」

 振り返ると後藤さんだ。

「おはようございます。せっかくのお休みの日にお付き合いいただいてありがとうございます」

「ぼんもゴルフを始めるのか?」と淳一のほうに話しかける。

「僕は野球をやっています」

「そうか、野球がうまい人はゴルフもうまいぞ。がんばれよ」

 こっくりうなずく淳一であった。

 お父さんの隣で準備を始め、左手に手袋をする後藤さんの右手をふと見た瞬間、淳一の目は、後藤さんの右手に釘付けになってしまった。なんと指が二本しかない。親指と人差指の二本しかないのである。右手の、それも力指の小指も薬指も中指もない。頭を殴られたような衝撃が走った。身震いが起こった。

 卓也も気づいたらしく

「お兄ちゃん、・・・」

 淳一は首を振って話を制止させた。

「さあ、始めようか」と言って短いクラブを手に持っている。

「淳一、卓也、後藤さんのスイング、球筋をしっかり見るんだぞ。すばらしいぞ」

「おだてるなよ。緊張するなぁ、こんな真剣な目で見るギャラリーの前で打つのは初めてだな」と言いながら、短い距離の柔らかい球を打ち始めた。

 後藤さんの後ろで、同じようにお父さんも打ち始めた。

 打ち方にさほど差は認められない。

 少しずつ体の回転が速くなりだした。

 速くなったとはいえ、後藤さんのスイングはスローモーションの様な振り方である。なのに飛び出した球はぐんぐん空に昇っていくような、そして頂点を過ぎると、ひらひらと木の葉が落ちてくるような球筋である。お父さんのは飛び出しから高く舞い上がり、大きな円弧を描いて飛んでいく。打ち方には差がないし、体の回転はお父さんのほうが速いように見える。

「後藤さんの球筋はきれいだろう。バックスピンがフルに効いた球筋だよ」

 バックスピンのことは知っている。しかし何処が違うのだろう。

「見るポイントは頭の上下左右の振れ、ダウンスイングの始まりから中間そしてヒッティングまでのスピードの変化と体の回転、ヒッティング時の左腕、右腕の状態と体の状態、特にパワーをどのように受け、どのようにして百パーセント球に伝えているかだ」

「御船さん、そんなにたくさん言ったら混乱してポイントがわからなくなるぞ」

「そうですね。ポイントは遠心力で球を打つことと、その遠心力を支える回転の軸が何処にあるかだ」

「その通り。ハッハッハッ」

 淳一も卓也も無言のまま見続けている。

 クラブを取替え、アイアンの練習が続いている。

 後藤さんの右手は親指と人差指の根元をしっかり閉じて、親指の指先の腹をグリップに当てて、人差指の指先を軽くグリップに巻きつくように添えているだけだ。なぜこんなに飛ぶのだろう。右手はほとんど使っていないように見える。長いクラブになってもほとんど同じゆったりとしたリズムで打ち続けている。

「後藤さん、ドライバーショットを見せてくださいよ」

「そろそろドライバーにしようか」

 同じように立ち、同じタイミングで同じような速さのスイングだった。

「ビシーン」と異様な音を残し、水平に飛び出した球はぐんぐん上昇し、ネットの中断に刺さった。生唾を飲む二人だった。

「スゲー」

 淳一は声も出ず、後藤さんの顔をじっと見ている。

 ビシーン、ビシーン、ビシーンとすごい球が飛んでいく。

 淳一はお父さんのほうを見た。

「キーン」という金属音を残しすごい球を打った。そのはずだが球は放物線を描きネットまで届かない。

「お父さん、力いっぱい打ってみて」淳一からのリクエストだった。

「よし、ドラコンだと思って力いっぱい振ってみるか」

 後藤さんも手を休め、お父さんのスイングを見ている。

「キーン」先程よりは強い音だ。しかし同じように放物線を描き、落ち際にネットの下部に当たった。

「やった。ネットに当たったね」卓也が喜んでいる。

「御船さん、練習不足だね。左足がパワーを逃がしているよ。右腕が勝って左腕が負けていますよ。右腕で押してもだめだ。右腕は左腕のコントロールを助けてやる程度でいいんですよ。腰が右腕を押し出してくれる感じでいいんですよ。それでも右腕は強いからね、ヒットした後にパワーが爆発し、継続したパワーで加速する感じですよ」

 決して父のスイングや飛距離は他の練習している人に引けを取らない程きれいなスイングと飛距離をだしている。しかし後藤さんの的を得た指摘は三つだと淳一は考えた。

 軸足がパワーに負けて、せっかくのパワーを逃がしている。腰、肩、腕の順なのに、利き腕の右腕が邪魔をしている。そしてヒット後の継続した加速につながっていない。

「ありがとうございます」と言って素直に助言を受ける父を、淳一は誇らしく見つめていた。

「一服しますか」と言って、全員が喫茶室のテーブルについた。

「おじさんはね、淳一君のお父さんよりまだ若かった頃、人一倍腕力も強く、よく飛ばすしゴルフが面白くて、こう打つんだ、ああ打つんだとゴルフ談義に花を咲かせていたよ。ところが或る日、仕事中の事故で指を飛ばしてしまったの。ショックだったねぇ。右手でクラブが握れなくなったんだ。悲しかった。もうゴルフが出来ないと諦めたんだ。

 そんな時、テレビでトムなんとか言ってたなぁ、レッスンプロの人がいろいろな曲打ちをやっていた。その中に左手一本で球を打つ曲打ちをやったのを見たんだ。感動したね。俺もやれる、やって見せると決心したんだ」

「よく飛んだの。その人の球」

「そうだよ。二百ヤード飛ばしたんだ」

 卓也が淳平の顔をチラッと軽蔑するような目で見た。片手でも二百ヤード飛ばすんだよと言いたい顔つきだ。

「左手一本では、かすりもしなかったね。恥ずかしかったよ。人差指と親指でグリップを掴んでスイングしてもダメで指の皮が破れたよ。あまりに痛いんで、グリップにそっと添えるだけで振ってみたら、いい感じで振れて当たったんだ。それからだ。左腕の筋力アップ、握力アップの練習を続けた。そしてゆっくり振ってジャストミートさせなければ飛ばないこともわかった。右腕の腕力で打っていた時よりもきれいな球筋で打てるようになった。つまり、ジャストミートしたら、ほっといても飛んでいくよ」

 緊張もほぐれ、皆な大笑いで後藤さんの話に聞き入っていた。


 後藤さんの話しとスイングは相当インパクトを与えたのであろう。家に帰ってからは、お母さんを捕まえてお母さんの後ろから二人がついて回りながら今日の出来事を話している。

「そう、そうなの、後藤さんもがんばったんだ。淳一も卓也もがんばらなくちゃー」

 後藤さんは、もう少し練習をしてから帰るとのことで別れたが、自分の思いつきに付き合ってくれて、これだけの勉強をさせてもらったことに、淳平は感謝の気持ちを持って子供たちの弾む会話を聞いていた。

 淳一が駆け寄ってきて淳平の横に座った。

「お父さんのスイングも後藤さんのスイングも他の人に比べたらゆったりとしたスイングだけど、なぜ飛ぶの」

「お父さんだって、後藤さんだって、もっと回転を速くしてもっともっと飛ばしたいさ。しかし、後藤さんが言ってただろう。ジャストミートできなかったら飛ばないって」

「そうか」

「技量がないのに回転を速くしても、そのパワーをコントロールできなかったら意味がない。お父さんも後藤さんに指摘されただろう。速いダウンスイングをしてパワーを作ったのだが、当てるほうが精一杯でインパクトの瞬間にはパワーを逃がしてしまっているって」

「じゃ、後藤さんも左腕の筋力アップと右腕の補助のタイミングの練習をもっともっとして回転のスピードを上げれたら、もっと飛ばすことが出来るんだね」

「その通り、お父さんももっと飛ばしたいよ」

「練習しなさい。足腰を鍛えなさい」

「はい。・・・ハッハッハッハッ」

「パワーが逃げるってどんなこと?」

「うん、勢いよく飛んできた球を捕球する時、飛球線に対しちょっと引いてやると受けた時の衝撃が減るよね。またハンマー投げや砲丸投げで回転を加速している時、回転軸がフラフラしてたらせっかくのパワーが出ないだろう。野球やゴルフでは軸足が遠心力を支えきれず、回転軸が流れてパワーを逃がしてしまうことだ」

「そうか、わかった。後藤さんは柔らかく握っていても加速してインパクトの時、左腕はピンと張っていたよ。すごく太い腕だったね」

「よく見てたね。プロは一トン近いパワーに耐えるため噛みしめた奥歯が割れてしまう時があるそうだよ」

「うそだろ」

「ほんとだ。相撲取りの武蔵丸のぶちかましは、二トンの計測値が出たのをテレビで見たことがあるよ」

「うそだー。受けたら死んでしまうよ」

「お父さんが受けたら死ぬだろうね、それがスポーツの世界だよ」

「卓、一トンだぞ・・」と言いながら卓也のほうに走っていった。


 昼食時、直子が淳平に尋ねた。

「昼から練習するの」

 淳平は淳一の顔を見た。やりたそうな顔をしてこちらを見ている。

「お父さんは疲れたよ。今日お父さんはお休みだ。だけど淳一は自主トレだぞ」

「よっしゃ。何をするの」

「素振りをして次のことがわかったら明日から本格的に練習だ」

「宿題は何?」

「一つ、膝を曲げ腰を落とし、素振りをする時に、加速する感じを掴め。加速は、膝、腰、肩の順だ。

 二つ、ヒッティングの位置から目を離さず振りぬく練習だ。ヒッティングの位置を過ぎて十センチはまだ加速している感じを掴め。その時は後藤さんが言ったように右腕が効いてくる。右腕が伸びたら左腕にかぶってくるはずだ。その感じを掴め。

 三つ、そのまま振りぬいたら、二回転ぐらいしてしまうぞ」

 卓也が笑った。意味がわかっているみたいだ。淳平は続けた。

「フィニッシではパワーを逃がせ。さっき話した通りだ」

 卓也がお兄ちゃんの顔を覗き込み「さっきの話って何?」

「パワーの逃がし方だ」

「どんなにして逃がすの?」

「回転軸を、膝を使って流すんだ」

「正解」

 淳平は理解できていた淳一に、喜びから大声をだしてしまった。 父の大声に圧倒され、卓也は理解できない様子だったが「ふーん」と言って黙ってしまった。

「練習しながら卓也にも教えてやってね」直子が淳一に頼んでいる。

「四つ」

「まだあるの」卓也がふざけて見せた。

「一人が練習している時に見ている者は三メートル離れて見ること。近づく時には声をかけ、声をかけられたら、絶対スイングはしないで確認すること。以上」

「わかった、わかった、けがをするなって言うことだろう」

「正解」

 またもや淳平の大きな『正解』の声に、皆大笑いであった。


     連休四日目

 

「今日もいいお天気よ、お父さん」

 直子は疲れが見え始めた淳平が気がかりである。

「今日も練習するの」

「もちろん」

「子供たちも疲れたみたいでまだ起きてこないわ」

「そうだな。いろいろなことがあり過ぎる連休だもんな」

「そうそう、卓也は友達の誘いで今日は釣りに行くと言ってたわ」

「川か? 気をつけないと危ないぞ」

「注意しておくわ。昨日子供たちが練習している時、お父さんはスポーツショップにテニスボールを買いに行っていたけど、テニスボールで野球の練習をするの」

「うん、店で空気を少し抜いてくれって頼んだら不思議そうな顔をしていたよ」

「お父さんらしいね。空気の抜けたテニスボールを買いにきた人はお父さんが初めてでしょうね」

「軟式のボールで空気を少し抜いたらブヨブヨだ」

 そんな会話が続いていると子供たちが二階から下りてきた。

「おはよう」

「おはよう」

 親の心配は取り越し苦労だ。子供たちは元気そのものである。

「卓、フリスビーを持っていたよな」と淳平。

「持ってるよ」

「何枚持ってる? 貸してくれ」

「何するの?」

「打撃練習だ」

「フリスビーで打撃練習?・・・聞いたことがないですねぇ。かみさんに買ってもらったフリスビーを二枚持っていますけど何に使うか教えてもらえませんか」

 下を向き右手の指先を額に当てて考え込む刑事コロンボのしぐさをする卓也の姿を見た直子は、吹き出しそうになるのをこらえながら朝食の配膳をしている。そして淳一がまだ四歳の頃の事を思い出して、もう我慢が出来ないとばかり一人吹き出していた。

 それは淳一がおもちゃの人形を操り「チョー」「バギューン」と大きな擬音を発しながら一人座って遊んでいた時の事である。

 卓也がまだ乳飲み子の頃で、ぐずって泣いている。

「あーあ、嫌になるね、卓也の大きな泣き声には」

 すると淳一が「子供ちゅうもんはな、腹が減ったら泣くもんよ」

 その言い方はお父さんそのものであり、その夜、淳平と大笑いしたことを思い出していたのだった。


 今日も学校のグランドには誰もいない。絶好の練習日和だ。

「さっそく練習だ。素振り開始」

 淳一の素振りを横目で見ながら淳平も準備体操をしている。

「気持ちがいいなぁ」

 連休四日目だ。淳平は淳一がここまでついてきてくれたことをうれしく思いながら、朝の空気を思いっきり吸っていた。

「打撃練習その一、スイングは昨日練習した通り。そのスイングでお父さんのグローブを打ってみる。構えて・・・ヒッティングポイントは何処だ?」

 淳一はバットでその位置を示した。

「よし、そこにグローブを斜め前からトスするからたたいてみろ」

 淳一には目的がなんだかわからなかった。

 しかし打つたびにズシンと衝撃が返ってくる。

「いいか、よいしょのリズムでポイントにグローブが入ってくる。そのタイミングに合わせ、バットを加速しヒットする」

「その調子だ。次は後藤さんの話だ。ヒットする瞬間、腰の回転で右腕を押し、バットをさらに加速し、ヒットをもう少し継続する。桜の木や部屋の入口の柱をバットで押す練習したあの感じだ。但し、回転軸は逃がさないようにすること」

「そうだ。もっと滑らかに。そうだ」

 淳一もバットにグローブがまとわりつく感覚、またバットがグローブを掴んではじき出す感覚を察知した。

「そうだ。グローブが五メーターも飛んでいったぞ。右腕で力を入れたわけではないだろ。今までのスイングの加速をヒッティングポイント以降にまで継続しただけだ」

「グローブの芯に当てて遠くに飛ばすのが目的ではない。今は自主トレの成果が感じられるかどうかだ」

「よし、回転を速くしてパワーアップだ。但しグローブは同じ速さでポイントに入るぞ」

「そうだ、よくわかったな。ダウンスイングの開始を遅らせる。よくプロ野球の解説者が引き付けて打つと言っているだろう。このことだ。何か感じるか?」

「うん、グローブがバットに吸い付く感じがする。腰がグローブを放り投げているような感じがする」

「よーし、その通りだ。しばらく続けるぞ」

 淳平はうれしくなった。しっかり自主トレの練習をしていたことがよくわかる。タイミングもいい。腕も真っ直ぐ伸びている。右腕はポイントまで余裕を持ってためを作っている。軸足もしっかりしている。ひときわ感心したのは、フォロースイングだった。柔らかく膝、腰、そして体の反りを少し加えパワーを逃がしている淳一のフォームに見とれている様子であった。

「今の感覚を忘れるな。速い球だからと言って速く振るんじゃないぞ。今のタイミング、つまりスイングの開始を早めるだけで、ヒッティングポイントに入ってくる球に合わせるだけだ。他のことは考えるな。いいな」

 淳平の興奮した言い方に、大事なことなんだろうな、くらいの理解であった。

「よし、次ぎはヒッティングポイントに入ってきた球のどこを叩くかだ」と言って淳平はグローブをフリスビーに持ち替え、淳一の正面五メーターほどの場所に立った。

「フリスビーが野球の球だ。ゆっくり投げるから、今練習したタイミングで、フリスビーの先端を叩け。スイングは変えるな。今までと同じダウンスイングでフリスビーの先端もしくは一センチ奥を狙え」

 淳一は、やれやれ人が見ていたらかっこ悪いな。友達にでも見られたら笑い者になるだろうなと考えたが一理一理ある父のレッスンは自分に絶対必要だ。役に立っている。恥ずかしさよりも一言も聞き漏らさず実践していきたいと自分に言い聞かせていた。

 ゆっくりとスーと飛んでくるフリスビーだが、先端を叩くのは思ったより難しい事に気がついた。狙えば狙うほど空振りだ。淳平は黙ったままフリスビーを拾いに行き、また投げてくる。大きな声で怒鳴って欲しい。どこがおかしいのか怒鳴って欲しい。そんな迷いを淳一は感じていた。

「リズムだ。リズムを忘れているぞ」

「リズムでタイミングを掴め」

 父の助言は聞こえているが自分の煩悶している事とは違う。先端を叩くには水平か、ややアッパー気味にスイングしなければいけないのでは。そんな迷いと戦っていた。

「何をしてる。ダウンスイングが崩れたぞ」

「何をしてるんだ。今度は大根切りか」

 次第に大きくなる父の声に、頭の中はパニックになりだした。

 やっとフリスビーに当たるようになってきたが、グシャ、パカッと変な音を立てて目の前に落ちる。どうなればいい当たりなのかわからない。

「休息」

 淳一は立ったまま動かない。

 淳平はフリスビーを拾いに行きながら、

「大きな球だぞ。フリスビーは野球ボールの五、六倍はあるぞ。気楽にやれよ。リズムだ。タイミングだけ考えて今までのスイングをすればいい。他は何も考えるな」

「はい」

 気を取り直し練習を再開した。

 リズムだけを考えタイミングを合わせることに集中した。父のいった通りだ。当たり始めた。一端当たり始めると面白いように先端が見えてきた。淳一は改めてリズムの大切さを知った。焦れば焦るほどリズムが悪くなっていった事を痛切に感じていた。

「淳一、ゆっくりスーと飛んでくるフリスビーのスピードは近くから投げているせいもあるが、ピッチャーが投げる球の速さと同じ位かそれ以上だ」

 父の声に我が目を疑った。そう言われてみるとそうかもしれない。父の手を離れてからあっという間に届いている。

「もっと早く言ってくれてたらよかったのに」と淳一。

「それぐらい、自分の目で確かめろ。リズムを掴む事を忘れているからだ」

 父の一言が自信となって、いいタイミングで当てている。

「いい当たりだ。フリスビーがお父さんの近くまで戻ってきたぞ。平ぺったいフリスビーだから回転させるのは無理だが、見事に上向きの力が加わっているぞ。こんな平ぺったいフリスビーがバットに吸い付き跳ね返されたね」

「よくわからないけど、フリスビーがバットに乗ったような感じはしたよ」

「それが感じられたら上出来だ」

「どういうこと」

「グローブやフリスビーで練習してきたことは球を掴むことなんだ。出来るだけ長くバットに吸い付かせて打つ、これが基本だ。スイングはダウンスイングがいい事は知っているだろう」

「聞いて知っているよ。なぜだかわからないけど」

「フリスビーの先端をたたく為には水平に振った方が当たり易いと考えたとして水平に振った場合、打ち返せるポイントは先端の一点になってしまう。球は水平にまっすぐ飛んでこない。この状態でフリスビーの先端にバットの芯を合わせることは当たったとしてもまぐれに近い。たいていは芯をはずすよ」

 どう振れば当たるのか水平に振った方が、あるいはアッパーに振った方が当て易いのではと悩み迷ってしまった淳一だけに、父の長い講釈も心地よく聞き入っていた。

「芯をはずしたらどうなるかな。バットの芯が上に少しはずれたらフリスビーはバットの下側を滑って後方地面に落ちるだろうし、芯が下に少しはずれたらバットの上を滑って後方高く跳ね上がるだろう。しかし先端またはその近くをダウンスイングで叩くとフリスビーは回転が加えられバットの上面に乗りながら吸い付いてくる。つまりフリスビーを捕まえている間が長くなるんだ。野球のボールも同じだ」

「丸い球でも?」

「そうだよ。野球のボールは平べったいフリスビーのように現象がはっきり現れないだけでまったく同じだ。だってフリスビーの先端がうまく捕まえられなかった時でもフリスビーは後方に飛んでいかずに前に叩き落とされていただろう。あれを水平に打っていたら勢いよく後方に飛んで行ってたはずだ」

「そう言われるとそうだよね。野球ボールの先端を捕らえ、インパクトの瞬間ヘッドが返るとき、ボールはバットの曲面を回転しながら吸い付いているわけだ」

「その通りだ。ボールの場合で良く考えられたね。フリスビーの練習も合格だ。タイミングの取り方が非常にうまくなった」

「次は何をするの」

「次はフリスビーのように硬い物ではなく柔らかいテニスボールで練習しよう。テニスボールの球を潰して回転をかける感じを掴む練習だ」

 淳一は首をかしげた。

「初めからボールで練習しても良かったのになぜフリスビーで練習したの?」

 人に見られたら笑われるような練習をなぜしたのかと聞きたい淳一だった。

「先程、水平打ちや大根切りをやっていただろう。迷いがある時、ボールではその差がわからない。フリスビーは現象がはっきりと現れるしバットに乗せる感じが目で確認できるからだ」

「なるほどね」

「ほんとうはな、ボールを投げるよりフリスビーの方が楽だろう。スピードも出せるし、ハッハッハッハッ」

 淳一もうなずきながら笑っている。

 暫くの休息の後、待ちきれないように淳一は素振りを始めた。どんな結果が出るのかが楽しみのようだ。

 淳平はテニスボールの缶を開け、真っ白いボールを四つ用意した。

 サイドスローで投げてくる父の球だが、フリスビーよりもタイミングは取り易かった。空気が抜かれやっと丸さを保っているテニスボールはグチャと音を立てて跳ね返る。二人とも黙々と練習を続けていた。

「先程の疑問を確かめてみようか。水平に振ってみろ」

 確かに正面に打ち返せる数が減って、ボテボテの球か後方へのチップが増えた。

「ダウンスイングに戻してみろ」

「すごい」

 思わず淳一が声をあげた。グシャという音を残し、前方に転がる球にも勢いがあり、ゴロでも生きたゴロだ。

「アッパーで振ってみろ」

 見事に後方へのファールチップが多くなるのがわかった。

「もとに戻してみろ」

 ここまで来たら信じざるを得ない。タイミングが遅れ、球の下を叩いたかなと思ってもファールチップにならず、前方へストレート気味の球が返る。タイミングが早過ぎて球の上を叩いたかなと思っても球は勢い良くゴロで父の方へ転がる。

「今度は少しスピードを上げるぞ。力で振るな。タイミングだ。リズムだ。負けそうなら腰で打て」

 空振りだ。

「どんまい。どんまい」

 当たり始めるとグシャという音が一段と強くなり始めた。打球に勢いが付き始めた。

「何か変わったか」

「気持ちいいよ」

 淳平が期待した返事とは違っていたが、気持ちよく打っているみたいだ。

「もっとスピードを上げるぞ」

「何かわかるか」

「ちょっと腰が入ると、テニスボールがバットにベッタリ引っ付いたようだ」

 やっと期待した返事が返ってきたようで淳平も満足しながら投げては受けている。

「球の飛び方が自分の思っていた感じと違うだろう。打ったバットの線に対しボールの飛ぶ角度、ボールを叩いた位置に対しボールの飛ぶ方向をよく見ておけ」

「外角低め」

「今度は高めだ」

「わかったか。スッポ抜けのストレートなら高めは水平打ちでもボールが目の高さに近いので打ち易くまた当たる確立も高いが、今みたいに凡フライになるぞ。だから高めのボール球は打ちたくても打つな。今日はボールを拾いに行くのが面倒だから打ってもらう方が助かるが、その代わり高めを打った時の悪い球筋をしっかり頭に入れておけ」


「太田先生おはようございます」

「小野先生か、おはよう」

「見てますな。私も先程駐車場の方から見ていましたが、なかなかいいフォームで打っていますね。そうとう年期が入ってますな。六年生の子ですか」

「五年生だ。つい最近野球部に入った子ですよ」

「よその部からの引っこ抜きですか」

「野口が連れて来た子だが、ずぶの素人だったよ」

「そんなことないでしょう。ジュニアクラブでやっていたとか。ところで誰ですか」

「五年生の御船だ」

「彼が御船君か。以前はバトミントンをやっていると聞いていたが」文化系のクラブを担当している小野先生には馴染みが薄かったとみえる。

「職員会議の資料を作ろうと早く来たのだが、ついつい見とれていたよ。面白い練習だ」

 十一時からクラブ活動関係の最終予算会議が開かれる。四月中に終わる予定だったものが連休に持ち越されていた。

「監督もあの練習を取り入れてみてはどうですか」

「御船には、もう卒業だ。もっと足腰を鍛え、守りのフォーメーションとコンビネーション、攻撃のフォーメーションを徹底的に練習させるよ」

「楽しみですなあ」


「淳一、次は野球のボールでやるぞ。ボールは一つしかないし、拾いに行くのが大変だから淳一はバックネットの前に立ってくれ」

 空振りを想定しての配置だった。数回は空振りするだろう。また本球の怖さもそのうち克服するだろうと淳平は考えていた。淳平は小学生が投げる球の速さを知らないので、淳一との投球練習で投げ込んできたスピードを参考にして投げ始めた。

 一球目は空振りだった。

「腰が引けているぞ。今までのスイングと違うぞ。球が怖いのか。卓也と一緒に練習しただろう。目の前までボールが来ても目を離さなかったら、すっとグローブが出て捕球できただろ。あれと同じだ。思い出せ、リズムだ、タイミングだ、頭を動かさず、目を揺らすな。いい球だけを打て」

 二球目は外角にはずれ、淳一は見送った。バックネットの裾の鉄板に当たったボールは、淳平の近くまで跳ね返ってくる。

「ボールの先端を桜の幹と思え。部屋の入口の柱と思え」

 三球目、淳一はボールを止めることができた。

「よし、球をとめたな。上出来、次は後藤さんのスイングを思い出せ」

 四球目、膝、腰、肩を流れるように使ったいいフォームだ。やや遅れ気味のタイミングであったためライト方向へ飛んだが、生きた打球であった。拾いに行って返って来た淳平が言った。

「よし、スピードを上げるぞ」

 もう小学生の投げる速さを越えている。

「違う。スピードが速くなったからといって回転を上げるんじゃない。回転を上げるのは次のステップだ。今までのスイングで十分だ。リズムだ。タイミングを掴め。そして球を捕まえたら腰で加速する感じを掴む練習だ」

 速い球に負けまいとしてスイングが速くなるのは必要条件ではあるが、今はスイングのリズムを崩さず、ダウンスイングの開始からヒッティングまでバットを加速する感じを掴み、バットを球のスピード、リズムにあわせる練習である。それをうまく淳一に伝える言葉がないことにじれったさを感じていた。スピードを落として、すばらしい球を打った先程のスピードで投げてみた。速い体の回転からのスイングは遅い球に合わすことが出来ず、回転軸は流れ、見事に空振りである。

「こんな遅い球が打てないのか」ひときわ淳平の声が荒くなった。

「もし、振り始めのタイミングが早いと気づいたら、後藤さんのスイングを思い出せ。膝、腰を使い、ゆったりとした加速をするんだ。速い球のリズムに間に合わないと思ったら、後藤さんのスイングを思い出せ。膝、腰を使って、ダウンスイングの加速を速くし、リズムを合わせろ。つまりスイングの開始から力を入れて振回すな。スイングの開始は、電車のスタートスピードだ」

 緩急をつけた球を交互に淳平は投げた。二人とも無言で練習が続いていた。しだいにリズムが掴め、球がよく見えるようになって来たのだろう。いい打球が返り始めた。

「次はインパクト後の継続する加速だ。後藤さんが言っていたパワーの爆発だ。腰を入れろ」

「腰の回転が早すぎる。腰を入れるのはインパクトの直前からだ。後藤さんのスイングを思い出せ」

「軸が流れているぞ。腕を折らずに遠心力を背筋で引っ張れ。体重を左足で受けろ」

「よーし。すばらしい」

 淳平が大きく飛んだ球を拾いに行っている間に、淳一は右腕で目の辺りを拭いている。

 太田監督は職員室の窓越しに、涙を拭く淳一の姿を見逃さなかった。あれだけ速い球を打ち返せるとは、ゆったりとしたフォームから打ち返せるとは、この連休中に何があったのか。彼が一番苦手な守備を見てみたい。

「太田先生、職員会議ですよ」

 後ろ髪を引かれる思いで職員室を出て行く監督であった。

 速い球、遅い球に対し、見た目ではまったく同じスイングとしか思えないゆったりとしたスイングから打ち出される打球は、毎回淳平を球拾いに走らせていた。

「卓也がいないと、お父さんはばててしまうぞ」

 父の声音が柔らかくなってきたことで、淳一は自分のスイングに自信を持ち始めた。

 またもや淳平が拾いに走る。走りながら「何かわかったか」いつもの父の質問だ。

「球がよく見える。ゆっくりに見えるよ」

 最高の返事であった。淳平の講釈がまた始まった。

「むちゃなスイングをすると、目が揺れる。遠心力をコントロールできなくなって、加速を鈍らせ、手打ちになる。その結果軸が流れる。パワーは出ない。芯をはずす。いい事は何もないぞ。毎日やった自主トレの効果は、目が動かないスイングで発揮されるんだ。わかったか」

 淳平は息を切らしている。また投げてくる。

 拾って帰って来るとハアハア息をしながらまたしゃべる。

「更に回転を速くするのは後日だ。部活で足腰を鍛えろ。家で腕、腹筋、背筋を鍛えろ。今は耐えられずバランスを崩し始めているぞ。激しい遠心力が十分支えられる様になってから飛距離アップだ」

 返事する間もなく、また投げてくる。

「今のはカーブだ。ちょっと泳がされたな。もう一度投げるぞ」

「見えたか」と言うやいなやいい当たりだ。また走ってボールを拾いに行く淳平だった。

「次はシュートだ」

 ストレートに近い速い球だが、みごとに打たれた。球拾いの淳平は、ついに疲れからか歩き出した。黙って帰って来た淳平が、また投げた。アンダースローの球だ。淳平めがけて勢いよくライナーが戻ってきた。淳平はグローブに納めると、息も切れ切れに言った。

「びっくりしたか」

「うん、だけどアンダースローの球のほうがよく見えたよ」

「合格だ。終了」

 その声は疲れ果て、いつものあの大声はもうなかった。そして走って片付けを始めた淳一と足を引きずりながらグランドを後にする淳平の姿が対照的であった。

 帰り道、ふと見渡すと田植えが始まっている。

「この米が実るまで、米の成長とお前の成長の競争だな」

「うん、お父さん疲れた?」

「当たり前だ。ちょっと速い球を投げたら、あんな大振りをするとは思ってもいなかった。

自主トレのイメージで素振りのイメージでやってくれたらこんなに苦労しなかったのに。しかしよくわかっただろう」

「うん、ボールがよく見えるようになった。スイングが楽になった。自主トレの意味がやっとわかった」

「楽しくなったか」

「うん、野球って思っていたより簡単だね」

「こいつ、生意気に。パワーが付くと、もっと面白いぞ」

「今日で終わり?」

「そうだな。明日も天気が良かったら仕上げをやろうか」

「なにするの」

「打球を受け、バックフォームの練習だ」

「いいぞ、やりたい」


「御船、なにやってんだ。ボールはグローブで受けろ。顔がつぶれるぞ」

 朦朧とする頭の中に遠くの方から逹ちゃんの声が聞こえる。

「逃げてどうするんだ。体で止めろ」

 監督の大きな声が聞こえる。

「ドンマイ、ドンマイ」

 後輩の声が聞こえる。トンネルをした。

「腰を落として、グローブでとめろ」キャプテンの木下先輩の声が聞こえる。なぜか真っ暗闇の中から白いボールが牙をむいて向かってくる。先輩や後輩の声が遥かかなたから聞こえてくるようだ。気が付くとボールが頭上を越え、後ろに飛んでいく。

「なにボサーとしている。拾って来い」

 監督の怒鳴る声が聞こえる。

 部活の帰り道、逹ちゃんがいつも励ましてくれた。

「だいぶ慣れたな。皆、始めはそうだった。そのうちうまくなるよ。コツを覚えたらすぐうまくなるよ」

 この道を歩きながらだった。


 今は違う。もう皆についていける。このお父さんのおかげだ。

 疲れはてたお父さんの顔を気遣い見上げながらも、足取り軽く歩いている親子の後ろ姿を農作業の手を休め見送るお爺さんがいた。

「達の友達の御船君じゃなかったかな」


 家に帰ると卓也も帰って来たところだ。

「お兄ちゃん、どうだった」

「バッチリだ」

「お父さん、ほんと」

「ああ、ほんとだ。卓也が来てくれなかったから、お父さん球拾いでクタクタだ」

「やっぱり卓がいないとだめか。情ないなあ。明日は手伝ってやるよ」

 なまいきな言い方だが憎めない可愛さがある。

「そうだな、明日はお父さんの助手をやってくれ」

「助手じゃなくて、マネージャー」

 みんな大笑いである。

 昼食の後、淳平は昼寝をすると言ってソファーで寝てしまった。

「お父さん、そうとう疲れているのね。卓也、明日はお願いよ」と直子が言った。

「まかせなさい」

 相変わらず、憎めない子である。


 淳平は夕方、電話の音で目がさめた。

「淳一、野口君から電話よ」直子の声だ。

 淳一が二階から駆け下りてくる。

「もしもし。えっ見てたのか・・逹ちゃんのおじいちゃんが?・・そんなんじゃないよ。うん、練習した。天気が良かったらやるよ。ちょっと待ってね」

「お父さん、逹ちゃんが練習一緒にしたいって、いいかな」

「いいよ。もってこいの話だ。ボールも持って来るように言って」

「逹ちゃん、いいって、ボールも持って来てね。じゃ明日な」

 電話を切った後、淳一は大喜びだ。

 直子が心配そうだ。

「お父さん大丈夫、二人相手じゃ疲れない? あさってから仕事よ」

「明日は捕球練習だが、お父さんのノックはへただから思った所に行かず、打球は散らばると思う。捕球する者がたくさん居る方が安心して打てるよ」

「僕も入ろうか?」

「卓也には、打球がきつ過ぎる」

「ちぇ面白くないの」

「卓也はホームベースに居て、ワンバウンドで返って来る球を受けてお父さんに渡す練習だ。ワンバウンドでも怖いぞ」

「おまかせ」

「おお怖、剣道部の防具、借りれないかしら」

「ばかに、すな」

 卓也が剣道の防具を身につけグランドに立っている姿を想像して大笑いであった。


   連休最後の日


 曇り空であるが疲れが残っている淳平にとって、皐月晴れのまぶしい日差しの中での練習よりは恵みの日和だ。

 いつものように九時過ぎにはグランドに立っていた。

「準備運動だ」

 子供の体は準備運動など必要がないほど柔らかく、淳平自身の為の準備運動であった。

「おーい。御船」

「逹ちゃんだ」

「おはよう」

「おはようございます」

 礼儀正しい子だ。

「毎日やっていたのか」

「うん」

「誘ってくれたらよかったのに。家のいやな仕事がサボれたのに」

 悔しそうな野口君の顔を見て淳平が笑ったので、淳一もつられて笑っている。

「今日は私が打つ球の捕球練習だ。卓也がホームベースに立ってワンバウンドでバックホームされる球を受ける。手を抜くな。卓也はうまいからな」

 逹ちゃんの顔を見ると心配そうな顔をしている。

 淳平は練習内容の説明を続けた。

「グランドの中ほどで二人が守備をする。外野の浅い守りを想定する。一人が突っ込んだら、もう一人はエラーした場合のことを考え、バックに回ってフォロー体制をとる。いいな」

「はい」

 二人同時に返事が返った。

「それから、淳一のことを淳と呼ぶが、野口君のことを達と呼び捨てにしていいかな」

「いいよ」

 守備に向かう時、野口君が淳一に話しかけている。

「お前の父さん気合が入ってるな。怖いな」

「へましたら怒鳴られるぞ」と言って淳一が脅しをかけている。

 ホームベース上では淳平が卓也に説明をしている。

「掴まなくてもいい。止めるだけでも練習だ。もし怖いと思ったらヒョイとよけろ。こうだ。ヒョイ、ヒョイ」

 淳平はよけ方を教えているが、その格好はくねくね人形のようなよけ方である。

「球は、バックネットの鉄板に当たって返って来るからそれをうまく捕球しろ。いいな」

「はい」

 相当緊張しているのが手に取るようにわかる。卓也が顔面キャッチをしないことを淳平は祈った。

「いくぞ」

 始まった。まだ弱い打球だ。淳一が捕球し返球する。余裕がある。それよりも卓也のほうが心配であった。

「あーら、ヒョイ」

 卓也には先天的なリズム感を持ち合わしているのかと疑ったくらいで見事にすれすれで身をかわし、跳ね返ってくる球に食らい付いている。思わず吹き出しそうになる淳平であったが、これなら安心して任せられると思った。

 次第に打球が強くなり始めた。それに呼応するように、淳平の声も大きくなっていった。ほとんどが速いリズムのゴロであり、フライはたまにしか無い。

「そんな取り方ではバックフォームがワンテンポ遅れるだろう。ランニングキャッチでも捕球時は次の体勢が取れるようブレーキをかけろ。走りながらボールが投げられるか。ステップを踏むのは無駄だ」

「達、リズムが取りにくかったら、飛球線に対し、右側に踏み込み、斜めから見てリズムを掴め」

 逹ちゃんは右利きだ。意味がわかるか心配する淳一だった。

「人のことは心配するな、着地点に確実に入れ」

「達、跳ね上がる球を取るのは十年早い。確実に捕球できる着地前に入り込め」

 淳平は跳ね上がる球を難無くこなす野口君のさばき方に、さすが野球部と思ったが、あえて着地点に入り込む確実な捕球練習を期待した。

 高いバウンドの球が来た。

「さがれ」ひときわ大きな声だ。

「ナイスキャッチ」

 野口も思わず叫んだ。バックに走る淳一、そして振り向きざまにキャッチしバックフォームする淳一に野口は息を呑んだ。

「達、下がれ、なにをしてる。飛球線に対し右を走れ。それが基本だ」

 逹ちゃん意味がわかるかな。またもや心配する淳一だった。

「達、もう一度だ、走れ、右に振れ」

「そうだナイスキャッチ」

 さすがにいい身のこなしだ。理解が早い。

「突っ込め、腰を落とせ、そうだ。ランニングキャッチよりそれの方がバックフォームが早いし確実な投球が出来るだろ。ランニングキャッチで失敗したら、被害が大きい。わかったか」

「達、突っ込め」

「なにをやってる淳、フォローに入るのに真横に走るな。捕球位置が交差する一点になってしまうだろう。確立の悪い取り方をするな。まぐれだ。フォローに入る時は円を使え。飛球線に突っ込む体制が間に合わないと思った時は、飛球線に対し円を使いながら後方に回り込みバックハンドだ。その位置を掴め。リズムだ」

 なぜ見えるのだ。真横に走ったことが。

 フォローに入った淳一が怒鳴られている。

「淳、突っ込め」

「よーし」

 次の球は、また淳一の方ではあるが到底取れない飛球線だ。

「達、フォローだ。なにをやってる。今言ったことを聞いてなかったのか。真横に走るな。円だ。飛球線に対し弧を描くように追いつくんだ」

「もう一度」

 また淳一には到底取れない位置の打球だ。

「達、フォローだ」

 淳一は振り返って見た。

「ナイスキャッチ」

「さすがだ、円をこなした」

「いいか。まぐれに期待するな。練習の時はしんどくても確率の高い基本を練習しろ」

 逹ちゃんが回り込んで飛球線に入る姿が見えた。体が傾き、急カーブを曲がりながら飛球線に入るのがはっきり見えた。

 この光景を熱い目で見ていたのは、淳平と淳一だけではなかった。 先程からこの光景を駐車場の方からじっと見つめている人がいた。

 太田監督である。

 たぶん今日も練習しているだろうと思って来たら、野口も一緒にやっているのには予想外であった。

 ショートバウンドを体で包み込むような捕球や、体をのけぞらして捕球する技は、長年野球をやってきた野口には当たり前のことだが、御船の捕球は野口を超えているように思った。あの確実な位置への入り方と、安心して見ていられるあの捕球は野口に無い華麗さを持っている。後ろ向きにダッシュし、確実にポイントに入り振り向き、余裕を見せる捕球は、いつ覚えたのだろう。確実さでは、他の者のレベルを超えている。また返球がすばらしい。柔らかく力が入っていない。そしてスピードのある返球を見ていた監督は、どんな球を投げるか一度マウンドに立たせてみたい。そんなことを考えながら見ていた。

 淳平は、バックフォームの返球がされた時は次のノックの球筋を考えており、卓也から当たり前のようにボールを受け取り次ぎのノックをしていた。卓也の存在をすっかり忘れていた事に気がついたのだ。返球がされた時、じっくり卓也を見てみた。

 なんと受けているではないか。

 そう思えば、先程からバックネットの裾の鉄板にボールが当たる音を聞いていない。

「すごいな。怖くないのか」

「うん、『あーらヒョイ』で手を出したらボールがグローブに入るようになったよ」

 意外な話にびっくりしてしまった。

「すごいな。ボールが見えているな」

「うん、ボールに寄って行き、すれすれでよけて、手を出したら、簡単に掴めたよ」

 飛球線から体を瞬間逃がしての捕球であるが、この速いボールを正面で止めるのは一年生には無理な話しだ。しかし実にうまく体を逃がし球威を殺している。

「卓に任せたぞ。怖いと思ったら逃げろよ」

「あいよ」

「もう少し、続けるぞ」

 それからは、淳平の口数も減って黙々と練習が続いた。

「外野フライだ。バック」

「よーし、あがりだ」

 淳一と野口君が駆け足で帰ってきた。

「休憩だ」

「おじさん、こんな練習を毎日していたのですか?」

「まあな。しかしバットで打っての捕球練習は今日が初めてだ」

「びっくりしたんだ。御船が変身してたんで」

「へんしーん」卓也が変身のポーズをしている。

「どこが違っていた?」

「ボールを怖がっていたのが無くなっていたし、ボールを取るのがむっちゃうまい」

「なんだ、その、むっちゃは」

「おじさん知らないんだ。流行り言葉だよ。無茶苦茶うまいをむっちゃうまいって言うんだ」

 淳平はついて行けない感じがした。

「今日、役に立ったかな」

「むっちゃ勉強になったよ」

 またむっちゃだ。しかしいい響きを感じる。

「何が勉強になった」

「御船の動きを見ていたら、おじさんの言ってることがすぐわかったよ。真似したらスムーズに捕球できるし、楽ちんだったよ」

 淳一は嬉しかった。達ちゃんの慰めや励ましの言葉はよく聞いていたが、心から誉めてくれている言葉は初めてで心地よく聞こえた。

「野口君の守備はどこだ」

「セカンド。時々キャプテンの代りでキャッチャーもするけど」

「セカンドか、セカンドは守備の要だ。エラーをすると被害が大きいぞ」

「ショートやサードの方が重要じゃないの」と卓也が質問をした。

「打球は比較的ショートやサードによく来るからうまい人を配置するが、重要なポイントはセカンドだと思うよ。一、二塁間を抜かれると、一塁走者は三塁まで狙うし、二塁走者はホームまで突っ込む可能性があるだろ」

「そう言われたらそうだなあ」

「達ちゃんは、ダッシュもいいし、捕球もうまいから認められてるんだ」

 淳一は達ちゃんがお父さんに誉められているのが自分の事のように嬉しかった。

「野口君、淳一の球を受けてみるか」

 突然の提案に淳一も野口君も口をポカンと開け、お互いの顔を見合っている。

「気持わりーなあ。淳一の球を?」

 守ってはヘタ、打ってはボテボテ、まあ見られるのは投球ぐらいだったけど、捕球がこれだけうまくなっている事を考えると、もしかして淳一が何かやらかすのでは、と期待と好奇心に不安が重なり合っていた。

「よし、やろう」

 達ちゃんの声を聞いてガッツポーズをする淳一を見た淳平は安堵の肩を落としていた。もう大丈夫だ。部活の練習時、後輩たちの前で受けた屈辱感がいい形で練習にそして自信に結びついたことを確信していた。

「突然、おかしな変化球なんか投げるなよ」

「変化球の投げ方は知らない」

「えっ」

 淳一がマウンドに立った。マウンドから投げるのは初めてだ。

 淳平も固唾を飲んで見守っている。

 大きく足を踏み出し、腰が思ったより低い流れるようなフォームで一球目が投げられた。大きく足を踏み出した時は、力み過ぎだと一瞬思ったが、低い安定した腰の高さと、右足で全体重を受け止めるサウスポーに、おもわず『おみごと』と叫びそうになった。

 二球目、三球目、四球目と投げるたびにスピードが増しているようだ。ゆったりとした同じタイミングで流れるような投球である。 膝、腰、肩の回転に加え、教えていないはずの上半身のバネを回転に加えている。

 フィニッシュの上体と手の位置がいつも安定して同じ位置だ。コントロールもいい。投げるのが嬉しくてたまらないのか、のびのびと投げている。

 野口君は何も言わず、何かに取りつかれたように捕球している。手応えがあるのだろう。

 二十球ほど投げた頃、淳平は休みを入れた。

「休憩」

 淳一が駆け寄ってきた。野口君が信じられない顔をしている。

「化けもんや」

「なんで化けもんなんや?」

「いつ練習したんや。球が浮き上がって来たぞ。ストレートで来た球が、手前でホップするんや。グーっと」

 淳一にはそんな投げ方をしたわけではなく意味がわからなかった。

 淳平には野口君の言っている意味がわかったが、あえて説明するのを控えた。

「淳一、まだ回転を上げれるか」

「まだ余裕があるよ」

「よし、やって見よう。但しバランスが崩れそうに感じたら、そこが今の筋力の限界だ。それを越すと肘が抜けるぞ、肩を壊して使い物にならなくなるぞ」

「うん。わかった」

 ならび淳一がマウンドに立って野口君がキャッチの準備をした。 ゆったりとしたモーションから大きく足を踏み出した。息を呑む瞬間だ。

「ビシッ」

「スゲー、すごいよ」と野口君が絶賛している。

「お父さんがバッターボックスに入るぞ。まずインコース高め胸すれすれだ。威圧をかけろ」

 全く同じフォームで流れるように投げてくる。先程より回転が速くなったとも思えない。力が入っているとも思えない。どこも変わったように思えないのに凄さが増している。淳平もそう感じていた。 踏み込みがやや大きくなったのと肩の回転が腕より速く、そして腕が肩より遅れてくるのがもっと遅くなった様にしか見えない。

「真中」

「アウトコース低め」

 コントロールもいい。ビデオテープを巻き戻し見ているような錯覚に陥った。

 突然淳平が言った言葉には野口君も度肝を抜かれてしまった。

「セカンドの位置から投げろ。今のリズム、今の力で、わかるか、練習時の反対だ」

「セカンドから?」野口君がびっくりしている。

 言葉足らずで理解してくれたか淳平は戸惑ったが、成り行きに任せた。遠投、遠投でフォームを作り、徐々に距離を短くしたあの練習の反対だ。意味はない。ただあの練習の意味が、このことであったと淳一に思い出して欲しかっただけだった。

 淳一が投げた。少し外角にはずしたが見事な弓なりの球だった。 力みの無い見事なフォームだった。淳平の顎は小刻みに震え、つらかった練習に耐え、よく身に叩きこんだ淳一を見て、目頭が熱くなるのをひっしに我慢していた。そして一言叫んだ。

「いい遠投だ。終わり」

「遠投? 今のが遠投?」

「そうだ。力で投げるんじゃない。あれを膨らませたら遠投だ」

 野口は次ぎの言葉が考え付かない。

淳平は野口君にアドバイスをした。

「キャッチャーはあんなゆったりとした投げ方では盗塁されてしまう。クイックモーションで球の位置は肩の高さか肩より低い軌道で、腰、肩の回転と肘で投げるから逆につらいぞ」

 投げる事がこんなに重要とは考えても見なかった。キャッチャーはピッチャーの球を上手に受けるのが仕事だと思っていた。しかし淳一の投球を見て、セカンドも守る自分に投球の重要さと練習したらこんな球も投げられるのだと教えられたようだった。

 淳一が駆け寄ってきた。

「もうやめるの」

「十分だ。連休の強化練習はすべて終了だ。後は、部活で基礎体力をつけて、パワーアップ。そして攻め方、守り方を勉強しろ」

「おつかれさま」

 卓也が一声をあげると全員が呼応しグランドをあとにした。

 彼らがグランドを後にする光景を腕組みをし見ている太田監督がいた。手帳を出して何かを調べている。そして携帯電話を取りだし電話をし始めた。

「大城小の太田です。御無沙汰ですなあ。やっと決心がつきましたよ。やりましょう。

ところで夏休みに入った次ぎの週の二十八日の日曜日はどうですか。決定ですな。いやいやこちらこそ胸を貸してもらいます。楽しみにしています。よろしく」

電話を終えると厳しい顔をして車の方に向かって行った。

 

 淳一と野口君にとっては通いなれた帰り道であった。

 淳平はこの連休前の週末に淳一が野球部に入っていることを聞かされた。それがこの強化練習の始まりであった。

 淳一はキャッチボールもしたことが無かった子である。部活での淳一の練習振りは見なくても淳平には想像ができた。団地内の広場で近い距離からの投球練習、そして少しずつ距離を広げての遠投の練習を始めたのだが、返球したボールを捕球する淳一の姿はボールを怖がり野球部のメンバーとは思えないものであった。また学校から帰るとその日にあったことをいろいろ話してくれる子だったのに、野球部に入った事を一言も家族に話さなかったのはつらいものがあったのだろう。練習では痛い思い、部員の手前恥ずかしい思いや屈辱を味わったに違いない。私が教えることで屈辱の上塗りになったら二度と立ち上がれなくなっていただろう。しかしよくがんばってくれた。家でも練習が出来る宿題を与えたが、苦しみながらも、こつこつがんばり、その成果は練習に表われ、短期間、短時間での理解と、得とくに結びつけた。すべて淳一の前向きな努力と、そして淳一が他の部員とレベルの差があることを知って、いつも明るく気遣いをしてくれた卓也のお陰もある。

 また後藤さんには感謝だ。右手の指が二本しか無い後藤さんのすばらしいゴルフスイングを見せてもらえたことは、淳一に深い感動と理屈だけでは納得できないスイングスタイルが目に焼きついたことだろう。いろいろなことが走馬灯のように思い出され、そして満足な完結を味わえたことを淳平は淳一以上に喜んでいた。

「もっと練習したかったな」

「そうだよ。俺なんかびっくりの連続だ。俺も一緒にやりたかったよ。家の手伝いばかりやっていたのがもったいなかったな」

「うん。おじさんは疲れ果てたよ。しかし野口君はさすがだと思ったな。一言いったらすぐ実践できていたから、基礎がしっかり出来ているんだ。淳一のいい友達で、いいライバルで、励ましあってお互いを磨いてくれ。おじさんの教えることは終わったよ」

「バッティングを教えて欲しかったな。なあ御船、俺、ヘタだよな」

「ヘタじゃないけど、飛ばしたいんだよね」

「飛ばそうと思うと余計飛ばなくなるぞ。自分の体がバランスを崩さずにパワーを出せるかどうかだ。それ以上を求めるなら毎日の基礎体力アップの練習しかない。今度部活の時、淳一のバッティングを見た感想を淳一に言ってくれ。おじさん楽しみにしているから」

「おまえ、バッティングの練習もしてたのか? どうだった」

「今、お父さんの言った通りで、我慢我慢のバッティングしかしていないから辛かったよ。しかし気持よく振り抜けていたことは確かだよ」

「へえー、おまえの口から我慢我慢とは、楽しみだなあ。飛ばすんだろうな」

「プレッシャーかけるなよ」

「ハッハッハッハッ」

 四人の大きな笑い声はこれからの部活での淳一の活躍を期待していた。


「おつかれさま。野口君も一緒に練習したの」

「うん、楽しかったよ。最後に逹ちゃんがキャッチャーをして僕がピッチャーをしたんだ」

「うまく投げられた?」

「お兄ちゃんの球、けっこういけるぞ。卓が保証するよ」

「ほんと? 卓也は大袈裟だからね」

「ほんとだよね、お父さん」

「うん、なかなか良かったな。野口君がびっくりしていたよ」

「そう、それじゃピッチャーになれるといいのにね。がんばらなくちゃ」

 昼食の準備をしながら直子は楽しく練習が終わってくれたことを何よりだと思っていた。連休最後の日で、淳平に疲れが見える。思ったようにならなかったら、苛立ちからきつい言葉や激しい練習でお互いが投げやりになってしまうのではないかと心配していた直子であったが、楽しそうに帰って来た皆を見てホッとしていた。

「あらあら、お父さんが一番お疲れのようね」

「そうだなあ、疲れたよ」

「お父さん、練習中、怒鳴り続けているから疲れるんだよ。お兄ちゃんはけっこううまいのに」

「そうよね、お父さん、むきになるから」

 淳平は苦笑いをするだけで、もう笑う元気も無かった。

 やっと終わった。

 これほど練習が充実するとは予想もしていなかった。何をどう教えていいかもわからないまま、自分の経験と知識だけで成り行きに任せながらの練習開始であったことを思い出しながら淳平は満足感に浸っていた。


  連休明け


 連休明けの日、淳平がめずらしく早く帰ってきた。

「おかえりなさい。早かったのね。具合でも悪いの」

「淳一のことが気になってな、急いで帰って来たよ」

「まあまあ、ご熱心なこと。淳一も先程帰ってきたばかりだけど、元気いっぱいだったわよ」

「そうか、何か言っていたか」

「疲れたって、それだけ言って部屋に上がって行ったわ」

 淳一は部活でも、もう大丈夫だろう。皆のレベルには追いつけたはずだ。と思ってはいても、今日の部活での話を聞きたい一心で早く帰ってきた淳平だった。

「お風呂、先にする?」

「う、うん。そうしょうか」

 直子は、淳一の話が早く聞きたいとおねだりする子供のような淳平の様子に、呆れ顔で含み笑いをしている。

 淳平が部屋で着替えをしていると淳一と卓也の楽しそうな話し声が聞こえる。聞き耳を立てたい気持を我慢し、楽しみは後に残すことにした。

 風呂を上がると淳一も卓也も食卓についていた。

 淳平は淳一と卓也の笑顔を見た瞬間、疲れが吹き飛んだように感じた。

「どうだった。今日の練習は?」

「楽しかったよ、ランニング、ダッシュの練習、トスバッティング、そして捕球練習ではみんなびっくりしていたみたい」

「うまく、捕球位置に体が入れたか」

「うん、監督が、連休の間おまえ何食べてたんだ。急に動きが良くなったぞって」

「シートバッティングはやらなかったのか」

「やったよ。六年の富木先輩がピッチャーで練習した。速い球で以前は打てなかったんだけど、今日は遅く感じた。おもいっきり振らずに思った方向に打てるかどうか一生懸命練習したんだ」

「それはすごいな。それでどうだった」

 本当は必死で聞きたいくせに、ビールを飲みつくろいながら聞いている淳平の姿が直子には滑稽でならなかった。

「完璧ではなかったけど大体思った方向に打てたよ」

 嘘はついていないはずだ。思った方向に打てたことは相当自身がついた結果であろう。

「どんな風に打ち分けたんだ?」

「前、お父さんが教えてくれたじゃない。ヒッティングポイントに対し手の位置とバットが返っていくタイミング」

 淳一はビールが喉につまり咳き込んでしまった。まさかそんな練習が出来たとは。あの時の話は、もしタイミングをはずしてバットが遅れた場合どうなるか、ヒッティングポイントにボールが入るタイミングより、スイングが早くバットのターンが早過ぎた場合はどうなるか、などのミスに対しての説明であったように記憶している。そのようにして打ち分けることを教えたわけではない。連休中の練習の何がそこまで功を奏したのか淳平自身わからなかった。

「そうだ。飛ばす事だけがバッティングではないぞ。思った所に打てることが最高だ」

「バットのマジッシャン。バッティングの引田天功だね」

「卓也、いい事を言うなあ。その通りだぞ」

 相変わらず卓也は人を笑わせる天才のようだ。

「今日も宿題が終わったら自主トレだ。腹筋も鍛えろよ」

「はい」

 部活の練習が楽しくなったことだろう、その話しが聞けさえすればそれで満足だったのに、お釣りまで聞けて淳平はこの上なく満足していた。


   対抗試合へ向けてに続く



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若きヒーローのために 八無茶 @311613333

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