アメジストのような紫陽花が咲く頃に

よし ひろし

アメジストのような紫陽花が咲く頃に

「行ってきまーす!」

 玄関の扉を開けながら、いつものように奥にいる母さんに声を掛ける。

勇也ゆうや、傘は持った?」

 顔は見せずに声だけが返ってくる。

「大丈夫、今日は夜中まで雨は降らないって」

「そう、じゃあ気を付けてね」

 その答えを背中に外へと出る。


 夏の日差しが朝まで降っていた雨水を蒸気へと変え、ものすごく蒸していた。梅雨明けも近く、本格的な夏の到来を予感させる暑さだった。通っている中学校までは歩いて十五分。着くころにはワイシャツの脇が汗で滲んでいそうだ。


「はぁ、本当に暑いなぁ~」


 なるべく日陰になる場所を通りながら道を歩いていく。日がまだ東に傾いているので地面に差す影は長い。しばらく行ったところで、ある家の庭に咲く紫陽花の花に目が留まった。


 アメジストのように綺麗な紫色をした紫陽花――朝まで降っていた雨でまだ濡れていて本物ののようにキラキラと輝いている。

 数日前までは緑色の蕾が多かったが、雨と太陽のおかげで一気に満開となったようだ。

 その綺麗な紫の輝きを見ていると、ついあの日のことを思い出す。


 ちょうど三年前、小学六年生だったあの初夏の日の出来事を――



◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 その家は長い間空き家だった。俺の記憶にある限り人が住んでいたことはない。ただ庭も含めた建物の手入れはされているようで、朽ち果てたお化け屋敷、と言うわけではなかった。周囲の家よりやや広い敷地の和風の立派な屋敷で、元々はここらの地主が妾を住まわすために建てた物らしい。


 そんな家に新しい住人がやって来たのは、俺が小学六年生になる少し前、冬の終わりころだ。季節が移り年度も変わる頃には、町中にその話は広まっていた。長年空き家だった場所に人が住み始めたこともそうだが、その住人が妙齢の美女が一人だというのが、周囲の人の噂の種となっていた。


 妙齢の美女――その言葉がピタリとくる長い黒髪をした色白の和風美人で、垣根沿いにその姿を初めて見た時、俺は思わず立ち止まって見とれてしまったほどだ。

 近所の綺麗なお姉さん――思春期の始まった男の子には、これほど魅惑的なものはない。その家の前を通るたびにその美しい姿を探して歩みを緩め、首を左右に振り動かしたものだ。


 彼女が住み始めてからは、通りに面した庭に様々な植物が植えられ、季節の花が彩を見せるようになっていた。朝や夕方にその庭の手入れをする彼女の姿を盗み見るのが、日々の楽しみともなっていた。


 そんな密やかな憧れを抱いていたお姉さんだが、周囲では、


 若い女がたった一人であんな大きな家に住むのはおかしい――


 元の住人と同じく金持ちの愛人なんじゃないのか――


 あの美貌をいかして男をだましているんじゃないのか――


 夜の怪しげな商売をしているに違いない――


 などなど、酷い噂が、小学生の俺の耳にも入ってくるほど広まっていた。

 確かに昼間はほとんど姿は見ないが、だからと言って朝晩通勤している姿も見たことはない。一体どんな仕事に就いているのか――まったく謎に包まれていた。


 でも、そんなことは当時の俺には関係なかった。学校の行き帰り、庭先にその姿を探し、偶然目が合えば嬉しさと恥ずかしさで顔を赤らめて、簡単に会釈だけして足早に立ち去る――そんな何とも甘酸っぱい時を過ごしていた。


 季節がまた流れ梅雨が始まった頃になると、その家の庭に紫陽花の花が植えられ、日々大きく育っていっていた。


 そしてあの日――


 梅雨の合間の晴れ間で、朝登校する時間にはすでにじめじめと蒸し暑くなり出していた。いつものように、彼女の家の前に来ると紫陽花の花が綺麗に咲き誇っているのに気づき、その美しさに思わず歩みを止めた。そんな俺に、


「おはよう、坊や。紫陽花、好きなの?」

 涼やかな声がかけられる。


 ハッとなってそちらを見ると、紫陽花の向こうにあの美しい顔があった。


「あ、あの……」


 美しい――


 これほど近くで見たのは初めてだった。そのあまりにもの美しさに俺は圧倒され、口ごもって言葉が出てこなかった。


「ふふふ、ごめんなさいね、急に声を掛けて。驚かせちゃったかしら?」

 肌が白いせいか妙に朱く見える薄い唇から漏れる声に、更に全身に緊張が広がった。

 薄い水色のワンピース姿で、屈んだ胸元から白い肌が大きく見え何とも言えない色気を感じた。豊かな胸の谷間もはっきりと確認でき、下半身にも緊張が走り、硬直してくるのを感じる。


「あっ…、えっと、綺麗だったから、紫陽花……」

 乾く喉からどうにかそれだけを絞り出す。

 そんな俺をお姉さんは優しい目で見つめ、


「そう、ふふ、嬉しいわ。丹精込めて育てているのよ。肥料は特製なの」

 本当に嬉しそうに言う。


 自分に向けられた微笑みに、俺の頭は更にぼーっとなる。


「……」

 口を半開きにし、ただただ目前の美しい顔を眺める。そのまま時が止まってその場で石像にでもなってしまうんじゃないか――そう思えた時、


「おーい、勇也、何してるんだ、遅刻するぞ!」


 友人の呼びかけに我に返った。

 そこで急に恥ずかしさが湧き上がり、顔に血がのぼってくるのがわかる。きっと顔が真っ赤になっていた事だろう。


「えっと、じゃあ――」

 それだけ言って俺はその場を足早に立ち去った。


 その時、ズボンのポケットの中で金属の鎖がジャラリと鳴ったのに気づく。


(ああ、そうか、朝の占い、当たった――)


 朝食を食べながら毎日見るテレビので、


『ラッキーカラーはシルバー。銀の小物、アクセサリーを身に着けるといいでしょう。気になるあの人とお近づきになれるかも…』


 と言うのを見たので、何気なくポケットに銀の十字架の首飾りを突っ込んできたのだ。母がキリスト教徒なので、物心ついたころから持っている十字架だ。

 歩きながらポケットに右手を突っ込み、中の十字架を握り締める。


「本当にラッキーアイテムだ。あんなに近くでおしゃべりできるなんて……」


 先程の綺麗な顔を思い出しながらにやけていると、待っていた友人が、


「にやにやして、何かいいことでもあったのか?」

 と訊いてきたので、ああ、と小さく頷き、肩口から背後を振り向いた。


 お姉さんはこちらに手を振って――などはなく、庭の植物の世話に戻っていた。ちょっと残念に思いながら、友人と共に学校へと急いだ。



 その日は授業中に何度も朝の出来事を思い返しながら、何とも言えない幸せな時間を過ごした。

 塾のある日だったので、学校からそのまま駅前に行くバスに乗り、週三で通う学習塾へと向かった。いつも通りの授業の後、夏休みの夏期講習についての説明があったせいで三十分以上遅い帰途になった。そのことを電話で母に伝えると、普通より遅いので迎えに行こうか、と言われたが、その提案を丁重に断り、一人で帰ってくる。小学六年生なって母親の迎えなど恥ずかしい。


 家の近所のバス停に降りた時には、夏の長い日もすっかりと落ちて真っ暗になっていた。とはいえ道沿いには街灯も並んでいるので、怖いことなど何もない。

 歩を進め、あのお姉さんの家が近づいてくるにつれ、朝のことが思い出され、動悸が激しくなる。朝のラッキーがこの夜にも起こるのではないかと、ポケットの中の十字架を握り締めた。


 道を曲がり、お姉さんの家の庭が見えてくる。その時、


「ちょっと、やめてよ」


 女性の声が耳に届く。小さく周りに聞こえないように抑えた感じだったが、あのお姉さんの声に間違いない。

 俺は慌てて声のした方へと急いだ。


「いいじゃないかよ、ここで」

 男の声。

「まったく、仕方ないわね……」

 そのお姉さんの声の後、静かになり、しばらくして荒い息遣いが響いてくる。


「うん、うううぅ……」


 それを聞いた途端に俺は雷に打たれたような衝撃を受け、思わず立ち止まった。


「うん、はぁ~」

 何とも色っぽい吐息が聞こえてくる。


 ゴクリ…


 思わず生唾をのんだ後、その音の方へと足音を忍ばせ歩んで行く。

 すぐに庭の垣根の向こうから抱き合う男女のシルエットが見えてきた……


「――――!?」


 再びの衝撃。

 街灯に映し出された女性の姿は、間違いなくあのお姉さん……

 朝と同じ薄い水色のワンピース姿のようだ。


 男の方はやけにチャラそうな格好していて、背中側だったので顔は見えなかったがおそらくそんなに年は取っていない、若い感じだ。


 抱き合う二人の衣擦れの音が聞こえてくる。


 頭が真っ白になった。

 どうして――やはり噂は正しかったのか?


 いろんな感情が胸中に渦巻く。が一番の感情は悲しみか、いや、憧れの女性の艶めかしい姿にオスの本能が目覚め、興奮もしていた。


 男女の吐息の間に、湿り気の帯びた微音が混じりだす。

 しばらくして男の頭がゆっくりと下がっていく。首筋から胸元へ――

 朝見たあの豊かな胸の谷間に男の顔がうずまっていくのか?


「くっ……」

 それ以上はやめてくれ――そういう思いと、もっとあのひとの痴態が見たい――そういう思いが拮抗し、歯を食いしばり感情を抑え込んだまま、無言で事の成り行きを眺めていた。


 その時――


 紅い光が輝いた。暗闇に浮かぶ真っ赤な二つの輝き――


 一瞬後、男の苦鳴が上がった。


「うっ、何を――!」


 気づくとお姉さんの顔が男の首筋にピタリとくっついていた。翳でよく見えないが、おそらく首筋に噛みついている。


「ぐ、あ、やめろ――、う、うぅぅ…」


 男の体から力が抜け、お姉さんを抱きしめていた腕がだらんと下がる。逞しかったその腕がみるみるとしぼんでゆき、枯れ枝かっこのように細くなっていく。


「あ、あぁぁ、何が――」


 思わず声を漏らした俺に、紅い双眸が向けられた。


 綺麗な色、まるでルビーのような輝き――


 感じ始めていた恐怖が一気の飛び去り、恍惚とした感情でその輝きを見つめる。


「見てしまったのね、坊や……」

 お姉さんが男の首筋から顔を離してこちらを見る。


 その綺麗な顔の前で、男の首ががくりと後ろに折れ曲がった。街灯に映し出されたその顔はミイラのように干からびていた。


「ひっ!」

 反射的に短い悲鳴が漏れる。


 何が起こったんだ? お姉さんに血を、生気を吸われた?

 じゃあ、お姉さんの正体は――吸血鬼!?


 そんな考えが頭に浮かぶ。

 と同時にそんな馬鹿なことが、と否定する自分もいた。

 混乱でパニック状態になり、身動きできない。ただお姉さんの顔を見つめるばかり……


「怖がらないで――と言うのは無理ね。でも、こんなクズ男のことで心を痛めることはないわ」

 言ってからお姉さんが乱暴に男の体を投げ捨てた。


「こいつはね、多くの女の子を泣かせた、どうしようもないクズ男なの。因果応報、こうなっても悲しむ者などいないわ。最後はせめて庭の花々の肥料にでもなってもらおうと思ったけど――残念、この家とももうお別れね」


 綺麗に咲き誇る紫陽花の花を寂しげに眺めるお姉さん。


「田舎はやっぱり駄目ね。すぐに変な噂がたってしまう。――次は、都会の人ごみに紛れるとしましょう。こうして庭いじりが出来なくなるのは少し残念だけど……」


 そよ風が長い黒髪をふわりとなびかせる。そこで何かを振り切るように軽くため息をついてから、こちらに再び顔を向けるお姉さん。


「お別れね…。坊やの記憶、消させてもらうわ」


 紅い瞳を輝かせ、彼女がゆっくりと近づいてくる。


 再び恐怖が蘇ってくる。ジワリと後ずさる俺。

 その時、ふとポケットの十字架の存在に気づき、右手で乱暴に引き出すと、近づく彼女へと向けた。


「ち、近づくな…、き、吸血鬼!」


「う、うわぁ、やめて、十字架は――」

 物語の吸血鬼のように銀の十字架を怖がる彼女。が――


「ふっ、ふふふふ……」

 すぐに笑顔になり、またゆっくりと近づいてくる。


「残念、私、仏教徒なのよね。十字架とか何とも思わないのよ、坊や」


 お姉さんの双眸がランと輝く。


 その紅い光に俺の体は痺れたようになり、身動きが取れない。魅入られてしまったようだ。


 お姉さんがすぐ目の前まで来て、十字架をかざした手に触れ、ゆっくりと下へおろす。

 そして、顔が近づいてくる。


 綺麗だ、この世のものとは思えない美しさ――


 先程までの恐怖がまた消え去り、いつもの憧れの視線を彼女へと向ける俺。

 あの薄く朱い口元に鋭い二つの牙が見えた。それを見ても、もう怖さは感じない。逆にその牙で首筋を噛まれてみたい――そう思うほど、美しい彼女に魅入られていた。


「坊やは、女の子を泣かすようなクズ男にはならないでね。そうしないと私が――」

 そこで言葉が途切れ、俺の唇にお姉さんの唇が触れる。


「う――」


 重なる口から何かがゆっくりと吹き込まれてくる。


 温かく、甘い香り――


 次の瞬間、意識がなくなった……



◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇



 その後どうなったかだって?

 気づくと俺は自分の家の玄関前に立っていたのさ。何がどうなったのかわからないが、その晩はお姉さんの言葉通り、すっぽりとあの時の記憶がなくなっていた。ところが次の日、あの家の前を通り、アメジスト色に咲く紫陽花の花を見たとたんにすべての記憶が蘇ってしまったんだ。


 何故――そんなことはわからない。もしかしたら、お姉さんに対する恋心が、あの素晴らしく美しい姿を忘れたくないという強い想いが、吸血鬼の術を打ち破ったのかもしれない。


 もちろんその話は今まで誰にもしたことはない。

 お姉さんはあの次の日から姿を消し、町内では色々なうわさがまた広がったが、その真実を知るのは俺一人だけだ。



 今年もこうして咲く紫陽花の花を見ていると、彼女の美しい姿が思い起こされる。


「もう一度会いたいな……」

 思わず呟く俺に、


「おはよう、勇也」

 涼やかな女性の声がかけられる。


 振り向くと、そこに立つのは黒髪の美少女。その容貌はあのお姉さんにどこか似ている。同じクラスの音羽桜おとは さくらだ。一応付き合っている。


「よう、桜」


「紫陽花の花をじっと見て――紫陽花、好きなの?」

 その言葉であの日の光景がフラッシュバックする。


 目前の彼女にあのお姉さんの姿が重なる。だが――違う。やはりお姉さんとは違う。お姉さんの肌はもっときめ細やかで白く、唇は朱く、そしてあの瞳――紅くルビーのように輝く双眸、こればかりは他の誰にも望むべくもない。


「はぁ~」

 思わずため息をつく。それを見た桜が、


「何、そのため息。――ああ、わかった、紫陽花を見て誰かを、他の女の事を思い出していたのね!」

 中々鋭い、女の勘って奴は。


「ああ、そうだよ。お前より全然綺麗なひとのことを思い出していたんだ」

 ぶっきらぼうに言い放つ。


 実は彼女で五人目なのだ。あのひとの面影を追って付き合いだしたのは。でもやっぱり違う。そう実感するたびに落胆する。中三になった四月から付き合いだしたが、桜ともそろそろ別れ時かもしれない。確か一年生に長い黒髪の可愛い子がいたはずだ。今度は彼女に乗り換えるか――


「ちょっと、何よそれ。もう、最低」

 口をとがらせ怒る桜。


「ああ、俺は最低のクズ男さ。別れたければいつでもしてやるよ。ふん」

 言い捨てて俺は足早に歩きだした。


 クズ男――お姉さんの最後の言葉が蘇る。


『坊やは、女の子を泣かすようなクズ男にはならないでね。そうしないと私が――』


 女の子を泣かせるようなクズ男になれば、お姉さんが罰するために現れるかも……


 そんなくだらないことを最近はよく考える。


「待ってよ、ねえ。別れるなんて言わないで。私、好きなの、勇也のこと。もう変なこと言わないから、ねぇ」

 桜が急いで後を追いかけてくる。


 その必死な様子につい立ち止り、


「わかったよ。ほら、一緒に急ごう。遅刻しちゃう」

 右手を伸ばし彼女の手をつかんだ。


 どうやら今の俺には、完全なクズ男にはなれないらしい。いつか本物のクズ男になったら、お姉さんに会えるのだろうか…


 あのお姉さん――名前が思い出せない。何故か彼女の名前だけが記憶から消えていた。不思議なことに町内の誰も、彼女の名前は覚えておらず、更に時が経つにつれて、その存在も曖昧なものとなってきていた。今では誰に聞いてもそんな人いたかしら? という答えが返ってくる。


 でも問題ない。名前など分からなくとも、会えばすぐにわかる。俺の脳裏には焼き付いている。この世の物とは思えないほどのあの美しい姿が……


 俺は機嫌を直しにっこりとする桜の顔を見ながら、その奥にあのお姉さんの姿を思い出していた。



 ああ、今日も暑い一日になりそうだ、あの日と同じように――

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