第16話 震え
なぜか分からない。息子の時と同じだ。12月31日の夕刻、警察署前の横断歩道を息子が渡ったかどうか、真理的剖検を試みていた。一度渡りきって、引き返すと50代ぐらいの男性が犬を連れて向こうから渡って来た。犬は自分を見るなり、横断歩道の中途に座りこんでブルブル震え始めた。自分は渡りきって警察署の壁にまずいと言ってへばりついた。夫も一緒だった。飼い主は困って犬を引きずって横断歩道を戻ってきた。尋常ではない。犬は電柱の根元に座り込んで、背中越しに此方を見て、恐怖の表情で更に震えている。夕暮れ時で空の変化の隙間から無音の世界がおりてきた。酷い死に方しちゃったな。自分の右肩に息子が取りすがって声もなく、嗚咽していた。びしょ濡れで彼もまた、震えていた。あとで夫に確認すると犬は神々しいものを見て震えていたのだと主張するので、震えていたのは事実のようだ。夫は自分に同意したことはないのでよほどの事実だと言わざるを得ない。このように、その時のような明確さではないが彼は亡くなったと理解した。自分はその部屋で何かに追われるように一気に大作を仕上げ、春先に地方の公募展に出品した。早朝の魚市場を取材した魚屋をモチーフにした絵だ。魚なんて描いたことはない。背景いっぱいがモノクロの巨大な水槽で、巨大な鯛が此方を覗いている。タコの吸盤も見える。箱詰めされた魚はガタガタと崩れんばかりに波打っている。見ると魚屋全体が水に沈んで水泡があがっている。翌年の春、搬入を目前に震災が襲い、戦後初めて作品展は中止になった。兎に角、その時は、電話が鳴った団子屋の2階の空き部屋で作品を仕上げた。無音の意識の見守りを受けて。魚市場で働く親たちの朝はあまりに早い。子供たちは皆、通学する前に市場に寄って、店の隅で朝食を済ませていた。彼らのことをふと思った。自分を含めて、日常の継続の果てに、あの一瞬の空の変化と日没が訪れ、無音の世界に呑み込まれていくと。作品は巡回展に選抜されて、取材した海辺の町の体育館に展示された。
喘鳴 @KaoruAndou
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