第11話 能く生きる
秋晴れの青空の下で、国分寺崖線の上から眺める富士山は、今日一日が最良の日であることを思わせるような絶景だった。
空木には大月中央署の西島から、事件が解決したという連絡とともに、国崎が三ツ峠山に登った理由も、下松が国崎を殺害した動機も、空木の推理通りだったと伝えられ、感謝の言葉も添えられた。
飯田橋署の刑事課長の鈴木からは、重要参考人として任意出頭を求めた神田は、新型コロナに感染発症して入院中であることが伝えられた。空木が、高部悦子殺害の犯人が神田であることを報道で知るのは、もう少し後のことだった。
ホープ製薬の菊田からは、空木から指示された高部悦子の旧太陽薬品株の売買調査の結果、合併公表前後の購入と売却が確認された。
このことから神田常務が、情報を漏洩した可能性が高いと判断し、星野常務の決断で日本橋警察と、証券取引等監視委員会に自ら通報したとの連絡があり、星野から空木への感謝の言葉が菊田を介して伝えられた。
空木は、星野の感謝とは会社の膿の根源を排除できるということなのか、それとも旧ホープ製薬との政争に勝ったということなのか考えさせられた。いずれにしてもホープ製薬が、旧太陽薬品、旧ホープ製薬の争いの無い、社員を第一に考える会社に再生して欲しいと願った。
今から会おうとしている森重裕之の転落事故に遭遇したことから始まった、一連の事件を振り返った空木は、大森安志のことが心残りだった。
探偵としての驕りではないが、あと一日早く、自分が大月中央警察署に行っていれば、大森は罪を犯さずに済んだのではないか、という思いだった。大森の妻子のことを思うと空木の胸は痛んだ。
大森の妻に、人間として許せない行為をした横澤、森重裕之を自殺未遂に追い込み、その森重を、国崎を使って殺そうとした下松、そして自己の利益に執着した神田、彼らは合併を境に人の心を失ってしまった。神田を中心とした「KKK」という集まりは、強欲な人間集団を作り上げてしまった。
リハビリを終えた森重裕之は、車椅子を押す妻の由美子とともに、空木の待つ面談室に入って来た。空木が会いに来ると聞いて、由美子も同席したいと希望してのことだった。
「空木さん、わざわざ来ていただいてありがとうございます。テレビのニュースや、新聞で事件のことは承知していますが、菊田からも電話をもらいました。心配なのは大森のことです。菊田は、空木さんは事情をご存知で、大森を信じて家族を支えてやって欲しいと言われたと言っていましたが‥‥」
裕之は悲しげな眼を空木に向けた。
「残念ながら、大森さんが罪を犯したことは間違いのないことですが、私が大森さんの立場だったら、罪を犯さずにいられただろうかと考えてしまいます。愛する人を守れなかった悔しさ、腹立たしさを抑えられただろうかと思うと自信はありません」
「愛する人‥‥。奥さんに何かあったのですね」
空木は黙って頷いただけで、それ以上は話さなかった。
「‥‥そうですか、私も菊田も大森を信じて、ご家族を出来る限り支えて行きます。私はこんな体ですが、心の支えになりたいと思います」
「森重さんのその思いは、大森さんに必ず伝わります。私もそれを聞いて安心しました」
「それにしても、こんな形でホープ製薬が生まれ変わることになるとは思いませんでした。これで事件は、全て解決したということですか」
「事件は近々に解決すると思いますが、私の仕事としては、お父さんの勇作さんと約束したことが、一つ果たせませんでした」
「親父との約束ですか‥‥」
「二人で下松に会いに行って、謝らせるという約束でしたが、難しくなりました」
「下松さんに会に行く‥‥。私の為ですね。親父にも迷惑をかけました。ところで、国崎さんが、三ツ峠山にいた理由も明らかになったのですか」
「私も全てを知らされている訳ではないのでわかりませんが、国崎さんは、下松さんに命じられて登ったということですから、あなたを突き落とす目的もあり得たようです。あなたに旧太陽薬品株でのインサイダー取引を調べられていると思い込んだことが、動機になったということです」
「馬鹿な人たちだ。心にやましいことがあると、何でもないことが、全て自分を危うくするものに見えて来るのですね」
「その通りだと思います。誰かが言っていましたが、彼らは、金、権力に餓えた餓鬼で、しかも餓鬼同士の罵り合い、殺し合いもする輩だと。私もそう思います」
裕之は、横に居る由美子と目を合わせた。
「私を突き落とそうとした国崎さんが亡くなり、私がこうして生きている。あの山で空木さんに会っていなかったら、今の私はこの世にいなかったのですね」裕之は、由美子から空木に視線を移して言った。
「空木さんが、主人の登った山にいて下さったことは奇跡でした。転落した主人を見つけていただいただけでなく、病院まで付き添っていただき、本当にありがとうございました」
由美子が深々と頭をさげる姿に合わせて、裕之も「ありがとうございました」と言って頭を下げた。
「森重さんは、あと五メートル下に滑り落ちていたら、屏風岩の下に落ちて命はなかったでしょう。山荘の主人が奇跡だと言っていたぐらいですから、その命大事にしてください。二度と奥さん、子供さんを泣かせてはダメですよ。絶対に、絶対ですよ」
「
その夜、平寿司には、高校の同級生で国分寺署の刑事の石山田の他、北海道からの友人で製薬会社の所長の小谷原、証券会社OBの梅川、小説家の矢口夫妻の五人が、空木の仕事の成就を祝うかのように集まっていた。
「大月中央署の西島から聞いたよ。健ちゃん、お疲れさま」
石山田の労をねぎらう言葉を合図に皆がグラスを掲げた。
「石山田さんからさっき聞きましたよ。空木さんの推理のお陰で警察の捜査も大助かりだったと、感謝しているらしいですね。主人の次の推理小説に使わせていただきたいぐらいです」
矢口夫妻の妻はそう言って、作家で隣に座る夫に顔を向けた。その夫は、「全くだ」と言って頷き、焼酎のロックを口に運んだ。
「うちの営業所の会澤の話は、空木さんの仕事の役に立ったんですか」小谷原が、ビールグラスを手に言った。
「杏雲大学の救急科の話は、大いに役立ちました。会澤さんにはお礼を言っておいてください」
会澤から聞いた情報から、偽名を使った人間は国崎だったことに辿り着いた。国崎は嶋村を恨み、その名前を偽名として使ったが、実在する名前だったことが、国崎という男まで辿り着けた要因だった。そんな事を思い出して空木はビールを空けた。
「このボトル梅川さんから、空木さんにお祝だそうです」そう言って、店員の坂井良子が芋焼酎のボトルを空木の前に置いた。
「えー、梅川さんにこんなことしてもらって良いんですか」
空木は椅子から立ち上がって、ボトルを梅川に掲げて見せた。
「年金生活者からの「貧者の一灯」です。飲んでください」梅川は眼鏡の奥の目を細めながら、ニコニコしながら言った。
「貧者の一灯、ですか。心のこもった大事なボトルですね。ありがたく頂戴します。ありがとうございます」
空木はボトルを掲げながら頭を下げた。
「空木さん、「貧者の一灯」ってどういう意味なんですか」水割りセットを持って来た坂井良子が聞いた。
「それはね「長者の万灯より貧者の一灯」と言って、お金持ちからのたくさんの貢ぎ物の価値に劣らず、貧しい人からの心のこもった貢ぎ物にはより価値があるという意味で、真心のこもった行いの尊さを例えた言葉なんだ。良い言葉だと思うな」
空木は、良き友、良き仲間とともに過ごすこの時間に、この上ない喜びを感じている自分自身が嬉しかった。
「健ちゃん、良い時間に浸っているね。これも健ちゃんの好きな「能く生きる」ということなのか」石山田が、空木の焼酎ボトルで水割りを作りながら言った。
「その通りだよ。小さな喜びに幸せを感じて、明日からも精一杯生きて行く、「能く生きる」そのものだよ。巌ちゃんもそう思わないか」
空木が嬉しそうにそう言った時、店の玄関の戸が開き、暖簾をくぐって一人の女性が入って来た。主人の「いらっしゃいませ」の声の後に、「美里ちゃん、いらっしゃい」と言う店員の坂井良子の声が追った。
「旦那さん、女将さん、山形の友達の大山美里ちゃんです」
坂井良子が紹介する名前を聞いた空木は、一瞬で酔いが醒めた。
聞き覚えのある名前に、スマホの電話番号リストで「大山美里」を探した。そして空木は、椅子から立ち上がって振り向いた。
「山形の大山美里さんですか。空木健介です。以前、怪しげな間違い電話をかけた男です。まさかここでお会いするとは思ってもみませんでした。その節は大変失礼しました」
突然の空木の挨拶に、大山美里は勿論、平寿司の全員が固まった。そして、空木の説明で知るアンビリーバブルな出来事に、全員が感嘆の声を上げ、この奇跡を再度の乾杯で祝った。
「いつ何時、何が起こるかわからないということだな、健ちゃん」嬉しそうに話す石山田の言葉に「だからこそ、日々
平寿司から帰る空木の酔った体に、晩秋の夜風が心地良かった。
了
殺意と絆の三ツ峠 聖岳郎 @horitatsu1110
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